燦々手鞠 鞠つく少女(おとめ)の唄声は
垣根を越えて 山を越え
愛しき汝(なれ)のいる地まで
届きて ここにいるよと 汝を呼ぶ
迎えに来てよと 汝を呼ぶ
縁側から妹たちの笑い声が聞こえる。
上の郁子(かおるこ)が教えてやった鞠つき唄は、下の育子にはまだ早いと思われたが、育子はきゃっきゃっと喜びながら唄っている。たった一度聞いて諳んじるのだから、成長期とはいえ本当に覚えが早い。だが、あの様子では歌詞の意味までは理解していないのだろう。
縁側の板間に弾む手鞠の震動は、さすがに奥のこの和室にまでは響いてこない。それでも、唄を聴けばどのように彼女たちが鞠をついているのか分かる。ただ唄うよりも、鞠をつく手を変えたり、上に放るなどしていると歌詞と歌詞の間はやや間延びになる。特に鞠つきを覚えたての下の育子はまだ六歳。ただ鞠をつくだけでも唄の拍子が間抜けている。きっと手の動きと口と喉とがうまく連動していないのだろう。それに比べ、上の郁子は十二歳。唄声の滑らかさも鞠つく手つきも手慣れたものだった。
「進一郎兄さま! 一緒に遊びましょう! 育子は手鞠唄を唄えるようになったのですよ!」
障子が開け放たれ、くれ縁からやや冷たい風が吹き込んでくる。差し込む日の光は燦々というにはまだ弱々しいが、見上げた空にかかる梅の木には濃き紅の蕾がうっすらと綻びはじめていた。
「育子、やめなさい。お兄様は具合が悪いのですよ。こんな冷たい風を入れては体に良くないでしょう」
「でもここの空気は澱んでいます! たまには開けて空気を入れ替えないと! すぐに閉めてわたしたちもご一緒に過ごせば、すぐにこの部屋だって温まります!」
「いいから閉めなさい。ほら、お兄様が咳をしてらっしゃるでしょう」
二人とも見ていないと思い、身を捻り枕に顔を伏せて咳を押し殺してみたが、郁子にはお見通しだったようだ。
「大事ないよ。これくらいいつものことだ。それに、私も少し空気がよくないと思っていてね。少し障子をあけてくれる人を呼ぼうと思っていたところだよ」
「またそんな気を利かせた嘘をおっしゃって。よろしいですか、お兄様はいつもそう言ってご無理をなさって、ついに風邪をこじらせたのではありませんか。わたくしたちには遠慮は無用です。さ、育子、戻りますよ」
「えー、嫌だぁ、育子、進一郎兄さまと遊ぶ〜っ」
「わがままを言うんじゃ……」
「おいで、育子」
今にも角をはやしそうな勢いで目を吊り上げた郁子を遮って、私は下の妹に手を差し伸べた。
育子はさっきまでの勢いはどこへやら、急に大人しく黙って、恥ずかしそうに起き上がった私の膝の上に乗った。
「もう、お兄様ったらっ」
言うことを聞かなかった妹のあてつけなのか、それともかわいい嫉妬をしてくれているのか、郁子はこれ見よがしにそっぽを向く。
「お前も来るかい、郁子。昔はよく私の膝の上で遊んだだろう?」
「それはっ、小さい頃のお話です! 今はもう重くなってしまっているのですからっ。それに殿方のお膝の上になんてはしたない」
勢い込んでまくしたてた郁子は口元を押さえて赤くなっている。
あの鞠つき唄を唄う年頃だ。好きな男の一人くらいできたのかもしれない。
「郁子はすっかり大人になってしまったんだねぇ」
笑うとますます郁子は私を見なくなってしまった。困ったものだ。でも、それでいいと言い聞かせる。
「育子、私にも鞠つきを見せてくれるかい?」
両手にはすっぽりと収まるにはまだやや大きい朱色の手鞠。美しい幾何学模様は万華鏡のように鞠の表面を彩っているが、やや年数を経たためか色はうっすら褪せはじめている。
「あ、あのね、その前にね、糸が、ほつれてしまったの」
小さい子が押し上げてきた鞠は、模様の一つから黄色い糸が緩んで飛び出していた。
「あら、育子、あなたいつの間に」
「だってお姉さま、怒ると思って。さっき爪が引っかかってしまったの」
「それは爪を切らないからでしょう? めんどくさがっていつもばあやから逃げ回っているから」
「ほら、怒ったぁ」
あまったれはぷぅっと頬を膨らませて私を見上げる。
「直せる?」
「ああ、直せるよ。ちょっと待っておいで」
かがるものを探そうと腰を浮かしかけると、慌てて郁子が止めに入った。
「おやめください。殿方がそんな、子供の遊び道具に」
「でもこれは私が昔、郁子に作ってあげたものだろう?」
地袋の下から針道具を取り出し、丁寧に飛び出た糸をかがってやる。
小さい頃から外で遊べるほどの体力もなかった私は、母の形見の鞠をついて一人で遊ぶ毎日だった。その鞠が壊れるとばあやに習って自分で鞠を作った。女の子みたいだと父に叱られ、弟には笑われたが、自分の手で編み出す万華鏡の世界はいかようにも時を留められ、糸のかけ方、編み方でこの世にはない美しい華を長くこの手の中に収めていることができるのだった。
父が後妻を娶って妹たちが生まれると、私は奥の和室に隠されるように移されたが、本来継がなければならないはずだった表の糸問屋を弟が継ぐことになったことで様々な喧騒から離れられ、いっそ、私の心は軽くなった。
