白い虎




 いかないで。
 その思いだけを込めて、一つ一つ結び玉を作っていった。
 助かってほしい。生きて帰ってきてほしい。他の女たちは不確かな未来に望みをつなぐために三十三寸ほどの白布に赤い糸で結び目をつくった千人針を夫や息子に持たせているらしいが、新聞やラジオが伝えるところとは裏腹に、南の島へ出征していった近所の男たちの死が一枚の紙きれで知らされることが増えてくるにつれて、助かることも生きて帰ってくることも、この戦争では難しいのだとサチは思い知らされていた。いや、他の女たちとて愚かではない。分かっていたはずなのだ。しかし、赤い紙に記された玉命に背いて「いかないで」などとは口が裂けても言えなかったのだろう。一言、そう口にしようものなら、隣のおばさんなり長老なりが、すぐさまお上に「あそこに非国民がいます」と伝えにいく。何かあった時に助け合うためのご近所づきあいが、いつのまにかぎすぎすとした監視のしあいになっていた。爆撃や銃弾に直接さらされることはなくとも、毎日の近所の視線は、いやになるほどサチの神経をすり減らしていった。
「お願いです。幸三郎さんが無事に帰ってこられるよう、ここに一玉留めてやってください」
 近所の女たちに千人針の玉結びを依頼に行く時も、口を滑らせないよう細心の注意を払う必要があった。
 許婚の幸三郎が徴兵検査で乙種と判定された聞いた時には、すぐさま戦地に呼ばれることもないと多少安堵したものだったが、サチの予想に反して赤紙が届いたと本人の口から聞かされたときには、サチはあえなく卒倒していた。
「もし僕が戻らなかったら、その時は僕のことはさっぱり諦めて別の人と幸せになっておくれ」
 ようやく意識を取り戻したサチに、幸三郎は手にぐしゃりと赤い緊急召集令状を握りしめて、取り繕わんばかりの穏やかな微笑みを浮かべてさらにそう言ったのだった。
 そんなことは知らない幸三郎とサチの両親をはじめ、親戚一同は、喜びながらも後継ぎを、とサチと幸三郎の祝言を急ごうとしたが、幸三郎は無事に帰ってきてからサチを妻に迎えたい、と、笑顔ながらも頑なに出征前にサチと夫婦になることを拒みとおした。
「嫌いになったわけじゃないことだけは分かってほしい」
 そんなわがままな幸三郎の言葉が、白い木綿に糸で玉を結ぶ度にサチの耳元でよみがえる。千人針だからと言って、本当に千人から一玉ずつ糸を留めてもらえるわけではない。親戚、隣近所、中には仕方なさそうに一玉留める女も大勢いたが、どんなにかき集めてもこの非常時、他人のために時間を割いてくれる者は百人にも満たない。残りはサチが一人で完成させるしかなかった。
 暗闇の中、蝋燭一つ灯して木綿に縫い取っているのは千里を行き、千里を帰ると言われる虎。いかないで、と願っているのに、いざとなればありきたりな構図しか思い浮かばなかった。ただし、糸の色は赤ではなく白。家の中をひっくり返して探しても、すでに赤い糸などどこにも残っていなかった。あるのは白い糸と黒い糸のみ。白地に赤い糸であればめでたい紅白となっただろうが、白地に黒ではあまりに縁起が悪すぎる。ならば、とサチが針に通したのは白い糸だった。
 こんな布切れ一枚で銃弾をよけられるはずもない。そんなことは重々承知していたが、せめて戦地へ赴く幸三郎のためにできることといえば、こんな気休め程度の護符作りだけだった。それでも、一玉一玉、針に糸を巻きつけては針を抜き、くっくと糸を引っ張って命を留めるように玉を留める。結んだ玉の数だけ幸三郎さんの命が救われますように、と願いを込めて。しかし、できることなら命を危険にさらすような所に行ってほしくはない。
 いかないで。いかないで。いかないで。
 いかないで――。
 こぼれおちた涙が白い布に不格好な円をつくっていく。
「こんなシミ、見られたら笑われるわね」
 笑ってそう呟いたそばから、視界は潤み、頬を熱いものが伝い落ちて顎から滴り落ちていく。濡れた頬は窓から吹き込んできた風になぶられてすぅっと冷たさが残る。
 あと少し。あと少し。
 明け方の空が白みはじめる。
 幸三郎さんが出発するのは始発の臨時列車でだったはず。
 急がなきゃ。急がなきゃ。
 急がなきゃ。
 虎の足がまだできない。ちゃんと足は四本になったかしら。足がなければ帰って来られないもの。たくさん結び留めを作らなきゃ。
 潤む視界に、つい二日前、海軍の制服を着て写真を撮った時の幸三郎の笑顔が浮かんできた。二人で写真を撮ることに最初は難色を示した幸三郎に、サチがどうしてもとせがんで撮ってもらった時に、一瞬自分に向けられた笑顔だった。一週間後には死んでいるかもしれないというのに、とても穏やかな、いつもと変わらない笑顔だった幸三郎さん。ついうっかり、サチは怖くはないのか、と耳打ちしてしまったが、幸三郎は「怖いよ」と、やはり変わらぬ微笑を浮かべて囁きかえしたのだった。その微笑を見ていると、自分の心配が杞憂のように思えてくる。と同時に、どうしてそんなに呑気なのだと、あたりようもない怒りが込み上げてきた。
 それでも、サチは写真屋を後にして実家の前で幸三郎と別れた直後、次に会う約束をし忘れていたことに気づいて踵を返した瞬間、幸三郎が拳を握って怖い顔で何かに耐えているのを見てしまったのだ。サチはすぐに幸三郎に背を向けて家に入った。震えていた。肩も膝も震えて、玄関の戸を閉めるなりサチはその場に蹲っていた。そして、完成させなければ、と固く誓ったのだ。何がなんでも、ただの迷信にすぎなくても、あの白虎の千人針を完成させなければ、と。
「できた」
 白い木綿地に白玉で縫い取られた虎の護符。できればこの虎のように敵に見つけられることなく逃げ抜いて、早く帰ってきてほしい。
 だけど。
「いかないで」
 完成した白虎の千人針を両手に握って額にあて、写真屋で見た幸三郎の笑顔を思い浮かべながらサチは一言吹き込んだ。
 それから、あふれる涙を手の甲で拭って唇をかみしめ、サチは始発列車の停まる駅へ向かって家を飛び出した。






〈了〉





  管理人室 書斎  読了

  200908160009