桜 燈

「約束しよう? 十年たったら、またこの木の下で会おう。十年後、桜に灯が燈ったら、またここで」



 約束の十年は長かったろうか?
 いや、そんなことはない。十年たたなければ、結局ここに来ることもできなかった。あの頃、私達はまだ子どもで、一人じゃ隣町にさえ行かせてもらえなかった。私達に与えられた自由は、家を出てすぐそこの児童公園と川の土手まで。それ以外の街の風景は親と一緒に手を繋いで見るもので、一人自転車で走り回って見られるものじゃない。
 今思えば、どうして子ども時代というのはあんなにたくさんの枷をつけられても過ごすことができていたのだろう。今じゃ息苦しくて窒息してしまうだろうに。
 大人たちのエゴは子どもを守るという建前だけに留まらない。自分が転勤するともなれば、妻の人生も子どもの人生も一緒くたに連れて行こうとする。ここで培われたものを勝手に断ち切ろうとする。人間の子どもは、親なしじゃ生きていけないんだ。学校も暖かい家も何もかもを切り離して生きていく勇気なんかなかったんだ。
透生とうき、帰ってきたよ」
 川を吹き渡ってくる風はかすかに甘い花の蜜と萌える草の芽の香りを湿気と共に運び、さわさわと満開を過ぎた桜の花がついた小枝を揺らした。
 返事はない。
 ただ、桜の小枝がさやさやと花びらのこすれあう音を静かに立てただけだ。
 この木の下に一緒に撮った写真や、当時大切だったものを小瓶につめて埋めたわけでもない。手のひらをあてがう毛羽立った幹にお互いの名を刻みあったわけでもない。
 約束は、いたってシンプル。
『十年後、桜に灯が燈ったら、ここで会おう』
 日にちさえも、この日と決めていたわけではなかった。
 もしかしたら、昨日来てしまったのかもしれない。もしかしたら、明日来るのかもしれない。
 もしかしたら、今日、もう来てしまったのかもしれない。もしかしたら、もう少し待っていれば現れるかもしれない。
 用意してきた日本酒を黒い漆塗りの杯に注ぎ足す。
 さっきから一人酒盛りをしているが、空になるのは自分の杯ばかり。向かいに置いた待ち人の分は桜の花びらだけが降り積もっていく。茜色の夕の空は雲を染めながら西へ流し、晴れ渡った東の海原には金の丸い月が浮かびはじめる。淡い月光は自ら色を放つ花びらをさらに清かに宵闇に浮かび上がらせる。
 一人で見るのはもったいない。
 そう思っても、もはや私にはこの土地に知る人はない。少なくとも、携帯で呼び出せるような友人は。
 十年は、それくらい長い。
 中学の時に一日千秋という言葉を覚えて以来、私はまさに毎日秋を過ごしているかのようだった。あと半年、あと半年、と自らに言い聞かせ、大学に進学してさらに距離が広がってからは、本当にこの地に帰ってこられるのかどうかさえ疑問になっていた。小学校六年の時のあの鮮やかな記憶が、時と共に風化こそしないものの次第にあやふやになり、出会ったクラスメイトの顔はおろか名前すら思い出せなくなり、ついにはあの約束さえ夢か幻だったのではないかと思うようになっていた。何故、あんなにも強く、大人にならなければ会えないと思い込んでいたのかさえ理解できなくなっていた。
 お金も行動も全てが自由になった今、戸籍を辿ってここに戻ってくることは簡単なことだった。あやふやになりかけていた記憶を、桜に燈った灯火が現実だったのだと証明してくれた。
 だけど、このままではやはり、私はあの約束は自分で作り出した妄想だったのではないかと思わずにはいられないのだ。
「庄屋透生」
 彼の名を呟く。
 覚えている。確かに彼はそう名乗っていた。
 不思議な話だ。思い出せば眼裏に蘇るのは十二歳の透生。その姿は、十二歳でありながら、幼くも見えなければあどけなくも見えない。今目の前に十二歳の少年が現れれば、おそらくどこからどう見てもまだ無垢な子どもにしか見えないだろうに、思い出に浸る時と言うのは自分の目さえも当時に還ってしまうものなのかもしれない。
「笙ちゃん」
 透生はいつも笑顔の絶えない奴だった。私が越していくまではその辺じゃ名前を知らない奴はいないガキ大将で、冬以外は半袖短パン、夏はランニングシャツに麦藁帽子と虫取り網、田舎の子どもを絵に描いたような姿で川に、山に走り回っていたらしい。とにかくじっとしていない奴で、すぐに興味も移り変わる。空は何故青いのかという定番の質問から、蝶のさなぎの中身は緑色のぐちゃぐちゃなのに、どうして生まれ変わるとあんなにも美しい色彩に身を包むことができるのかというちょっと変化球な質問まで、透生の興味は鋭くもすぐに移り変わる。目に映るものがどれほどのスピードで切り変わっていたのか、私には察することしか出来なかったが、大概、私が翌日図鑑で答えを探してきた時にはそんな質問をしたことさえ忘れている有様だった。それでいて、二度と同じ問いを口にすることはない。野山を自在に駆け回るだけあって、足も速く、動きも機敏。上級生に売られたけんかを買えば必ず勝ち、友達が転んで泣いていれば負ぶって家まで送り届ける。今思えば絵に描いたようなスーパーヒーローだ。
 そんな透生が私と親しくなったのは、自然でも必然でもない。偶然が重なり合った結果だ。
 父親の転勤で転校を繰り返すことの多かった私は、この町で小学校はすでに五校を数えていた。小学校二年から三年の時以外、毎年転校していたことになる。しかも、この町の小学校は父親の仕事の都合で冬の初めから三月の終わりまでしかいなかった。それまで渡り歩いてきた学校は、教育熱心な両親らしく、地元でも優秀な生徒が集められた学校ばかりで、放課後は友人と遊ぶよりも塾に通うことが普通の生活だった。それが、この町には進学校はおろか、塾もなかった。元から両親は、父の転勤が決まろうがどうしようが、私と母親だけは中学に上がる時には東京に帰すつもりでいたらしい。
 私も、早いとこそうしてほしいと思っていた。
 塾がなければ家に帰って通信教育が待っている。学校と家と、どこへ行っても勉強漬け。それが子どもの生活だと思っていたから、転校初日、放課後に透生に遊びに誘われても、私は頷くことなく無視して真っ直ぐ家へと帰った。あの時期はもう文化祭も終わり、世間は年末の慌しさへとまっしぐらに駆け込んでいた。修学旅行もなければ、球技大会ももうない。遥か彼方なようですぐそこの卒業式を残すのみ。初日にして透生の誘いを断った私が、どうしてクラスに馴染めよう。二度、三度と透生を無視するうちに、透生も私を誘わなくなり、教室にいても誰一人として私に話しかける者はいなくなった。先生でさえ扱いに困ったようで、保護者面談の時には優秀でみんなからも好かれていますとか言ったらしいが、実際は私自身に話しかけてきたことすらほとんどなかった。私自身、田舎の先生から何も教わることなどないと思っていたのだから、おそらくそれが表情や態度に出てしまっていたのだろう。どんなに大人ぶろうと、私はまだ十二歳の子どもでしかなかった。
「笙ちゃん」
 風が頬を撫でたついでに花びらを貼りつけていく。指をつまたてて頬から花びらをはがすと、私はそれをまた風の中に返した。
「笙ちゃん、来たよ」
 人の気配はない。
 風の悪戯は花びらだけに留まらなかったようだ。
「笙ちゃんも約束、覚えていてくれたんだね」
 あどけない、あの頃の透生の声まで蘇らせるなんて、風も性格が悪い。
 気がつけば、少し冷えてきただろうか。私はゆっくりと胸元の襟をかきあわせた。
 心配はない。今夜はいつまででも待てるようにちゃんと防寒具を用意してきた。酒も一瓶あれば身体を温めるには十分すぎるほど。散る花びらと動く天さえあれば、とりあえず一晩飽きはしない。問題は、この桜灯が消えてしまった後のこと。十年の約束が果たされなかったら、私は明日の朝から何を目指して時間を切り開いていけばよいのだろう。
「透生、お前は忘れているだろう?」
 風に答えるつもりで私は小さく一人ごちた。
「忘れてないよ。忘れてないから、こうやって来たじゃないか」
 満月の月明かりと、ほんのり燈った薄紅色の光を遮って、小さな子どもの影が向かいの杯の上にかぶさった。
 私は顔を上げる。
「透、生……?」
 思いのほか見上げなくてもその顔はそこにあった。
 百三十センチばかりのところに、さっきまでぼんやりとしていた少年の顔の輪郭が重なる。
「そんな、馬鹿な」
 目の前にいるのは、十年前の透生そのまま。子どもらしい無垢な色の肌をして、変わらず無邪気に笑っている。
「座っていい?」
 透生は驚く私になど構わず向かいの杯の前に正座し、花びらだらけになった黒い杯を両手に持った。
「約束が果たされたことに、乾杯してくれないの? 笙ちゃん」
 私は杯を持ち上げる代わりに片手で頭を抱えた。
 幽霊でも見ているんだろうか。
 それとも、ただの幻影か?
