澄先雪璃様へのキリリク作品です。
お題:「破壊」の名を戴く少女と「再生」の名を戴く少年の旅のワンシーン。





マンデルベルク狂詩曲

 


 繋いだ手から伝わってくる温もりは、死人のそれよりも冷たかった。これだけ走り続けているというのに、少女の指先はちっとも温まらない。安心できる場所に辿り着けるまでは息すらつけないのだと、少女は少年の手を強く握り息をつめて走りつづける。
 足に絡みついてくる下草や横這いに伸びる蔦。視界を遮る潅木に光を遮る丈高い針葉樹。今が昼なのか夜なのか、それさえも危うくなりそうな感覚の中、ルースとファラの二人は必死に走り続けていた。
 十月も末のマンデルベルク地方は、日が沈むのが早い分、夜の獣たちが暗躍しはじめるのも早い。この薄暗い森の中ともなれば、なおさらだ。特に、日の光を嫌う吸血鬼たちにとっては格好の住処であるに違いない。
 依頼を出してきたのも、そんな森の奥に館を構える女吸血鬼だった。
「ルース、まだ? まだつかないの?」
 それまで大人しく少年に手を引かれていた少女は、不意に天使のように愛らしい面持ちを苛立ちに歪めて、後ろをちらと振り返った。
 二人に休む暇も与えず、木立の間を飛ぶように追いかけてくるのは、闇に溶け込む黒いマントに身を包んだ複数の男たち。山賊あがりなのか、人相はお世辞にもいいとは言えず、さらに今は目は赤く血走り、唇から伸びた白い牙からは飢えた獣のように透明な唾液が滴っている。
「まさか迷ったなんて、言わないよね?」
 少年は後ろを気にかけつつ、言葉に詰まったように押し黙った。
 薄暗闇の中、敏感にその表情に気がついた少女は、繋いでいた少年の手を振り切って、立ち止まり、くるりと後ろを振り向いた。
「ファラぁ」
 呆れ、困った表情を浮かべてルースも足を止め、ファラの背中を振り返る。
「だめだよ。無駄な殺生をしちゃ」
「壊さなきゃいいんでしょ。壊さなきゃ」
 金のふわふわとした巻き毛と天使のように愛らしい顔を持つ少女は、薄紫色の瞳に凶悪な光を浮かべ、口元に同じく残忍な笑みを刷いて両手につけていた皮手袋を抜き取り地に投げ捨てた。
 その両手の四本の指に嵌められているのは、連なる黒い鋼鉄の指輪。
「いいわよ。ここまで走らされたお礼、たっぷりこの拳で返してあげるわ」
 いかにも動きにくそうな聖職者の黒く裾の長い法衣を纏った少年は、言葉の割に少女を止めるでもなく、後ろで額を押さえ、顔を伏せる。
 そうこうしている間に、少女は木の上から飛びかかってきた大の大人の男三人をその拳によって下草の中に沈めていた。
「ふぅ」
 わざとらしく溜息をついて皮手袋を拾うと、ファラは倒した男たちの顔を入念に確認した。
「いた?」
「いない」
 頬を膨らませて、ファラは男たちに背を向け、皮手袋をはめなおす。
「こっちの地方の組織じゃないのかもしれないわね。次の依頼受けるなら、今度こそ南の方にして」
「また無茶なことを。一度にたくさん依頼が来るわけでもないし、来たとしても南とは限らないんだから」
「依頼文がルースの先生の文字に似ているって言うから北に来たんじゃない。あたしの勘では、あいつらがいるのは南だって言ってるのに。こっちの用事が済んだら、今度こそ南よ、南。そうでなくたって寒いんだから、あったかいところの方がいいわ」
 少女のわがままに内心頭を抱えながら、ルースは苦笑を浮かべた。
 半年前、組織的な吸血鬼の襲撃があった町を訪ねた折、唯一生き残っていたのが十六歳のファラという名の少女だった。首筋に噛まれた二本の牙の痕を持ちながら、少女はさんさんと照る太陽の光を浴びて、廃墟の中、ただ一人茫然と座り込んでいたのだった。
 吸血鬼に噛まれた場合、人間の身体に起こる反応は二通りに分かれると言われている。一つ目は、吸血鬼の牙から伝い落ちる唾液に拒絶反応を起こしての死。二つ目は、迎合反応を起こしての吸血鬼化。九割方は前者の反応を起こし、吸血鬼の襲撃を受けた結果、一晩にして村や街がまるごと滅んだという話が出ることも珍しくはなかった。ファラの生まれ育った町の民も多聞に漏れず前者の反応を示したと思われるが、ファラだけが死にもせず、吸血鬼にもならず、人間のまま生き残ったのだった。
 風が吹こうが、日が傾こうが動こうとしない少女に、ルースは他の町に住んでいる親戚はいないのか、誰か頼れる人はいないのかと言葉を尽くして訊ねたのだが、それら全てに少女は無反応で、ルースに焦点すら結んでいなかった。だが、ルースの胸元に下げられた十字架に夕日が当たった時、ようやく口を開いたのだ。
『ねぇ、あんた、あの吸血鬼たちがどこに行ったか知らない?』
 と。
 思い返しても荒んだ表情と声音だったとルースは思う。建前上、聖職者の衣装に身を包んでいながら、『それなら一緒に来るか?』と手を差し伸べてしまったのも、天使のような容貌に隠された凶暴性に本能的に怯えたからではないのかと、今なら理解できる……ような気もする。
 もちろん、それだけが理由だったわけではない。ただ一人人間のまま生き残った少女に興味があったし、その後二人で吸血鬼に襲われたときに発揮された、自分と対をなすかのような能力にも興味をひかれたのだ。
「とりあえず、今は依頼主の館を目指さないと」
「この深い森の中で迷ったのは誰でしょうね。方向音痴の神父様? やっぱりあんたに地図預けるとろくなことないわ」
 はぁ、と溜息をついて歩き出した二人の後ろで、闇がもそりと動いた。
「う……っ。く、そ……あの人間め」
 うめき声を上げると、ファラに倒された吸血鬼のうちの一人が人ならざるものの速さで二人の前に回りこんだ。
 赤く腫れ上がった頬を撫でながら、吸血鬼の男は牙からよだれを滴らせながらファラとルースを交互に見渡す。
「さあ、ようやく追いついた。仲間を人間に戻したり、灰にしてくれたり、人間のくせに吸血鬼の理枉げて好き放題やってくれやがって。お頭たちは随分かんかんだぜ?」
 組んだ手をぼきぼきと鳴らして男は一歩ずつ二人に歩み寄る。
 溜息交じりにファラも一歩前へ出る。
「ならば一応聞いてやる。アシネという町の名に心当たりはあるか?」
 ルースは慌てて後ろからファラの肩を掴んだ。
 が――。
「アシネ? どこだそれ」
 鼻で笑った吸血鬼の男の両腕を、瞬時にして移動したファラはがっちりと掴んで首筋に唇を近づけていた。
 その唇からは吸血鬼のように牙が伸びているわけではない。だが、彼女は人間の歯のまま噛み付くことで、吸血鬼の身体を灰にしてしまうことができたのだった。
 身を守るためというより、むしろ襲い来る吸血鬼たちを倒すための武術も、吸血鬼を屠る能力も、町が襲撃された後、ルースと共に旅する中で開花したものだった。
 ルースとしては頭を抱えることが多くなってしまったのだが、それでもファラを連れ歩くのは、ファラを途中で見捨てれば復讐が恐ろしいことと、もう一つ、ルースの能力ではなく、噂を聞きつけてファラの能力を望む依頼主も現れるようになったからだった。
「待ちなさい、ファラ」
「なっ」
 ルースが制するのと、状況に気づいた吸血鬼の男が呻いたのは同時だった。
 むっとしたようにファラはルースを見たが、首を傾け、首筋に小指一本ほどの間隙をあけて動きを止める。
 それを見て、ルースもゆっくりと吸血鬼の男の背後にまわる。
「大人しく寝てればよかったものを。さて、僕からも一つお伺いしたいことがあります。基本的には依頼がなければどちらも引き受けないのですが、今後もしつこく追われると迷惑ですので。さあ、答えてください。貴方は人間としての再生を望みますか? それとも、吸血鬼としてその身にかけられた理を破壊されることを望みますか?」
