瞼にあるのはあの日見た君の後ろ姿。紺のワンピースを着て、銀の砂の上で夏風に吹かれている。白い帽子が風に飛ばされて、君は空に手を伸ばす。
　白く透き通る肌だった。
　君はそのまま大気に溶けてしまいそうだった。
　舞い上がった銀の砂に埋もれてしまいそうだった。
　波の音さえも失われて僕は息を止める。
　波はいとも容易く君を攫った。静かに押し寄せていたはずの波が、突如君に懸想したみたいだった。
　力強い海の腕に抱かれて、君はあっという間に見えなくなった。
　悲鳴すら残さず。
　僕はただ突っ立っていた。
　ただ立ち尽くして、君を攫った海を見ていた。
　海はまた静かに呼吸していた。押しては返す動作を飽きずに繰り返していた。
　君の姿はどこにもない。
　君の追いかけようとした白い帽子だけが、波に乗って僕の足元に還ってきた。
　僕はそれを拾い上げた。
　帽子は海の水を含み、もう飛べなくなっていた。貝が砕けた砂を纏い、白とは言えなくなっていた。
　それでもこれは君が残していった唯一の形見。
　頭にかぶると、ひたり、ほたり、と雫がどこからと言わず垂れ落ちた。
「更紗」
　僕が泣くかわりに帽子が泣いていた。
　波音が耳に蘇ってくる。
　風が肌に触れていく。
　僕はぼんやりとしたまま足元から沖へと視線を移した。
　船の姿はない。
　君の姿もない。
　テトラポットに遮られることもなく、遠くに半島の先が見えるわけでもない。はるか彼方で視界の端から端まで青い海洋線がうっすら弧を描いて延びている。
　雲のない日だった。
　空も海も真っ青で、足元だけが銀の星をちりばめたように眩く輝いていた。
　息が詰まる。
　時は止まっていた。
　僕は、永遠にこの青の牢獄の中に閉じ込められるのだと思った。




「ええ、ですから瑠璃は今、誰にも会いたくないと……」
　母親が電話口でひたすら低姿勢で断りを入れている。
　相手は警察だろうか。それとも更紗の母親からだろうか。どちらにせよ、僕はもう外に出るつもりはなかった。誰にも何も言う気はなかった。大人達は更紗がいなくなって大騒ぎだった。更紗が海に攫われる瞬間にいたはずの僕に対しては、事情聴取と言いながら、最後には必ず何故助けに海に入らなかったのかと尋ねた。
　間に合わなかったんだ。
　どう見たって、僕が波打ち際まで駆けつけるよりも波が遠く更紗を攫ってしまうほうが早かった。
　でも、そんなのは後から考えた言い訳で。
　本当は助ける気さえなかったんだと思う。
　更紗の母親は娘の最後の姿を教えてくれと僕に追いすがったけど、僕は何も語る言葉を持たなかった。
　あれは、僕の記憶の中だけにしまわれるものだった。誰にも見せてはいけない宝物の瞬間。もちろん、更紗が波に攫われた瞬間のことじゃない。その数瞬前、更紗が確かにこの地上に足をつけ、白い帽子を追って空に腕を伸ばした瞬間だ。
　美しく切り取られたその瞬間を誰にも穢されはしたくなかった。僕の時はもうそこで止まってしまっていたのだ。その後、彼女の時が止まっていったことなど、僕の与り知らぬことだった。
　助ける気さえなかった？
　それ以前の問題だったんだ。
　僕の時は、もう終わってしまっていた。
　彼女の地上での最後の瞬間と共に、僕の時は前にも後ろにも進まなくなってしまった。
　それでいい。
　何も聞こえない、ただ更紗の後ろ姿だけが焼きついたこの瞬間の中にずっといられるなら、これ以上の幸せはない。
　美しいもの。手に入らないもの。
　それは、聖域とさえ言える瞬間だった。
　息詰まるその瞬間の中に、身悶えることなくひっそりと身を沈めていたい。青い空が海のように僕を海底へと押し沈めていくがままに、流れのない水底に横たわっていたい。
「瑠璃、瑠璃」
　母親が部屋の扉を叩いている。
　泣きそうな声だった。
　その声に背を向けて、僕はカーテンを閉め切った部屋の中、膝を抱えてカーテンの隙間から入る光の筋を目で辿っていた。
