槇瀬(まきせ)の恋




「最近、結婚より老後のこと考えるんだ」
 私は目を見開いた。それから言いたいことを呑みこむために思いっきりその人から顔をそむけ、窓の外の林立するビルの狭間の夕焼け空をねめつける。
 そんなこと笑いながら私に言わないでよ。馬鹿じゃない?
 六年もあなたのことが好きなこの私に向かって、そんなこと言わないでよ。
「それは……また……」
 ようやく吐き出した私の言葉に、あなたはははっと笑っている。
 笑わないでよ。
 そんな諦めたように笑わないでよ。
 ねぇ、私は出会った直後に一目ぼれしてから六年間、ずっとあなたのことが好きだったのに、あなたはちっとも私のこと気に留めてくれてなかったのね。よぅくわかったわ。この無神経野郎。
 それとなく伝えてたじゃない、好きですよーって。上手くはぐらかされたこともあったような気がするけど、何度も何度も諦めようとしたこともあったけど、だめなのよ。
 そう、だめなの。
 三年前、部署が分かれて、毎日顔を合わせることもなくなればようやくあなたから解放されると思ってたのに。醒めないのよ。逢いたくて逢いたくて仕方ないの。
 何度泣かせれば気が済むのよ。
 あなたは知らないでしょうけどね、夢に見てまで泣くのよ。
 馬鹿でしょ。
 だからもう、あなたに彼女ができるか、結婚してくれることによって強制終了してくれるしか、この恋には終止符が打てないの。内心びくびくしながらいつも探りを入れてたでしょう? 冗談まじりに。
 それなのに、結婚は諦めたって、私まで一緒に生き地獄に落とさないで。それじゃあわたしは一生あなたの虜のままになってしまう。
 ついこの間、あなたが年上の私の知らない女性と婚姻届を出す夢を見たわ。最近はだいぶ醒めてきたかなと思っていたのに、夢の中で私、必死にあなたに食らいついていた。そんな年上の女よりも私の方が若いわよ。子供も産めるわ。ねえ、どうして? どうして私じゃないの?
 あの夢を見て、私絶望したわ。
 ああ、私まだあなたのことが好きなのかって。
 でも、もう盲目じゃない。あの頃のように恋心だけで一生を決めるような結婚になんて突っ走れない。
 嫌ね、年をとると守りに入るってこういうことか。
 あなたと結婚したら、いろいろと大変な問題が山積みだってことも分かってる。故郷のお母さんたちのこととか、あなたの方が先に介護か必要になるかもしれないこととか、もし子供が生まれても子供が成人する頃にはあなた、とっくに退職しているとか。
 醒めた頭で、もうあなたとは結婚無理だなぁって思うの。
 私、それらの問題全部引き受けられるほど、もう若くないもの。恋の魔法はとっくに期限切れてるもの。あなたを選ぶくらいなら年下のかわいい彼を作りたいわ。
 ねえ、それなのにどうしてわたし、さっきからあなたのことばかり考えてるのかしらね。
 もう終わったことなのよって言い聞かせながら、どうしていつまでもしがみついているのかしらね。
 あなたに対するこの気持ちはもう、恋の燃えかす。ただの執着心。真っ黒い消し炭のようなただの屑。
 分かっているのよ。これは恋じゃない。ただ、あなたがあまりに無神経なこと言うから、悔し紛れに炭が赤く呼吸してしまっただけ。怒りなのよ、これは。
「あの、本当にもう結婚のことなんか考えてないんですか?」
 ここが職場じゃなかったら言ってやれたのに。
 目の前に、六年もあなたのことを好きな女がいたとしても、もう結婚する気にはなれないと? と。
 結婚、諦めたならあなたの戸籍、私にちょうだい。どうせもう一生使うこともないんでしょう? それなら、私にそれをちょうだい。最高の誕生日プレゼントだわ。
 ああ、私怖いな。やばいな。本当にストーカーみたい。どうにかしてよ、この執着心。
 あなたのことが好きなのは、多分生物的な本能なのよ。忘れられないのよ。いかに無神経でどうしようもない人でも、私にとっては最高の男なのよ。
 縋るのか? 私、縋ってみる?
 でも、ここじゃ駄目ね。
 人の目があるもの。
 私たちこれからまだ何十年もこの職場でやってかなきゃならないんだわ。
 まだ何十年も、私はこの恋に囚われつづけるのかしら。生理もなくなっておばあちゃんになっても?