 うっ、と吸血鬼の男は言葉に詰まった。何度か目を左右に揺らした末、ようやく身体から力を抜く。
「たまたま永遠に生きられるようになったんだから、太陽なんか見られなくたっていいと思っていたが、灰にされるくらいなら人間に戻った方がましだ」
「だそうだよ。ファラ、手を離して後ろでも向いてて。貴女が口を汚す必要はない」
 ルースはにこやかに言うと、男を後ろから羽交い絞めにして顎をつまみ、慣れた手つきで首を傾けさせた。
 ファラはちっと舌打ちをして、ルースたちに背を向けた。
 それを確認して、ルースは男の首筋につけられた二本の牙痕に唇を近づける。
 直後、襲った鋭い痛みに吸血鬼の男は目を剥いた。
「お、前……きゅ」
 言葉を遮るように、ルースは顎をつまんでいた手で男の口を塞ぐ。
 そして、驚愕している男の首筋から口を離すと、そっとその耳に囁いた。
「ファラには内緒だよ。彼女にだけは嫌われたくないからね」
 間近でぞっとするほど怪しい笑みを見せつけられて、男は慄きながら意識を手放していった。
 ルースは男が動かなくなったのを確認して、一息ついて男の身体を元仲間の吸血鬼たちの目に触れない木陰へと運び込んだ。
「仲間たちに襲われないことを祈ってますよ。貴方に、神の御加護がありますように」
 首からさげた十字架を握りながら十字を切って祈ると、ルースはファラに声をかけた。
「もういいよ」
「なによ。毎回毎回、後ろ向いてろとか、他の部屋に行ってろとかさ。何もあんたの秘儀見たからって盗んで真似できるわけじゃないのに。あたしとあんた、やれることが正反対なんだから。大体、あんただってあたしと同じ十六歳なんでしょ。偉そうにしないでよね」
 ふてくされたファラは、ルースを置いていこうとするかのようにどんどん歩調を速めていく。ルースは慌ててそれに追いすがる。
「そんなに勝手に進んだら余計道に迷うよ」
「あたしはあんたと違って勘が働くのよ」
「このマンデルベルクの森は、磁石さえも方位を失うほど磁場が乱れているんだよ? ファラの勘だって……」
 言い募ったルースは、はたと止まったファラの背中にぶつかって湿った下草の上にしりもちをついた。
「もう、急に止まらないでよ」
「ふっ。ふふふふふ」
 喚いたルースを、ファラは勝ち誇った表情を浮かべて振り返った。
「ほーら、御覧なさい。ついたじゃない。マンデルベルクの森の中にたった一つだけ建っているっていう白亜のお屋敷に」
 ファラの背後には、白壁の美しいどちらかというとこじんまりとした別荘のような館が木々を屋根にそびえていた。
「これが、マンデルベルクの館……」
 ルースはぼんやりと呟いた。目の前には、ここに来るきっかけになった依頼状の文字が浮かんでくる。
(ギルベルト先生……)
 その昔、家族からも生まれた村からも見捨てられたルースを拾い、布教の旅に同行させてくれた神父、ギルベルト。穏やかな微笑と清廉潔白な気性で、立ち寄る教会の神父たちからも畏敬の念をもって受け入れられていたのが、幼いルースにも誇りだった。そのギルベルト神父がルースの前から姿を消したのは五年ほど前のことだった。とある夏の夜、夕涼みから戻ったギルベルト神父は、青ざめた顔で慌しくルースに別れを告げ、一人先に泊まっていた宿から出て行ってしまったのだ。もちろんルースはすぐに後を追いかけたが、ギルベルト神父はあっという間に暗闇の中にとけ消え、ルースは背中に触れることさえできなかった。
 後に残されたのが、今ルースが着ている神父の黒い法衣と首から下げる鎖のついた十字架、そして法衣の下、腰から下げている杖一杖だけだった。修道院で学びを受けたわけではなかったが、ギルベルト神父の説法は長い間共に旅をしているうちにすっかりルースの頭の中に入っていた。以来、ルースは神父の姿に身をやつして旅を続けながら、ギルベルト神父の友人たちのいる教会を訪ね歩いて神父の行方を捜したが、友人たちもルースの話に信じられないと目を丸くするばかりで、有益な情報は何一つ得ることができなかった。立ち寄ることがあればすぐにも知らせると約束してくれた神父たちからも、いまだ何の連絡も入ってこない。
 もはや捜すことすら諦めかけた矢先に、このマンデルベルクの館主から依頼状が届いたのだった。
「それにしても、筆記体の癖だけではるばるこんなところまで来る気になるなんて、あんたの先生って一体どんな人よ」
 ファラの問いに、ルースは曖昧に微笑んだ。
「僕に人間だって言ってくれた人だよ。胸を張ってお日様の下を歩けって」
 立ち上がったルースは、思い出をしまうように一度胸元に手をあててから、挑むような目で鉄枠に囲われた木扉を見つめ、鉄輪を握った。
 くぐもった音が四度続いた後、しばらくして中から聞き覚えのある男の声が返ってきた。
「どちら様ですか」
 ごくりとルースは生唾を飲み込む。
 「ギルベルト先生」そう呼びかけそうになるのを堪えて、できるだけ冷静を装って口を開く。
「館主、ツェツィーリア・クロイツェル様から御依頼をいただいて参りました。ルース・ロイエンタールとファラ・ジャクソンです」
 名乗った声が緊張に震えた。もし、扉の向こうにいるのがギルベルトならば、自分の名を聞いてどう思ったことだろう。手紙を代筆し、自分宛に届けさせたくらいなのだから、いつか見える日が来ることを分かってはいたはずだ。しかし、ルースは重ねられる長い沈黙の間、ギルベルトが扉の向こうから離れていってしまうのではないかと不安で仕方なかった。
 やがて、あまりの緊張に目眩がしはじめた頃――ファラからすればさほどの時もなかっただろうが、ゆっくりと扉は押し開かれた。
 中から顔を出したのは、五年前に分かれたときと寸分変わらぬ姿のギルベルトだった。
 顔立ちも、肌の張りも、年齢さえ一年も重ねていないかのように何も変わっていない。ただ、正面からルースを見据えた青い瞳には、あの頃ルースが憧れていた聖らかさが失われているように見えた。
 思わず、ルースは一瞬息を呑む。
 あまりにも変わらぬ容姿に。あまりにも変わってしまったその目に。
 それからようやく、息をついでルースは尋ねた。
「ギルベルト先生、ですか?」
 厳しい顔でルースを見つめていた初老の男も、その言葉に初めて穏やかな笑顔を見せた。
「いかにも。ルース、息災でしたか」
「先生!」
 あつく抱擁を交わしながら、ルースはようやく故郷に帰ったような安堵感に包まれた。
「捜したんですよ。御友人方も皆さん心配してらっしゃいます。五年もの間どこで何をしてらしたのですか? なぜ、こんなところで……吸血鬼が主の館になどいらっしゃるのですか?」
 依頼状を見てから積もり積もってきたものを一気に吐き出すと、ルースは目に涙を浮かべてギルベルトを見つめた。
 ギルベルトは、さっきまでの濁った瞳ではなく、弟子を見守る優しい目でルースを見つめた。
「話すと長くなるので、中へ。ツェツィーリア様もお待ちです」
 吸血鬼である依頼主の名を、ギルベルトが敬称をつけて呼んだことにルースはかすかな違和感を覚えたが、背中を抱かれるようにして中へ迎え入れられると、その手の温もりに違和感も何も忘れ去ってしまっていた。






 館の中には、館の女主ツェツィーリアとギルベルト以外誰もいないようだった。静まり返った廊下を少しばかり歩いて応接室に通されると、ルースたちはギルベルトにすすめられるがままにソファに座り、ギルベルトの淹れた紅茶を啜った。
