きみとみた夢




 何度も針を刺された少女の白い腕は、そこだけが青紫色に腫れあがっていた。白衣に身を包んだリィトはそこにまた針を刺す。栄養剤と書かれた睡眠薬を注入するために。少女の表情はぴくりとも変わらない。脳波にも特筆すべき乱れは見られなかったことを確認して、リィトは細い針を腕から抜いてキャップをすると、銀色のトレーの上に静かに置いた。
 病室には誰もいない。真夜中。看護師の巡回もさっき終わったばかりでしばらくは誰もここには近づかないことを知っていて、彼はここにいた。念のため窓のブラインドは閉じている。開いていれば窓の向こうに天の川のようなネオンが見えることだろう。ベッドに横たわるのは十四歳の少女。もう五年もこのベッドから動いたことはない。顔は病人特有の蝋のような青白さに覆われ、本来ならば珊瑚色に艶めいていただろう唇の皮は白く乾いて剥け、うっすらと霜をかぶったようなどす黒い赤が見え隠れしていた。こけた頬、静脈、動脈構わず浮き出す首筋、十四年という歳月に比べ、九歳の時とほとんど変わらない小さく稚い身体は白いシーツに隠されて足の先まであるのかどうかすら疑わしいほどに痩せ細っている。
 山崎玲。十四歳、B型。身長百三十二センチ、体重二十一キロ。女性。月経なし。五年前の五月十二日、九歳の時に交通事故に遭い昏睡状態となり、以降遷延性意識障害、つまり植物状態となって三度の転院後この療護センターに入院し、今年で三年目になる。家族は父、母、兄が一人。両親は毎日面会時間が許す限り彼女に付き添って意識回復のためのリハビリに励んでいるが、五年たっても少女は両親の呼びかけにも応えず、大好きな音楽にもさほど反応しない。ごくたまに嬉しそうに口元をほころばせているところを見たという看護師もいるが、家族に希望を与えるほどの回復はみせていないのが現実だ。兄は確か今年大学受験だったのではなかっただろうか。妹を助けてみせると医学部を志望していたはずだが、妹の治療費にお金がかかるために諦めたのではないかという噂もちらほら聞こえてきている。たとえ医学部にストレートで合格してもその後六年は大学で勉強しなければならず、卒業後も研修等に追われれば、妹を専属で診るなんてことがいかに難しいかが分かるようになるだろう。玲の兄が妹の意識を回復させるというシナリオはさして心配するほどのものでもない。もっと心配すべきなのは、この世界の現代医学の進歩であった。遠隔地からインターネットとロボットを使って世界最高位の医者が僻地の患者を手術できるようになっているのみならず、最近では不老薬の開発まで現実味を帯びはじめてきている。いくら人体がミクロコスモスと呼ばれ、人知の及ばぬ領域を内包しているとはいえ、問題があるからこそこの世界の人々は勇んで駆け上っていく。意識障害のために病床を離れることが出来なくなった患者がいれば、その救済の為に日夜研究を重ねている研究者達が回復方法を見出す日も近いかもしれない。科学は思わぬところから思わぬ病の解決の糸口を見出すものだから。
 リィトは薄暗闇の中眠り続ける少女を見下ろした。
「アキラ」
 親しげに呼びかけたその声に、さっきまで顔全てを覆っていた冷徹さは微塵もない。むしろ、愛しい者の目覚めを乞うるような愛おしさに溢れていた。
「元気かい、アキラ。こっちは時間が経つのが遅いね。一日一日がこんなに長いなんて思わなかったよ。夜まで百年の時を待つようだ。これでも昼間は真面目にホスピタルの人たちを診たりしたりして忙しいはずなんだけどね。毎晩こうやって君に話しかけるときに思い返すと、とてつもなく長い時間を生きてるような気がしてくるんだよ。当たり前か。僕は元はこの世界の一日が約三年に凝縮された世界で生きてたんだから」
 リィトの手が少女の額にかかった前髪をかきあげる。青白い額には年相応のにきびも何もない。ただ、五年前についた傷の一つが痛々しく眉間から髪の生え際まで斜めに伸びていた。
「そうだ、今日は何月何日か知ってる? 五月十二日だよ。そう、ちょうど五千年前、僕らの世界が誕生した日だ。そっちでは華々しく国を挙げて祝っていた時代もあったけど、今はどうなんだろうね。僕たちは過去を持たないままある者は老い先短い老人として生まれ、ある者は病床に横たわるだけの存在として生まれ、またある者は母の胎内から這い出て産声を上げた。あくせく働く若人は気づかなかったけれど、暇な老人達は自分達に回顧する過去がないことに気づいてしまった。僕はこっちの世界の君と同じく学校にも行かず、近所のじいちゃんばあちゃんの話ばかり聞いてた時代だ。僕にも幼稚園に行った記憶も小学校に入学した日の記憶もなかったんだ。それからはもう、ゲームの世界の主人公にでもなった気分だった。この世界の謎を解くのが気づいた自分の役目だって張り切って家出同然で旅に出た。もてるだけの現金を家から持ち出してさ。十二歳だったのに嫌なガキだよね。銀行のカードだけ持って出たんじゃ、いずれ止められるし足取りがばれるってちゃんと知ってたんだ」
