氷の影に脅えるものは





 けしてこの目を閉じてなるものか。
 命尽きるその瞬間まで、私はこの国の行く末を見届けてやる。
 いや、死んだ後も見続けてやろう。この目で。
 たとえ体が大地に腐り落ちたとしても、この目だけは腐らせまい。濁らせまい。
 この目だけは。
 この目だけは、必ずやこの世に残してやる。
 私のこの思念とともに。




 映りつづけるものは黒い煙にまみれていた。
 春の芽吹きも、新緑の木漏れ日も、紅葉の錦も、白銀の雪でさえ、黒く薄汚れていた。
 見えるものはいつも同じ。
 木々と空。大地と草。
 生き物一匹通りゃしない。
 ――つまらぬ。
 私は何のためにここに残った?
 憎しみに満ちた炎に灼かれる瞬間を心待ちにしていたのに。
 すべてが焼き払われる瞬間を心待ちにしているのに。
 憎い。
 ああ、憎い。
 つまらぬ。
 つまらぬ。
 この目は見たいものを見せてはくれぬ。
 そうだ、いっそ誰かの目になろう。
 誰も通らぬのに?
 いや、通る。
 私がここに来たのだから、いつかきっと誰かが通る。
 もはや動物でもかまわぬ。
 誰か、私をここから連れ出してくれ。
 誰でもいい。
 私の目を必要とするものならば。






初夜


 青年がその目を手に入れたのは、青空を見るためだった。
 そこは夏は短く、吹雪が半年以上続く場所だった。それでも、雲と雪さえ天を隔てなければ青い空が見えるという。青とはどんな色なのか、青年は一度でいいから感じてみたいと思っていた。
 だから、目をやろうと言われたとき、青年は喜んで老婆が渡した生暖かいものを落ち窪んだ眼窩にはめ込んだ。難しいことは何もなかった。ただはめ込み、一度ゆっくりとまばたきしただけで、彼ははじめて混沌と世界から色彩に色分けられた有限の世界へと導かれた。
『何でもいい。私に面白いものを見せておくれ』
 何もなくなった眼窩を隠しもせずに、残った片目だけで青年を見て、女はしたりと笑って背を向け遠ざかっていった。
 声を聞くにしゃがれた老婆。しかし、今、自分に向けられた背中は、豊かな黒髪にきびす近くまで覆われた背の高いほっそりとした女だった。
 ぞっ。
 青年ははじめて見えるものに恐怖を感じた。
 利き手が頬をなぞり、片目だけ分け与えられた左目へと指先を這わせる。その指先が、鮮烈な色を持って間近に見えたとき、青年は再び恐怖を感じた。
 柔らかく膨らむ指先の上には硬質で灰色がかった厚い爪。それをさっき目をはめ込んだときのように無造作に目に差し入れれば、今見えているものが再び見えなくなってしまう。再び混沌の中に閉じ込められてしまう。
 何と恐ろしいこと。
 この目をくりぬけば、自分は再び一人になってしまうのだ。
 しかし、だ。
 審美眼を磨くほどに女性を見たことのない青年ですら息をのむほど清冽な空気を纏った美女。その美女が眼窩を空洞にして自分を見たときのあのおぞましさときたら!!
 再び身体中に戦慄が走り、青年は両拳を握ったまま初めて見る緑の草萌ゆる大地を睨みつけた。
 女は言っていた。面白いものを見せてくれ、と。
 ということは、だ。
 女には自分の見たものが全て筒抜けになっているということだ。
「なん……て、こった……」
 青年は激しく身を震わせはじめた。
 両手で頬を撫で上げ、左手で女の目を貰い受けた左目をかっ開き、右手の人差し指と親指を目に近づける。
 焦点はできるだけあわせないように遠くを見つめる。
 丘を下り、見えなくなったと思った女の姿が、再び丘を登る途上に現れた。
 長い黒髪が肩と腰の辺りでそれぞれ楽しげに揺れている。
「何が……何が見たいんだ……? 何を見たら俺を解放してくれるんだ……!?」
 カタカタと小刻みに震える指は、近づければ近づけるほど先のとがった刃物よりも怖ろしいものに見えてきて、青年は生唾を飲み込んで口を引き結び、やがて深く息を吐き出した。
 息を吸うために胸をそらせると、視界いっぱいに天空の色が広がった。
 雲はない。
 あそこに見える色が青。
 なんて、冥いんだろう。
 日差しすら飲み込みそうなほど、あの青は冥い。闇を抱いているのではなく、底なしに見えるから冥く怖ろしく感じるのだ。
 視線を転じれば、強烈な白が目を焼いた。
 一瞬、再びさっきまでいた暗闇の世界に戻されたかと思ったが、白と黒だけの世界から、目はすぐに色彩の世界を取り戻していった。
 怖ろしい。
 見えることは、なんて怖ろしい。
「ローデ、ローデ!」
 心が青空の底に沈められかけたとき、青年の耳には聞きなれた少女の声が響いてきた。
 初めて見る少女は、木の幹の色を限界まで水で薄めた色の髪を二つに結い分けていて、両の瞳には大地に萌える草と同じ色の瞳がはまっていた。
「ローデ?」
 少女は呆然と自分を見つめる青年の目に気づいて、手を伸ばしても僅かな差で届かないところで足を止めた。
「アリシア……目を……」
「ローデ、その目、どうしたの? あなたの瞳の色と違うわ。あなたの瞳はどうしたの?」
「アリシア。教えてくれ。俺の瞳は何色だった?」
「あなたの瞳は鳶色だったわ。あの大空を勇壮に両翼を広げて羽ばたく鳶の翼の色」
「なら、いまは何色だ?」
「青……。今日のあの瞳と同じ、吸い込まれそうなくらい青い色をしてる。ねぇ、どうしたの、その目。何かよくない目薬でも目に入れたの?」
 青年の目には、草原に埋もれた小さな小枝が見えた。
「アリシア、たとえば俺の瞳はこんな色だった?」
 拾った小枝をアリシアの前に差し出して、青年は尋ねた。
「ええ……そうね。もう少し明るかった気もするけれど」
「君はどっちの色が好き?」
「どっちのって、そりゃ、わたしはローデの生まれもっての色のほうが好き……よ……」
 少女が全てを言い終える前に、青年は拾った小枝を己の目に突き下ろした。が、小枝の先端は青年の頬をわずかばかり縦に引っかいて赤い痕を残しただけだった。
 青年は肩を震わせながら小枝を握り折り、大地に膝をついた。
「見える世界が、こんなにひどいものだとは思わなかった……」
 さっきの女も見ているんだろうか。俺の目を通してあの鋭くとがった小枝の先端を。あの女も俺と同じように味わっただろうか。見えなくなるという恐怖を。
「……いや、それはない……な」
 青年は小さく一人ごちて枝を放り投げた。
 あの女は、ためらいなく己の眼窩に指を入れ、視神経を引きちぎって自分の手のひらに目玉をのせたのだ。生暖かく血の滴るそれを、俺は見えないからとはいえ、ただ青空が見られる、それだけの願いをかなえるために己の眼窩にはめ込んだ。
 もしこの手のひらに残る血の色が見えていたなら、俺は絶対に躊躇していたことだろう。もし、あの女の青い双眸を見ていたなら、とても奪おうとは思わなかったに違いない。
「ローデ、どうしたの?」
 心配そうに除きこむ少女の顔に、青年はうっすら浮かぶそばかすを見つけた。
 目は見えなくても、少女が心配げな声を出せばその顔が見えるような気がした。触れて得た輪郭を元に、顔を思い描くことも可能だった。今見える少女の顔は、思い描いたとおりの顔をしていた。だけど、そばかすまでは当てられやしなかった。
 間近で覗き込まれて頬を赤らめる様も、見えなければそうと感じても確信することは出来なかっただろう。
「ローデ、本当に見えているの? 私の顔も、見えているの?」
「見えているよ。頬に点々がついている。アリシアの瞳は草と同じ色をしている。いまは少し、頬の色が変わったね」
 見える世界の、何と窮屈なことか。
 それまで肌で感じていた風も、鼻で感じていた匂いも、遠くで犬が駆け回る足音も、鼻から吸い込まれた空気に混ざっていた花の蜜の味も、全て焦点がぼやけてしまって、何がなんだか分からなくなってしまった。
 ただ、想像以上の色彩の渦の中に自分は飲み込まれている。
 見える世界は牢獄だ。
「アリシア」
 青年は、少女の頬よりも尚赤く色づいている唇に唇を寄せた。
 花びらを食むように、ゆっくりと少女の唇を食んでいく。
「ローデ……?」
 ぼんやりと夢見心地に少女は青年を見上げた。
 より一層赤く色づいた唇に、目が釘付けになって離せない。
『何を見たら、お前は満足できるんだ?』
 目の奥に焼きついた女の背中にむけて、青年は心の中で大声で叫んだ。
 一度手に入れたものは手放しがたく、忘れがたい。
 たとえ有限という名の牢獄に閉じ込められたとしても、今見えるものから、青年は逃れることはできない。






