かぐや姫




 Fly me to the moon.
 私を月に、連れてって――


 彼女の歌声を聞いていると、私まで月に連れて行かれそうになる。


 無茶なお願いって分かってる。
 でも、聞いてほしいのよ。あなただから。
 一番我が侭な願いをあなたにかけるわ。
 あなたなら叶えてくれるって信じてるから。


 我が侭な女の歌。でも、私は好きよ。それだけ彼のことが好きってことだもの。それだけ彼のことを信じてるってことだもの。


「この歌ね、実は前ふりがあるんだよ」
「前ふり?」
 生演奏が聞けるからと誘われた瀟洒なバーで、チャイナブルーをかき混ぜていた私に彼は囁いた。
「そう。どんな思いでこの歌を作ったか、どんな思いでこの歌を歌うのか、彼女は恋人に囁く。簡単なことほど、どんなに言葉を尽くしても足りない気がするから」
「愛してる。その一言を伝えるために、この歌だってたくさんの言葉を使ってる」
 有名な曲だ。私でも知っている。
「思いの丈なんだね」
「そう、思いの丈。長ければいいってもんじゃないけど、溢れ出てしまったからといって不要なものになるわけじゃない」
 彼女のハスキーボイスが伴奏もないのに力強くステージを満たしていく。
 あなたのために作ったこの歌を歌うわ、と。
 この歌を聞けば、きっとあなたは私の想いを分かってくれるでしょう、と。
「分かりやすく伝えるわって言ってるのに、かぐや姫はやっぱり謎かけがお好きのようだ。だってそうだろう? 私を月に連れて行って。いきなりそんな無理難題を言い出すんだから」
「でもロマンティックだわ。『私』が崇め敬う人だもの。きっとそれくらい出来るって信じてるのよ」
「それにしたって木星や火星に春が来るはずなんかない。火星は二酸化炭素でいっぱいの大地だし、木星はガス惑星だ。大地すら見えはしない」
「あなたってほんと夢がないのね。いいのよ。木星に訪れるのがガスの嵐だろうが、火星に訪れるのが赤い砂嵐だろうが。要は珍しいものをあなたと一緒に見たいってことなのよ。あなたのことだもの、きっと本当に連れて行くとなったらまず宇宙服や酸素ボンベを用意するんでしょうね」
「当たり前だろう。生きていなけりゃどんな光景も見えはしないんだから」
「でも女はそんな男の真面目さに惹かれるわけ。真っ直ぐにしか考えられなくて、無理なのを承知でそれでも叶えようとしてくれる辺りに喜びを感じるのよ」
「In other words……つまり、ね。か……」
「ん?」
「言いたいことは三つだけ。手をつないで。キスをして。私を愛して。いや、究極的にはたった一つか。私を愛して。ただその一言を伝えたいがために」
「言葉を尽くす。彼女は詩人だから」
「彼女、か。知ってる? この歌の作詞者は男性だよ」
「え、そうなの?」
「そう、初演の歌い手は女性だったけどね。曲調も今とは随分違ったらしい。それがヒットしたのはちょうどアポロ計画の頃。この歌は月に持ち込まれたはじめの曲になったそうだ」
「本当に月に人が降り立って、もしかしたら自分も行けるようになるかもしれない……そんな夢が募ったのね」
「あの時代は夢がたくさん詰まっていたね」
「今とは大違い」
「そうかな」
「そうよ。今なんて……」
「今なんて?」
「どうして夢がなくなったのかと思って」
「どうしてだろうね」
 彼は一つ間を置いた。
「たとえば」
 彼は語りだす。
「たとえば、僕たちは知りすぎてしまったのかもしれない」
「なにを?」
「色んなことを。大人になると夢がなくなるのと同じだ。追いかけるだけじゃいられなくなる。追いかけるものも見失う。気力も時間もなくなる。守るものばかりが増えていく。それはつまり、たくさんのものを持つようになるからだ。夢を手にしてしまえば夢は現実になる。次の夢を見つけられなければ、現実の中でもがくことになる」
「夢が現実になるって、どんな感じかしらね」
「知ってしまうことだと思うよ。その姿を、全貌を、細かなところまで……見たくないものも含めて、知ってしまうことだと思う」
「でも夢を叶えられるのは大人だけでしょう? どうして子どもまで不景気な顔になっちゃったのかしら」
「大人が子供の夢を叶えるようになってしまったからさ。少ない子どものご機嫌を伺ってあれやこれやと買い与える。子どもは大人に頼めばすぐに欲しい物が買い与えられる。そうだな、つまり子どもの欲が夢に変化する時間が失われてしまったんだよ。インターネットもそうだ。たくさんの情報を即座に手に入れられる。知りたいことがあれば、検索すればものの一秒で答えは導き出される。検索結果を鵜呑みにする子どもは知りたいことの全貌を知った気になってしまう」
「現代は夢を育てる時間がなくなってしまったのね」
「そういうことだね」
「ねぇ、私たちの夢って、何かしらね」
「どうしたの、いきなり」
「いきなりじゃないわ。考えていたのよ。私たちは夢を失ってしまったのか、夢を育てる時間を失ってしまったのか」
「どうだろうね。どっちもかもしれないね。僕たちにはお金がある。時間はないけど、お金を積めば並大抵のことは叶えられてしまうし、大概の夢は今持っているお金で叶えられてしまう。夢を育てるなんてややこしい時間は必要ないんだ。結果的に、僕たちは夢を失ってしまった」
「取り戻せないのかしら?」
「取り戻したいの?」