「何をそんなに驚いているのさ。僕は約束を守りに来ただけだろう? 笙ちゃんだって約束を守りに来ただけだ。十年後、桜に灯が燈ったら。そういう約束だった」
「それはそうだが、しかし……」
「ふふっ、昔っから堅苦しい喋り方は変わらないねぇ」
「なっ、仕方ないだろ。そういう本ばっかり小さい頃から読ませられてたんだよ」
「中学校じゃさらに僕なんかには訳の分からない本、読んでたんだろ」
「中学校じゃ……? ああ、そうだよ。その頃から塾の教科書は高校レベルのものだった」
「ほんと、生き急いじゃって」
 仕方ないなと言うように、透生は笑んだ。
 儚げに散る桜が背後に美しい。
「しょうがなかったんだ。医者になれって母親から言われてたんだから。転勤しなくてすむとっても名誉な職なのよ、ってさ」
 過去がくるくると回る。風に翻弄されるように、この十年間、透生と離れてからの記憶が桜の光に当てられていく。それはどんなに光を当てられても、きらりともきらめきはしなかった。私が覚えているのは、分厚い参考書に記された小難しい数式と物理、化学、英語、ついでにドイツ語の羅列だけ。中学校のクラスメイトも高校のクラスメイトも、名前も顔も思い出せはしない。今思えば、よく透生との約束だけを支えに今まで生きてきたものだ。
「やっぱり、五年にしとけばよかった」
「ん?」
「なんでもないよ。それより、さぁ、笙ちゃんも杯持ってよ」
 のせられるままに、私は並々と透生に日本酒を注ぎ足された杯を持ち上げた。
「今年も桜に灯が燈ったことに、乾杯」
 触れ合わせられる杯の縁から、水面に漂う花びらが一片流れ込む。私はその花びらごと、一息に甘い水を呷った。甘露とはまさにこのことをさすのだろう。甘く舌を楽しませた後、滑らかに喉を潤していく。
「やっぱり一人で飲むのとは違う」
「そりゃそうでしょ。一人より二人、二人より二人と一本」
 少年のままの透生は相好を崩して桜を見上げる。
「十年経ったら言おうと思ってたことがあるんだ」
 懐かしそうに淡い灯を眺めながら、透生はもう頬を赤く染めはじめている。
「なぁ、透生。お前、どうして子どものままなんだ? 子どもの体で酒飲んでいいわけないだろう?」
 透生の言おうとしたことを遮るつもりなんかなかった。私は、昔から周りの空気よりも自分の言いたいことをつい優先してしまう癖があった。言いたいと思った瞬間に、それまでの流れなど皆忘れてしまう。直さなければと思っていたのだが、ついぞこの年まで直らなかった、ということか。
「悪い、何だ? 言いたかったことって」
 私のあまりの空気の読めなさに唖然としていた透生は、すぐにふきだした。
「笙ちゃん、大人になったねぇ。僕なんかほんと子どものまんま身体だけ大きくなっちゃった」
「身体も大きくなってないだろう。小学校のままの顔をしてるくせに」
「それ言うなら笙ちゃんもだよ。笙ちゃんも昔のまま眉間に縦皺寄ってるもん」
「そうじゃなくて、身長……」
 言いかけて、私ははたと気がついた。
 目の前の透生は確かに幼い。十二の時別れたままの姿をしている。しかし、どうしてその透生と私は今同じ目線で話をしているのか。
「身長?」
 感じた違和感を振り切るように、私は首を横に振った。
 一人で先に飲んでいた分のアルコールが回って、くらりくらりと自分を騙す。
「伸びたの……か?」
 多少虚を衝かれたような表情で透生は私を見つめた。
 私は私で、もっとうまいごまかし方はなかったものかと後悔が募る。
 伸びたな、と自然に口にできればよかったものを、どうして疑問形にしてしまったものか。たとえ今目の前にいるのが子どものままだとしても、十年も経ったんだ。一センチでも伸びているのが普通だろうに。私だって高校に入る頃に急激に背が伸びた……伸びていた、はずだ。
 過去のことが思い出せないのは、けして今に始まったことじゃない。酒が入りすぎているからでもない。勉強しかしていなかったから、何も思い出として残っていないだけなのだ。
「伸びたよ。笙ちゃんも背、伸びたね」
 透生は昔から気遣いがうまい。下手なことをつっこむよりも、その場に応じて笑顔で答えてくれる。
 私たちは十年ぶりの再会というブランクに多少のぎこちなさを感じながらも、二杯目を呷った。
「そうだ。言いたかったことってなんだよ」
「ああ、うん。笙ちゃんが転校してきたばかりの時さ、もっと早く友達になってればよかったなって」
「たった一週間だったもんな。一緒に遊びまわったのは」
「そうそう。うっすら積もった雪が解けて、春が来るのかなっていう三月も半ばのことだった。まさか、あと一週間でお別れだなんて思わなかったんだ」
「私は知っていたよ。ここに来たはじめからそのつもりだったし。中学は東京に戻るって決めてたんだ。透生がここで泣いてさえいなければ……」
「笙ちゃんがここを通りかかりさえしなければ……」
 私たちは顔を見合わせて笑った。
 透生はいつも笑顔だ。今思えば、毎日心からの笑顔だったのかは分からない部分もある。しかし、大概大らかに笑っていた。五回も転校してきた私は、世の中にもそういう笑顔の崩れない奴はいるものなのだと幼くも知っていた。残念ながら、プライベートでクラスメイトと関わることはほとんどなかったから、そういう常時笑顔の奴が何故いつも笑っていられるのかという理由は知らなかったが。
 いつも笑顔を崩さない奴には二通りいる。一人目は家族が仲良しで精神的に安定していて笑える奴。バックボーンの平和は子どもの幸せに並々ならぬ影響を与える。不仲な両親を目の前にする子どもが多い中、確かに家族がみんな笑っているっていう家も存在すると知ったのは、透生の家に何日か厄介になったときのことだった。そして、二人目は笑っていないと両親の険悪な雰囲気をやり過ごせないタイプ。
 私は、外でこそ笑わなかったが、家ではいつもにこにこ笑っている子どもだった。
「あの時、なんでお前泣いてたんだっけ?」
「さぁ、なんでだっけ」
「とぼけるなよ。そうでなくても十年も経つと記憶があいまいになってきて、せっかく残された思い出なのに思い出すたびに型崩れしていくんだ」
「ああ、それあるある。ついこの間まで簡単に思い出せてた昔のことが、ある日いきなり何にも思い出せなくなっちゃうんだよね。たとえば人差し指の根元に出来た傷とか、膝小僧に出来た傷とか、こないだまでは何歳の時にどうして出来た傷だって知っていたのに、急に何の情報もなくなっちゃってさ、傷だけがぽっかりと残ってる。胸かきむしりたくなるよね、そういう時って」
「話そらすなって」
「だって、僕が泣いてたなんてことできれば笙ちゃんにも忘れてほしいくらいなんだもん」
 頬を膨らませてそっぽを向いた透生は、本当に子どものようだった。
