歌  姫



「サラ、この歌を知ってるかい?」
 そういって聞かせてくれた歌を、今でも鮮明に覚えている。
 それは歌姫とその騎士だけが知りえる歌。
 本物でないわたしが、知っていてはいけない歌。




 八月七日、午後八時十七分。
 それがこの世界の終わりの時間だった。
 わたしはその最後の日に、飛び出してきた故郷の野外劇場で初めての凱旋ライブを行うことになっていた。
 終わりの日。その日が明確に示されたのは、つい一週間前のことだった。多くの人々は政府のあまりにも笑えない冗談だと腹を立てたけれど、地球に近づく直径十五キロメートルの隕石を射落とし損ねた映像と宇宙機構の出した軌道計算の解説を見て、わっと色をなして避難対策に乗り出そうとした。でも、残念ながら宇宙旅行がまだ実現していないこの時代、地球にいる限り終わりは避けられない。ニュースの解説は懇切丁寧に地下シェルターに逃げ込んでも、地下五十キロメートルまでは被害を免れ得ないこと、隕石が衝突する反対側に逃げても衝撃波が地殻変動を誘導し、マグニチュード十以上の地震が起こるであろうことを予言した。もしかしたら、わたしたちの知らないところで一握りのお金持ちたちは宇宙に逃げ出していたのかもしれない。でも、わたしたちには逃げるためのお金も術もなかった。世界は一気に荒廃し、強盗や殺人、テロが爆発的に増えた。
 それでも、まだ半信半疑の人が多かったのか社会の歯車はどこかではきちんと回っているもので、わたしのかねてよりの希望だった凱旋ライブが決まったのも、終わりの日が告げられた次の日の夕方のことだった。
「世界の最後の日だ。やりたくないならやらなくていい。それもフレイヤ、お前の故郷は隕石の衝突点と予測されてる場所にかなり近い」
 死は免れない。
 事実を突きつけることだけが優しさではないことを知っているマネージャーは、一つ言葉を飲み込み先を続ける。
「だが、今やお前の歌姫としての実力は世界の人たちが知っている。世界最後の日、世界中から集められたゲストと、何よりフレイヤ、お前を見るために、人々はテレビやパソコンの前に座るだろう。そして、近づく隕石を画面の端に見ながら、少しでも心を安らげるためにお前の歌を聞くだろう」
 急に決まった故郷での凱旋ライブ。それは視聴者を集めるための話題性を作るためでもあり、わたしのライブの中継自体が、いらぬ混乱をもたらさず、大人しく家や集会所に人々を集めておくための政府の策であることを、わたしはうすうす気づいていた。
「マネージャーはいいんですか? 最後の日をわたしのライブで終わらせてしまって」
「知ってるだろう? 私が仕事の虫であることを。それに、最後の日に手塩にかけて育ててきた歌姫が故郷の舞台で歌っている姿を見届けられるのなら、これに勝る一日はない」
 マネージャーは、いつもはいかめしい顔の目じりに嬉しげに笑い皺を寄せた。
 そう、わたしは手塩にかけて作り上げられてきた人々の心を束ねるための世界の歌姫。
「どうだ。やるか?」
 幼馴染の歌姫の騎士に見出してもらえなかった、偽者の歌姫。
「やります」
 だから、せめて舞台に立つ時だけは本物に近づきたいと願っていた。たとえ私が本物の歌姫ではなくても、わたしの歌に耳を傾けてくれる人がいる限りわたしはかりそめの歌姫になれる。もしかしたら世界中の人が耳を傾けてくれたら、わたしは本物の歌姫になれるかもしれない。そうすれば、彼もわたしを歌姫として見出してくれるかもしれない。
 期待することには疲れてしまった。
 どんなにわたしが世界中で歌おうが、世界中にわたしの歌が流れようが、彼がわたしの元を訪れることはなかった。わたしも彼が今どこで何をしているのか、知る術はなかった。
 きっとこの世界が滅びても、わたしたちはもう出逢うことなどないのだろう。
 わたしはその日、長年わたしを苦しめてきた想いを胸にしまいこんだ。
 はずだった。
藍聯アイレン、どうして貴方がここにいるの」
 それは世界最後の日。
 わたしは午後七時から始まる本番を前に、夕刻、誰もいないはずの生家の前に立っていた。
 その昔は世界のへそだったというクラヴィッツという片田舎にあるわたしの生家は、今は住む人もなく、見るのも悲しいくらい黒く朽ち果ててしまっていた。垣根を挟んで隣にある、代々歌姫の騎士を輩出しているという幼馴染の家も同様だった。
 その家の前に立ち、ぼんやり屋根を見上げていた幼馴染の面影を宿す青年は、ゆっくりとわたしを振り返った。
「サラ」
 わたしのことが分からないのではないかという杞憂はすぐに払いのけられた。藍聯は表情一つ変えなかったものの、すぐにわたしの本当の名を口にしてくれた。
「君も戻ってきていたのか」
「ええ、つい今しがた」
 ぎこちなさにわたしの唇の方が震える。
 もし逢えたら「逢いたかった」と伝えよう、そう決めていたのに、逢いたかったの「あ」の字もわたしの口からは出てこなかった。
 乾いた空気だけがわたしたちの間に流れる。
 何か言えばいいのに。もうこれが最後なのだから。悔いなく舞台で歌うために、藍聯にわたしの気持ちを伝えてしまわなければ。
 気持ちばかりは焦るのに、わたしは藍聯から視線をそらし、芝生のはげた庭の土を見つめる。藍聯もまた、夕焼けに染まった自分の実家の庭の土を見つめる。
「引っ越してたんだな」
 ぽつりと藍聯が言った。
「うん。九年前、藍聯が旅に出て間もなく両親が事故で死んじゃって、トーラのおばさんのところに引き取られたの」
「そうか」
「藍聯の家のみんなも引っ越してたんだね」
 同じくらい朽ち果ててしまっていた藍聯の家を見上げて、わたしは言った。
「うちは……殺されたんだ。八年前、歌姫の騎士の家系だからっていう理由で、兄さんも義姉さんも、花聯も」
 藍聯の家はお兄さんの道聯とその奥さんのリアラ、それから妹の花聯の四人家族だった。お父さんとお母さんは早くに亡くしていると聞いている。でも、お兄さんたちが殺されていたなんて、おばさんは言っていなかったし、ニュースでも聞いた覚えはない。
