水の、匂い。

 


 山の春は遅い。山に住まう僕が春の訪れを感じたのは今日、たった今。水の流れる微かなせせらぎが春だよ、と風にのせて囁いていく。すると、すぐに木の付け根付け根に小さな小さな生命の膨らみを発見することができるのだ。そう、それまで全く目に入ってこなかったその春の準備が、今はもう足音高く聞こえてくるのだ。
「じいちゃ、外さ行ってみてくる」
 僕はじいちゃと山の小屋で二人で暮らしている。学校には行っていない。炭焼き職人のじいちゃの後継者になりたくて、養護施設から出てきたのだ。
 ただ、僕には一つ大きな問題があった。じいちゃには実はまだ伏せているけれど、このことを知られたら僕は両親に続いてじいちゃも失ってしまう。炭焼き職人はおろか、じいちゃの子ですらいられなくなってしまう。きっと、予想よりも辛いのに違いなかった。
 水の匂いは、掘っ立て小屋同然の炭焼き小屋の北東、少し登った所からだ。
「なら、いい木があったら今のうちに切なぐって来(こ)」
 じいちゃは折りたたんだ鋸と蔦で編んだ籠を手渡す。
 炭にするための木は乾燥していることが条件だ。だから春、木々がみずみずしく若返り、水を蓄えはじめる前に切っておかねばならない。
「炭を焼くにはまんず……」
「いい木を見定められること、でしょう?」
「生意気な坊主さなったもんだ。早ぐ帰(けえ)れよ」
 じいちゃは僕を送り出し、真夏よりも暑い灼熱の小屋の中へと入っていった。
 僕は籠についている茣蓙の端をはぎ取って作った丈夫な紐を両肩に通し、背負いなおして水の匂いがする方へと歩き出した。地面はぬかるんでいる。年代物の靴には容赦なく水がしもわさってくる。足の先からどんどん冷たくはなってくるものの、あの冬ほどではない。肌に降り注ぐ日差しが、冬よりも生き生きとして、僕を包み込んでくれている。
 僕は空を見上げた。
 空の色は、一般的には「青」というけれど、僕はその色を知らない。太陽は「赤」というけれど、僕にその色は感じ取れない。春の空は冬よりも黒っぽい色合いをしていて、太陽は冬よりも白いが、夏の白さには及ばない。
 僕が住んでいるのは、そう、黒白の世界だ。
 だから、じいちゃが「炭は赤(あげ)くなるまで」とか「火が何よりも赤くなったんなら」と言われても、僕はその「赤」という色がわからないのだ。だから、本当は僕には炭焼きなんてできない。じいちゃは馴れると色が時を教えてくれるようになると言ったけれど、その色の恩恵が生まれつき僕には与えられていなかった。
 一年、ここに住んで木の見極め方を教わった。木は色も大切だが、手触りでわかるのだ。僕が木を見極められるのは、この敏感な肌が一役買ってくれていた。
 自然界で萌えている色は「緑」という。今のこの時期の芽の色は、「萌黄色」。「黄緑」という色がもう少し「黄」味を帯びているのだそうだ。
 僕は色のある世界に憧れて、色について書かれた本をたくさん読んだ時期があったけれど、結局わかったのはさまざまな種類に変化するスペクトルも僕には黒白の微妙な加減でしか認識できないということだった。
 ぬかるみは水の匂いが強まるほどひどくなっていった。やがて流れる光にぶつかった。僕を呼び寄せた匂いの犯人だ。僕はしゃがみこんで、光の中に指先を差し入れた。かじられたような痛みが指先から伝わってきた。
(この水の源はどこだろう)
 ちょっとした好奇心が、僕をさらに沢の上へと駆り立てた。
 手ごろな木を探しては、鋸で切り取り、背中の籠へと放り投げながら歩く。上へ行けば行くほど乾燥したいい木が増えていく。同時に、太陽が沈みかけ、気温は急激に下がっていった。
