夏の夕凪、丘の上に寝ころびて星を待つこと


『ほら、そこに見えるだろう? 白いデネブ。あっちには赤いアンタレス。地平線ぎりぎりに猛毒の尾を垂れている』
 星座を教えてくれたのは祐二先生だった。丘の上に仰向けに寝転んで眺める星々は、全て自分のもののように思ってた。
 誰にもあげない。
 そう思っては夜中に飛び起きて、他に星を盗む奴がいないか首を巡らせては見張っていた。
 それは、祐二先生が町を出て行ってしまった今でも続いている。
「垂仁、そろそろお寺さんに上映会の準備しに行く時間じゃない?」
「ああ、もうそんな時間か。今行くよ」
 祐二先生が東京に行ってしまったと聞いたとき、僕たちは置いていかれたと思ったものだ。山々の尾根の合間に作られた小さな集落のような町。周りは見渡す限り緑の裾野が続き、中心部には商店街ともいえない短い通りに午後六時で店を閉める商店が軒を連ねていた。僕が小さかった当時から町はもう少子高齢化が始まっていて、いるのは年寄りと家業を継いだ中年の父母たちとその子供たちだけ。学校は一学年平均十五人の小学校と中学校が一校ずつ。高校は二山越えて隣町まで通わなければならなかった。祐二先生は、そんな衰退の一途をたどる町に小学校の教師として久々に戻ってきた地元出身の若者だった。
 僕たちと祐二先生が一緒に過ごしたのはたった二年半。三回目の夏休みが終わったとき、祐二先生はこの町からいなくなっていた。
 いなくなった理由は今でもわからない。
 大学を卒業して、祐二先生と同じようにこの町の小学校の教諭として戻ってきて、三回目はとうに過ぎて六回目の夏休み。僕は先生がなぜこの町からいなくなったのか、もう知りたいとは思わなくなっていた。
 あの頃は置いていかれた寂しさだけが僕たちを包み込んでいたけれど、夏休みが来るたびに寂しさは先生がいないことへの苛立ちとなり、怒りとなり、憎しみとなり、そうこうしているうちに、染人は高二の夏に大学受験のために仙台の高校に転校していき、羽瑠希は高校卒業とともに東京に働きに行った。僕はくすぶり続ける感情をもてあましながら地元から一番近い盛岡の大学に進学し、幼い頃の思い出を忘れるように彼女を作って学生らしい生活を送り、しかしやはり忘れられずにこの町に戻ってきたのだった。祐二先生と同じ小学校の教師として。
「先生ー、こんばんはー」
「先生ー、今日の上映会は何やるのー?」
 夏の夕べに流れる時間は緩慢だ。上映会の行われる寺まで田畑を一直線に突き抜ける農道を蛙とひぐらしの声を聞きながら歩いていると、とんぼを糸に結んで連れ歩く栄子と風見が僕を追いかけて来、それからもう一人、この辺では見かけない女の子がさらに後ろから心もとない走り方で追ってきた。
 背中に飛びついてきた風見の糸につながれたとんぼはまだ赤くはない。黒っぽいしおからとんぼだ。薄い翅で羽ばたきを繰り返し、何とか糸から逃れようとしながらも、命乞い代わりに腹を蠕動させてはらはらと卵を産み落としている。
「今日の映画は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だよ」
 風見を負ぶいなおして答えると、一昨年、その映画を見て大泣きしたことのある栄子が見る間に青ざめふくれっつらになって俯いてしまった。
「『銀河鉄道の夜』って、あの猫が出てくるやつ?」
「そうだよ」
「栄子、あれ、嫌い」
「どうして?」
「だって暗いもん。怖いもん。町の人は冷たいし、お母さんはかわいそうだし、はじめ何やってるかよくわかんないし、カンパネルラとは最後まで一緒にいられなかったし……どうしてまたその映画なの?」
 夕暮の薄明かりの中、澱みない黒い目がまっすぐに僕を見上げる。
「どうしてって……」
 映写機用のフィルムで画質がましなのがそれだったというか、新しいフィルムを買う予算が今年はなかったというか……大人にはいろいろと事情があるんだ、と言いかけた言葉を飲み込んで、僕は先生らしく笑顔を作る。
「『銀河鉄道の夜』は岩手県出身の宮沢賢治が作った代表的なお話だから、みんなにも一度は見ておいてほしい映画なんだよ」
「でも栄子は一回見たもん」
「風見は見たっけ? 確か一昨年はまだ幼稚園だったから、暗くなったとたんに眠っちゃったんじゃなかったっけ?」
「うん、風見はまだ見てないよ」
 背中から期待に満ちた声を発した風見を、姉の栄子はぎろりと睨んだ。
