天の川異伝

 


 悠瞬は天を振り仰いでいた。数多の星掛る空の向こうに天の国がある。天には美しい娘が一人おり、毎日毎日機を織りながら唄っていた。その唄がやけに心にしみる。銀河の果てには会いたい男がいるのよと、切々と唄うその声は、本当にこの川向こうに逢いたい男がいるかのようであった。
 悠瞬は川辺でまどろみながら彼女の歌声に耳を傾ける。
 悠瞬の知る歌声の主は、とっても聡明で気立て良く、それでいてどこか気の強い少女だった。機を織らせれば独自の模様を考案し、すぐさま天界中の女たちを虜にした。唄を唄わせればこの通り。白い翼を持つ鳥に身を落とされた自分でさえ、まだ諦めきれない思いが残りつづけ、魂の奥底で燻りつづける心に訴えかけられずにはいられない。
「暁華」
 悠瞬は唄を唄う娘の名を呼んでみる。
 当然、そこにいない者に応える術などない。にもかかわらず、唄は一度途切れる。
「暁華、唄っておくれ」
 悠瞬がそう言うと、件の女はまた切々と唄い出す。
 年に一度だけ会うことが許された女。
 それは、牛飼いの柳絹も、白鳥の姿に身を落とされた悠瞬も同じだった。
 悠瞬、暁華、柳絹は、幼いころから親の目を盗んではよく遊ぶ仲だった。天帝の娘である暁華はお転婆で、遊ぶ場を市井に求めた。そのお目付け役として随行させられていたのが、宰相の息子であった悠瞬だった。
 市井にはたくさんの遊び仲間がいたが、中でもとりわけ暁華が気に入っていたのが、牛飼いの息子の柳絹だった。
 柳絹はさまざまな遊びを知っているだけでなく、親譲りの良い牛の見極め方もよく知っていた。目下、暁華の目的は柳絹の牽く牛の背に乗せてもらうことだった。
 たとえ牛目当てであったと分かっていたとしても、柳絹が暁華に身分違いの思いを寄せていくのは、火を見るよりも明らかだったが、悠瞬は見て見ぬふりをした。
 宰相の息子であった悠瞬は、天帝の一人娘である暁華の第一の婿候補であり、他に悠瞬と才で競える者など天には誰一人いなかった。もちろん、悠瞬は幼い頃から暁華と結婚するものだと言われて育ち、恋心は抱かなかったにしても、そうなるものだと思って暁華の面倒を見てきた。当然、暁華もそのつもりだったはずだと、今でも悠瞬は信じている。
 そんなある日、天を揺るがすほどの一大事が発生した。
 悠瞬の母である宰相の絽媛が天帝に弓引いたというのである。
 絽媛は日ごろからにこやかに政務を取り仕切り、天帝に不満などないかのようにずっと振舞いには気をつけていたはずだった。周りも味方ばかり。中でも実兄である玉藍は絽媛の良き理解者であったはずだった。
 その日も、暁華は牛に乗りたいと、悠瞬とともに柳絹のもとを訪れていた。
 宮殿で謀反が起きているとも知らず、暁華は牛に夢中になり、悠瞬は暁華が牛から落ちはしないかとはらはらしながら見守っていた。
 宮殿で何かが起こっていることにいち早く気づいたのは、柳絹だった。真昼間に宮殿から立ち上るどす黒い土煙りに気づけたのは、柳絹ほどの視力がなければできなかったことだろう。
 柳絹は悠瞬に言った。
「悠瞬様、あなたも暁華様が牛に乗るのを見ているばかりではなく、たまには一緒に散歩なされてはいかがですか?」
 これに対して、牛に乗る気などさらさらない悠瞬は、もちろん断ったのだが、この日に限って柳絹は執拗に悠瞬に牛に乗ることを勧めた。
「それでは私が後ろに乗って手綱を裁きますから、悠瞬様は前に乗ってください。暁華様もたまには悠瞬様と共に野を駆けたいでしょう?」
「柳絹の言うとおりだわ。悠瞬、牛に乗って、わたくしと一緒に野を駆けなさい」
 冗談まじりに笑いながらでも、命令されれば悠瞬は断れない。
 先に牛の上に乗った柳絹の手をとっておずおずと牛の背にしがみつく。牛に乗るのは初めてのことではないが、馴れていないに違いはない。まだ牛の背から見える景色の高さに馴れぬ悠瞬を、柳絹は転げ落ちないように脇でしっかりと抱き挟むと、手綱を打って牛を走らせはじめた。
 柳絹にとってはそれほどの速さではなくとも、馴れぬ悠瞬にとっては瞬く間に景色が移り変わり、目がまわるようだ。そんな悠瞬を笑いながら、暁華は余裕で牛を乗りこなし、野を駆けていく。