「では、私はツェツィーリア様をお呼びしてまいります」
 ギルベルトはお茶を出し終えると、女主を呼びに一度部屋の外に出て行ってしまった。
「あれがルースの捜していたギルベルト先生?」
「うん。……間違いないよ」
「その割に嬉しくなさそうね」
「そう、かな」
 ファラの言うとおりかもしれない。ここに来るまで、何度も依頼状を読み返してはギルベルトの筆跡だと確信し、ようやく掴めた足取りに心を躍らせてきたというのに、この心の落ちようは一体どうしたことだろう。扉から覗いたあの暗く澱んだ青い瞳が目裏から離れないせいだろうか。
「ちょっと、ルース。さっきから一体何杯飲む気?」
 自分でも分からない漠然とした不安に囚われているうちに、ルースは無意識のうちに六杯目のお茶をポットからカップへと注ぎたしていた。もちろん、ファラの言葉からして先の五杯は捨てることなくすべて飲んでいたのだろう。
 それでも、喉はまだ乾いていた。
 ルースははたとカップになみなみと注がれた紅い水面に視線を落とした。
 胸の奥から。腹の底から。手の指先、足のつま先に至るまで、不意に全身から普段以上の欲望が込み上げてくる。
(血を、吸いたい……)
 意識してしまった瞬間、紅茶では満たされないと、カップの取っ手を握っていた指に力が入り、カップは皿の上に紅茶をぶちまけていた。
「何やってるの、ルース!」
 口の中に、さっき人間に戻した男の血の味がうっすらと残っていた。それが余計にルースの中に渦巻く本能を刺激しはじめる。
 おせっかいにも隣から腕を伸ばして皿からこぼれた紅茶を拭きはじめたファラの手を、間違っても掴み引き寄せてしまわないように、ルースは両手で膝頭を強く握って深く息を吸い込んだ。
「そういえば、今日何日だっけ」
「今日? 十月三十日でしょ」
「てことは、明日はハロウィン……」
「そうよ。森に入る前の村で、道端にたくさんかぼちゃのランタンが置いてあったじゃない。気づかなかったの?」
 呆れたファラに、ルースは口ごもった。
「そういえば、並んでいたね。どこの家にも」
 身体が震えはじめる。指先から、全身へと伝いゆく震えは、溢れ出そうとする本能を身体の中に封じ込めようとすればするほど、酷くなっていく。
 ギルベルトの行方を掴むヒントを得たことで、ルースはすっかり失念していたのだ。自分が新たな生を享けた日が目前に迫っていたことに。
「そうそう。トリック・オア・トリート~ってね。あたしも小さい頃はよくやったわ」
 ファラの言葉に、ルースの身体は大きく波打つように震えた。冷や汗が噴出してくる。目が回り、焦点が定まらない。
「早く……早く仕事を済ましてここを出よう」
 震える声でルースは言った。
「え? せっかくあれほど会いたがっていた人に会ったのに?」
「うん。いいんだ。無事が確認できただけでも」
 胸に焼けつくような焦燥感を感じながら、ルースは自分を納得させるために呟くように言った。
 その言葉が終わるか終わらないか。扉が敲かれて、戻ってきたギルベルトの後に続いて、腰の辺りまである銀の髪を揺らしながら二十歳くらいの一人の女性が中に入ってきた。
 いつもはルースに促されなければ立ち上がらないファラが、この日は先にソファから立ち上がってルースを引っ張り立たせた。
 ぐらぐらと揺れる視界を堪えながら、ルースは自らの理性を総動員して顔をあげ、依頼主を見た。
「あ……」
 館の女主、ツェツィーリアの赤い瞳を見た瞬間だった。ルースは雷にでも打たれたように動けなくなった。
『トリック・オア・トリート!』
 妹と共に、装飾の綺麗な家の扉をノックした日のことを、今でもまだ鮮明に覚えている。
『ごめんなさい。お菓子はあげられないけれど、丁重におもてなしさせてもらうわ』
 玄関に現れた白銀の長髪に赤い瞳を持つ、この世のものとは思えないほど美しい女性。彼女こそ、妹と共にハロウィンのお菓子をねだりに行った家でルースたちを家に引っ張り込み、その血を吸った吸血鬼の一人だった。
 忘れるはずがない。見間違えるはずがない。家の中にいた二人の吸血鬼のうち、彼女こそがルースの運命を変えた張本人だったのだから。
 息がつげないでいるルースに対して、ツェツィーリアの方は落ち着いたものだった。
「そう、貴方だったのね。これも運命なのかしら」
 ツェツィーリアはそう呟くと、二人にソファにかけるようにすすめた。ルースはファラに両肩を沈められて、ソファの中に埋もれるように腰を下ろした。
「私が吸血鬼になったのは、ハロウィンの夜のことでした」
 二人がソファに落ち着いたのを見計らって、ツェツィーリアは口を開いた。
「村中が祭りに沸き返っていて、子供も大人も変装して、流れるポルカにあわせてパートナーを変えながら踊っていました。そのうちの一人とは気が合い、そっと輪を抜け出したのですが……襲われたのはその直後のことでした」
 そう言って、ツェツィーリアは首を隠していた襟をめくり、ルースたちの前に二つ並んだ吸血鬼の牙の痕を見せた。
「私は何が起こったのかわからず、しかし、自分が人間ではなくなってしまったことだけは分かって……私を襲った吸血鬼の男は、私が吸血鬼になったと気づくや喜んで、かいがいしく世話をしてくれるようになりました。この館も元はその男の物でした。そして、貴方もよく知るあの家も」
 ルースの耳に、ツェツィーリアの話は半分ほどしか届いていなかった。しかし、最後の言葉にだけは反応して、膝頭を握る拳にさらに力をこめた。
『お兄ちゃん! 助けて、お兄ちゃん!』
 すぐ隣で、壮年の男に首筋に牙を突き立てられた妹の泣き叫ぶ声が耳元に蘇ってくる。
「吸血鬼は一年に一度、自分が血を吸われた日を迎えるまでに人間の血を得なければ狂い死んでしまいます。私はけして誰かの血など吸いたくないと思っていましたが、一年を迎えるまでに人間の血を吸うことを拒んで狂い死んでいく元人間たちの姿を見せられて、すっかり怖くなってしまったのです。一人、殺した後は二人も三人も同じでした。ただ、私は罪悪感だけは忘れないように、人間の血を吸うのも一年に一度だけと決めました。人間に戻ることなど、到底夢のまた夢。かといって、日の下に躍り出てこの身を灰にする勇気もありませんでした。そうやってたくさんの犠牲者を出しながら、百年ほどは経ってしまったのでしょうか。ギルベルトから、吸血鬼を人間に戻せる方がいらっしゃるとお聞きして、縋る思いで貴方に手紙を書いてもらったのです」
 ふぅっと息を吐き出すと、ツェツィーリアは表情一つ変えずにルースを見つめた。
 見つめられていると分かっていて、ルースは顔をあげることができなかった。身体中が内からどんどん熱に煽られてくる。
「貴女は……よく平気ですね。明日でしょう? ハロウィンは」
 ようやく押し出した言葉も、依頼主に対しての言葉とは思えないほど粗暴なものだった。口をついて出てしまってから、ルースははたと口を噤んだが、飛び出してしまった言葉は戻らない。
 それでもツェツィーリアは気分を害した風もなく答えた。
「毎年であれば耐え難いほどだったと思うのですが、今年は目の前に希望が見えているから、なのかしら」
「希、望?」
