とけない雪





「先生、とけない雪なんて、ロマンないよ」
 窓の外、朝からずっと雪がちらちら舞っている。
 部屋の中では、ついさっき先生が落とした穴あけパンチから散らばった小さな欠片がひらひら、ふわふわと漂っていた。
「そんなことないって。この欠片さえあれば、いつだってクリスマス気分が味わえるじゃありませんか」
 ごみを撒き散らした張本人は、よっぽどドジをしたと思われたくなかったのか、胸を張りながらもかなり説得力のないことを言っている。
 仮にも理系の教師が情けない。
「雪はとけるからいいんだよ」
 十二月も半ばになれば、この辺りでも雨は雪にかわり、大地を埋め尽くした色とりどりの落ち葉をさらに白く塗りつぶしていく。あたしが生まれたあの北国なら、きっと今頃歩道にうずたかく雪が積まれていることだろう。
「儚く消えるから、刹那を愛しいと思うんだよ。桜だってそうでしょ? あれが一年中咲いててみなよ。絶対興ざめ。花びらなんて公害問題にまで発展するかも」
 午後四時を過ぎると消されてしまう全館暖房ではとても部屋の温度を維持できなくて、用務員室から引っ張ってきた石油ストーブが部屋の中央で赤々と燃えている。頭の上に乗せられた薬缶は、いかにも冬らしい音を立てて湯気を吐く。
「そうかなぁ。そうだ、上月こうづきは雪の結晶、見たことある? あれを見れば、上月なら絶対とけない雪のほうがいいって言うよ。ええっと、黒い傘はどこやったかな」
 先生は散らかした穴あけパンチの欠片も片付けずに、とけない雪をスラックスのすそにまとわりつかせながらうろうろと黒い傘を捜しはじめる。
 歩き方は割に俊敏なのだ。けっこうきびきび動いているのに、床に積み重ねた教材の入ったダンボール箱の角に足をぶつけるわ、脚立に乗れば足を滑らせるわ、揚句、キャビネットの上から引っ張り出した黒い傘は、広げるなり大量の埃を勢いよく放ったものだからたまらない。一回、二回と数えるのも馬鹿らしくなるくらい連続でくしゃみをしながら、また段ボール箱の角に躓きつまずき、ようやく先生は地学準備室の窓を開け放って大きく息を吸い込んだ。
「これが……三十の大人の男……」
 いち早く窓際に避難していたあたしは、半ば落胆交じりにため息をついた。これじゃ、小学生とあまり変わらない。
「三十、三十言わないでくれる?」
「嫁もいない。彼女もいない。地学部の部員もいない。休日の楽しみはアパートのベランダで野良猫に餌をやること。――はぁ。郷里のお母さんが泣いてるよ、きっと」
「やかましい。少なくとも地学部の部員はいるだろ。ほら、」
 広げて窓から突きだしていた黒い傘を引っ込めて、先生はルーペと一緒にあたしの前にそれを差し出した。
 観察してみろ。
 そう促す目はとても真剣で、先生らしくて、あたしはちょっとの間魅入ってしまった。
 窓の外、すごく遠くで別れの挨拶をしている声が聞こえてきた。
 あたしの頬、赤くなっていないだろうか。
 思わず頬に当てかけた手を、悟られまいと途中で止めて、先生の手からルーペを受け取る。
 一瞬だけだったのに、触れた指先から伝わってきたぬくもりはあっという間に体中を駆け巡って胸の鼓動に拍車をかける。
 ぎこちなくなる。
 きっともう、ぎこちなくなってる。
 普通にしなきゃ。
 この人は先生なんだ。あたしは生徒。
 大体、十三も歳の離れたこの枯れた男に惚れたって、何の徳もないって理性では分かっているのよ。
 分かっているんだけど、ほんとはもう、限界だった。