(もう。こちらが暁華様のことを気にかけねばならないというのに)
 自分のことで精いっぱいの悠瞬は、暁華の笑顔を目に納めるのが精一杯で、とても見守るなどという立ち位置にはいなかった。まして、柳絹が野を横切って向かう先に気を配ることもできなかった。
 失態である。
 人生の中で、最も後悔してもしきれない瞬間が間もなくやってくる。
 ギュッと目を閉じ、柳絹の手綱さばきだけを頼りにしてきた悠瞬が、目を開けたのは、気の張った誰何の声と、こすれあう刃の音に反応してのことだった。
 天帝の宮殿の門前だった。
 柳絹はこともなく牛から飛び降りると、取り囲む兵士たちの前に跪いた。
「こちらにおわしますのは、天帝のご息女暁華様と、宰相のご子息悠瞬様でございます」
 兵士たちは見る間に騒然となり、殺気立つ。
「捕らえよ! 謀反人絽媛の息子であるぞ! それから速やかに暁華様を保護せよ」
 声が上がったのは宮殿の門の奥からであった。
 切られた腕を押さえ、懸命に声を発するのは、宰相の補佐官。悠瞬の伯父である。切れあがった目が向けられていたのは、血族であるはずの悠瞬に対してであった。
 悠瞬はすぐさま、兵士たちに牛から引きずりおろされると、暁華が必死に宰補の命を覆そうとして悠瞬に取りすがるのも引き離されて、天帝の待つ玉座の間へと連行された。
「大丈夫です。きっと何かの間違いです」
 暁華に頬を染めさせた悠瞬の囁きは、真にはならなかった。
 玉座の間に天帝は座し、悠瞬は縄で縛られて兵士たちに槍の穂先を突きつけられた状態で天帝と謁見させられた。数歩離れた後ろには、柳絹が深く頭を垂れ、遅れて暁華が天帝の隣、一段下に座す。いや、正確には座そうとして、悠瞬の前に差し置かれた盆の上の生首を見て悲鳴を上げた。
 悠瞬と向い合せに置かれていたのは、つい今朝がたまでこの世界の宰相であり、悠瞬の母であった絽媛の首であった。
 悠瞬は眩暈よりも何よりも、今にも目を開き、何かを語りだしそうな母の首をじっと見つめていた。が、もちろん赤く塗られた唇を開く気配はない。
「悠瞬。汝の母は我を弑し、息子である汝を天帝の玉座につけんと画策し、本日我に牙をむけた。よって、その命で購わせることとした」
 天帝の言葉に、悠瞬は無言だった。
 黙っていても暁華とは姻戚関係になれたのである。それをわざわざ謀反を起こしてまで己の息子を天帝に据えようと考えるほど、この人は浅はかではない。常に民草のことを考え、息子よりも天帝を優先させてきたのが、この天の宰相絽媛という女である。
(はめられた、か)
 ぐるり、と悠瞬が周りを見渡すと、びくりと肩をそびやかした男が一人いた。
 伯父の玉藍であった。
 玉藍は居心地悪そうにそっぽを向く。
 伯父は母の実兄でありながら、妹の才を妬くことなくよく輔弼してきてくれたと思っていたが、やはり伯父もただの人であったらしい。そんな伯父の意図にも気付かず、玉座にふんぞり返っている天帝のなんと滑稽なことだろう。
(今日、貴方は最も大切な政の切り札を失ったというのに)
「絽媛から、そなたの命までは取るなと乞われておる。だがしかし、ただ生かしておくわけにも参るまい」
 天帝はあくまで厚情を示すことで懐の深さを見せつけようとしているが、悠瞬にとっては何の意味もない言葉だった。
 ただ、最後に息子の命乞いをしていくとは、絽媛も一人の母であったか、という思いだけが去来する。
「父上、わたくしからもお願いでございます。悠瞬はわたくしの婚約者。悠瞬は今日、おばさまが何をなさろうとしているのかも知らずに、わたくしと共に牛飼いの元へ行きました。お願いでございます。どうか寛大なご処置を」
 暁華が柄にもなくとりみだし、父帝の前に跪く。
 ふむ、と天帝は顎に指を滑らせ、悠瞬を睥睨する。
「悠瞬、そなたからは何か申し開きはないのか?」
 寛大を装って尋ねてはいるが、何を喋っても土しかつかないことは分かっている。しかし――悠瞬は目を閉じた母の穏やかとも嘆きともつかない顔を見た。