「誰に?」
 思わず問い返したわたしに、藍聯は冷ややかな視線を投げつけた。
「政府に」
 ずきりと胸に冷たい刃が刺さりこむ。
「あ、わたしは……」
 別に政府に言われて歌ってるわけじゃない。そう言いかけて、口を噤んだ。政策とのタイアップがあったからこそ、今のわたしはそれこそ世界の歌姫といわれる地位を得たのだ。けして実力だけだったわけじゃないことは、彼の探す歌姫になれなかったわたしが一番よく知っている。
「歌姫などという迷信を信じている一族は、いつか世界に混乱をもたらすって」
 政府も十年ほど前から世界を一つにするために歌姫の伝説を借りて歌姫を造ろうとしていたはずだ。おそらく本物の歌姫が見つかっては邪魔だったのだろう。だから、藍聯の家族を殺した。
 まさかと思う反面、腑に落ちている自分がいる。
 その偽者の歌姫が、いまやわたしだ。これじゃあまるでわたしが藍聯の家族を殺したようなものではないか。当然、政府に追われる藍聯がわたしを訪ねてくるわけもなく、わたしを歌姫と認めてくれるわけもない。わたしのフレイヤとしての五年間は、藍聯の傷に塩を塗るだけの五年間だったのだ。
「弔ってもやれなかった。戻ったら僕まで殺される。僕だけは生き延びて本物の歌姫を探さなければと。世界が終わってしまう前に、次の歌姫を」
 藍聯は再び夕焼け空を見上げた。世界の終わりにふさわしい美しい朱色の雲がたなびく西の空を。
「見つからなかった。どこにもいなかった。僕だけ、僕の歌姫を見つけることができなかった」
 歌姫が、見つからなかった?
 わたしは藍聯を顧みた。
 彼の心を独占する女性は、ついに見つからなかった?
 本来ならば粛々と謝るべき立場であるにもかかわらず、わたしの心はにわかに浮き足立った。
 藍聯には小さい頃から、たった一人の守るべき女性を探す宿命があるのだと聞かされてきた。聞かされる度に幼心に胸がちりちりと焼けつくのを感じていた。「わたしじゃ駄目なの?」と何度も彼の前で歌ってみせたけれど、二つ年上の藍聯は困ったような微笑を浮かべて首を振るだけだった。「君の歌声は好きだけど、残念ながら僕が探すディーヴァの歌声じゃない」藍聯が歌姫を探す旅に出ることが決まった日、はっきりとそう告げられてからは、わたしは藍聯の前で歌うのをやめてしまった。
「藍聯」
 もう一度わたしにあなたの前で歌わせて。今度こそあなたの心に響く歌を歌ってみせるから。
 思いは期待と共に胸からわきあがり、口ごもって潰えた。
「歌姫の話を覚えている?」
 不意に藍聯は穏やかな目でわたしを見下ろした。
 驚きながらもわたしはうなずく。
「世界のへそと言われたあのクラヴィッツの森には歌姫の住む宮があり、歌姫は騎士に守られて世界を支える歌を歌いつづける」
「そう。歌姫の歌が途切れると世界は偶然や運という名の守りを失って滅びてしまう。だから僕たち一族は左手の甲にデイジーの痣が出た者を騎士に選び、世界が滅びる前に歌姫を交代させる」
「もしかして、今の歌姫は弱っているの? 隕石の衝突が避けられなかったのもそのせい?」
 藍聯は黒い皮手袋に覆われた左手の甲を右手で握りしめながら苦笑した。
「この科学が発達した現代に何をばかなことをと思うよな。僕だって何度ばからしいと思って旅をやめようと思ったことか。でも、聞こえるんだ。歌姫の声が。わたしを探して、って歌う彼女の声が聞こえるんだよ。幻聴ならそれでいい。でも、兄さんは歌姫の騎士は歌姫が見つかるまで彼女の呼ぶ声が聞こえるものだと言っていた。僕も早く探してあげないと、って思うんだ。思うのに……」
「ねぇ、まだその人の声は聞こえているの?」
「ああ。泣き叫ばんばかりに歌っているよ」
 藍聯の方が泣きそうだ。
 この世界が終わるまで、あと三時間もない。人生の大半を費やして探してきたものが見つからなかった悔しさはいかばかりだろう。きっと、わたしが藍聯を想う以上に、藍聯は彼女のことを想っているのだ。
 わたしはちらりと腕時計を見た。
 午後五時四十六分。
 午後六時半までに戻れれば、本番にはぎりぎり間に合わせられる。
「藍聯、もう歌姫を探すのは諦めたの?」
「隕石が衝突して世界が終わるまで、もう時間もない。実家に戻ってきても政府だって追っ手を寄越さないじゃないか。世界中、くまなく歩き回ったんだ。十二歳で旅に出てから九年間、来る日も来る日も一人で歌声が大きくなる方に向かって歩き回った。逢えば歌声が途切れるから分かるはずだと兄さんは言ってたけど、どこへ行っても歌声が途切れることはなかった。むしろ、近づいたと思えば遠ざかるんだ。これ以上どこを探しようがある?」
「諦めたのね」
「諦めては……」
「お願いがあるの」
 揺らいだ藍聯の目につけこむように、わたしは言い募った。
「わたし、最後に一度でいいから歌姫の宮に行ってみたい。本物の歌姫に会ってみたいの。本当は歌姫しか連れて行けないんでしょう? そんなこと分かってる。でも、わたし見てみたいの。ずっと藍聯から話を聞いていた憧れの場所だったから」
 どんなにたくさんの聴衆を集めた舞台でライトを浴びても、わたしの心は満たされることはなかった。ここは違うと心が叫んでいた。思い出すのは藍聯の話してくれた歌姫のいるというクラヴィッツの森にある宮のこと。いつしか観客席に藍聯の姿を探すようになっていたわたしは、落胆するたびになぜかその宮のことを思い浮かべていた。
「だけど君は歌姫では……いや、いいのかもしれない。最後くらい、父さんたちも許してくれるだろう」
「え?」
 明らかに一度はわたしは歌姫ではないからと拒絶しようとした藍聯が、旅に出てから初めてわたしに手を差し伸べた。
「行こう、サラ。歌姫に会いに行こう」
 あまりにも素直に差し出された手に、わたしはためらいがちに手を伸ばす。その手を奪い取るように握りしめて、藍聯とわたしはそれぞれの家の裏に広がるクラヴィッツの森に入っていった。