 ふとした瞬間に見せるしぐさや表情には、この一年、地学部員となってからかなり慣れてきたと思う。せっかく耐性ができたと思ったのに、今度は細長く節くれだった指先も含めて先生の手から目が離せなくなってしまったり、横で何か解説してくれていてもあたしは上の空で、うっかり気を緩めると先生の袖を引いて甘えたい衝動に駆られている。
 ばれてるかな。
 ばれてるかもね。
 十七の小娘の挙動不審なんて、三十の男からすれば一発で見抜けてしまうよね。
「上月?」
 それでも、先生は何も言わない。
 そりゃ、告ってもいないのに何か言ってくる方がおかしいけれど、何かリアクションがあってもいいじゃんと期待しているあたしは、馬鹿以外の何者でもない。
 黒い傘に降り落ちた雪は、あたしが内心悶絶している間に透明な液体になってナイロン布の上を滑り落ちていってしまった。
「あーあ、融けちゃった。室内に入れるとほんと一瞬だな」
 さっきのお返しとばかりに深くため息をつき返すと、先生はもう一度傘を外に差し出そうとした。
「ねぇ、先生。どうせならさ、外に出てみない? 屋上とか。その方がきっとここよりゆっくり見れるよ」
「でも、もう暗いし遅いし寒いし……」
「いいでしょ。このルーペ、豆電球ついてるから暗くても観察できるんだから。それにほら、今日あたりふたご座流星群が極大じゃなかった?」
 雪はまだ降っている。でも、見上げた空にはほとんど雲はなくなっていた。
「雨や雪が降ったあとの空は掃除されてて綺麗なんだよね。だから、ね、行こ、先生。先生が一緒なら屋上出られるんでしょ?」
 渋る先生を焚きつけながら、「屋上なんかに二人きりで行ってどうするんだろう、あたし」と軽く後悔する。本当にやる気なんだろうか、と。
 それでも、あたしはコートを着込み、強引に先生を屋上に連れ出した。
 告白しようとか考えていたわけじゃない。そんな、先生に迷惑のかかること、絶対しない。
 ただ、星を見たかったんだ。
 先生と。
 ふたご座流星群。
 あたしがまだ、ここよりもっと北に住んでいた頃、あたしと弟の願いを叶えてくれた流星群。
 もし、できることなら、あたしは先生の願いごとを叶えるお手伝いをしたかった。
 あたしの願いを叶えるために。










 夕方の五時を過ぎれば、外はもう真っ暗だ。屋上から見える学校周辺の民家は、どれもこれも暖かそうな明かりを灯して帰る人を待っている。きっとあの家の中ではお母さんがシチューを作ったり、芋の子やにんじんの皮をむいていたりするんだろう。
 ちくり、と刺さった冷たい氷のとげは、何も感じなかったことにする。
 今はとりあえず、雪だるま作りに精を出さなくちゃ。
「上月、雪と星を見に来たんじゃなかったのか?」
 寒い中、雪だるま作りを手伝わされる羽目になった先生は、不本意そうに真白い息を大きく吐き出した。
「そうですよ。だから見てるじゃない。大量の雪の塊」
 屋上を行ったりきたりして作った雪だるまの胴体は、ようやく膝くらいの大きさになっていた。
 あれは確か八歳の時だったから、ずいぶんと大きく感じたものだけど、これと同じか少し小さいくらいの大きさだったんじゃないだろうか。そんな大きさの雪だるまでも成功したのだから、おそらく雪だるまの大きさは関係ない。形さえそれっぽければ何とかなるだろう。
 大切なのは、願う心の強さ。
 なんてね。
 あの時は、ほかに何も願いなんかなかった。
 ただ、会いたくて、会いたくて。それしか考えられなかった。
「それにしても、へぇ、上手いもんだな。左右対称にまん丸だ。」
 先生はあたしの作った胴の上に頭をのせて、腕組みしながら感嘆した。