 髪をなでていたリィトの手が骨ばった少女の頬へと流れていく。指先に滲んでくるのは死体かと思うほどの冷たさばかり。しかし、別な手で握った手からは弱々しいながらも脈拍らしきものがリィトの指先を規則的に刺激していた。
「神に挑戦するかのごとき冒険だった。ゲームと違って何のヒントもないんだ。当たり前だよね。向こうはクリアさせる気なんてなかったんだから。それでも、眠らない少女がいるってネットの噂で見たときには直感的にこれだと思ったんだ。ネットなんて不確かな情報源を信じて君を探しあてたときには、僕はこのゲームの九十九パーセントをクリアしたような気がしたよ。君はその時十歳だったね。ご両親とお兄さんとたくさんの友人に囲まれて普通に小学校に通っていた。明るい声でたくさん笑う子だった。本当に君が眠らない少女なのかどうか疑ってしまうほどに。僕が君を見つけた夜、僕と君は君の家の前で初めて言葉を交わした。寝静まった家の窓からこっそりと抜け出してきた君。僕と目があったときはどきりとしたように家に戻ろうとしたっけ。ねぇ、覚えてるだろう?」
 リィトの呼びかけに応じるように、少女の口元がやわらかに綻んだ。リィトはそれを見て、満足げに頷く。
「泥棒、だったっけ? 君が最初に僕にくれた言葉。部屋に戻ったかと思いきや、金属バットを持って飛び降りてきた時には、僕はどうしようかと思ったよ。危なく僕はそこで命を落とし、君は豚箱に入れられるところだった。だろ? ったく、おてんばにもほどがあるよな。まさか、ほんとの世界ではこんな姿になってるなんて思わなかった。眠れず夜な夜な家を出歩いて探していたのは自分の記憶。君も感じてた。突如自分がこの世界に現れたんじゃないかって。だからネットに眠らない少女がいる、なんて自分で書き込んで、君もヒントを探し求めてた。自分にかけられた魔法を解くためのヒントを。お利口な君は僕みたいに生活そのものを捨てることは出来なくて、夜しかなかったんだよな、自由になれる時間は。眠りに落ちる前のあのまどろみを知らない君は、他の人と違うことに焦りを感じはじめていた。思春期だったからね、君も僕も。ねぇアキラ、元気かい? 君の笑顔が見たいよ。君の笑う声が聞きたいよ」
 少女の眉間に若干の皺が寄る。リィトは苦笑して眉間に指をあててその皺をほぐしてやった。
「君が何故眠りにつかないのかを研究するために僕は一度家に戻って親に泣いて謝り、家庭教師をつけて飛び級で大学に入学した。生体研究所に入ってこれから好きなだけ君と世界の謎を解けると思ったときは、もしかしたら一番幸せな時期だったのかもしれないね。君も、一番幸せだったんじゃないだろうか? 将来の夢を語らって、子供は何人ほしいとか、老後は二人で世界中を旅行しようとか、あれだけ夢を一杯膨らませられた時代もなかったね。でも、現実には君はまだ十歳にもなってなかったわけだ。向こうでも、僕は十七になっていたのに君の見た目は身長百三十二センチのままだった。君の周りの時間だけが駆け抜けるように進んでいったね。こっちと違うのは、それでも君は十四歳だった。ああ、今のこの世界の年齢と同じ年だ。今、君が目を覚ましたら、きっと同じようなギャップが起こるのかな。身体は小さいし顔も幼いままなのに、口ばかりは達者なんだ。そして、十四歳らしい真っ直ぐな正義感を持っていてさ。僕がもう少し賢かったら、僕が知りえた事実を君に告げることなんかしなかっただろうね。でも、僕らは世界の謎を解くことに夢中だった。君の遺伝子や脳を調べることに、僕は夢中だった。人が何故眠らずとも生きていけるのか。君の脳の中にあるいくつもの扉を開け続け、僕が辿り着いた答えは――驚愕すべきものだった。誰かに喋らずにはいられなかったんだ。せめて、秘密を墓まで持っていけるくらい僕が大人になってからその答えにたどり着ければよかったのに。これはもう、神様の意地悪としか思えない。君の脳の中で僕が見つけた真実。君の思い出せる記憶のその一瞬前の出来事が、確かに君の脳には刻まれていた。酷い事故だった。身体中を衝撃が襲って、君が向こうの世界で最後に見たのは跳ね飛ばされた時に仰ぎ見たこれ以上ないくらい見事な夕焼けだった。そして、暗闇。君がこの世界で目覚めた時から、この世界は始まったんだ。現実で眠り続ける君が見る夢の世界として」
 リィトは握っていた少女の手を両手で包み込むように握りなおした。