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「サラ、デイジーの花言葉を知っている?」
「デイジーの花言葉?」
「そう、いろいろあるんだけど、無邪気とか、平和と希望とか。なんか歌姫のイメージにぴったりだろう?」
「ほんとだぁ」
「でも、それだけじゃないんだよ」
 あの時、どうしてわたしから顔を背けた藍聯が、微笑んでいるのにどこか苦しげなのか、わたしはまだ幼くてよく分からなかった。
「あとは何があるの?」
 尋ねたわたしの耳に、藍聯はそっと口を寄せた。
「心に秘めた愛」
「心に秘めた、愛?」
「そう。これは、きっと騎士の想いなんだ。歌姫をどんなに想っても、騎士と歌姫は結ばれることはないから。歌姫は世界を純粋に愛し、騎士はそんな歌姫を愛するために生まれてきたんだよ」


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 日没を迎えた森は、薄暮の明るさもむなしくどこか哀愁漂う蝉や虫たちの合唱が鳴り響いていた。あっという間に暗くなっていく森の獣道を、藍聯はわたしの手を引きながら迷うことなく進んでいく。
「この森、小さい時に何度も遊びに来たね」
「そうだったね。奥の広場でシロツメクサやレンゲで花冠を作ったり、かくれんぼをしたり。あの時はサラが見つからなくてどうしようかと思った」
「そうそう、ちょうどあんな大木の洞に落ちてしまっていて……あれ、それからわたし、どうしたんだっけ」
 思い出せないわたしの手を引き、藍聯はその大木の洞の前で立ち止まった。
「本当に覚えていないの?」
 薄暗くなってきているせいだろうか。藍聯の顔に陰がさしていた。
「ずるずると木の根っこの間を滑り落ちて、それから」
「サラ、君は今の歌姫の騎士に会ったことがあるはずだよ。もしかしたら、歌姫にも」
 何か痛みを堪えるように、痛ましげな表情を浮かべて藍聯は言った。
「僕もそのとき、一度だけ彼らに会ったんだ」
 そう言うと、藍聯はわたしを抱えあげ、一息に木の洞の中に飛び込んだ。あまりに突然のことに、わたしは悲鳴を上げる間もなかった。息を飲み込み、滑り落ちる感覚がなくなるまで目をつぶって藍聯にしがみついていた。
 目を開けたのは、瞼が青白いうっすらとした光に刺激されたからではない。あまりにも音程の酷い歌声が耳に突き刺さってきたからだった。
「何、この歌!?」
 声量は豊か過ぎるほどに豊か。だけど、もはや精神的な余裕を失って喉から絞り出しているその声は、歌声というよりも魔女の呪詛を思わせるものだった。
 藍聯の腕から下ろされるなり耳を塞いで辺りを見回したわたしは、目にはいってきた光景に愕然とした。
 木の根に四方天井を囲まれた広い空間。そこには二人の人がいた。男性と女性の二人。そう、おそらくもう一人、木の根の合間から苦悶に歪んだ顔の表面だけを覗かせている方も人であったはずだ。
 天井から根を下ろす巨木の前に立つ男性は、中世にでもありそうな古めかしい剣を腰に携え、ゆっくりとこちらを振り返った。
「藍聯。次の歌姫が見つかったのか?」
 藍聯は立ち竦むわたしをここに置き去りにしたまま、二人の方へと歩いていく。
「いいえ、残念ながら見つけることはできませんでした」
「彼女は?」
「彼女は僕のディーヴァではありません」
 魔女の呪詛の合間に明確に否定する藍聯の声が聞こえて、わたしは目の前が真っ暗になりそうだった。
 ばかなわたし。歌姫の宮に連れてきてもらえれば、流れで歌姫と認めてくれるかもしれないなんて、まだ期待してたんだ。
 でも、あの惨状を見てわたしはまだ歌姫になりたいなんて言えるだろうか?
「そう、か。では、何をしに来た?」
 その問いにすぐには答えず、藍聯はわたしのところに戻ってきてまた手を引いて彼らの前に立つ。
 藍聯はしっかりと顔をあげているというのに、わたしは間近に迫ったそれからできるだけ顔を背けていた。
 と、藍聯の手を握る力が強くなった。
「父さんと母さんに会いに来ました」
 はっとわたしは顔をあげた。
「父さんと、母さん?」
 素っ頓狂な声は、魔女の呪詛の歌の合間を縫って木の根に囲まれた広い空間に響き渡っていく。
