カナリアが鳴いた時

 カナリアが鳴いた時、彩恵(さえ)はゆっくりと目を閉じた。
 風に翻弄されながら舞い落ちる木の葉が見えた。いや、あれは木の葉ではない。カナリヤの羽だ。鮮やかな黄色を失い朽ちた羽。老いの象徴。若い時のしなやかさを失い、枯葉に見えるほど固く脆くなり儚く欠けていく。
 カナリヤの鳴き声は若い。きっとあの羽の持ち主ではない。子か、孫か。全く血の繋がらないただの同種族か。
 悼むような一声だった。
 あれは歌ではない。見送る声だ。再び魂だけでも天高く昇れと言わんばかりに蒼穹に谺する鳴き声だった。
 この近くで一羽のカナリアが死んだ。
 静かに窓を開けると、深い森から漂い来る乳白色の霧が音もなく忍び入ってくる。
 もう一声、カナリアが鳴く。哀切を込めて、抱きしめるように愛惜しげに。
 その声に惹かれるように、彩恵は窓の外に半身を乗り出した。
 霧は薄い絹の寝間着にしっとりと纏わりつき忍び込みながら体温を少しずつ持ち去っていく。空中に腕を差し出すと指の先はあっという間に見えなくなり、冷たさだけが指先から温もりを奪っていく。
 その腕の中に、一羽のカナリアが落ちてきた。
 不意の重みに腕は軽くたわんだが、無意識に落ちてきたものを受け止めようと丸めた腕の中に、それはちょうどよく収まっていた。
 カナリアの重さが一般的にどれほどのものなのか、彩恵は知らない。ただその重さは若いならば羽一枚の如く軽く、老いていたならば石のように重いものに感じられた。乳白色の霧の中から透けて見える黄色はお世辞にも鮮やかとは言えず、仰向けの腹からは短いボーガンの矢が突き立ち、赤黒い血が脈に合わせて流れ出ているのが見えた。
 もしこのカナリアが若いのならば、いつ若さと輝きを失ったのだろう。
 それとも、年相応に年月を重ねた末の羽色なのか。
 彩恵の指の合間に生ぬるいものが伝いだす。
 伸ばしていた腕を引き寄せると、カナリアは息も絶え絶えに聞こえるか否かの悲鳴を上げた。
「お嬢様、こちらに鳥が落ちては来ませんでしたか?」
 館の下から番頭の一六の声がする。
 同い年の、あの賤しい男。
 彩恵のいる窓を見上げる目が太陽を見上げる如く細められている。
 憧れ。憧憬。恋慕。
 彩恵とは全く別の世界に生きる者だ。彩恵が一六に声をかけることなどあり得ない。
 彩恵はあの目がうざくてたまらなかった。
 疎ましげに見下ろしてやってもなお、次に自分にだけ掛けられる言葉を待っているそばかすだらけの男。
 あの男は彩恵に話しかけたくて、わざとカナリアを射たのだ。
 そうでなければこれほど愛らしい小鳥を空に見つけ、射ようなどと思うだろうか。生きて捕え、籠に閉じ込め手土産に持ってくる方が、よほど女の心を捕えるだろうに、一六にそのような考えが浮かぶわけはない。
 それとも。
 彩恵は腕の中のカナリアを見下ろした。
 くすんだ黄色い羽は雁のように茶色くも見える。丸くやや肥大した身体に若さの欠片は残ってはいない。艶を失った羽毛に包まれ、カナリアとも雁ともつかぬ鳥は最後の呼吸に身を震わせた。
 手を伝う血の温もりはすぐに冷たい風に乾かされ、病的に肥大した身体は一瞬の痙攣の後、何者かに抜き取られるように魂が身体から離れたようだった。
 途端に腕の中の重みは増す。
 魂の分、軽くなっているはずなのに、のしかかる重さは今までの倍以上だ。
 大岩を抱いているかのような腕の痺れに、彩恵は伸ばした腕の先にある色を失ったカナリアを見た。
 老いたカナリアは、時が満ちるのを待つ前に哀れ命を失った。人の手により強制的に次に繋がる時間を剥奪されたのだ。
「お嬢様ー!」
 一六が呼ばう。
 このカナリアを殺した男。
 彩恵はカナリアを抱えていた手を外側に開いた。
 手の合間から色あせたカナリアの躯が落ちていく。それは一六のちょうど鼻先を掠め足元に落ちて、衝撃音とともに残りの血を地面にうち広げた。
「ひぃいっ」
 一六が悲鳴を上げて一歩後ずさる。
 彩恵は滑稽なその姿を一瞥し、窓を閉じた。
 腕にはカナリアの血が赤黒くこびりついている。
 おもむろに彩恵は血のこびりついた自分の右手を持ち上げ、赤い舌を伸ばした。