「誰が信じる? こんな幼い少女が一つの世界の創造主であり、破壊者となりうるだなんて。僕がもう少し頭が悪ければよかったんだ。謎が解けてそれで満足できるような先の読めない愚鈍な男だったらよかった。さもなければ、二十歳になった君がもっと自分のことしか考えない我が儘で優しさの欠片もない女だったらよかった。そうでなければ、もっと早く、真実を知る前に子供を作ってしまっていればよかった。なんて、一向に成長しなかった君には言えないことだね。でも、思うんだ。子供がいたら君は世界のために犠牲になろうなんて思わなかったんじゃないかって。もっと自分の望みを最優先に出来たんじゃないかって。それともやっぱり違うのかな。子供が生きる世界を守るために、やっぱり君はこうしただろうか」
 銀のトレーから使った注射器を取り上げると、リィトは容器の中にうっすらと浮かんだ赤黒い血を見つめた。
「君の見る夢の世界では、ご両親は仲良しだった。お兄さんも優しかった。学校の同級生達もみんなみんな、優しかった。優しい世界はいいよね。それはまやかしなんだって言われたって、信じたくなんかないよね。皮肉な話だよ。君が昏睡状態に陥ってから、ご両親は力を合わせて君の意識を取り戻そうとがんばってるんだ。君をいじめてばかりいたお兄さんは医学部に行って君の専属医になるつもりらしい。君を受け入れてくれなかった同級生達は君のために千羽鶴を織って持って来た。それも中学校に入ってからも毎年君が三年生だった時のクラスメイトが集まって千羽鶴を届けにくるんだ。見てよ、この天井。ちょっとカラフルなカーテンみたいだろ?」
 リィトは注射器を置いて天井から釣り下がっている千羽鶴の一つに手を伸ばすと、そっとそれを揺らした。紙の翼がかさかさと小さな音をたててこすれあう。
「教えてあげたいな。でも、やっぱり教えられない。もし、君の心がぐらついて目覚めたいと思ってしまったら、僕らの世界は終わってしまうから。生かさず、殺さず。嫌な言葉だよね。でも、君が僕に言った言葉だ」
『私が大好きなこの世界を守って』
 耳元で今も鮮明に彼女の声が蘇る。この世界ではまだたった四年と半年ほど前の記憶。
「こっちの世界に来て自分を眠らせ続けてほしいだなんて言った君にさ、僕が君の側から離れてしまってもいいのかって、僕は違うところで嫉妬して葛藤してた。ねぇ、アキラ。君は知ってたの? こっちの世界では時間がまだちっとも過ぎてないってことに。僕がその世界に残り続けていたら、君は同志であり理解者である僕を早期に老衰で失い、目覚めのベルが鳴るまで成長しないその姿を引きずって何千年も世界を一人で彷徨い続けなければならなかった。君は選んだんだよね? そっちの世界では一人でも、君の現実の世界では僕がずっと寄り添いつづけていることを。君が彷徨うその世界が続く限り、君は僕が現実では側にいることを信じつづけることが出来るから。ねぇ、アキラ、聞いて。言ったかもしれないけど、僕もこの世界では眠れないんだ。この世界に来てから四年と少し。まだ一度も眠っていない。そっちの世界で僕の身体が眠り続けているからかな。ちっとも眠くないんだ。でも、あのまどろむ瞬間が懐かしくて仕方がない。こっちの世界にいられるってことは、そっちの世界では君が熱心にコールドスリープのシステムを調整してくれているってことなんだろうけど。こんなに近くにいるのにね。どうして僕たちはこんなに遠く離れてしまったんだろう。眠れない君の苦しみが分かるよ。夢を見る時間が無くなって、人生の早回しも出来なくなって、世界を流れる時間のなんと緩慢なことだろう。でも、君は僕の味わう時間よりもさらに長い時間を味わっているんだよね。君の方が辛いね。そんなこと分かっているけど、でも僕はもう、我慢できないかもしれない。君に会いたいんだ。君をこの世界の家族に会わせてやりたい。本当の君を取り戻させてあげたい。たとえ、君が目覚めた瞬間に僕が消えてしまうことになっても、世界の数十億人が死に絶えることになったとしても、君はもうこっちの世界では一人ぼっちじゃないってことを教えてあげたくて、僕は仕方がなくなってる」
 か細く冷たい子供の手を包み込んだ両手を、リィトは祈るように、あるいは顔を覆うように額にあてた。
「逢いたいな。逢って話がしたいよ。君インナースペースに出来た世界を滅ぼす算段をするんだ。君がその世界を維持するために払っている犠牲は、あまりにも大きいものなんだよ。もう、十分だと思わないかい? もし君が数十億人を一瞬で水泡に帰せしむることに抵抗があるというのなら、自ら滅ぶようにこっそり仕向けたっていい。君のためなら、僕は神にも悪魔にもなるつもりだよ。アキラ、聞こえてる? 聞こえてるなら、僕のコールドスリープを切ってくれ。一度僕をそっちの世界に帰してくれよ。ちゃんと相談するからさ。だって君だって嫌だろう? 目が覚めたのに僕がいなくなっているだなんて。――それとも、長い夢のことは忘れてしまってるんだろうか? こっちの世界で暮らしていたことを綺麗さっぱり忘れてしまっていたように、僕のことも忘れてしまってるんだろうか?」
