求  塚

 能に求塚という曲がある。万葉集や大和物語に語られた生田川伝説を元に観阿弥か世阿弥が作ったとされる曲だが、作者に関する詳細は定かではない。かける面は流派にもよるが、前シテが幼さを残す女面である小面、後シテが望み無き淵に追いやられやつれた痩女。どちらも能を舞う家であれば室町時代からの本面が代々受け継がれているものだが、残念ながらおれのところにはそのどちらも残ってはいない。一説には何代か前のじい様が遊ぶ金に困って売ったのだとか、金に困ってる人に譲ってやったのだとかいう話が残っているが、大方おれの親父を見るに前者なのだろう。
 そもそも能を演じる者が魂ともいえる面を代価に代えるなどあってはならないこと。しかもその何代か前のじい様自身、面を酒代に代えに行ったんだか譲りに行ったんだかしたまま家に帰ってこなかったというから、おれの家系の能楽師としての世襲が途切れたのもまあ仕方のないことだったのかもしれない。そんなわけでうちは能の世界からは完全に干され、親父もじいさんも曾じいさんも能とは直接関係のない職に就いている。
 おれが能を初めて見たのは五歳の時だった。社会的に能とは関係がなくなったとはいえ、曾じいさんもじいさんも自分の息子に一度は能の舞台を見せに行ったのだという。その風習に倣っただけだ、とまだ酒で手が震えるようになる前の親父はしたり顔で言っていた。
 正直、動きののろいつまらないもんだと思った。
 背景の鏡板だって茶色の板地に緑の松が一本描かれただけの殺風景なものだ。横で唸っているおっさんたちの地謡は坊主どもが唱える経よりも意味が分からない。これで何かの物語を表現しているというんだから、まったく、見る人が見ないとわからない芸術ってのはまさにこれのことを言うんだろうと思って見ていた。いや、多分はじまっていくらもしないうちにこっくりこっくり舟を漕ぎはじめていたはずだ。
 目が覚めた時、頭上では相も変わらず地を這うような誦経が鳴り響き、鼓がぽんっ、ぽんっ、ぽぽぽぽぽぽぽ、と空を翔けるように空気中にまっすぐな音を飛ばしていた。うっすらあけた目で親父を見ると、親父は身を乗り出して真剣な顔で舞台を見上げている。
 だんっ。
 床下に響く足音に思わず顔が舞台に引き寄せられた。
 何が起こったのか。
 だんっ。
 さっきとは違う頬がこけ、悲しげに視線を俯かせたどこかうら淋しい表情の面をかけたシテが、舞台の真ん中に作られた鳥籠のような枠の周りをゆっくりと彷徨っていく。中腰で足をすりながら、どこかいやいやをするように片側の肩は落ち、諦めとしなとを作って進んでいく。
 少女がいると思った。
 はじまったばかりの時は、白い少女の面をつけているのにやたら肩幅が広く、面からはみ出た浅黒い顎まわりが中年の親父を思わせて、あまりの不釣り合いさに不気味なものが舞台に現れたと思ったが、いまおれの目の前にいるそのシテは完全に少女が降臨していた。
 少女は仕方なさそうに塚を表す草をのせた鳥籠の枠の中に身を納めていく。
 純粋さ。それでいてどこか男の気を誘わずにはいない色っぽさ。もともと抑圧された鬱屈を抱える頬のこけた痩女の能面一杯に、感情の波がめいっぱいにうねり渦巻いていた。
 見入ったおれは、かなしいかな、それが初恋になった。
 面をかけたおっさんにではない。菟名日の少女に、おれも会いたいと、会ってみたいと思ってしまったのだ。
 おれは能の世界に興味を持った。
 曾爺さんもじいさんもなしえなかった目的を、俺の親父は成し遂げたわけだ。
 だが俺が興味を持ったのは何代か前のじい様どもがやっていた演者にではない。能面に、だった。
 親父ががっかりしたのかは知らない。じいさんはとうに死んでいたから草葉の陰で喜んだのか残念がったのかは知りようもない。ただ、親父はおれがせがむせがまないとに関わらず、時たま思い出したように能の舞台を見せに連れて行き、蔵の奥底から数少ないかびた能面を取り出してきてはこれが翁に使う面だの、人でない異相の者の目の周りは金で縁取られているだの、面は表だけでなく人の顔と接する裏側にも表情があるだの、一通りの知識を教え込んでくれた。学校を出たおれを面打ち師の師匠に縁付けてくれたのも、呑んだくれで役にも立たないとゴミのように思っていた親父だった。親父としてはそれで責務を果たしたと思ったんだろう。あれだけ家で暴れていたくせに、おれが家を出た後一年もしないうちにあっさりとあの世でじいさんどもの仲間入りをしてしまった。
 面打ちは木を選ぶところから始まる。山に入って天に向かって生きている木を見上げ、幹に触れてその気性を見極め、打つ面にふさわしい木を選んで切り倒す。そこからさらに木目を見ながら面を刳り取る位置を決め、適度な大きさに切りだし、ひたむきに面と向かい合いながら作るべき表情を木目に重ね、木材に重ね、思い描く表情が木にぴったりと重なり狂わなくなったところで頬や額など大体のあたりをつける。そこから先は寝食はもちろん昼夜も忘れて小剣を動かしていく。目の前に見えるとおりに目のあたりをつけ、鼻筋を作り、唇を彫り出し、表情をつけていく。裏側とて手は抜けない。頬の当たる部分、鼻の当たる部分を削ぎ落としていくが、しかし表の表情と変わらぬよう、打つ面の表情に影響された己の心を投影していく。
 面を打っている最中に鏡を見ることなどないが、打ち終えると頬や口元、目元に至るまでが凝り固まっており、水鏡を見ると打ち上げた面と同じ表情をしていることがある。そんな時は我ながら面の出来はよく、引き換えるように魂が半分削り取られたような空虚感が押し寄せてくるのだ。
 おれの打った面はおれの魂の片割れであった。
 求塚のシテ方の面を打ってほしいと依頼を受けたのは、独り立ちしてさらに十年の時を重ねてからのことだった。
 この年になって面打ちに没頭しすぎたせいか妻はいない。当然子もいない。本当に親父の種かと思うほど酒や女に手を出すこともなかった。求塚の面打ちの依頼を受けた時、おれははじめて己の齢というものを考えたのだ。いや、これまでの半生を振り返ったといっても過言ではない。なぜおれは面を打っていたのか。なぜおれは面を打とうと思ったのか。なぜおれはこの年になるまで一人山里に籠っていたのか。
 はたと周りを見回す機会が訪れたのである。
 おれは、年を取っていた。そうそう気にすることもなく後ろで束ねていた髪には白いものが一目でわかるほど混じるようになっていた。顔の皮膚は赤黒く薄汚れ弾力を失い、顎に生えた長さの違う無精髭が目に余った。口元の両脇には深い皺が刻まれ、眉間には垂直に二本の線が走っている。その下の眼は異国の者でも見るようにどんよりとした目でゆるゆると慄くように己を見ている。若いときに体に漲っていた覇気はとうになく、初老の気配さえ痩せた背には漂いはじめている。
