second trip
あれは、筑波山が見える平野に友人の家を訪ねた時の話です。
彼女は大学時代の友人で、彼女の夫ともまたサークル仲間として親しくしていました。そんな理由で、彼らが結婚して男の子が生まれた後も、春の兆しが感じられる青空の下、緑さえ然えはじめた平野を抜ける鈍行電車を乗り継いで、彼らの家に遊びに行くのが年に一度の楽しみとなっていました。
雪国から那須のトンネルを抜けた瞬間の目を焼く強い日差し。平野一面あらわになった茶色い大地とうっすらと地を覆う緑の雑草。何度目にしても瞬きを繰り返してしまうほど衝撃的なこの光景に目が慣れた頃、あたりはもう春の優しい夕暮れとなっているのですが、その薄い朱色の光に包まれて双の丘を頂に掲げた左右対称の山が忽然と目の前に現れます。山脈など一つもないところにぽつりと一つ気高くそびえる高い山。南の青い空よりもなお青いその山の美しさは、古に京の都にまで聞こえとどろき、短歌の枕詞になるのも頷けるほどの荘厳な美しさでした。北の山脈に囲まれたところから旅してきても溜息が出るのです。南の何もない平野から旅して来た人々から見れば、どれほど驚嘆し旅路の標として心強く映ったことでしょう。
彼らは仕事の都合で、南へ北へ、幾度となく転勤を繰り返していました。年賀状をやり取りするたびに住所が変わるのです。幼い赤ちゃんを抱え、実家も遠くにある彼女にとっては、ようやく住み慣れた頃に訪れる転勤は、明るく振舞っていても辛いものだったに違いありません。それでも、学生時代、人見知りの私にまるで昔からの友人であったかのように親しく話しかけ、あっという間に私の心を溶かしてしまった彼女です。行く先々にママ友を得て、毎日生き生きと過ごしているようでした。
名前の通りの明るさと機転、そしておおらかさを持つ彼女に、私は何度救われたか知れません。
その年、私が彼らの元を訪れたのは春霞たなびく季節ではなく、梅雨も間近の六月初めのことでした。
私は、翌日には東京で行われる人気歌手の活動休止前ラストコンサートに別の友人と約束して行くことになっていました。彼らの元に訪ね寄ったのは、春に会えなかったからに他なりません。ああ、今年はまだ筑波山を見ていないな、と。
雨の中、彼女は私を迎えに来てくれました。助手席と後部座席と、チャイルドシートは一つから二つに増えています。後部座席のチャイルドシートは男の子の、助手席のチャイルドシートは生まれて一年ほど経つ女の子の席でした。彼女は相変わらず元気で、赤ちゃんの頃から見てきた男の子は一丁前にお話をするようになり、生まれたばかりだと思っていた女の赤ちゃんはよたよたと一人で歩けるようになっていました。
微笑ましい思いで男の子と手をつないで買い物をしたり、一緒にのり巻きを作ったり、夜遅く帰ってきた彼女の夫も交えて大学時代の昔話をしたり、それはそれは楽しい時間でした。
本当なら、楽しいまま私は次なる楽しみに向けて彼らの家を辞すはずでした。
それは、もう出発するという正午のちょっと前のことでした。私は床がコンクリートのテラスでよちよち歩きの女の子とボール投げをして遊んでいました。ボールを拾うためによちよちと歩く姿は可愛らしくもあり、心配でもあり。でもやはり可愛さが勝るのです。抱っこをして高い高いをすればきゃぁきゃぁと喜んでくれるのです。それが嬉しくて、私はボール遊びの合間に女の子を抱き上げては高い高いしていました。床に下ろしたときにはぐらつかないようにちゃんと支えてあげていました。
でも、何回目かで慣れてしまっていたのかもしれません。
下ろしたあと、私はそれまでよりも少しばかり早く、女の子から手を離してしまっていたのです。
ぐらぐらとしながらも歩きかけて、女の子は仰向けに倒れました。
しゃがんで手を差し伸べる間も、ありませんでした。頭の中は真っ白でした。
女の子は火がついたように泣き出しました。
母親である彼女は女の子を宥めながらてきぱきと冷やしたタオルを彼女の頭にあてがいました。
目の前でわが子が怪我をする瞬間に立ち会いながら、手が届かなかった母親の気持ちときたら、いかばかりでしょう。
後頭部は生命機能を維持する上で大切なところです。
心配は積もりに積もって余りあります。
一時間後、私は予定通り近くのバス停からバスに乗って次の目的地へと向かいました。
故意ではなかったとはいえ、私はどうしたらよかったのでしょう。申し訳なさで一杯だったのに、私にはどうしたらよいか分からなかったのです。ただ、自分が母親なら、私のことをけして許さないだろうと。手の届かなかった自分のことも責めつづけるだろうと。それだけは分かりました。
心の中では顔も見たくないと思っているかもしれません。それなのに彼女は、「次の約束があるんだから。楽しみにしてきたんだから行かなきゃ」と、私を元気づけて子供たちの手を引いてバス停まで見送りにきてくれたのです。
気まずいまま、わたしは彼女たちの町を後にしました。