「ショックだったのは分かるわ。でも少しは何か食べないと。ね？　お願い、出てきてちょうだい」
　お腹なら空いていない。
　それすら伝えることが億劫だった。
　母親はしばらくすると諦めて一度下に戻り、がちゃがちゃと食器が触れ合う音をさせながら戻ってきた。
「ご飯、ここに置いておくから。ちゃんと食べるのよ」
　まるで引きこもり扱いだ。
　違うのに。
　迷惑をかけたいわけじゃないのに。
　ただ、放っておいてほしいんだ。
「どうして……」
　どうして、あの時僕も後を追いかけなかったんだろう。
　更紗を追いかけて海に入っていれば、こうして家に連れ戻されることもなかった。海辺で見たあの美しい瞬間を胸に全ての時を止めることができた。
　僕の時は止まっている。
　なのに、僕の周りの時は止まっていない。
　勝手に進んでいく。
　勝手に、僕を過去に置き去りにしていると思い込んでいる。僕にとっては何も困ったことなどないというのに。
　まだ、間に合うだろうか。
　僕も、更紗と一緒に連れて行ってもらえるだろうか。
　海の向こうにある楽園に。
　楽園？
　そんなものが本当に存在するだろうか。海の向こうに楽園があるなんて、そんなの御伽噺だ。遠く海の果てまで旅することができなかった昔の人が思い描いた夢物語だ。海を流されてぐるりと一回りすれば、いずれ陸地にたどり着く。そこは僕らと変わらない人々が生きている場所だ。悲しみも苦しみも変わらずにある場所。人の世だ。
『瑠璃』
　更紗がいれば、どんなところでも楽園になりうる。
　そんな可能性を信じられるほど、僕は純粋でもない。
　更紗がいても、僕はいつも一人だった。
　僕は更紗が笑っているのを遠くから見つめるだけの、ただの風景だった。君はいつだって僕の視界の真ん中にいた。君の時が動いていることが、僕の時も動いていることの証明だった。君はいつだって、遠く僕の手の届かないところにいた。そのくせ、見えるところにはいつもいるのだ。探せば必ず君の姿を見つけられるくらい、僕は君探しの達人だった。
「探しに……」
　行こうか？
　いや、更紗ならここにいる。僕の瞼の裏にしっかりと焼きついている。これ以上美しい更紗を僕は知らない。これ以上の彼女に出会えないのならば、ここで思い出を舐めていた方がいい。
　見惚れていたんだ。
　見殺しにしたわけじゃない。
　それだけは、確かなんだ。
　でも、きっと誰も信じない。
　こんな僕の言うことを、きっと誰も信じない。
　のそのそと立ち上がったのは、午前の透明な光に金色が混じりはじめた頃だった。ドアを開けると、ラップがかけられたおにぎりがまだそこにあった。僕はそれを二個頬張ると、静かに階段を下に下りた。
　家には誰もいなかった。
　母親も午後からの仕事に戻ったのだろう。
　かちこちと時計の音が規則正しく時を刻み、世界は何も変わらず動いているのだと言っている。
　そんなこと分かっているよと言い返しても、奴はそれ以上のことは何も言えない。ただ自分は自分の仕事を全うしているだけだと、やはり代わり映えのしない音で目に見えないものの進行を伝えるのだ。
　玄関を開けて外に出ると、焼け付くような太陽の光が容赦なく目を、腕を、刺し貫いてきた。僕を焼き殺そうとでもいうのだろうか。いっそ更紗の母親に代わって。
　ねぇ、どうして君が海に攫われなければならなかったの？
　僕なら、少なくとも悲しむ人は君よりも少なかったはずだ。両親も弟もいるけれど、僕にはそれだけだ。君は違う。学校中の生徒達に愛され、先生に愛され、近所の人たちにも愛され、僕にも愛されていた。
　そう、少なくとも僕は君に愛されていなかった。
　君にとって、僕は風景の一部。そうだろう？
　ただ一度、僕の名を呼んだのだって、風景の中から珍しい花を見つけたような気がしただけだろう？
　住宅街のどこをどう走ったのか。きっと慣れた道だったから意識もしなかったのだろう。僕は白銀の浜辺に立っていた。浜辺にはもう誰もいなかった。更紗の行方もわからないまま捜査も打ち切られている。