 わたしの手を握りしめる藍聯の手の力はさらに強くなった。
「申し訳ありませんでした。僕が騎士としての務めを果たせないばかりに、父さんと母さんを長い間苦しませてしまった」
 わたしは何度か深く息を吸い込むと、目の前の男性と木の根に埋まりかけている女性と、それから藍聯とを見比べた。確かに藍聯の口元は男性に似ている。目元や顔の輪郭は正気であればあの女性に似ているのかもしれない。
「道聯から聞いたか?」
 父親の問いに、藍聯は小さくうなずく。
「待って、藍聯。だって歌姫と騎士は……」
「歌姫の精神さえ安定していれば、すぐに交替することもない。歌姫の歌が狂いはじめると、次の騎士に次の歌姫の声が聞こえはじめるのだから。私は私以外に血族を持たなかったから騎士でありながら早くに結婚したが、その相手が歌姫と分かったのは花聯が生まれたあとのことだった」
 この二人は、愛し合ってから引き裂かれたのか。
 わたしは唖然とした気持ちを隠せぬまま、藍聯の父を見、母を見た。
 相変わらず歌声は音程を外し、調子も悪くもはやただ苦しみに叫んでいるとしか思えないものになっている。
「カーヤは歌姫になるのが遅すぎた。だから、二十年も持たなかった。体力も衰えていた上に、純粋に世界だけを愛するには遅すぎたのだ」
「あと、二時間で世界が終わるよ。父さんは母さんを殺さなくてもいいし、僕も父さんを殺さなくていい。あと、たった二時間だけだ」
「殺す? 殺すって?」
 真っ直ぐ顔をあげたままの藍聯に、驚いたわたしは詰め寄る。
「新しい歌姫がここにきたら、騎士は自分の歌姫を殺して新しい歌姫に座を譲るんだ。そして、先代の騎士は新しい騎士が殺して自分の歌姫を守る。歌姫は地球と一体になったこの大樹に抱かれて歌を歌いはじめるけれど、年月と共に身体をとらえる大樹の根はきつくなり、歌声は狂いはじめる。あんなふうに」
 本当なら実母のあんな顔からは目をそらしたいだろうに、藍聯はぐっと唇を噛み締め、わたしの手を握り締めて憐れな歌姫を見つめた。
「次の歌姫が来なければ、騎士は自分の歌姫を苦しみから解放してやることもできない。だから……どうあっても君は僕のディーヴァにはなれない」
 いつからだった? 藍聯がわたしの歌を喜ばなくなったのは。いつからだった? 藍聯がわたしに歌姫の話をしなくなったのは。わたしが歌姫の話をすると嫌な顔をするようになったのは。
 そうだ。かくれんぼでわたしがここに落ちたあとからだ。藍聯はここで見てしまったのだ。幼いうちはまだ明かされないはずだった歌姫と騎士の悲劇を。それも、自分の父母の分かたれた姿として。
 ああ、でも藍聯。わたしはやっぱり貴方の歌姫になりたかった。わたしが歌えば貴方のいるこの世界を守ることができるというなら、わたしは歌姫になりたい。たとえ耳を澄ませる者が貴方だけだったとしても、貴方だけにわたしの心を届けたい。世界を想い歌う歌など、わたしには歌えない。でも、貴方のいるこの世界を愛しく思うことならできる。
「藍聯、わたしはやっぱり貴方の歌姫ではないの? 貴方に聞こえる歌声はわたしのものではないの?」
 藍聯は悲しげにわたしを見下ろした。
「いいや、君の声ではないよ。僕には……もっとたくさんの人たちの歌声が聞こえるんだ」
「たくさんの、人たち?」
 そんなの初耳だ。歌姫はたった一人だと思っていたのに。
「そう。どれが本当の歌姫の声なのか、ついぞ僕には分からずじまいだった。確かに女性の切ない歌声も聞こえているというのに、聞こえている声の主全員を探してつれてこなければ、地球も許してはくれない。そんなこと、はじめから僕には無理だった」
 気づいたとき、わたしの右手は藍聯の頬をはたいていた。
「嘘つき!」
「嘘じゃないよ」
 わたしは藍聯の手を振りほどき、音の狂った歌を歌い続ける歌姫の元に駆け寄った。
 知ってる。わたしこの歌を知っている。音が狂い、調子も狂っていてすぐには気づけなかったけど、小さい頃、藍聯が教えてくれた歌姫の歌だ。本当は心が切なく締めつけられる歌姫の歌の中で唯一の恋の歌。あの頃は意味も分からず歌っていたけど、これは触れることも想うことも許されなくなった騎士をそれでも慕う歌姫の歌だ。