「当たり前でしょ。ちゃんと丸くなるように考えて転がしてたんだから」
 月明かりはない。
 薄雲が取り払われて燦然と煌きはじめた星明りだけが、屋上にできた無軌道な轍を浮き上がらせている。
「さて、先生。それじゃ次に流れ星にお願いでもしてみようか」
 用意しておいた言葉を口にした途端、口元に笑みを浮かべながらもあたしの心は臆病になりはじめていた。
 流れ星にかける願いごと。
 それを口にしたら、あたしは明日からあの居心地のいい地学準備室に行けなくなるだろう。たった一人の部員だったけど、地学部もやめなきゃならなくなるだろう。それどころか、履修している地学も生物に切り替えなきゃならなくなるかもしれない。
「ほら、先生もちゃんと手を組んで。こう。教会でお祈りするときみたいに手を組んで……」
 組んだ手の親指を見て、あ、やっぱり理系なんだ、とこの間流行っていた占いの診断結果と照らし合わせて新しい発見をしている自分が恨めしい。
 こんなときめきという奴も、きっと今限り。
 今晩からは、そんなことを考えることもできなくなる。
「はい、じゃあ、先生はずっと『彼女に』って言ってて下さい。あたしはあたしで違うこと繰り返しますけど、いいですか、やめちゃだめですよ。ちゃんと聞いてますからね」
「待て待て待て待て。『彼女に』ってなんだよ。自分の願いごと決める権利くらい、俺にだってあるだろう?」
「ありません」
 あたしはきっぱりと先生の目を見て言い放った。
「いいから、協力してください」
 気圧された先生は、流れ星に願いをかけるなんて子供の遊びだと思ったのだろう。呆れたように分かった、分かったと頷いた。
「いきますよ、せーの」
 小さいとき何度も試みたけど、これが流れ星が消えないうちに三回願いごとを言い終える一番効果的な方法だった。
「彼女に彼女に彼女に彼女に」
「会いたい会いたい会いたい会いたい」
「……え?」
 四回唱えたところで、あたしの声が耳に入ったのか、不審げに先生はあたしを振り返った。
「あっ、やめちゃだめって言ったじゃないですか。あ、ああー、一つ流れちゃったじゃないですか、お星さま」
 きわめて普通に振舞わなきゃだめだ。
 彼女に会いたい。
 そのことだけを心に描き続けなきゃだめだ。
「上月、彼女って、誰?」
 冷静になろうとあたしは努めているのに、先生はどことなく頬を引きつらせてあたしを見ていた。
 一瞬の沈黙。
 その間に刺すように冷たい夜の空気を吸い込んで、あたしは一言答えを押し出した。
「先生の元カノ」
 周りの空気が凍りついた。
 あたしはそらしたくなる視線を無理やり先生に注ぎ続けた。
 先にそらしたのは先生。
 はい、決定。
 あの話は本当でした。
「な、何馬鹿なこと言ってるんだよ」
 参ったなとばかりに片手で頭を抱えて苦笑しているけど、内心動揺しているのくらいお見通しだ。
「知ってるんだよ。大学出た後別れた彼女、半年後に病気で亡くなったんでしょ?」
 黒目がちな目をいつもは豊かに彩る表情が、根こそぎ剥がれ落ちていた。それでも、すぐに口元には作りなれた先生らしい微笑が浮かぶ。
「あのなぁ、どっから聞いたのか知らないけど、そんな話、本気にするなって」
「聞いちゃったの。佐藤先生の旦那さん、先生の大学の先輩なんでしょ?」
 一ヶ月ほど前、この学校の中じゃ一番若い高来先生と佐藤先生が職員玄関で話しているのを聞いちゃったんだ。高来先生は多分、先生のことが好きだ。ほんとは男性にしか興味がないんじゃない? とか冗談交じりに佐藤先生に探りを入れてたけど、本気だと思ったから、佐藤先生も先生の昔のこと話したんだと思う。