 ルースの目の前に、今広がっているのは、吸血鬼の男に血を吸い尽くされて骨と皮だけになった妹の見開いた瞳孔だけだった。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と自分に助けを求めながら死んでいった妹。それを横目に見ながら、助けられなかった自分。否。自分は助けなかったのだ。振り切ろうと思えば、ツェツィーリアの腕くらい振り払うことができただろう。それくらい、ツェツィーリアがルースの手首を掴む力は弱いものだった。出来ることなら逃げてほしいと言わんばかりに。それでも大人しく彼女の牙に首筋を晒していたのは――魅せられていたからだ。ツェツィーリアの美貌に。鼻をくすぐる甘い香りに酔わされていたからだ。
 一人、助かってしまった後、どれだけルースは自分を責めたことだろう。責めて、責めて、責めて。もし、もう一度あの二人の吸血鬼に相見えることがあったら、妹の仇を討とうと心に決めてきたのだ。
 たとえ、自ら望んで首筋を許したあの美貌の女性であったとしても。
 ルースはゆらりと顔をあげた。
 身体中に沸き立っていた欲望を怒りにすりかえようと、必死で理性を総動員する。
 しかし、再びツェツィーリアの赤い瞳を見つめた瞬間、ルースに訪れたのはとろけるような甘い疼きだった。
 その感覚にルースは軽く絶望を覚え、再び顔を伏せた。
「ルース。ちょっと、どうしたのよ。依頼主様第一なんでしょ? 目の前に恩のある先生もいるってのに、どうしちゃったのよ!」
 何も知らないファラが無邪気にルースの腕を掴んで揺する。
 その手を振りほどいて、ルースはもう一度顔をあげた。
 待っていたように、ツェツィーリアはちらりとギルベルトを振り返り、口を開く。
「それにしても、貴方の先生は随分意地悪ね。もし、私を人間に戻してくれる方が貴方だと分かっていれば、私は貴方をここに呼ぼうとは思わなかったでしょうに。そうでしょう、ギルベルト。貴方、彼の事情も知っていて私に引き合わせたのね」
「いいえ、私は何も」
 静かなツェツィーリアの問いに、ギルベルトもまたゆっくりと首を振った。
「それでは、こうしてはいかがでしょうか。刻限まで、あと一日ございます。それまでゆっくりとお考えになっては? ツェツィーリア様は再生を選ばれるのか、それともそのままお返しになるか。ルースは妹御の仇を打つのか、依頼主の望みを叶えるのか」
 神父ともあろう人間が、随分と人の悪い笑みを浮かべている。ファラであればそう気づくこともできたかもしれない。しかし、ルースの目にはすでに何も映ってはいなかった。
「では申し訳ございませんが、先にツェツィーリア様をお部屋までお送りしてまいります。客室に御案内するまで、しばしここでお待ちください」
 ギルベルトがそう言ってツェツィーリアの背を押して出て行ったときも、ルースはソファから立ち上がることさえできなかった。
 身体中が沸き立つ本能に逆らえない。
 今まで、ハロウィンの前日であろうとここまで激しく人間の血を切実に身体が欲したことがあっただろうか。いや、ない。いつもならばもっとじわじわと身体を蝕み、刻限まで一日を切ったところから追い詰めるように理性ではどうにもならないほどの欲望がわきあがってくるのだ。
 ギルベルトが傍らにいた頃は、ギルベルトが指先をほんの少し切って流れ出してきた血をさらに移しとって舐めれば、少量でも十分に抑えることができていた。ギルベルトと離れたあとは、夜中、理性ではどうしようもなくなる前に通行人を辻に引き込み、気を失わせて指先から数滴の血を皿にとっては舐めて凌いでいた。
 そう、たった数滴でも、新鮮な人間の血であればあっという間に身体中に潤いが広がり、また一年は理性だけで本能をコントロールすることができるようになっていたのだ。
(まさか先生、紅茶に何か薬でも……?)
 混迷しはじめる意識の中で、ふと疑念がわきあがった。そういえば、紅茶から若干ラムの香りがしていたような気もする。
 ルースの疑念を裏付けるように、しばらくたっても戻ってこないギルベルトに業を煮やしてドアノブを回しはじめたファラが叫んだ。
「ちょっと、ルース。なんか外から鍵かかってるみたいなんだけど」






 ファラに手招かれて、ルースはふらつく頭を押さえながらドアの前に立った。
「ちょっと、ほんとに辛そうなんだけど、大丈夫?」
「大……丈夫」
 うわごとのように呟いて、ルースはドアノブを捻ってみたが、ドアの間からはがちゃがちゃという金属がぶつかり合う音しか聞こえてこなかった。力をこめて押しながら回しても、少しドアを持ち上げるようにして回してみても、一向に快音は聞こえてこない。
「あたしたち、もしかしてはめられちゃった?」
 遠慮がちに言ったファラの言葉をなんとか否定してのけたかった。先生がそんなことをするわけがない、と。かといって、あの女吸血鬼が指示したのだろうか? それもまた、信じたくはなかった。時を経て尚、仇と思わねばならないツェツィーリアの美しさに憧れる自分に半ば呆れながら、ルースはもつれる足を励ましてソファに戻った。
「ルース、寝てる場合じゃないって」
 呆れたファラが起こそうと近づいてくる。
「近づくな!」
 ソファでクッションを抱くようにしてうつぶせに顔を埋めたルースは、とっさにファラの手を払いのけて、その身体をできるだけ遠くへと突き飛ばした。
 突き飛ばされたファラは、茫然とルースを見返す。
「本当にはめられてるのはファラだけだよ。だから、僕に近づくな」
 呻くように言って、ルースは再びソファのクッションに顔を埋めた。
 さっきから下唇に違和感が広がっている。ずくずくと、上の二本の犬歯が唇の間から外へと向かって伸びているのがわかる。
 こんな顔を見られたくはなかった。本当なら、さっさと仕事を終えてファラがどこかの宿で寝静まった後、頃合を見て誰かの血をもらいに行くつもりだった。それなのに、一日も早く牙が伸びてきてしまうなんて。
「何よ、同い年のくせに」
 ルースの気持ちを知ってか知らずか、ファラはルースが顔を伏せるその横にどっかりと腰を下ろして悪態をついた。
「いちいち命令しないでよね。ほんっと、あんたってば出会ったときから偉そうなんだから」
「……違う、よ」
 身体中から搾り出したルースの声は、くぐもっている上に震えていた。
 身体から湧き上がる抑えがたいほどの血への欲望が、一年間の禁断症状と相俟って、この部屋でただ一人の人間であるファラへと手を伸ばそうとする。
 その手をもう一方の手で押さえつけて、がっつりと指を組み合わせて動かないようにする。
「何が違うのよ」
 さっきからのルースからの異変に気づいていないわけはないのに、ファラは平然とルースの後頭部を見下ろした。
「言って御覧なさいよ。怒らないから」
 母親のような口ぶりで言うファラ。時に口やかましいのはファラのほうではないかと思うくらい、彼女は口こそ悪いがよく気がつく少女だった。何より、おいしいものを食べた時に見られる天使のような容貌に似合った満面の笑顔がかわいらしくて仕方がなくなってしまったのは、何も昨日今日に始まったことではない。
 そんな彼女が一番嫌っているもの――親兄弟、村を全滅させた吸血鬼。
 直接村を手にかけた吸血鬼たちだけではない。これまで顧客だった人間により近い思想を持つ吸血鬼たちですら、ファラにとっては嫌悪の対象だった。吸血鬼としての消滅を願う吸血鬼には、遠慮なくその人間のままの歯で噛みついていたし、人間に戻りたいと願う吸血鬼を目の前にしても、嫌悪を隠さない。
 そんなファラに、自分も実は吸血鬼なのだと知られてしまったら?
 自分がファラの最も憎悪する生き物だと知られてしまったら?
