少年は二度成長する。高校二年の時と大学二年の時だ。
二十一歳で少年は華奢さを脱ぎ捨て、大人の男の骨格を手に入れる。
*sideA*
爽太を見る目が特別になったのはいつだろう。
高二の夏、私じゃない女の子とキスをしているのを見たときからだろうか。
くすぐったそうに笑う女の子を草むらに押し倒し、その後は見ていない。
隣のクラスの女の子だった。
大学進学を機に、爽太はその女の子と別れた。
私は期せずして爽太と同じ大学に進み、写真部のサークル室でも隣に座っている。
写真に興味があったわけじゃなかった。
入学式を終えて右も左もわからずたくさんの人の中で溺れていた私の手を、爽太が引いてここに連れてきたからだ。
カメラの仕組みや機種名など興味はない。ただ、フレームの中に風景を灯すのは好きだった。
気がつくと私はいつもカメラを持ち歩くようになっていた。ひどいときにはカメラを首から下げたまま学内を彷徨しているときもあった。
私がフレームに納めるものは風景が中心で、人がフレームの中心に居座ることはまずない。風景の一部として雑踏を行き交う人々の影が写り込んでも、それも風景のひとつだった。
私はこのカメラの中に時を封じているのだと思っていた。過ぎ去ってしまう刹那刹那を繋ぎ止めているのだ、と。
そんな私にとって、人の笑顔やしぐさ、表情などはなんとも生臭く邪魔なものとしか思えなかった。動よりも静を記録したい、その思いはひとえにあまり人が好きではないことに因るのだろう。
爽太は反対だった。爽太の撮るものは躍動に満ち溢れていた。子供の笑顔、泣き顔、喧嘩しているときの怒った顔、そう、爽太は子供が好きだった。
無邪気なものをひたすらお気に入りのフィルム式のライカで撮り続け、小さな桜の前の幼子にカメラを向ける母親の姿を写した一枚は新聞社の賞をもらうほどだった。
ほどなくして、爽太は大学に来なくなった。休学してアフガニスタンに行ったのだと教えてくれたのは、爽太が大学に入ってから付き合いはじめた先輩だった。就活を機に振られたのだと先輩は苦々しく吐き捨てた。
私は先輩ほど激しい気持ちにはならなかった。私は見ているだけであり、爽太の彼女でも兄弟でも親戚でもない。ただの幼稚園からの同級生で、家が近しいわけでもまして親同士の付き合いがあるわけでもなく、幼馴染みというにもそぐわない中途半端に少し遠い存在だった。言うなれば、進学の度に削ぎ落とされていってわずかに残った仲間の一人と言う程度にすぎない。
それでもあの日あのとき、購買部の前で雑踏に立ち尽くす私の手を掴んでここにつれてきたのは爽太だった。
爽太から私宛に大学のサークル室の部室の住所を宛先にして一通の封書が届いたのは、爽太がいなくなって一年、大学三年の暑い夏の盛りのことだった。
四年の先輩や同級生たちにからかわれながら私が角2サイズの封書を開けると、中から一冊の簡易なアルバムが出てきた。
レモン色の甘酸っぱさを思わせる表紙には「カラフルデイズ」と七色を駆使した文字が印刷されている。他に手紙などは同封されていない。
表紙をめくると、いきなりピンボケ気味の写真が現れた。
中心に映っているのは一人の女の子。四、五歳くらいだろうか。背景は見たことのある近所の公園。女の子は幼稚園のたんぽぽ組のカラーである水色の帽子をかぶりおやつの棒つきキャンディーを持って、カメラとは別の方向をなぜか物欲しげに見つめていた。
それが私であることに気づくまで、私はしばしの時間を要した。
二枚目は小学校の入学式の後だったのか、桜の舞い散る校庭を母と手をつなぎ歩く姿だった。やはり視線の先は母で、カメラに気づいた様子はかけらもない。
三枚目、四枚目、五枚目……一年に一枚ずつ、記録をとるようにそこには私の写真が収められていた。決してカメラに気づかずどこか明後日の方を見つめている私の写真が。その中には失恋した直後のようなどこか物憂げに瞼を赤く腫らした高2の夏服の写真も混じっていた。
いつの間に。
恥ずかしくて顔から火が出そうになりながら、背中にはたくさんの冷や汗が湧き上がっていた。
爽太が、私を撮っていた。
それが意味することが何なのか、私は直感で気づいてしまった。
それから慌てて自惚れだと否定する。
否定してもアルバムに目を落とせば再び、私が知らない爽太と私の時間がそこにはあった。
大学の入学式の日、購買部の前で雑踏に呑まれて身動きできなくなっている姿も、写真部のサークル室で先輩たちと楽しそうにカメラに触れている姿も。
どの写真もわたしは爽太のカメラに気づかず、自然な流れのままその一枚に記録されているのだった。
ただ一つ、最後の一枚を除いて。