 確かに、いくらアニメにしているとはいえ、まだ小学校低学年や中学年の栄子たちにとっては『銀河鉄道の夜』は難解すぎて気味の悪いものかもしれない。同じ年頃に見せられた僕なんか、話云々以前に猫が日本語を喋っているのが気味悪くて上映会を最初に脱落した口だ。あのアニメは『火垂るの墓』と同じくトラウマ属性のアニメだと思う。しかし、しかしだ。小さいときにとりあえず見ておくと、大学生になったときとかに実際に本を読んでいなくてもなんとなく話をあわせ、文学系の女の子を口説き落とすなんてことも可能になるものなのだ。そしてたまに「本当の幸せってなんだろう」という言葉が頭をよぎるようになったとき、ふとあの青い猫の顔を思い出したりするものなのだ。
「飛穂(ひすい)ちゃんもまだ見たことないよね」
 背中の風見は、無表情で栄子より大きなおにやんまを結んだ糸を握る少女に機嫌よく声をかけた。
 飛穂と呼ばれた少女はやはり無表情のままこっくり頷く。その様子を見て、僕は思わず栄子に尋ねていた。
「この子は?」
 夏休み、都会に出て行った人たちが一時的に子供を連れて避暑がわりに帰ってくることは珍しいことではない。ただ、そういう人たちは割と子供が小さいうちから帰ってくるものだから、栄子と同じくらいなのに見かけたことのない子供がいるというのは、近年まれに見る椿事だった。
「長常寺のお孫さんの飛穂ちゃんだよ。昨日東京から来たばっかりなんだって」
「長常寺の、孫?」
 思わず素っ頓狂な声を出してしまった僕を、二人の少女たちはぎょっとしたように見上げ、風見は驚いて落っこちそうになってしまった。
「ああ、ごめんごめん」
 再度風見を背負いなおし、僕は珍客の少女を見下ろした。
「こんばんは、はじめまして。僕は二ツ神垂仁。二谷小学校で先生をしているんだ」
「栄子の担任の先生なんだよ」
 飛穂は硬い表情のまま小さく会釈だけした。
 ずいぶん表情の少ない子供だ。これじゃあ、いくら天真爛漫な栄子たちでもとっつきにくかったんじゃなかろうか。
 ちらりと栄子の方を見やると、栄子は察してくれと言わんばかりに困ったような表情を浮かべて見せた。この表情からするに、飛穂がおにやんまの糸を握ってること自体が奇跡のように思えてくる。
「先生、飛穂ちゃんね、ここにはさそりの洞窟見に来たんだって。先生は知ってる? さそりの洞窟なんて、風見見たことも聞いたことないんだけど」
 怪訝そうにしてしまった僕の雰囲気を敏感に感じ取ったのだろう。背中から風見がわざとらしくしおからとんぼを振り回しながら無邪気に言う。
「うそじゃないよ。ママが言ったんだもん。さそりの洞窟見に行こうかって」
 初めて聞いた飛穂の声は、幼いながらも確かに聞き覚えのあるもののような気がした。白い肌も、目元も、誰かに似ている。
『蠍座はオリオン座のちょうど正反対のところにいるんだ。蠍が空に上がってくる夏になると、オリオンは地平線に沈んでいく。蠍が地平線に沈むようになると、安心して空のど真ん中を大手を振って歩きはじめるんだ』
『うわぁ、なんかオリオンて嫌な奴だね。冬に聞いたときはすごい英雄だって、祐二先生言ってたのに』
『そう、そのとおり。オリオンはすごい英雄だったんだけど、それを鼻にかけちゃったんだな。俺は強いんだぞーって天に向かって言っちゃったんだ。それを聞いた天の神様の奥さん、ヘラって言うんだけど、ヘラはえらい怒っちゃってね。何せヘラは天の神様である自分の旦那さんが一番じゃないと面白くない。そこにきて、月の女神のダイアナが人間のオリオンに一目ぼれしてしまった。女神が人間に恋をするなんて一大スキャンダルもいいところだ。諸々のことを腹に据えかねたヘラはえーい、オリオンなんかいなくなってしまえー、と毒をもった蠍を歩いているオリオンに仕向けて殺してしまったんだ』
『うぉぉ、ヘラ、怖ぇ』
『せんせー、モロモロってなにー?』
『それで? それでオリオンはどうなっちゃったの?』
 祐二先生は丘の草原に寝転がった僕たちを僕、染人、羽瑠希の順に見渡すと、夜空を見上げて蠍の火を指差した。
『ヘラの旦那のゼウスはオリオンの功績をそれなりに認めていたから、ああやって天に上げて星座にしてあげたんだ。ヘラはオリオンがまた鼻高々にならないように、蠍を星座にして正反対の位置に置いて見張らせることにした。だからオリオン座は蠍座の赤い火が見えると怖くて急いで地平線に沈んでしまうんだよ』
『へぇぇ。でも、蠍もよくやるよな。年がら年中オリオンのケツ追っかけるなんてさ』
『ま、ヘラから言いつけられた仕事だからね。怖かったんじゃないの? でも、別な説もある』
 さらりと流すのかと思いきや、星明りの下、きらりと先生の目が光ったことを僕は今でも覚えている。
『オリオンは蠍を見ると逃げ出すけど、蠍はオリオンのこと嫌いじゃなかった。本当はオリオンを刺し殺してしまったことを謝りたくて追いかけているのかもしれない、ってね』
 急くように肋骨の中で暴れはじめた心臓に、動揺していることを勘のいい風見に気づかれなければいいと願いながら、僕は忘れかけていた二十年近くも前の出来事を目の前から振り払った。