 おれは何をしていたのだろう。
 初めて我に返った。
 おれは、何のために生きてきたのだろう。
 答えはすぐに見つかった。
 菟名日の少女。
 そう、再びこの手で彼女に出会うためだ。
 親父は求塚でおれが能に目覚めたのを知ってか知らずか、あれきり一度もその演目の上演には連れて行ってくれなかった。しかし、俺の中にはしっかりと刻まれたものがある。やつれた中に見え隠れするあの気品、純粋さ、残酷なまでの無邪気さ、彼女だけが気づいていない男を惑わせる色香。
 そうだ。彼女をこの手で現世によみがえらせ、再び出会うためにおれは面打ち師になったのではなかったか。
 急に心が一人そぞろ歩きし、初恋の胸の熱さににわかに鼓動が躍動を始めた。今更ながら若い時を取り戻そうと全身に活力が駆け抜けていく。
 おれは山の木を一面眺め、面打ちの道具だけを持って山里の家を後にした。
 ここに彼女の貌を託せる木はなかった。木は探さなければならない。ではどこに行くか。
 山を越え、ひらけた野を渡り人づてに聞いた通り、岩屋川沿いに川を下っていく。生田川伝説に名高い菟名日の少女の塚が生田川ではなく、さらに東の支流でさえない川の側にあるということに今更気づく。
 求塚。
 おれが向かったのはまさに能の舞台となったその場所であった。
 おれが弟子入りした師匠は、面を打つにあたっては能の背景を理解しておくことはもちろん、叶うならば己の足でその舞台を確かめ、そこの景色を、空気を、味を、そしてそこに暮らす人々の顔のつくりや表情をよく観察してくることが、能で求められる表情にあった木を選び、よりよい面を打つための条件だと言い、弟子になったばかりのおれを伴ってよくあちらこちらへとふらふら旅をしたものだった。おれも言われるがままについて歩き、師匠の後ろで村人との話に側耳を立てたり風景を目に焼きつけたりはしていたが、少女塚古墳を訪れる機会には恵まれなかった。それどころか、師匠と旅をしてみて分かったことだが、実際のところおれは旅が好きではなかったらしい。独り立ちした後はひとところに籠りきりになり、記憶の中の能の舞と弟子時代に見知った背景とを糧に面を打ち、本面の修復を依頼されれば飛びつくようにしてその形を目に手に覚えこませた。思えば独り立ちをした時点で二十五を過ぎていたのだから、体力的にも精神的にも根無し草のように移ろい歩くのが億劫になっていたとしてもおかしくはなかったのだ。
 しかし今、川伝いに山から海へと向かって歩む足取りは軽く、急く心に突き動かされるままに前のめりになって歩くおれに疲れは微塵も押し寄せてはこなかった。
 潮の匂いが濃くなってくる。目の前が開けたかと思うと空と海とを分ける水平線が目の高さに現れ、真上からさす日の光を受けてきらきらと揺れる海面が煌めく。鳴く海鳥達に導かれ、一度海岸まで出てしまうと、熱砂が靴の中まで流れ込んできてざくざくと軽く足を傷つけた。見上げた太陽は思うまでもなく眩しく、天と地とを遮られることなく浜辺に一人立つ俺を砂に焼きつけようとしているかのようだ。
 これだけ強い日の光を浴びたのはいつぶりだろうか。それこそ、独り立ちして山に籠る前、師匠とともに旅をしていた時以来ではなかったか。海の匂いも、砂の感触も、意外に強かに耳膜を打つ波の音も、まるで新世界に誘われてきたかのように新鮮だった。
 だが、ふと我に返って周りを眺めれば、一面ただ砂浜というわけでもなかった。西の方では湾岸工事が進み、埋め立てを始めている。多くの貨物船が行きかう大阪湾でも盛んに埋め立て工事が進められているようだった。
 求塚に登場する菟名日の少女と求婚者の一人である小竹田男子(ささだおのこ)は、昔菟名日の郷と呼ばれたこのあたりに住んでいた。もう一人、郷の外からやってきた血沼の丈夫(ちぬのますらお)は、黒鯛を指す茅渟がたくさん獲れる大阪湾の向こうからやってきた。美しい少女の噂を聞きつけてわざわざこの湾を船で渡ってきたのだろうか。それともその名がさす通り領土拡大に熱心な血気盛んな一族だったのだろうか。
 求塚の悲劇は、おそらくこの菟名日の郷の長か何か、とにかく身分の高い家に生まれた娘が美しく成長して年頃になり、二人の男が求婚したことから始まる。一人は同郷の男、もう一人は異国の男。二人とも能力は同等、求婚できるくらいだから身分もそれなりだったのだろう。少女とて自分の気持ちだけでは決められない。菟名日の郷を取りまとめる者の娘としての政治的な意図も汲まなければならなかったに違いない。決めかねている少女に、両親は生田川の鴛鴦(おしどり)に早く矢を射かけられた方に決めればよいと助言する。少女は言われた通り男どもとともに生田川に向かい一派の鴛鴦に狙いを定めたが、これまた同時に同じの鴛鴦を射殺してしまうのだ。少女は思い余って川に身を投げる。競い合った男たちもそれを見るや後を追い、川に身を投げてしまった。
 これが生田川伝説である。その後、塚に葬られた男たちは夜な夜な諍いを続けていたらしいが、茅渟の壮士は剣を持っていなかったため、やられ通しだった。そこで通りかかったものに剣を借り、見事積年の恨みを果たして消えていった、という話まである。
 能楽求塚はこの伝説を元に、前半は求塚を訪ねてきた坊主に菟名日の少女の霊が正体を隠してこの話を語るところから始まり、後半は穏やかな少女の顔は一変、二人の男に両手を引っ張られ、頭上に射殺された鴛鴦が化けた鉄鳥をのせ、地獄の苦しみに身もだえて救いを求める姿が描かれる。
 シテ方はこの少女の状況にあった表情を選び、前半は先にも言ったように小面の面を、後半は窶れはてた痩女の面をかけるのだ。
 伝説が生まれた時から、一体どれくらいの時が流れはてたのだろう。いまおれが目の前にしている景色は、当時の景色とは似ても似つかぬはずだ。近代化の波に真っ先に乗って自然に手を加えだした人間ども。海を埋め立て、己が領域を拡大せんと欲に目がたけた人間ども。
  ああそうだ。俺はこれを見たくなかったのだ。どれほど史跡を回っても、当時の面影を色濃く残しているところは少なかった。色町の片隅に小さな卒塔婆が建てられるだけになっていたり、長屋の片隅に追いやられた石碑が無残に割れて転がされていたり――痕跡が残っているのはまだましな方だった。ほとんどは石碑も標もなく、口伝えで話が残っていればまだよい方で、大方、住むものも流浪して土地に根付いた話は知らぬと首を傾げられて仕舞いだった。