 僕が枯葉の下から湧き出る泉を発見した時、太陽は向こうの山の高い針葉樹林にその光を半分以上遮られて、あっという間に僕の目には根と枯葉の違いすら分からなくなっていた。この状況ではそう簡単に下へなど下りられるはずもない。
 僕は意味もなく辺りをきょろきょろと見回した。闇が深まる、その中に、突然白い光が浮かび上がった。その光は少しずつ大きくなり、そう、ちょうど焚き火くらいになった。燻る臭い。ぱちぱちと火が爆ぜる音。僕がその光に引き寄せられたのは言うまでもない。転ばないように大股で、しかもなぜか息を潜め足音を忍ばせながら、僕はその光のすぐ傍まで行き、はたと気付いた時それと目があっていた。それはきらりと濡れた光を放ち、座りながら僕をずっと凝視している。
「お晩でなっす」
「えっ……」
 爆ぜる火の粉に照らし出されたのは、僕と同じ大きさの人間の形をしていた。但し、髪は黒ではない。くっきりと闇から独立している。目も暗い色ではない。肌は透けるように白く、顔の彫も深い。性別は、ぱっと見てもよく見ても謎だった。
「外人の……お化、け?」
 内心、「出たぁっ」と喚いていたが、口は閉じてしまい、逃げようにも手足は切り離されたか、持ち上げられないほどの重りを付けられたように感覚がなかった。
「ふふふふふ。迷ったんだね?」
 やけに嬉しげに笑いながら、そいつは目を閉じてしまった。
「ま、いいから座れよ。食料はないけどあったかいぞ」
「な、ななななな……」
「何者かって?」
 反射的に僕は頷いた。
「壊れた人形じゃないんだから」
 そいつは笑いながら立ち上がると僕と向き合った。背丈は僕より少し小さく、身体は枯れ枝のように細かった。観察されていることに気付いたのか、そいつは僕の肩に手を置いて焚き火の近くに座らせた。
「おらはこの山さ住む山姥だ」
「嘘……」
「嘘だよ。人間なんて喰わねっての。おらは……名前、何がいい?」
「何言ってるんだよ、名前くらいあるんだろ?」
「会った奴に決めてもらうことにしてるんだ」
 あっけらかんとそいつは、僕にとっての重大事を言ってのけた。
「生まれたときに付けてもらえなかったの?」
「付ける人が居ねがったんだ。おらは元々自分さ執着しねんだ。ほとんど一人でいるから自分さ名前があったって使わねし、使わなきゃ忘れちまうもんだえん?」
 納得させようとか、強制しようという言い方ではなかった。そいつは淡々と語るだけ。
「自分に執着しないって、難しくない?」
「人間はそうなんだべな。寿命が短いからこそ、一瞬さ巡り合える。一瞬さ賭けているから自分さ執着する。人間はそれでいいんだよ。お前(め)は自分が名前さ執着する理由、分がってらか?」
 そいつは目を開いて僕をじっと見つめた。不思議と恐怖心は湧いてこない。だからといって安らいでいるわけでもなく、微妙な緊張感が身体を強張らせていた。
「どうして僕が名前に執着してるって思ったの?」
「お前、ずっこいな。さっぎから質問してばっかだ。お前の名前は?」
「……裕二。岡部裕二。僕の名前は両親が唯一僕に残していったものだから、執着っていうのとはちょっと違う」
「ふぅん、岡部、な。養子か?」
「そう、だけど……何で?」
「おらは何でも知ってるのす。裕二が嘘ついていることも。嘘ってより気づいてないだけかも知んねけんど。お前は確かに自分の名前さ執着してる。それはお前の死んだ両親との唯一の繋がりだがらな。こだわらね方が、そらおがしいのす。素直に認めた方が楽になれるんでねが?」
 そいつはぱちぱちと音を立てて爆ぜる焚き火をぼんやりと見つめた。
「余計な御世話だ」という気持ちはあまりなかったが、十五年あまり抱えつづけたわだかまりだ。そう簡単にとけるわけもない。
「考えとく」