『お願い、聞いて、貴方。
わたしのたった一人の愛しき騎士様。
この歌は貴方のためだけに歌うわ。
たとえこの気持ちが貴方に届かなかったとしても、
わたしはきっと声嗄れるまで、貴方に向けて歌い続ける。
この口と喉がある限り、たとえ全てを奪われたとしても、
わたしは貴方のためだけに歌い続ける。
そう、たとえ地球が回らなくなっても。』


 今の歌姫、藍聯のお母さん――一緒に歌っていると、痛いくらい貴女の気持ちが伝わってくる。純粋に世界を愛するには遅すぎたと藍聯のお父さんは言ったけど、この世に見ず知らずの人たちがたくさんひしめく「世界」を純粋に愛することのできる人などどこにいよう。そんな抽象的なものを愛せる人を、わたしは知らない。でも、愛した人がいる世界を愛することは難しくはない。そうでなければどうしてこんな騎士への恋の歌が歌姫の歌として歌い継がれよう。
「藍聯のお母さんも、旦那さんや藍聯たちを守りたくて歌っているんですよね」
 わたしは歌姫のやせこけた頬に両手で触れた。虚ろだった歌姫の両目にふと光が宿り、一粒、涙をこぼした。口は音程を取り戻した歌を紡ぐから喋れない。でも、目は驚くほど雄弁に語りかけてくる。
「わたしがみんなを守るから」
 と。
 そうだ。そのために貴女はここにいる。
 じゃあ、わたしは?
 時計に目を落とそうとした時、壁と天井を揺るがすほどの地響きが、わたしたちが潜り抜けてきた穴から伝わってきた。
「何?!」
「まさか……!」
 ばらばらと天井から木の根の欠片が落ちてくる。
「あいつら、この場所を見つけるために僕のことを泳がせていたのか」
 歯軋りした藍聯は、わたしに駆け寄り腕を掴む。
「藍聯、痛い」
「政府の奴らは本気で世界を滅ぼしてしまいたいらしい。全く、あと二時間もないというのにせっかちなことだ。サラ、残りの二時間、僕と一緒にいてくれないか」
 はぐらかさずに真摯にわたしを見つめる藍聯の目を、わたしははじめて見た気がする。
 思わず一も二もなくうなずきそうになって、わたしは躊躇った。
 あれほど大好きだった藍聯と最後の二時間を水入らずで過ごせるならどんなにいいだろう。だけど、世界にはフレイヤの舞台を待っている人が大勢いる。
「王藍聯。サラ・ミーシア誘拐容疑で緊急逮捕する。直ちに武器を捨て、彼女をつれて投降せよ」
 わたしたちが抜けてきた穴からカーキ色の戦闘服に防弾チョッキを着込んだ人々が次々に降りてくる。そのうちの一人が拡声器で言った言葉に、わたしは思わず藍聯を見上げた。
「まさかわたしを人質にしようとして連れてきたの……?」
 途端に、藍聯の顔は悲しげに歪められた。腕を掴んでいた手からも力が抜ける。
 違う。違うんだ。藍聯にそんなつもりはなかった。
「ごめんなさい。わたし、嫌な見方をしちゃった」
 慌ててすがろうとしたわたしの手を、藍聯は振り払う。
「藍聯、これを持って二人で逃げなさい」
 わたしから顔を背けた藍聯に、藍聯のお父さんは持っていた剣を渡した。
「でも父さん、母さんは……?」
「なに。歌姫を守るのが騎士の務め。体一つあれば事足りる。最後に藍聯に会えて、わたしも母さんも嬉しかったぞ」
 自信のこもった笑顔でそう言うと、藍聯のお父さんは、いや、歌姫の騎士は歌姫の前に跪き、大樹の根ごとその身体を抱きしめた。
「早くサラ・ミーシアを解放しなさい。さもなくば」
 到着した順に、兵士たちは銃撃の準備を始める。
「行ってもいいよ。父さんの言うことは気にするな」
 そっと藍聯があたしの肩を前に押し出そうとする。その手を掴んで、わたしは固く指を絡ませた。
「わたしも藍聯と一緒に行く」
 もう裏切れないと思った。たとえ世界中の人々を最後に裏切ることになってしまったとしても、藍聯のことはもう裏切りたくないと思った。
 藍聯は何も言わずわたしのつないだ手を握り締めるとわたしを抱きかかえ、脇に剣を携えて、歌姫が囚われた根の傍らにぽっかりとあいた小さな穴に滑り込んだ。
 背後には激しい銃声が鳴り響いていた。


************


「歌姫を守ることは、世界を守ることなんだよ」
「守るって、何から守るの?」
「うーん、わかんない」
「悪い人が歌姫を狙っているの?」
「そうかもしれないね」
「うーん、じゃあ、わたしも歌姫を守る」
「うん、そうだね。一緒に守ろう、歌姫を」
「それで、歌姫っていつもどんな歌を歌っているの?」
「僕に聞こえる歌姫の歌はね……」
 初めて聞いた歌姫の歌はとても穏やかでやさしくて、それでいて元気の出る歌だった。
 それは覚えているのに、どうして忘れてしまっていたんだろう。
 きっと、わたしが藍聯を独り占めしたかったからね。
「おかしいんだよ。歌姫ってたった一人のはずなのに、どうしてだか僕にはたった一人の女性の声のほかにもたくさんの人々の声が聞こえるんだ。お兄ちゃんはね、そんなこと、あるはずないって言うんだけど。でも、確かにいろんな声が一緒に合唱してるんだよ」
「それじゃあみんな探し当てないといけないね。大変だぁ」
「大変だけど必ず見つけ出して、みんなみんな、僕が守ってあげるんだ」
「ずるーい、わたしも守るー」
「じゃあ、同盟の証だ」
 器用に編まれたシロツメクサの花冠を頭に載せられたときから、わたしは歌姫を守るのではなく、藍聯のたった一人の歌姫になりたいと思ったのだ。


