愛しのメリークリスマス




 六階のマンションのベランダから少し身を乗り出して空を見上げていたのは、別に死にたかったからじゃない。
 一番星が見えたとき、一瞬そんな想像はしたけれど、本当に死ぬつもりはなかった。だから、靴を脱いで柵を飛び越えたわけでもない。ただ、柵が外れてしまっただけだった。
 落ちている間、わたしの頭の中にあったのは「助けて」でも「痛いんだろうな」でも「恐い」でもなく、「あ、落ちる」という落ちる直前の思いのままだった。
 意外に思考なんて動かないものだ。こういう時、もっと恐い思いをするものだと思っていた。何も考えられなくて終了だなんて、案外つまらない。だけど、身体だけは本能的に背中を丸め、来るべき衝撃に備えている。そんなことしたって、この高さからじゃ背骨が折れて頭蓋骨が割れて終わりだっていうのに。
 夕方だった。
 冬の夕方は暮れるのが早い。午後四時を過ぎればもうそこは宵闇の世界だ。だから夜空に星が見えはじめるのも早い。夏の大三角形のベガやアルタイル、デネブなんかがまだ頭の天辺で燦々と輝いていたりする。その輝きたるや夏の比ではない。冷たく研ぎ澄まされた大気に上がる不純物は少なく、ダイレクトに白い光の矢が目を貫く。東にはようやく冬の星座の片鱗。御者座のカペラと同系色の木星が仲良く上ってくる。木星はおうし座にいるはずだけど、残念ながらアルデバランの赤い輝きは前者たちには及ばない。双眼鏡があればプレアデス星団やヒアデス星団も綺麗に望めようが、残念ながら手元にあるのは年季の入ったオペラグラスだけだ。
 一人暮らしの多いワンルーム主体のマンションは、まだどこの家も窓は暗かった。だけど不意に鼻先をシチューの匂いが掠めていって、シャンシャンと数多の鈴が振られる音が聞こえていた。きっと近所の一軒家からだろう。あそこには幼稚園と小学生の子供がいる。母親はわたしと同じくらいの年齢。今日は楽しくクリスマスイブを祝うつもりなのだろう。
 身を乗り出していたのは確かだった。でも、それは死ぬためじゃない。星を見るためだ。この一人暮らしマンションのベランダから他に誰か帰ってきていないか同士を探すためだ。もう少し温かいシチューの香りを胸いっぱい吸い込みたかったからだ。
 さみしくなかったと言ったら嘘になる。
 家族もいないし、仕事も恋も婚活も何もかもうまくいってるとは言えなくて、自殺する動機がなかったと言えば嘘になる。
 でも、自殺ってもっと難しいものだ。自分で自分を殺すってのは、ある程度の元気がなきゃできやしない。労力がかかるんだ。覚悟も思いきりも実行力も必要。今のわたしにはみんなないものばかり。たとえ包丁を持ったって自分を刺せるはずがない。その日食べる野菜を切るので精いっぱいだ。ベランダに出たってもう柵を乗り越える力は残っていない。柵にもたれて空を見上げ、はぁーっと溜息を吐くだけだ。
 単調な毎日の区切りに星を見る。それだけだ。
 いや、それが災いしたのかな。毎日毎晩ベランダの柵にもたれて半分身を乗り出すようにして。柵にはきっとネジが緩むほどの負担が蓄積されていたんだろう。それならいっそ落としてしまえ、と柵がわたしを宙に投げ出したのかもしれない。
 あ、落ちる。
 落ちる。落ちる。落ちる。
 落ちる――
 どこで意識が途切れるのか。どこで目をつむってくれるのか。どこで背中が駐車場のアスファルトに叩きつけられるのか。
 だけど一向にわたしにはその時が来なかった。
 ずっと落ちる瞬間のままが続いていた。
 耳に静けさが戻ってくる。目に星空が戻ってくる。
 あれ、わたしは今まで何を聞いていたのだろう。何を目に映していたのだろう。
 思い出せない。
 マンションの下の一軒家で子供たちが盛んに鳴らす鈴の音が聞こえつづけている。
 シャンシャンシャンシャン。
 ガラガラガラガラ。
「真っ赤なおっはっなっのー、となかいさっんっはーっ」
 ん? うた声? ちょっと調子っぱずれてない?
「その歌やめろって、毎年言ってるだろっ」
 あら、こっちはやたらいいバリトンだこと。天国もクリスマス仕様で大サービス中なのかしらね。これは死んで得したかもしれない。
「何を言う。この歌はこの時期じゃないと歌えないんだぞ」
「俺がサンタさんだったら、絶対あんたにいの一番に音感をプレゼントしてるね」
「なに、お前音感がほしいのか」
「いや、俺じゃない、お前だ、お前」
「残念だが音感は生まれつきの部分がかなりを占める」
「聞けよ、人の話を」
「音感をよくしたければ、そうだな、これだ! ホームカラオケセット! これで練習するがいい。努力あるのみ、だ」
「あっ、お前、それ四丁目の高崎さんちのだろ? 出すな! 箱から出すな! 出したってばれるから! 中古になっちまうから!」
「細かいこと言うなよー。どうせ部品は廃棄場所からの寄せ集めだろ? もともと中古だし」
「言うな! そういう夢のないことを言うな!」
「違うよー、エコっていうんだよ。リサイクルだよ、リサイクル」
 何この人たち。漫才? 漫才の練習中なの?
「ぷっ……ふふふふふふ……」
 やだ、堪えてたつもりだったのに笑い声漏れちゃった。
 前の人たちの雰囲気がこわばる。
 あ、まずい。わたし、ここにいちゃまずかったんじゃない? そもそもここ、どこ? 星空が、ゆっくり流れてる? 地面が揺れている?