********


 ああ、つまらぬものを見てしまった。
 私が見たいのはあんな明るい世界ではない。
 私が見たいのは、あの時の終わりの続き。
 私が望むのは、そこで焼かれていく自分の姿。
 私が見たいものは……


********





「ローデ? ローデ?! ひっ、ゃぁぁぁぁぁっっっ」
 真白い寝具の傍らに、少女は一晩夫となった青年の骸を見つけた。
 骸の左眼窩には、何も残されてはいなかった。















 子供というのは時に残酷なことを平気でするもので、わたくしもその被害者でございました。
 小さな片目を抉り取られ、かわりに川岸に流れ着いていた大きな青い眼球を無理やりはめ込まれたのでございます。
 わたくし、この通り動きものろく行動範囲も限られておりますゆえ、人間というものを見たことは数える限りではございましたが、このはめ込まれた青い目の持ち主は、間違いなく人間だったのだと思います。
 わたくしは自分の目を抉り取られましたが、この青い目を埋め込まれたことによって、再び視力を取り戻しました。
 取り戻すどころか、今まで見えなかった遠くのものまで見えるようになりました。両の目で見ると悲しいことに自分の目の方はぼやけ、人間の目の方ははっきりとくっきりと、森の中を駆け回る野うさぎの毛並みまで見ることが出来ます。それどころか、見たことのない景色まで水面に、夢に見るようになりました。
 わたくしは、生まれてこの方炎というものを見たことがございません。空高く聳える石積みの建物も見たことなどございません。わたくしが見たことのあるものは、川と、土と、石と、小さな魚と、青い藻と、緑の木立、星の空だけでございます。温もりさえ感じたことはございません。清流の流れに、夏も冬も身を置くばかりでございます。そんなわたくしが夜な夜なうなされることになったのは、荒れ狂う炎の中で息がつまるからだけではないのでしょう。
 時は夜でございました。
 空には星も月もありません。これほど真っ暗な空をわたくしは見たことがございません。一面、下手な絵師が大きな刷毛で雑に塗りたくったような闇がすぐ手の届くところにありました。音は何も聞こえません。さらさらと光にくすぐられた水の流れる音が遠くに聞こえるだけ……おっと、これはわたくしが今川辺にいるからですね。わたくしが感じられるのは、あくまで映像のみでございます。そう。真っ暗闇の中、目の持ち主はこの森の枝よりも高いところから外をご覧になっておいでのようでした。闇に塗り込められた世界は、うっすらと昼間見た田畑や民家の景色を重ねてもひっそりとしていて、とても人がいるようには見えませんでした。目の持ち主のいる場所まで、一定の間隔を持って赤黒い篝火が僅かに爆ぜる光を散らすばかりです。
 とても静かな夜でした。
 目の持ち主は眼下に広がる世界からそっと視線を上げ、空を仰ぎます。
 何もない空をぼんやりと見つめた後、その方はやはり真っ暗な室内へと戻りました。
 まだ眠ってもいないのに、何故これほど照明を落とす必要があったのでしょう。
 その方は手探ることなく、足取りがおぼつかなくなることなく、真っ直ぐに暖炉の前まで歩いてくると、上に設えられていた飾り鏡にご自分の顔を映しなさいました。
 室内の闇よりも尚黒い髪が真っ直ぐに肩にしなだれかかり、更に流れ落ちています。闇にのまれることなく輝くのは青白い項と卵形の小さな顔。通った鼻筋の下、青紫色に見える唇は軽くかまれて引き結ばれ、己を見つめる目は青く、何か怖ろしいことに立ち向かわんとしているようでした。
 昼間太陽の下でも、おそらくこの楚々とした少女の面影はさして色づいては見えなかったのではないでしょうか。美しさに恵まれてはいても、その方はすでにその恩恵に浴する世界にはすでに住んでいらっしゃらないようでした。
 その方はふと、鏡から窖としか思えない暖炉の真っ暗闇の向こうに視線を投げやりましたが、すぐに再び鏡を見据えました。
 青ざめているとしか思えない唇が紐解かれ、何事かを呟き、その方は着ているものを引きちぎるようにしてお脱ぎになりました。
 現れたのは繊弱な白い肩、うっすらと膨らんだ白い乳房。
 しかし、そこには黒い模様が規則的に刻まれておりました。
 時々川面に光が悪戯をしてこのような紋を刻むことがございますが、その方の身体に刻まれた紋様はもっと緻密で、まるで世界を包み込むようにその方の身体を包み込んでおりました。
 刹那、暗闇だけが続いていた室内に、外で弾けた橙色の光が差し込みました。
 突然の光の洪水に、瞼を閉じても闇は戻りません。
 次に瞼を開けた時、その方の前には荒ぶる炎の舌が這い寄っておりました。炎だけではありません。扉を開き、剣を構えて仁王立ちになっている兵士達が迫っていたのです。
 その方は真っ直ぐに目の前の兵士を見据えました。
 覇気をみなぎらせていた兵士は、一瞬にしてその表情を凍りつかせました。表情だけではありません。全身が、暗闇の中でうっすらと蒼く輝く氷に包まれていたのです。
 先頭の兵士も、その左右の兵士も、その方が見据えた瞬間に剣を持ったまま一歩も動くことが出来ずに凍りつきました。
 しかし、送り込まれた兵士は彼らだけではありませんでした。
 扉の向こうからは次から次へと凍りついた兵士の身体を薙ぎ倒して別の兵士達が雪崩れ込んできます。