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 木の根の間を滑りぬけ、たどり着いたのはいくつにも枝分かれした大昔の坑道だった。いつ崩れるとも知れない坑道の中をどこへ向かっているのかも分からないまま藍聯に手を引かれながら進み、やがて銃声が聞こえなくなったところで、滑車の陰に二人で身を寄せ合って座り込んだ。
 どちらからともなく唇を寄せ合ったのはお互いの温もりを確かめたかったからだったかもしれない。思えば幼馴染のまま別れてから今日まで実に九年間、触れ合うことはおろか、顔を見ることもなかったのだ。この最後の時に出会えたのは、歌姫のくれた奇跡だったのかもしれない。
「ずっと、君の声が聞きたかった。フレイヤの歌じゃなく、歌姫の歌を歌うサラの歌声が……ずっと聞きたくてしょうがなかった」
 藍聯の声が耳をくすぐる。見つからないようにとても小さく潜めた声なのに、胸の奥底にまで広がってしみわたっていく。
「何度も何度も小さい時のサラの歌声を思い出していた。何度も何度も、一人のときや、兄さんたちが亡くなったと聞いたときも君の歌声を思い出していた。今日、ようやく君の歌が聞けた。嬉しかったよ、とても」
「今歌えたらいいのに。精一杯心を込めて、貴方のためだけに歌えればいいのに」
「そうだね。もっとサラの歌が聞けたらいいのに。こんなことならもっと早く逢いに行けばよかった。君は何も変わってない。あの頃のままだ」
 今にも見つかれば二人ともども殺されてしまうかもしれない。たとえ生き延びられても、隕石の衝突が予想されている時間まであと一時間も残っていない。
 そうだ、もう最後の舞台は始まっている。たくさんの人たちの最後の期待を裏切ってしまった。でも、きっとゲストの人々が盛り上げてくれているだろう。
 そうは思っても、個人的な幸福に浸れば浸るほど、舞台の青白い光が目裏にちらつきはじめる。
 ふと、わたしは腕時計の時間を確認していた。
 午後七時四十七分。
 一時間後には、わたしたちはいない。
 それならこのまま、二人でずっといられたら。
 そう思うのに。
「気になる? 舞台」
 見透かしたように藍聯は言った。
 わたしは懸命に首を振る。
「嘘だ。さっきから何回も時計を見てる」
「あとどれくらい藍聯と一緒にいられるのかって……」
「気になるんだろう、舞台。フレイヤとして大事な舞台があるって分かっててつれてきたのは僕だ。君を歌姫にはしたくなかった。僕は楽しく歌ってるサラが好きだったんだ。僕の母さんのような目には遭わせたくなかった」
「え……藍聯、それって、わたし本当は……」
 藍聯は無言のまま目を閉じる。
「きっと今頃フレイヤのために用意された野外劇場の舞台では、世界中から集められたゲストたちが終わりを待つ人々の心を慰めているんだろう。でも、世界中が待ち望むフレイヤは、世界が終わる三十分前を過ぎても舞台に顔を見せない。ゲストたちも、世界中の人々も、きっとやきもきしながら君を待ってる」
「藍聯。意地悪いわないで」
「今なら分かる気がする。君がいるべきなのはここじゃない。君がいるべきなのは……大勢の聴衆の前だ。君の歌に耳を傾け、共に歌いはじめる大勢の聴衆たち――その歌声こそが、僕が歌姫の声として聞いた歌声だったんだ」
 わたしの胸は、張り裂けんばかりの思いで一杯に膨らんでいった。
「わたし、ずっと貴方のディーヴァになりたかった。ずっとずっと、貴方の探し求める歌姫になりたかった」
「うん、知ってた。確信は持てなかったけど、僕はやっぱり知ってたんだ。君が僕の歌姫だと。でも――」
 藍聯は左手の皮手袋を抜き取り、現れた雛菊のあざをしげしげと見つめた。
「歌姫と騎士は所詮結ばれない。嫌だったんだ。目の前にいるのにこの世で一番遠い存在になってしまうのは。フレイヤを見たとき、同じ気分を味わったけど、でも君は自由だったから。樹木の牢につながれて僕の前だけで同じ歌を歌いつづけるよりも、よかったんだと思った。ばかだろう? 僕は僕一つの想いで僕もサラも、世界をも滅ぼすんだ」
 わたし、大事にされていたんだ。
 ずっと逢うことがなくても、大事に思われていたんだ。
「でも、まだ間に合うかもしれない」
 ふ、と藍聯は口元に笑みを浮かべた。
 わたしはぞっと背中に嫌なものが走った。
 直後に銃声が鳴り響く。
 藍聯は強くわたしを抱きしめた。わたしも強く藍聯を抱きしめた。永遠に続けばいいと思った時間は、刹那にも満たなかったかもしれない。
「さあ、行け。あっちに真っ直ぐ進めば迷うことなく野外劇場の裏に出られる」
 立ち上がった藍聯は、力強くわたしの肩を押した。
「はじめからそのつもりで? そんな。藍聯も一緒に……」
 取りすがろうとしたわたしに、藍聯は自分の足元に広がる黒い水溜りを指差して見せた。
「それは……血?」
 気がつかなかった。なんて愚かなんだろう、わたしは。
「どこから出血してるの? すぐに止血しないと。さっき逃げる時に撃たれたのね?」
 慌ててわたしが取り出したハンカチを奪い取って、藍聯は掠め取るようにわたしの唇を奪った。
「これできっと、うまく歌える」
「そんな、冗談言ってないで……」
「冗談なんかじゃない。歌姫の騎士の加護なのだから、信じられるね?」
 わたしは首を振ることもうなずくこともできず、ただ藍聯を見上げる。
「さあ、行け。君は故郷の舞台に立つのが夢だといった。その夢をかなえるのが今日だったはずだ。まだ間に合う。君は君の夢を叶え、そして、僕の夢も叶えてくれ。歌姫と世界を守るという僕の夢を」
 銃声と兵士たちを呼び集める声が鳴り響く。
「大丈夫、僕はずっとサラの前にいる。今度こそ聞き逃さずにずっとサラの歌を聴いているから。だから行くんだ、サラ。――僕のディーヴァ」
 ああ、ようやく藍聯の口からディーヴァと呼んでもらえたのに。行かなければならないんだ、わたしは。
「守ってちょうだいね。隕石が流れてきても、わたしが怯えて舞台から逃げ出さないように。しっかりと最期まで歌い続けられるように。誰もいなくなっても、貴方だけはわたしの歌を聞いていて。藍聯、わたしの騎士様」
 短く抱擁を交わして、わたしは藍聯の指し示した方向へと駆け出した。
「振り返るな。僕は何があってもサラの前にいるから」
 その言葉を胸に抱きしめて。
 何発か銃弾がかすめていったのか、身体のどこかに熱い痛みが走ったような気もするが、立ち止まる間も、手をあてる間もなく、わたしは坑道を走りぬけた。