「やっぱりさっき、誰か落ちてきたんじゃないの?」
「どさっていったよな? 確かにいった。どさって」
 にわかに慌ただしくなった二人の間に一瞬沈黙が落ちる。
「トナカイ、お前見て来い」
「はっ、ご冗談を。橇引いてる俺が荷台の上なんか見ようとしたら事故るだろ」
「いいからいいから。ちょっと事故って上司の雷が落ちようが、後ろの車にクラクション鳴らされようが、荷台の上に降ってきたもの見る方が怖いから」
「どういう意味だよ」
「雷なんていずれにしろその場限りのことだ。でも、荷台に笑える生き物がいるってことはだ、明らかにどっかから落ちてきた奴だ。血みどろかもしれない」
「いいからお前が見ろ」
「ぶー。いいもーん。もし血みどろ死体がいたら……」
「死体は笑わねぇよ」
「……後は頼んだぞ、トナカイ。四丁目の高崎さんも小枝さんも、弥勒町の古賀さんも慶良間さんも、林崎さんとこのくそガキも……」
「並べてるうちに日が昇るぞ」
 さて、どうやらわたしはクリスマスらしくサンタさんの橇の荷台の上にいるらしい。すでにその時点で生きてるか怪しくなってるけど、とりあえずわたしの生死は置いといて、だ。この様子だとそろそろ覚悟を決めたサンタさんが御者台から立ち上がってこちらを覗き込むと思うんだけど、一体、わたしはどんな格好でお会いすればいいのかしら。正座でこんばんはって言ってみる? それとも覗きこまれる前に御者台の方覗き込んでみる? さあ、どうする、歩佳あゆか
「うわぁぁぁぁっっっ」
 しまったぁっ。仰向けに寝たまま考えてるうちに、サンタさんこっち覗きこんじゃったよ。あーあ、しょうがない、起きよう。
 起きようと思えば身体はいとも簡単に上半身を起こすことができた。ちょっと腰と左肘がぎしぎしと音をたてたけど、折れたわけでも痛みがあるわけでもない。これは完全に逝ったかな、と思ったけど、とりあえずそれは考えないことにしてみる。
「いた! いたいたいたいた!」
「んなの、確かめる前からわかってただろ。で、何がいたんだ? 死体か? 不倫相手に振られて飛び降りた二十代OLか? 末期がんで飛び降りた五十代のおっさんか?」
 ずいぶん具体的な例ね。初めてじゃないのかしら。
「あの、星見てたら柵が外れて落っこちた三十代の独身OLです」
「……あっちゃぁー」
「うわっちゃー……」
 勇気を出してうつぶせに御者台を覗き込んでみたんだけど、目が合った推定サンタさんとトナカイは明らかに厄介なものを拾ったという顔をした。
 どうせ……どうせどうせどうせ、厄介者ですよ。ええ、この年ですもの。三十路越えましたから。独身ですから。結婚って何? 婚活? 何それオイシイノ?
 ああ、それにしてもサンタさんもトナカイさんもかっこいいじゃない。あれはわたしよりも年下ね。まだまだ若い感じがするわ。それにしても、トナカイが自転車こいでアスファルト舗装された道路の上橇引いてるとは思わなかったけど。
 一度はやさぐれた心ごと荷台に顔を伏せたけど、いつまでたっても次の声がかかってこない。
「で、あの、次の言葉は?」
 恐る恐る顔を上げると、二人はもう前を見てそれぞれの職務に励んでいた。
 トナカイは前を向いて自転車を漕ぎ、サンタのコスプレをした若い男はライトを片手に住宅地図を照らしながら次の行先を探している。
 無視か。無視なのか。ここに人がいるというのに!
「ちょっと、荷台の上に人がいるんだから助けなさいよ!」
「でた、三十代女性特有のこの図々しさ」
「いつまでも姫扱いされると思ってる悲しさよ」
 こいつら……自分たちが若いと思って人のことバカにしやがって。
「もういいっ、自分で降りてやるっ」
 とはいえ、ここは結構なスピードで走る橇の荷台の上。御者台までそう高さはないとはいえ、途中には足場の一つもない。御者台だってサンタさんとプレゼント一つ置けるスペース以外ないくらい狭いし、足元の板だって、隙間から道路を照らす街灯の明かりがちらほら見えるおんぼろさ。飛び降りたらそのまま足元の板をぶち抜いてそのまま足を引きずってしまいそうだ。
 荷台の端を掴んだものの、わたしは風に髪をなびかせたまま止まってしまう。そういえば、寒い。そりゃそうか。十二月末の夕方だもの。ちょこっとベランダから星を見ようと思っただけだからオーバーも着てないし。
 ぶるっと身震いして、わたしは再び荷台の分厚いシートに張り付いた。こうしていると身体が少し沈む分、風をやり過ごせる。
 荷台の端っこから目だけを御者台に向けていると、良心が傷んだのかちらっとサンタが振り返った。
 おお、青い目。眼福眼福。
「!」
 楽しんでいたのにサンタは悪寒でもしたのか身を震わせて前に向き直るとそのまま硬直してしまった。
「サンター、次の送り先は?」
「止まるな! 走れ! 追いつかれるぞ!」
「馬鹿言うな。赤信号じゃないか。行ったら俺たちがお陀仏だ」
「こらっ、トナカイ。今日はキリスト教イベントなんだから仏教用語使うな」
「へいへい。ったく細けぇな。で、何に追いつかれるって?」
「目を爛々とさせて僕たちを見てにやにや笑う……世にいうあれが腐女子か?」
「三十過ぎてんなら貴腐人にまでなってんじゃねぇの?」
「どっちでもないわっ!」
 ああ、思わず突っ込みを入れてしまった。
 サンタもトナカイも一様に肩竦めて硬直しちゃってるじゃないの。
 ブッブー。
 後ろからはクラクション。
 信号は青に変わっている。
 トナカイは我に返ってまたいそいそと自転車を漕ぎはじめる。
 この辺、宮町か。小さい頃住んでたあたりじゃない。
「サンタさんたちも普通に道路走るのね」
「そりゃあね。僕たち宅配業者だから」
「宅配業者……? サンタさんとトナカイじゃないの?」
 振り返ったサンタは明らかに「はぁ?」と呆れた顔をしていた。
「あのね、これはコスプレ。クリスマスだからちょっとでもクリスマスらしい雰囲気出して世に貢献しようっていう企業のイメージ戦略。橇も、トナカイの格好も僕のサンタコスも、会社からの支給品」
「でも、自転車と橇って……」
 そもそも地上を行くサンタさんていうのも予想外だけど。
「最近エコ配達とかっていって自転車で近所回るの流行ってんだよ。自転車だと小回りきくしね。これはその延長線上の企画っていうか」
「とりあえず俺たちは寒いし、太ももは張るし、あんたのせいで荷台の重み半端ないし、いい迷惑企画ってやつ」
「それでもサラリーマンだからやめらんないんだけどね」
 なんていう現実感。天国のクリスマスサービス企画はどこ行った?