「蠍の洞窟……オリオンの洞窟なら、昔聞いたことがあったかな。蠍に追われたオリオンが逃げ込んだ洞窟が寺の裏山の沢の上にあるって」
 俄かに口の中に広がった苦味に、僕はまだ祐二先生のことを許せずにいたことに気がついた。
 それは祐二先生が教えてくれた話だった。寺の裏山で祐二先生と僕と染人と羽瑠希の三人でざりがに釣りに行ったとき、羽瑠希は僕が釣り上げたざりがにを指差して言ったのだ。『あ、蠍だ』と。
『ばーか。蠍がこの辺にいるわけないだろ。これはざりがに。蠍はもっとあったかいところにいるもんなんだよ』
 あからさまに馬鹿にすると、羽瑠希は赤くなって俯いてしまった。『でも天の川にはいるじゃない』と小さな声で抗議したのだが、僕は聞こえないふりをした。
『蠍かぁ。ここだけの話なんだけど、実はいたらしいんだよ、この辺にも蠍。この沢をずっと登っていくと小さな洞窟が一つあるんだが、その洞窟がオリオンが蠍怖さに逃げ隠れた洞窟だって言われてるんだ。蠍はその洞窟に隠れているオリオンを見つけてさ、刺し殺してしまったお詫びに、寒さに震えるオリオンを暖めようと、自らを赤い火で焼いて暖めようとしたんだって。その火が今でも洞窟の中に残っているらしいよ』
 ここは日本だ。死んでいるとはいえオリオンが来るわけがない。今なら普通にそう思えるのだが、あの頃の僕たちにとっては祐二先生の話はどれも真実だった。
「あるの? ほんとにあるの? オリオンの洞窟!」
「オリオンじゃないよ。さそりの洞窟だよ」
 背中で飛び上がる風見に小さく飛穂が抗議する。
「ねぇ、先生、風見行ってみたい、オリオンの洞窟」
「うーん、残念ながら、先生も話に聞いただけで行ったことはないんだ」
 連れて行ってくれるって約束したのに、その翌日、先生はいなくなっていた。
「あ、明日にでも寺の裏山入って探してみようなんて絶対思うなよ。あの山、昔迷子になった奴がいるんだからな」
「えー」
 風見と栄子が前と後ろでぶーたれると同時に、ふわりと子供たちを包み込むような優しい笑い声が栄子の後ろから聞こえてきた。
「裏山に入って迷子になった奴って、わたしのことかな、タル君」
 顔をあげて確認するまでもない。風にとけるような切ない声は、長常寺の娘、十年前にこの町を出て行った羽瑠希のものだった。
「他に誰がいる」
 羽瑠希。思わず呼びかけそうになった間の抜けた声を飲み込んで、僕は昔のように意地悪い笑みを作って声の主を見上げた。
「少なくとも、羽瑠希が迷子になってからは誰も迷子になっちゃいないよ」
 若干意地悪く低くなった僕の声を敏感に察したらしい。
「先生、飛穂ちゃんのママと知り合いなの?」
 おしゃまな栄子が目を輝かせている。
「あー、幼馴染って奴だよ」
 明日のPTA、もとい町中の反応を想像して夕焼け空に視線を泳がせた僕の前では、幼馴染との感動の再会の続きではなく、母と娘の再会が果たされていた。
「ママー」
 羽瑠希の足に泣いて飛び縋った飛穂の手からは、せっかくの大きなおにやんまが白い糸をぶら下げたまま夕焼け空に飛び去っていく。
「飛穂、いい子にしていた? お姉ちゃんたちと遊べてよかったね」
 どうやらずっと泣くのを我慢していたらしい羽瑠希の娘は、ひとしきり泣いた後で羽瑠希におぶわれると、おとなしく母の背中に引っ付いて目を閉じた。
「じゃ、行きましょうか。上映会、映写機の調子が余りよくなくて、早くタル君呼んで来いってみんなが言うもんだから」
 すたすたと歩きはじめた羽瑠希は、僕に背を向けたまま言い訳がましくそう言った。僕は、片手で風見を支え、もう片手で栄子の手を取って歩き出す。
「いつ帰ってきたんだ?」
「昨日の夜」
「何、しに?」
 流れのままに十年ぶりに帰ってきた幼馴染にその理由を尋ねた僕は、一歩しかない羽瑠希の背中との間に計り知れない距離を感じて慌てて問いを撤回しにかかった。
「あ、別にそんなのどうだっていいよな。実家があるんだから、帰ってくるのは当たり前だよな」
「お骨、納めに来たの」
 ぽつりと羽瑠希の口からこぼれ出た言葉に、嫌な予感がして僕は思わず足を止めていた。数歩先に進んでしまった栄子が不満そうに振り返る。
「お骨って……」
「先生の。祐二先生のお骨。タル君なら覚えてるでしょ? 祐二先生のこと」
 羽瑠希は振り向かなかった。どんどん、どんどん先に先にと寺への道を歩いていって、茫然としてしまった僕は、情けないことに栄子に手を引かれるがままに心もとない足取りで上映会場である羽瑠希の実家に行ったのだ。それから映写機のねじを一本締めなおして、木と木の間に大きな白い布をいっぱいに張り出して、町長のちょっと長い話とともに上映会が始まって、気がついたら簡易スクリーンの中では青い猫の顔をしたジョバンニがせっせと薄暗い活版印刷工場で文字を拾っていた。