　そうだね。君は一人で海の向こうの楽園に行ってしまった。こちらに帰ってくることなどもうないのだろう。
　海水浴客もいない浜辺はやけに静かで、あの日のように波が優しく砂を洗っている。
　その白と青の境目に埋もれるようにして、白いワンピースの裾が翻ったような気がした。
　目を凝らす。
　少女がいた。
　白いワンピースを纏い、白い帽子をかぶった少女。
　海のはるか遠くを眺めているその少女の後ろ姿が、瞼の裏の更紗と重なった。
「更紗」
　僕の声に彼女はゆっくりと振り返る。
　僕の姿を認めて、にっこりと微笑む。学校で万人に愛されていたあの笑顔だ。分け隔てなく僕にも与えられる祝福。
「更紗」
　僕はもう一度彼女を呼び、一歩前に歩を進めた。
「行かないで。逃げないで」
　おそるおそる呼びかけると、彼女は海を背にしてこちらを向いた。
「ここにいるわ」
　きらきらと太陽の光が零れだすような声だった。
　抱きしめたくなるような愛らしさに、砂を踏みしめる僕の足は速くなる。
「会いたかった」
　僕を前にした更紗は喜びを満面に表して僕を抱きしめた。
　反射的に僕は彼女を押し返し、一歩後ずさる。
「だめだよ、僕に触ったら。君が汚れてしまう」
「どうして？」
「僕は汚いから。僕は……君も分かっていただろう？　学校に居場所のない人間だった」
　更紗は俯いた僕の頬に手を伸ばしてきた。
「謝りたかった。ずっと。何も出来なくてごめんなさい」
「そんなことない。君の笑顔を見られることが、僕の喜びだった。僕なんかに近づかなければいいとずっと思ってた」
　更紗は僕を下から覗き込むと悲しげに目を伏せてそっと耳元に唇を寄せた。
「わたしは好きだったわ。小さい頃からずっと、あなたが好きだった。それを伝えられなかったことが辛くて、悲しくて。あなたは一人じゃなかった。それだけは伝えたかった。何もできなかったのに後になってこんなことを言うのはおこがましいとわたしも思うけど、わたしはあなたを救いたかった」
「救うだなんて、そんな……」
「そうね、それこそおこがましいわね」
「そういう意味じゃなくて。僕は充分君に救われていた。僕こそ、君を救えなかった。君に見惚れるあまり、君を一人で海の向こうの楽園に行かせてしまった。更紗、今からでも遅くないだろう？　僕も一緒に連れてってくれ。昔、一緒に絵本で読んだ海の向こうの楽園に」
　小さい頃はよく一緒に遊んでいた。家が近かったから、一番の仲良しだった。
「本当は君がこっちに残るべきだったんだ。行くべきは僕だった」
「本当に……本当にそう思う？」
　首を傾げた彼女は不意に僕から離れ、恐怖に歪んだ顔を上げた。
　風が冷たくなった気がした。
「更紗？」
「やっぱりわたしのことを許していなかったのね。わたしがあなたを助けなかったから。だから学校でもずっとわたしのことを見ていたのね」
「何……だって？」
「覚えていないの？　一年前、二人でこの海に来たでしょう？　とても穏やかな海だと思っていたけど……まさかあんなことになるとは思わなかった」
　目裏に更紗の姿が甦る。
　波打ち際に佇む紺のワンピースの少女。風に飛ばされた白い帽子を追い求めて腕を伸ばし、不意にかぶりついてきた波に足元を掬われてあっという間に海に飲み込まれてしまった。
「それはあなたよ、更紗。瑠璃はわたし」
　苦いものを噛みしめるように彼女は言った。
「僕が……君？　君が……僕？」
「ずっとわたしの側にいたわね。わたし知っていたわ。でも本当はあなたのことが怖くて……ずっと気づかないふりをしていた。学校で他のみんながあなたにしてきたことと同じことを、わたしもしてしまった。ごめんなさい。余計に苦しませてしまって、本当にごめんなさい」
　余計に、苦しんでいた？　僕が？
「違う。そんなことはない。だって僕は……まだ生きてるじゃないか」
　彼女は目を見張り、信じられないというように僕を見つめて、やがて首を振った。
「信じられないのも無理はないわ。突然だったもの。あまりに突然すぎて……」