「そういう変なところで意地っ張りなとこは変わってない」
「変なとこじゃないだろう。大事なことだ。人前で泣かないっていうのはさ」
「そうだな」
 二杯目、まだ半ば酒が残る杯に、蕾のままの小さな花が落ちてきた。
「飼ってた犬が死んだんだったか?」
「……うん」
「別に家で泣いたって良かったんじゃないのか?」
「心配かけたくなかったんだよ。まぁ、あの時はあまりに泣かないもんだから逆に心配されたけど」
「ここでぎゃんぎゃん泣いてりゃ、そりゃ気も晴れるよな」
「なんだよ、ぎゃんぎゃんって。しくしくだろ?」
「そうそう、犬の遠吠えみたいにアオーンってさ。満月でもないのに吠えてる犬がいると思って通りかかったんだ」
「誰が犬だよ、誰が。笙ちゃんは……家出の途中だったんだっけ?」
 自分の話には苦笑していた透生が、ふっと強気な微笑を浮かべる。
「そうだっけ? なんでだったかな。犬の散歩でもしてたんじゃなかったかな」
「こら、笙ちゃん。昔の約束、覚えてないわけじゃないでしょう? 僕たちは昔語りをするためにここに来たんだ。ごまかすことに意味はないよ」
 笑みながらもきっと睨まれると、子どもの顔ながら凄みがある。それは、自分も子どもに戻っているからなのか。それとも、あの時の透生と同じ顔を思い出させてくれたからなのか。
「笙ちゃん、犬なんて飼ってなかったでしょ」
「……そうだな。あの家には私一人だけだった」
 五回目の転校。引っ越してきた家は、町では一番きれいとはいえ築十三年のどこか古さを感じさせるアパートだった。それまでも地方を転々としてきたから、ある程度ぼろいのには慣れていたけど、ここで住んだアパートはその中でも最大級に古かった。一人で暮らすようになった今思えば、あれくらい古いうちに入らないことくらいは分かるが、なにぶん、母は面子に拘る人だったし、転勤が多いからには他のところでは贅沢をしたいと思っていた節がある。それは衣服や食に留まらず、住まいにも求められていたに違いない。この町に引っ越してきてからの母は、田舎の訛りに毎日いらいらとし、地元の商店街ではなく、片道四十分かけて隣町も過ぎた郊外のショッピングセンターまで毎日のように買い物に行っていた。出来るだけ家やこの町にいたくないかのように、私が学校から帰ってもいないことなどざらだった。父はそんな母に構う間もなく、夜は私が寝たあとに帰宅をし、朝は私が目覚める前に会社に行っていた。土日ともなれば本社へ出張だ、接待ゴルフだとほとんど家にいなかったように思う。母がさらに不満を募らせても当たり前といえば当たり前だったのかもしれない。買い物をしても満たされない母の思いは、次第に私の将来を定めることに向けられていった。
 もの心ついた頃から、勉強することは当たり前だった。周りも勉強することが当たり前だった。いつかいい大学に入っていい仕事をするために、私たちは幼稚園に上がる前から厳しく躾けられていた。それに不満など挟む余地もない。自分のためなのだといわれてしまえば、全くその通りなのだと納得せざるを得ない思考回路にされてしまっていたのだから。そんな私にとって、この町はあまりにも緩く、倦怠感が漂っていた。東京へ中学を受験しに行っていた時期でも、帰ってくればクラスメイトはいたってのほほんとみかんをむさぼっている。中学校の名前の話などではなく、制服への憧れの話で盛り上がっている。あるいは、スキーに行く話で。全く私とは違う世界の人間達だった。そんな彼らと友人になったとして、いい大学、いい仕事に就けるわけがない。彼らに媚を売る暇があったら、家で勉学にいそしんでいた方が何倍も得だった。どうせ、数えるほどしかいない場所なのだから。そして、もう二度と戻ってくるはずもない場所。
『お母さん、四月からの転勤だが、今度はむつになったよ』
 三月も半ばを過ぎた頃、珍しく早く帰ってきた父は開口一番母にそう言った。
 母は頭を抱えた揚句、私の前で父の前に離婚届を叩きつけた。
『今度こそ絶対東京だって言ったでしょ!? 笙一郎はもう東京の中学への入学が決まっているのよ! そんなに転勤したかったら一人で行きなさい。わたしはもうまっぴらごめんよ!』
『お、お母さん……僕、一人でも……宿舎とかあるところだし……』
 烈火のごとく怒る母に、私はつたないつくり笑顔を向けたが、それも彼女の一瞥で敢え無く凍りついた。
『私はもう田舎暮らしは結構です。明日、笙一郎を連れて東京へ帰ります』
「え? ま、待ってよ、卒業式、一週間後だよ……』
『卒業式? そんなもの出なくたって、出席日数は足りているんだからあとで卒業証書送らせればいいでしょ。あなたはそんなものに出ている暇があるなら勉強なさい。今月の英語の添削、まだ提出していないんじゃなくて? 先生から電話があったわよ』
『あ、そ、それは……お、お父さん……』
 凍りついた笑みをはがせもしないまま、私は頼りない父親を見やる。
 父さんは私の視線から逃れるように、何もいわずに叩きつけられた離婚届を持って自分の部屋にこもってしまった。
『お、お母さん、僕ね、勉強がんばるから……』
『子どもがいつまで親の喧嘩に首つっこんでるの! さっさと自分の部屋に戻って荷造りなさい! それが終わったら、今日中に英語の添削仕上げてしまうのよ。明日の朝、駅に行くついでにポストに入れていきましょう』
 私は言葉もなく父の隣の自分の部屋の扉を閉めた。
 混乱した気持ちは泣いてしまえとしきりに訴えていたが、どうしても泣く気にはなれなかった。泣き方を忘れてしまったといった方がいいかもしれない。私は母に言われたとおり、ロボットのようにスポーツバックに必要な着替えや参考書を詰め終わると、机に座って英語の添削課題に手をつけた。実を言うと、何を書いたかは覚えていない。アルファベットの羅列は並んでいただろうが、おそらく英語にはなっていなかっただろう。私はそのプリントをきちんと三つ折にすると、所定の封筒に入れて糊をつけ、それもスポーツバックの中に押し込んで、部屋の電気を消した。
「びっくりしたよ。スポーツバックを持った同級生が白い靴下一枚でとぼとぼ川端歩いてくるんだもん。一瞬、幽霊かと思った。足元がぼぅっと白いからさ」
 相槌を打っていた透生は、話の重苦しさを吹き飛ばすようにからからと笑った。
「桜がやけに明るく見えたから、引き寄せられてたんだろ。透生もそうじゃなかったのか?」
「そうだよ。この桜は毎年自ら花に灯りを燈す。その時も慰めてほしくて一人でここに来て泣いていた。笙ちゃんは笑ってたよね。僕、笙ちゃんの笑ってるとこはじめて見たからさ、泣いてたのにびっくりして涙止まっちゃったんだ」
「冗談だろ。笑ってたんじゃない。泣かないように顔こわばらせてたんだよ」