 あたしはおろした両手の拳をきつく握り締めた。
「先生が誰とも付き合わないの、その人のことが忘れられないからでしょ? 永井先生は思い出の世界で生きてるって言ってたよ。だったら、一度会ってすっきりすればいいのよ。先生のことだから中途半端に好きなまま別れたんじゃないの? 先生、大学こっちじゃなかったもんね。遠距離大変だからとか、そんな理由だったんじゃない?」
 一度掛け金をはずしたら、思った以上に怒りにも似た感情が湧き上がってきて止まらなくなっていた。
 先生はあいまいな微笑を苦しげに支えながら、あたしの暴言に耐えている。
 言いたいなら言えばいいのよ。
 流れ星にお願いしたって、そんなこと叶うわけないだろ。もうこんな馬鹿馬鹿しいことはやめて帰ろう、って。
 言いたければ言えばいいのよ。
 むしろ、そう言ってくれた方がよかった。
「上月、あのな、俺はな、例えあいつにもう一度会えたところで、そう簡単にすっきりなんかできないんだよ。伝えられる言葉も何もないしな」
 困ったように告白する先生は、だけど幸せそうにも見えた。
 好きなんだ。
 先生はまだ、その人のことが好きなんだ。
 一体何年たってると思ってるのよ。七年よ? どうしてそんなに長い間、もういない人のこと好きでいられるのよ。
 伝えられる言葉がないっていうのは嘘。一番伝えたい言葉は、きっと生きてる自分が死んだ彼女に言ったところで何の意味もないことだから。それ以外に彼女に伝えたい言葉が見つからないから。
 ほんとは会いたくて仕方ないんだ。会えるものなら会いたいって思ってる。
「先生、とけない雪はそんなにいい?」
 先生の中に昔降った雪は、ずっと先生の胸の中で凝ったまま。あたしの入る隙なんてありやしない。
 その思い出をとかして、どうして新しい未来を見ようとしないの?
 あたしでなくたっていい。
 先生、まだ三十でしょ?
 ああ、悔しい。
 あたしなら絶対先生より早く死んだりしないのに。そんな思い出で、死んだあとも先生を縛りつけたりなんかしないのに。
 死んだ人には勝てないって、よく言ったものだわ。
 ねぇ、出てきなさいよ。
 あたしの前に出てきてみなさい。
 先生の昔の恋人。
 死ぬ前に先生にふられた哀れな恋人。
 言えばよかったのよ。縋りつけば良かったのよ。遠距離だって構わないって。そのとき病気だって分かっていたなら、それを楯にすればよかったのよ。
 生き抜けばよかったのよ。
 わかってる。そんなことできるような人じゃなかったんだって。だから、あなたはいつまでも先生の心の中に根雪のようにとけずに居座ってる。
 とけない雪なんて嫌い。大嫌い。
 だって、どんなに種を蒔いたって、雪からは芽が出ないもの。
 春になっても夏になっても、秋になって落ち葉が赤く染めても、そこに雪がある限り不毛。冬のまま。
 ねぇ、先生。先生も目を開けてよ。
 太陽出てるよ?
 風が吹いてるよ。あったかい草や花の香りをはらんだ風。
「根雪は時がたてば黒くなるけど、先生のは逆だね。どんどん真白く穢れなくなっていく。磨いて、磨いて、そんなに綺麗にしてとっておいたって、もうその人はいないんだよ? ねぇ、先生!!」
 思い出ばかり磨いてないで、ちょっとは空を見上げてよ。周りの風景を眺めてみてよ。
 いつまでも死んだ人のこと思ってたって、前になんか進めないんだ。
 忘れろっていってるんじゃない。
 その固まってしまった思い出をとかして土に返して、新しい雪を感じてみたっていいでしょう?
