この暗闇をどこまで行けばここから出られるのか、見当もつかなかった。
かぼちゃをくりぬいて作ったランタンを片手に、もうどれだけ歩いたことか。
お腹が空いた――
どこまで歩けばいいんだろう。
前も後ろも、左も右も、天をみても地をみても、道らしき道はない。
左手にはずしりと重いオレンジ色のかぼちゃをくりぬいて作ったランタン。くりぬいた両目と口から漏れ出る光は、足元こそ照らしてくれるが、向かう先まで照らし出してはくれない。
一度立ち止まることさえできれば、休息を取りがてらここがどこなのか落ち着いて考えられそうなものなのに、足は勝手に動き続ける。引き寄せられているわけでもなく、ただ漫然と前へ、前へ、右へ、左へ。時に目の前の暗闇を垂直に上りだし、時に下へと下りだす。下る時でも足の裏から地面らしきものが離れることはない。直角の角に足をかければぐるんと体が振り回され、勝手に前が定められる。
ぶれる意識。
ぐらんと頭の中を直撃するような衝撃をやり過ごす間もなく、足はもう自動人形のように右、左、右、左、と規則正しく動いている。
「どこまで……行けば……」
もう何度呟いたかわからない。その度に声から力は奪い去られ、呻くようになり、ついには吐息のように思いを吐き出すだけになっていた。遠ざかりかける意識を繋ぎとめるものが早く切れてしまえばいいのにとどんなに願っても、意識は細い糸ひとつで繋ぎとめられている。時折襲い来る空腹が、余計に意識を引き戻す。
どこまで行けばこの足を止めてもらえるのか分からなかった。
何故、歩かせられているのかわからなかった。
いつから歩いているのかも忘れてしまった。
このかぼちゃのランタンをくれた人のことも、もう覚えていない。
一歩一歩、歩む度に大切な記憶の欠片を失っていく。
あるいは後ろを振り向いて拾い集めれば、いつかは元いた場所にたどり着けるのかもしれない。しかし、彼の体はとうに彼の意識を体の中に閉じ込め、勝手にどこかへと運んでいく檻と化していた。立ち止まることも、勝手に方向転換することも許されない。
前へ、前へ。ひたすら前へ。
「お腹が……空いた」
空腹はすでに轟くような空腹の音をたてることはやめ、次第に意を切り裂くような痛みへと変わりつつある。
水すら得られていない喉はとうにカラカラで、何か食べ物を思い浮かべても唾液すら出てこない。
食べ物。食べ物。食べ物。
一体自分が何を悪さしたというのだろう。これは一体何の罰なのだろう。
そもそも自分は誰?
自分の名前は?
「ばかね、ジャック。忘れちゃったの? どうしてあなたがここに閉じ込められているのか」
暗闇を振り払う火の粉のような少女の声が降ってきた。
暗闇の中、ちかっ、ちかっと瞬きが見えるかのようだった。
できることなら立ち止まり、その声の主のいる場所を探り当てたい。しかし、足は止まらない。ひたすら歩くことを課す。
「忘れちゃったの? どうしてここからあなたが出られないのか。ジャック、忘れてしまったの?」
ジャック、それが自分の名前なのか?
そう尋ねる間もなく、ぐるんと体が九十度回転する。振り回された余韻で頭の中が白く濁る。
どれくらい歩いたかわからない。気の遠くなるほど歩かせられて、今はじめて、ようやく自分と闇以外のものがこの空間に入り込んできた。あの少女の声が天使のものでも悪魔のものでも、逃すわけにはいかなかった。掴んでおかなければならないと思った。これを逃せば、またいつどれくらい一人でこの闇の中を歩かなければならないかわからない。
「おバカなジャック。お腹が空いたなら、そのかぼちゃを食べればいいじゃない。少しは喉も潤うかもしれないわ。中の火で炙ってかぼちゃをお食べなさいな」
声は妖精のように耳元でちらちらしながら近づいたり遠ざかったりしながら唆す。
かぼちゃを食べる。この手に持ったかぼちゃのランタンを?