「確かに、今思えばこわばった笑顔だったよね。怖いって思えなくもない……てか、ほんとはちょっと怖かった」
 思い出して笑った透生は、不意に心配そうに私を見つめた。
「今は、どうしてるの?」
 遠慮がちに覗き込んできた目には聞いていいのかどうか迷いが浮かんでいる。
「ここを離れる時に両親は別れたよ。私は母に引き取られて東京で暮らしていた。父も最近はようやく東京に戻ってきてね、たまに電話くらいはしているよ」
 そういえば、前に声を聞いたのはいつだったろうか。父が私用の携帯を買ったと嬉しそうに電話をかけてきたときが最後だったろうか。確かあれはもう三年も前のことだというのに。ああ、戻ったらかけてやらなきゃな。三年はあまりに放置しすぎだ。
「そう。ご両親ともお元気だったんだね。よかった。あの時は、もう家に戻しちゃいけないような気がしてたから」
 透生はどこか困ったような色を見せつつもやっぱり笑った。
「私も、もうどこにも居場所なんかないと思っていたんだ。なのに、自分ひとりで来れたのは歩いてこれるこんな町の辺境だった」
「辺境はないでしょ。僕の家このすぐ近くだっていうのに」
「田んぼと畑しかなくて、この土手は菜の花がたくさん揺れていた。その奥にぼうっと明るいピンク色の明かりが見えて、ああ、あそこなら休めるって思ったんだ。まさか透生がいるとは思わないからさ」
「僕だってそうだよ。誰か来るってわかってたら、誰があんな大声で泣くもんか」
「私以外にも散歩の人とかが通りかかっていたかもしれないぞ?」
「残念でした。笙ちゃんの言うとおりどうせここは町の辺境だからね。あの頃、こんなところまでは犬の散歩でだってこなかったんだよ。それほど犬があちこちでかわいがられてた時代でもなかったし」
「今はすごいもんなぁ。犬に洋服を着せる時代だからなぁ」
「ねー。さすがにさ、それはどうなんだろうって僕は思うけど、十年ってあっという間だよね」
 金の月は山の稜線を離れ、桜灯りを背後から照らしはじめていた。
『何、泣いてるんだ……?』
『お前、転校生……どうしてこんなとこにいるんだ?』
 お互い、見られちゃいけないところを見られて挙動不審になったのは仕方がない。桜灯は思いのほか明るく、動揺した表情がそのままお互いの目にくっきりと焼きついてしまった。そんな状態で、気まずそうに目をそらしあえるはずもない。
 私たちはにらみ合うように見つめあい、珍しく、私は通り過ぎるでもなく、透生に近づいていった。
『何だよ。来るなよ』
『僕は今晩ここで寝るって決めているんだよ』
 辺りを見回しても、ここ以外明るいところなどどこにもなかった。すぐ側でとうとうと暗い川が流れ続けている。対岸へ渡る橋もだいぶ前に通り過ぎて、以来、この先に橋は見当たらない。
 私は幹を挟んで透生と背中合わせになる位置に腰を下ろした。川とは反対の土手側。うまく隠れないと、上の堤を通った人間が自分を見つけてしまうかもしれないとどきどきしながら、草むらの中に新聞紙を敷いて隠れるようにその上に転がり込んだ。新聞紙はあっという間に土から這い上がってくる湿気を吸い込んでいく。冷たくなるのも思いのほか早い。体の芯まで伝い来るような寒さに歯を食いしばり、幼い私は参考書がつまったスポーツバックを枕に、開きはじめの桜越し、南中した上弦の月を見上げた。
 後ろからはかみ殺したような啜り泣きが続いている。さっきまでは少し離れても聞こえるくらい大声で泣いていたくせに。
『もっと大声で泣けば? どうせ僕しかいないし』
『いやだよ。お前がいるから。お前がいなくなったら大声で泣く』
 鼻をすすりながら透生は気丈に答える。
『僕、いなくならないよ。少なくとも明日の朝になるまでは』
『……本気でこんなとこで夜明かしするつもりか? 風邪引くぞ?』
『そういうお前はいつまでここで泣いてる気なんだよ』
『……気が済むまでだよ』
 それっていつだよ、とつっこまなかったのは、どうせ聞いたって仕方がないと思ったから。一人で泣きたいと思ったときは、ちゃんと泣ききらないと心に傷が残る。そう教えてくれたのは父方のおばあちゃんだった。ほんとなら、私はそこで諦めてこの桜の下を出るべきだったのかもしれない。そうすれば透生は気が済むまでまた大声で泣き喚けたことだろう。しかし、そうできなかったのは、私のほうが誰かに側にいてほしかったから……かもしれない。
『何があったんだ?』
 仕方なく、溜息をつきながら私は尋ねた。
『誰が転校生になんか話すかよ』
『転校生、転校生って、もう転校してきて五ヶ月くらいになるんだけど』
『でも、いまだにクラスに馴染んでないじゃないか。だからみんなから転校生って呼ばれてるんだろ』
『馴染んでないというか、馴染む気がなかったから』
『そうそう。前いたところも大した都会でもなかったくせに、どうしてお前ってそう都会っ子ぶってるわけ? 前から気に食わないと思ってたんだよな』
『父の転勤で地方ばっかり回ってるからだよ。生まれは東京だし、両親……も東京の人だよ』
 両親。そう口にしてしまってから、もうそう二人合わせて呼ぶこともなくなるのだと気がついて、僕は冷たくなった胸の辺りを軽く掴んだ。
『僕知ってるんだぞ。東京っていったって、あるとこにはこんな田舎みたいなとこだってあるんだろ? 東京人っていっても、地方から出てきて東京に住むようになった人もたくさんいるっていうし。――なんで壁作ってるんだよ。せっかく会えたのに、つまんないじゃないか。あちこち回ってきたんならそういうとこの話聞きたいし、東京の話だって聞きたいし』
 お構いなしに攻撃してきたと思いきや、透生は途中からトーンダウンして独り言のように呟き、揚句、とどめの一言を、そうでなくても傷心の私に突き刺した。
『転校生、お前そんなに上から目線だと友達いないだろ』
 さぁぁっと身体中の血が抜き取られていくかのような寒さに私は襲われた。心だけじゃなく、身体までかちんこちんに凍らされてしまったかのようだ。
『図星か』
 ぼそっと呟かれた一言が、喉まででかかった反論さえも押し返してしまった。
 見透かされてもうここにはいたくないと思う反面、もうどうにでもしてくれとも思う。結局、もう動く気力が残っていなかったから、私は何も言わずにそっと目を閉じた。
 このまま世界が終わってしまえばいいのに。
 僕に明日なんか来なければいいのに。
 ここで一晩寝れば、風邪を引いてそのまま死ねるだろうか。誰か変な人が僕を誘拐して殺してくれるだろうか。
 家にはもう戻れない。
 他に行ける場所もない。東京のおばあちゃんはとうの昔に死んでしまった。ほかに飛び込める親類縁者の家なんか、僕は知らない。たとえ知っていたとしても、それは父方か母方かどちらかに縁のある家なのだから、いずれ父と母のどちらかに角が立ってしまったことだろう。