 祐二先生の、お骨。
 吐き出す息とともに心の中で反芻した言葉の衝撃を外に出す。
 嫌いになっていたはずだ。約束破りの祐二先生なんか、死んでしまえ、もう二度と戻ってくるなと、何度も心の中で詰り倒したはずだ。今でさえ祐二先生のことを思い出すと、二十八歳、教師着任六年目の栄子たちの先生なんかではなく、置いてきぼりを食らわされた十二歳の生徒に戻ってしまう。大学生活の四年をかけて胸の奥底に封じ込めたつもりの祐二先生との記憶が、努力むなしく鮮やかに脳裏に蘇ってくる。
 目頭が熱くなった僕は、そっと上映会の会場を抜け出した。
 とっぷりと日の暮れた山間の景色は、尾根も何もわからず、ただ暗闇だけが広がる。上を見上げれば、盛岡では貴重だった天の川が当たり前のように頭上を横切り、相変わらず牽牛と織姫の間を隔てている。その下流では赤い蠍が青白い川に毒針を垂れている。蠍とざりがに。今思えば、祐二先生に倣って空ばかり見上げていた羽瑠希が間違えるのも無理はなかったのかもしれない。
「タル君」
 不意に呼びかけられて、僕は目頭を押さえることも忘れて後ろを振り返った。
「あ、ごめん」
「いいよ。何?」
 一度背を向けて天を仰ぎ、溢れかけた涙を目に流し戻して、僕は幼馴染に向けるものではないきわめて他人行儀な笑顔を作った。羽瑠希は一瞬面食らったような顔をしたが、視線をそらせて苦笑した。
「さっきの話、びっくりしたでしょ」
「そりゃあね。祐二先生が死んだ。それを羽瑠希の口から聞くことになるとは思わなかった。飛穂ちゃんは?」
「お母さんに預けてきた。『銀河鉄道の夜』はまだ難しいみたい。スイカ食べたらおとなしく眠っちゃったわ」
「そう。なあ、飛穂ちゃん、何歳?」
「もう少しで九歳になるところよ」
 九歳。そう聞いて思わず自分の年齢から九つ引いてる自分が嫌だ。
「羽瑠希の、子?」
 聞いてどうするんだ、とつっこんでももう遅い。羽瑠希は遠慮がちに頷いた。
「あ゛ー」
 思わず頭を抱え込んでしゃがみこんだ僕を、羽瑠希はあははと笑ってみていた。
「あははじゃないよ。あははじゃないって。ったく、どういうことだよ。約束したじゃんか。こーんなちっこかった時に、結婚するなら染人と俺とどっちがいいかって聞いて、俺って言ったじゃないか」
「そうだっけ? ごめん、覚えてない」
「うわ、何そのわざとらしい明るい言い方。マジ傷つくんですけど」
「小学校の先生がそんな言葉遣いしない」
「知るかよ。うわー、あー」
 唸っていても過去はどうにもならない。しかし、何もいまさら初恋に失恋のレッテルを貼らなくてもいいものを。軽い気持ちで付き合った女の子に学食でビンタ付で振られるよりもこれは手痛い。
「その約束、まだ祐二先生がいなかった頃の約束でしょ?」
 つと羽瑠希の口から滑り出た言葉に、僕は引っ掛かりを覚え、おもむろに彼女を見上げながら立ち上がった。
「祐二先生と連絡とってたんだ? 知らなかった。俺はてっきり、みんな小六の夏に先生とはすっぱり縁が切れてしまったもんだと思ってた」
 教えてくれればよかったのに。
 その言葉は口には出さなかった。教えられても、僕は電話一つかけられなかっただろう。お前たちのことなんか嫌いになったんだといわれるのが怖くて、たとえかけられたとしても無言のまま名乗りもせずに受話器を置いてしまったことだろう。
 今なら、学校の先生が三年目の途中、それも夏休み中に学校を辞めて引っ越してしまうなんて、何かよっぽどのことをやらかしたのだとあらかた見当はつくものだが。そう、だから僕はこの町に戻ってきても祐二先生がどうして町からいなくなったのか探ろうとは思わなかった。真実が幼い日の思い出を汚すことが許せなかったのだ。
「わたし、この町出るとき、もう戻ってこられないと思っていたの。ううん、戻ってきたくないって思ってた。この町にはもう祐二先生はいないし、祐二先生は二度と戻りたくないって言ってたし、染人も大学受験に目が眩んで盛岡に行っちゃってたし……何より、タル君が許してくれないと思って……」
「俺が、許さない? どうして? だってこの町には若い人が働ける場所といったら学校か町役場か消防団くらいしかないじゃないか。若い女の子の働き口で他に考え付くのは仲大町の明美バーだけだけど、十八でそんな場末のバーに転がり込むこたないし」
「それ聞いたら明美おばちゃんきっと怒るよ〜」
「いいんだよ。明美おばちゃんが、こないだ雇ってくれって来た女の子に自分で言ってたんだから。どうしても就職先見つからなかったら面倒見てやるとも言ってたけど」
