耳鳴り

 


 この音を冷蔵庫のコンプレッサ―に例えた奴を、俺は讃えてやりたい。


 ウィン、ウィン、ウィン……


 帰宅後、こうやってキッチンで冷蔵庫の音を聞きながらビール缶を傾けていると、束の間、気分が安らぐ気がする。柔らかくも細い金属の箔が折れ曲がりこすれあいながら回転するような音は、なるほど、冷蔵庫のコンプレッサーの音によく似ている。この左耳から連続的に出続けている音を音を人に説明する気はないが、自分の中で、正体のあたりがつけられただけでも少し苛立ちは和らぐ。
「それでね、お義母さんったらね……」
 夜の十時。
 残業は九時までだったから、今日はまだ早く夕飯にありつけたほうだ。ネクタイを緩め、ワイシャツの襟もとを緩め、靴下を玄関に脱ぎ捨て、風呂に入ってそのまま寝るという選択肢も魅惑的ではあったが、ソイジョイでごまかし続けた胃袋が限界を訴えていたから、仕方なくこの食卓に座ったのだった。
 そう、寝るか、このキッチンにいるか。
 俺のかりそめの静寂はそこでしか得られない。
 それなのに、この女は今日も同居暮らしの俺の母親の愚痴をあげつらう。
「窓のへりを指ですぅーって撫でて、典子さん、ここ、まだ掃除行き届いてないですよ、って。一体いつの姑よ? おまけに今日なんて、正午きっちりにスーパーで買ってきた天丼だしたのに、一時半に典子さん、あなた、夫の母親にお昼御飯も食べさせてくれないの? あなたばかり天丼食べてずるいじゃない。だって。天丼食べたのはお義母さんで、わたしは今朝の残り物納豆で食べてたのによ? あなたのお義母さん、痴呆始まったんじゃないの?」


 ウィンウィンウィンウィン、……



「典子、頼む。帰ってきたばかりなんだ。飯だけでも静かに食わせてくれないか?」
 朝の満員電車。午前八時半からひっきりなしに鳴り出す電話。広報紙の配布方法を業者に変更したばかりだから、鳴る電話はほぼ担当者の俺あて。
『なんで俺のところには届かないんだ? ちゃんと税金納めてるんだぞ。業者になった途端に村八分か?』
『なんでうちは町内会配布のままなの? うち、町内会費払ってないから広報紙入れてもらえないのよね。困るのよ、小さい子がいるから、広報で休日当番医が分からないと……』
『おい、午前中過ぎたのに、まだ業者の奴こねぇぞ。どうなってんだ! 俺は午後から用事があるんだよ!』
 電話の向こうで喚く人たち。いや、喚くなんて言っちゃいけない。訴えてくる人たち。その人たちに申し訳ございません、申しわけございません……えんえんくり返しながら、こっちの理由も説明して、業者にちゃんと配布するよう伝えます、町内会費払ってなくても配布するのが約束なので、ちゃんと配布してくれるように伝えます、業者との契約では午後五時までに配布し終えるということで契約を結んでいますので御理解下さい……
 電話口で、何度頭を下げただろう。
 すみません。申し訳ございません。何とぞ御理解を。
 俺だけじゃないんだ。配布方法を変えてこの一ヶ月、俺だけじゃない、係、いや、課のみんなが頑張ってくれてるんだ。前担当者から人事異動が発表された三月末に事業を引き継いで、このままいったらまずいだろ、と思ったけれど、契約した後だったからもうあとの祭りだった。住宅地図と町内会長たちからの区割りを頼りに今までの町内会配布の地域と業者配布の地域とを線引きしたこの地図は、悲しいことに現在開発中の地域に関しては真っ白もいいところだった。それだけじゃない、人の記憶は曖昧で、会長といえども人だから、町内会の区域から漏れてしまっている人もいる。業者配布だって、マンション・アパートの住人に関してはもうお手上げだ。
『あの部屋は四月から人住んでないんだから、入れたらもったいないでしょう』
 そういう地元に根付いた情報を丹念に拾い上げながら少しずつ地図を修正して、業者と密に連絡を取っていかなきゃならない。長い長い、これから何年かかるか気の遠くなるような仕事だ。一括で業者配布にして、ポストのあるところにはすべて広報を投げ込んでしまえればいいのに、町内会配布を継続する町内会は配布することで人との縁を繋いでいるのだと訴える。その町内会の住人から、会長が配布謝礼金を全部がめているんだと訴えられても、町内会には不干渉という立場上、俺にはどうしてやることもできない。