 でも、そうよね。考えてみたら、ほんとにサンタさんなんているわけないし。北欧から来たサンタさんが四丁目の高崎さんに中古のホームカラオケセット持っていくわけないし。よく見ればサンタの横にあるプレゼントの箱、綺麗にラッピングされてるけど某巨大ネットショップのロゴ入ってるし。荷台の中に積まれている味気ないダンボールなんてもろにそのロゴが印刷されてるし。
「ああ、この時期多いんだよね、このネットショップの注文。何でも注文できちゃうから子供用のクリスマスプレゼントからいい年した大人のホームカラオケセットまで。配達指定も仕事から帰れる夕方以降の時間だし」
「ああ、だからこんな時間から走ってたのね。サンタさんなら誰にも見られないように夜中に動くはずだもんね」
「まるで泥棒みたいな言い方すんなよな」
「まあまあ、トナカイ。ほら、黄色になるぞ」
 ちょっと不機嫌になったトナカイは運転は丁寧にちょっとずつブレーキをかけて、赤信号とともにきっちり停止線で停止する。
「で、四丁目の高崎さんちはどこだよ?」
「それがさー、この道路をあそこの蕪木酒店から右に曲がって、宮町小学校の脇通って……」
「ねぇ、四丁目の高崎さんって、もしかして高崎すぐるさん家?」
 サンタの脇の小荷物を覗き込むと、あて名シールには見覚えのある名前が印字されていた。
「知ってるの?」
「うん、たぶん。宮町公民館の隣の隣の床屋さんだよね? 昔、お父さんと通ってたことがあるの。お店に行くとね、カラオケセットが置いてあって、いつもおじさんとおばさん二人でデュエット披露してくれるの。お客さんもカラオケ目当てで行ってる人もいたりして、わたしも学校で覚えた歌うたうんだ。うまく歌えるとオレンジのペロペロキャンディーくれるの。なんだけどね、名札の傑の字がどうしても名前で読めなくてね……」
「トナカイ、宮町小学校の脇抜けて左に曲がって三件目の高崎理容店だ」
「聞けっ。人の話を最後まで聞けっ」
 わたしが喚いている間に、橇は鈴の音をさせながら右折し、懐かしい宮町小学校の脇を通り抜け、赤と青と白の渦巻きが回転する理容店の前に止まった。
 白くて四角い建物は記憶のままだったけれど、いくつか壁にひびが入ったり下の方が薄汚れたりしている。曇った窓ガラスの向こうでは、すっかりおじいちゃんになったおじさんが近所のお客さんの髭を剃っていた。
 おじさん、まだ元気だったんだぁ。ずいぶんおじいちゃんになっちゃったな。当たり前かぁ。最後に会ったのはもう二十年も前になっちゃうんだもんね。わたしのことなんて覚えていないだろうなぁ。あれ、でもおばさんはどうしたんだろう? 昔は二人一緒にお店に立っていたと思ったのに。
 お客さんは髭剃りが終わって会計を済ませて外に出てくる。特にわたしたちに目をやるでもなく通り過ぎていくのを見送って、サンタはいそいそと例のホームカラオケセットの入った段ボール箱を小脇に抱え、橇から降りた。玄関にまわるのかと思いきや、そのままお店の入り口から入っていく。カランカランと懐かしい鐘の音がして、「いらっしゃいませー」と迎えるおじさんの声。柔和な笑みでサンタは箱を渡し、お店から出てくる。
 おじさんは何か気になったのか、すぐにその箱を開け、中から出てきたホームカラオケセットを取り出し、抱きしめて泣きだした。
「よし、配達完了っと」
 サンタは御者台に乗り込み、一つ伸びをする。
「あれって、昔お店に置いてあったカラオケセット?」
 まさかと思って問いかけてみる。
 サンタたちは何も言わない。
「ねぇ、おばさんは? おばさんの姿が見えないけど?」
 サンタはやっぱり何も言わない。
 かわりにぼそりとトナカイが口を開いた。
「あそこの奥さん、確か十年前に癌で亡くなったよな。そのあと店の経営も苦しくなってカラオケセットとかいろいろ質屋に流して……」
「トナカイ、行くぞ」
 サンタの一言にトナカイは肩をすくめて自転車を漕ぎだす。
 中古って言ってたけど、質屋さんに流しちゃったのと同じものだろうか。でも某巨大ネットショップの箱に入ってたし、生活に余裕ができて同じものを注文でもしたんだろうか。
「僕たちはただの宅配業者だからね。中身が何かなんて分からないんだ。いちいち箱を開けて確かめたりしないからね。分かるのはあて名シールに書いてある大雑把な品目だけ」
「お前、さっきその箱開けてただろうが。ったく」
「えへっ」
「えへじゃない。信用問題にかかわるだろうが。で、次はどこだよ」
 口の悪いトナカイは適当に道を走りながら次の目的地を求める。
「あ、わたしこの辺なら詳しいよ? 小学校四年生の時までそこの宮町小学校に通ってたから」
 気まずい感じを払しょくするように明るくわたしは身を乗り出す。
「んー、次は宮町じゃないんだよなぁ。とりあえず西に向かってくれ」
 橇はシャンシャンシャンシャンと小気味いい鈴の音と同時に、ガタガタガタと不格好な音を立てながら心もとない街灯の下を小道を探りながら進んでいく。
 サンタは荷台の奥の方からやや細長い箱を取り出した。ちらちら瞬く街灯が照らし出したあて名シールに書いていた品名は望遠鏡。
「へぇ、次は望遠鏡? 星好きなのかな。わたしもね、星大好きなんだよ。小さい頃、お父さんがいろんな星座教えてくれたの。オペラグラスも買ってくれたの。って、またあんたたち聞いてないわね」
 貧乏だったから双眼鏡は買ってもらえなかったけど、あの時クリスマスプレゼントに買ってもらったオペラグラスは今でも大切に使っている。
 そういえば、さっき落ちた時にオペラグラスも一緒に落ちてしまったんだろうか。
「次は鍵町の林崎さんとこのくそガキだ」
「林崎さん?」
「そ、林崎総司さん」
「え……」
 それって、お父さんと同じ名前じゃない。それも鍵町って、お父さんがいるはずの町の名前だ。でも、お父さんはもうくそガキなんて言われるような年じゃないはずなんだけど。
 ああ、そうか。
 あの時の子か。
『紗千恵、別れてくれ』
 あれはちょうど二十年前のクリスマスイブの夜だった。
 お父さんの浮気でお母さんとお父さんが喧嘩して、お父さんが家を出たのが十二月二十四日。ダイニングテーブルにはローストチキンとクリスマスケーキがのっていたけど、結局冷めても温めることもできず、そのまま食べることはできなかった。