 明美バーは町のおっさんたちを相手におばちゃん一人で切り盛りしている居酒屋のようなものだ。不況で外で飲む人も減り、他に従業員を雇う余裕もないだろうに、相も変わらずあのおばちゃんは人がいい。
「ここの人たちはみんな人がいいよね。和を乱しさえしなければ、みんな優しい。みんな家族。わたしね、ほんと言うとずっとこの町居心地悪かったの。隣近所、何でもかんでも筒抜けで、みんな心の中ではわたしのことを嘲笑ってるんじゃないかって」
「嘲笑う? 羽瑠希を? なんで?」
 思いがけない告白に驚いた僕を、羽瑠希は哀れむように見つめた。
「タル君は誰よりも祐二先生のことが好きだったね。祐二先生はみんな家族みたいなこの町のことが好きだった。祐二先生が好きだった町だからタル君もこの町が大好きだった」
 そんな遠い目で僕のことを見ないでほしい。
「もういいよ、祐二先生のことは。あとでお墓の場所教えてくれればさ。そんなことより羽瑠希の近況を聞かせてよ」
「わたし、タル君に言えなかったの。祐二先生ごとこの町を憎みながらもこの町から離れられないでいるタル君に、祐二先生を追いかけて上京するなんて、わたし言えなかった」
 一瞬、僕の頭の中は真っ白になった。
「なん、だって……?」
「祐二先生がいなくなった小六の夏休み、わたし、一学期の終わりに祐二先生に告白したの。一回りも違うのにって思うかもしれないけど、わたし真剣だった。祐二先生もね、わたしのこと好きだって言ってくれたのよ」
 何を、言い出しているんだ? 何の話だ? 羽瑠希が祐二先生を好きだったって? 祐二先生も羽瑠希のことが好きだったって?
 冗談だろ。いくら十二の頃の羽瑠希が僕たちより発育もよくて大人びていたって、まだ十二歳だったんだぞ? 小学生だぞ? 栄子より二年年上なだけだぞ? ありえないだろ。祐二先生が羽瑠希を相手にするわけがない。
「そのときはまだ生徒を好きって気持ちだけだったかもしれない。でも、わたし諦めなかったの。夏休みの宿題を教えてもらうのを口実に毎日毎日先生のところに通いつめて、タル君たちが先生を遊びに誘いに来る度にうんざりしながら付き合って、なのに先生はわたしといるよりもタル君たちと一緒に小川にダム作ったりカブトムシ捕まえてる方が楽しそうで……わたし、嫉妬したの。嫉妬して、寺の裏山に隠れたのよ。先生だけが知っている場所に」
 口の中が短時間でからからに乾いていた。僕たちを置いていった祐二先生のことは許せない。でもそれは、僕たちに大切な思い出を作ってくれた先生だったからだ。小六の夏、先生がいなくなる前日にざりがに釣りに行くまでの日々は、僕にとってはかけがえのない綺麗で大切な思い出なのだ。
「やめてくれ。いいよ、もう。何言い出すかと思えば、やめてくれよ」
「ざりがに釣りに行った帰り、わたし、先生に夕方六時に夕飯のおすそ分けもって行きますからって言ったの。それからうちに帰ったふりしてあの沢を登ったのよ。当然夕方六時に先生のところにわたしが行けるはずがない。先生は七時頃になって家に電話してわたしがまだ帰ってないことを知って、町中、大騒ぎになった」
「知ってる。それこそ、羽瑠希が裏山で迷子になった時の話だ。もういいだろ。あの時は染人がオリオンの洞窟にいるって気がついて一番に見つけて山下りてきたんだ。僕は結局、探し当てられなかった」
 そういえばあのとき祐二先生の姿はどこにもなかった。羽瑠希が見つかった後も、祐二先生は羽瑠希の顔すら見ずに、翌朝にはこの町からいなくなっていた。
「ほんとは違うの。一番に見つけてくれたのは祐二先生だったの。でも、運悪く祐二先生の持ってた懐中電灯の電池が切れちゃって、山下りることもできなくて。染人が来るまで、わたしたちいろんな話をしたわ。わたしが蠍があまりにかわいそうだ、ダイアナはどうなっちゃったのって聞いたら、実はオリオンを襲ってしまった蠍がダイアナなんだって教えてくれた。だからダイアナはオリオンを追いかけて、オリオンの体を温めるために自らの体を燃やしたのよ。そんなダイアナを哀れに思ったヘラは、ダイアナを女神の姿に戻し、天に帰ることを許した。ロマンチックな話よね」
「じゃあ、どうして染人が見つけたとき、祐二先生はいなかったんだ?」
 聞きたくない。嫌な予感がする。聞かないほうがいいに決まってる。分かっているのに、僕はもう聞かずにはいられなかった。羽瑠希が山に迷い込んだ翌日から、祐二先生がいなくなってしまっただけじゃない。なんとなく、羽瑠希と染人の仲もギクシャクしたものになっていたのを、鈍い僕も感じていた。でもあれはきっと思春期だからだろうと、染人も羽瑠希のことを好きになってしまったからなんだろうと、僕は勝手に思ってたんだ。