 リィトは呆けたような顔で眠り続ける少女の顔を見つめた。その表情にリィトの投げかけた問いへの答えは浮かんでいなかった。そもそも声が届いているのかさえ怪しい。リィトは毎晩少女に話しかけているが、少女がリィトの声を聞けたとして、聞けるのは約三年に一回なのだ。たとえ問いかけに答えるように口元をほころばせたり、眉間に皺を寄せてみせたりしたとしても、それは単に向こうの世界で彼女が笑わせられたり腹の虫の居所が悪くなったりしているだけなのかもしれないのだ。
「このピッチがこっちの世界と君の世界も繋いでくれればいいのに」
 白衣のポケットを質量以上に重く引っ張る存在を感じながらリィトはぼやいた。
「さて、今日の逢瀬はここまでだ。また明日の晩、来るからね」
 どんなに話しかけても、ここ最近辿り着く結論は同じになっていた。山崎玲を目覚めさせてあげたい。その一点ばかりだった。主治医として彼女の両親に触れ、兄に触れ、同級生達に触れ、いかに彼女の目覚めが周囲から嘱望されているのかを、日々、思い知らされるようだったから。リィトの中で、世界を救うと息巻いていた少年はいつの間にか影を潜め、かわりに患者とその関係者を憂う医者になってしまっていた。それはリィトにとって予想外の誤算だった。
「なんて、いつもの台詞では今日は終わらないんだ」
 リィトは少女の手を離すと、もう一度髪を撫で、白衣のポケットからさっき使用したものとは別の、ピストンの色が紫色の注射器を取り出した。
「できちゃったんだよ。不老不死の薬。全く嫌になるね。僕は自分で自分の才能が恨めしい。ほら、そこはつっこむところだからね。分かってると思うけど。ったく、君のつっこみがないとボケがいがなくて仕方ない」
 少女が望んだから、彼は彼女の中に息づく世界を維持するために実現不可能の烙印を押されて久しい不老不死の薬の研究に没頭し、人知れず不老の謎を解き、不死の謎までも解いてしまっていた。完成しなきゃいいと望みながらも。
「君が眠りについて五年目。世界が生まれて五千年の歳月が流れた。この記念すべき日に、君に問いたい。五千年経た今でも、君の夢の中に息づくその世界は存続に値するかい?」
 規則正しく心拍を刻み続ける電子音。乱れなく満ち干きを繰り返す脳波計。
「僕の最大の失敗は、君とのコンタクト手段を検討しないままにこっちに飛び出してきてしまったことだね」
 溜息さえも少女は拾ってはくれない。
「完成したっていっても、不老に関しては永遠を確認することはできないからね。少なくとも投薬実験した生物にあっては寿命の約八十倍も長生きしていることが確認できたってだけなんだ。奴らはまだ餌も食べずに生きつづけてる。人と虫はいろいろ構成が違うから多少成分は変えたけど、それでも若さを保つ部分は人も虫も変わらない。おそらく、あと六千年、そっちの時間にして六百万年はもつ計算になる。僕らはまた六百万年も離れたままだ」
 取り出した注射器と眠り続ける痩せた少女の顔とを交互に見比べ、リィトは暗闇に吊るされた千羽鶴を見上げた。
「この薬の副作用はね、老いもしなければ致命傷を受けても驚異的な早さで回復するかわりに、一生眠り続ける点なんだ。困ったもんだよね。君の側で君を守り続けるには、僕は自分にもこの薬を打つわけにもいかないし、投薬された君はもう僕を必要としなくなるんだ。世界は永遠になるけど、僕らの絆は切れてしまう。ねぇ、アキラ、どうする?」
 五年目だからこそ、この夜と決めてリィトはこの薬を持ってきていた。日中、リハビリに励む山崎玲の両親の姿を見れば気が変わるのではないか、節目節目で千羽鶴を持ってくる同級生の姿を見れば注射器を割ってしまう気になるのではないか、と。今この時も、看護師が明りもつけず昏睡状態の異性の患者の病室に入り込んでいるリィトの姿を発見し、悲鳴を上げた末傍らの銀のトレーに置かれた睡眠薬に気づいて彼を告発してくれれば、六千年どころか明日にでも彼女の中に生まれた世界は崩壊し、彼女は新たな再生の時を向かえることができるのに、と。
 振り返ってみる。今日の面会時間が終わるまでの四年と半年ほどの間に、いかに山崎玲の両親が娘の不遇を嘆き悲しみ、その再生に力を尽くしてきたか。項垂れた同級生達がどんな思いであの千羽鶴を織ってきていたのか。夫の転勤についていかざるを得ず、泣く泣く担当を降りた看護師の『玲ちゃんをよろしくお願いしますね』と言った時のあの強い信頼感溢れる瞳、遠方の祖父母が初めて見舞いに来た時のあのショックを受けた表情。
 だけどリィトは分かっていた。
 そんな表情を見ても、彼は人知れずこっそりと彼女の眠りを確実なものとするために投薬を続けてきたのだ。自分の生まれた世界を、そして愛する人が生み出した世界を守るために。こっちに来てからたった四年半に生み出された思い出などというものでは到底与しきれないほど、彼は重い使命を背負ってこの世界に存在していた。
 リィトは取り出した注射器をもう一度白衣のポケットの中に戻した。
 どうしようか――?