 年末、冬休みに入っていたわたしは、友人たちに別れを告げる間もなく母とともに宮町から弥勒町に引っ越した。今思えば、すでにアパートも決まっていて、母は初めから父と別れて引っ越すつもりだったんだと思う。父が出ていかなければ母が出ていっていたのだろう。その時にはお父さんの浮気相手にはすでに男の子が宿っていた、と。
 サンタさんが呼び鈴を押して、お決まりのピンポーンという間延びした音がすると、一つ二つ間をおいて「はーい」というどこかで聞いたことのある男の人の声が聞こえてきた。
「え、あれって……お父、さん?」
 トナカイは明後日の方を向いたままぐびぐびと栄養ドリンクを飲んで束の間の休憩を謳歌している。
 クリスマス電飾の華やかな家の玄関が開いて、中から一人のおじいさんが出てきて後ろ手にドアを閉めた。サンタさんから望遠鏡の箱を受け取っている。
 あれが、お父さん。ずいぶん老けたなぁ。髪も真っ白になってだいぶ薄くなっちゃって。そりゃそうか。もう六十になるんだもんね。
 と、お父さんはひょいとサンタさんの後方三メートルほどにいたわたしに目を向けた。
「今は望遠鏡も買えるようになったんだね」
「ああ、これは小さい頃になくした……え……歩、佳?」
 お父さんは幽霊でも見たように目を丸くした。
 わたしは荷台の上から飛び降りて、サンタさんとすれ違いながらお父さんの前に立つ。
「うん、久しぶり」
 ああ、やっぱりお父さん見られちゃまずいところを見られたような顔してるよ。荷台に戻ろうかな。
 だけど、お父さんはきょろきょろとあたりを憚った末に小さな声で尋ねてきた。
「歩佳、お母さんは……?」
「五年前に」
 過労が原因であっけなく死んでしまった。
 日夜顔を合わせる暇もないくらい働いていた。帰るのはいつも真っ暗で冷たいアパートの部屋だった。玄関を入ってただいまと言っても誰もお帰りと言ってくれない。一度だけ、帰りが母の帰宅と重なって一緒にただいまを言ったことがある。その一度きりだ。
 暮らしがきつかったからとか、わたしに貧乏な思いをさせないようにっていうのはもちろんあったんだと思う。でも、今思うとお母さんは仕事に逃げてたんじゃないだろうか。家になかなか帰ってきてくれなかったのも、お父さんが帰ってこない家になんか帰ってきたくなかったからじゃないだろうか。もちろん、仕事に生きがいを見出してくれていたのなら言うことはないけれど、甲斐あるもので人は死ぬだろうか。
「そう、か。歩佳、俺の口から言えた義理じゃないが……歩佳、お前は幸せになってくれ」
 もし五年前だったら、この人から幸せになってくれなんて言われても「無責任!」と詰ることしかできなかっただろう。でも今は――
「ありがとう」
 何とか微笑むことができた。
 詰る元気ももうなくなっていたからかもしれないし、一度した選択で後戻りできなくなって後悔を抱えたまま生きている人もたくさん見てきたからかもしれない。人生一筋縄じゃいかないから。昔わたしとお母さんを捨てた人だけど、今わたしの前から逃げず、わたしの幸せを願ってくれたその言葉に嘘はないように見えた。
「お父さんもお元気で」
 天体望遠鏡の箱を抱きしめたお父さんに、わたしは思い切って背を向けて橇に戻った。
「林崎さんとこのくそガキへの配達完了っと」
 サンタが鈴を鳴らしてトナカイが自転車を漕ぎはじめる。
「そう言えばまだ自己紹介してなかったね。わたしは佳い方に歩む、で歩佳っていうんだ。お父さんがつけてくれたんだよ」
「この人、またいそいそと橇に乗ってきちゃったよ」
「それもわざわざ荷台の上に登っちゃって」
 はぁーっと二人そろってわざとらしい溜息をもらす。
「ちょっと! あんたたち人の話聞いてんの? わたしが自己紹介してるんじゃない。二人とも名前くらい教えてくれたっていいんじゃないの?」
 トナカイはわざわざ振り返り、わたしを一瞥してさらに溜息をつく。サンタは振り返りもせずに肩を落として溜息をつく。
「やだやだ、さみしい独身三十女は何でもかんでも過去の思い出と結び付けようとするんだから」
「なんか言ったぁ? トナカイ!」
「恐ぁっ」
「まぁ、ね。現在に思い出になるようなものが何一つなければ、そりゃあ昔はよかったって昔話ばかりするようになっちゃうよね」
「ちょっとサンタ、人をおばあちゃん扱いするのやめてくれる?」
「気にするこたぁねぇよ。肉体年齢はどうあれ、精神的にはすっかり疲れて擦り切れたおばあちゃんだから」
「トナカイひどっ。そりゃあいろいろと疲れは溜まってるけど……」
「さぁて、次は多賀町の後藤さんちか」
 ほんっと人の話最後まで聞かないんだから、と憤慨したのも束の間。
「多賀町の後藤さん?」
「そ、婚約指輪を届けに行くんだ」
「婚約、指輪? そんな……だって後藤さん、彼女はいないって……」
 多賀町に後藤さんなんてたくさんいるだろう。でも、今わたしが思い浮かべたのはたった一人だけだった。
「なら自分の目で確かめてみれば?」
 今までのどの箱よりも小さい箱を手のひらに乗せたサンタが他人事のように軽く言う。
   わたしはサンタの手からその小箱をひったくり、あて名を確かめた。
 後藤ひらく
 ビンゴだった。
 職場の先輩。ずっと、片思いし続けてきた人。
「この新築アパートの206号室だから」
 トナカイが自転車を止めたと思うと、サンタはわたしから届け物を取り返すどころか、むしろ届けて来いと目で優しく微笑んだ。
 荷台から降り、わたしは両掌の上に乗せた小さな小箱を見つめる。
 それからおもむろに鷲掴みにして振り上げた。
「投げちゃだめだぞー」
 何をしようとしたのか察したサンタがさりげなく釘を刺す。
 わたしは後ろを振り向いてサンタとトナカイに「いーっ」をした後、勢いをつけてアパートの階段を上った。
 206号室は二階の一番奥の部屋だった。部屋に近づくにつれ、ローストチキンの香ばしい匂いが漂ってくる。廊下側に面したすりガラスの窓には柔らかい明りとともにこちらを向いた女性のシルエットが映っている。お玉をもって何か味見をしているようだ。
 背丈は普通。体型も普通。髪は長いらしく後ろで一本に束ねて肩から胸へと流しているのがぼんやりと見える。顔は見えなくてもいかにも家庭的な雰囲気が漂っていた。
 わたし、この人に負けたんだ……。
 負けた?