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<罪に慄く〜ディーヴァに祈る〜最後の聴衆>
ずっとずっと思ってたんだ。
君が僕のディーヴァであればいいのにって。


僕はいったい今まで何をしてきたのだろう。
蹲ってばかりいて。耳を塞いでばかりいて。
顔を上げられない。精神不安。続く白夜。


朝が来ない。


挫折を味わうたびに目的をどんどん摩り替えていったら、
本当に守りたかったものまで摩り替えてしまっていた。


ばかだね。
あまりに愚かで、何も言葉が出ない。
だけど、今更だけど、思い出した。


さぁ、歌っておくれ。
美しき声を持つ愛しき人よ。
君の歌が僕を癒す。
僕の愛した君の声こそが、ディーヴァの歌声。
僕の捜し求めてきた、守るべきディーヴァの歌声。


歌え、我が愛しきディーヴァ。
その命、尽きるときまで。
世界が果てるときまで。


たとえ何人も耳を澄ます者がいなくなったとしても、
この耳だけは君の元に残るだろう。
悲しむことは何もない。
君が歌い続ける限り、世界は回り続ける。
僕の心は、君に寄り添い続ける。


************


「何泣いてるんだよ。ほら、舞台まであともう少しだ。走れ。まだ間に合うぞ」
 いつの間に追い越されたのだろう。
 藍聯がわたしの前で笑って手を差し伸べていた。
 わたしは、胸が一杯に詰まって呼吸が出来なくなるかと思った。
 藍聯がわたしに笑いかけている。もう、どれだけ見せてくれなかっただろう。藍聯が旅に出る前はよく一緒に笑いあっていたよね。あれはそのときの笑顔だ。
 わたしは彼の手をとった。
 冷たい手。
 でも、彼の手は確かにわたしを舞台袖まで導いてくれた。
 午後八時五分。
 「どこに行ってたんだ」とは、マネージャーは言わなかった。
「すみませんでした」
「着替えなくていい。そのまま舞台に立つんだ。聞こえるだろう? お前の名を呼ぶ観客たちの声が。みんな待ってたんだ。胸を張って歌え。歌姫、お前の歌を」
 そうだ。わたしは歌姫なんだ。藍聯の、そして、世界の。
 うなずいて、わたしは舞台へと上がる階段を上った。
 暗闇の中、不意に深海のように青い世界が広がる。
「フーレーイヤ、フーレーイヤ、フーレーイヤ」
 わたしを待ち焦がれる聴衆たちのコール。
 埋め尽くされた人々は手に手に青いペンライトを持ち、それはまるで、そう一つ一つが暗黒の宇宙に浮かぶ青い地球のようだった。
 ああ、歌いたい。
 身を震わせるほど強い思いが全身を駆け抜けた。
 わたしは白く浮かび上がる一台のピアノの前に座った。
 鍵盤に置いた手が震える。
 ねぇ、藍聯。歌姫と騎士は一蓮托生。わたしがまだ生きているってことは、貴方もまだ、生きているってことよね。
 もう少しだけ、待っていて。
 ね、わたしの歌を聞く時間くらいあるでしょう?
 聞いて、藍聯。わたしの歌を。
 会場が静まり返る。
「〈Wish for Peace〉」
 これは、本当は三曲目に歌うはずだったこの日のために政府が作詞した歌。曲だけをわたしがつけたのだ。
 前奏。長調から始まるバラード。指は滑らかに動いている。大丈夫、歌える。