最後の一枚は、望遠ではあったが被写体たる私が真正面からカメラのレンズをこちらに向けている一枚だった。
それは今からちょうど一年前。夏の暑い昼下がり。
私はいつものようにカメラを片手にふらふらと外に出掛け、ふとアスファルトから立ち上る陽炎にめまいを覚えて後ろを振り返った。
白亜というには大分年をとり、象牙色となった三階建てのサークル棟が、緑の木々と雲ひとつないみっちりとした青い空を背景に聳えたっていた。
静かに動かない凝縮した空気。
それをフレームに収めようと、私はサークル棟に向けカメラのシャッターを切ったのだ。
爽太の写真はまさにその瞬間を一枚の中に納めていた。
愛されているね、とサークルの先輩たちは笑った。振られた先輩も苦笑するしかないようだった。
私は自分のパソコンに落としたままプリントアウトもしたことがなかった今までの膨大な記録の中から、突き動かされたようにそのときの一枚を探しにかかった。
爽太がきちんと焼いて送ってきた写真に比べてパソコンに保存されたままの自分の撮った写真のデータを味気なく思いながら、一枚一枚サムネイルで確認していく。
あった。
そう呟いたとき、サークル室には誰もいなくなっていた。
ドキドキしながら私の写真を拡大する。
南側二階のほぼ真ん中の部屋。
どれもこれも黒く塗りつぶされた廃墟のような窓の中、ひとつだけ半分窓が開かれ別の闇が覗く部屋があった。写真部のサークル室の隣、普段滅多に開け放たれることのない現像室の部屋だった。
爽太はデジタルカメラを嫌う。色をパソコンで補正した味気ないプリントアウトは爽太の最も嫌うところだった。
あくまで薬品での現像にこだわる爽太は、この日も大切な写真を一枚この世に送り出すために、もう爽太ぐらいしか使わなくなった現像室に籠っていたに違いない。
日の光が入っては元も子もない現像室から撮られたこの写真は、現像前にカーテンを閉める際に撮られたものなのか、現像後にカーテンを開けた際にたまたま撮られたものなのか、私には判然としない。
ただ奇跡なのは、私がサークル棟にカメラを向けた瞬間、爽太もまた私にカメラを向けていたということだ。
画像をさらに拡大すると、現像室の闇の中に白い人影が見えた。顔はカメラを構えているから判然としないが、確かに爽太の姿であった。
白衣を着た爽太は、いつのまにか華奢な少年の姿を脱ぎ捨て、存在感のある大人の男性の体つきに変化していた。肉がついたわけではない。ただ輪郭が太さを増し、肩や腕、腰回りに男らしさや頼もしさといったものが宿っていた。
高二の時、私の身長を一夜で追い越した途端にモテだしたのを見て、お子さまから十七歳の少年へと脱皮するかのような目覚ましい成長に目を見張ったものだが、男性が「二度成長する」ものだとは、この時、この写真を見てはじめて気がついた。
こうも変わってしまったのでは、国内の大学のサークル活動だけでは手ぬるかろう。もっと外へ飛び出したい、もっとたくさんのものを撮りたい。爽太の全身がそう悲鳴を上げている。
爽太の視線がいつのまにか海外に向いていたことに、私が気づかなかったのも当然だ。私は毎日爽太を見つめているようで、その実爽太の何も見えていなかったのだから。
ただこのサークル室にカメラを向けたこの一瞬だけ、私と爽太の視線は確かに交錯し、ファインダー越しに見つめあったのだ。
私はそれをプリントアウトし、アルバムが送られてきた封筒に記されていた蛇がのたくったような文字の場所へ送った。
爽太からの返事はなかった。
そして私が卒業しても爽太は日本に戻ってこず、そのうち中退したと聞き及んだ。私の撮ったサークル棟の写真が爽太の元に確かに届いたという保証はない。
あれから十年、三十一の夏。
私は新聞社の依頼で海外へ取材に向かった。
そこで私は子供たちの姿を撮り続ける一人の日本人カメラマンの姿をスラムに見つけ、シャッターを切った。
間違いない、爽太だ。
心に高鳴りを感じながら一歩、爽太に踏み出したとき、銃声が鳴り響いた。
視界の中で血煙が上がる。
子供を抱き庇い、空を仰いだのは爽太だった。
血が沸き立った。恐怖と怒りと絶望にうちひしがれながら、わたしは仰向けに後ろに倒れていく日本人カメラマンの姿を連写してカメラに納めた。
私にとってそれが風景だったのか、それともポートレートだったのか、それはわからない。
私は最期に爽太の取り落としたカメラをフィルムに納めた。
それは、高校時代から爽太が愛用していたライカのカメラだった。
一体、この地のどこにフィルムを現像できる場所があるのか、今度会えたら教えてほしいものだ。