 違うか。それってただの負け惜しみだ。
 後藤さんの中では同じ土俵にすら立たせてもらっていなかったのかもしれない。
 いつもはぐらかしてばかりいたくせに、いたんじゃん。彼女。というか、もう奥さんか。
 ピンポーン。
 ここの呼び鈴はありふれた鐘の音だった。
 部屋の中から「誰か来たよ」と奥さんの声がする。「俺が出るよ」と聞きなれた後藤さんの声が続いた。
 無理だよ。
 素直におめでとうって言わなきゃならないんだろうけど、わたしには無理。そんなこと、今すぐ面と向かってなんて言えない。
 そもそも私がここにいる理由を、それも大切な届け物を持っている理由をどう説明すればいいの? 後ろ暗いところなんてないはずなのに、まるでわたしがストーカーになってここを見つけて配送物まで漁りだしたみたいじゃない。
 そうだ、この小ささだもの。郵便受けに入れてしまおう。
 「はーい」という後藤さんのやけにリラックスした声とともに足音が近づいてくる。
 わたしは急いで郵便受けの蓋を開けようとしたけれど、ナンバーロックがかかっていて開けられない。仕方がないから蓋の上にちょこんと箱を乗せて、ガチャっという扉が開く音とともに206号室に背を向けてダッシュで廊下と階段を駆け下りた。
「あれ、おかしいな。誰もいない。……ん? ああ、ったく、こんなところに置いて行って。今度の宅配業者はダメだな」
「何か届いたの?」
 二階の廊下には箱を開ける音に続いてがさがさとラッピングをはがす音が響く。
 あれ? 奥さんに渡す前に開けちゃうの? かっこつけて指にはめてあげるにしても、ラッピングは奥さんに開けさせるものじゃないの?
 続いて横たわる沈黙。
「これ、母さんが父さんからもらった婚約指輪じゃないか……?」
「お母さんの?」
「ああ。このブルーダイヤ、綺麗だろ? 母さん、この指輪は拓のお嫁さんに受け継いでもらうんだって言ってたんだけど……俺、小さい頃好きな女の子にこの指輪渡そうとして外に持ち出して、排水溝に落としちゃったんだ。すぐ流されて見えなくなっちゃって、怒られると思って帰ったんだけど、母さん怒るどころかすごくがっかりしちゃって。――中に彫ってある名前も間違いない。母さんのだ」
 あとは聞かずにわたしはアパートの軒下を離れた。きっとそのお母さんのお気に入りの婚約指輪を彼女の渡すのだろう。
「最後まで聞かなくてもよかったの?」
 サンタが心配そうにわたしを見ている。
 心配ならわたしにわたしになんて行かせなければいいのに。
「聞かなくたってこの後の展開は見えてるでしょ」
「そうかなぁ。台所の女性は妹か何かで、あのままあんたが渡しに行ってたら、もしかしたら今頃あんたの薬指にはまっていたものだったかもしれないのに」
 わたしはぎろりとトナカイを見た。
「そういう夢みたいなことは妄想も空想もしないことにしてるのよ。恋に関しては都合のいい想像をしても、想像した時点でそれは現実にはならなくなるから」
「何そのジンクス。自分で可能性狭めてるだけじゃないか」
「いいの。もうどうせ死んじゃってるし、なんとも思われてないのはわかってるし」
 トナカイとサンタは顔を見合わせ溜息をつく。
「次、行こっか」
 サンタが促すと、トナカイは無言で頷いて自転車を漕ぎはじめた。
 わたしは後ろを振り返らないように荷台に顔をうずめた。
 楽しげな声も聞こえないように耳もふさいだ。
 涙は出てこなかった。いや、トナカイが風を切って橇を走らせるものだから、風が目に染みて涙は出てきたけど、これは決して失恋の涙じゃない。
 失恋した実感を味わう余裕もなかった。ただ胸に重いつかえがどっしりと居座っている。これが失恋の痛手だというんなら、今まで味わったどの痛手よりも心が死んでいる気がした。
「どれくらい好きだったの?」
 前を向いて律儀にベルを鳴らしながらサンタが尋ねる。
「さあ」
 わたしは押し殺した声で短く答えた。
「さあ?」
「もう好きなのか嫌いなのかもよくわかんなくなっちゃってたから」
 誰かが気になり始めるといつもそうだ。気になって好きになって、時とともに思いはこじれて憎しみさえ湧いてくる。いつももてあましているうちに、物理的に離れて終わりの時が来る。結局、わたし一人で盛り上がってわたし一人で終わっていく。いつまでたっても子供みたいにそんなのばかりだ。ちょっと優しくされればすぐその気になる。たとえうまくいきそうになっても、結局いつか愛想をつかされるんじゃないかと信じ切れずに次に踏み込めない。そうこうしているうちに、恋のチャンスは遠ざかってしまう。
「馬鹿みたいでしょ。一人で好きになって一人で諦めて一人で傷ついて」
「強がらなくていいんじゃない? 自分の想いを大切にするって大事なことだよ」
 はたとわたしは顔を上げる。
 わたしは今まで自分のこの想いを大切に思ったことがあっただろうか。
 想いに振り回される自分が嫌でうっとうしくて、わざと後藤さんにも冷たくあたったりかわいくもないことばかり言っていたんじゃなかっただろうか。
 素直じゃない。
 誰に言われたんだっけ。それこそ後藤さんだったっけ。最近は自分でも自分にそう言ってる。素直じゃない。かわいくない。こんな自分じゃ、後藤さんが振り向いてくれるはずもない。
 反省はしているのに、なぜか後藤さんを目の前にするとかわいくない自分になっている。反省はいつの間にか自分への否定になっていて、そもそもこんな想いを抱いていること自体が悪いんだと、責めてばかりいた。
 自分のことすら大切にできない自分が、誰かのことを大切にできるものか。
 よくそう言う人がいるけれど、そういうことなのかな。相手にかける自分の想いをないがしろにしてちゃ、相手もないがしろにしているようなものだ。
 今更ながら申し訳なくて涙が出てきた。
 何が申し訳なかったかって? 後藤さんに対してかもしれないし、自分に対してかもしれない。
「次は……大切にできるかなぁ、自分の想い」
 鼻水をすすりながらようやくわたしが呟くと、サンタはちらと振り返って青い目でわたしを捉えた。
「次じゃないよ。今この瞬間から自分のこと大切にしていくんだよ」
「今、から?」
「そう。難しいなら毎日が練習だと思えばいい。自分のことを大切にする練習。一日一回、自分にありがとうを言うだけでもちょっとずつ自分を大切にする心を育てられるんじゃないかな、なんて」
「自分を大切にする心を育てる……」
 鸚鵡返しに呟くと、サンタはよくできましたとばかりに微笑んで前に向き直った。
 わたしの心の真ん中には何かがほっこりと灯ったような気がした。
 こいつ、まさか本当のサンタなんじゃないだろうか。
 気のせいか信号待ちの間ちらちらこちらを見てきたトナカイも、今はにやにや笑ってるし。
「次はどこに行くの?」
 わたしは袖でぐいっぐイット目元を拭って、口元に笑みを浮かべてサンタに尋ねた。
「そうだなぁ、次はここから一番近いところだと……清水町かな」
「清水町」
 わたしがさっき落ちたマンションのある町だ。
 行くと、もしかしてわたしの死体とご対面とかいう事態になるんだろうか。少なくとも今頃救急車やパトカーが来て大騒ぎになってるよね? いくらみんなイブのデートだからって、一人くらい帰ってきて貧乏くじ引いちゃう人がいるよね?