「寒いって言ったの。先生、暖めてって。何もなかったんだよ。何もなかったけど、染人はちょうど、祐二先生が寒いって言ったわたしを抱きしめていたところに来てしまったの。染人はね、わたしが祐二先生のこと好きだって気づいてたよ。だからわたしたちの姿見て真っ青になっちゃって、あらぬ想像したみたい。年頃だったからね。祐二先生は染人にお前が見つけたことにしろって言って、壊れた懐中電灯持って先に行っちゃった。次の日、謝りに行ったらもう、学校辞めて東京に出た後だった」
 羽瑠希は小さく自嘲した。
 僕は、初恋の幼馴染を、知らない女を見る気持ちで眺めていた。
「祐二先生ね、半月前に自殺しちゃったの。強い人じゃなかったから。あの頃はとっても特別に見えていたけど、普通の人だったのよ。町を出て東京の教員試験に合格したまではよかったけれど、あっちの赴任先でも大なり小なりいつもわたしとのことで父兄に噂たてられたりしてたみたい。わたしがそれを知ったのはついこの間のことだったんだけどね。十八の春にここを飛び出したとき、東京に奥さんがいることも知っていたけど、それでもわたし諦めきれなくて、一度だけ、ね、東京案内してって言ってデートしてもらって……」
「まさか飛穂って……」
 無言のまま頷いた羽瑠希を、僕は絶句したまま見つめ返した。
「わかったでしょ? わたしが帰れないって思った理由。祐二先生をこの町から追い出してタル君たちから奪っちゃったのもわたし。諦めきれなくて東京まで追いかけて奥さんから先生を奪って、最後は先生から命まで奪っちゃったのもわたし。わたしが全部、奪ってしまったの。タル君が祐二先生に再会する機会さえも、わたしは奪ってしまった」
 僕が言葉を見つけられずに沈黙が横たわる中、遠くから羽瑠希を呼ぶ声がリズム感のない足音とともに近づいてきた。
「羽瑠希! ああ、垂仁君も。大変なの、飛穂が寝てると思ったらいなくなってたのよ。どうしよう、ちょっとお手洗いに行った隙にいなくなっていて。まだ昨日の夜来たばかりでこの辺の地理感覚もないだろうし、あっ、もしかして、誘拐?!」
 玄関からサンダルだけを突っかけて走ってきたらしい羽瑠希のお母さんは、真っ青になって羽瑠希にしがみついた。羽瑠希は母親の貫禄なんだろうか。意外なほど落ち着いた様子で母親の腕をそっと掴んだ。
「お母さん、しっかりして。心当たりはあるの。まずはわたしが探してくるから、お母さんは家で待ってて。もしかしたら物珍しがって押入れに隠れてたりするかもしれないし」
「わかったよ。でもこの辺っていっても、この時間に羽瑠希一人で歩かせるのは……」
 羽瑠希の母親は、羽瑠希に懐中電灯を渡すとともに僕をちらりと盗み見た。手にはあつらえたかのようにもう一本懐中電灯が握られている。意外とその辺には頭が回っていたらしい。
「僕も一緒に探しますよ。もしほんとに誘拐だったら、羽瑠希だけじゃどうしようもないでしょうから」
「ああ、そうしておくれ。羽瑠希を頼んだよ」
 羽瑠希のお母さんに見送られて、羽瑠希はためらいなく寺の裏山に足を踏み入れた。
「心当たりって、もしかしてオリオンの洞窟?」
「蠍の洞窟よ」
「どうして蠍なんだよ」
「……行けば、分かるわよ」
 ずんずん、ずんずん、羽瑠希は昼間のように潅木を掻き分けて上へ上へと沢伝いに登っていく。
「飛穂ちゃん、行ったことないんだろう? 洞窟にいるとも限んないんじゃないのか?」
「そんなことない。あの洞窟、迷うようなところじゃなかったもの。この沢に沿って登っていけば必ずたどり着けるの」
「でもまだ九歳だろう? それもあんな小さな女の子が一人でこんな真っ暗い山に入るなんて考えられないよ」
 いささか声が荒くなったからだろうか。ぴたりと羽瑠希は歩みを止めた。その肩が、小刻みに震えはじめる。
「あの人、死ぬ直前に飛穂に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の話をしたのよ。『死んだ人は電車に乗って星がたくさん輝く空に行くんだ』って。『ほら、あそこに蠍座が見えるだろ? あの赤い心臓はアンタレスって言うんだ。蠍は言うんだ。〈どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください。〉って。そうしたらね、蠍の体は真っ赤な美しい火になって燃えながら、夜の闇を明るく照らし出していたんだそうだよ』って。わたし、何で気づかなかったんだろう。どうして気づいてあげられなかったんだろう。祐二さん、すごく苦しんでたのにどうしてわたし……わたし、あの人から全て奪ってしまった。何もしてあげられなかった。わたしだけが幸せになっていた」
 がくんとついに膝からくず折れた羽瑠希を、僕は沢に膝が着く前に掬い上げた。