『吸血鬼も人間の一種です。何も恥じることはありません。顔をあげてお日様の下を歩けばいいのです』
 まだ己の身に起こった悲劇から立ち直れなかった頃、ギルベルトから言われた言葉。何度この言葉を思い出したことだろう。何度、この言葉に支えられたことだろう。
(だけど先生、僕はファラに嫌われることが怖いんです)
 ファラはけして吸血鬼である本当の自分を、受け入れることはもちろん、理解しようともしないだろう。冷たい目で見下されるだけだ。
 だけど。
「七歳、違うんだ」
 このまま本能に押し流されてファラを襲い、再び心に傷を負わせたうえに殺してしまうか、嫌われてもいいからその指先から血をくれと頼むか。
 さっきのツェツィーリアの話を聞いていれば、聡いファラのことだ、何か見当をつけてしまっているかもしれない。
 迷った末に、ルースはこの半年間曖昧にしてきたことを口にした。
「七歳……あんたの方が年下だったって?」
 意に介した風もなくファラが言い返す。
「違う。聞いていただろう?」
「さあ? あんたがあのツェツィーリアって女に吸血鬼にされた話?」
 予想はしていた。勘づいただろうと、予想はしていたのだ。しかし、断定的なファラの言葉に、思わずルースはクッションから顔をあげてしまっていた。
「何よ、その顔。本当に吸血鬼みたい」
 ファラにじっと見つめられて、ルースは再びクッションに顔を埋めようにも埋められなくなっていた。
「気になってはいたのよね。昼間でも歩ける吸血鬼がいるものなのかって。十字架とかにんにくとかは個人の好みも相当関係してるって話じゃない? でも、日の光だけは違う。日の光だけは、確実に吸血鬼の身体を焼き滅ぼす。それなのに、あんたは真昼間でもちょっと帽子をかぶったくらいで、その帽子が風に飛ばされようがちっとも焦りもしないで強い日照りの中も歩いていた。その神父の格好も、ちゃんと資格あるわけじゃないんでしょ? そろそろ教えてよ。ルース、あんた、何者?」
 薄紫色のファラの瞳がひたとルースの瞳を捕獲する。
 逸らされないように。逃げられないように。
 自分も逃げたりしないから、と。
「七年前、十六歳だった時に妹と一緒に近所の家を訪ねたんだ」
「ハロウィンだったのね」
「そう。その家にいたのが、あの女吸血鬼と壮年の男吸血鬼だった。僕は彼女の方に牙を突き立てられ、妹は男の牙にかかって拒絶反応を起こして死んでしまった。妹は必死で僕に助けを求めていたのに、僕は……助けなかった。幸せな気持ちになっていたんだ。彼女に血を吸われて、味わったこともないほど幸福だった」
「綺麗だものね、あの人」
「そう、すごく綺麗だった。あの人の糧になって死ぬのならそれもいいかって、馬鹿なこと考えてた。どうせ助からないって」
「妹を助けられず、吸血鬼に噛まれたのに一人生き残った。それも太陽の下を堂々とその白い牙を晒して歩いている。それは家族も村の人たちもあんたを疎むようになるでしょうね」
 まるで見てきたかのように言い当てられて、ルースはしばしまばたきすることも忘れてファラに見入った。
 ファラは、一度ゆっくりと目を閉じると、自分に言い聞かせるように語った。
「紙一重だったのね。あたしは吸血鬼になる直前で変化が止まって生き残った。ルースは吸血鬼にちょっと足を踏み込んでしまってから変化が止まった。だから……アシネの町であたしを見つけたとき、貴方は物珍しかったんじゃなく、自分と似ていたからあたしを拾ったのね?」
 目を見開いたファラは、違うとは言わせない強さでルースを見つめた。
「そうだよ」
 ようやく、押し出すようにルースはファラの考えを肯定した。
 アシネの廃墟で見つけたとき、確かにファラに同じ何かを感じたのだ。それは、においでも形でもなく、宿命という名に分類されるであろうものを。
「吸血鬼は嫌いよ。あの牙を見るたびにぞっとする。憎しみが込み上げてくる。今だって大嫌いよ。でも……あんたにくっついていろんな吸血鬼の生い立ちの話を聞いて、望んで吸血鬼になった人なんてほとんどいないんだって気づいたの。当たり前だよね。ほとんどは不意打ちで襲われて餌にされて、その結果生き残ったら吸血鬼になってしまっていたっていうんだもの。まぁ、途中から望んで血を吸われてた方もいらっしゃるようだけど?」
 ファラに目を眇められて、ルースの肩には力が入った。
「それでも、あたしたちに依頼してくる吸血鬼たちはみんな何かずっと人間の倫理と吸血鬼の理の間で悩んでくる人たちばかりだったわね。投げ出さずに自分の人生見つめてる人たちばかりだった。――気づいちゃったのよ、あたし。悔しいけど、吸血鬼も人間なんだって。人間の一種なんだって。あたしたちを上に言われるがままに襲ってくるさっきのような奴らはそうは思わないけど、あのツェツィーリアって人も、ルースも、あたしは人間だと思う。嫌いになったりなんかしないよ。憎んだりなんかしない。一所懸命、自分の人生模索している人たちのこと、あたしが偏った視点から断罪することなんてできない」
 薄紫色の瞳に浮かぶ強い光に魅入られたまま、ルースはしばしファラを見つめていた。身体中から押さえがたいほど湧き上がっていた人間の血を求める欲望も、酔いが醒めるように波が小さくなっていく。
 それでもまだ、身体中の渇きが満たされたわけではなかった。
「血を、くれないか。ファラ」
 人間だと言ってくれた。嫌わない。憎まないといってくれた。それでも、まだルースはファラに血を求めることが怖くて仕方なかった。自分は本当に吸血鬼なのだと認めてしまうようで。
 だから、考えに考えた末に口にしたその言葉も、声が震えてうまく発音できなかった。
「え、何? トリック・オア・トリート?」
 聞こえていたのかいなかったのか、ファラは耳に手をあてて聞き返す。
「嫌いにならないのか? ファラの大嫌いな吸血鬼だぞ。今まで、半年もずっと隠してたんだぞ?」
「そうね。一緒に旅するにあたって危険な人物であるか否かを判断する情報が与えられていなかったことには怒っているけど、ルースが吸血鬼だったことには怒ってはいないわ。大体、怒りようがないでしょう、そんなこと」
「……トリック・オア・トリート」
 ファラの言葉を受けて、ルースは小さな声で呟いた。
「え? 何? もう一回言って御覧なさい。でないとあげないわよ」
 ファラは左手にはめていた皮手袋とナックルを取ると、右手を一振りしてナックルの刃を起こし、ルースの目の前で左手の薬指を傷つけた。うっすらと切り裂かれた傷口から、たらりと真っ赤な鮮血が零れ落ちる。鉄くさいにおいがルースの嗅覚を刺激する。
 ルースは思わずクッションを投げ出し、零れ落ちたその雫を両手で掬った。
「あ……」
「一年に一回必要な量って、やっぱり人間一人分なのかしら? それともコップ一杯分?」
「僕の場合は一口あれば十分だ」
「そう、それなら首筋に噛み付きたくなる前にこれで我慢するのね。考えてくれたから話してくれたんでしょう? ルースが吸血鬼の本能のままにあたしに噛みついたら、あたしは今度こそ死んでしまうかもしれないって」
 一滴、二滴とファラの薬指から零れ落ちた血液は、ルースの掌の上に赤く広がっていく。
「ちなみに、もし、あんたがここで狂い死んだら、あたしはこれであの扉ぶち破って外に出て、あんたの先生も憧れの人も意志に関係なく噛みついてやるつもりだから。ああ、それだけじゃないわよ。今後あんたに来た依頼、全部あたしが行って、吸血鬼の理とやらをみーんな破壊して回ってあげるんだから」
 それでもいいの? と、窺うようにファラはルースを覗き込んだ。
 ルースの口からは、ようやく呆れたような溜息が漏れ出た。
「わかったよ。もう一度言うよ。――トリック・オア・トリート」
 ファラはにっこりと天使のように微笑んで、ルースの口の前に左手を差し出した。
「牙はたてないでね。あと、がっつかないこと」
 ルースはファラの手を両手で包み込むように自分の口元に引き寄せた。
 わずかな傷に唇を当てる。