「ねぇ、わたしって、死んで……るんだよね?」
 顔色を窺うように訊いたわたしに、サンタとトナカイは顔を見合わせた。
「どっちがいいと思う?」
「そりゃやっぱ真実を教えてあげるべきなんじゃないだろうか」
「いや、でもそれはやっぱり……」
「もう、どっちなのよ!」
「やだやだ、三十路すぎると結論も人も待てなくなるのかね。そんなにせっかちに生き急いだって何もいいこたねぇよ?」
「そうそう、短気は損気って昔から……」
「死んでるのかどうか事実を言うだけでしょ!」
「だって昔から告知には最善の気を払えって言うだろ」
「告知って何よ。やっぱり死んでるのね。いいわよ、それならそれで!」
「死んでる人に今から自分を大切にする心を育めなんて、僕言わないよ?」
 ふんっとそっぽを向いたわたしに、サンタは困ったような微笑を浮かべて言った。
「え、わたし死んでないの!?」
 わたしがまたサンタたちの方に身を乗り出した時だった。
 キキーッとブレーキの音がして、ガリゴリと道路を削るような音がした。はっと顔を上げると、前方の交差点で歩道を渡ろうとした一人の男性が車に追突され宙を舞っていた。
 思わず息をのんだわたしたちの前、正確にはトナカイの自転車の前輪脇に男性は落ちた。
 キャーなんて悲鳴は出なかった。
 目だけが事実を追っている。
 男性を引いた車の赤く転倒していたブレーキ灯は消え、アクセル音がして白いセダンは交差点の向こうへ逃げ去っていく。
「ひ、ひき逃げ!? ひき逃げだーっ」
 どこかの誰かが叫んでいる。だけどわたしは恐くて体が竦んで、荷台から飛び降りて男性の救助に向かうことはおろか、ひき逃げした犯人を糾弾する悲鳴を上げることさえできなかった。
 がくがくと体のどこからか震えが湧き上がる。
 見る間に仰向けに倒れた男性の後頭部からは血が流れ出し、雨上がりの水溜まりよりも大きな血溜まりを作っていく。
 でも、何より恐ろしかったのは、男性の目が開いたまま宙を見ていたことだった。
 目が合ったらどうしよう。
 さっきまで自分は死んだもんだと思っていたくせに、弱いものだ。現実の方がこんなにも恐い。
 自転車から降りたトナカイが男性の瞼を閉じる。
 サンタが男性の首元に手を当てて脈を探る。
「歩佳さん、この人知ってる?」
 心臓マッサージを始めたサンタが切羽詰ったように尋ねる。
「え……知ってるかってそんなこと……」
「そんなとこにいないでこっちに来て顔確かめろよ」
 トナカイにどやされて、わたしは恐る恐る荷台を降り、一歩一歩死相の色濃い男性に近づく。
 そして息をのむ。
「陽彦君……」
 それは、わたしの住むマンションの向かいにある一軒家の家の主だった。どうして知っているかって? それは幼馴染で小学校の時の初恋の人だったから。ちなみに、夕方おいしそうなシチューの匂いをさせていたのは、宮町小時代親友だった喜和ちゃんだ。
 冬休み中に転校してしまったから、さよならも言えずに別れてそれきりになってしまった二人。小学校時代、三人で遊んだ記憶はない。学校にいるときは喜和ちゃんと、帰ってからは陽彦君と遊んでいたはずだから。まさかわたしが転校していなくなった後、接点などなかったはずの二人が結婚に至るまでの深い付き合いになるとは思わなかった。
 わたしが彼らの住む一軒家の向かいのマンションに引っ越してきたのは偶然だ。
 引っ越してきて買い出しに行った近所のスーパーで、仲睦まじく子供たち二人をカートに乗せて晩御飯の買い出しをしている二人を見かけて、それで知ったのだ。
 声はかけなかった。かけられなかった。
 黙っていなくなって手紙の一通も出せなかったわたしが、今更どんな顔をして二人に会えるだろう。二十年も経っているのだ。二人ともわたしのことを覚えていないかもしれない。わたしは二人が名前を呼び合っているのを聞いて、さらに二人の子供たちの顔を見て直感したけれど、今のわたしがあの時のあゆちゃんだった証拠なんてきっともうどこからも見いだせない。
「今度のあて先は吉川喜和子。宅配物は……歩佳さん、あなたです」
 サンタの言葉にわたしは目を見開き、気づけばすぐ横にある彼らの一軒家の玄関に目を向けた。
「分かるだろ、この状況。今すぐそこの呼び鈴鳴らして奥さん呼んで来い!」
「わたし、が?」
「そうだよ。他に誰がいるの。この人があそこの家の人だってわかる人が」
 それは、そうかもしれないけれど。
「昔お別れも言えず一度も手紙も出せなかった親友に顔を合わせるのが気まずいって? んなこと言ってる場合か! 早く教えてやれ。せめて死に目にくらい会わせてやるのが人情だろ」
 死に目?