考えもしなかった。
そうか、これはランタンの役割を果たしているだけじゃない。元は食べ物じゃないか。
かぶりつけばいいのか?
腕を引き寄せ、口を開き、一思いに前歯を硬いオレンジ色の艶々した分厚い皮にたてた。
ずぶり、と前歯がかぼちゃの皮の下に沈み込む。
抉り取る。
ころりと切り取られた黄色い実が口の中に転がり込んだ。
生のかぼちゃはしゃきしゃきとしていたが、じんわりと甘みが口の左右の奥で至福を主張する。呑み下すと渇いたのどに引っかかりながらも胃の中へと落ちていく。
「あーあ、食べちゃった」
ちらっ、ちらっと青白い炎が視界の右側をせわしなく飛んでいた。その炎が嗤う。
「騙されちゃって」
きゃきゃきゃと青白い炎は嗤う。
「騙してないわ。教えてあげただけよ。そういう選択肢もあるって。選んだのはジャックだわ」
左側に現れた赤い火の粉はゆらゆらと体を揺するように揺れながら、笑う。
二人の少女の会話に途端に不安が全身を包み込み、冷たい脂汗が湧き上がる。それでも足は止まってはくれない。腹でも壊すのか。この暗闇の世界の眷属になってしまったのか。
いやだ。
逃げ出したい。
こんなところから、一分一秒でも早く、抜け出したい。
こんな何もないところ。こんなひたすら歩いているだけのところ。こんな暗闇しかないところ。
一体何故、自分は歩き続けているのだろう。
何故この足は勝手に歩いているのだろう。
もしかして、どこかに向かっているのか? 本当は行き先が決まっているのか?
目指すものなくただ歩くのは苦しい。しかし、この先に出口があるのなら? この足はゴールがあると分かっていてひたすら自分のために動き続けているのだとしたら?
「期待が先行すると痛い目に遭うよ」
赤い火の粉の少女の声がけらけらと笑う。
「いいじゃないか。どれくらいその期待というやつがもつのかどうか、見てやろうじゃないか」
青白い炎がくくくと嗤う。
「いつ絶望に変わるのか、楽しみじゃないか」
青白い炎の存在がふっと闇の中に遠ざかる。
せっかく希望を持ちかけたのに、心は揺らされて絶望の闇がまた目の前にちらつきはじめる。
一口かじり取られたかぼちゃのランタンは、中でまだ赤々と炎を揺らめかせている。
もう一口。もう一口だけ。
がりっ。ごりっ。
一度口をつけてしまうと、もう一口だけ、と言い訳する間隔が次第に短くなっていく。
まずかぼちゃの右目の穴が頭の天頂まで広がった。続いて鼻の穴が目とつながった。そして左目が、大きく左右に吊り上げられた口が、輪郭を失っていった。
気が付いた時、炎が揺れる蝋燭をのせた底の部分しかジャックの手には残っていなかった。
「おいしかった?」
それまで一旦聞こえなくなっていた赤い火の粉の少女の声が憐れむように囁いた。
その声がやけにくぐもって聞こえた。まるで分厚い壁を通しているかのようだ。
ランタンを右手に持ち替え、少女の声が聞こえてくる左耳に触れようと左手を耳に伸ばす。その指先に、ごわごわとした、あるいは艶々とした固い感触が触れた。
ひっと小さな悲鳴が漏れる。
べたべたべたべた――左手だけでは分からないと、再びランタンを持ちかえて、今度は右手で顔の周りを触れる。
丸く楕円を描く物が頭の周りを覆っていた。そうと気づいた瞬間、頭が異様に重くなるのを意識した。
ぐらりと前のめりに倒れそうになる。それでも足は右、左、右、左と規則的に同じ速さで動き続ける。
「かぼちゃ頭のジャック。かわいそうに。あなたは光を求め続けるからずっと闇の中から出られないのよ」
赤い火の粉の少女の声がくぐもったまま聞こえてくる。
首の根元から脳髄を駆けあがって灰色の砂嵐が頭の中を支配した。
「消してしまいなさい。さっとひと吹き。できないなら、あたしがやってあげる」
どこからか現れた青白い炎が、左手に持つ蝋燭の炎の周りをちらついている。