一番上の郁子は、義母にあまり奥に行くなと言い聞かせられていたのだろう。あるいはお化けが出るぞと言い含められていたのかもしれない。はじめて自らここの障子を開けた時、郁子の顔には恐怖と好奇心とがないまぜになっており、それでも押し殺せなかった好奇心が勝ってこの扉を開けたらしかった。私の臥せっている蒲団の周りにはころころと貰い手のない手鞠がいくつも転がっており、なおも私は布団をかぶりながら次の鞠を製作していた。それを見た郁子が「この鞠をもらってもいい?」と手に取ったのが、この朱色の手鞠だった。
それから何度か、いや、何度も、郁子は私のところに遊びに来てくれた。その様子からおそらく、義母に悟られないように忍んできていたのだろう。育子が生まれる少し前からは義母の目が届きにくくなったのか頻繁に通ってくるようになり、やがて父がなくなり弟が正式に店を継ぐと、堂々と育子を連れて遊びに来るようになった。どうやら弟が義母を諌めてくれたらしい。
郁子の唄う手鞠唄も私が教えたものだ。枕元に積み上げられた和歌集から気に入ったものを選び、適当に節をつけ、唄っていたものを郁子が覚えて唄うようになった。それを今度は育子が。
「進一郎兄さま、育子も自分の手鞠、欲しいなぁ」
膝の上に座った育子は足をぶらぶらさせながら物欲しげに郁子の朱色の手鞠を見つめる。
「作ってあげるよ。何色の鞠が欲しい?」
「うーんとね、赤。赤い鞠に、桃色や黄色や黄緑で春の庭みたいな鞠がいい」
「育子は欲張りだなぁ。いいよ、楽しみに待っておいで。あの梅が咲く頃には作ってあげよう。さ、繕い終わったよ。鞠つきを見せておくれ」
育子は幼児特有のかわいらしい声で妻問唄を唄い、拙い手つきながらも最後まで鞠をつききった。
彼女たちに会ったのは、それが最後となった。
鞠は私の手の中で完成していたが、渡す前に私の寿命が尽きたのだった。
赤い手鞠を手にしたまま、私は奥座敷のくれ縁に座っていた。
私がここにいた時、屋敷には誰もいなくなっていた。
時が止まってしまったかのように、全ての雨戸は閉ざされ、屋敷の中は薄暗い闇の中に埃とともに時を堆積していた。置かれていた物も商売の品も厨の鍋釜水瓶にいたるまで、全ての生活の痕跡が消えていた。
はじめ、私は見知らぬ屋敷で目が覚めたかと思った。が、違った。奥座敷から見える庭に植えられた梅は確かにあの日、妹たちと開花を待ちわびた梅であった。しかし幹は老い、病を患ったせいか一年待っても二年待っても、梅はもう二度と花を咲かせなかった。
庭には梅の木を覆い隠す勢いで雑草が生い茂り、簓子(ささらご)張りの外壁は朽ち、表面の塗装が罅入り剥げかけていた。
みんなは、どこへ行ってしまったのだろう。
育子は、郁子は、進次郎は、番頭の晋作さんは、ばあやは、女中のお舟さんは……
ざっと吹いた風が緑の茂みを揺らし、青空へと吹き上がっていく。
まるでこの屋敷だけ外界から隔離されてしまったかのようだった。
縦張りの塀の隙間から光は漏れてきているのに、人々の賑わいの声がしない。足音も聞こえてこない。生活の喧騒が聞こえてこない。
昼に夜に、初夏に晩秋に厳冬に。
うとうとと目を閉じれば空の色は変わり、季節も移ろっている。
それでも誰も現れない。
風の音以外、鳥の声さえ聞こえてこない。
奥座敷に移された時よりも、今はこうやって縁側にも出られるというのに、心は詰まって捩じ切れそうだった。
閉じ込められた。
今度こそ本当に。
閉じ込められた。
両手で包み込めるほど小さな赤い鞠。それだけが心の支えだった。
座り込み、くれ縁の板間に鞠をつく。
わずかな反発で跳ね返ってくる鞠は、音もなく再び手の中に納まり、押し返されていく。
唄を、唄わねば。
燦々手鞠 鞠つく少女(おとめ)の唄声は
ぽろっと手のひらから外れた鞠が庭に転がっていく。
追いかけて拾い上げようとすると、すっとほのかな温もりが手の甲に触れた。
垣根を越えて 山を越え
幼さをわずかに残した白い少女の手だった。
指先から手首、袖のすぼまった服に包まれた腕が現れ、燦とした光が駆け抜けていったかと思うと、目の前には育子そっくりの少女が鞠に手を伸ばし、しゃがんでいた。
日本人形のようなぱっちりとした瞳が私を見つめる。
愛しき汝(なれ)のいる地まで
年の頃はあの時の郁子と同じくらいか、少しばかり大きいだろうか。もうそろそろ、嫁のもらい手を探さねばなるまい。
梅色の唇が、そこで噤まれる。
「続きは、唄わないの?」
少女は首を振った。
「知らない」
声まで育子そっくりだ。
育子。
思わずそう呼びかけそうになって、唇をかみしめる。
自分が死んだことを忘れたことはなかった。
屋敷に誰もいなくなってしまった日々は、決して短くはなかった。
この子が、育子なはずはない。
「おばあちゃんは、ここまで唄うといつも泣いてしまったから。だから、知らない」
おばあちゃん。
それは、誰?