「陽彦君、死ぬの? 死んじゃうの? このまま?」
「トナカイ、言い過ぎだ」
「だってこれ見て助かるって誰が思う? 救急車なんて間に合わねぇよ」
 トナカイが辺りを見回す。
 クリスマスイブの交差点は人一人が轢かれても、現場を避けるように車はまだ行きかっている。でもさすがにスピードは出せないらしく、赤信号でどんどん車が溜まっていく。
「助けなきゃ……助けるのよ! トナカイ、自転車を漕いで。サンタ、陽彦君を荷台に乗せるから手伝って」
「え、何言ってんだよ。自転車ったってこのでかい橇引いてこの渋滞すり抜けられっかよ」
「そうだよ。それに素人が動かすのは危険だよ」
 あわあわと二人は言い出すけど、わたしは毅然と言ってやった。
「知ってるのよ、わたし。この橇がただの橇じゃないって。高崎さんがいた宮町四丁目、お父さんがいた鍵町、後藤さんがいる多賀町。どこもかしこも車でニ十分以上かかるところばかりじゃない。鍵町なんて山越えた隣県だし。そこをまるで同じ町内を走るみたいにものの十分足らずで移動して。坂道も何もなかったじゃない。できるんでしょ? ワープでも空間移動でもなんでも!」
 恐れをなしたように二人は無言になる。
「ああじれったい。いいわよ、トナカイ、あんたが漕がないならわたしが漕ぐわ! 今一番大切なのは、わたしが喜和ちゃんに再会することじゃなくて目の前の命を救うことでしょう!?」
 トナカイを押しやって自転車にまたがろうとしたわたしの腕を、サンタが引き留めた。
「歩佳さんが漕いだってただの重い自転車だよ」
 青い目が真剣にわたしを覗き込む。
「じゃあどうすればいいの!」
「そうヒステリックに叫ぶな。一つだけ方法がある。――サンタ、」
 諦めたようにトナカイはため息をついてサンタに話を振る。
「この橇の荷台には宅配物意外乗せちゃいけないことになってるんだ。歩佳さんも宅配物だったから黙って乗せてたんだけど……」
「だからつまりな、俺たちに依頼しろ。こいつを運んでくれって、仕事を依頼するんだよ」
 中古のホームカラオケセット、なくしたはずの望遠鏡、母親が落としたはずの婚約指輪。それにわたし。
 彼らが届けているものは普通の宅配物にしてはおかしなものばかりだ。
 この人たちが届けているのは、そう、きっとそのまんまズバリ昔なくしてしまった大切なもの。
「陽彦君を運んでちょうだい」
「送り先は?」
「吉川喜和子さんとその子供たちのところに」
 わたしの答えに迷いはなかった。
「病院じゃなくて?」
「病院につくだけじゃだめなの。ちゃんと陽彦君のことを一番大切に思っている喜和ちゃんたちのところに元気に帰れるようにしてほしいの」
「……わがままな」
 トナカイは毒づいたけど、わたしは怯まなかった。
「壊れてるところがあったら直して届けてくれるんでしょう?」
 ふっとサンタは笑う。
「わかった。その依頼引き受けるよ」
 快くサンタが答えて、陽彦君の身体を両腕に抱え上げ、荷台の中に横たえた。
 わたしはホッとしつつもまた別のことでどきどきしはじめる。
「お代は?」
「そうだな。この人を運ぶと、僕たち歩佳さんのことを配達完了できないんだよね。そこ、黙っといてもらうのと、歩佳さんを運ぶ残りの送料分、自分で行ってもらえる? 今すぐに」
「それで、いいの?」
「あんたの配達料、結構高いのよ? 落ちてきたとこキャッチしてから色々経由しての配達だから。特に最後、送り先の人に受け取ってもらうってのはもう今日の一大イベント」
 トナカイがにやりと笑う。
 やっぱり、全部予定通りだったんだ。もしかしたらわたしが落っこちるところから。
「それから、配達先の人たちに一目でも早く届けてほしかったら、彼女たちを救急のある病院に連れてきて。その方が確実でしょ?」
 にやりとサンタも笑う。つられてわたしもにやりと笑った。
「わかった。すぐ知らせに行くわ」
 サンタが一つ頷いて鈴を手に握る。
「じゃあね、歩佳さん。よいクリスマスを」
「ありがとう。サンタとトナカイも元気で」
 トナカイが自転車のペダルを漕ぐと、橇は音ひとつ立てずに月が昇りはじめた冬の夜空へと滑り出した。
 ETだ……なんて無粋なことは言わないことにしよう。これが、クリスマスの奇蹟ってやつなんだ。あいつら、きっと本当に本物のサンタとトナカイだったんだ。
 それからわたしは吉川家の玄関前に立った。一つ躊躇ってからインターホンのボタンを押す。某コンビニと同じ玄関チャイムの音がして、目の前のカメラ付きのインターホンから女性の声が聞こえた。
「どちら様ですか」
 やっぱりわたしとは気づいていないらしい。突然の見知らぬ来訪者に身構えた固い声だ。
「槇瀬歩佳です」
 先に名乗るか、陽彦君の急を告げるべきか。正直迷ったけど、先に名乗ったのは喜和ちゃんに陽彦君の急を信じてもらうためだった。
 わたしを届けて、喜和ちゃんに受け取ってもらうまでがサンタとトナカイの仕事だったはずだ。ということは、いずれわたしのことを思い出してもらえる目算があってのことだったはずだ。
 沈黙が続く。
「あの、喜和ちゃん、だよね」
 思い切ってわたしは彼女のことを呼んでみる。
 しばらくして、ガチャリと音を立てて玄関の扉が開いた。
 喜和ちゃんは不信感丸出しで警戒した顔をしていた。
 そりゃそうだ。きっと思いもかけない名前だったはずだ。
 目が合う。喜和ちゃんはじっとわたしを見つめる。わたしは……視線を受け止めきれずに口を開いた。
「あの、ね。あの時はごめん」
 一息に謝罪の言葉を押し出す。
「何しに来たの?」
 表情はそのまま、喜和ちゃんの口からはこわばった声が漏れ出る。
「二十五日のクリスマス会も無断欠席しちゃったし、初詣一緒に行こうって言ったのに行けなかったし、……さよならも言わずに転校して、手紙も書けないまま年ばかり経っちゃって、本当にごめん」
 喜和ちゃんの目が少しばかり見開かれる。だけど、喜和ちゃんは何も言わずに玄関の扉を閉めようとした。
「待って! 許してくれなくていいけど、これだけは聞いて」
 がっと足を玄関扉の隙間に挟んでわたしは残りの隙間に上半身をねじ入れる。
「許してくれなくていい? 違うわ。謝るのは私の方よ。あゆちゃんが陽彦君のこと好きだって気づいてたけど、わたし……」
「え?」
「怒ったんでしょう? 私と陽彦君がお付き合いしてたって知って。だから転校するときも何も言わずに行っちゃったんでしょう? 手紙も書いてくれなかったんでしょう?」
 喜和ちゃんはぎゅうぎゅうと玄関を閉めようと扉を引っ張る。
 わたしは目を白黒させながら、それでも諦めずに扉の間に挟まれていた。
「付き合ってたって、どういうこと? だってあれ、小四のときだよ? それにそんなに親しいところなんて見たことなかったよ?」
「学校ではあんまり話さないようにしてたから。からかわれたら嫌でしょ? それに、あゆちゃんの気持ちだってわたし知ってたし……」
「いやいやいやいや、いつの間に?」
「親同士が仲良しで、小学校四年生の夏に一緒に山にキャンプに行って、それで……」