 声に出さずに問いかけて、左手でポケットの中をまさぐる。指の動きに合わせて、ポケットの中からはガチャガチャとプラスチックのぶつかり合う鈍い音がリズムを刻む。
 リィトが意を決してポケットから手を抜き出したときだった。
 ひたひたと廊下を足音が忍び寄り、山崎玲の病室の前で止まった。
 望んだ瞬間のように思えた。が、すぐにリィトはベッドの下に身を滑り込ませ、闇の中に息を溶け込ませた。
 足音が看護師の履いているナースサンダルのものとは別のものだったのだ。病院で支給しているサンダルは患者が眠っていても目を覚まさないように最小限の消音機能が施されている。たとえ静寂に足音が生じたとしてもすぐにリノリウムの床に呑みこまれ、抑えこんでいるとはいえあそこまで露骨な踵の音にはならないだろう。
 山崎玲の病室の扉はゆっくりと開かれた。消灯後も廊下に点り続ける非情灯の青い灯がそっと差し込む面積を広げ、蹲り床についたリィトの拳の先まで及んだ。同時に、黒い影が伸びていた。足だけを見るに、明らかに看護師の白いタイツに包まれた華奢な足首ではなかった。学生が履くような黒っぽいローファーにグレーのズボン。それらを纏った足の持ち主は、隠しきれない呼吸を整えながら病室にもう一歩入り込むと後ろ手に扉を閉めた。
 彼は明かりをつけようとはしなかった。ただベッドに横たわる少女を見つめて真っ直ぐに歩み寄ってきた。
「玲」
 ぽつりと眠る少女に落とされた声に、リィトは推測を確かなものにした。
 今日の日中、試験中であろうと毎年欠かさずにこの日だけは見舞いに来ていた山崎玲の兄が、今年に限って来なかったのだ。看護師達は勉強で忙しいんだろうといっていたが、近頃見舞いに来てもろくに玲の顔も見ず、傍らの丸椅子にかけても視線を落として黙り込んだまま暗い表情で何かを考えている彼は、はたで見ていたリィトからすれば危ういものを抱えはじめていたように見えた。最後に見舞いに来たのは一月ほど前だっただろうか。高校は春休みの真っ只中だったはずだ。山崎玲の兄はその時リィトに問うていた。
『玲は、治る見込みがあるんですか?』
 と。
 そのときの張りつめた玲の兄の瞳を、リィトは今でも目の前にありありと思い出すことが出来た。
『諦めなければ』
 リィトはそれだけを答えるに留めた。絶望してリハビリもしなくなってしまえば今よりも悪化してしまうのは確かだ。ただ、必ず目を覚ますよとは言ってあげられなかった。自分が眠らせているというのに、そんな無責任な希望を与えるようなことは言えなかった。
 それ以来だった。彼がこの病室に現れるのは。
 玲の兄は椅子に座ろうとはしなかった。立ったまま、眠る妹に語りかける。
「五年前、お前に俺が投げつけた言葉、俺、今でも覚えてるよ。学校でお前の妹登校拒否なんだってなってからかわれてさ、帰ってきてお前の顔見たら無性に腹たってきて言っちまったんだ。『お前なんか死んじまえ』ってさ。お前はもう傷ついた顔もしなかった。そのまま外に出て、しばらくしてから急ブレーキの音が聞こえた。台所で夕食を作る母さんがたててたトントントントンって、規則的にきゅうりを刻んでる音に混じってさ。どうせ知らない誰かが轢かれたんだろうって思ってた。いや、むしろ、お前が轢かれてないかなって、俺本気で思ったんだよ、あの時。お前さえいなければ、俺が学校でお前のことでからかわれることも、いじられることもないからって。父さんにも母さんにもいえなかったし、むしろ先生の口からいつばれるかってびくびくしてたけど、俺、あのクラス駄目だったんだ。兄妹揃って社会不適合者だなんて笑えるよな。そう思ったからこそ、俺は意地で学校いってたけど、正直家でぐうたらしてるお前が憎くて仕方なかったんだよ。今もそうだ。今もお前はそうやって社会の枠から外れたところで自由に生きてる。生きてる――? いや、生きてなくたって別にいいんだ。この社会の制度から逸脱できただけでお前は十分自由だ。俺なんか思春期の正義感に任せてお前を救うために医者になるなんてみんなに言っちまったけど、結局は高校三年の春になっても医者なんてとんでもない。成績がたがたで国公立がせいぜいだ。それも担任からは文転勧められるわ、もう、踏んだり蹴ったり。で、思ったわけ。何で俺がお前のためにこんなに苦しまなきゃならないんだよって」
 ぽたり、と床に透明な液体が一つ落ちてきた。
「なんで……ちゃんと五年前死んでくれなかったんだよ……」
 もう一つ、二つ、続いて小さく透明なふくらみを床に作っていく。
 リィトは息を詰めたまま、玲の兄の独白が終わるのを待つつもりだった。面会時間外に病院に忍び込んできた彼を捕まえて叱るつもりは無かった。そして彼が出て行ったら、さっき決意した選択とは別の選択を実行するつもりだった。
「玲。ほんとは聞こえてるんじゃないのか? なぁ、玲。起きてて五年間も眠った振りしてんだろ? 起きろよ。いい加減、狸寝入りはやめろよ。 お前ばっかり自由なんてずるいよ。お前も苦しめ。この世界で、俺と同じくらい苦しんでみせろよ!」
 爆発するように踏まれた地団駄に驚いて、リィトはベッドの天板に頭をぶつけた。幸い、地団駄の音にまぎれて玲の兄がその音に気づいた様子は無い。それどころか、玲の兄はベッドに片膝を乗せ、眠る妹の胸倉を掴んで揺すりはじめたようだった。野外からブラインド越しに漏れ入る淡い光が、そんな残酷な影を床や入り口の扉に映し出す。ぎしぎしとパイプで支えられるベッドが軋みをあげる。
