魚 影

 


 ずるいと思うのは、彼の肌を見たときだ。
 四十間近の彼の肌は、どんなに見かけや心が若々しく見えても年相応だった。何が足りないって、言いたかないけどはりがないのだ。同い年の男の子たちが持っている白い輝きがない。それが年を重ねるということなのかと知られないようにため息をついて自分に納得させようとしても、悔しさだけは表情に出るらしい。
 彼の目に憮然としたわたしの顔が映っている。
「どうしたの」
「なんでも、ない」
 不安そうに首をかしげながらも、彼はわたしの首と肩の間に顔を埋める。
 いい匂い。
 三十を過ぎたらおじさんだと思ってたけど、そんなの嘘だ。何歳になったって、香水なんかつけなくてもいい匂いを発する男はいる。その匂いがわたしのためだけに放たれているものだと思うと、たまらなく彼がいとおしくなる。
 出会ったのはもう三年も前。そのときからわたしたちは同じ年齢の間隔のまま年月を重ねてきた。わたしがどんなに急いだって、彼の歳に追いつくことはない。背伸びすることがどんなにか馬鹿らしいことだと自分に言い聞かせても、余裕しか持っていない彼を見ていると、前につんのめってでも距離をつめたいと思う。
 今でもそれは変わらない。
 彼の手が背中をなぞり、腰を引き寄せる。背後に回された彼の手は見えないけれど、背中に感じる熱から完璧なフォルムの彼の手を想像しただけで漏れ出る吐息は深くなる。
 この手の肌がまだ若々しく、瑞々しかった頃の彼を、わたしは知らない。唇を寄せた頬から首筋の肌がまだ疲れていなかった頃の彼を、わたしは知らない。わたしはどんなにあがいても、三十八の彼の体しか知りえない。十年前、わたしと同じ歳だった彼の肌、二十年前、高校生だった頃の彼の肌、三十年前の肌までは知りたいとは思わないけれど、少なくとも彼は、二十八のわたしの肌を知っている。二十五だったわたしの肌も。そしてこれから、三十八、四十八になったわたしの肌も、もしかしたら知ることになるのだ。
 彼よりもわたしのほうが、どうしたって彼を知れない。
 これほど悔しいこともない。
「ちゃんと食べてるの?」
 もっと野菜と大豆とお魚とお肉と、バランスよく食べればその肌も少しは光を取り戻すかもしれないのに。
「食べてるよ」
 雰囲気をぶち壊したわたしに彼は苦笑する。
「また松屋とか吉野家とか、味比べとか言って通いつめてるんでしょ」
「そんなことないよ。今朝も野菜ジュース飲んだし、夜は納豆とキムチだし」
「……偏ってる……」
 実家で毎日出される煮物にはほとほと辟易してるけど、おかげで肌は大学時代、一人暮らししていたときよりもよくなっている実感がある。それだけに、早く彼にも栄養を考えた献立でご飯を作ってくれる奥さんができればいいのにと思う。それがわたしでなくてもいいから、というのは、彼のことを客観的に見れるときだけの話だ。他の女が彼にお帰りなさいというのは、想像して気持ちのいいものじゃない。
「貴美の作った肉じゃがも食べてるよ」
 冷凍庫に半分残っていたこの間作った肉じゃが。
「ただ、最近夜遅くなることが多くて」
「お茶碗洗うの、疲れてると面倒だもんね」
 責めてるんじゃないのに、彼は困ったような顔をする。忙しいのは知ってる。この時期は特に忙しくなることも。だからこそ、バランスの取れたもの食べてほしいのに、日中も夜も彼が帰ってくるまでこの部屋は空っぽなのだ。
 専業主婦なんて怠慢だと生意気だった高校生の頃は思ったこともあったけど、一人暮らしをすると意外と母の存在というのは骨身にしみる。卒論で忙しくなったときには、お手伝いさんを雇いたいと本気で思ったほどだった。だけど、わたしがこの部屋にいてほしいと思うのは金銭で家事だけを請け負う女の人じゃない。彼のことを応援しながら彼の人生をサポートできる人。彼のことをちゃんと考えてくれる人。
 結婚していく友人が増える中で、結婚に対する焦りを煽るように婚活なんて言葉が流行だと報道されて、周りからは「その歳で三年も付き合っているのにまだプロポーズされないの?」、「恋でお付き合いする人と結婚する人は別よ」などと釘を刺されているからじゃない。
 「結婚」したいんじゃなく、彼と一緒に生活したい。
 それが、彼の食生活にやかましく口を出してしまう理由なんだと思う。だけど、それは彼のためじゃない。毎日わたしが彼にご飯を作って、行ってらっしゃいとお帰りなさいを言ってあげることで、見てみたいのだ。
 わたしの知らない彼の四年前の肌、十年前の肌、二十年前の肌を。
 思い出は付随しなくていい。わたしだけを見てくれている若い彼に出会いたいのだ。
 こんな不純な動機で彼の妻に納まりたいなんて、口が裂けても言えるわけはない。なのに、会うたびに期待している自分が軽く憎くなる。
 わたしは彼の頬に手を伸ばし、ぎゅぅっと両手でほっぺたの肌を引き伸ばしてみる。肌は薄くのびるだけのびたが、見た目どおり薄っぺらくて弾力がない。写真で見た十年前の彼は、今とほとんど変わらない、むしろ年齢不詳な顔をしてたけど、肌つやはもっとよかったように思う。
「なに?」
「なんでも、ない」
 不満げに答えたわたしに、今度は彼が憮然とする。