 消えてしまいたかった。ただ、いなくなってしまいたかった。
 目を開ければ薄紅色に花開いた桜がさらに優しく光を私に注いでいる。
 こんな幻想的な光景を見ながら死ねたら、それ以上に嬉しいことはない。
 明日はいらない。このままずっとここに閉じ込めていてほしい。
『飼ってた犬が死んだんだ』
 私が何も言わないものだから、痺れを切らしたのだろう。透生が再び口を開いた。さっきまで私を詰っていた意地悪な人物と同一人物とは思えないほど落ち込んだ声で。
『ケンっていう白い柴犬でさ、僕が生まれた年に親類からもらってきたんだ。十二年、一緒に育ってきたのにさ、あいつ、僕より先におじいちゃんになって死んじまった……』
 相槌など打たなくても、透生は勝手に喋り続ける。
『双子みたいなもんだったんだよ。ケンと僕は、日本語じゃなくたって話すことが出来たし、ご飯だって一緒に食べてたし、野球だって一緒にやった。寝る時だって一緒だった。どんなに寒くったって一緒に寝れば寒くなかった。つい昨日まで一緒に寝てたんだ。あんなにあったかかったんだ。なのに……突然すぎると思わない? なんで今日なんだよ。学校から帰ったら、ケンが死んだって母ちゃん言うんだぜ? なんだよ、それ。死ぬわけないじゃん。今晩だって、一緒に寝るはずだったんだ。まだ布団一人じゃ寒いんだよ。あのふわふわがいなきゃ、僕安心して眠れないんだよ』
 幸せな奴だなぁ。
 嫉妬心も湧き上がらなかった。
 あまりにも生きてる世界が違いすぎるから。
 あまりにも、環境が違いすぎるから。
 僕なんか、お母さんが犬嫌いで子犬を拾っていってもそんなものの面倒見るくらいなら勉強しなさいってこっぴどく叱られた。以来、どんなにかわいい犬や猫と目があったって、僕は努めて冷静にその前を素通りしてきた。どうしても気になるときは、あそこにいるのはかわいい犬や猫の形をしたただの石だ。その辺に転がってて当たり前の石なんだ、そう言い聞かせた。
 思えば、今まで自分の周りにはあったかい血の通った人なんていたんだろうか。クラスメイトもただの風景の一つだった。学校の先生だって、にらまれないように適度に距離をとってきたから、結局は一日の大半を閉じ込められて過ごす学校の風景の一部だ。父はほとんど会うことがなかったし、母は……勉強しなさい、お医者さんになりなさい――命令ばかりするロボットのようだった。
 僕の生きてきた世界は、ずっと一人ぼっちだった。
『転校生?』
 顔の上で組んだ両腕越し、隙間から心配そうに覗きこむ透生の顔が見えた。
『な、何だよ! こっち来んなよ!』
 組んでいた両腕を解いて振り回すと、透生ははっとしたように僕から目をそらせた。やり場に困った視線を彷徨わせたあげく、花を見上げる。
『僕はちゃんと理由言ったぞ。お前は……何があった? 転校生』
 桜の甘くも渋い香りが頬を撫でた瞬間、すぅっと目の下が冷たくなった。
『僕は……泣いてない。何も、ない』
 口元を引き上げて、僕は透生を見上げた。
 透生は僕を見下ろす。
 視線をそらさないようにじっと見つめている。
『それは、笑顔とは言わないんだぞ』
 泣きべそをかいた顔を真剣な顔に立て直して、透生は言った。
『笑顔は楽しい時に出るもんだ。お前のそれは、笑顔じゃない』
 ぽっかりと丸く穴が空いてしまったと思っていた胸が、ざくざくと何度も刃をつきたてられたように滲むように痛んだ。
『なんで……僕は僕であることをやめられないんだろう……』
 僕は透生を見つめたまま呟いた。
 透生は、はぁ? などとは言わなかった。ただ僕をじっと見つめている。僕はその視線からもはや逃れられなかった。滲むような痛みが足の指先まで痺れ伝い、皮膚を破かんばかりに膨張していく。
 僕は、透生を見つめながらも何も透生に求めてなどいなかった。透生など、見えていなかった。自分の中に巣食う痛みをやり過ごすので精一杯だった。
 花ははらりはらりと一枚ずつ薄紅色の花びらを舞い落とす。
 色のない僕の記憶の中で、これほどまでに鮮やかに見える色はなかった。この夜見た花が、初めて感じる色彩だった。
「笙ちゃんは、あれから笑えるようになった?」
 透生が三杯目を注いでくる。
 私はそれに唇だけをつけた。
 酒を美味いと思いはすれど大して強いほうでもない私の体は、そろそろペースダウンの必要性を喚起していた。酒を飲んで泣く人間もいれば、やたらと楽しそうに笑う人間もいる。残念ながら、私はそのどちらでもなかった。気分が沈むこともないかわりに、高揚することもない。何とつまらない人間だろうとよく思う。
 それでも、私は私であることをやめられないまま生きてきた。
「いいや。笑っていたのは透生といた一週間だけだった」
 今口元に浮かんだものも、自分の二十二年を思い起こしての苦笑だとわかっている。
「早く笑いたかったよ。早く、笑える自分を取り戻したかった」
 楽しくなくても笑っていれば、もしかしたらいつか本当に楽しくて笑えるようになるかもしれない。そう思ってにへらにへらと笑いを浮かべていた時期もあったにはあった。しかし、そんな笑顔は周りに不気味がられるだけで、余計に人を遠ざけるだけだった。何より、透生の言葉が耳元で何度も警鐘のように鳴り響いているのに耐えられなかった。
「何も楽しいことがなかったわけじゃないでしょう?」
「何が楽しくて、何が辛いのか、私にはもう分からないんだ。それを早く思い出したくて、十年、待ち続けた」
 今まであったこと。どんな些細なことでも楽しみが見出せる人間は見出せるものだ。それは生きている証拠。私は、結局この十年間何からも楽しみを見出すことは出来なかった。母の敷いたレールを義務だけで走り進み、医大に進んだならば医師免許取得という社会のレールをまたしても義務だけで進まされている。自分は本当に医者になりたいのか、輝くばかりの笑顔で将来の夢を語る同級生達を見ては己に問わずにはいられない。
「桜、きれいだねぇ」
 透生は三杯目を半分ばかり呷って、ほんのり桜色に上気した頬にふわりと優しい笑みを浮かべた。
 こいつは桜を見ても微笑むことが出来る。ちょっとしたことでも心に感じることが出来る。
「ああ、きれいだ」
 私はといえば、きれいだと思いはしても、それが笑みには繋がらない。何故きれいなのかと、何故こんなにも日本人は桜に魅せられるのかと、くだらない問いが頭を占めてますます眉間の皺を深くする。
 私の心は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
 ここへ来れば簡単に取り戻せると思ったのに。
「透生」
「ん?」