 僕は、自分でも誤魔化しのような生半可な言葉を返した。
 ふと、焚き火の熱に半ば融かされた横のざらめ雪を片手に掬いとった。冷たい水が手を滴りつたう。雪は「白」だという。唯一、僕が正確に感じ取れる色がその「白」だ。しかし、ざらめ雪は粉雪とは違い、多分に黒っぽい。
「雪……」
「ユキ? ああ、おらの名前か。ええな、ユキか。その名前、前にもつけられたことがあったっけな」
「でもそれって外人の名前にはおかしいよね。性別も分かってないっていうのに」
「性別なんて関係ねがべ。実際、前にも一度つけてもらったことがあるんだ。それより、お前、今おらのこと外人って言ったな? おらの目は青(あえ)ぇのか? 髪は金が?」
 急にはしゃぎだしたそいつ――ユキは、焚き火越しに身を乗り出して聞いてきた。
「そんなの、自分で確かめればいいだろう?」
 一方、僕の機嫌は一気に悪くなる。
「見えねんだ」
 ユキは僕を見つめて穏やかに言った。
「見えない? 何を言ってるんだ。さっき僕のことしっかり見てたじゃないか。今だって僕の目を見てる。からかうのはよしてくれ」
 僕はユキの肩を突き押した。
「からかってなんかいねぇ。ただ、外人みたいだって言ったのは、裕二が初めてだったから」
 僕に押されて尻もちをついたユキは、ヘラりと笑って起き上った。
 僕は答えず、白い小さな光が自在に飛び跳ねる様に耳を傾け、乾いた枝がこすれあう音に耳を澄ませた。どこかで蝙蝠が羽ばたき去る。
「ごめん」
「いいって。で、俺の目って? 髪って? 肌の色は? 唇は?」
 僕は白っぽい灰色の目をちらりと見た。
「あのさ、見えないのに色の名前言ったところで、どんな色か分かるの?」
 ユキは小首を傾げた。
「分かるべ。見えなくても分かるべ。おら、生まれつき目が見えねがら一度も光の恩恵さ預かったことはねぇけんど、おらには色がわかる。肌で感じられる。肌で感じて、音を聞いて、思い浮かべるんだ。ああ、きっとこんな感じにあったかそうな色なんだろうって思うんだ。人間たちが色に名前をつけているって知ったのはだいぶ後だ。会う奴らに空の青とはどんな色か、水の色は、炎の色は? たくさん質問をした。だから、見える人間たちよりも精度は劣るし全く違った色を想像しているのかもしれない。けど、考えてもみろ。この世で色なんて概念ほどおぼろげで頼りないものはねんだ。音や温度はああいう風に聞こえた、感じた、と口で表現することができるけれど、色は名前で表現するしかねぇ。確かに、寒々しい色とか暑苦しい色、さわやかな色と形容はつけられる。けんど、そんな曖昧な形容じゃ見る人によって想像するものが違うべ? 人によっては赤を青と言い、青を赤と言っているかもしれない。目で見えるものほど確かだとは絶対に言えねんだ」
「じゃあ、何を基準にして確信すればいい?」
 ユキは悪戯っぽく目を伏せた。長い睫毛が頬に黒い影を落とす。人間ならざるものの美しさを、僕は初めてユキの中に感じていた。縛られたように体は固まり、目はユキのその怪しげな目もとに吸いつけられて離せなくなっていた。
「目に見えるものだけで物事を判断すべきでねぇ、と言っただけだ」
 顔や雰囲気にそぐわない、すでにしみついてしまったこの土地の方言が、唯一奇妙な僕の緊張感を和らげてくれていた。ほっと息を吐き出す。
「僕は色を認識できないんだ。生まれてからずっと、黒と白の世界にいる。小さい時、みんなそういう世界にいるんだって信じて疑わなかった。なのに、小学校の時に違うことが分かって……。もっともっと、想像もできないほど美しい世界をみんなは見ているんだってことを知った。というか、知らしめられた。色のある世界に憧れてたくさんの本を読んだから、いろんな色の名前を僕は知っているし、黒白の度合いによって色の濃淡は分かるんだ。でも……」