 伸びた牙は皮膚を食い破る感触を求めて疼いたが、それ以上に唇から這い伝ってくる血液は想像以上に甘く、素早く全身に広がっていった。






「せーの」
 鍵がかけられていた応接間の扉は、二人同時に体当たりを繰り返すうちに半ば破れるようにして開いた。勢い余って廊下に飛び出した二人は、向かいの壁にぶつかりもつれ合って床に転る。
「痛ったぁ。ルース、こういうときは身体張って女の子守るべきなんじゃない? 大体、一口でいいって言ったのに吸いすぎよ。くらくらするじゃない」
「ファラは血の気が多いから少し抜いといたほうがいいかと思ったんだよ」
「うっわぁ。命の恩人に対して、何、その口の聞き方。反省しなきゃ来年はあげないわよ」
 床の上に座り込んで、かわいらしくファラが眉を吊り上げる。
 ルースは、頬まで膨らませたファラを驚きの表情で見つめていた。
「来年?」
 ルースに聞き返されて、ファラは怪訝そうにルースを見返す。
「何よ、その顔」
「何って……」
 来年も一緒にいられる保証はどこにもないのに。
 ファラの勘の言うとおり、南にファラの仇の吸血鬼がいるというのなら、彼らを見つけた時点で二人の旅は終わりになる。その終わりは、一月先で済むかもしれないし、半年後になるかもしれない。もしかしたら一年、またかかってしまうかもしれない。だけど、確かなことは何一つ言えない。
 漠然とした先行きの不安を口にしようかするまいか、迷った矢先、こつ、こつ、とこれ見よがしに廊下の床に杖をつく音が近づいてきた。
「ギルベルト先生」
 杖を片手に現れたいかめしい初老の師を前に、ルースはそっと息を飲んだ。
 館内を案内していたときは、杖なしで元気に歩いていたはずだった。応接室からツェツィーリアを連れ出すときだって、その手をとってよろけることなく部屋を出て行ったのを、確かにルースは見ていた。
 そのギルベルトが杖を持って自分の前に現れたということは、つまり。
「杖を出しなさい、ルース・ロイエンタール」
 杖の石突きを眉間にあてがわれるように向けられて、ルースは生唾を飲み込みながら心持ちのけぞった。
 話し合いを。
 とてもそう言い出せる雰囲気ではなかった。
 この館の扉を開けたときにも感じてはいたのだ。ギルベルト先生は変わってしまった、と。ただ、認めたくなくて気づかないふりをしようとしていた。自分から見て、望ましい変化だとは思わなかったから。
 ルースはおとなしく立ち上がると、法衣の合間から腰に下げていた杖を抜き取った。
 その杖は、ギルベルトがルースの前から姿を消した日、残していったものの一つだった。二人共に歩く日には、時にギルベルトが坂道を歩く助けとなり、時に強く振れば山賊たちを散らす刃となった。ルースの所有となり、ファラと共に旅するようになった今はめったに日の目を見ることはなかったが、鞘を取り払われて露になった刀身は新品同様、見事なまでに磨き上げられ錆一つはえていなかった。
「先生、一つだけ教えてください。なぜ五年前、急に僕を置いていなくならなければならなかったのですか」
 館内の明かりに照らし出されたルースの仕込み杖の刀身をしげしげと見つめながら、ギルベルトは持っていた杖を一振りして尖った切っ先を振り出した。
「このマンデルベルクの館の前の主は、名をザエルと言いました。あなたの妹御を殺した吸血鬼です。そして、私を吸血鬼に堕とした男」
 静かに告白するなり、ギルベルトは二本の白い牙を剥きだしにしてルースに襲い掛かった。
 ルースは、腹を狙って水平に繰り出されてきたギルベルトの杖の切っ先を跳ね上げ、振り下ろす刃で肩口を切りつけた。しかし手ごたえはなく、目の前から姿さえも消えており、はっとして振り返った瞬間には、ギルベルトはルースの後ろにいたファラの首筋に後ろから牙を押し当てようとしていた。
「先生!」
 泣きそうになったルースの声に、ギルベルトの血走った目がぎろりとルースを見上げる。
「清く正しく、神父の鑑とまで讃えられた貴方が、どうして人の血を求めるのですか」
「私はもう神父ではない。だから五年前、その法衣も杖も十字架も捨てていったのだ」
「ええ、僕のことも。先生。お別れしなければならなかったあの晩、先生が夜に外に出て行ったのは、僕の妹を殺した吸血鬼の手がかりが掴めそうだから、とおっしゃっていましたよね。手がかりどころか、本人に会って襲われてしまったのではありませんか? ――全部僕のせい、だったんですね」
 ギルベルトは射抜くようにルースの目を睨みつけた。
「お前のせい? それは違う。あの頃、私は神に仕える者として当たり前のことをしていただけだ。人々に見捨てられたお前を拾い育て、妹の仇が現れたならば、お前が無茶な行動を起こす前に何とかしておかなければならなかった。その結果死に至ろうとも、化け物に成り果てようともあの時の私は構いもしなかった」
「化け物……ですか」
 静かに回顧したギルベルトの言葉の合間、ルースは泣きたいような笑いたいような気持ちで一言だけを繰り返した。
「化け物だろう。お前も私も。こんな長い牙が生え、人の柔肌を突き破らねばこの渇望が癒されることはない。どこまでも貪欲に甘い血の味を求めてしまう。理性で律しきれない心を持つ者など、人間ではない。化け物だ。お前もそうであろう? ルース。その部屋で、この娘の血を吸ったのだろう? 今までも、私も含め人間たちの血を吸って生き延びてきたのだろう?」
 ルースの杖の柄を握る手には、身体中からこみ上げてきたものを押しとどめるように、白くなるほど力がこめられていた。
「吸血鬼も人間だとおっしゃってくださったではありませんか。堂々と太陽の下を歩けと、おっしゃって下さったではありませんか」
「自分が堕ちて、初めて分かったよ。ああ、吸血鬼という奴らは人なんかじゃない。化け物なんだ、と」
 嘲りも明らかに嗤った初老の吸血鬼は、押さえつけたファラの首筋にかぶりつこうと顎を引いた。
 ルースはとっさに杖の持ち手と剣の切っ先とを持ち替え、杖の持ち手でギルベルトの頭頂をついた。
 脳震盪でも起こしたのか、ギルベルトの手はファラから離れ、後ろへと倒れていく。その間にルースは杖を再び持ち直し、ファラを背後に庇って杖の切っ先を床に仰向けにのびたギルベルトの眉間にひたと据えた。
 何度か瞬いて、ギルベルトが目を覚ます。
「無駄だよ。眉間を刺されたくらいじゃ私たちは死なない。驚異的な身体再生能力を有しているのだから」
「知っています」
 静かにギルベルトを見下ろしたルースの杖の切っ先からは、さっき刃の方を握ったときに切った傷から流れた血が一滴、二滴とギルベルトの額を濡らしていた。
「何の真似だ。まさか洗礼のつもりか?」
 嘲りもあらわにギルベルトは鼻で嗤った。
「化け物の血で何が洗える? 身体か? 心か? 過去か?」
 しばし、血走ったギルベルトの瞳を見つめて、ルースは一呼吸置いて口を開いた。
「最後にもう一つ、お聞きします。貴方は人間としての再生を望みますか? それとも、吸血鬼としてその身にかけられた理を破壊されることを望みますか?」
 ルースの声はゆるぎないものだった。
「ルース……」
 ファラが言葉を失うほどに。
「……それが君たちのお決まりの文句。噂に聞くとおりだ。ならば答えよう」
 薄く笑ったギルベルトは、ルースではなく、ファラを見つめて言った。
「吸血鬼として、この身にかけられた理の破壊を」
 その答えを聞いた瞬間、ルースはギルベルトの眉間ではなく、耳ぎりぎりの床に剣の切っ先を勢いよく突き刺した。
「どうして!?」
 どうして、自分ではないのかと。どうして自分を呼んでおきながら、再生ではなく吸血鬼となってしまった身を破壊されることを選ぶのか。
「たとえ人に戻り、懺悔しようとも、神はお許しにはならないでしょう。一度神に全てを捧げた身でありながら、吸血鬼の女性に心奪われ、その夫を殺してこの館に居座っている私のことなど」
 ルースは目を見開き、まじまじと憧れの師であった元神父の顔を見つめた。ギルベルトは恥じるようにルースから顔を背け、横に伏せた。