 リィトは歯を食いしばり、眉根を寄せて耐えた。今自分が飛び出しては、その後の処置をとることが出来なくなってしまう。注射器の入った白衣のポケットを白衣ごと握りしめる。
 堪えるんだ、彼女の為に。
 そう言い聞かせ、リィトは目をつぶりたくなるような光景を目に焼きつけ、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言を全て聞き届ける覚悟をした。内心受けた玲の兄への落胆はこの際気がつかなかったことにする。彼も彼なりに苦しんできたのだ。体験しなければ分からないような苦しみを味わってきたことだろう。だからといって、無抵抗の人間を物のように揺さぶっていいわけがない。いや、殴りださないだけまだましなのか。
 リィトがそのことに気づいておや、と思ったときだった。
 玲の体が叩きつけられるようにベッドに投げられた。玲の兄はベッドについていた片膝を下ろし、再びベッドに向かって仁王立ちになっていた。
 からん。というにはいささか鈍い音をたてて、先端のとがった果物ナイフらしきもののケースが彼の足元に転がった。
「玲、五年間苦しかっただろう?」
 次の瞬間、玲の兄の口から紡ぎだされた声は、とてもさっきまで暴れていた男の声と同じものとは思えぬほど慈愛に満ち溢れたものだった。
「そんな硬いベッドに寝かされて、好きな音楽も聴けない、恋もできない、楽しい話に笑い声をたてることも許されないなんて。玲、ごめんな。俺、酷い兄貴だったよな。五年前、お前に死んじまえなんて言ったこと、毎日後悔してた。だから、医者になって玲のこと生き返らせて、ちゃんと謝ろうと思ってたんだ。でも、やっぱり俺、馬鹿だったみたい。この間の休み明けの実力テストも惨敗したよ。ごめんなー。俺の手でお前に笑顔取り戻させてやりたかったのに、もう俺に出来ることなんて一つしかなくなっちまった」
 ローファーの左足が一歩ベッドに近づく。
 リィトは危険を承知で多少ベッドの下から顔を出してみた。案の定、彼の手には先端の鋭利な刃物が握られていた。
「なぁ、生まれ変わりって信じる? 俺は信じるよ。だからさ、もうこんな無意味な世界に縛られることなんてやめてさ、自由になろうよ。俺が断ち切ってやるよ。玲をこの世界に繋ぐ鎖を」
 果物ナイフを握った手が振り上げられる。胸深く息を吸い込む音が聞こえた。
「やめろっ!」
 リィトはベッドの下から飛び出すと同時に、玲の兄の両足を掴んで後方へと押し倒した。玲の兄は抵抗する暇も無く、床に手はついたものの病室の扉に後頭部をぶつけ、顔を歪めた。
 同時に、覆いかぶさる形になったリィトも顔を歪めていた。
 背中じゅうを熱く鋭い痛みが駆け巡っていた。痛みの中心から冷たい汗が滑るように身体中に広がっていく。ぶるり、と寒気が走って視界が白くかすんだ。
「あ、あんた、高村先生……?! え、な、何……で……?」
 我に返り、震える声で玲の兄が呟く。その声さえもリィトの耳には急速に遠くなっていた。
「アキラ、アキラ、アキラ!! どこだ、アキラ!」
 暗闇を駆け抜ける。自分のいた世界から玲の現実の世界まで、愛しさを振り切るように駆けてきた暗闇の中を、今は彼女を捜し求めて。
「リィト? リィト? いるの? リィト? どこ? ねぇ、どこ?」
 稚いままの彼女の声が聞こえた。胸に愛しさがこみ上げる。その想いを糧に、リィトは声のした方へ全力で駆ける。白い光点が現れ、リィトはそれを掴み、こじ開けるようにその中に飛び込んだ。
「リィト!!」
 耳に飛び込んだ生の声。幼くなってはいたが、さっきまで見守っていた少女とは別人のように血の気のある顔。生きていると分かる彼女。
「アキラ!!」
 彼は闇雲に彼女の肩を抱きしめた。これでもかというほど頬をすり合わせ、温かな唇をむさぼった。
「アキラ。アキラ。アキラ」
 壊れたように彼女の名を呼びながら、抱きしめた身体の温もりを確かめる。
「生きてる。生きてるね、アキラ」
「リィト」
 心底安心したかのようなアキラの声が耳から脳をとろかせる。
『逢いたかった』
 想いをのせた溜息は二人から同時に発せられ、空中で絡みあって互いの胸の中に溶け込んでいった。この上ない安心感が逆に身体中を強張らせる。
 事実、次に覗きこんだアキラの表情は微笑みながらも心配そうに歪んでいた。
「何があったの?」
 彼女がそう言ったとき、リィトは天を見上げて息を呑んでいた。
 手が届きそうなほど低く垂れ込めた曇天、甲走る雷鳴。視線を落とせば、今自分たちが抱き合って座り込んでいるのはあの研究所の冷たい床ではなく、ごつごつと石が散らばった荒れ果てた赤い大地だった。木々の緑も見えなければ、人々が暮らす家も見えない。ただ荒涼たる大地がはるか彼方地平線まで続いていた。この世界に存在するのはアキラと自分だけだった。
「何があった?」
 互いに尋ねあった瞬間、アキラの目からはわきあがった涙が頬を伝いはじめた。リィトはその温もりを指に掬い取る。
「一千年前、戦争で人類も地上の動物も海の動物も、みんな滅んでしまったの。待ってみたけど、もう何も誕生しなかった。研究所も隠しみのに使っていた大木ごと吹き飛ばされて、残ったのは私だけだった」