「しっかりしろ、羽瑠希」
「祐二さんのお骨を持って飛穂の手を引いて新幹線に乗って、バスに乗って……飛穂がね、パパとママの故郷はどんなところかって聞くのよ。わたし、捨てたのに。こんな町、大嫌いだったのに。一体何を話してあげればいいかわからなくて、一つだけ思い出したのよ。蠍の洞窟の話。その話をしたら、飛穂は『じゃあ、その洞窟に行けばパパに会えるかもしれないね』って言ったの。蠍の火がたくさん灯っているところだって話したから。だからわたしも『そうだね、じゃあ一緒に行こうか』って。だけど実家についてから、祐二さんの御両親に挨拶に行って、お骨お寺に納めたりなんだりしてたら一日があっという間に過ぎてしまってて。さっき帰ったとき、飛穂がすごく怒ってたの。パパのお骨はどこにやったのって。パパに会いに行く前にお骨お墓に入れちゃだめでしょ、って。会いに行ったのよ、あの子。パパに会いに蠍の火が灯る洞窟に行ったのよ」
 こんな疲れてやつれ果てた羽瑠希の姿を目にすることになるなんて、あの頃、誰が想像したことだろう。僕の知っている羽瑠希はいつも僕らより一つか二つ上からものが見えていて、明るくよく笑うさばさばとした女の子だった。恋に猛進するタイプにはとても見えなかったのに、知らぬ間に母親になってしまっていただなんて。
 羽瑠希は小さく嗚咽を漏らした後、体を支えていた僕の腕を押し返した。
「あっという間に一日が過ぎてたって言ったけど、わたし、ほんとは洞窟になんて行くつもりなかったの。あの洞窟に行ったって、もう祐二先生は迎えに来てくれない。いたずらに思い出蒸し返すような場所、行きたくなんかなかったのよ。この町だってそう。全部わたしが悪いのに、みんなは祐二先生が悪いと思ってる。染人は何も言わなかったみたいだけど、みんなうすうす気づいてたのよ、わたしの気持ちも先生の気持ちも。でも町の人からすれば悪いのは全部先生なの。先生のほうが大人だったから、全責任背負わされて町を追い出されたんだわ。残されたわたしもとっくにこの町にとっては異物になってた。でも、東京に帰ったってやっぱり先生がいるわけじゃない。わたしと先生の経緯知ってる前の奥さんがいて、口さがないPTAたちがいて……わたし、先生がいないとどこにも居場所なんてないのよ。だから、だからわたし、ほんとにもうどうしようもなくなったら飛穂連れて……」
 後を追うつもりだった、か。
 僕は押し返された手で静かに羽瑠希の頭を撫でながら、彼女に必要な言葉を探す。
「帰ってくればいい。帰ってこいよ。だってこの町は羽瑠希の町でもあるんだぞ? 羽瑠希の故郷なんだ。どんなに忘れたい思い出ばかり詰まってたって、生まれ育った場所は忘れられやしないんだよ。祐二先生だってそう思ってると思う。ずっと、帰りたかったんじゃないかな。最後に銀河鉄道の話をしていたのも懐かしがってたんだよ。羽瑠希とのことがばれて追われるように町を出なきゃならなくなっても、羽瑠希が上京したとき羽瑠希に会ってくれたのは、羽瑠希に会いたかったからだと思うし、きっと、羽瑠希の口から故郷の話を聞きたかったんだよ」
 あの頃の僕は鈍感で、それこそ羽瑠希が祐二先生に本気で初恋していたなんて気づくどころか疑ったこともなかった。自分の気持ちを天邪鬼に表現することしか能がなくて、祐二先生がどんな思いで羽瑠希を見ていたのかさえ、僕には慮外のことだった。
 祐二先生と僕と染人と羽瑠希と、四人。みんな、同じ想いを分かち合っていると勝手に思い込んでいた。そう、四人一緒にいるときばかりは羽瑠希への自分の恋心さえも忘れて。
 こんなの、僕は当時のことをほとんど何も覚えていないに等しい。特に祐二先生のことは、先生として見ていても、同じ人として見たことは一度もなかったのだ。今となってはもう、祐二先生の本音のところは、同じような人生を歩んできた自分の記憶から推し量るしか僕にはできない。
「帰ってこいよ。祐二先生が大好きだった町に。もう誰も、大人になった羽瑠希たちのことを咎める人なんていないからさ。俺だってもうとっくにあの頃の祐二先生の歳を越えてしまった。奪ったなんて思ってないよ。羽瑠希とのことも全て、祐二先生が決めて選んできた道なんだろう? 羽瑠希が信じてやらなくてどうするんだ」
 羽瑠希は、茫然と僕を見上げた。
「死んでしまった人にはもう答えは聞けない。どうあがいたって正解は聞けない。でも、祐二先生が自ら死んでしまったことは答えにはならない。死にたいは生きたいと同じだから。祐二先生は羽瑠希と飛穂と一緒に生きようとして本当に死んでしまったのかもしれない。祐二先生は羽瑠希と飛穂のことを愛してたんだと思うよ。さっきの話の断片聞いただけでも、最後までずっと一緒にいたんだろう? いいパパだったんだろう? 祐二先生の分まで、羽瑠希は飛穂を大切にしてあげなきゃ。そうだろう?」