「お前は毎年この桜を見てきたんだろう? 毎年見ていても、やはり今年も美しいと思うか?」
 杯の中で酒に揺られる花びらを見つめながら、私は問うた。
 透生は私を一目見、桜を見上げ、枝と枝の間にすかし見える月を眺めてから再び桜の枝に視線を戻して目を眇めた。
「美しいと思うよ。桜の花は毎年生まれ変わっているから、同じ桜に出会えることはないんだ」
「毎年同じように明るく輝く桜でも?」
「ああ。起こることは毎年同じでも、時が流れている限り同じ美しさであることはなかった」
 私たちは顔を見合わせ、桜を見上げた。
姫精きしょう
 同時に紡ぎだした音は同じ。
 ひときわ強い風が、包み込むように丸く花をつけた枝を揺らがし、花を散らせた。
「十年で花の命は巡ると言った」
「だから今夜、私たちは約束を果たしに来た」
 約束。
 何のために私たちは十年の時を待ったのか。何故十年も昔語りの時を待たねばならなかったのか。
 子どもが大人になるだけなら、二十歳の時で十分だったはずだ。
 私たちが待っていたもの――。
「桜の花は糸を結ぶ。縁という名の魂の糸を」
 変わらぬ少女の声が凛と春の夜気に響いた。
 桜の花は淡い輝きから祝福するようにより一層輝きを増す。月の光さえも霞むほどに、川面にまで薄紅色の光が広がる。
 刹那、時は停まる。
 桜の花枝の合間合間を埋めていた光は一点、花咲き乱れる中央に凝縮され、淡い緑に色を変えた。中には膝を抱え、目を閉じた少女が一人。
 私たちは杯を置いて立ち上がり、両手を少女に向けて差し向ける。
 花びらを纏った少女は、ふっと目を開いた。
 緑色がかった黒い瞳は、懐かしげに私と透生とを見つめる。
「お帰り」
 緑色の光がはじける。少女の黒く波打つ髪は夜風を孕んでふわりと膨らんだ。淡いピンク色をした滑らかな肌を持つ少女の身体が、差し出した私たちの腕の中に転がり込んでくる。
 あの十二歳の夜、私は最初で最後の家出をし、淡く灯が燈る桜の下で透生と出会った。そして、もう一人、この世の者ではない美しい少女と出会った。
『何故、己が己であることをやめられないのか』
 力があればと願った。大人だったら、きっと彼女をこの輪廻から救い出せるのにと信じていた。
『それは、私がこの木から離れられないのと同じことだな』
 私が泣き顔を晒したのは、生まれてから今まで透生とこの少女の二人だけだ。桜の花びらを纏った少女は、枝をたわませんばかりに咲き誇る花に囲まれて、不敵ながらもどこか陰のある笑みを浮かべて私たちを見下ろしていた。年の頃は、当時の私たちと同じくらいだろう。しかし、風格はすでに何十年、何百年と生きてきたかのような老成したものがあった。それでも、私たちは一目で心惹かれたのだ。
 花は美しいと思う。
 けれど、花を纏った少女は美しいの一言だけでは片付けられない何かを持っていた。
 何故、これほど大切な人の記憶さえも朧になっていたのだろう。
 何故、私は十年さえ永いと感じる人間に生まれてきてしまったのだろう。
 淡くあやふやになっていた記憶に輪郭と色彩が戻ってくる。
 桜灯を燈した木は、毎年春の精を産み落とす。彼女が生まれて、初めて世界に春が訪れる。彼女の寿命は花が完全に散り去るまでと短い。この木には十の春の精の魂が結びつけられていて、その魂は十年に一度しか生まれ出ずることは出来ない。
 姫精と名乗った少女は、その十の魂のうちの一つだった。
「透生、久しいな」
 姫精はまず透生に笑みをこぼした。
 透生はしっかりとその笑顔を受け止めながらも、はにかんだように頬を染め、視線をそらす。
「笙一郎」
 腕にかかる重みは肩と背とを預かっているにも関わらず、花びらのように軽い。真っ直ぐに私を見つめる黒緑色の瞳は、あのときとは上下逆ながら心の中を射抜くように強く鋭い光を湛えている。春の精ならば、もっと優しく和やかな雰囲気であろうものを、姫精は十年前から姿は柔和ながら心はどこか怜悧なものがあった。
 彼女は笑わないわけではない。笑わないわけではないが、笑ってもどこかに切なげな陰がついて回る。
「今日は泣いていないんだな」
 姫精はふっと小ばかにしたような表情を浮かべて私を見つめた。十年の時は少しは私を成長させたはずなのに、今も昔も変わらず私は姫精にとっては泣き虫笙一郎のままらしい。
「十年前は透生も泣いてたぞ」
「わたしが真上から見た泣きべそはお前のだけだよ、笙一郎」
 すべらかな手が私の頬をなぞり、目の下を拭うようなそぶりをした。見つめる瞳はこの十年、私にあったことを手繰るように深く深く入り込んでくる。
 と、姫精は不意に悲しげに頬を歪めた。
「笙一郎、何故来た?」
 次の瞬間、ぽつりと呟かれた言葉に懐かしさも嬉しさも欠片も含まれてはいなかった。さくり、と内腑の隙間に刃を入れるような視線が私を刺す。ぞっと私の背中は粟立ち、私は茫然と姫精を見つめた。
「放せ。触るな、笙一郎」
 暴れる姫精を透生の腕に預け、私は一歩、二歩、後ろに下がる。
「どうしたんだよ、姫精!」
 姫精を大地に下ろした透生が悲鳴じみた声で叫ぶ。
 ざぁっと、風が枝を揺らした。
 吹きはがされた桜の花びらが私の周りを竜巻のように囲み始める。同時に、十年前と違って満ちたりた蒼い月の光が花枝の合い間を縫い、一筋、私に注ぎ込んだ。
「笙一郎!?」
 せわしなく透生が叫び、花吹雪を潜り抜けて私に手を伸ばす。
 私は、光浴びた頭から、肩から、腕から、手の指先から、温もりという温もりを奪われていた。
 いや、違うか。
 私はようやく認識しはじめていた。
「だめだ、笙一郎! 逃げろ! 逃げるんだ! そこから、早く!!」
 花吹雪の向こう、悲痛な顔で姫精が叫んでいる。
「透生、聞こえるか?」
 風の音は騒がしかったが、思いのほか私の心は静かだった。
「なんだよ、笙ちゃん!」
 泣き叫ばないでくれ。
「すまない。私は約束を破ってしまっていたみたいだ」
 自嘲の笑みが口元をゆがめているのが分かった。
 唯一の友との約束も守れなかった私。何と、弱かったことか。
「私は三年前、死んでいたんだ。二度目の大学受験に失敗して、自殺していた」
 約束、したのに。
 何故、それすらも私は思い出せなくなっていたんだろう。約束した十二の頃は、十年、何があっても必ず待つことが出来ると自分を信じていたのに。
 手首に残っていた真一文字の傷がぱっくりと口を開け、蒼い月の光をのみこんでいく。
「まさか、本当に死ぬなんて思っていなかったんだ。たったこれだけの傷で死ぬなんて。ちょっと切ってみただけだったんだ。でも、母も父も……誰も見つけてはくれなかった」
 透生は口を引き結び、一度俯いたかと思うと顔を上げた。