 何度も何度も、それを繰り返しながら大地は肥沃になっていく。新しい命を育んでいく。
 あたしだって、忘れてなんかいない。
 お母さん。
 小さなときに死んじゃったけど、ちゃんと面影は残ってるよ。雪だるまのお母さん。
 でも、ああやって会えたけど、それは本当に会えたのとは違うんだ。それでも、最期に立ち会えないよりはましだと思って。
 絶対泣かないつもりだったのに、目頭を熱くしたものを見られたくなくて、あたしはしゃがみこんで足元の雪をかき集めていた。
 思い出っていうのは、この小さな雪球のように簡単に掌に納めてしまえるものなのだ。
 きっとあたしは確かなものだけこの手に掴んでいたかった。
 零れ落ちる思い出の欠片になど見向きもせずに、前だけを向いて生きていきたかった。
 だけど。
「上月、俺なんかのことより、上月の願いをかけないか? 来年は受験だし、いつまでも俺のとこに入り浸ってもいられないだろ。ほら、第一志望のとこに受かりますように、とか、テストでいい成績取れますように、とか……もっと前向きな願い、あるだろう?」
 何とかこの場を凌ごうとしているのが、痛いほど伝わってきた。
 先生をプライベートなことで追いつめるなんて、あたし悪い生徒だよね。
 分かってる。分かってるけど、あたしは先生をやってる先生を好きになったんじゃないんだよ。食べ物の好みとか、笑いのツボが同じとか、そんな些細なことから気になりだして、今じゃもう、どうして好きになったのかなんて思い出せない。
 でも、これだけは言える。
 先生が先生辞めたって、あたし、きっと先生のこと好きだよ。
 先生だって、あたしの前では結構素を見せてくれていたでしょう? 制服を着ている限り、生徒としか見えないのは分かってるけど、この学校では他のどんな女の人よりあたしの方が近しい存在だったでしょう?
「前向きって……前ってどっちよ? どうしてそうやってあたしを型にはめようとするの? 進学ってそんなに大事? テストでいい成績とることがそんなに大切? どうせ先生だからそんな規範的なこと言ってるんだろうけど、あたし、人生に迷ってるように見える? 逃げてるように見える? あたし、これだけは決めてるのよ。あたしが進む方向が前なの! あたしが今望んでいることが、前に進むために必要なことなのよ!」
 ずっとそうだ。
 自分の進む方向が前だと思わないと、やってられなかった。
 みんな、人は自分の都合で、自分の前だけを見て生きている。
 小さいときに死んだお母さんだって、帰ってくるって言ったのに、結局生きて帰ってはこなかった。また会えるからって言ったのに、結局、お見舞いに行くこともできないうちに死んでしまった。
 子供に見せるには忍びない姿だったと、後にお父さんは言ったけど、そんなのあたしには関係ない。苦痛に叫んでいようが、痩せこけて見る影もなくなっていようが、延命チューブに身を委ねていようが、あたしは会いたかった。
 生きてるお母さんに、会いたかった。
 何で会いに行かなかったんだろうと思う。
 小学生は学校に行かなきゃならないから。子供のうちは大人の意見を聞かなきゃならないから。そんないい子ちゃんな発想に縛られてたから、あたしは生きてるお母さんに会えるわずかな時間を無駄にしてしまったのだ。
 あの後悔だけは、たとえ流れ星が夢うつつに雪だるまに母の姿を重ねて見せてくれたとしても消し去ることは出来ない。
 この掌から融けてこぼれだす水は、後悔の欠片。結局、掴めたものしか自分には残らない。たとえこぼれた水をかき集めたって、集まったものはもはや純粋な思い出だけではなくなっている。床に落ちたならば数多の塵やごみが混ざり、地に落ちたならば関係のない誰かのこぼした水滴と一緒くたになって、もはやたとえどんなにフラスコと試験管を駆使しようと、完全により分けることなど不可能になっているのだから。