 羽瑠希は張り詰めた目で僕を見つめ、ようやくこくんと頷いた。
「よく、今まで一人でがんばってきたな」
 喉に詰まっていた嗚咽は、やがて箍が外れたように咽び泣きに変わっていた。きっと、祐二先生が亡くなってから今まで、まだ一度も泣いていなかったのだろう。
 羽瑠希の高ぶった感情がおさまるのを待って、僕たちはもくもくと沢伝いに山を登りつづけた。といってもそこから五分ほど登っただろうか。沢が湧き出す岩壁が道を塞ぎ、脇からほのかに赤い光が漏れ出していた。羽瑠希は迷わず腰をかがめて高さ一メートル、横五十センチほどの穴に入っていく。僕も深く息を吸い込んで、意を決して後に続いた。
「ああ、なるほど」
 止めていた息と共に、僕は感嘆の声を漏らした。
 狭い入り口からは想像もできないほど広い内部には、蠍の火のごとく赤い結晶が天地四方かまわず突き出し、時に交差しあいながら懐中電灯の光に照らされて赤く輝いていた。その交差した結晶の上、飛穂は星を眺めるかのごとくぼんやりと斜め上を見上げて座り込んでいた。
「飛穂! もう、勝手にこんなところに来ちゃだめじゃない。ママと行こうって言ったでしょう? 心配したんだからね」
 駆け寄って愛娘を抱きしめる羽瑠希の母らしい姿に、僕は無理やりセピア色に塗りこめていた初恋が色を取り戻していく気配を感じていた。いや、これは初恋が甦ったのではないのかもしれない。改めて羽瑠希と向き合ってみたくなったのかもしれない。
 その後、町をあげて結成された捜索隊が洞窟にたどり着く前に、僕たちは無事飛穂を連れて山を下りきったのだが、映画会をやっていたはずの寺は大騒ぎになっていて、僕たちは町長をはじめ町中の大人たちからこっぴどく叱られてしまった。どうして二人で勝手に探しに行ったのか、と。もちろん羽瑠希のお母さんも肩身を狭くはしていたが、どうやらこの町にいる限り、僕たちは先生と呼ばれようがママと呼ばれようが、いつまでも子供扱いらしい。
「この町で生まれた子供の子供は、いつまでたっても大切なこの町の子供だ。親だからといって一人で責任を感じることは何もない。もっと周りを頼りなさい」
 親や教師と認めてもらってはいても、結局僕らは僕たちより年上の人たちにはかなわないのだ。それがこの町のいいところでもあり、羽瑠希に言わせればうざったいところでもあるのだろうけど。
 翌日の昼下がり。そろそろ傾いた太陽が銅色の光を発しようかという頃だった。大して寝てもいないだろうに、羽瑠希は片手で飛穂の手を引き、もう片方の手にスーツケースを引いて、昔よく僕らが寝ころんで星を探していた町はずれの丘の上にやってきた。
「昨日は本当にありがとう。それから……ごめんなさい。わたし、やっぱり一度飛穂を連れて東京に戻るわ。マンションの荷物の整理もあるし。でも、多分わたし、帰ってくると思う」
 言葉の後に続いた沈黙に自惚れそうになる自分を戒めながら、僕は寝不足で赤い目をした羽瑠希に笑って頷いてみせた。
「ああ、いつでも待ってるよ」
 羽瑠希は泣きそうな表情で僕を見上げ、下から見上げる飛穂の視線に気づいて慌てて口元を引き上げて頷いた。
「ありがとう。昨日、タル君が帰っておいでって言ってくれたとき、わたしすごく嬉しかった」
「それは羽瑠希に会えて嬉しかったから」
「いっそ染人も帰ってくればいいのにね」
 吹っ切れたように笑った羽瑠希に、僕は刹那の安堵を感じて共に笑った。
「そうだね。そしたらみんなでまたざりがにでも釣りに行こうか。飛穂ちゃんや染人の子供たちも連れて、さ。いるかどうかわからないけど」
「あっはは、何それ。音信不通だったの?」
「自分だってそうだろ」
「そうだけどさ」
 親友だったはずの僕と染人が、なぜ音信不通になっているのか。どうやら羽瑠希は僕に聞きたいことを笑い声に紛らわして飲み込んだようだった。
 羽瑠希が戻ってくるかもしれない。ならば、もしかしたら染人もふらりと顔を出しに帰ってくるかもしれない。淡い期待をより多く抱いているのは、おそらくきっと僕の方だ。
 でも、今はとりあえず。
「じゃあ、行くね」
 飛穂の手とスーツケースの取っ手とを握りなおすと、羽瑠希は颯爽と僕に背を向けて歩き出した。
「行ってらっしゃい。羽瑠希、飛穂」
 君が望むなら、君が歩むその道の先で僕はいつでも君を待っていよう。
 あの丘の上に寝ころんで、夕凪の空に一番星を探しながら。




〈了〉






参考文献:青空文庫より宮沢賢治『銀河鉄道の夜』角川文庫、角川書店



書斎 管理人室  読了






200904060143