  土地も人も変わる。江戸の時代は終わり、明治も終わり、大正の号を聞いてもうどれくらいが経ったか。明治の激動はあまりにも激しく、いろんなものを変えてしまった。いろんなものが変わってしまった。よいものも悪いものも、全て。おれが能の世界に見てきた古の日本は、おれの目で見えるところにはない。それが、おれが旅好きの師匠と袂を分かった時の捨て台詞だった。
 あの時よりも世界は変わっているはずだった。だが、おれの目には今も昔も同じに見えた。欧米諸国に追いつこうと必死に水面下では短い足をせせこましく動かして、面の皮ばかりは一丁前に並んだふりをしているのだ。哀れというより他はない。それでも、人々は見て見ぬふりをしながら己の生活を守り続ける。
  浜辺からいくらか戻る先で行きあった老婆がこんもりとした森を指さして、この中に菟名日の少女の塚があると教えてくれた。後はそそくさと自分の家に帰っていく。能楽であればこの導入部は若菜を摘む若い女たちがそそくさと立ち去り、菟名日の少女本人が案内してくれるはずだが、現実はそううまくはいかないらしい。まさかさっきの老婆が菟名日の少女のなれの果てでないことを祈るのみだ。
  森の中に一歩踏み込んだ途端、濃厚な深緑の香りとともにひやりと冷たく湿った空気が腕を撫でていった。さっきまでの単純明快な眩しさとは一転、木漏れ日のみを頼りに歩く苔むした道は滑りやすく、木の根の影が目を誤らせ、まるで塚にたどり着くのを阻んでいるかのようだった。
  幽玄と呼ぶにふさわしいその森はさらにその色を濃くし、入り込んだ者に重苦しい悲しみを背負わせてくる。触れた木の樺は湿り気を帯び、痩女の面を今すぐ象りたくなるような手ごたえがあった。その衝動を抑えてより奥深くへと歩を進めると、不意に唄が聞こえた。
少女の声だった。
 年端もいかぬ、まだ十代も半ばにさしかかったかどうかの少女の声。透き通った邪気のない声だった。言葉まではよく聞き取れないが、節回しはどこか古の香りを感じさせる。詠唱のように長唄を朗々と読み上げていく。
 森に入ってからここに来るまで、誰ともすれ違いはしなかった。誰の気配を感じることもなかった。声といえば趣のない山鳩の単調な鳴き声がうっそうとした森の奥深くから聞こえてきただけだ。
  もしや。
  木の根に足を取られながら駆け出す。つけられた道など無視して灌木をかき分け、繁みを乗り越えて息を弾ませてたどり着いた先、こんもりと盛り上がった緑に苔むした前方後方墳に寄りかかるようにして、白い着物を着た白髪の少女がぼんやりと燐光を纏いながら座り込んでいた。
少女の髪は腰まであるようだったが、白い着物と相まってこの距離からではとらえきれない。うつむき加減に膝頭を見つめるその横顔は美しく、十二、三の齢よりも妖染みている分艶がかって見えた。
  これが二人の男を惑わした少女の色香か。
  生きているときからこれでは、言い寄られずにはいられなかっただろう。それにしても、幼い。纏う雰囲気に妖艶さを持ちながらも顔の輪郭はあくまで稚い。まるで銀砂糖のように触れればさらさらと粉になって消えてしまいそうだ。
  ああ、これでは仕方がない。男ならば惑わされるだろう。欲しいと思わされるだろう。何より、少女はそんな男の心を全く解していない。何も知らない。それがかえって男の気持ちをくすぐるのだ。一から全てを教え、支配欲を満たしたくなるのだ。
 立ち尽くすおれを、少女は野良猫でも確かめるように静かに見上げた。何者だろうと目で窺い、さほど興味もなさそうに白い睫を伏せた。
 差し込む光は木漏れ日程度とはいえ、今は昼間だ。いや、そろそろ陽差しに朱金の色が混じりはじめているが、それでもまだお天道様は地に隠れてはいない。幽霊が堂々と出てこられる時間ではあるまい。ならばあれは現実の娘か。いや、そんなはずはない。あんな娘が生きてこの世に存在しているはずがない。ならば、おれが見たいと望んだ幻か。
  少女は再び唄いだす。古言葉で呪文でも唱えるように玻璃を弾いたような瓏玲たる声で森の湿った空気をわずかに震わせる。
  おれは一歩近づいた。
唄は止まらない。
  もう一歩。もう二歩、三歩、四歩。
 大股に近づき、少女の髪が地についていることが確認できるところまで来ると、ようやく少女は再び顔を上げた。
「昔、お前と同じ顔をした奴がここへ来た」
 唄声とは打って変わって、喋る声は少ししゃがれて低く威圧的だった。見た目は小面の面をかけていても、中身は痩女ということなのだろう。
「坊主か?」
 求塚の話だろうと答えると、少女は白髪を少し揺らして首を傾げた。
「さあ、そんな奴もいたかもしれぬ。だが、誰も吾を救ってはくれなかった」
 求塚の話が作られたのが室町時代。であればこの坊主の話はそれよりも前ということになる。忘れていても仕方がないくらい昔ということに。
 少女はじっと挑むようにおれを見上げた。
「酔っ払いだ」
 白い肌に血の色が滲み出たかのように赤い唇からぞんざいにそんな言葉が漏れた。
「酔っ払い?」
 思わずおうむ返しに聞き返したおれに、少女は鷹揚に頷く。
「顔の赤い、調子ばかりのいい若造だ。酒臭さが今でも鼻について忘れられぬ」
 少女の口から若造などという言葉が漏れてきたことにはこの際目を瞑るとして、なんだか嫌な予感がして背中に悪寒が走った。
「お前、奴を助けてはくれないか」
 は、と出そうになった声を呑み込む。
 少女は顔色一つ変えずに淡々としていた。
「吾の代わりに地獄へ行った奴を助けてほしい。背格好どころか顔までそっくりなお前が行けば――まあ、歳は若干食っているようだが、鬼どももおとなしく騙されてくれるだろう」
 この少女の恐ろしいところは、どんな酷い事柄でも当たり前のように淡々と命じることができるところだろう。そして、何の疑いもなくそれに従いたくなってしまう力が、この少女にはある。
「おれに地獄に行け、と?」
「そのためにここへ呼んだ」
 天を見上げた少女につられて頭上を見上げると、今まで所狭しと伸ばした枝葉が重なり合っていたはずのそこは、吸い込まれるほどの高さとなり、垂れ込めた曇天から雨の代わりに紅蓮の炎が噴き出しはじめた。神住まう場所のように静謐だった苔むした前方後方墳の周りには無数の針が突き出し、おれの足元は分厚い氷で覆われ、ズボンの裾から冷気が浸み込んできた。やがて靴を履いているというのにたたらを踏まずにはいられないくらい足の指がかじかみはじめる。
 少女は何でもないことのように針山の上に座ったままだ。
「これがお前の想像する地獄か。ぬるいな」
 偉そうに少女は言ったが、おれは反論する余裕さえなかった。あまりの寒さ痛さに肘をこすり合わせても間に合わず、振り返った先に都合よく見えた白湯気の温泉に飛び込む。だが、白濁湯に見えたのも一瞬だった。ごぼり、と煮立った湯がたてる不気味な音が耳元で聞こえたかと思うと、全身の皮を一気に剥ぎ落としにかかられたような激痛が走った。