以来、彼女とは疎遠になってしまいました。年に一度送られてくる年賀状で、子供たちの健やかな成長を確認するようになりました。
どきどきしながら年賀状の家族写真の中から女の子の姿を探し、無事を確認する。ちゃんと笑っている、遊んでいることを確認し、何も障害が残っていないことを確認する。
それが毎年はじめの儀式のようになっていました。
大丈夫。大丈夫。
まだ、大丈夫。
そう、まだ、なのです。
もしかしたらある日突然後遺症が現れるかもしれない。実は、彼女は言わないだけで何か問題を抱えているのかもしれない。
怖ろしかった。
あの時、だっこから下ろし損ねたせいで、抱きとめて上げられなかったせいで、人間一人の一生をだめにしてしまったのではないかと。
でも卑しいのは、それだけではなく、彼女が夫にどうこのことを報告したのか、彼は私を許さないのではないか、恨まれたのではないか、憎まれたのではないか、そればかりが気になりはじめたことでした。
己への失望は、新たな失望の種を己の心に植えつけます。曰く、私は彼女が羨ましくて、ひっくり返った女の子に手を差し伸べるのが遅くなったのではないか、と。
いいえ、違います。
私は知っています。
けして私はそのような思いを彼女には抱いてはいませんでした。夫と二人の子供と大人らしく家庭を持ち、切り回す彼女。片やいまだ親の脛をかじりながらニート同然の暮らしをする私。羨望も嫉妬も、すること自体おこがましいと思う気持ちすら私は持っていませんでした。彼女が今を得るまでに経たけして平坦とはいえない道のりを知っていたからでしょうか。彼女は努力に見合った幸せを享けているのです。そんな彼女の今の幸せを見守ることが、当時の私の幸せでもありました。思い込みではなく心から、です。
その彼女の幸せを、私は破壊してしまった。
かもしれない。
どう謝ればいいのか。どう償えばいいのか。
考えても分からないまま、私は逃げ出していました。
私は何故、自ら女の子を病院へ連れて行かなかったのでしょう。何故、あの状態で次の目的地へと向かうことができたのでしょう。
活動休止前のコンサートにいまいち身が入らなかったのは言うまでもありません。何度と泣く彼女に電話をし、メールをし、大丈夫かと訊ねる。ようやく電話に出た彼女から、元気に土手で遊んでいると聞かされたときには一瞬ほっと胸をなでおろしましたが、それでも後頭部への打撃は予断を許しません。もし、夜に具合が悪くなったら? もし、大きくなってから何か障害があることが分かったら?
その後も何度かメールをしました。
元気?
と。
許して欲しい。その一心でした。
女の子の心配をしているはずなのに、その実心配しているのは己の身の上でした。
彼女への迷惑と、己の浅ましさに嫌気がさし、私は彼女との連絡を取らなくなっていきました。
彼女からもまた、連絡が来ることはありませんでした。
独身女と子供がいる女とでは、生活時間も違います。忙しさもそれぞれ違うことでしょう。その二人を結び付けていたものはあのことをきっかけに途切れ、心理的な距離は加速度的に広がっていったようでした。
毎日のように顔を合わせていた大学時代。細々と連絡を取り合っていた卒業後。月に一度は少なくとも彼女と連絡を取り合っていたというのに、数年が過ぎた今となっては思い出すことすらほとんどなくなっていました。
私は職に就いたものの、結婚はおろか彼氏すらいないままあの頃とほとんど変わらない人生を、仕事に忙殺されるようにして生きていました。
その日も残業して外に出ると、外はいつの間にか雪が降っていました。仕事の合間に送られてきた友人からのメールに返信して、ぱたりと携帯を閉じようとしたときでした。
凍える指の合間にコール画面と、久しぶりに見る彼女の名前がちらりと見えました。
何かあったんだろうか。
そう思ったとき、私の脳裏に思い浮かんだのは怪我をさせてしまった女の子の方ではなく、彼女自身の身の上についてでした。
長い間連絡も取らずにいた彼女から電話が来た。それだけで、いつかの緊急事態を予感させました。
思えば、結婚の報告をもらったのも、妊娠の報告をもらったのも、彼女からが初めてでした。でも、それだけではなかったこともまた確かなのです。
私は慌てて受話器のマークのついたボタンを押しました。しかし、ピーという電子音がして留守録モードに切り替わってしまいました。さらに慌てて履歴の最上段にあった彼女の名前を選び、電話をかけなおします。
「もしもし? るーちゃん?」
電話に出た彼女の声は、おそるおそる探るような、そんな声音でした。
やっぱり何かあったんだ。
「うん、なんか今電話あったみたいだからかけなおしたんだけど、何か、あった?」
彼女に対する負い目も何も、私は感じてはいませんでした。何かあったなら助けに行かなければと、それだけが頭の中にありました。
「ううん、かけてないよ。もしかしてうちの子がいたずらしたのかな」
かけてない?