 鉄錆びた味がしたような気がした。
 この世の空気に慣らされ酸化しきった味。時が浸み込み新鮮さを失った味。
 特に美味しいとは思わなかった。ただ、自分に流れる血も同じくらい不味くなっているのかが気になって、机の引き出しからペーパーナイフを取り出し、手首に引いた。
 一直線に浮き上がる赤。そこから傾けた方へと血は流れ、筋となって白い手首を伝っていく。その源に彩恵は唇をあてがった。
 唇が生ぬるく湿らされていく。
 やがて唇の隙間からやはり酸化しきった味が浸み込んでくる。どす黒く混沌とした味。今まで生きてきた年月が集約された味。
 これが、わたしの味。
「おいしくない」
 ペーパーナイフを投げ出そうとしたその時、短いノックとともに一六が部屋に転がり込んできた。
「お嬢様、申し訳ございませんでした! おいらの悪戯で気分を害しなさったんですよね? この通り、お許しください。おいら、まだここを首になるわけにいかないんです! 後生ですからおいらの首を斬るなんて真似……」
 土下座してひれ伏す一六の前に、ペーパーナイフを手に持った彩恵が立つ。レースカーテンから入り込む薄暗い日の光に、一六の上で彩恵の影が不気味に揺らいだ。
「う、わぁぁぁぁぁっっっっ」
 しゃがみこんだ彩恵は、ペーパーナイフを握った片手を一六の首にあてがい、一文字に引いていた。
 切り裂かれた一六の首から鮮やかな赤い血が噴き出す。
 泡を食って切られた首にあてがわれた一六の手をゆっくりと退け、彩恵は首を傾け傷口に吸いついた。
 その時、一六が蒼白だったのか真っ赤になっていたのか、彩恵は眼中になかった。
 ただ迸る赤い血を傷口から貪っていた。
「ああ、おいしかった」
 痙攣し崩れ落ちてきた一六の身体を突き放し、彩恵は口元を手の甲で拭った。
 この世にはまだおいしいものがある。
 老いた身では得られないもの。時に浸食されていない若さを持ったもの。生きている命の流れ。煌めくように迸る赤い血。
 カナリアが鳴いた。
 若いカナリアの鳴き声だった。
 つがいを求め、派手に鳴く声。
「わたしは、そんなものいらない」
 次世代に継ぐ命などいらない。
 自分の中途半端なコピーなどいらない。
 わたし自身が永く生き続ければいい。
 そう、たとえば若い者の生き血を啜って。
 ほら、ごらんなさい。白かった髪が色づいてきた。皺だらけだった肌が張りを取り戻してきた。落ち窪んだ眼が、黄色く病んだ眼が白く透明感を増していく。
「結婚など、しない。しなくても、わたしは生きていけるもの。こうやって、自分一人、命を永らえさせることができるもの」
 曲がった腰がぴんと伸び、足腰に筋力が宿っていく。
 鈍く白色が勝っていた頭の中が整理されていき、目の前は明るくなっていく。
 足元には干からびて皺だらけになった爺の躯が転がっている。
「目障りね」
 一瞥した彩恵は一六の亡骸を残し、部屋を出て階段を下り、外に出た。
 彩恵の部屋の窓下には先ほど彩恵の腕に落ちてきたカナリアの亡骸が血に塗れながら転がっている。一六が使っていたボーガンと矢も近くに放り出されていた。
 霧はすっかり晴れていた。
 乳白色に視界を覆うものは今はどこにもない。見上げればどこまでも青い空が丸く弧を描き頭上を覆う。その青い空の中、鮮やかな黄色い鳥が羽ばたいていた。
 彩恵は口元に笑みを浮かべ、ボーガンに矢をつがえ、試みに黄色い鳥に向けて放った。
 果たして、矢は鮮やかな黄色い鳥の腹を射抜き、鳥はまだ若い哀切のこもった悲鳴をあげながらくるくると回転しながら青空の中から地上へと落ちてきた。
 腕の中に抱きとめた彩恵は、腹から矢を引き抜き、小さく嗤った。
「お前が教えてくれたのよ」
 彩恵が鮮やかな黄色いカナリアの腹に口をあてた時、若いカナリアはかすれるような声を漏らし、息絶えた。
 若いカナリアの血を得、そこに立つのは一人の少女。
 残虐性と老獪さを併せ持つ、無垢から最も遠い存在。
「ああ、新しい庭師を呼ばなくちゃ」
 血に濡れていない鮮やかな黄色い羽を一枚毟り、彩恵はくるくると指先で弄びながら館に戻った。

〈了〉
(201412100248)