 今の己の姿を恥じる気持ちは残っているようだが、人に戻ったところで、その心はもう元の清廉な神父には戻れないだろう。肩書きばかりは神父でも、このままでは宿る心の浅ましさにギルベルト自身が悶えることになる。それでは救ったことにはならない。
「ツェツィーリア様を人間に戻したくなかった。老いた彼女を見ることも、私だけ取り残されることも、どれも我慢ならなかった。人間として生き返ることがツェツィーリア様の願いだと分かっていても、私にはいつか彼女を失う、そんな未来は耐えられなかった。私も共に人間に戻れたとて同じだ。人間の時間は有限。私の死か、彼女の死か、いずれ私は彼女を失う。そんなことは考えただけで耐えられなかったのだ」
 ギルベルトは熱に浮かされた潤んだ目で虚空を見つめ、舞い上がるように言い募った。反対に、ギルベルトを見つめるルースの目には苦いものが滲み、広がっていった。
「僕のこと、消してしまいたかったんですね」
 焦点を失っていたギルベルトの瞳にルースの苦く、悲しげな顔が浮かびはじめる。
「この時期、僕が強く血を求めること、一緒に旅したことのあるあなたは知っていたはずだ。それも、必要な時には血を分けてくれていた貴方なら当然、もし血を得られなければ僕が発狂してしまうことも分かっていたはずだ。だから、この時期を選んだんですか? この時期を選んで、僕とファラを一つの部屋に閉じ込めて――僕が狂うか、ファラの血を吸ってしまって絶望するか。どちらでもいい、依頼主の望みを叶えさせなければいいと、貴方は思ったのではありませんか。ギルベルト先生」
 推測の果てにたどり着いた結論に、ルースは自分で口にしながら俯いてしまった。
 ギルベルトはうっすらと口元に苦笑を浮かべた。
「お前は本物の吸血鬼が唯一確実に死んでしまう日光にも強い。殺し方が分からなかった」
 殺し方。
 そう口の中で繰り返し呟いて、ルースは溢れ出しそうになるものを堪えるように、全身を震わせながら唇を噛み締めた。
「なら、何のために僕を拾ったんですか。何のために二年も一緒に旅をしながら育ててくれたんですか。何のために、僕にあんな言葉をくれたんですか。どうして、僕を生かしたんですか」
 唇を噛み締めて尚、留め切れなかった思いが口から溢れる。なぜ今更自分を裏切るのだと、睨みつける。
「どうして」
 最後にもう一度そう呟いた時、ファラがルースの傍らに進み出で、ルースの片腕を強く抱きしめた。
「諦めなさい、ルース。こいつはほんとに化け物になってるのよ。自分勝手っていう名前の化け物にね。どうして、どうしてって聞いたところで、神父だったからと答えるのが関の山だわ。何でもかんでも職業のせいにして、自分は何も見えていなかったんだって思い込もうとしてるのよ。今の方がよほど周りが見えているって。それってつまり、自分があの女一人に盲目にされてる自覚があるからよね?」
 目を見開いているギルベルトは、ファラに全てを見透かされたことを認めたようなものだった。しかし、ルースの全身はいまだ強張ったままだった。ファラの腕の温もりも強さも伝わっている様子はない。
 ファラは大げさに溜息をついてみせた。
「子弟揃って、あんたたちばかね。同じ女に惚れて人生狂わされるなんて」
「ほ、惚れっ? 僕は惚れてなんか……」
「一目惚れは立派に惚れたうちの一つよ。どうせ初恋だったんでしょ。苦い初恋よね。もしかして元神父さんもそういうの、免疫なかったんじゃない?」
 にやりと人の悪い笑みを浮かべてファラはギルベルトを見た。ギルベルトはかっと顔を赤く染めて跳ね起きると、ファラに向かって突進した。
 とっさに、ルースはファラを自分の背後に庇う。
 だが、そのルースの目に入ってきたのは血走ったギルベルトの目でも唾液を滴らせた長く伸びた白い牙でもなく、全てを洗い流すかのようなさらさらと流れる銀の髪だった。
「あ、あ……ツェツィーリア……さ、ま……」
 艶やかな銀の髪の主は、長いこと首を斜めに傾げ、ギルベルトを抱きしめるように支えながら立っていたが、やがて、彼女は一息つくと首を真っ直ぐに据えた。その腕からはずるり、とギルベルトの身体が力なく滑り落ちていく。
「せ、先生……!」
 あれほど憎しみを煽られた直後だというのに、床に転がったギルベルトの白濁した瞳を見て、ルースは弾かれたようにギルベルトの元に駆け寄った。
「吸血鬼が吸血鬼に血を吸われれば、本来は死んでしまうのね。跡形もなく……灰になって」
 ルースがギルベルトの身体を抱き上げた瞬間、ギルベルトの身体は灰になって残された衣服と共にルースの手に降りおちた。
 ルースは茫然と自分の掌に残された師父の変わり果てた亡骸に目を落とす。
「でも、血はおいしくないのね。やっぱり、人間の血じゃなきゃだめね」
 静かに溜息をついたツェツィーリアは、くるりとファラを振り返った。
 すぐにでも飛んでいきたかったが、ルースはまだ動くことはおろか、瞬きすることさえできなかった。
「待って、ください。どうして先生を、殺したんですか。どうして貴女が? どれくらいかは知らないけど、ともにここで暮らしてきたんでしょう?」
「殺した?」
 ツェツィーリアは首だけをルースに向けて訊ね返した。赤い瞳には人間の血に飢えた吸血鬼特有の狂気がちらちらと見え隠れしていた。
「知ってたんでしょう? 普通、吸血鬼が吸血鬼に血を吸われれば、灰になるって」
 ツェツィーリアはしばらく黙り込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「ギルは、初めてここを訪ねてきた時に言ったの。ザエルは吸血鬼に血を吸われて死んだと。これからは自分が貴女のお世話をします、と。その吸血鬼がギル自身だと知ったのは少しあとのことだった。でも、吸血鬼が吸血鬼に血を吸われて死ぬなんて、そんなこと今まで聞いたこともなかったから。当たり前よね。少ない種族なんだもの。共食いして仲間を減らすよりも、人間の血を吸っていた方がいいもの。でも、これで確かめられた。やっぱりギルがザエルを殺したんだわ」
 一瞬だけ、憐れみとも憎しみともつかない視線をルースの手の中の灰に注ぐと、ツェツィーリアは再びファラに向き直った。
「貴女からは人間のにおいがするけれど、でも、本当に人間なのかしら。人間でありながら噛みついた吸血鬼を死に至らしめるというのなら、貴女も本当は吸血鬼なんじゃないの? 私と同じ……」
 すっとツェツィーリアの足が前へと動いた。ファラは皮手袋を脱ぎ捨てて拳を握り、ツェツィーリアに向かっていった。
 ルースが入る余地もなかった。二人は互いの両肩を掴みあい、首筋に狙いを定める。身長の高いツェツィーリアの方が早くファラの首筋に牙を突きたてられそうなものだった。実際、ツェツィーリアは口を開き、ファラの耳元に何事かを囁いて微笑む余裕さえあったのだ。しかし、直後にファラはさらに表情を引き締めて爪立てをし、ツェツィーリアの腕の中から白い首筋めがけて伸び上がった。
「や、やめろ、ファラ! 彼女の望みは人間に戻ることだったはずだ!」
 とっさにルースは叫んだが、ファラはすでにツェツィーリアの首に噛みついてしまったあとだった。
 ルースは慌ててツェツィーリアをファラの手から引き離す。そして、二本の古い牙痕の上に重ねるように付けられたファラの歯型の上からさらに自分の牙を差し入れた。しかし、口の中には何の味も感触も広がらなかった。ツェツィーリアはルースの腕の中で、ギルベルト同様形を失っていく。やがて腕からも重みが失われて、ルースの掌と膝の上には再び灰の山が築かれた。
「再生、できなかった……」
 茫然とルースは呟いた。
 初めてだった。依頼主の望みを聞き届けられなかったのは。
「ファラ! どうして噛みついたんだ。君ならその拳で気絶させるなり何なりできただろう?」
 怒鳴ってしまってから、ルースははたと気がついた。腹の中で煮えくり返るこの気持ちは、依頼主の望みを聞き届けられなかったからではなく、相手がツェツィーリアだったからだ。ツェツィーリアが、特別な存在だったからだ。
 初恋だったから?