そう、今度会えたら。
幼稚園時代から時を辿りながら、決してカメラ目線にならない私の姿を納めたあの「カラフルデイズ」というアルバムの意味と共に、教えてもらうことにしよう。
*sideB*
俺は小さい時からカメラが大好きだった。こっそり初恋の女の子を隠し撮りしてはアルバムに張りつけている。叔父に現像の仕方を教わってからは焼き味を考えて絞り方と共に一層アングルに気を配るようになった。
被写体の女の子が幼女から少女へと脱皮し、二十歳を一年過ぎて大人の女へと羽化していくしなやかな姿。それを撮りつづけるために、俺はけして君を好きだとは言わなかった。少し離れているくらいでなければ被写体として望ましくないから。
カメラ目線の君の笑顔なんか残したくなかった。ありのままの媚びない君の姿が好きだったんだ。
俺の運命がひとつ狂ったのは、あの日あのとき。大学の購買部の前で雑踏の中に呑まれそうになっている君を見て、思わず手を引いて写真部に連れてきてしまったとき。
こんなに近くにいては君を撮ることもままならない。
君は写真になど興味がないと思っていたから、勧誘になど乗らずすぐに来なくなると思っていたんだ。
それなのに君はデジカメを持ち、手軽に風景を記録するのに夢中になった。
君は俺の一生涯のモデルなのに。
君との距離を少しでもとりたくて、先輩からの誘いにも軽く乗った。彼女がいれば君は俺には近づかないだろう?
それでも君が写真部の先輩と付き合いだしたときには腸が煮えくり返って、二人楽しそうな写真を撮ってしまっては焼き捨てたものだ。俺は次第にファインダー越しに君を見ているだけでは辛くなっていった。
就活で忙しくなるのを機に先輩とは別れた。でも君はまだあいつと付き合ったままだった。あいつに向ける笑顔が日々甘くまろやかになっていく。そしてある日、突如として君の笑顔は大人の女の笑顔になった。何も知らない無垢な君は俺以外の男の手によって女にさせられていた。
艶とでも言えばよいのだろうか。君の表情やしぐさの端々に色っぽさが見えるようになって、ようやく俺は取り返しのつかないものを失ったのだと気がついた。
この一ヶ月間に撮りためた君の写真を現像しようかしまいか、悩みながら現像室に入り、暗幕を閉めようとしたときだった。
外に君の姿を見つけた。
とっさに俺は君にカメラを向けていた。
これはもう習慣というより習性だ。シャッターチャンスを狙い、フォーカスを引き絞っていたら、あろうことか君は振り返り、カメラをこちらに向けた。
はじめての緊張に身が痺れた。
君にカメラを向けていることに気づかれたかもしれない。いずれ君のご自慢のデジタルカメラで拡大でもされれば見つかることだろう。
ファインダー越しに見つめ合うはじめての瞬間。
これほどまでに俺は興奮したことはなかった。近くにいなくても君の息づかいが伝わるようだった。指がシャッターを切るまで、手にとるようによく見えた。
君が俺に向かってシャッターを切るその瞬間を、俺は君の最後の写真にした。
この国には戦争カメラマンと呼ばれる叔父に頼み込んで連れていってもらった。悲惨な情景の中にたくさんの笑顔も輝いていた。些細なことにほど、子供が見せる喜びの表情は裏がない。まるで昔の君に再会するみたいだった。
君にこのアルバムを送るのは、こっそり隠し撮りしてきた過去を今さら詫びるのも勇気がいったからだ。大人の狡さだと思ってくれていい。俺はこれが送られてきたときの君の反応で君の気持ちを知りたかったんだ。
あの日、最初で最後の見つめあう写真が君からも送られてきたとき、君の写真はまるで俺に気づいてはいなかった。ただ圧倒されるほどの夏の暑さと彩りが凝縮されていた。
悔しかった。
それを切り取れる君の目が、俺は羨ましくて悔しかった。
君は俺に撮られるだけの存在だったはずなのに、俺なんかよりもよっぽどいい目を持っていた。
俺がますます帰れなくなったのもわかるだろう?
「カラフルデイズ」
君の姿を綴ったこのアルバムにそう名付けた。
知らず君に恋し続けた日々は、例え触れ合うことがなくても特別な日々だった。
大学の購買部の前で君に触れてしまったときから、俺の運命は急速に色を失っていったのかもしれない。
君が手を触れてはいけない存在から触れられる存在になってしまった日から。
後悔はしていない。おかげで十年の時を経て、今また君に会えた。
この生と死隣り合わせの地で、君は今、確実に俺を見つめている。そのファインダー越しに。
君は俺を見つめ、記録している。君の見る風景になれたことを俺は誇りに思う。
だからもう、俺なんか見つめてないで……早く、逃げ、ろ……
花――