 視界は彼らの顔全てを一撫でするように滑らかに円を描き続けます。
 兵士達の氷像で扉が開かれながら道を閉ざされたときでした。
 その方はつと背後を振り返りました。
 破れた窓からは橙色の炎がカーテンを舐め、石造りの壁を舐めながらベッドを燃やし、机を燃やし、本棚を燃やしておりました。
 唯一、出口になりそうなのはさっきちらと視線を寄せた暖炉の穴だけです。
 ですが、その方は映った暖炉の穴すらも壁ごと凍りつかせておしまいになったのです。
 これで逃げ道はなくなってしまいました。
 この目の持ち主は、一体このときどれだけ焦っていたのでしょう。
 わたくしは、これが自分の記憶でないことを祈りながら、早く目が覚めろと唱えずにはいられません。
 ええ、何度見てもこの場面は嫌なのです。
 闇の中で燃え上がる炎は、やがて一呑みにその方の身体を抱き込みました。
 視界がぐらりと天上を仰向きます。
 飾り模様が織り込まれた天井紙は、いまや黒く煤け、剥がれ落ち、あるいは炎に味方して赤々と燃えておりました。
 そして、一瞬のことでございました。
 そこにある全てのものが、その方の身の上に降り注いだのです。
 同時に、床に吸い込まれるように視界はぐんと下がりました。
 瞼閉じられた暗闇の中、差し伸ばされる凶器の光が暗く橙、赤、黄色と閃光を放ちます。
 次に目を開けた時、そこに映っていたのは黒く焼け焦げた角材の重なり合う姿と立ち上る灰黒い煙、燃え盛る炎でした。
 その方は身を起こしたようでした。
 白く滑らかだった両腕には、いまや赤やピンクの水ぶくれが現れ、真紅の血が噴きだし、黒く汚れた肌を清めておりました。
 その腕を動かして、その方は懸命に角材や砕けた石の合間から僅かに見える白い光目指して這い上がりました。重さなど微塵も感じていないかのように目の前を塞ぐものをこじ開け、体を押し上げます。
 視界は次第に涙に潤み、霞みはじめておりました。
 その視界が暗闇の中に開けたのはしばらく後のことでございます。
 闇の下には、文字通り山と重なった瓦礫が炎に弄られておりました。その中を逃げ惑う人影がいくらか見えますが、彼らもやがてぱたりと倒れてしまいました。
 その方は瓦礫の上を渡るように滑らかに歩みはじめました。視界に上下の揺れはありません。水流に身を任せるように流れていきます。
 その方は、瓦礫の山から逃れるのではなく、その頂へ向かって進んでおりました。
 ああ、目が乾いてまいりました。
 そろそろ川に戻らなければ。
 白く濁る視界の中で、それでもその方の記憶は止まりません。
 瓦礫の頂には、炎を身に纏った壮齢の男が一人立っておりました。
 あのように炎に絡みつかれれば、普通は熱がったり苦しがったり、少なくとも汗くらい滲ませるものでしょうに、男は余裕気な笑みさえ浮かべて涼しげに佇んでおりました。楽しそうに、この目の主を見つめております。
 栗色の髭に覆われた口が俄かに開きました。
 表情にさして変化がないことから、あまり大きな声でお話しているわけでもないようです。その方が手を伸ばせば肩に触れられそうなほど近くで立ち止まった時、男はにこやかな表情はそのままに口を噤みました。
 おかしいのです。
 もしこの男が敵ならば、さっき部屋になだれ込んできた兵士をそうしたように一瞬凝視して凍りつかせてしまえばよいのです。
 しかし、男はまだ明々とした炎に照らされて、笑みを崩さず血色もよいままです。
 やがて、男は身幅の半分はあろうかという大剣をその方に向けて振り下ろされました。
 視界が傾ぎます。
 漆黒の空へと昇る橙色の火の粉がくるくると舞いながら霞んでいきます。その火の粉を、おそらくその方から噴き出した赤い血が空中で捕らえて落ちていきました。
 その方は、仰向けに空を見上げておりました。
 真上に見えるのは先ほどの男。
 鳶色の瞳に映るのは、魔と化した形相にはめ込まれた意思強い青い瞳でございました。
 どんなに憎しみを込めて睨みつけても、男は慄きません。それどころか、顔を寄せると頬に軽く唇を押しあてました。
『愛しているよ、ルーシュ』
 ゆっくりと、そう、男はその方の目の前で唇を動かしてみせました。
 その方は、もう一度この目で男を睨みつけると、動かせる方の指を片目に差し入れました。
 視界が一つ、真っ暗に変わりました。
 そして、今見えている目にも整えられた爪が近づき、一瞬にして暗くなりました。
 次の瞬間、わたくしの視界はうっすらと白みはじめた藍の空を仰いでおりました。
 ああ、大変です。
 目が乾いてしまう。
 日差しがあまりに気持ちよいものだから、ついうっかり甲羅干しを長くしすぎたようです。
 早く水の中へ――
 黄金の丸い瞳が、目の前にありました。
 鋭い嘴がわたくしの前で開かれておりました。
 何が、起こったのでしょう。
 わたくしの視界は、再び暗闇の中に戻ってしまいました。
 炎も、舞い上がる土埃も、何も見えない闇の中に。
 手足からは力が抜けておりました。
 規則的に聞こえていた涼しげなせせらぎに、ぼちゃんという無粋な音が耳元で混じりあいました。
 暗闇の中に紅が広がり、やがて光の輪がわたくしを包み込んでいきました。
 痛くは、ありませんでした。