「またなんでもないって言う。何かあるからそんな顔するんだろ」
 だからわたしは子供なんだ。怒らせたくないのに、彼を嫌な気持ちにさせている。せっかく二人きりでいい雰囲気だったのに、どうしてか自分のことばかり優先させてしまう。
 黙りこんだわたしに、息詰めていた彼はほっとそれらを吐き出して言った。
「今度の土曜日、釣りにでも行こうか」
「釣り?」
 そんな趣味あったっけ。
 思ってもみない言葉に面食らってわたしは素っ頓狂な声を上げていた。
 彼はちょっと驚いた後くすくすと笑いはじめる。
「前に言ったでしょ? 昔よく海釣りに行った話。それから浜でヤドカリが殻脱ぐところも見せたいなって」
「ああ、実家のほうの……」
「そう、実家。まだちゃんと連れてってなかった」
 彼の話の中だけに出てきた場所が、急に重みを持って胸につかえた。
「そんなに構えなくていいから。って言っても希美の性格じゃ無理か。いい子にならなくてもいいし、いい嫁になろうとしなくてもいい」
「いい子って……」
「ああ、ごめん。じゃあ、いい女」
「子供だと思ってるでしょう? 絶対、わたしのこと子供だと思ってるでしょう?」
「でも、ちゃんと女だとも思ってる」
 見つめた後、彼は微笑んだ。
「ね? 行こう?」
 わたしは目をそらし、前進していいやら、留まったらいいやら分からない気持ちのまま口を開閉する。
「嫌?」
 心配そうに尋ねる彼を、わたしは思い切って正面から見つめなおす。とたん、彼は噴き出した。
「だから思いつめないでって。そういうつもりだけど、そんなに構えなくていいから。釣りしにいくだけ。オッケー?」
 オッケーじゃない、オッケーじゃない。
 思いのほかおびえている自分に驚きながら、わたしはまた彼から視線をそらした。
 三年経つのに、わたしはまだ彼に恋したままだ。彼の全てがほしいとわがままを言う片思いのままだ。
「貴美」
「わたし、ほしいの、全部。貴方の過去も、未来も、全部ほしいの。特に、十年前の貴方に会いたい、の」
 言ってはいけないこと。彼だってコンプレックスに思ってるかもしれない。
「俺も十年前の貴美に会ってみたかった、というか、たぶん見かけたことならあるんだけど、あの時はただの幼い女の子にしか見えなかったし、俺は今会えてよかったと思ってるけど?」
「え、会ったことあるの? わたしに?」
「高三のゴールデンウィークに友達の実家に遊びに行った話してただろ? 一日一往復しかない長距離バスに乗ってさ。そのバス、たぶん俺も同じ日に乗って実家帰ってた」
 にやりと笑った彼に、わたしは二の句も次げない。
 ようやく搾り出した言葉といえば、やっぱりこれだった。
「ずるい」
「ずるい?」
「貴方ばっかりわたしの思い出が多いんだもん。ずるい。ずるすぎる」
「そう言われたって」
「どうしようもないのは分かってるけど、ずるいよ」
 取り戻せない十年の壁。取り戻す必要はまったくないんだけど、どうしてもこだわってしまうのはなぜなんだろう。
 触れている肌は滑らかではあるけれど、わたしの知らない時間をたくさん刻み込んでいる。
「貴美は今の俺、好きじゃない?」
「好きだよ。でも、だから今だけじゃ足りない」
「わがままな。これから先もあるし、今の俺に過去が集約されてるとか、それじゃだめなの?」
「だめじゃないけど、だめ」
 そんなの、海の中に魚の影を探すようなものだ。うっすら見えるだけで触れられやしない。
「じゃあ、どうしたら……」
 本格的に困りはじめた彼の背に腕を回してわたしはきつく抱きしめる。
 歳はそのままでいいの。この触れる肌に弾力が戻れば。
「海釣りとやどかり、それから、高校のときの写真も見せてくれる?」
「高校のとき?」
「そう、二十年前の貴方」
「……小学校のときのならいい」
「ええ? それじゃ意味ないの。じゃあ、中学三年生のときのでもいいから」
「残ってない」
「嘘」
「帰ったら焚き火でもしようかな。釣ってきた魚焼かなきゃ食べられないし」
「どうして証拠隠滅計ろうとしてるのよ。いいじゃない、へるもんでもないし」
「だーめ」
「なんで」
「そりゃ……悔しいだろ。目の前で好きな女に二十年前の自分にときめかれたら」
 今度、目をそらしたのは彼だった。
 憮然としながらもちょっと照れているのがかわいい。
 わたしの口元は、ゆっくりとほぐれる。
「ふぅん、悔しいんだ? 自分なのに?」
「十年前の俺の写真見た貴美の顔、俺のこと見るよりも目ぇ輝いてたんだぞ? 二十年前のぴちぴちで美少年だった俺を見たらお前、絶対心持ってかれるって」
 ぴちぴちでって、もう、表現がおっさんくさいんだから。
「大丈夫。とうに心は全部、貴方に持っていかれてるから」
 笑いかけると、彼は純朴な少年そのままに耳まで真っ赤になった。
 さて、来週までに海釣り勉強をしなくっちゃ。それから、彼のお母さんの好きなものを聞いて、その前に母の味はまだ分からないけど今日は里芋の煮っ転がしでも作っていこう。
 わたしの知らない彼の時間をそっと自分に引き寄せるために。





〈了〉





  管理人室 書斎  読了

  200904111858