「ああ、ああ、ああ」
 悲鳴を上げて今度は冷たさを求めて煮え湯から飛び出し、さっきおれの足をかじかませた氷の上に全身を投げだす。
「ぎゃぁぁぁぁぁっっっ」
 冷気にほっとしたのも束の間、れた皮が氷にびったりと張りつき、起き上がろうにもあまりの激痛に力が奪われ、再び打ち付けた体から赤い血が広がりだす。
「絵に描いたような紅蓮地獄だな。お前、何の準備もせずに来たのか?」
 針山の上の少女は針に貫かれることなく、飄々とおれを見下ろしている。
 おれはあまりの激痛に意識も途切れ途切れになりながら、それでも自分がまだ死んでいないことに何とか気が付いていた。
 少女の言葉を反芻する気力はとうにない。それでも、準備、という言葉は耳に引っかかった。
「死なねぇよ。それくらいじゃあ、ここでは死ねねぇ」
 嘲笑うは若い男の声だった。酒や煙草にだいぶしゃがれてしまっているが、まぎれもなく男の声。いや、男にしてはやたら甲高いから、信じ込んでいればさっきの低くしゃがれた少女の声と聞き間違っていたかもしれない。
 少女じゃない。
 じゃあ誰だ?
 意識が鮮明になる。体から痛みが引き、身を起しても氷に皮膚が張りつくことはなかった。
 小柄な体。針山の上に座る姿も少女らしい気品に溢れたものだ。しかしよく見れば目の前の少女は足に鈍色に光る鉄の下駄を履いていた。着物の裾からは白く塗った痩せぎすの足が見えていた。華奢だとばかり思っていた胴は重ね着された着物で膨らみ、目も口も動かない顔が張りついているその頭上には、やはり薄手の鉄板が括り付けられていた。極めつけは面からわずかにはみ出た赤ら顔の肉のたれた顎。
 ぎょっと目をむく。
 そいつはよく見れば塚で見つけた清らかな少女とは似ても似つかなかった。まるで舞台に上がった菟名日の少女の現実の姿を見せつけられているようだった。
 いや、まるでも何も、それが奴の今の姿だった。おれは氷の上を靴で渡り、針山に足をかけた。
「突き刺さるぞ」
 面白がるように若い男は言ったが、おれは構わず針山の上に足を載せ、体重をかけた。
 ずぶりと沈む感覚とともに激痛が走る。
「言っただろう、突き刺さるぞ、って。そら、血が出てきた」
 若い男が言った途端、足の甲を突き刺した針の根元に血だまりが広がった。
 これは……本当に突き刺さっているんじゃない。血も本当に出ているわけじゃない。おれの意識が痛みを予測して感じ、血だまりを想像して自分に見せているのではないか。だってそうだろう。ついさっき、少女の正体を訝しんでから、何事もなかったように紅蓮地獄から普通に起き上ったじゃないか。ならどうして俺はまたこの想像と錯覚の地獄に陥ってしまったのか。
あいつだ。あいつがいちいち余計な一言を言うから、おれは足の甲を無数の針に貫かれ、血だまりを広げることになったのだ。
わかった瞬間、足の甲を貫いていた針の先端は消え、血だまりも消え去った。何の痛みもなくおれは針山の上に立っていた。
「あーあ、やだねぇ。何でもできる奴ってのはどうしてこう、何でもすぐに自分のもんにしちまうだろうねぇ」
「黙れ。誰だ、お前は」
「黙ればいいのか、喋ればいいのか、命令はどっちかにしてくれねぇか」
 嘲るような物言いはこいつの基本らしい。
 勾配のついた針山を無造作に上りきり、頂に鎮座する男の小面の面に手をかける。
「無粋なことするんじゃねぇよ。面は一度かけたら仕舞いまで自分の手でするもんだ」
 払われた手に現実の痛みがさす。赤いみみず腫れがうっすらと手に浮き上がる。
 なんなんだ、この男は。まるで自分が今能の舞台に立っているかのようじゃないか。こんな地獄の景色の中、観客も地謡も囃子もワキもツレもいないのに、一体何の曲を演じているというんだ。
「お前、名は何という」
 小面の面の下から覗く目がきらりと光ったように見えた。
「なぜおれが名乗らなきゃならない」
「おれが聞きたいからだよ。まあ、でも聞いたってどうせもう知ってる奴なんざあの世にいねぇだろうけどよ」
「あの世ってのはこっちの世界のことか」
「ああ、そうさ。お前は生きている世界にまだ片足を残してきている。おれはこの通り、この格好で丸ごとこっちの世界に落ちた」
 地獄に落ちた割には楽しげに肩をそびやかしている。
「その恰好は菟名日の少女のつもりか」
「よくわかったな。なんだ、やっぱりお前も能をやっているのか」
「演じてはいない。面を作っているだけだ」
「おや、なぜ演じない? そういう家じゃなくなったのか?」
 そういう家じゃなくなった? 何を言っているんだ、こいつは。
「何代か前のじいさまが代々受け継がれてきた小面と痩女の面を酒代の代わりにどっかに売っぱらって消えちまったんだとよ」
 親父から幼い頃聞かされたとおりに答えると、菟名日の少女の装束を着た男は一瞬我に返ったように沈黙した。
「そうか。そう聞いたか。酒代替わりか。違いない。おれの飲んだ酒は生きていては払えないくらい高かった」
 くっくっくっ、と面の下からくぐもった笑い声が漏れてくる。
 おれは目元をしかめ、じっと小面の目にあいた穴の向こうを覗き込んだ。
「お前まさか、能面売っぱらった何代か前のじい様か?」
 笑い声はまだ続いていたが、つと正面を向くと、菟名日の少女の装束を着た若い男はすっと立ち上がった。
「来るぞ。伏せろ」
 低く耳打ちされた声が、短いながらも途中から羽音に打ち消される。
 おれはとっさに針山の上にしゃがみ込んだ。針の切っ先が間近に見えた瞬間、両足を無数の針が貫いて、おれは再び絶叫した。
「ぬるいな」
 あざ笑った菟名日の少女の装束を着た若い男の頭の上、巨大な鉄鳥が舞い降りていた。
 それは、見ただけで首が肩の中に陥没してしまいそうなほどの重厚感を醸し出していた。
 ギィヤャァーッ
 巨鳥の鳴き声が耳をつんざく。
 両耳を覆い、本能的な恐怖に耳を閉じる。そんな俺の横を通り過ぎ、奴は飄々と一歩ずつ針山を下りて行った。その間、巨鳥は菟名日の少女の黒い長髪の鬘をかぶった頭を男の拳一つ分はありそうな嘴でつつきまわす。だが、髪は乱れても奴が悲鳴を上げることはなかった。あれが求塚の話と同じであれば、少女は鉄鳥の嘴につつかれ、脳髄を引きずり出され、終わらぬ地獄に絶叫しているはずだ。だが、奴は声すら漏らさない。ここぞとばかりに痛がる演技はするが、あくまでもあれはふりにすぎない。曲を舞っているのだ。まさに、鉄鳥に頭をつつかれ、脳髄を引きずり出されて苦しむ場面を再現しているのだ。
 あれが本当であれば相当痛いはずだ。だが、なぜ奴は痛がらない? どうして飄々としていられる?