 側にいるなんて、絶対嘘。触れあえなきゃ、見えてたって意味がない。話せなきゃ、いないのと同じ。あたしはいるかどうかも分からない存在を信じて、おまけにそれを糧にして生きるなんて絶対に無理。
「先生、あたしの願いを否定しないで。あたしの今一番の願いは……」
 一瞬、辺りが暗転した。
 驚きに立ち上がって、空を見上げる。
 濃紺の闇だけが覆う中、中央の星が一つ瞬いてまっすぐこちらへ向かって落ちてきた。
 同じだ。あの時と同じ。
 あの星はこの雪だるまに宿るつもりだ。
「上月、伏せろ!」
 だけど、そんなファンタジックな話、想像もつかなかったんだろう。先生は、ぼんやり迫り来る光の球を見上げているあたしを守るように押し倒した。
 雪は優しく輝きながらあたしの背中を包み込む。冷たくはなかった。
「雪が……光っている……?」
 先生が茫然と呟いたのは、屋上の雪一面が一斉に輝いてしばらくたってからのことだった。
 聞いたことのある台詞だ。
 あたしは思わず口元に笑みを浮かべた。
「違うよ。これはみんな星。流れ星が落ちて、今度はこっちで輝いてるの」
 首を回して雪だるまを探す。
 雪だるまはまだ、ただの雪だるまのままだった。
 胸が躍った。
 その鼓動を感じて、あたしはようやく、先生の元カノに会いたいという後ろ暗い願いの奥底に潜んでいた理由が分かった。八年前、あたしはただ、あたしと弟の広が見たものが夢でも幻でもなかったのだという証拠が欲しかったのだ。
 だから、あたしはすぐに怖くなった。
 あの雪だるまの中には、今あたしの知らない人が宿っている。
 あたしが好き勝手に罵り、詰った人。
 あたしの知らない先生の顔をたくさん知っている人。
 逆立ちしたって、あたしが敵わない人。
 たった四回しか連続で唱えられなかったのに。その間、少なくともあたしの目には流星なんて見えなかったのに。先生は口にしている彼女が誰のことかも知らなかったというのに。
 ほんとは願いごとは三回なんて繰り返さなくていいのかもしれない。
 先生は、彼女と聞いて無意識に死んだ恋人のことを思い浮かべていたのかもしれない。
 でも、こんな奇跡に理由なんかどうでもよかった。
「先生、これ、雪だるまの胸元につけてあげて」
 身体を起こして雪だるまを警戒するように遠巻きに見つめていた先生に、あたしは手近な星の花をひとつ摘んで手渡した。
 触れた指先からは、やっぱり電流のようなものが駆け抜けていく。だけど、心なしかその衝撃はさっきよりも小さくなってしまっていた。
 あの雪だるまに望む人が宿ったら、嫉妬ばかりしていたあたしはきつく睨まれるだろうか。もしかしたら祟られるかもしれないな。それに、先生が他の人を愛しげに見つめる姿を見せつけられるくらいなら、お膳立てだけしたことにして、むしろ早くここから立ち去ってしまいたい。
 いざとなると、膝が震える。
 叶うなら、一度その顔を見てみたいと強気に思っていたさっきまでの自分が、あっけないほど得体の知れない恐ろしさに萎縮していた。
「俺が?」
 怖がっていたのは先生も同じだ。だけど、先生の場合は起こった現象に対しての恐れ。あたしのように後ろめたい気持ちからじゃない。
「そんなに心配しなくたって、大丈夫だよ、先生。とって食われたりなんかしないから」
「本当に?」
「本当、本当。ほら、早く行って」
 あたしは先生の背中を雪だるまの方へ軽く押し出した。
 もう、戻ってこないかもしれないな。
 固まってしまった想いをとかすどころか、ますます固めてしまうかもしれない。
 遠ざかる背中はどんどんかすんでいった。
 同じ空間にいるのに、すごく遠い。
 寒くて凍えそうだよ。ここって、こんなに寒かったっけ?