「や、めろ……」
光を失うのは嫌だ。たった一筋でも、たかが手元しか照らさなくなってしまった灯りでも、光を失うのは嫌だ。光を失ったら、自分はこの暗闇に呑みこまれてしまう。この重たいかぼちゃ頭のまま、自分の軽率さを呪いながら歩きつづけることになる。
いや、それでもこの足は歩きつづけるのだろうか。
自分が自分であることすら放棄しても、この足はどこかを目指していくのだろうか。
もしかしたら、この光ばかりを見つめているから周りが見えなくなっているだけじゃないのか? それならいっそ。そう、いっそ。
左手に持つ蝋燭の炎を口元に寄せ、彼はふっとひと吹き微かな灯火に吹きかけた。
ぱっと完璧な暗闇が訪れる。
うっすらと、魂を抜かれたように灰青い煙がくゆり昇って行ったのが見えた気がした。
世界は、反転しない。
足の歩みは止まらない。
何も変わらない。
ただ、闇は闇を深め、前も後ろも右も左も分からず、ただ疲労感だけが足から伝わってくる箱に閉じ込められたかのような窮屈さが心を圧迫し、ついに彼の心は弾けた。
ごろん。
かぼちゃ頭だけが闇の中に転がった。
そのかぼちゃの中に新たな炎が灯っている。
赤々と、暖かい色を奏でだしている。
それは、罪人の命の灯火。
「優しすぎたんじゃないのかね?」
年老いた男が、かぼちゃの周りで爆ぜる赤い火の粉に話しかけた。
赤い火の粉は答えない。代わりに、ふわっと闇から生まれ出た青白い炎がけらけらと嗤った。
「あの子はなんだかんだでジャックが好きだったから」
「君は?」
「あたし? あたしは嫌いよ。大嫌いよ。だってそうでしょう? あいつはあたしたちを殺したんだから」
あははっと笑って青白い炎はかぼちゃ頭の皮をすぅーっとなぜた。まっすぐに黒い焦げ目が生まれ、橙色の艶のある皮をわずかに割り裂く。
赤く爆ぜる炎は癒すようにその割れ目をそっとなぞる。そしてかぼちゃ頭の左目から中に入っていくと、いくらかその中を散策するようにゆらゆらと飛び回り、灯された炎の中に飛び込んでいった。
それを静観していた青白い炎は、ふんっと鼻で嗤った。
「ばかばかしい」
ふわふわと飛んでいた青白い炎は、一度闇の中に消え去ったかと思うと、しばらくして貧相な痩せぎすの男を一人、連れてきた。
きょろきょろと落ち着か投げに辺りを見回す痩せぎすの男に、年老いた男はかぼちゃのランタンを渡す。
「この先、光がないと困るだろう。さ、持っておいき」
男は渡されるがままにかぼちゃのランタンを持ち、再びふらふらと歩きはじめた。その姿はあっという間に闇に呑みこまれていく。その背の後を、青白い炎がふわふわと楽しげに漂いついていく。
「トリック・オア・トリート!」
二人の少女が一人の青年の家の扉をノックした。
青年は笑って少女たちを家の中に招き入れる。
「君たちになら喜んで悪戯をされたいものだ」
顔見知りの少女二人は、何の疑いもなく青年の家に上がり込んだ。
家の明かりは煌々と闇を切り抜き、浮足立った町を彩る。影絵のように窓の向こうで人々は戯れ、歌い、そして灯りを消した。
「そんなところで何をしているの?」
膝を抱え、動くこともできず階段の暗闇の中に蹲り幻燈のような記憶を眺めていた青年の前に、一人の少女が現れる。それは先ほど家の中に招き入れられた少女のうちの一人だった。
重い頭を持ち上げようとすると首が悲鳴を上げたので、仕方なく青年は両手で大きな頭を支え持ち上げる。
「時が止まっているわ。続きは見ないの?」
首を振りたくても重たくてできなかった。
「続きなら知っている」
力なく青年は答えた。
家の明かりを消したその後に起こしたこと。自分の手で。込み上げるものを抑えきれずに起こしてしまったこと。いや、抑える気すらなかったのだ。ただ感情のままに、彼は少女たちに襲いかかった。