 針山を下りる奴の足元からかつんかつんと金属と金属がぶつかり合う音が響いていた。その音に紛れて聞き分けられていなかったのだが、確かに頭周りからも同じ音が響いている。さて、蔵から鎖帷子も消えていたという話はあっただろうか。家から持ち出したにせよ、誰かからもらい受けたにせよ、奴のあの菟名日の少女の装束の下は、おそらく鉄鳥の嘴にも鬼が繰り出す棍棒にも、針山にも、もちろん熱や寒さにも耐えられるようにしっかりと防具で固めているのではないか。あの余裕はそうでなければとても得られるものではない。
 生きていては払えない高い酒代だった、と奴は言っていた。それはつまり、菟名日の少女に酒でも注がれた礼に、本来少女が受けるべき地獄の苛みを奴が身代りに引き受けることにしたのではないか? しかし奴には本当にその苦痛を受ける気ははなからない。聞き出した地獄の様子を元に、奴は一度家にとって帰り、必要な防具と、菟名日の少女になるための面と装束を持って、再び菟名日の少女のいる塚に戻ってきたのだ。
「阿呆か」
 痛みに歯ぎしりする口をも乗り越えて呟きが漏れた。
「何か言ったか、小僧」
「あんたは阿呆かと言ったんだ」
 意識が針山から別のものに注がれれば、痛みも幻影も見えなくなる。おれは針山を駆け下り、しつこく嘴を動かす鉄鳥を追い払い、菟名日の少女の手にしてはごついその手を引っ張って走り出した。
「どこへ行く」
 面白そうに何代か前の酒好き女好き童女好きのじい様は笑いをかみ殺す。
「無理だ。ここからは出られない。何度も試みたが、一度落ちたが最後、どこにも出口はない。どうしたって出られないんだ」
「だが菟名日の少女は出られたんだろう」
「おれと入れ替わりにな。そんなにおれを助けたいなら、おれと衣装を交換するか?」
「ごめんだね。そんな重い恰好で地獄の責苦をやり過ごすためだけに生きるのなんてまっぴらだ」
「そうかい? 惚れた女のために尽くせるってのは存外いいもんだぜ?」
「惚れた女の顔も見られずに何がいいものか」
「見られるさ。この面をかけてそこの氷を覗き込めばな」
 飛び越えた氷を振り返る男の姿に、おれは腹の底から嘲りを漏らした。
「はっ、冗談だろう? そんな自己陶酔、浸れる方がどうかしている」
「それが菟名日の少女なんだよ」
「なんだって?」
「鏡を覗き込んで、私って綺麗。お前の娘もやるだろう?」
「知るか。おれに子供はいない」
「なんだ、そんなに老けてても独り身か。甲斐性ねぇなぁ」
「ほっとけ」
 くくっと、なぜか男は寂しそうに笑う。
「とにかくだ。菟名日の少女は無垢で無知で自惚れで、根拠のない自信に満ち溢れていて、いつでも悲劇の主人公になれちまう年頃だったんだ。周りからきれいだなんだとかわいがられ、その上二人の男が国を背負って自分を取り合うっていうんだから、そりゃあ寝物語に聞く話よりも浸れたろうよ」
「……惚れた女と言っておきながらずいぶんな言いようだな」
 意外に思って振り返ると、さっきまでかけていたはずの幼さの残る小面の面が、いつの間にか痩女に代わっていた。おれは思わずぎょっとして手を放す。
「あの箱入りめ。はなから自分は結婚する気なんかなかったんだ。結婚なんて言われても実際のところ何がどうなるのかもさっぱりわかっていなかったろうよ。恋愛の延長くらいにしか思っていなかったはずだ。十二、三の小娘が考えることだもんな。めでたいにきまってる。こっちは郷を背負っていたっていうのに」
 鉄鳥が追いかけてくる。ばっさばっさとおれたちを怯えさせようとこれ見よがしに羽音を轟かせながら追いかけてくる。いつしか登りつめていた崖の際で、おれはじりと痩女の面をかけた男から一歩離れた。
「おいおい、どうしたんだよ。変だぞ、お前。まるで……」
「まるで?」
「菟名日の少女を取り合った男になりきっているみたいだ」
 痩女の面の下で男が笑ったような気がした。及び腰のおれに一歩、そいつは間合いを詰めてくる。思わず這わせた足の先が崖の先端から滑り落ち、ぱらぱらと土塊が落ちていく。
「ここにいると時を忘れる。自分が誰かもわからなくなっていく。ただの能役者だったのか、菟名日の少女だったのか、菟名日の少女と同郷の小竹田男子だったのか……」
「何を言っている。あれはただの伝説だ。物語だ」
「ああ……疼く……お前に一剣手向けられた腹の傷が痛んで仕方ない……よくも、よくも……血沼の丈夫、よくも……!」
 どんっと両手で押し出されていた。ふわりと体が浮いて、途端にぐいと下に引っ張られる。揺れていた上半身がぐるんと回ろうとした瞬間に、おれはとっさに崖の端を掴んでいた。予想通りそいつはおれの手を踏みつけ、屈んでおれの顔を覗き込む。
 はらりと面を顔に括り付けていた紐がほどけ、おれとそっくり同じ顔が現れた。同じと言ってもだいぶ若いが、いまは憎悪に歪んで恐ろしく醜く年寄りて見えた。
「そんなに好きだったのかよ」
 顰めた眉は瞼をひしゃげさせて目をつぶし、歯をむき出した口には上下左右に四本の牙が突き出しはじめる。
 これが顰(しかみ)の面か。
 そう思う間もなく、今度は額に瘤が二つ盛り上がり、肉を突き破って二本の角が生えてくる。般若の面は本来嫉妬に狂った女のなれの果ての姿だが、どうしてこいつが男女二つの顔を辿るのか――
「うぉぉぉぉぉぉっ」
 般若の顔となった男は、おれの手を踏みにじったまま両手で額に生えた二本の角をへし折った。 
「おれもお前も同じだったな。おれはお前になりたかった。お前はおれになりたかった。そうだろう、血沼の丈夫?」
「何を……言ってるんだ」
「同じ顔に生まれ変わったのがその証。俺たちが求めるものは同じだった。おれに足りないものをお前が持っていて、お前に足りないものを俺が持っていた。お前は姫の心を、おれは姫と同郷の後ろ盾を」
 男は逆手に持った角を一本ずつおれの両手に突き刺していった。
「姫の、心……? そんなわけないだろう。それならどうして悩む必要があった?」