「おばあちゃんの、名は?」
「郁子。でも、もう死んでしまったの。五年くらい前かな」
郁子が、死んだ。おばあちゃんになって、死んだ。
ではこの子は、郁子の孫か。道理で育子に似ているはずだ。同じ血が通っているのだから。
「育子は……育子は、どうしているか知らない?」
「育子?」
おさげ髪の少女は首を傾げた。
「ああ、お墓にそんな名前が彫ってあったかもしれない。確か、空襲で死んだって。梅が咲くからどうしても家に戻りたいって言ってきかなくて、それでついに、防空壕から出たところをやられたって。わたしよりも小さかったって言うけれど。ねぇ、おじさん、誰?」
この子よりも小さいうちに死んだのか。私が死んでから、そう何年も経っていないじゃないか。空襲って何だ? 防空壕? 一体何があった?
手のひらから赤い鞠が再び転がりだしていた。
「まぁ、綺麗な手鞠!」
少女は不審げな表情も一転、顔を輝かせて転がった赤い鞠を拾い上げた。
そして鞠を見つめ、不思議そうに小首を傾げる。
「これ、探してもどこにもなかったの」
とりつかれたように呟く。
「私の、赤い……手鞠……」
はっとしたように少女は顔を上げる。
私はそっと梅の木を見上げた。
老梅が狂ったようにまばらに紅い花をつけていた。
柔らかな温もりをはらんだ風はほんのり梅の匂いがする。
「鞠をついていたの」
ぽつりと少女は呟いた。
「外でついてもよく弾む赤いゴム鞠。でも弾いてしまって拾おうとしたら、あなたが出てきた」
あの光が駆け抜けていったと思った瞬間、私はこの時代に呼ばれていたのか。
「ここにはどうして?」
「梅が咲くから。父がここを壊すっていうから、その前に、来なくちゃと思って」
私はぐるりと屋敷を振り返った。
壊してしまうのか。
そうだろう。これほどまでに朽ちてしまっては、もはや手入れのしようもない。
板間からは床板の隙間からぼうぼうと薄や灌木が生えている。天井にあいた穴からは燦々と春の日差しが降り注ぐ。ついさっきまでいた屋敷よりも、ここはひどい有様だ。屋根が崩れるのも時間の問題だろう。
「唄の続きを教えてあげよう」
くれ縁に腰かけると、少女は赤い手鞠を持ったまま大人しく隣に座った。
鞠をつくその手の動きに合わせて、私たちは共に唄った。
燦々手鞠 鞠つく少女(おとめ)の唄声は
垣根を越えて 山を越え
愛しき汝(なれ)のいる地まで
そして、私が唄ってみせるまでもなく、少女は続きを口ずさんだ。
届きて ここにいるよと 汝を呼ぶ
迎えに来てよと 汝を呼ぶ
ぼろぼろと泣きながら。
「遅くなってしまったね。その手鞠は君のものだ」
育子のために作った手鞠。
ようやく届けることが叶った。
と――ぎぃ、と庭木戸が開かれる音が聞こえた。
「燦、こんなところにいたのか!」
少女の父親と思しき人物が、荒れた庭をかき分けてくる。
少女は一度肩を震わせ、赤い手鞠を両手に包み込んだまま私を見上げた。
「また、来てもいい? ここがなくなってしまう前に、また。その時は手鞠の作り方を教えて!」
少女は必死になって言い募っていた。
彼女がまた来る時まで、この梅は咲いているだろうか。
それとも、こんな荒れ屋にもう来るなと言えばいいだろうか。
しかし、手放してしまうにはあまりにも惜しい。
ようやく、また会えたというのに。
私が消えるのが先か、この子がまた来るのが先か。
「また、おいで。その手鞠を持って」
少女は勢いよく頷いた。
ああ、小さい頃の育子そっくりだ。
少女は赤い手鞠を手に父のもとへと走っていき、そしてまた翌日、さっそく私の元に現れた。
「燦、おいで。手鞠の作り方を教えてあげよう」
梅はまだ、咲いている。