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 滅びとは、かくも惨いもの。
 何故我らが滅ぼされねばならぬ?
 我らは、ただ異能の力を神より授かっただけ。
 それを良くも悪くも誰かのために使おうとはしなかっただけ。
 憎みますぞ。
 ハイベルクの王よ。
 恨みますぞ。
 一族郎党、子々孫々まで。
 そしていつか、必ずやこの目で我らと同じ破滅の炎を見せて差し上げましょう。


 それにしても、哀れな亀よ。


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飛べない鷹


 生まれたときから、僕には片目がありませんでした。
 狭い巣の中で育った兄弟たちは僕の顔にできた洞を見る度、気味悪そうに顔をしかめて巣の反対側に身を寄せ合うのでした。
 僕は、悲しかったです。
 僕は、早く死んでしまいたかった。
 何度となく、兄弟たちに巣から落とされました。
 兄弟たちは、僕の目がある方からならいくらでも近づけるのです。恐れることなく全力で翼を僕に叩きつけることができるのです。
 何度も巣から落ちていると、やがて地面に叩きつけられる前に身を硬くして丸めるのにも慣れてきて、大して怪我をすることもなくなりました。一度落っこちた時、巣の下を通りかかった狐が僕に気づいて僕を食べようと大口を開けましたが、ものすごく臭い息に僕が失神している間に、母が僕を助けてくれたようでした。
 母は、僕に対しても変わらぬ愛情を持ってくれているようでした。いつも餌を食べ損ねる僕に、夜兄弟たちが寝静まった頃を見計らって特別に巣の底に隠しておいた餌をくれるのです。そのおかげで、僕は兄弟たちにも遜色ないくらい大きくなることが出来ました。
 ただ、困ったことに、僕は片目がないためにうまく飛ぶことが出来ないのです。空を飛ぶためには、左右の視界が平行に保たれていることを感じていなければなりません。片目だけでは、今自分がひっくり返っているのか、ちゃんと目的地に向かって飛んでいるのか、分からなくなってしまうのです。一度巣から飛び降りた時など、僕は一生懸命太陽に腹を見せて羽ばたきを繰り返し、次第に落下しながら巣の真下をぐるぐると旋回していたことがあります。その間抜けな様は、どんなに僕の方が身体が大きかろうと兄弟たちの笑い種になってしまい、ことあるごとにからかわれるネタにされてしまったのでした。
 それ以来、僕は飛ぼうと思ったことはありませんでした。
 そりゃあ、母も父も新たな卵を巣に生みたそうにしていますが、僕はもうここから出られなくなってしまったのです。
 日がな一日、大きな図体で巣に居座り、緑の木立の間から見える青空をぼんやり見つめている僕に両親も痺れが切れたようでした。
 ある日、父が青い眼球を持って巣に戻ってきたのです。
 それはまだ赤い血がついており、舐めると亀の味がしましたが、父は食べようとした僕をきつく戒めました。
 母は丁寧に舐めて青い眼球の汚れを落とすと、そっと嘴で咥え、僕の目の空洞にそれを押し込みました。
 それは、出来た洞に対してかなり大きかったのですが、不思議なことに痛みなくするりとはまり込み、一瞬にして、僕は右側も見えるようになったのです。
 あまりの嬉しさに、僕は巣から飛び降りました。
 翼を広げ、木立をかすめながら羽ばたきあがり、青い空へと突き抜けることが出来ました。
 僕は飛べるようになったのです。
 大空は本当に広かった。この上なく自由だけが広がっていた。
 嬉しくて嬉しくて、僕は初めて生きていてよかったと感じていました。
 大空も、大草原も、すべて僕のものでした。
 僕の眼下を吹き渡る風も、白い雲も、眩しい太陽も。たとえ翼は届かなくても、僕の視界にあるもの全てが僕のものでした。
 油断していなかったといったら嘘になります。
 そうです。僕には警戒心というものがなぜか著しく欠けているようでした。一度空に身を投げると、もう空しか見えなくなってしまうのです。風しか感じられなくなってしまうのです。
 僕が再び飛べなくなったのも、大空を自由に飛翔している最中のことでした。
 普通でしたら、ここで僕の話は終わりになります。
 何せ、もう自分では翼一つ、嘴一つ動かせなくなってしまったんですから、僕の快適な鷹生は閉じてしまったことになります。
 ですが、何の悪戯でしょう。
 僕の右目はまだ見えるのです。
 そうです。生来僕の目だった左側は完全に見えなくなってしまいましたが、青い目をはめ込んだ右側は、依然として見えているのです。
 僕にとって、これほど拷問に等しく苦痛なことはありませんでした。
 つい数時間前まで僕は自由に大空を飛びまわっていたのです。それが叶わなくなったなら、さっさと僕は死んでしまいたかった。なのに僕は自分では何も出来ない自分の身体という置物の中に閉じ込められてしまったのです。
 何かが自分に近づいてきて害を加えようとしても、いまの僕は逃げることが出来ません。窓の向こうに見える景色に興味をそそられるものが加わったとしても、僕はそれを近くで確かめることは出来ません。
 僕を弓矢で撃ち落し、特別な液体につけて腐らないようにして加工した人間達は、僕がまだ意識を保っていることになど気づいていないようでした。
 こうして意識を失うことさえ許されずに、強制的に右目に映るものを見せられる新しい生活が始まったのです。
 僕が置かれた家は大層裕福な家のようでした。裕福というだけではなく、相応な権力も有しているようでした。僕の置かれた白い大理石の広間には、昼には陳情の民が、夜にはきらびやかに着飾った貴族達が集い華やかな音楽に合わせて円舞を繰り広げます。僕も、もし動ければ手をとりたいと思うご婦人も何人かいらっしゃいました。
 それはさておき、数え切れないほどの人間達を見るうちに、昔、父が持ってきてくれ、母が僕の眼窩にはめ込んだこの青い目が、どうやら人間のものであるらしいと、ようやく僕は気づいたのです。
 しかし、僕が一なめした時のあの血のコクは、確かに亀のものだったと思うのですが。そもそも弓矢を番えて空に放つ人間達の目を取ってこれるほど、父は勇敢だったのだろうかと僕は心の中で首をひねるばかりです。
 いずれにしろ、この青い目はまばたきなどしなくても白く濁ることなく日がな一日だだっ広い広間を映していました。
 変わり映えしない毎日が続くように思えた頃でした。広間の中央に設えられた玉座に座る人間が腹回りの太い男から、いままでこの広間に招かれたどの貴婦人よりも美しい女性に代わりました。
 ハイベルク王国に女王が誕生したのです。
 僕は前王の葬儀もこの目でしかと見、新たな女王が誕生する様もこの目に焼きつけるようにして見ました。
 思えば、何をそれほど熱心に見る必要があったのかと思うほど、瞼を閉じればその様がありありと巻き戻せるくらい、僕は王の首がすげ変わる様を見つめていました。
 女王は、膝下まで長く黒髪をたらし、細い身体の線を暴き立てるようなドレスに身を包み、高いヒールを履いた足を組んでいつも玉座に座っていました。そして、人気のない夜中には決まって僕の瞳に触れに来ました。
「美しい目じゃのう。青く透き通っていて、私の功罪どころか未来すら見晴るかしているような目じゃ。のう、鷹よ。お前が口を利けたなら、私はお前にこの国の未来を問うことが出来るのにのう」