「お前が異郷の者だったからだよ。姫は一人娘だった。お前もこの郷に婿入りしてもいいとまで言ったが、わざわざ内部の事情を漏らしそうな者をどうして中に置いておけよう。さりとて一人娘を手放すわけにもいかぬ」
「ならお前でよかったじゃないか。親がそうと決めれば従うしかないものだろう?」
 自分が血沼の丈夫だと認めたわけじゃないが、歯を食いしばっておれは異形の面となった男を見上げる。
「血沼の郷は領土拡大に熱心な血の気の多い者どもの集まりだった。血沼の海で漁をしながら交易範囲を広げ、海を渡った菟名日の郷までやってきた。それがお前だ。血沼の丈夫、いや阿万津比古。お前は茅渟(黒鯛)を商いながら郷に入り込み、茅渟が好きだった姫の歓心をかっていったのだ。お前さえ現れなければ姫は何の迷いもなくおれの妻になっていたはずだった」
 悲しいかな。おれにはこいつの妄想を受け止めてやれるだけのさらなる想像力も思い当たる記憶もない。ただ、この広遠無慈悲な地獄に一人で置かれ、少女の背負うはずだった責苦を流しながらとはいえ受け続けていればどうなるかは想像に難くなかった。それでも、まるで経験してきたみたいに語る様は気味が悪い。
「異郷の者との婚姻は和合の証。攻め込まれる前にこれを機に同盟を結んでしまえという意見もあったのだ。だが、まず姫の両親は姫をよそに出したくはなかった。和合の証と言っても嫁に行けば手の届かないところで殺されてしまうこともありうる。たった一人の娘をそんな形で失いたくはなかったのだ。だからと言って血沼の郷の書状をもって正式に求婚してきたお前を無碍に返せば戦の火種となるやもしれぬ。だから姫の両親は、いや、菟名日の郷長は運を天に任せることにした。天の名の下に二人を競わせ、勝った者が姫の夫として天に選ばれた者ぞ、と」
「血沼の郷でもそれを受け入れた、と?」
「そうだ。だが、何をしても決着はつかなかった。まあ、概ねお前の方がなんでもうまくやってはいたが、おれには郷の後ろ盾があったからな。いくらでも後から手は回せた。櫛のことも、剣合わせで使った剣のことも。ずるいと思うか? そうだろう。おれも思う。だが、おれには郷長以外の郷の者の総意がかかっていた。郷長は運を天に任せたが、そんな不確かなものに任せていいのか? いや、よくはない。だが表だって血沼の客人を殺せば角が立つ。なんとしてでもこの賭けにおれが勝って、郷の安全を守らなければならなかったんだ。剣合わせとて、あわよくば殺すつもりでやった。ただ勝つだけじゃだめだったんだ。お前を生きて菟名日の郷から出すわけにはいかなかった。菟名日の郷の地理も人物も、特産品も、お前は知りすぎていたから」
 面をかけているわけでもないのに金色に燃える瞳が焼き尽くすようにおれを睨みつけてくる。
「だが俺は知っている。それでもお前が諦めなかったのは、姫を妻に迎えられねば血沼に帰れなかったからじゃない。姫のことが好きだったからだ。お前もあの無邪気で残酷な姫に魅せられていたからだ。おれは分からなかった。はじめの頃、あの幼い姫のどこが良いのか。確かに透き通るような儚い美しさはあったが、表情は乏しく人形のようだと思っていた。けれど、お前には相好を崩して笑うんだ。あの氷のような人形がお天道様のように笑うのだ。おれもあの笑顔を見たいと思った。あの笑顔を俺に向けてほしいと思った。だから、生田川で鴛鴦を射るように命じられた時、手を誤ってお前を射殺すように言われていたがそうはしなかったのだ。初めて真っ向からお前と勝負して、互角だった。おれはそれが嬉しかった。これでようやく姫もおれを見てくださるのではないかと胸が高鳴った。なのに――なのに――!」
 ぎぃと牙が伸びる。男は手を伸ばしておれの胸倉をつかみ上げた。
「なぜ姫は死んだ! なぜ姫が死ななければならなかった! 何度でも勝負をすればよかったではないか。何度でも何度でも、決着がつくまで!」
 男の話に毒されたのか、ぼんやりと姫が生田川に飛び込む姿が見えた気がした。虚をつかれた胸の思いがよみがえるようだった。慌てて川に飛び込んだものの、十二月の川の流れは冷たく、あっという間に体は自由を失って流れに巻き込まれ、それでももがきながら姫の右手を掴んだ。同時に飛び込んだもう一人の男がやはり同時に左手を掴んでいた。
 助けようと掴んだはずだった。川面に顔を出そうともがいていたはずだった。だが、姫はおれの手も、奴の手も振り払おうと必死だった。
 嫌われたのだと思った。
 そうだ、確かに心通っていると思っていた。だからどれほど不利な戦いであろうと受けて立とうと決めたのだ。しかしあの瞬間に、おれは嫌われたのだと思った。そうしたら悔しくて、なにがなんでも姫の手を掴んで己がものにしたくなった。
 なぜ姫が川に飛び込んだのかもわかっていたのに。なぜ、川の中で俺たちの手を振り切ってまで前に手を伸ばそうともがいていたのかも。
 分かっていたのに。
 おれが姫の一番の理解者だと思っていたのに。
「鴛鴦だ。鴛鴦を助けようとしたんだよ。俺たちが射たのは人目を引く鮮やかな雄の鴛の方だった。矢を受けて流されていく鴛を、すぐに雌の鴦が追っていっただろう? あれを見て姫様は我に返ったのさ。自分たちのせいで無関係な命まで殺生してしまった、と」
 男ははっとした顔をしていた。瞳に宿った金の光が薄らぐ。その頭上に、ずっしりと重たそうな鈍色の鉄鳥が鉤爪を剥き出しにして急降下してきた。
「危ない!」
 おれの視線の先にあるものを悟って男は身をひねって頭上を振り仰いだ。まさにその後頭部を鉄鳥の鉤爪が撫でていく。男は後頭部を引き裂かれはしなかったものの、衝撃で身体がこちらに傾いできた。
 おれは、鬼の角に釘づけにされた左手を崖から引きはがし、そいつに伸べようとしていた。どうしてそんなことができたのかなど分からない。ただ、これ以上誰かを死なせてはならないと思ったのだ。小竹田男――久仁津彦も、おれの何代か前のじい様も。
