破滅の指輪




 水盤から水が滴り落ちる。
 滴り落ちた水は床に落ち小さな悲鳴を上げて砕け散る。
 砕けた水滴は王冠のようにぐるりと円となり、弾力を持って次の空中へと弾けていく。
 永遠に、弾けつづける。
 弾けては砕け。砕けては弾け。
 人の目に触れられなくなっても、それは飛び散りつづけ、永遠に空中を彷徨う。
 強かなその音に耳を澄ます者がいた。
 かの者は石段からゆっくりと腰を上げると、まっすぐに水盤へと向かっていきその中を覗き込む。
 滔々と流れ込む水を受けて常に水盤には波紋が波打つ。その際からは常に水が溢れ出し、件の永遠の回帰を生み出している。
 かの者はかようなる水盤の中に無造作に手を突っ込んだ。
 衣が濡れるのも構わず深く深く、左手を差し入れていく。
 左手は不浄の手。
 己が手を清らかな水の中に突っ込むこと自体畏れ多いと、今まで誰も試したことなどなかった。 水盤の中に手を突っ込むなど。
 水盤の底には一つの指輪が転がっている。
 右手で拾えば世界を救い、左手で拾えば世界を滅ぼす。
 そういわれる指輪が一つ、転がっているという。
 水盤は水源を持たずとも水を溢れさせ続け、件の指輪を浄めつづけているという。
 誰も本気にはしなかった。誰も試みようとはしなかった。
 何故か。
 誰も水盤の底に転がっている指輪を見た者がいなかったからだ。
 水盤は常に波紋に揺らめき、透明な水は常に空色を映し、器の内側を透かしとおす。光の藻網は水盤の上を幾何学的に錯綜し、時に降り落ちたる葉が新たな波紋を投げかけようとあっという間に異端者を排除し、滾々と湧く水はまた己一人の世界を守り続ける。
 かの者は左手で水をかき回した。
 その腕は短くはないがどこまでも伸びるわけではない。水盤の底は、外から器を見るよりも深く内から見当をつけるにはまやかしが多すぎた。
 滾々と湧き出る水はかの者の肩を濡らす。ついで髪を濡らす。前のめりになった胸を濡らす。それでも届かぬと、首の付け根を冷水に浸す。手首を動かす。指を動かす。何かに触れやしないかと指でそこを目指して水をかく。冷たい水は熱を奪い、指先から力を奪い取る。
 本当にあるのか?
 誰もが抱く疑念を、ようやくかの者は胸の中に抱きはじめる。
 剣にも縦にもなるそんな指輪が本当に存在するのか。
 求める手が違うだけで効能の変わる指輪など、あるものか。
 たかがこの細い指に嵌るような指輪に何ができる。たかが装飾品ではないか。指に嵌め、美しさを愛でるしか能のない装飾品ではないか。美しく高価であれば売ることもできるだろうが、それで得た金などすぐに費える。
 欲しいものはこの世の滅亡。
 飽きるほど繰り返された退屈な日々の駆逐。
 夢を見られなくなってから、日々過ぎ去る時の構築物の一部と成り果てた、この何もない世界から、得たいものがある。
 刺激。
 かの者は己に何の才もないことを知っている。
 己が倦んでいることも知っている。
 そんな己が、たかが一つの指輪を得ただけでこの世界に悲鳴を上げさせられるのか。この世界に歪みをもたらせるのか。この世界の飽くほどに淡々と繰り返される日々を少しずつ違った形に塗り替えていくことができるのか。
 欲しいものがなくなったこの世界に、再び熱を取り戻すことができるのか。
 救おうとは思わなかった。
 病んでいるのは自分だ。
 救われるべきは、本当は己自身。
 しかし、指輪が救えるのは己ではなく世界だ。健全な世界に何の救いが必要だというのだろう。
(私は救われたかった。)
 己が救われるためにはどうすればよいか、答えは自明だった。
 退屈な世界を刺激的な世界にすればいい。
 悪などどうでもよかった。
 悪いことをしたかったわけでも、何かを訴えたかったわけでも、本気で心から憎いと思う人物がいるわけでも、何でもなかった。
 退屈な世界に呑みこまれて滅びそうになった己を、かの者はただ救いたかっただけなのだ。
 求めるべきは滅びの指輪。
 世界が滅びてもいい。己が滅びてもいい。
 久々に胸の鼓動が高鳴る。冷たさに痺れる腕が快哉を叫んでいる。
 かき混ぜる。
 水の中を、水流が渦巻く。
 人差し指に固いものが当たった。
 あったのだ、本当に。
 左手だけではもどかしい。
 もっと速く。もっとたくさん。かき回してかき回してかき回して。
 浮き上がる一つの指輪。
 凍りついた左腕。
 動かぬ左指の代わりに水盤の中に差し入れられようとする右手。
 つ、と、右手の人差し指から小さな小さなごくごく微細の水滴が、王冠の切っ先のように盛り上がった水の先に触れて混ざり込んでいった。
 発生した水渦は次第に勢いを失い、回る指輪も底へ底へと沈んでいく。
 左手はまだ水盤に差し込まれたまま。
 やがて、水盤は呆けたかの者の顔を映しだした。
 水盤の奥底に指輪の姿はない。
 湧き上がる水もなく、水盤は一瞬の静謐に水鏡となって真実を映し出す。
 かの者は温もりを失った左手を右手で水盤から引き抜いた。
 水が滾々と溢れ出す。
 広がる波紋は水盤の奥底に隠された秘密を覆い隠し、不浄なものが溶け込んだ水を吐き出していく。
 一瞬は夢に触れた指先。
 しかし今は無残に青紫色となって膨れ上がる。
 痛みを感じない痛み。
 果てしない後悔と苦痛とともに、喜びがかの者に湧きあがっていた。







〈終〉





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