 切らなきゃ。
 もう、ちゃんと切らなきゃ。
 自分ひとりじゃ切れないから、あなたに手伝ってもらわなくては。
 それくらいしてくれていいと思うの。
 死刑執行。してよ。
 間接的に手を下せないなら、もう直接下してもらうしかないのよ。
 六年、か。
 知ってるわよ。最近、あなたに会うのが怖いの。毎日会うわけじゃないから、変化が如実に分かるのよ。
 ああ、年取ったなぁって。
 老けたかなぁ、なんて。
 思いたくないのよ。本当は。じわじわと実感となって、わたしがショックを受けて落ち込むから。
 嫌ね。年をとると呑みこむ言葉が増えていく。たくさんの思いを呑みこんで、表面だけ繕って、心なんかもうタールで真っ黒くなって、吐き出されなかった言葉が体まで真っ黒に侵食していくんだわ。だから人は年をとると忘れるのね。いろんなことを忘れないと、真っ黒になって重くて身動きが取れなくなるから。悔しかったことも嬉しかったことも、楽しかったことも怒りを感じたことも、全部呑みこんで、真っ黒になって死んでいくんだわ。真っ黒になっているとも気づかずに。
 私に若さなんかもう残ってないわよ。六年前とは違うの。
 それでも、私はこの重い体を引き上げないとならないわね。
 あなたへの鎖を断ち切らないと、きっと私は不幸なまま。私に思いつづけられるあなたも、気づかないかもしれないけど不幸なまま。
 いいでしょう。これが最後の若さよ。全部、ぶつけてやる。
 恥も外聞もなく、全部、全部、聞きたいこと全部聞いて、言いたいこと全部言ってやる。
 この、怒りを。やりきれなさを。切なさなんて通り越してこのショックな思いを、全部あなたに返してあげるわ。
 でもどうしてだろう。
 想像すると、私は泣いているような気がする。泣きながら、尋ねるの。
「目の前に、あなたのことを六年も好きな女がいてもですか?」
 って。
 泣くでしょうね。泣いて、あなたはきっと困った顔をして、終電だからって言ってさっさと私を残して帰ってしまうんだわ。
 あなた、そういう人だもの。
 自分を守ることに老獪になってしまっているんだもの。
 でも、今度こそ、それがあなたの返事なのだと、私は自分につきつけなければならないわね。
 あなたが自分の考えを整理するために一度帰った、とか、そんな都合のいいことを考えるのはもうやめにしましょう。馬鹿みたい。泣いてる女残して帰るとか、どういう神経よ。そうね、そんな無神経野郎、こっちから願い下げだわ。最低な男として私の記憶にしっかり刻みこんであげる。
 でも、できるなら言葉で伝えてほしいの。
「ごめん、応えられない」
 って。
 態度なんていくらでも記憶の中で加工されてしまうのよ。遠回しな言葉もだめ。短く、分かりやすく、優しい言葉など一切差し挟まないで期待などできない言葉だけを使って、はっきりと、私に伝えて。
 その時、ようやくわたしは息がつけるわ。
 長かったこの恋に決着がつけられる。つけてみせる。
 学生時代に失恋した時のように、半年でも一年でも抜け殻になって、あなたのことを視界から徹底的に排除して。昔好きだったただの先輩だと思えるようになるわ。
「最近、結婚より老後のことを考えるんだ」
 いいわ。
 一瞬だけあなたに結婚を考えさせてあげる。
 老後のことじゃなく、命を紡ぐ未来のこと。
 まあ、あなたのことだから私との未来なんて考えられもしないでしょうけど、「無理」って思うのも、結婚のことを考えたことになるでしょう?
 私からすれば、諦めてその身を差し出してほしいところだけど、そうもいかないでしょうから。
 先輩。
 私、先輩にとって何の影響も与えられない女でしたか?
 老後のことを考える前に、「そういえば」って、思い出してももらえない存在でしたか?
 先輩、私はそれが哀しくて泣いているのです。
 あの日、あの時間まで六年間あなたに恋しつづけて執念の塊にまでなってしまった自分が、あまりに憐れで、ショックだったのです。なにも報われていなかったなんて、思いたくないでしょう?
 だから最後に一言聞いてやってください。
 帰る背中にぶつけられた力ない一言を、全身で甘受してください。
「馬鹿」
 もうそれで、今度こそ全てを終わりにしますから。



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