 到底左手一本では菟名日の少女の装束をまとった男を支えることなどはできなかった。おれを崖に繋ぎ止めていた右手の角も抜け落ちて、おれはもう一人の男と空中で絡み合うようにして落ちていった。下には今更ながら想像力が及んだのかぐつぐつと煮えたぎる血の海が大きな口を開けて俺たちが来るのを待っている。噴きだす蒸気が熱で傷を抉るようだ。あれがおれの想像の産物なのか、それともこの世界に実在するものなのか、判断することもできなくて、おれは悔しさと怒りと憎悪と悲しさでひしゃげた顔をしたもう一人の男を見ながら、確かにこれはもう一人の俺だったのかもしれないと思った。
 ああ、そうだな。お前の言ったとおりだ。
 お前はおれが姫の心を得ていると思い込み、おれはお前が同郷の多くの仲間に囲まれて安穏と生きていると思い込んでいた。
 ――阿万津比古様。
 鈴振るような愛らしい声に呼ばれる度に、年甲斐もなく胸が高鳴った。一回りも違う子供相手に自分はどうかしていると思い込んでいた。姫にとって自分は好物の茅渟を届けにくる一介の漁師でしかなく、その程度にしか思われていないことも承知しているつもりだった。
 しかし、周りにはそうは見えなかったらしい。姫が異郷の男に思いを懸けている。菟名日の郷の人々はそう思い込み、慌てて姫の夫となるべきものを募りはじめた。自分は……名乗りを上げるのも恥ずかしいと思っていたのだ。それなのに、見透かしたように姫は言った。
 ――阿万津比古様は名乗り出てはくださいませんの?
茶目っ気たっぷりに見つめられては、言い訳さえも出てはこなかった。血沼の父や兄者方から菟名日と同盟を結ぶためにも姫と婚姻を結ぶように命じられたのもそれ前後のことだった。
  そのうち候補は自分と同郷の久仁津彦の二人となり、自分は姫を攫って行く敵、久仁津彦は姫と郷を守る英雄のように扱われるようになっていった。
  ――阿万津比古様、がんばって。
  袖ひかれた物陰で囁かれる声に何度心を掻き乱されたことだろう。姫はおわかりでないのだ。自分がどれだけこの郷の人々に疎まれているか。しかし、励まされれば姫への想いは掻き立てられる。その葛藤の最中にあっても、そうだ、本当は分かっていたんだ。姫が本気で自分を応援しているわけではないことなど。建前抜きで急に優しくなった俺よりも年若い久仁津彦に気持ちが傾きはじめていることも。なにより、あいつの言ったとおりだった。姫は郷を背負った二人の男が自分を賭けて争っているその状況に酔っていた。
 それでも、勝てば自分のものになると、おれも心のどこかで思っていたんだ。
 おれが菟名日の郷の者だったらよかったのか? あいつみたいに若ければよかったのか? 漁で日焼けした腕よりも、なまっ白いあいつの腕の方がいいのか?
 仕合で上回っていても判定で必ず引き分けにされる度に、むくむくと苛立ちは膨らみ、執着は強くなっていった。
 だから、結局おれは姫を助けに飛び込んだ川の中で、どんなに姫が振り払おうとしても手を放さなかった。向こう側で久仁津彦が流れに呑まれてあらぬ方へ引き寄せられながらも姫の手を離さずにいることに気づいていながら、姫の手を放さなかった。死ぬならともに死後の世界まで行ってやろうと思っていた。
 愚かだったと気付いたのは、おれが辿り着いたその世界に姫がいないと知った時だった。姫は最後に鴛鴦を救おうとしたのだ、きっと極楽へ行ったに違いない。そう思ったのをぼんやりとだけ覚えている。
 血をまき散らしたような夕空を背に、鈍色の巨鳥が旋回しながら近づいてくるのが見えた。煮えたぎる血の海にはまだ呑まれていないようだった。いつまでもどこまでも落ちていく。血の海の熱さに備えて丸めた背は緊張からなかなか解き放たれない。草しているうちに頭上の鉄鳥は二羽に分かれ、地味な茶色の鳥となって一羽がおれを、もう一羽が若い頃の俺そっくりな顔を取り戻した男を鉤爪で掴み、一気に赤い空へと向けて上昇した。

 夜啼き鳥が単調に同じ音を繰り返している。ひやりと湿った風が腕と頬を撫でていって俺は目を覚ました。
 近くに人の気配がしていた。月の光が木々の合間を縫ってさやさやとその姿を闇に浮かび上がらせる。白くぼんやりと蒼白い燐光を纏った少女の姿を。
 少女は仰向けに倒れたもう一人の男に寄り添っているようだった。顔にかけられたままの面を外そうと手をかけている。
「それには触らないでやってくれ」
 おれが言うと、驚いたように少女は振り返った。悲しいかな、おれには全く興味関心がなかったらしい。
「そう恐い声で叱ることもないだろう。かわいそうに」
 起き上がった男は小面をつけていた。
 おれは自分の両手を確認する。般若の角に貫かれた傷跡はどこにも残っていなかった。地獄でさんざ苛め抜かれたはずの体も痛みは残ってはいなかった。
 すべてはここに来た時と同じままだった。ただ、目の前にここに来た時にはいなかったはずの菟名日の少女の装束を纏った男が現れている以外は。
「すまぬ。吾のせいでお前にひどい思いをさせてしまった。本当にすまぬ。この通りだ。許してくれ」
 額を地にこすり合わせて燐光を纏った少女は背伸びをしていた男に額づいた。
「顔を上げてくださいよ。おれは貴女からあの晩夢のようなひと時を味わわせてもらった。これはその代価」
「いや、それ以上だ。吾は……吾はなんと愚かなことをしたものか。どう償えばいい? どう購えばいい? 己の犯した業の報いを、また何も関係のないものに背負わせてしまった。吾はお前に合わせる顔がない」
 男は困ったように溜息をつき、おれを見る。
「よう、孫だか曾孫だか玄孫。無事だったか」
「無事だったか、じゃない。呑気に言うな。俺はあんたに殺されかけたんだ」
「違いない。殺すつもりだったんだ。ということは、夢じゃないな。これがあっちの世界の現実なんだな」
 面をかけているというのににぃと笑ったのが、面からはみ出た顎の動きでよくわかった。
 夜啼き鳥が啼いている。
「穂高、面打ちでも舞の基本くらい積んだんだろう?」
 名乗ってなどいないはずなのに、何代か前のじい様は迷いなくおれの名を呼び当てた。