「裕二は見えるものばかりを頼りすぎてんだ。なまじ見えるものだから、想像しようとしねんだな。おらなら、手で触れて、耳で聞いて、匂いを嗅いで、形をイメージして着色する。それが当たり前だと思っていたから、悩んだことなんてねがったな。――裕二、お前、耳も鼻もいいべ?」
 唐突に、ユキはその長い睫毛のついた瞼を押し開いた。
「そうだけど」
「この火の爆ぜる音、燻る臭い。普通の人間には分がらねはずなんだ。けんど、たまに裕二みたいなのがふらふら迷い込んでくる。お前なら、耳からの情報をもっと信じてもいいはずだ。肌触りも、匂いだって信じていいはずだ。感じるものすべてで、その白黒さ着色してみろ? 目を閉じて、自分で絵の具をこねて」
「でも、僕は黒白以外に色なんか……」
「目さ見えるもんに支配されちゃなんね。黒と白さえあれば、全ての色は生み出せるはずなんだからな」
 ユキの透き通った光を蓄える白っぽい灰色の目が、一瞬見たこともない美しい色を持ったように見えた。暖かいというよりは冷たい。だからと言って極寒のそれとも違う。華やかな、そして高貴で上品な色。
「む……らさき?」


 いつも黒白の夢だったのに、今日は極彩色に彩られていた気がする。夢の中身など思い出せやしないけれど。
「裕二、こんたな所で寝とったのか。このばかたれめが」
 頭上からじいちゃの雷と唾とが落下してきて、僕は反射的に身をのけぞらせた。
 夜は明けていた。朝の木漏れ日の白は、昼のものより遥かに清々しく透きとおっている。湿り気を帯びた黒い土が、ところどころで木漏れ日に丸く明るくなっている。
 冷たく張りつめていた空気が、じいちゃの呼吸に合わせて白と透明とを交互に繰り返す。じいちゃはじっと僕を見つめていた。
「風邪ひぐから、さっさと家さ帰るぞ」
 ふっと白い息が吐き出されて、じいちゃは僕に背を向けて歩きはじめた。
「じいちゃ。僕、色が分からないんだ。きっと、上手く炭焼けない」
 何かに後押しされるように、僕は今まで言えずにいたことを、ぎゅっと掌を握りしめてじいちゃの背中にぶつけた。
「じいちゃのこと、ずっとだましてたんだ。ごめんなさい。僕、孤児院に帰ります」
 じいちゃは歩みを止め、その場で何か考えていた。
「それは、もうは炭を焼きたくね、ということが?」
 突き放したように冷たい声が、不意に小さく見えたじいちゃの背を超えて僕の心の中に寒風を吹き込んだ。
「違います。焼けないんです。僕は色が……」
「炭は目だけで焼くんでね。五感全てを使って焼くもんだ。色が分がらねくらいなんだ。そんたなことは、は、とっくに分かっでら」
 ああ、思い出した。夢の中身。
 ユキが言っていたことと同じだ。
「どうした? 帰らねのか?」
 怒っていたじいちゃの声に刃こぼれが生じていた。
「よろしく、お願いします」
 僕はじいちゃの背に深く深く頭を下げた。それから、薪の入った籠を背負って、じいちゃと並んで山を下りた。
「じいちゃ、外人のような妖怪に会ったよ」
「……妖怪じゃね。あいつは山さ棲む精霊だ。相変わらずまだ生きてんのか。奴もしぶてぇな」
「じいちゃも会ったことあるの? いつ頃?」
「お前と同じくらいの頃だ。紫の目と銀の髪の日本人離れした顔の奴だえん? あいつに教えられた。目ばかりを頼りにしていては、満足な炭は焼げね、とな」
 僕ははっと気がついた。
「もしかして、じいちゃもユキってつけた?」
 じいちゃは何も言わなかった。
 その日、僕は怒られながらも初めて一人で炭を焼いた。





〈了〉





  管理人室 書斎  読了

  20010625