〈Wish for Peace〉
誰もが幸せに生きたいと願ってる。
誰もが自分の愛する人を幸せにしたいと願ってる。
でもちょっと待って。
あなたの愛は、もしかしたら誰かを守るために誰かを傷つけるかもしれない。
あなたの愛は、もしかしたら愛する人を守りたいがために、愛する人を傷つけるかもしれない。
人は誰も、他人の気持ちを覗くことはできない。
人は誰も、自らの言葉なくしては自分をわかってもらうことはできない。
だからさあ、口を開いて。押し込めていた気持ちを吐き出して。
傷つけること、傷つけられることを恐れても、伝え合わなければ始まらない。
信じることを恐れないで。
みんなが心を開けば……




 みんなが心を開けば、みんなが幸せになれる?
 自分も愛する人も、見知らぬ人も、みんなみんな?
 はたと気づいたら、ピアノを弾く手は次の和音を奏で損ねたまま止まっていた。
 ねぇ、どうして藍聯の家族は殺されなきゃならなかったんだろう。どうして藍聯をあの薄暗く湿った坑道の中に残してこなければならなかったんだろう。
 ねぇ、どうして?
 心を開く前に、言葉を投げかける前に、一方的に逮捕すると銃口を向けてきたのは、この歌を歌わせている政府の方だ。藍聯に怪我を負わせて、わたしと引き離したのは政府の方だ。
「藍聯……」
 涙でかすんだ視界の中、青い光の中に見えるのは藍聯ただ一人。
「ごめん、なさい……わたしもう、歌えない……」
 ごめんね、藍聯。わたし歌姫失格だね。みんなの期待裏切って、大切な最後の歌、歌えなくなっちゃった。
 不意に、きらりと空の片隅が輝いた気がした。その光は次第に大きくなってくる。
 ざわめきたった場内のどこからだろう。再びコールが始まる。
「フーレーイヤ、フーレーイヤ……」
 わたしはさっきの曲を続けようと口を開いたが、何も歌詞が出てこなかった。
 茫然とするわたしの前、藍聯が舞台中央階段をゆっくりと上ってくる。
「サラ、歌って。君の歌を。僕はここにいるから」
 ピアノの傍らに立った藍聯は、やさしく微笑んだ。
 わたしは一度鍵盤から手を下ろし、顔を伏せる。
「皆さん、ごめんなさい。わたし……わたしの歌いたい歌を歌いたい」
 ざわめきが鎮まり、会場中の空気が張り詰める。
 わたしは近づく隕石のせいで明るくなりはじめた日の出前の空によく似たすみれ色の空を見上げた。
「歌わせてください。――〈歌姫〉」




〈歌姫〉
歌えば歌うほど、自分が惨めになる気がした。
聴衆が手を叩けば叩くほど、自分が汚されていく気がした。
違うの。
わたしはあなた達のために歌ってきたんじゃない。
あなた達の心を震わせるために歌ってきたんじゃないの。
ごめんなさい。わたし、もう歌えない。
わたしの声も想いも歌も、わたしの全てはあの人のもの。
あなた達に差し出せるものは何もなかったの。


お願い、聞いて、貴方。
わたしのたった一人の愛しき騎士様。
この歌は貴方のためだけに歌うわ。
たとえこの気持ちが貴方に届かなかったとしても、
わたしはきっと声嗄れるまで、貴方に向けて歌い続ける。
この口と喉がある限り、たとえ全てを奪われたとしても、
わたしは貴方のためだけに歌い続ける。
そう、たとえ地球が回らなくなっても。


気づいて。
愛しきわたしの騎士様。
これが貴方のディーヴァの歌声。
これが、貴方だけのディーヴァの歌。
守ってなんて言わない。
貴方がいなくなったら、わたしは歌う意味を失ってしまうから。
ただ、いてほしいの。わたしの前に。
そして、わたしだけを聴いていて。


静まり返った舞台。
大勢の聴衆は闇に呑まれて、ライトはわたしだけを照らしている。
目の前には、貴方。
そう、いま、世界は真実わたしたちだけのもの。
流れるメロディ。聴きなれた旋律。
でも、今宵だけは特別。
貴方の魂に捧げます。
貴方が口ずさんで教えてくれた二人だけの秘密の歌を。


だから、お願い。
今宵、わたしを貴方だけの歌姫にして。




 ずっと耳を傾けるばかりだった聴衆たちは、いつの間にか歌詞こそ違えどわたしの声に自らの声を重ねていた。
 きっとみんな、それぞれの思い人を思い浮かべていたのだろう。
 ねぇ、藍聯、聞こえてる?
 世界のみんなが歌っているわ。
 きっとこれが、貴方に聞こえつづけた歌だったのね。
 ようやく、わたしも貴方の愛した歌を聞くことができたわ。
 ね、聞こえるでしょう?
 藍、聯。




 宇宙機構は隕石の破壊に失敗したが、隕石はなぜか大気圏に突入する直前、爆発して飛散した。その光はあまねく全世界をのみ込んだ。まるで隕石が衝突したかのような轟音と爆風ともに。
 衝突予測地点であったクラヴィッツの野外劇場では、光が消え去った時、一人の女性がピアノに覆いかぶさるように倒れていた。
 彼女の背中と太腿からはおびただしい量の血が流れ出で、白いピアノの足を赤く染めるほどだったというが、目を閉じたその顔は満ち足りた笑顔であったという。




 ――世界滅亡の日。貴方に届けたいのはわたしの心。








〈了〉






書斎 管理人室 読了

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