 女王は昼間みせる表情とは異なり、俯きがちに僕の頭を撫で、頬を撫で、瞳の下を親指で撫でるのです。十字架に懺悔するかのように。
 ハイベルク王国は、クレミア大陸の中央よりやや右寄りにありながら、大陸で最も広大な版図を誇る国でした。つい数十年前まで小国を併呑するために積極的に派兵していましたが、今は呑みこめる小国も近隣になくなり、他二つの大国と三竦みの状態を維持する一見平和な国となっております。しかしながら、併呑した小国の王たちを先頭に各地で暴動が起きることも少なくありません。その鎮圧のために女王は会議室では策を練り、暴動が起きぬようにこの広間では数多の人々と謁見して陳情に耳を傾けているのです。その働きぶりは、前王に比べるべくもありませんでした。
 一体、何をそんなに熱心に執務に励んでいるのか。
 問いたくても僕には言葉はありません。可能なのは、ただこの目で広間の見える範囲を見つめ、女王の独り言に耳を傾けることだけです。
「鷹よ。お前は生きている時は大空からこのハイベルクを睥睨していたのじゃろう? お前の見たハイベルクはどんな国だった? 私は……情けないことにどんな国か知らぬのだ。生まれてこの方この城から出たことがない。出たとしても、隣国に王位継承の挨拶のために赴いた時くらいだ。道々に見る民は皆嬉しそうに私に手を振ってくれたが……のう、鷹よ。お前は知っているのじゃろう? 彼らはどんな暮らしをしている? 私の国政は彼らの望みに応えるものとなっているだろうか?」
 僕はひたすら瞬くことの出来ない瞳で彼女を見つめました。
 女王の政策は、残念ながらまだ貴女の気にかけている人々を富ませるには至っておりません。しかし、少しの積み重ねがいつか大きな流れを作り出し、それは一気に国中に広がることでしょう。貴女の目指すところは間違えてはおりません。貴女がその気持ちさえ忘れなければ、いつか念願叶う時が訪れることでしょう。
 僕は、ただの鷹でした。ただ大空を飛び、風と戯れ、野ウサギを啄ばむことしかしないただの鳥でした。
 ですが、飛べなくなってからの時間のほうが、そろそろ長くなってきてしまったのかもしれません。ここで見る日々の移ろいは、師などいなくとも僕に人間の世界というものを教えてくれました。たとえここに来る人々が上流階級の人だけだったとしても、彼らの中には貧しいものの窮状を訴える者もいます。その話を聞きながら、僕は大空から見た大きな石造りの城と、大草原に点在する小さな藁葺き民家の集落とを思い出すのです。
 女王は、まこと麗しい方でした。
 こうして触れられる夜が来るのが待ち遠しくなるくらい、僕はこの方を愛していました。
 そんなある日のことです。
 広間を掃除する下女が一人、入れ替わったのでした。
 下女は、少女と老女を合わせたような顔立ちをしていました。目から口までの離れ具合は確かに少女ながら、肌は黒ずんで皺が目立ち、髪は白くぼさぼさで、三つ編みにして両肩にたらしても鋼のような白髪がはね飛び出しています。口元に笑みを浮かべることはなく、目ばかりが何かを捜し求めてらんらんと不気味な光を発しています。
 その下女は掃除を始めて早々、はたきを持って僕に近づいてきました。
「人間の目を持つ鷹がいるっていうから来てみれば、どうやら噂は本当だったみたいだね」
 ずかずかと覗き込んでくる女に恥じらいやためらいの類は一切ありません。眉間の辺りになにやら醜いものを感じて、僕は一生懸命下女から意識をそらせようと努力しましたが、目を閉じることが出来ない以上、目の前に居座られれば僕は下女とにらめっこするしかありません。
「あんた、その目はどうしたの?」
 下女は、しきりにはたきで飛翔の体勢をとる僕の両翼を適当に叩きながら、ぐいと僕の右目に顔を近づけてきました。
 父が拾ってきて母がはめ込んでくれたのです。
 さっさと追い払いたくてそう答えようにも、僕は嘴を動かすことが出来ません。
「あんた、右目だけ人様の目だなんて、まさか生まれつきってわけでもないんでしょう?」
 とげとげしい視線を僕に突き刺しながら、下女はぞんざいにはたきを振り回します。
「狩で落とされる前から、あんた国中で有名になってたもんねぇ。人間の目を持つ鷹ってさ。あたしはさぁ、もうそれを聞いたらいてもたってもいられなくなってさぁ、この城に入り込めるように人に頼んで仕事をもらってさぁ。ねぇ、この形でしょう? もう誰ももらってくれやしないしねぇ。最も、あたしにはちゃんと心を通わせた人もいたんだけどね」
 黒ずんだ爪の先が右目に近づいてきました。
 この女、一体何をするつもりでしょう。まさか、国宝の僕から右目をくりぬこうとでもいうのでしょうか。
 たとえもう死んでいても、こうして凶器が目前に近づいてくると、自ら逃れられない以上恐怖は倍加していきます。手足をばたつかせることも鳴き声を上げることも出来ないこの状態は、女王を抱きしめて差し上げられない時よりも不本意です。
「アリシア! 何をしているの、アリシア!!」
 そんな僕の危機を察してくれたのでしょうか。それとも、ただならぬ下女の気配に気づいたのでしょうか。下女頭の初老の女がすっ飛んでやってきました。
 下女はちっと舌打ちをして僕から手は離しましたが、舌なめずりをして僕の右目をじっと睨みつけるように見つめました。
「ローデ。わたし、ようやくあなたの目を見つけたわ。きっとこの鷹があなたから大切な目を奪い取ったのね。待っていて。必ずこの目を持ってあなたのところに帰るから」
 その夜、女王が僕をおとなう前に昼間の下女が見るも怖ろしい形相を蝋燭の炎の前にちらつかせながら僕の前に現れました。
「泥棒鷹、ローデの目は返してもらうわよ」
 下女のうすら汚い指は真っ直ぐに僕の目玉と眼窩の間に差し入れられました。
 広間の中、唯一明るい蝋燭の炎が上下に激しく揺れています。
 痛みがないのが唯一の救いですが、この視界が途切れたとき、一方的に未来への時間を断たれるのかと思うと、僕はそれはそれで怖ろしくてたまりませんでした。
 抵抗するに出来なくて、視界が白く霞みかけた時でした。
「そこの者、何をしておる!?」
 新たな灯と共に、女王の凛とした声が響き渡りました。
 下女は怯むことなくにやりと笑い、指に力を込めました。
「やめよ! その鷹は国宝なるぞ! 傷つけてただで済むと思うてか!」
 またしても、済んでのところで僕の視界は維持されました。
 女王は自ら暴れる下女の両腕を後ろ手に固め、大きな声で衛兵を呼びつけました。
「その方、この鷹に何をしようとしていた?」
 衛兵が下女を捕らえるまでの僅かな間でしたが、女王は静かに下女に尋ねました。
「目を……! 目を返して! それはローデの目よ! ローデの目をわたしに返してちょうだい!!」
 下女は半狂乱に身悶えしながら叫びましたが、女王は氷のように冷たい表情で捕らえた下女を見つめていました。
「女王様!」
 駆けつけた衛兵達はすぐに下女を縛り上げ、女王の足元に跪かせました。
「処罰はいかように?」
「この場で処刑いたしましょうか?」
 命令を求める衛兵達に、女王は僕に背を向けたまま冷たく言い放ちました。
「その者の両目を刳り貫き、城外に捨て置け」
 僕の右目を奪おうとした下女は、僕と女王の目の前で両目を刳り貫かれ、連れ出されていきました。
 僕は両眼が落ち窪んだ下女を見て、幼い頃何故あんなにも兄弟たちが僕を気味悪がったのか分かったような気がしました。