「一千年? そんなに大昔からそんなことになってたのか? だけど僕の身体はどうして無事なんだ?」
「無事じゃなかったわ。いいえ、正確にはあなたが私の世界に旅立ったときにあなたの身体も消えてしまったの」
 ぼろぼろと泣き続けるアキラの体を、リィトはもう一度強く抱きしめた。
「君は一千年もの間一人だったのか……」
 どうしてずっと側にいてやらなかったんだろう。どうしてすぐに起こしてあげなかったのだろう。どうして、気づいてやれなかったんだろう。そうだ、確かに一年前から彼女は見る間に痩せていったんだ。昏睡状態に陥っていても微笑んでるように見えた表情さえ、一年前から苦悶に歪んだように厳しいものになっていた。
 ずっと見守ってきたのに、現実世界の身体が不調なのだとリィトは信じて疑わなかった。
 彼女を慈しむ世界だったからこそ、自分は存続させるために最大限の犠牲を払ってきたというのに。
「ごめん……ごめん……」
 まさか手を加えずとも自滅するとは思っていなかった。それほど狂った歯車を持っているとは思わなかった。見抜けなかったのは自分の落ち度だ。
「責めないで。あなたは私の願いを忠実に叶えてくれた。この世界を存続させ続けてくれた。ありがとう、リィト」
 背中から伝わる彼女の手の温もりがこれほど温かいとは思わなかった。久々に瞼が重くなってくる。忘れかけていたまどろみの中の幸福感が蘇る。このままずっと彼女に抱きしめていてほしい。誰もいないこの世界で二人きり、もう、静かに眠らせてほしい。この世界なら、もう何人も自分達を引き離すことなど出来ないのだから。
「リィト」
 呼びかけるアキラの声のトーンが明らかに翳った。
「身体が冷たくなってる……」
 それは絶望のこもった静かな悲鳴だった。
「何があったの? 向こうではどれくらい時間が経ったの? もしかしてあなたまで幻?」
 脅えた声は半ば恐慌状態となってリィトの意識を呼び戻す。
「アキラ、聞いて。君が眠りについてから、君のご両親はとっても君を心配してる。二人で毎日お見舞いに来るし、二人で君の手をさすったり、笑い話をしたり、必死に絶望と戦いながら君が目覚めて笑いかけてくる日を心待ちにしてる。アキラのお兄さんは君に謝りたいと心から願ってる。君の同級生だった子達は、五年経った今でも毎年千羽鶴を折って病室に持ってきてくれるよ。君を看護している看護師達も、毎日君の回復を祈ってる」
 アキラは信じられないことを聞かされているかのようにぽかんと口を開けてリィトの言葉を聞いていた。
「う……そ……」
「ほんとだよ」
「だって、そんな! 確かに私、自分が死ぬくらいの目に遭えばお父さんとお母さんが協力し合うかも、とかお兄ちゃんも少しは心配するかも人か思ったけど、でも、だってあれほどいがみあってたんだよ? お母さんなんてどっちに引き取られたい? なんて朝ご飯食べてる時に聞いてきたりしてたんだよ? 横でお父さん聞いてるのに」
 安堵から流していた涙は、いつしか悲しみと恐れの混じった涙に変わっていた。
「いやだよ……恐いよ……いや……戻りたくない。あんなところ、恐いもん。家に閉じ込められるのはもういや……学校に行ってなきゃ、子どもだって多いところだったもん、いずれわかることでしょ? なのに世間体って何? 暗くならなきゃ外にでちゃ駄目って、どうして?」
 リィトはアキラの額にかかった前髪をそっとかきあげ、自分の額を押し当てた。
「君に見せられるといいのに。僕が君を診てきた五年間の記憶が。考えてごらん。君はもうあの時のままの君とは違う。君は幸せな家庭を経験した。誰かを大切に想う心も知っている。君は知らない誰かの幸せを願うことの出来る人間だ。そして、希望を忘れない人間だ。そうでなきゃ、一千年も孤独のままこの世界で生きつづけられるわけがない。アキラ、それに、それにだよ? 今度は向こうの世界でも僕がついている」
 アキラは未だ肩を震わせつづけていた。
「不老不死の薬が完成したって話したけど、実は君を目覚めさせて元気にする薬も作ったんだ。大丈夫、後遺症は残らない。でも一番大切なことがあるんだ。アキラ。君自身が目覚めたいと思わなければ、いくら薬を打って脳にショックを与えたところで君を目覚めさせることは出来ない。ねぇ、アキラ、今度は僕の願いを聞いてくれ。僕の願いは、目覚めた君が笑っている姿を見ることだ」
 アキラを抱きしめるリィトの腕に力がこもった。
 アキラは幼き日の悪夢から目覚めるように目を見開いた。
「私、いつもリィトに望むばかりだったね。そう、だね。今度はあなたの願いを叶えるわ。あなたが望むなら、私は……だけどリィト、本当に嘘つかない? 本当に、ずっと私の側にいてくれる? 絶対、浮気しない? おいていったりしない? 一人にしない?」
「嘘はつかないよ。ずっとアキラの側にいる。絶対浮気しない。おいていったりしない。アキラを一人にしたりしない」
 厳かに宣誓したリィトの口には、アキラでさえも気づきようのないくらい苦いものが広がっていた。リィトだけが、揺れ動いて焦点が定まらなくなってきた意識の中でその苦さの正体を知っていた。
「アキラ、この世界を閉じよう」
 リィトは不安一杯だったアキラが精一杯の笑顔を作るのを辛抱強く待ち、もう一度抱きしめて目を閉じた。
「待ってるよ」