「ねぇ、私、夢が欲しいわ。小さい頃、心を熱くしてくれたような、きらきら輝いた夢が。努力すればきっと叶えられる、そう信じられていた時間を取り戻したい。今のままじゃ、私、生きた屍みたいなものだわ。時に押し流されて決められたことを決められた時間までにこなして。決められたことしかしていないもの」
「小さい頃の夢は何だったの?」
「何だったかしら。だめね、年をとるとすぐに忘れる」
「僕よりは若いだろう? 忘れたふりをするのはよくないね。ケーキ屋さん? パン屋さん? それともお弁当屋さん?」
「食べ物ばかりね」
「君、食べるの好きだろう?」
「もうっ。……さあ、何だったかしら。看護婦さん? 学校の先生?」
「お、小さいのに意外と手堅いんだね」
「そうかもしれない」
 ふふっと笑いが漏れた。
「でも、どれももう叶える気にならない」
「今の延長線上で考えるものだよね。いきなり方向転換するのは厳しいもの。一つ選択して一歩進んで。選んではちょっと進んで。人生はその繰り返しだ。選ばなかったものの未来を覗くことはできない」
「覗いてみたくなることはあるけれどね」
「たとえば?」
「こんなはずじゃなかった、って思った時」
 私と彼は共に苦笑を漏らした。
 誰だってそんな時を経験してる。
「不思議なことに、頭の中で選ばなかったものの未来を想像すると、今と同じ結果になっていたりする。ねぇ、こんなはずじゃなかった、って思う時ってのは、理想とする形があってのことだろう? こうなっているはずだったのに、っていう。君の今のそれは、何?」
 何気なさを装って彼は聞いてくる。
「聞かなくたって分かるでしょ? 適齢期を過ぎた女の願いなんて」
 チャイナブルーのカクテルは甘い。舌まで青くならなきゃいいけど。
「ああ、慰めは要らないわよ? 適齢期なんて世間が定めたもので、本当は人それぞれだ、とか何とかなんて、もう聞き飽きたもの」
「だろうね」
「……失礼ね」
「慰めて欲しかったんだ?」
「そんなわけじゃないけど……そんな価値もないのかと思っただけ」
「自分を卑下するもんじゃないよ」
「卑下、か。仕事と子育てと、どっちが偉いのかなんて、秤にかけること自体間違ってるのよね。なのに、子連れのママさんたち見てると負けたような気になるのよ。ああ、彼女達は順調なんだなって」
「子連れのママさんから君を見れば、君の方が順調に見えるかもしれない。結婚もせず、子どももいなければ、今頃は彼女のようなキャリアウーマンになって、若い子たちを従えてバリバリ働いていたかもしれないのに、って」
「隣の芝生は青く見えるものね」
「そういうことだ」
「だけど、責められてるような気になるのよ。まだなのか、って。焦っちゃうのよ。早く、早く、って。女は子どもを生める時が限られてるもの。急がなきゃって。仕事してても、本当はこんなことしてる場合じゃないのにって、思うことだってある」
「それは重症だね」
「重症よ」
 彼はほのかに琥珀色をしたモスコミュールを一口、二口、喉に流しこんだ。
「ねぇ、僕たちはさっきから随分と色々な話をしてきたと思うけれど、答えは一つだと思わないかい?」
「答え? 私たちの話に答えなどつけられるのかしら?」
「たとえば、この曲になぞらえるなら……」
「私を月に連れてって?」
「そう。君が僕にそう願うなら」
「叶えてくれる?」
「年をとると不器用になるね。たった一言の簡単な言葉が口から出てこない。思わせぶりな話と言葉を尽くして、ようやくたどり着ける」
「もう、素直じゃないわね」
「そう、素直じゃないんだ。だから夢も見られない」
「月に行くなら夢を見なきゃ。月じゃなくてもいいのよ。楽園でもあったかい家庭でも何でも」
「君も存外素直じゃない」
「年なのよ」
「年のせいにするのはよくないね。夢を見られなくなる」
「いつまでも若くなきゃ月の住人にはなれないものね」
「君は月に帰りたい?」
「私をかぐや姫にするつもり? 一人では、いやよ。地球が見えたとき、感動を分かち合う人が必要だわ」
「同感だ。あんな荒れた地に君を一人で置いていくわけにはいかない」
「やっぱり夢がないのね。ごつごつ岩だらけの大地だなんて想像させないで。浦島太郎の竜宮城のように素晴らしいお城があるかもしれないじゃないの」
「ああ、そうかもしれないね。もしかしたら、地球から見えない月の裏側にあるかもしれない」
「少しは夢が膨らんだ?」
「そうだね。それで、かぐや姫。僕に叶えて欲しいお願いは?」
「無理難題を言いつけられたい?」
「僕を拒むのなら、あるいは」
「弱気なのね。いいわ。それなら私からのお願いよ。歌にあわせて、歌詞の通りにして。でも、最後の言葉だけはあなたからじゃなきゃ嫌」
「歌に託すなんて、君は本当に素直じゃない」
「それはもう、言わない約束」
 彼女のハスキーボイスが歌っている。
 『Fly Me To The Moon』。
 私たちは手を取り合って席を立ち、音楽に合わせてゆっくりと揺れはじめた。
 私を月に連れてって。
 手をつないで、キスをして。
 そして、愛していると言って。

 耳元に、吐息がかかる。
 抱きしめられて、歌は途中から聞こえなくなった。




〈了〉







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