 自分で両腕を抱きしめながら、あたしはかすんだ視界の中の先生の動向を見守る。
 あたしと先生は冷気の壁一枚隔てられた異世界にいるようなものだった。あたしが今立っているところと、先生と雪だるまが立っているところは、あたしたちが無関係なのだと知らしめるかのように全く別のところ。なのに、最後まで責任を取って見届けろといわんばかりに、あたしには逃げ道も用意されてはいない。
 先生は腰を少し屈めると、おそるおそる光の灯った星の花をその胸元に一つ、差し込んだ。
 花は輝きを増し、命が流れこむように輝きが雪だるまの全身に行き渡って いく。
 やがて、名前でも呼ばれたのか先生は固くしていた体をびくりと震わせた。そして立ち尽くす。茫然と、幽霊と見つめ合っているかのように。
 あたしには、残念ながら雪だるまに宿った人の面影は何も見えなかった。声も聞こえはしない。
 もしかすると、その人の姿や声を知っていなければだめだったのかもしれない。
 だけど、先生には見えているようだった。声も聞こえているようだった。
 先生は肩を震わせて泣いていた。
 顔をくしゃっとして、片手で涙を拭いながら頷いていた。
「あゆみ」
 流れ星に願いをかけてるときの声とは比べ物にならないほど切なげな声で、その人の名を呼んでいた。
 その声が、名前が、あたしの胸に突き刺さる。
 感じたこの痛みは嫉妬。
 一生かかってかきむしったって、この棘は全部とることはできないだろう。今のあたしには。
 先生は、きっとその人が死んでからその人のことを愛してしまったんだ。普通に生きていたらちっぽけで思い出しもしない思い出のかけらを集めて、そこから彼女の笑顔を取り出すのではなく、自分がその中に入り込んで、毎日お決まりの台詞と表情の彼女を相手に生きてきたのだ。
 とかしきれずに残った好意と責任感から出来たその世界で。
 でも、どんなに欠片を集めても、最後に行き着くのは自ら別れを切り出すシーン。その先は彼女のお葬式にしか繋がらない。何度辿っても辿っても、その先へは進めない。だからまた同じはじまりからやり直そうと過去へと還る。
 あたしから見たら、それは思い出の牢獄だ。
 だけど、先生にとってはそれ以外に生きる世界はなくなってしまっていたんだね。その世界の中だけが、唯一色づいて見えていたに違いない。
 先生が恋人と何を話していたのかは分からない。先生ははじめに名前を呼んだ以外、後は頷いたり首を振ることしかしていなかったから。それは、あたしに聞かれちゃ困るとかそういうことではなくて、おそらく、一番言いたい言葉を言わないようにしていたんだと思う。
 いっそ、連れてってあげればいいのに。
 雪女のように、心だけじゃなく、氷の息吹で身体まで持って行けばいいんだ。先生だって、きっとそれを望んでる。本当はそうして欲しいと思ってる。
 いなくなってあたしは平気なのかと聞かれれば、多分、まだ平気だ。すごく好きだけれど、好きなだけなんだ。あたしは。
 そう思ったら、あたしは急に自分がとても小さいものに思えて悲しくなった。そんな小さな思い込みで、あたしはさっき先生をあんなに追い詰めて困らせてしまったんだ。
 感情に沿って沈み込んでいた顔を上げると、先生は両腕を広げたままはっと視線の少し上を見上げていた。
 その先、長い黒髪の清楚な女性の顔があたしにもはっきりと見えた。
 黒い瞳は優しげに先生をみつめ、そしてあたしをみつめた。
 あたしは息をのむ。
 襲われるんだろうか。あたしは、だって邪魔者だものね。ううん、あたしみたいな歳の離れた小娘、話にもならないと思っているのかもしれない。
 珊瑚色の唇が、あたしに向けて声を伴わずにいくつかの音を発した。
 嫌な影など、どこにもない。あそこまで純粋に人を信じる微笑を、あたしは生まれてはじめてみたような気がする。
 よ、ろ、し、く?