********


 残虐よのう。
 ハイベルクの王は、代を重ねても容赦がない。
 民草のための政をしこうとしても、結局はあの女も何も見えてはいないのだ。今、己が視力を奪った下女もまた、己の愛すべき民草の一人だったということに、何故気づかぬのだろうなぁ。
 たかが死んだ鷹の片目を奪おうとしただけで、なぜ生きてる者の両目を刳り貫かねばならぬのだろうのう。
 さて、ハイベルクの若き女王よ。
 汝、鷹の目より見えるハイベルクの未来を知りたがっておったのう。
 教えてやろう。
 間もなく、この国は灰になる。
 お前はこの国最後の王になるのだよ。
 さあ、その目をしかと開けて見届けるがよい。
 知らず踏みつけてきた民草達の慟哭がぶつけられる瞬間を。
 炎の中に崩れゆく汝が城の姿を。


********








滅びの日


 アリシアは大地を這うようにして前へ進んでいた。
 両目を奪われた彼女にとって、もはや己の歩く姿が他人からどう見られようと構いはしなかった。耳と鼻と手を頼りに、四つんばいになって草の生えていない道を進んでいく。
 本当なら、この手に一夜にして失われていたローデの目を持ってこの道を歩んでいるはずだった。しかし、何も見えないまま城に引き返したところで、ただむざむざ命をとられに行くだけだ。それくらいなら、ローデの側で生涯を閉じたかった。
 いつの間に運命はこんなにひどい方へと転がってしまったのだろう。
 ローデのことは、目が見えるようになる前からずっと大好きだった。牧童と領主の娘という身分差はあれど、アリシアにとってそれはローデに視力があるか否かと同じくらい気にならないことだった。何を投げ出してもローデの側にいたい。いつでも優しく包み込むように微笑みかけてくれる兄のようなローデの側に、死ぬまで一緒にいられたら何も望むことはない。そう思っていた。
 ローデが長い黒髪の女となにやらやり取りしている背中を見たとき、いやな予感が全身を貫いていた。しかし、それはすぐに外れたのだと思った。ローデは視力を得、その夜、自分を妻にしてくれたのだから。
 一体、眠っている間に何が起きたというのだろう。
 朝目覚めた時、アリシアは真紅の海の中にいた。身体中が血に濡れて冷たくなっていた。傍らには、氷のように冷え切ったローデの身体。しかも、視力を得た左目は見開いたまま空洞になっていた。
 人殺しと後ろ指を差され、たった一人の肉親である父にさえも見捨てられたアリシアは、身一つで村を追い出される羽目になった。
 ハイベルク城に人間の目を持つ鷹の剥製が飾られていると聞いてからは、なぜかその人間の目がローデの目だと確信し、城に上がるために様々な人脈を開拓した。ローデが埋葬された場所を聞き出せたのは、それから二年が過ぎたつい先日のことだ。そしてそれより後、とんとん拍子とはこのことをいうのかというほど順調に城の下女の話が舞い込み、洗濯係を経て広間の掃除係になり、人間の目を持つ鷹に手が届く場所まで行ったのだ。
 なのに、ローデの目は手中に握っておきながら、あと少しのところで手に入らなくなってしまった。おまけに視力まで失って、生来盲目ではないアリシアにとってはこの状況はもう手足をもがれたにも等しかった。
 四足で這ってはいても、向かう先が正しいのか確信が持てない。今が昼なのか、夜なのかも分からない。人々の喧騒を聞いて時を図ってはいたが、やがて街中を抜けてしまったのか馬車の轍が残る荒れた道が続くようになると、耳からの情報だけでは時を探ることも出来なくなってしまった。何より、満足に食べることが出来なくなってしまったのだ。
 道端に生えている草を手当たりしだい口に入れては腹を壊し、ついた手が水溜りに沈めば泥水を啜る。一体、そんなにしてまで自分はどこへ向かっているのだろうと、やがてアリシアは訝しみはじめていた。
 往来で行き違う人々は、アリシアのことは気狂いかと思うのか手を差し伸べるどころか声をかけることもしない。視界から抹消して足音を低くして通り過ぎていく。
 わたしは、ただローデを取り戻したかっただけなのに。
 悔し涙を堪えて進みつづけること、二晩あまりが過ぎただろうか。
「止まりなさい。お前の辿りつきたかった場所が過ぎてしまいますよ」
 アリシアの耳に、優しげな女性の声が響いてきた。
 アリシアはのろのろと手足を止め、声の主を探すように顔を上げた。
「怖れないでください」
 声の主が自分の前にしゃがみこんだらしい。声が正面から聞こえてきた。
「私はルーシュ。旅の呪い師です。あなた、目を怪我していますね」
 そっと、頭ごと目に巻かれた包帯をとろうとした手を、アリシアは反射的に叩き落としていた。
「見ないで! 見ても何もないわよ。わたしの目はこの国の女王に刳り貫かれてしまったんだから」
「まぁ、それは可哀相に。ああ、それならあなた、私の目を差し上げましょう。大丈夫。怖れなくてもいいわ。あなたの恋人も私から目をもらったのだから」
 あっけにとられるアリシアの包帯を、声の主は容易く解き、両眼洞となった顔を見ても悲鳴一つ上げずにアリシアの頭を優しく一撫でした。
「さぞや怖ろしい目に遭ったことでしょう。でも、大丈夫ですよ。私の目があれば、あなたはまた光を見ることが出来るようになります」
 優しく話しかける女に、しかしアリシアは強く首を横に振って見せた。
「いいえ。わたしはもうよいのです。ローデはもう死んでしまいました。ローデの目を取り戻すことにも失敗してしまいました。たとえ物が見えるようになったとしても、ローデの微笑む姿は二度と見ることが出来ません」
「よいのですか? 本当に、ローデが最後に光を見た目を取り返さなくてもいいのですか? あの鷹に埋まっている右目は、確かにローデのものだったでしょう? ローデは今もこの土の下で片目を刳り貫かれたまま眠っているのですよ。これでは天国でも何も見えないままなのではありませんか? ローデはきっと望んでいるはずですよ。今度はあなたの目となって、この世界が見たい、と」
 滔々と淀みなく言葉を紡ぐ女の声に、いつの間にかアリシアは聞き惚れていた。
 そう言われてみれば、確かにそんなような気もしてくる。ローデが見られなかった分まで、自分がこの世界のものを見なければいけないような気が。
「それに、愛しいあなたをこんな目に遭わせたあの女王を、ローデならきっと許さなかったでしょうね」
 女はぼんやりとしたアリシアを胸に軽く抱き寄せ、それから残った自分の目をアリシアの右目に嵌めこんだ。
 きんっと頭の髄に痺れが走ったかと思った瞬間、アリシアの目は女王と瓜二つの盲目の女を間近に見ていた。
「女、女王!?」
 後退るアリシアに、女は穏やかに瞼を閉じたまま首を振った。
「いいえ。私はこの国の女王ではありません。ただの、旅の呪い師です」
 そう答えた瞬間、女はアリシアの目の前からいなくなった。
 風が吹いたわけでもないのに、霧のようにその姿は立ち消えてしまったのだ。
 アリシアは、視力を取り戻した右目を軽く擦った。
 やはり、目の前には誰もいない。左右に首をひねっても誰もいない。野兎一羽跳ねてやしない。月光の下、ただ静かに道を撫でる風が土埃と小さな枯葉を転がしていくだけ。
「夜か。どうりで静かなわけね」
 一人ごちて、アリシアは目の前に立つ白木の十字架に気がついた。
「ローデ……?」
 見えないなりに道を進んできたつもりだったが、望みどおりローデの墓の前に辿りつくことが出来ていたとは。このときばかりはアリシアは神の存在を信じずにはいられないと、敬虔に墓の前で十字を切った。
 十字架の前の墓碑にはローデンハイツ・カロイナの名が刻まれている。生まれた年も、死んだ三年前の年号もローデと同じもの。