 親同士の繋がり。それは……幼馴染っていったってわたしはただのご近所さんだっただけだもの、そりゃわからないわ。それも休みの間にそんなことになってたなんて。なのにわたしったら何も気づかずに……本当、鈍感もいいとこだわ。喜和ちゃんも相当悩んだろうに。小四といえども、恋はする年頃だもんな。両想いだってわかれば、小学生なりの付き合い方ってのがあったんだろうな。
「ごめん。全然気づいてなかった。わたしったら何にも気づかずに陽彦君、陽彦君って喜和ちゃんに言ってたのね。とっても困ったでしょ。いずれにしても謝んなきゃなんないのはわたしの方だわ。本当にごめん」
 ふっと玄関を閉めようとする力が弱まった。
 まだ怯えた顔で喜和ちゃんはわたしを見上げる。
「許してくれるの? わたし、あゆちゃんの好きな人と結婚したんだよ?」
「許すも許さないも、わたしが今まで好きになったのは陽彦君だけじゃないんだよ? むしろ、喜和ちゃんが陽彦君と幸せそうにしてるの見て元気そうだなって思ってたくらい」
「見て、た……? じゃあやっぱりあゆちゃんも私たちのこと知ってたんだ。ここに住んでることも、陽彦君と結婚したことも……」
「わたし二年前からそこのマンションに住んでるから」
 予想通りびくっと喜和ちゃんは怯える。
「偶然だよ、偶然。本当に偶然、喜和ちゃんたちのこと近所のスーパーで見かけて、帰り道も一緒になっちゃって。でも、ちゃんとお別れ言って別れられなかったからなんか気まずくて声もかけられなくて」
「私も、スーパーで何度かあゆちゃんのこと見かけたよ。でも確信もなかったし声もかけられなくて……むしろ、見つかるのが怖くて隠れてたくらいで……」
「喜和ちゃんもわたしのこと気づいてたの?」
「うん」
 気まずそうに喜和ちゃんが返事をした時だった。奥の方から男の子が駆けてきた。
「ママー、パパ帰ってきたの―? それともサンタクロースー?」
たすく、お客様だから奥に行ってなさい」
「お客様? あ、こんばんは」
 十歳くらいの男の子はにっこり笑ってお辞儀する。
「こんばんは」
 わたしもにっこり笑ってみせる。
 この子が十歳だとすると、あの時のわたしたちもこれくらいだったわけだ。まだまだ幼くて何も考えてないようにしか見えないんだけど、これでも当時はいろいろ考えてたはずなのよね。
 さて、と。
「喜和ちゃん」
「あ、とりあえず中に入ってお茶でも飲む?」
「ごめん、そんな暇ないの。冗談だと思わないでね。さっきすぐそこの交差点で事故があって、陽彦君が轢かれたの。救急に運ばれたから今すぐ会いに行く準備をして」
 え、と喜和ちゃんの表情がまた固まる。
「でも救急車の音も何もしなかったけど」
「救急車じゃ間に合わないから、近くにいた宅配屋さんが車に乗せて運んでくれてるの。だから早く!」
 喜和ちゃんは半信半疑ながらも家の中に戻って外出の準備をして子供たち二人を抱えて出てきた。
「あゆちゃんもこれ着て、これ履いて」
 わたしがとっておいたタクシーに乗り込むなり、喜和ちゃんは部屋着に裸足だったわたしに自分のオーバーと靴を貸してくれた。
 中央病院の救急には、果たして陽彦君が運び込まれていた。だけど、病院の診断によると外傷は擦り傷程度、軽い脳震盪を起こしているだけということで、その日のうちに恋女房と子供たちのいる家に帰された。
 わたしはというと、病院に着くなり高熱でぶっ倒れ、一晩入院を余儀なくされた。十二月の寒空の下、あんな部屋着で外に出るなんてと看護婦さんに笑われたが、ベランダから陽彦君が事故に遭うのが見えて、とごまかした。ちなみに壊れたはずのベランダの柵はちゃんと元通りになっていた。
 あれ以来、わたしはというと二十年ぶりの旧交を温めている。
「歩佳ー、あと十年たってもまだ独身だったら俺がもらってやってもいいぞー」
 あの時こそ無邪気に見えたが、今は生意気にしか見えない十歳の彼氏候補もできた。
「二十年早いわ」
「二十年たったら歩佳五十だろー。そうなる前に妥協って言葉覚えた方がいいぞー」
「なんですって?」
 ぎろりと睨むと、十歳の陽希はるきじゃなく五歳の桃が泣きだした。
「あー、桃、ごめんなぁ。俺の未来の嫁さん、厄年だからピリピリしてんだよ」
「やかましいっ」
「こら、陽希、好きな人には優しくしないと想いは通じないのよ」
「してるもーん。俺の愛は日本海溝よりも深いんだーい」
 気障なことを言ってるけど、手には日曜朝の特撮物の変身ベルト。ぐるんと腰に巻きつけて「へんしーん」と腕を回す。
「ごめんね、あゆちゃん」
「いいって、いいって」
 日常なんて思う方向に奇跡が起こることなんてない。サンタさんが彼氏を現物支給してくれることもない。だけど、あの日からわたしの生活は少し広がりが出たような気がする。余裕っていうのだろうか。さすがに陽希が大きくなるまでもう十年待ってる余裕はないけれど、心の中にわだかまっていたいろんなことに整理がついて、今はちょっと楽になれた気がする。
 あれからあのコスプレ配達業者に会うこともない。正月仕様とか、七夕仕様とか、ハロウィン仕様とか、他にいろいろとコスプレのしようもあるだろうに、他に一台として見かけることはなかった。
「やっぱり本物だったかな」
「何が本物だったって?」
 一年経って、わたしの横には一年前にはまだ出会っていなかった人が立っている。
「ううん、何でもない」
「そう? じゃあ、行こうか」
「うん」
 一年前に出会ったサンタさんやトナカイのようにかっこよくもなければとびきり若いわけでもないけれど、一緒にいて安心できる人。これからもずっと一緒にいられると思える人。仕事帰りに役所に婚姻届を出して着いた新居の玄関前には、某大手通販ショップのロゴが入った味気ない段ボール箱が一つ置かれていた。
「こんなとこに置いていくなんて、不用心な」
 旦那さんはそう呟いたけど。
「まさか……」
 わたしはバリバリと段ボールを破って蓋を開ける。
「オペラグラス?」
「やっぱり」
 一年前のあの時、わたしと一緒に落ちたと思われるオペラグラスだった。片目のグラスの色が若干茶色っぽいのは、もしかしてマンションから落ちた時にひびでも入ったレンズを交換してくれたからだろうか。
 わたしは思わず空を見上げ、いやいや、と家の周りの道路の暗がりに目を眇めた。
 シャンシャンシャンシャン。
 ガラガラガラガラ。
 すがすがしい鈴の音とともに懐かしいあの不格好な音が聞こえてくる。
「サンター、トナカイー、ありがとうー! メリークリスマース!」
 わたしは音のした方向へ思いきり叫んだ。
 姿は見えないけれど、きっと届いているはずだ。
 届いて、いるよね。
 ありがとうって。
「さ、中入ってお祝いのケーキ食べよっか」
「あ、ああ」
 わたしはレンズの色が微妙に違うオペラグラスを胸に抱き、玄関扉を開けた。
「ただいまー!」
「ただいま」
 二人でただいまを言って入る家。
 そこはもう、一人じゃない温かさに満ちていた。







〈了〉





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