 合っているかはわからない。だけど、あたしにはそう聞こえた。もし違うなら、あたしが小さく繰り返したときに、あの笑顔は即座に曇ったことだろう。でも、微笑は曇ることなく、あたしにはまた見えなくなった。
 先生はちらりとあたしを振り返り、だけどすぐに首を振ってとけかけた雪だるまへと視線を戻す。いやだ、いやだというように何度も首を振って、それからようやく一つ、頷いた。
 一瞬の間の後、先生は暗くなった屋上に積もった雪の上を一歩、二歩とよろけるように前に進み出た。
 そこにはもう頭と胴の境目すら分からなくなってしまった雪だるましかない。
 その雪だるまを抱きしめ、ずるずると膝をついた先生は、雪だるまの額に自分の額を押し当てたかと思うと、何度となく打ちつけながら声を上げて泣きはじめた。
 これほどかっこ悪い大人の男の人の姿を、あたしは見たことがない。
 雪だるまの母と別れるときの父は、もっと凛々しく毅然としていてすごくかっこよかったのに。あれは子供の前だったから、ああやってかっこつけるしかなかったんだろうか? ほんとはお父さんもあんな風に泣きたかったんだろうか? 空も地も震えるほどの声をあげて。
 だけど、これほど愛しいと思う姿も見たことがなかった。
 ついさっきまでもやもやと胸の奥底に渦巻いていた嫉妬が、少しずつとけて外へと流れはじめている。連れて行かれなくてよかったと、心底安堵している。あの背中を抱きしめたいと思っている。
 そう思った瞬間、あたしは一歩踏み出していた。
 隔てられていると思っていた壁はもうどこにもなくて、あたしはまっすぐ先生の背後まで歩んでいった。
「先生」
 触れたい。抱きしめたい。
 でも、あたしは制服を着ている限り先生の生徒だ。
「顔、ぐちゃぐちゃだよ。これで拭きなよ」
 差し出したハンカチを、先生は素直に受け取って顔をうずめた。
 あたしは、踏み固められた雪の中、丸くぬれた面を露出させたコンクリートをみつめた。
 羨ましいと思った。
 さっきまでの暗くねちねちとした思いなんかじゃなくて、先生にこれほど愛されたこの人が素直に羨ましかった。
 あたしにも、いつかそんな気持ちが向けられる日が来るだろうか?
 できれば、この先生から。
「上月、ありがとな」
「何がですか、先生」
 座り込んだまま、立ってるあたしを見上げた先生の顔は、それはもうひどい顔だった。あの目は明日まで腫れているに違いない。
「ちょっと早い、クリスマスプレゼント」
 にこっと笑ったこのときの先生の顔を、あたしは一生忘れないに違いない。
「先生」
「ん?」
「今度はあたしが毎年雪を降らせてあげる。夏になればとけちゃう雪だけど、次の冬にはまた新しい雪を降らせるわ。何年でも、先生の生きてる限り」
 青ざめたり赤くなったりしている先生にあたしは極上の笑みを返して、とけた後に残ってしまった雪だるまの枝や石ころを拾い上げた。
「好きだよ、先生」
 まだ踏み固められていない雪にそれらを埋めながら、あたしは呟くように言った。
 これが、あたしからあなたへの宣戦布告。
 先生があたしの心にも雪を降らせてくれるようになったら、きっとあたしの中の亡霊あなたも完全に成仏するでしょう。
 その日まで、あたしは元気に先生の前で笑っていよう。
 生きてる限り、あたしとの思い出は先生の中に降り積もり、ゆっくりと、そう。
 いつかとけない雪になる。






〈了〉





  管理人室 書斎  読了

  200711042313