「絽媛の息子としてではなく、天帝の御恵みを受けた一人の民として御諫言申し上げます。天帝、貴方は宰相絽媛が、本当にこの私を玉座に付ける価値のある男だと見做していたと思われますか? もし、何か気づくことがおありなら、はじめに宰相絽媛を疑った者を疑われませ。絽媛は母親としては何もしてくれない人でしたが、天に住まう民には遍く天帝の御恵みを知らしめた偉大なる政治家であったと記憶しております。どうか天帝もそのこと、お忘れなさいませんように」
 機嫌のよかった天帝の顔は見る間に青ざめ、ちらりと玉藍を見、唇をかみしめた。
「汝、余が誤った決断を下したと申すのか?」
「私は宰相絽媛の功績を忘れないでいただきたいと懇願しただけでございます」
 ぴしゃり、と音を立てて、天帝は扇子を折りたたんだ。
「悠瞬、汝の母の最期の願いをくんで、命だけは取るまい。だが、永遠に人の身を剥奪し、天の川の中州に永久につなぐこととする」
 人の身を、剥奪?
 中州に永遠につながれる?
 ぴんとは来ない裁決であった。だが、これで暁華との仲は完全に断たれてしまった。かに思えた。
「時に牛飼い、名をなんと申す?」
「はい。柳絹と申します」
「そなたは暁華をすくい、逆賊の息子を捕らえてきてくれた。天界を太平に保つに最も貢献したはそなたぞ。礼を言う。褒美に何でも取らそう。何がほしい」
 悠瞬の後ろで、はっと柳絹が顔を上げる気配がした。
「恐れながら、誠に何でも聞いていただけるのでしょうか?」
「もちろんじゃ」
「では、暁華様を。暁華様を我が妻に迎えとう存じます」
 はじめて、悠瞬は我が身が震えるのが分かった。
 柳絹が暁華に身分違いもはなはだしい思いを抱いていることには気づいていた。だが、まさか実現しようはずもないと高をくくっていた。恋などと自覚はしていなくても、暁華は自分のものだという気持ちが悠瞬にはずっとあったのだ。
 これほどのむちゃくちゃな願い出に、さすがの天帝もうんと頷くわけはない。目の前では振り返った暁華が驚きに目を見開き、肩を震わせている。
 だが、天帝の口元に浮かんだのは意地の悪い笑みだった。
「よかろう。暁華をそなたの妻として認めよう」
「父上!!」
 暁華の悲鳴が一間中にこだまする。
「ついでに褒美として天の川の対岸の肥沃な大地もそなたに授けよう」
「はは。ありがたき幸せ」
 深く頭を垂れた柳絹に、天帝はさらに言葉を重ねる。
「但し、逢えるのは年に一度限りとする。本日は七月七日であるから、そなたらの逢瀬は七月七日の夜だけとしよう。暁華、そなたは年に一度だけ、この天宮を出て、天の川を渡って夫のもとに通うのだ」
「そ……ん、な……」
 暁華から絶望の呟きが漏れる。
「暁華、そなた数多の機織りの仕事を休んでは、忍んで牛飼いに会いに行っていたではないか。毎日共に暮らせばお前は機を織らなくなり、牛飼いもそなたと遊んでばかりになるであろう。年に一度がちょうどよい」
「しかし、父上。天の川など、深い上に水の流れが速すぎて、船があってもとてもわたくしには渡りきれません」
「そうだな、では、こうしよう」
 天帝が指を鳴らした瞬間、悠瞬を戒めていた縄は解け、悠瞬の視界は低くなり、白い羽毛が目に見えた。
「悠瞬、汝はその白鳥の姿で中州につなぐこととする。但し、年に一度、七月七日だけは戒めを解いてやるから、暁華を迎えに行くのだ。よいな」
 苦虫をかみつぶした末の「はい」という言葉は、「グワァ」という情けない鳴き声に変わってしまっていた。
「悠瞬っ!!」
 あまりの衝撃に、暁華が白鳥となった悠瞬の側に駆け寄り、長い首を抱きしめて泣きすがる。
「嫌よ! 嫌っ。わたくしは悠瞬とでなければ――そうだわ。七月七日、悠瞬、貴方は必ずわたくしを迎えに来てちょうだい。そうでなければ年に一度も逢えなくなってしまう。その代わり、わたくしは涙で天の川をいっぱいにして、いくら悠瞬が羽ばたいても対岸まで渡れないくらいの洪水を起こしましょう。ね、悠瞬。わたくしの身も心も貴方だけのものよ」
 悠瞬は、与えられた大きな翼で暁華を抱きしめることしかできなかった。


 こうして、七月七日の夜は、毎年天の川から水が溢れ、地上には大量の雨が降りおちるのである。





〈了〉





  管理人室 書斎  読了

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