「知っている! ああ、知っていたさ!! 笙ちゃんの訃報を君のお母さんから聞いて、僕がどれほど後悔したか分かるか? 姫精の誕生を待たず、せめて五年、いや、三年だって良かった。僕たちは自分達が思うよりも自由だったんだ。笙ちゃんが会いに来られないなら、僕が遊びに行くことだって出来た。東京見物、案内してもらいに行ったってよかったんだ。笙一郎! さっきここにいる君を遠くから見つけたとき、僕がどれだけ声をかけるまでにためらったか分かるか? 会えた嬉しさよりも……」
 透生は見る間に大人になっていった。ついには私を追い越して、一人前の社会人の顔になっていく。それでも、気が強そうでいてお人よしな顔立ちは変わらない。
「怖かったか?」
「違う! 幽霊が怖くて酒飲みながら昔話なんかできるか! そんなことよりも、僕は――俺は……」
 私は十九の姿のまま取り残されていた。
 父と最後に電話をしたのが三年前。「受験、がんばれ」と気遣いながらも励ましてくれた声を聞いたのが最後だった。
「お前の支えになってやれなかったことが恥ずかしくて、どう謝ろうかと……」
「姫精、見ろよ。私などよりもよほどの泣き虫がそこにいるぞ。そんな大きな図体でめそめそ泣くなんて、見られたもんじゃないな」
「笙一郎! まだ間に合う。わたしの手に掴まれ。そこから抜け出せば……」
 人の話も聞かず、姫精は花吹雪の中に両腕を差し入れ、花びらに切られてところどころから赤い血を流しながらも懸命に私に呼びかける。
「どうせ死ぬなら、と、最後に願ったことがあった。姫精、君をこの桜から解放してあげる。血の温もりを返してあげる」
「な……っ」
「君に、人間としての笑顔を返してあげる」
 身体中から血の温もりという温もりは奪われて、一点、胸の中心だけが輝くようにあたたかかった。
「笙一郎! 人間が、傲慢にもほどがあるぞ!」
「そう怒るな、姫精。君も元は人間だ。その若さでこの辺りの川で溺れて死んだ子どもだ。そうだろう、佐伯姫精」
 灯を燈した桜の下。十二歳の私と透生は春の誕生に立ち会った。今みたいに二人で腕を広げ、枝の間から産み落とされた彼女を抱きとめた。彼女は泣いている私たちをさんざ虚仮にし、しかし、放っておけなかったのか夜の散策に連れ出してくれた。彼女と手を繋ぎ、とん、と地を蹴れば、私たちは星の如く夜空の果てから町を見下ろしていた。自分が飛び出してきた古びたアパートも、そこから飛び出してきた両親が自分を探して駆けずり回る姿も、地上の星のように目には入れど小さな点となって見えていた。透生は透生で、家族という家族が総出で自分を探す姿と、ケンの新しい墓が見えていたらしい。それだけじゃない。その夜、私たちは数え切れないほどの星を見、世界中を飛び回った。
「どうして……私はそんな話など一言も……」
「不思議なことには裏がある。あの夜、透生は自分の家に帰ったけど、私は……帰れなかった。かわりに町の図書館に行って古い新聞を読み漁っていたんだ。検索を使って姫精という名の子供はいなかったのか、とね。佐伯姫精はその時点で三十年前、今からすれば四十年前、桜が満開になった季節に、この川のちょうどこの辺りで夕飯の茶碗を洗っていて溺れた。その日と時を同じくして、死んだはずの明音あかねという二十六歳の女性が二十年前に死んだ姿のまま生きて家族の元に戻ってきたという。私は一つの仮説を立てた。この木は春を産むとき、近くにいる死者の魂を捕らえ、随時新しいものに交換する習性があるのではないかと。桜に灯が燈るのは、寂しい死者を灯で引き寄せるため。もし、新しい魂を捕らえられなくても、姫精が話してくれたとおり十の魂を常にストックしておけるなら、さほど古くなっても朽ちる心配はない」
「笙一郎、お前、私の身代わりになろうというのか?」
「どうやら性別は関係ないらしいな。透生、この十年で男性の精もいたか?」
「いないよ! みんなきれいな女性だった。だから、お前には無理だよ!!」
「それは心外だ。じゃあ、私はこの十年ではじめて男の春の精になるわけだ」
 胸に燈った灯はうずうずと身体中を満たし、口元をほぐしていく。
「気持ち悪いこと言うなよ! 春の精は女性って決まってるんだ!!」
「透生ともあろう人間が、大人になって頭が固くなったんじゃないか?」
 くすくすと、私は笑いをこぼしていた。
 私を取り囲んでいた花吹雪が消えていく。月の光は元通り清かに地上に降り注ぐ。その中を、私はゆっくりと灯を燈す桜に近づいていった。
「この桜が私の新しい父であり、母。ようやく私は、惜しみない愛情をくれる両親と巡りあったわけだ」
 がさついた樹皮は手に優しくはないが、今まで聞くことの出来なかった鼓動を不思議な温もりと共に伝えてくる。
「馬鹿、言うなよ。お前の両親はちゃんとお前のことを……」
「死ななきゃ分からなかっただろう? 死んでようやく、あの人たちは私という一人の人間がいたことを思い出したんだ」
 透生は口を引き結び、それ以上何も言わなかった。
 透生を言いくるめることを望んだんじゃない。ただ、私にとっての事実はそうだったというだけだ。願いを果たすために、約束を果たすために、私は三年間、死んだことを認めず生き続けた。実際には落ちた大学に通い、分厚い教科書を図書館から盗み出して講義を受け、レポートを提出し、学食では将来の夢を語る同級生達の傍らで麦茶をすすり、解剖学実習もメスこそ握らせてはもらえなかったが間近でしっかりとノートをとっていた。一体、何のためにそんなことをしているのかさえ分からなくなるほどに、私は一人で生き続けた。
 笑えなかったわけだ。一人きりでこぼれるものは、笑みなんかじゃない。嗚咽くらいだ。
「何故、己が己であることをやめられないのか。魂と身体は離れられない。身体は社会に通じているから、社会から離れるということは魂と身体が離れるということ。しかし、どんなに逃げ出そうとしたって、離れたいと悶えたって、客観的な視点を持つもう一人の自分を創造したって、根っこは一つだから。存在する限り、己は一つ限りだから。だけど姫精、君の根は私が切り離したよ。この桜から伸びる鎖は、もう君には繋がっていない。君のかわいらしい笑顔が十年に一度しか見られないなんて、そんなのはもったいないだろう?」
「何を言っているんだ。笙一郎、本気でそんなことが許されると思っているのか?」
「決めるのはこの桜だ。さあ、笑って、姫精。私からの唯一のお願いだ。透生からも、言ってくれないか?」
 私は、子どものままだ。子どもの我が儘で姫精を輪廻の輪から外した。力などなくとも、大人なんかではなくても、私は、たった一つの子どもの頃からの夢を今、叶えることが出来る。
「笙一郎、それでお前は笑えるのか? 心から、満たされるのか?」