 その言葉を残して、再び暗闇を駆け抜ける。今度は思いのほか早く辿り着くことが出来た。同時に、身体中を襲う堪えようもないほどの寒気と虚脱感に耐えなければならなかった。
 身体の下ではまだ玲の兄が泡を食って自分を見つめている。そんな暇があったらナースコールを押すなり、大声を上げるなりすればいいのにと思ったが、とても声を出せる状況ではなかった。
 この世界に戻ってきて、リィトがすべきことはただ一つ。
 力が入らず折れ曲がる肘の関節を励まして、玲の兄の上から退き、腹ばいになって方向転換をして玲を横たえるベッドへと這い進む。もはや何故自分がこのような状況に陥っているのかな度考えている余裕もなかった。玲を睨みすえていなければ、簡単に意識は闇に呑まれてしまいそうだった。それにしても、長い。歩けばたった二歩の距離が、どうして今はこうも長いのか。時ばかりが身体から抜け落ちていく。
「アキ……ラ」
 歯を食いしばり、ようやくの思いで上半身をベッドの縁にのせ掛ける。震える手で白衣の左ポケットをまさぐり、一本の注射器を取り出した。
 ピストンの色が紫色の注射器。当初、彼女に打とうとしていた注射器だった。
「お、お前、何する、何、何する気、だ! い、いも、妹にっ」
 震え、上ずった声が玲の兄の口から漏れる。
「黙れ」
 制したリィトの声は、今までにないほど冷厳なものだった。その声を発したせいか、リィトの身体中の震えもぴたりと止まった。
「これじゃない」
 リィトはその注射器を床に叩きつけ、膝で割り潰した。
 深呼吸する。胸には鼓動が高鳴っていた。
 逢える。ようやくこの世界で君に逢える。
 叫びだしたいほどに愛しい気持ちが高鳴る。
 そんな気持ちとは裏腹に、左手はポケットから今度は青いピストンの注射器を取り出し、冷静にキャップを外した。ピストンを少し押して空気を抜く。枕元に置いたままになっていた銀のトレーにのせられた壜からアルコール脱脂綿を取り出し、青紫色にはれ上がった腕を再度消毒する。いつもなら嗅覚を刺激するその臭いも、今はもう感じなかった。ただ、注入する途中で手が震えなければいいと願いながら、リィトは手にした注射器の針を少女の腕に差し入れ、ゆっくりとピストンを押し込んだ。筒の中に彼女の赤い血が混じりはじめる。注射器を抜いた瞬間、少女は顔をしかめたようだった。
「おはよう、玲」
 リィトは少女の顔を覗き込んで微笑みかけた。
 少女は幾度か睫毛を瞬かせ、やがて一筋の涙を流し、ゆっくりと目を開けた。
「リィト」
 声はまだかすれていたが、その声には安堵が溢れていた。
「さあ、約束だよ。笑ってみせて」
 リィトは玲の頬を指でなぞっていたが、すでに指先に感覚はなかった。それと知らず、玲はリィトの手を包み込み、自分の頬にあてがわせる。
「おはよ、う、リィ、ト」
 今まで見たどの笑顔よりも美しく花開いた玲の顔を目に焼きつけて、リィトは微笑みながらも抗いきれない悪魔の誘いに意識を譲り渡した。





 リィトが目覚めた時、そこには記憶の奥に燻る少女の面影を宿した女性が微笑みながら自分を見下ろしていた。
 リィトは口を開きかけたが、どうにも口の中が乾いていて、声の出し方も忘れてしまったかのようにかすれた音も出せなかった。
「分かる? 私よ。山崎玲。三十四歳になっちゃったけど」
 長いこと、暗闇の中を歩き続けてきたような気がする。夢などどこにもなかった。ただ、果てないトンネルの中を纏わりつく泥に手足をとられながら、それでも道が続く限り歩き続けてきた。
 何を求めて?
「アキ……ラ……アキ、ラ?」
 無意識に呟いた言葉に胸が焼けつくような愛しさを感じた。
 まだ黒い枠に縁取られた視界の向こうで、彼女はくしゃっと顔を歪めると涙をこぼし、遠慮なくリィトの肩口に顔を埋めた。
「リィト! リィト!」
 髪からふわりといい香りがした。リィトの知らない甘い香りだった。
「ごめんなさい。こんなに時間がかかってしまって。ねぇ、指は動く? 足は? 腰は? どこか痛いところない?」
 左の人差し指に力を込めると、滑らかなシーツを引っ掻くことが出来た。右手も動く。膝も、足の指先も、腹筋にも力が入る。
「大丈夫」
 止まっていた時間が動き出し、たくさんの想いが洪水のように溢れ返りはじめていた。
「よかった」
 薄紅色に染まった頬が喜びにほころんだ。引き寄せられるようにリィトは軋みをあげる腕を持ち上げる。
 この頬にずっと触れてみたかった。温もりのあることをちゃんと確かめてみたかった。同じ世界に生きていることを実感したかった。
「長い夢を見ていたようだ」
 成長した少女は変わらぬ笑顔を彼に返した。
「そうね」
 津波のような記憶の奔流が引いた後、残ったのはもう遠い過去になったはずの二人過ごした日々だった。思い出していたのは彼女も同じだったのかもしれない。見つめあった後、彼女はリィトに囁いた。
「おはよう、リィト」
 たとえこの世界が誰かの夢であってもかまわない。守るものはこれから続く時間だけ。君と二人なら永遠に覚めることない夢を見つづけられる。
「おはよう、玲」
 この目覚めが夢のはじまり。
 君と見る夢のはじまり。






〈了〉





  管理人室 書斎  読了

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