「ローデ」
 アリシアは片目だけに映る白十字に駆け寄り、故人を抱きしめるように力を込めて抱きしめた。
 三年というもの風にさらされ続けた白木は、いかに塗装が施されていようと毛羽立ち朽ちかけはじめていた。その年月さえも愛しいと、アリシアは十字架に口づける。
「ローデ。わたし、ハイベルクの城であなたの目を見つけたわ。あなたも目が見えないままなんていやでしょう? 天国の美しさを目に出来ないなんてって、さぞや三年、嘆き続けたことでしょう。ひと時、あなたは確かに青い空を見た。緑の大地を見た。わたしの唇を赤いと言った。得たものを失う苦しみは、わたしもさっきまでいやになるくらい味わったわ。わたし、あなたの瞳が何色でもいいの。あなたがもう一度、天国でわたしを見ることが出来るなら」
 アリシアはもう一度朽ちた十字架に口づけると、視力ある右目を見開き、つい今し方まで自分が辿ってきた道を戻りはじめた。
 片目だけで歩くのは、両目が見えない状態で歩くよりもなかなか難しい。右は見えても左は完全に見えないのだ。真っ直ぐ歩いているつもりでも距離感がつかめなくてなぜか足がもつれる。次第に顔はやや左側を向くようになり、首と肩が凝るようになっていた。時折首を回して一休みしても、水も食糧も、硬貨すら持っていないアリシアは、満足に疲労を癒すことも出来ず、ただ真っ直ぐ前を睨みすえてまた歩き出すのだった。
 その歩く途上、あとは街まで下るだけという高台の頂で寝静まった街を取り囲む城壁の向こうに、一度は期待に胸膨らませて眺めたハイベルク城が見たときだった。
 静寂を憎まんばかりの鬨の声と爆音が轟いた。
 赤々と燃え上がる炎は城壁に設えられた堅固な城門の各所から間欠泉のように噴き上げ、周囲に昼間のような明るさを広げていく。
 夜闇と噴き上げる炎がせめぎあう中、一気に街は目覚めた。
 燃え上がる城門を太い木の幹をぶつけてこじ開けようとする人々、城壁の中で逃げ惑う商人や上流階級の人間達。
「行ける……」
 知らず、アリシアの口元には勝利の笑みが浮かんでいた。
 ハイベルクの重税は大陸でも有名。さらに、小国が併呑されて大きくなってきたため、地方に行くほど中央への忠誠は低くなり、監視も緩くなる傾向がある。不本意ながらも一国の王から領主に身を落とされた者たちの積年の恨みは計り知れず、身分を越えて、もしくは領主達が領民達の重税に喘ぐ苦しみを煽動して中央に反旗を翻そうとした例はこれまでにも何回もある。しかしながら、王城が聳える城下町にまで火が放たれたのははじめてであった。
 アリシアは歴史が自分に味方していると思った。
 ローデでも神でもいい。この世の理を越えたものが、自分にローデの目を取り戻せと言っているように思えた。
 アリシアは坂を駆け下りた。街を守る衛兵とどこの領地の民かは知らないが砲火の押収が繰り広げられる戦場の横をすり抜け、暴徒と化した人々の中に拾った棒切れ一本を持って混ざりこみ、進撃の波に乗って城門を目指す。爆発で飛んできた角材の破片がばらばらと身体中に突き刺さったが、痛みは一つも感じなかった。高揚する気持ちに流されるがまま、棒切れを振り回し、途中で死んだ兵士の手から剣を盗んで生まれて初めて生きている者を切り殺した。それはハイベルクを守ろうとする正義感の強い若者であったかもしれないし、アリシアと同じく城を目指す民衆の誰かだったかもしれない。しかし、アリシアに見えていたのは血の惨劇ではなく、ハイベルク城の大広間に飾られた飛翔する鷹の青い右目だけだった。
 アリシアの前で、あれほど中に入るのに苦労した王城の門はいとも簡単に口を破られ、松明と武器を持った人々が次々になだれ込んでいった。アリシアは注意深く中の音を聞き分け、十分に中がかき回された頃を見計らって城門へ転がり込んだ。あとは見慣れた庭を覚えている通りに裏に回り、昨日まで共に寝起きしていた逃げ惑う使用人たちとすれ違いながら大広間へと急いだ。
 誰にも呼び止められず、致命傷になるような傷を負わなかったのは奇跡と言ってもよいだろう。その奇跡に見放されることなく、アリシアはついに先方両目を刳り貫かれて追い出された場所へとたどり着いた。
 まだ暴徒が踏み入れていない大広間は、怖ろしいほどに静かだった。玉座にはあの女王が客を迎え入れる時と変わらず泰然と足を組んで広間を睥睨する。違うのはその前にも周囲にも人一人いないことだけだった。
「女王……?」
 アリシアは、血まみれの剣の切っ先を床について寄りかかりながら全身でめいっぱい息を吸い込んだ。その呼吸音さえ不気味に天上高く響いていく。使ったことのない剣など振るったものだから、腕と腰が石をつけられたように重い。それでもある程度呼吸の間隔が戻ってくると、剣を杖に柱の影を縫うように目標の鷹の剥製がある場所へ向かった。逸る気持ちを抑えるつもりもなかったが、ローデの墓からここまで一夜と立たずに勢い任せに歩いてきたのだ。すでに少女の体力には限界が来ていた。それでも目の前にローデの目があると思うと疲労も怪我の痛みもアリシアにはないも同じだった。ただ思うがままにならなくなってきた身体が疎ましくてならない。
 身体を引きずって、ようやく鷹の剥製に手が届きかけた時だった。
「掃除はいらぬぞ」
 それまでアリシアの姿が視界に入っても声も上げなかった女王が静かに口を開いたのだった。
 静かながらもその声は凛とした王の威厳に満ちていたが、わずかばかりの自嘲も込められているようにアリシアには聞こえた。
 玉座に深く腰を下ろし、肘置きに頬杖をついた女王は、咎めるでもなくアリシアを眺めている。
「お前、昼間の下女であろう? 何故そこにいる?」
 運命の悪戯さえも楽しんでいるような女王の表情に、アリシアは一瞬気圧された。
「その様子じゃ目が見えているようじゃの。一体どんな魔法を使った?」
 玉座の下まで届く長い黒髪。眠っていないせいでらんらんと異様な輝きを放つ青い双眸。どこか魔女のような神秘的な雰囲気を放つその顔は、昼間自分に目をくれた女性に瓜二つであった。
 旅の呪い師だと言ったあの女性は女王ではないと言っていたが、あまりにもその容姿は似すぎている。
 女王に、まだ青い瞳が両方揃っていること意外は。
「目には目を。歯に歯を。お前は我が国の至宝の目を盗もうとした。捕らえられてしまったなら、目を奪われても仕方あるまい」
 女王は独り言とも取れる言葉をアリシアへと向けて放り投げた。もしかしたら、目の前に現れたアリシアを幽霊だとでも思っているのかもしれない。
 アリシアの心には、女王と瓜二つの女が付け加えていった言葉が蘇る。
『愛しいあなたをこんな目に遭わせたあの女王を、ローデならきっと許さなかったでしょうね』
 今女王の周りには衛兵一人侍ってはいない。おそらく、この大広間には自分と女王以外一人もいないのだろう。何故女王が一人、逃げもせず守られもせずここにいるのかは分からない。しかし、これはまたとない機会だ。
 憎しみを掻き立てるために、わざわざアリシアは呪い師の女の言葉を反唱した。が、心には何も起こらなかった。どんなにきつく剣を握り締めても、腕は持ち上がらなかった。
「ローデなら、許さなかったかもしれない……でも、わたしはローデじゃない」
 ローデが望んだかもしれないことよりも、今自分自身が望んでいることをするのが先。
 アリシアは心を決めて、再び鷹の右目に手を伸ばした。
「どうせなら、その鷹も持って行ってくれぬか」
 アリシアの指先が鷹に触れたところで、女王はさしたる熱心さもなく言った。
 アリシアは、初めて女王に身体を向けて正面からその表情を凝視した。
「私が持って行けと言っているのだ。盗みにはならぬ。今度は堂々とお前のものにするがいい」