 そうかもしれない。でも、きっとそれだけではない。自分の運命を変えた人だったから。
 ツェツィーリアもザエルが死んだと聞いたときには同じ喪失感を味わっていたのかもしれない。もしかしたら、殺したギルベルト自身も。
 それは、ルーツを失ってしまった迷い子のような心もとなさだった。ツェツィーリアの死は、ルースの中に流れるもの全てを奪い去っていってしまったのだ。
 もしかしたら、吸血鬼を人間に再生できる能力さえも。
 打ちひしがれ肩を落とすルースを、複雑な表情で眺めていたファラは、やがてある変化に気づいて口を開いた。
「ルース、見て」
 ルースの手の上、膝の上、そして床の上に散らばった灰が、風に集められるように動かされ、人の形を成していく。それはやがて、重みを持ったツェツィーリアの姿となった。
 茫然としていたルースは、慌ててその胸に耳を当てて鼓動の音を求めたが、拍動音も呼吸音も、何もその身体からは聞こえてこなかった。瞼を撫で開いても、あるのは開ききった赤い瞳孔だけ。
「やっぱり、だめだったじゃないか……」
 溜息をつくルースの横で、ファラはそっとツェツィーリアの唇の辺りを撫でていた。
「そんなことない。彼女は再生したじゃない。だから、望みどおり吸血鬼として死んで、人間の亡骸を残していったのよ」
 ファラはそっとツェツィーリアの唇を開いて、ルースに見せた。
「牙が、伸びていない」
「そう。人間と同じよね。血を吸いたいと思うから、吸血鬼は牙が伸びるんでしょう? あんたのように理性があれば普段は人間と同じ状態を保てる吸血鬼もいるようだけど、血を吸いたいと思うことが本能なら、理性で押さえつけなくても牙が伸びていない彼女は、もうその本能から解放されている」
「ツェツィーリア、さん」
 ルースは初めて、自分の運命を変えた女の名を呼んだ。そして、胸の十字架を握り、弔いの言葉を残された亡骸に囁き落とした。





 二人は薄暗い森の中、目の前に見えてきた森の終わりを目指して黙々と歩いていた。
 マンデルベルクの森にある館を目指して森に入ってきたときとは対照的に、手を繋ぐどころか今にも背を向けあいそうになりながら、ルースの方がやや前を歩いていく。
「何怒ってんのよ、ルース」
 さっきから何度目かの問いをファラが投げかけるが、ルースは一向に振り向こうともしない。
「ったく、怒りたいのはこっちよ。何よ、あんな綺麗な人が初恋だなんて。最後まで女々しくすがっちゃってさ」
「ファラ!」
 苛立ったルースが、森の終わりを目の前にしてようやく歩を止めてファラを振り返る。
「あ、ようやくこっち見てくれた」
 ぱっと輝いた笑顔に、ルースは疲れた顔で溜息をつき、再び黙々と前を見て歩きはじめた。ファラは小走りにその横に追いつく。
「ねぇ、あんたはその牙で吸血鬼を噛めば吸血鬼を人間に戻してあげることができるんでしょう? 自分のことは戻せないの?」
 興味津々に見上げてくるファラの視線を受け流して、ルースはもう一度前を見据えて呟いた。
「……でも自分で自分の首には噛みつけないし」
「ばっかねぇ。別に首じゃなくたって腕でも足でもいいわけじゃない。ちょっと試してみたら?」
 ほら、とばかりにファラに腕を掴まれて自分の口元まで持ち上げられて、ルースは慌ててファラの手を振り払った。
「冗談だろ? やめてくれ」
「……怖いのね」
 ファラに正面に回りこまれて足を止めざるを得なくなったルースは、その一言に憮然と唇を引き結ぶ。
「当たり前じゃないか。これまで、間違っても自分の指さえ噛まないように注意して生きてきたんだぞ。このとおり、僕は太陽の光を浴びても死なない。吸血鬼にしては中途半端な存在なんだから」
 雲にさえぎられていた太陽の光が、マンデルベルクの森の入り口を明るく照らしはじめる。その光を浴びて、眉一つしかめずにルースは言った。
 その悲壮感たっぷりの顔を見たファラは、あっさりと鼻で笑った。
「臆病者」
「なんだって?」
「臆病者、って言ったのよ」
「臆病なんじゃない。僕は慎重なんだ!」
「慎重すぎる人のことを臆病者というのよ」
 憮然とした表情のまま睨みつけているルースに、ファラは今度は笑いを噛み殺すように口元を緩めた。
「まあ、いいわ。吸血鬼人生に飽きたら、いつでもあたしがあなたの首筋に噛みついてあげる。吸血鬼としては不完全なルースのことだから、意外とあたしに噛まれれば人間に戻れるかもよ?」
「どういうことだよ」
「あたしの力が吸血鬼の理を壊すものだというのなら、人間の部分も残ってるルースなら、そこだけは残して生き残れるかも、ってこと」
「そこだけって、太陽の下、堂々と歩けるってことくらいだろう?」
 顔をしかめたルースの肩に手をかけて、ファラは目を輝かせて首筋を撫でさする。
「十分じゃない。ね、そうだ、今すぐ試してみよう? ね? 一回だけ。一回だけだから」
「い、い、いやだ。だめっ。僕にはまだ僕のこと待ってる人たちがいるんだから」
「そんなこと言ってたら、ルースがいつまでたっても幸せになれないじゃない」
「い、いいんだよ、僕の幸せは……」
 ルースはちらりと見上げてくるファラの顔を見て、再び顔を背けた。
「ルースの幸せは?」
 真顔で問いかけてくるファラをやり過ごしあぐねたルースは、眩しく輝く太陽を見上げたあと、おもむろにファラの腕を首から引き剥がして押し返し、真面目にファラを見つめ返した。
「太陽の下を歩けることと、望まずに吸血鬼になってしまった人たちの願いを叶えてあげられることだから」
 あまりにも真面目な回答にあっけに取られたファラを残して、ルースは逃げるように目の前に開けた野原へと駆け出していった。
「あ、ルース! 地図も見ないで走り回ったら、また迷子になるでしょ?! 今度こそ南よ、南! そっちは西よーっ!」
 自分にも未来というものが続くなら、もうしばらくはこの凶暴な天使と共に旅が続けられればいい。せめて彼女の終点が見えるまでは。
 我侭が許されるなら、もう少しだけ。
「聞いてるの、ルース!」
 ファラの声を聞きながら、ルースは意図して次の依頼者が待つマンデルベルクの森の西にある村を目指して逃げるように走っていった。





〈了〉





  管理人室 書斎  読了

  200910311403