「そんなことはない。僕はまだ生きている。さっきだってここに来る前におにぎりを二個食べてきた」
「わたしもここに来る前、あなたの家に寄ってきたわ。お仏壇に手を合わさせてもらったの。お供えものは二個のおにぎりだったわ。あなたが好きだったからって、お母様おっしゃってた」
「う、嘘だ！　そんなのは嘘だ！　僕は瑠璃だ。カーテンを閉め切った部屋に引きこもっていたのも、何故助けなかったんだ、友達だったんだろうって警察に詰られたのも……」
「一年前のわたしだわ。あなたの姿が眩しくて、わたしは身動きが取れなかった」
「嘘、だ……」
　膝から力が抜けてしゃがみこんだ僕に合わせて、彼女も僕の前にしゃがみこみ、僕の頭と肩を抱きしめた。
「怒ってる？　怒ってるなら連れて行って。それであなたの気持ちが鎮まるのなら、わたしを……」
「ふざけるな！」
　僕は彼女を突き飛ばして立ち上がっていた。
　彼女は砂の上に尻餅をつき、寄せてきた波が彼女のスカートの裾を淡い碧の水面に泳がせた。勢いで落ちた白い帽子が波に攫われていく。
　僕はざぶざぶと海を掻き分け、波に乗って還ってきた白い帽子を拾い上げた。
　まだ、さほど砂はついていない。ただ雫だけが帽子のつばから落ちていく。
「更紗、その帽子、返すわ。本当は今日、その帽子を返しに来たの。また海の水に濡れてしまったけど」
　彼女は波打ち際から立ち上がって僕から帽子を受け取ると、軽く絞って皺をのばし、それをそっと僕の頭の上に載せた。
「綺麗よ、更紗。やっぱりその帽子はあなたに一番似合う」
　漣が揺れる水盤には、紺色のワンピースを纏い、白い帽子をかぶった少女が映っていた。
　僕は一つ息を吸い込む。
「瑠璃、あの絵本の話は本当だと思う？　この海の向こうに楽園があるって」
「……わからない。けど、あったら素敵だと思う」
　瑠璃はゆっくりと息を吐き出した。
「あなたは素敵だった。たった一人でも強くて、何があっても折れない心を持っていた。わたしだけに見せてくれるきらきらとした笑顔が、わたしはとても好きだった」
「僕も君が好きだった。みんなに愛されてきらきらと輝く君の笑顔が、僕もとても大好きだった。自分が成り代わりたいと思うほどに」
　いつまでも一緒だと思っていた。
　体の境など見えなくなってしまうほどに、ずっと一緒にいた。
　いつからだろう。二人が離れてしまったのは。
　君の笑顔が眩しく映れば映るほど、僕はこの心を隠さなければならないと思った。想いを悟られないように表情を押し隠し、表面上は女の子を気取らなければならなかった。そんな僕のことを、みんなは陰気な奴だと思ったのだろう。ますます僕らの距離は離れていった。
　だからあの日は嬉しかったんだ。
　久しぶりに君から話しかけてくれて、二人で海へ行こうと言ってくれて。
　僕は、怪しまれないように気合を入れておしゃれをしていった。君に劣らぬほど輝ける自分でなければ、君と一緒にいる価値すらないと思ったんだ。
　僕は弱い。彼女の言うように、強い更紗なんかじゃなかった。とても弱い、生き物だった。
　今はもう、生き物ですらない。
「一つだけ、お願いがある。自殺じゃない。事故だったと伝えてほしい。誰も恨まなくていいと。きっと母さんは今でも気にしていると思うから」
「ええ、分かったわ。必ずそう伝える」
　僕は一つ頷いて、彼女の泣きそうな笑顔を記憶に焼き付け、海のほうへと向き直った。
　青い青い海だった。
　空と交じり合う境が分からぬほど青い海が目の前には広がっていた。
　その中へ、一歩一歩、戻っていく。
　耳元で波が笑う音が聞こえ、口から溢れ出た気泡が水中に差し伸べられる太陽の光に召され、僕は最後に雲ひとつない夏の空をこの目に焼き付けた。




「これは自殺なんかじゃない。事故よね。だってあなたがそう言ったんだもの。事故だから、わたしは何もできなかった。そうでしょう、瑠璃？」
　彼女は、波打ち際に寄せられた白い帽子を拾い上げた。




〈了〉