「……どうして?」
 先を諦観した女王の表情を読み取れないほど、アリシアは愚かではなかった。しかし、聞いておく必要があると思ったのだ。彼女の本心を。
「どうせ持っていかれるのなら、一番欲しがっていた者にやるのが一番であろう? それともお前、やると言われればいらないとでも言うつもりか?」
「それは、答えになってない」
 からかわれたアリシアは、憮然と女王に言い返した。
 女王の表情は相変わらずどこか自嘲めいていて、人をくったような笑みを浮かべていた。
「お前は私に何を言わせたいのだ? 私はハイベルクの女王だぞ。国が滅びるは、私の命が費えた時。私は未来を予言することも、訪れた結果を認識することも許されぬ」
 間もなく滅びるからだなどとは、女王であるからには口には出来ないのだ。滅びた後に生きながらえることも許されない。
 子も兄弟もいない女王の周りには、何代か前の親類と前王に忠誠を誓っていたはずの宰相と将軍しかいなかった。宰相と将軍はことあるごとに女王の意見を撥ね退け、軽んじていたことは、城中では専らの噂であった。敵ばかりに囲まれた女王を助けるものは本当に誰もいなかったのか。
「兵士達はどうしたの? あなたは女王でしょう? どうして誰もあなたを守らないの? どうして誰も国を守ろうとしないの?」
 息吸う暇さえ惜しいと思っていたはずなのに、アリシアは思わず女王に真っ直ぐ対峙して尋ねていた。
「お前、外から来たのだろう? 兵士達は外を守っておっただろう?」
「守っていたわ。だけど、どうしてあなたを守る人が一人もいないの?」
 神経が昂るままに発されたアリシアの声は怒気がこもり、裏返っていた。
 女王は目を見開き、うっすらと口元に笑みを浮かべた。
「私が命じたのだよ。国は守らなくていい。お前達の大事なものを死守せよ、と」
 嘘だ、とアリシアは思った。よもや、そのようなことを言う女王を一人残して外へなど行けるわけもない。何かがおかしい。何かが。だけど、女王が嘘を言っているようにも見えない。
「お前も、早くお前の大事なものを持ってお逃げ」
 さっさと手を前後に振って、女王は物思いに沈むように軽く目を閉じてしまった。
 アリシアはむっとして唇を引き結ぶと、くるりと後ろを向いて鷹の剥製と向き合った。
 鷹の右目にはローデの目。
 これは渡せない。
 アリシアは鷹の剥製から右目を刳り取り、己の左目に嵌め込んだ。目を閉じた瞬間に脳髄まで駆け巡った刺激は、右目を嵌め込まれる時以上のものだった。目の前で激しく黄金色の閃光が弾けては消え、弾けては消え、やがて結びついて白い一本の線にまとまったところで、アリシアはそっと両目を開いた。
 同時に、壁一枚向こうで耳を劈くような爆音が鳴り響いた。
 ぱらぱらと天井から破片が落ちて、広間全体が軋みをあげながら崩れだす。左側の入り口からは、赤い炎の舌が滑り込んできたところだった。
 アリシアは、右目が空洞になった鷹の剥製を台から無造作に取り上げると、赤いカーペットの上を真っ直ぐ走って女王の前にそれを差し出した。
「恭しさの欠片もない奴だな」
 女王は苦笑しながらも玉座から降り、アリシアの手にある鷹の頭をそっと一撫でした。
「お前、名前は?」
「アリシア」
「アリシア。私は己のしたことの報いを受けなければならない。私は己のしたことを悔いてはいないが、しかし、いつか理解してもらえるものだと思っていたのは、やはり甘かったのだろうな。この鷹は私が二番目に大切に思ってきたもの。生前さぞかし多くの物事を見てきただろう、私の憧れの生き物。アリシア、お前にこの鷹を託したい。死ぬまで持っていろとは言わない。どこか安全で、この国がよく見える場所において置いてくれないだろうか。私の代わりにこの鷹がこの国の行く末を見守ってくれるよう」
 両目を見開いて、アリシアは至近距離から女王を見つめた。
 女王もまた、強すぎるほど真っ直ぐなアリシアの視線を正面から受け止めた。
「分かった」
 数瞬の後アリシアは頷き、しっかりと鷹を胸に抱きしめてここに入ってきたのと同じ扉へ向かって走り出した。
 それを妨げるように、再び爆音が鳴り響き、玉座の正面入り口から炎と扉の破片が吐き出された。
 驚いたアリシアは思わず足を止め、女王を振り返る。
「行け、アリシア!」
 炎の中、女王は前を見据えたまま叫んだ。
 正面入り口からは怒号と共に兵士達がなだれ込んでくる。
「馬鹿め。間もなくこの城も崩れるだろうに、お前達もここを己の墓場に選ぶのか」
 動じることなく軽く女王は毒づいた。
「墓? とんでもない。ここは新たな国の礎となるのです。クレミア共和国の礎に」
 怒号の中に、ひときわ滑らかな壮年の男の声が混ざった。
 アリシアは背後から誰も来ないのを確かめて、転がり込んだの扉の影からそっと炎の海と化した大広間を覗き込んだ。
 クレミア共和国。そう語った壮年の男はこの国の将軍だった。
「共和国に、父親殺しの女王など必要ありません。死んでいただきましょう。このクレミア王国と共に」
 冷たい響きのこもった声で最後の審判を下すが如く告げたのは、この戦場には相応しくない青白い繊弱そうな男――この国の宰相だった。
 女王に向けられた無数の剣の切っ先が、渦巻く炎の灯に照らし出されてゆらゆらと不気味な光を放つ。その剣の握り手の中には、もとは小国の領主であったアリシアの兄の顔も混じっていた。
 今更息を呑むつもりもない。助ける義理もない。兄は、ローデに恋するアリシアを人前でも堂々と蔑み、ローデが死んだ後は実妹にもかかわらず牧童殺しの犯人として騒ぎ立て、無実と父である領主に認められた後も辛く当たり故郷を追い出したのだ。
 人を身分で差別することを恥じない小さな男が、共和国の建立者に名を連ねようとしている。
「そんなこと、許さない……」
 ふつりと湧き上がった怒りは一点、胸の中央に凝縮し、次の瞬間両眼を熱く焼き焦がした。
 刹那、炎に包まれる女王の前には氷の壁が築かれていた。
 女王に剣を向ける男達が、一列に並んだまま透明な氷柱の中に閉じ込められていたのだ。
 驚いたのは一歩前にいた将軍と宰相。
 何者の仕業かと、辺りを見回すがアリシアの姿は見つけられない。
「氷の影に脅えるものは、いつか滅びの道を辿らん。滅びたものは氷となりて、己を滅ぼしたものを炎で焦がさん」
 静かに微笑を浮かべて女王は口ずさんだ。
「よく、覚えておくがいい。魔女の末裔は言葉を違えん」
 意識を取り戻したアリシアの両目は、将軍の大剣に斬り倒されて渦巻く炎の中へと沈んでいく女王の姿をしっかりと焼きつけていた。






********


 私が燃えていく。
 憎しみの炎に焼き焦がされていく。
 そう。
 これこそまさに、私が見たかったもの。
 私の永なる渇きを癒すもの。
 ようやくこれで、私の氷も融かされる。


********








   空も大地も赤く燃え盛っていた頃、アリシアは再びローデの墓の前に跪いていた。
 ハイベルクの最後の女王に託された鷹の剥製は、来るときに城を見下ろしたあの高台の木の下に置いて来た。あそこならば、崩れゆく城も灰になる街もよく見える。そして運がよければ、いつかは再興された民衆の街が見えるようになるだろう。あの高慢な女王も文句はないはずだ。
「ローデ、あなたに目を返すわね」
 祈りを終えてほっと一息ついたアリシアは、自らの左目を刳り出して白い十字架の前に捧げた。
「一緒に、天国を見ましょう?」
 そう囁いたアリシアの身体は、ゆっくりと十字架の前に倒れていった。










〈了〉






書斎 管理人室  読了






200803270236