じゃあ私がかけたのでしょうか?
そんなわけない。私はメールをしていて、送信し終わって携帯を閉じるところでした。彼女と電話で連絡を取り合ったのはもう何年も昔。さすがに私の着信履歴も発信履歴もそこまで古い記録は残っていません。ならば、電話帳からアカサタナを選び、彼女の名前にたどり着くまでスクロールしてタイミングよく通話ボタンを押したというのでしょうか。
メールの返信ボタンを押して携帯を閉じるまでの、ほんの数秒で?
彼女と連絡がとりたくて無意識に携帯を操作した?
それはない。
年賀状で一安心して一月、私が彼女のことを思い出したことは一度もありませんでした。今日だって残業に疲れ、いつこの地獄が終わるのかと職場を呪いながら地下駐輪場に自転車を取りに向かっていたときでした。なにより、駐輪場閉鎖まで一分を切っているというのに、のうのうと電話などかけていられるわけがありません。だからメールだって短く返事するに留めたのです。あとでまたちゃんと返そうと思って。
「ああ、もしかしたら私が間違えたのかも。あとで履歴もっかい確認してみるわ。ごめんね」
「いいんよ。あとでわたしも履歴確認してみるね。それより久しぶりだねぇ」
彼女はしみじみと言いました。
私は駐輪場へ下る坂を歩きながら、「うん、久しぶりだねぇ」と彼女の声をかみしめながら相槌を打ちました。
電話口の向こうからは子供たちの元気な声が聞こえてきます。
ああ、元気だ。よかった。
「来月新しい家が完成するの」
彼女は弾んだ声で続けました。
「新しい家!?」
形ばかりの挨拶だけで終わってしまうんじゃないかと思っていた矢先の、思いがけない話でした。
「よかったねぇ。家欲しいって言ってたもんね」
一気に目の前に春の夕空に照り映える筑波山が蘇りました。懐かしくて温かくて切ない夕映えの筑波の山。
何度目かの転勤後、彼らの家に遊びに行った時のことだったでしょうか。二人の子供を抱えて、彼女は苦笑しながら言っていました。「一戸建ての家が欲しいけど、転勤が多いから難しくて」と。
そんな彼女が、ようやくひとところに落ち着くことができるのです。これに勝る喜びがありましょうか。
「よかったねぇ。本当によかったねぇ」
「うん。春になったら遊びにおいで」
何気無く、嬉しそうに彼女は言いました。
春ニナッタラ、遊ビニオイデ。
頭の中で彼女の言葉が復唱されました。
「えっ、いいの?」
「いいよ、いいよ。春になったらおいでー」
社交辞令かも、しれません。
でも、彼女は昔から裏表のない人間で、喜怒哀楽も激しいかわりに気持ちいいくらいさっぱりとしていて、私はそれがすごく羨ましかったのです。
電話口の奥で子供たちの声が聞こえています。
会って、いいのでしょうか。
「もう少しで完成するから。でも大変だよー。これからローン地獄がはじまるから」
屈託なく彼女は喋っています。
とても数年のブランクがあるとは思えないほど、自然に、普通に、以前のように。
「ありがとう。じゃあ、行っちゃおうかな」
春の筑波山を見て、平野の夕焼け空に胸をぎゅっと締めつけられながら鈍行に乗って。
「おいでおいで。また連絡するから」
マタ、連絡スルカラ。
凍りついて強張っていた心の片隅が、太陽に照り融かされるように弾け去っていきました。
また、連絡してくれるんだ。連絡を待っていていいんだ。
いや、社交辞令かもしれないけど。
でも、春を待ちたい。
「うん、楽しみにしてる」
私たちは電話を切りました。
駐輪場の入り口では守衛さんがニコニコと私を見ていました。
私は嬉しくて、心があったかくて、待ってくれた守衛さんにお礼を言って雪積もる地上に出ました。
春になったら、また。
履歴には発信履歴の先頭行に一件だけ、彼女の名前がありました。短縮にも登録していませんし、何をどう間違ったら彼女に電話がかかるのか、未だに私には分かりません。
でも、その分からない空白の数秒間が、長い間私の心に横たわっていた根雪を融かすきっかけをくれたのです。
次にあの子達に会えたら、大きくなったあの子たちをしっかりと抱きしめたい。
そんな野望を抱きつつ、私は雪の中自転車を押して歩きはじめました。
「春に、なったら」
〈了〉
管理人室 書斎
読了
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