 ウィンウィン、イイン、イィン……


 おっと、まずいな。音が大きくなってきている。これ以上仕事のことを考えるのはやめにしよう。冷蔵庫の音と枝豆と湯豆腐と、ビールがあれば、前は幸せだったじゃないか。
「何言ってるのよ。ごはんの時くらいしかあなた、わたしの話聞く暇ないじゃない。いい? わたし、同居は我慢するって言ったけど、介護は絶対に嫌。お義母さん、最近すごく耳が悪くなってるみたいでね。何回もわたしに同じこと言わせるのよ。二回言っても聞こえないみたいだから大きな声で言うじゃない? わたし、怒鳴ってるみたいで気が滅入るっていうのに、お母さんもなんで怒るんだって怒鳴り返すのよ? テレビの音だって、外まで漏れるくらい高くして、わたしを居間に寄せ付けないのよ。補聴器してくれればいいのに、雑音がうるさいからいやだってわがまま言って」
 典子は俺の皿から枝豆をかっぱらいながらまだ自分の話を続けていた。


 ピープーピープーピープー……


 不意に、右背後から笛の音が聞こえはじめて、俺は慌てて後ろを振り返った。
「どうしたの?」
「いや、誰か近所で笛でも吹き始めたのか?」
「何言ってるの、どっからも笛の音なんてしてないじゃない。それでね、お義母さんったら、わたしが呟いた愚痴や友達との電話は全部聞こえてるみたいでね……」
 鼓動を早めだす心臓を痛く感じながら両耳を押さえてみる。
 左耳。
 ウインウインウインウイン……


 右耳。
 ピープーピープーピープー……


 やっぱり聞こえている。右耳の奥から新たな音が。笛の音のように美しいその音は、小さい時に音楽教室に通わされた俺には最悪なことにレーミー、レーミー、レーミー、レーミー、とドレミで再生され続けている。
 最悪だ。
 左耳だけじゃなく、右耳までいってしまったか。
 それも、この笛の音、冷蔵庫の音なんかじゃごまかしきれない。無意識にドレミで認識してしまう分、聞こえないふりなんてできない。
 ――休みたい。静かなところでゆっくり、のんびりと。
 冷汗が身体中に絡みつきはじめる。頭が全体的に万力で締めあげられるかのように圧縮され始める。脳みそから水分が抜けていく。
「ねぇ、ちょっと、あなた、聞いてるの? わたしね、もう我慢の限界なのよ。友達に相談したら、義理のお母さん預けてる介護施設があるっていうから、明日そこに下見に行ってこようと思うんだけど、あなた、明日お休み取って、一緒に来てくれない?」
「休、み?」
「だってあなたの母親でしょう?」
 瞬間、それはきた。


 ギーン……!!!


 回り続けていた細い歯車は、突然強烈な音で俺の頭の左側を殴りつけた。ばつん、と目の前が暗闇に閉ざされる。停電かと思ったが、違ったらしい。妻は、思わず左頭に手を当てた俺にも構わず喋りとおしている。
「公務員って結構有給使いたい放題だったじゃない。民間じゃこうはいかなかったのよね。その日に休みまーす、なんて、インフルエンザになったって絶対言えなかったもの」
 一度だけのあの強烈な耳鳴りは、続きはしていなかった。かわりに、左耳から溢れ出す音が変っていた。


 シャリン、シャリン、シャリン……


 絡み合った二つの結婚指輪が離れたいのに離れられずに擦れあいながら日々の生活を疲弊しつつもなんとか回転させている音。
 右耳は、相変わらず呑気な笛の音。そう、呑気すぎて苛々する。
 もう、冷蔵庫の音じゃごまかせない。
「ねぇ、あなた、聞いてるの?」
 俺は静かに立ち上がり、明日の浅漬けにでも取っておいたのだろう、まだ半分きゅうりを載せたまな板の上に置かれた包丁を取り上げた。
「頼む、静かにしていてくれないか?」
 直後、上げられた悲鳴は今まで聞いた典子の声の中で一番耳障りで不快なものだった。
 ため息が出た。
「母さんがお前を困らせてたんだっけ? 悪い母さんだよな、ほんと。俺が結婚する時は、自分の二の舞はさせないって言ってたのに」
 悲鳴を聞きつけて自分の部屋から飛び出してきた母さんは、あっという顔のまま俺の前に崩れていった。
「はぁ」
 蛍光灯の灯が変わらずキッチンを照らしつづけている。冷蔵庫は冷却をやめて、待機に移ったようだった。コンプレッサーの音はもうしない。静寂だけがべったりと俺を包み込む。


 ウィン、ウィン、ウィン、ウィン……
 レーミー、レーミー、レーミー……


 ああ、耳鳴りが聞こえる。





〈了〉





  管理人室 書斎

  200906281100