暗闇の中を歩きつかれて、まず足がくたくたになった。体が疲れると心も擦り減っていく。そもそも人としての心などあるかどうか自分自身が一番疑っていたが、すり減ればすり減るほど、人らしくなっていく気がした。おかしな話だった。化け物じみた心が削りに削られて本能の食欲だけがかすかに残った。手に持つかぼちゃのランタンの灯りに希望を抱きたくなった。灯りが消えた未来に恐怖した。
自分は、まだ人だったらしい。
しかし、この化け物じみたかぼちゃ頭は自分にお似合いなのかもしれない。この頭がついている限り、自分は頭の重さによろめいて立つことすら敵わない。ならば、二度と人の血を求めたりなどしないだろう。たとえ求めても、この手が届く前に獲物が逃げてくれるはずだ。
なのに、今自分が殺した娘が手の届く範囲に立っている。
殺したい。
それは自分にとって本能だ。食べるのと一緒だ。セックスするのと一緒だ。眠るのと一緒だ。どこから湧き上がってくるのか分からない抑えがたい欲求。それが他の人間にないというなら、自分はいつからか、あるいははじめからどこか狂っていたのだろう。
どうせ狂っているのなら、それに甘んじて何が悪い? 自分はとうに人ですらない。化け物だ。化け物なら化け物らしく、化け物らしいことをしていればいいのだ。
殺すことに躊躇を感じなかった。
この手で命が途切れる瞬間を実感できて、全身が高揚した。
同時に、絶望した。
ついに本当の化け物になってしまった、と。
自分は人であることをついにやめてしまったのだ、と。
その絶望に、快感を感じていたもう一人の自分が逆に絶望した。そんな人らしい感情はいらないと、自分で自分に牙を剥いた。
かぼちゃ頭を下に引き寄せる。ぐっと引き下げて、顎も首も出ないようにすっぽりと覆い尽くす。
「来るな」
かぼちゃ頭の中で俯き、こぼす。
「近づくな」
自分はいったい、いつから壊れていたのか。どこから壊れていたのか。
記憶の奥底で燻る想いが閲覧から逃れようと身をくねらせる。
ひたすら闇の中を歩き、疲れ果てた倦怠感が全身にかぼちゃ頭の重さと相俟って重くのしかかる。今は、もっと鉛のように重く手足を地に括り付けていてくれればいいと思った。
「お腹が、空いたわね。帰りましょう、ジャック」
少女の足が一歩、青年の前に踏み込んでくる。
青年はかぼちゃに爪を立て、手の震えを抑え込む。
ああ、確かにお腹が空いた。お腹が空いたから、じゃあ、今夜はお前を食べよう。
「あ、あ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ」
闇の中で不穏な輝きを放った包丁。ぼろぼろの端切れを纏い、近づいてくる女。
刺される。殺される。食べられる。
嫌だ。それだけは嫌だ。殺されるなんてまっぴらだ。それくらいなら、いっそ。
そう、いっそ。
頭と首を押さえつけていた重みが、すぅっと上に持ち上げられていく。
「取るな、やめろ、やめてくれ!」
悲壮な懇願にも拘らず、少女は青年の頭からかぼちゃを抜き取る。
そして、かぼちゃの代わりに抱きしめた。
柔らかな胸の中に顔を埋めさせられ、青年は少女の胸に鼓動を聞く。
「よかった」
その安堵は、自分の罪が少し軽くなった気がしたから、だけではないようだった。
心から、少女が生きていてくれてよかったと、思えたのだ。
なぜ殺すことを楽しんでいた自分がそんな人らしいことを思えたのか、彼には分らなかった。ただ、すり減った心で、空腹を満たすことばかりを願うこの心で、人の無事を喜べる日が来るとは思っておらず、思いがけなく、それは自分という持て余しつづけた存在への安堵へとつながった。
「おかえりなさい。そして、おやすみなさい、ジャック」
目を閉じる。
ようやく目裏に、行く手を照らす灯火を見つけた。