 透生が尋ねるまでもない。他に、私が生きている時に望んだことなど何一つない。透生との約束を守ることを除いては。
「笑えるか! 誰かを犠牲にして助かったって、誰が笑えるものか!」
 怒れる幼い少女の頬を私は両手で挟み、そっと額を当てた。
「はじめて見たときから、女神だと思ってた。唯一、私の願いを叶えてくれる女神。姫精――」
「違うよ、笙ちゃん。それは間違ってる。無理やり笑わせたって、それは笑顔なんかじゃない。言ったじゃないか。十年前、ここで会った夜に確かに俺、言っただろ?」
 私はゆっくりと姫精を放し、透生と真っ直ぐに向きあった。
「じゃあ、また十年後の約束をしよう、透生。十年後、笑顔の姫精を連れてきてくれるね?」
 私が差し出した小指を見て、透生は呆れ果てた顔をした。
「いつも、約束を破るのは笙ちゃんのほうじゃないか」
「そう、だっけ?」
「一緒に卒業式の写真とろうって言ったのに卒業式来なかったし、蝶のさなぎが孵るところ一緒に見ようっていったのにそれまでこっちにいてくれなかったし、十年後ここでまた会おうって言ったのに……」
「会えたじゃないか」
「こんな形じゃなく、俺は……生きてる笙ちゃんに会いたかった」
「そんなのは約束になかっただろう」
「大前提だ!!」
 強く言われて、思わず私はふきだした。
「なんで笑うんだよ、こんな時に」
「私は、意外と幸せだったのかもしれないな」
 たった一人でも、これほどまでに気にかけてくれる友人がいたのだ。南波笙一郎には。
 私は、生まれ変われるだろうか。自分を思ってくれる人がいることを忘れない人間に。今度こそ、一人ではなく生きていけるようになるだろうか。
「笙一郎、指を出せ。約束してやる。明日は、笑って会いに来てやる。明日だけじゃない。ばあちゃんになって皺くちゃになってもお前に笑顔を押し売りしに来てやるから覚悟しろ」
「おー、怖っ」
 姫精は引っ込めかけた私の小指に強引に自分の小指を絡めた。その小指の上に、透生がさらに小指を絡める。
「約束しよう。明日、またここに来るよ。毎晩、桜が散るまで笙ちゃんの好みのお酒持って会いに来るよ」
「酔っ払いの桜の精なんて聞いたことないけどな。松の庄の純米酒がいいな」
「それだけじゃない。十年たったら、またこの木の下で会おう。二十年後も三十年後も、桜に灯が燈ったら、またここで」
「破ったら?」
 もしかしたら透生と姫精が来る前に別の誰かの魂が寄りついてしまうかもしれない。その時は、私はまた約束破りになってしまうことだろう。
「それは六十年後。よぼよぼのおじいさんの魂と入れ替わる時だよ」
 透生は、予言めいた約束を私に残した。
 六十年。人間にとっては半世紀以上にもなる年月の中で私は六度生まれ、透生と姫精との約束を果たしながら一週間ほどの時間を野原を散策して過ごした。あわせれば二月にもならない時間で、二人が次第に時を重ねていく姿を数えていなければ、ただ永い夢を見ているだけのように思っていたかもしれない。
「透生、今年は姫精は?」
 老いた透生は桜の幹元に腰を下ろすと、日本酒を開けることもなく背中を大木に預けた。
「姫精は今日は来ない」
「そりゃまたどうして?」
 おどけて問うた私を、透生はほとんど開いているのか閉じているのかわからないような細い目の隙間から眺めやって溜息をついた。
「お前は会うたびに若返っているな」
「笑い方も上手くなっただろう?」
「春の精はお前の天職だったのかもしれないな。さて、私にも勤まるかどうか……」
 ごうと音を立てて風が吹いたかと思うと、吹き散らされた桜の花びらが透生を取り囲みはじめる。満ち足りた月の光が蒼い手を透生に差し伸べる。
「透生……? だめだ、透生!!」
 不意に身体に言い知れぬ重みがかかった。
 耳元で鼓動が脈打つ。
 唯一残された胸の温もりが弾けて、手足の先まで一足飛びに駆け抜けていく。
 これが、生まれなおすという感覚。
 しかし、透生の命と引き換えになど私は思ってもいなかったのに!!
「透生!!」
 桜吹雪はやがて鎮まり、そこには、花びらに埋もれた老人の亡骸が横たわっていた。
 おそるおそる、私は透生の肩を抱き上げる。まだあたたかくはあったが、その身体は鉛で作り直されたかのようにひどく重かった。魂の気配はすでにない。しかし、他のどこにも透生の気配はない。
 静まり返った川岸で、桜の花は次なる精を探すように煌々と灯を燈す。釣られ来る魂は未だ見えない。
 私は透生の亡骸を幹に預け、透生の持ってきた日本酒の蓋を開けた。生々しい米麹とアルコールの香りが鼻腔の奥まで入り込んできて胸をくすぐる。用意されていた二つの杯に注ぎ足すと、それはさらに桜の馥郁たる香りと混ぜ合わさりながらことさらに匂い立つ。
 吸い込む空気は肺に冷たい。
「透生、今度約束を破ったのはお前だな。今年は春が来ないかもしれないぞ?」
「そんなことは、ない」
 透生の口元に杯を傾けていると、頭上から思ってもみない声が聞こえた。
「姫、精……?」
 見上げるまでもなく、彼女は枝から私の前に降り立った。
「まさか……」
 十三の少女の時の姫精が私の前には立っていた。そんなわけはない。六十年かけて、彼女は今年七十三になっているはず。こんなに若返るわけがない。
「一つ、言っていないことがあった。笙一郎、この木の主はわたしだ。この木はわたしなのだ。お前は言ったな。魂と体のつながりが切れても、根っこが同じなら違うものにはなることは出来ない、と」
「う……そだ……。だったら、佐伯姫精は一体誰なんだ?」
「わたしだよ。この木は、佐伯姫精の墓標だ。だから、私はこの木から離れることは出来ない」
「じゃあ、私のしたことは……?」
「無意味なんかじゃなかったということは、六度会う中でお前に伝えてきたつもりだったが、伝わらなかったか?」
 眠る透生の穏やかな笑顔を愛しげに見つめていた姫精は、かわって無邪気な表情で私を見上げた。
「庄屋姫精が死んだのは去年の春だった。一年、一人で残してしまって申し訳ないことをしてしまった。すぐにここへ会いに来てはくれたが」
 嫉妬はない。
 姫精は思うとおりの人生を過ごせたということなのだろう。
 ただ、心残りといえば――
「もう二度と、私はここで透生と酒を飲むことが出来ないのか」
「人の命は本来一所に留められていいものではない。輪廻の鎖は繰り返されるほどに逃れられなくなっていく。透生は、身をもって笙一郎を解放してくれたんだよ。お前がわたしにそうしてくれたように」
 傾けた杯に一片、花びらが舞い落ちてきた。それは、いつになく色濃く鮮やかな薄紅色をしていた。
「悲しむことは何もない。移ろいゆくから、この世のものは美しい」








〈了〉






書斎 管理人室  読了






200804210056