「そう驚くことないだろう。お前もいろいろ見たんだろう? 今に至るまでの古今東西」
「おれは昔の話だけ見せられただけだよ」
「なんだ、そうなのか。それは損したな。おれはいろいろ見たぞ。おれがいなくなってからの家がどうなっていったのかも」
 わずかに苦いものを噛みしめたような声になって、とりなすように何代か前のじい様は明るい声を出した。
「『求塚』をやろう」
「は? なんだって?」
「せっかく本物の塚があることだし、ぜひ菟名日の少女にも我々の芸の神髄を見ていただこうじゃないか」
「本気か? 二人しかいないのに?」
「二人いれば何とかなるだろう。お前が僧侶と地謡、おれが菟名日の少女。山の作物はこれ」
「笛も太鼓も鼓もないぞ」
「僧侶は直面だから面がなくても問題ない」
「そういう問題じゃない」
「お前、おれの直系のくせに頭固いな」
 さっきまでおれのこと殺そうとしておいて、この悪びれなさときたらどうだ。さすがは家宝の能面を持ってこの世からとんずらしただけのことはある。
 奴はおれのことなど全く気にも留めず、菟名日の少女の顔を上げさせていた。
「辛い場面もあるかもしれませんが、顔を背けずに最後まで見てくださいますか?」
 顔を上げた少女は、ひたと小面の面を賭けた男を見つめ、素直に決意のこもった首肯を見せた。
 何代か前のじい様は衣装と面の位置を整えると、舞を始める前におれに小さく耳打ちした。
「塚には戻らない。いいな」
 戻らないって、どうする気だよ、と尋ねる隙もなかった。振り返ったそこには、もう一人、人ではない雰囲気を纏った菟名日の少女が立っていた。
 地獄の苦しさを語った菟名日の少女は、僧に誦経を依頼し、何とか成仏しようと試みるが、意気消沈したまま塚の中に消えて仕舞となる。おれの覚えている曲をそのまま謡えば塚に戻ることになってしまう。ということは、その先を作れということか。
 息を腹の底まで吸い込み、ゆっくり吐き出す。謡いだしは田舎を旅する僧の様子を二度繰り返しながら摺り足で舞台となる場所へと進んでいく。そして、向かい側から現れた少女に、求塚について尋ねる。
 地獄でずっと菟名日の少女を騙っていた男が舞う菟名日の少女は、こちらの謡が止まりそうになるほど可憐だった。能の舞い手としても一流だったのだろう。一挙手一動が洗練されていて、無駄な動きが一つもない。おれが初めて見て恋に落ちたあの少女よりも、よりわがままで、高慢で、しかしながら可憐で美しかった。
 菟名日の少女は僧に二人の男に思いを懸けられ悩んだこと、鴦を犠牲にしてしまったことを語り、一度塚に消える。舞い手は通常作物の中に身を顰めることになるが、じい様は見事に塚の中に消えていった。そして、痩女の面をかけて再び登場し、地獄の責苦の様子を騙りだす。その姿はまさに地獄で見たじい様の姿そのものだった。実際は受け流していたものの、しかし痛がる様、嫌がる様は堂に入っている。
 ふとすすり泣きが聞こえはじめた。痩せ女の面を懸けたじい様の迫力を受け止めなければならなかったため、視線すら動かすことはできなかったが、それは明らかに菟名日の少女の漏らしたものだった。じい様は気づいているのかどうか怪しいくらい、曲に没頭している。いや、もうすでにおれの目の前にはじい様と呼べる存在はいなくなっていた。目の前で舞っているのは、正真正銘、菟名日の少女その人だった。
 空はようよう白みはじめていく。
 地獄の苦患を騙り終えた菟名日の少女は、成仏しきれずに帰るべき住処を探し彷徨いはじめる。その足は塚の周りを動き出すが、しかし、少しずつ塚から離れ、涙に埋まった目を見開いて見ていた少女の下へ進んでいく。謡が菟名日の少女が塚に消えていったという最後の一説を謡いはじめる直前に、じい様は少女の前に立ち止まった。
 おれは謡うのをやめる。
 夜啼き鳥はもう啼いていなかった。朝の鳥もまだ目覚めてはいない。夜明け前の静寂が不思議な色の光とともにおれたちを包み込む。
 じい様は自らの手で菟名日の少女の面を外した。じっと少女を見下ろすその男の傍らに、おれも並んだ。二人、示し合わせたわけでもないのに少女に手を差し伸べていた。
  少女は怯えたように肩を震わせる。
 おれたちに両手を掴まれてしまったら、また引き裂かれるのではないかと恐れたのだろう。しかし、少女は隣の男と長いこと見つめあい、そしておれと見つめあい、おそるおそる両手をそれぞれおれたちの手に預けた。
 おれたちはそっとその手を引っ張り上げる。ゆっくりと確認するように少女は立ち上がり、上気した顔でおれたちを順に見て微笑んだ。特にも隣の男に向けた笑顔ははじけんばかりだったことを付記しておかなくてはならないだろう。
「ありがとう」
 もらった笑顔を胸に留めて、おれは少女の白い華奢な手をもう一人の男の手に重ねさせた。
 どういうことだ、と男がおれを見る。
「おれは命まで投げ出して姫を守ろうとしたあんたには敵わない」
 しっかりと男に少女の手を握らせると、どこからか巨鳥の羽音が近づいてきて、ぱああああっと辺りが白く明るくなった。森の中に飛び込んできたのは、美しい五色の羽を持つ鳥と、地味ながらも優しい色合いの羽を持つ二羽の鳥だった。
 二羽の鳥はそれぞれ男と少女とを優しくその足でつまみあげると、日の向こうへと連れ去っていった。
 ぼんやりとしながらも緊張の解けないおれはその場に寝ころび、目を閉じた。ずいぶんと長い間眠っていなかったような気がする。目が覚めたら、おれはこのことを覚えているだろうか。いや、覚えていなくても、きっとおれの中の何かは覚えていることだろう。
 目が覚めたら、おれは面を打つ。依頼された「求塚」の面はそこに何代か前のじい様が置いていった二つの面を参考に打てばいい。目が覚めたら、おれはおれにしか打てない面を打つ。
 身代わりに地獄に落とした男を思い苦悩と後悔に苛まれる女の面と、すべての苦患から解き放たれた女の面を。

〈了〉
201307080333