手紙



 もし、これから始まる一文に何か大きな事件を期待されるなら、ここで読むのはやめるがよい。
 もし、若い女に静かに熱を上げる年経りた男を気味悪く思うなら、何も見なかったことにしてそっとこれをしまってほしい。


 これは、ただの手紙である。








 佐和子との出会いはもう二十三年も昔になる。
 その頃、佐和子は女にしては悪戯が過ぎ、米びつに砂を入れて一升の米を駄目にしたり、近所のガキ大将ですら登ろうとしない高い杉の木によじ登って枝が折れ、九死に一生を得たものの右腕の骨と鼻の骨を骨折したり、とにかく一日中じっとしていない子供だった。
 両親もそんな佐和子にはいつも苦笑していた。だが、そんな苦労すらも洗われるくらい、佐和子の笑顔は天使のように清らかでいとおしいものだった。佐和子の両親は腕に抱えても余るほどの愛情を佐和子に与え続けた。
 そうでなければ佐和子が両親の死に目にあっても笑顔を失わずにいられたものか。
 佐和子が十二歳のとき、佐和子は両親を失った。
 自分もともに乗っていた乗用車が、居眠りで対向車線にはみ出してきたトラックに追突されたのだ。
 燃える車を前にして、大怪我を負った佐和子は泣き叫んでいた。
 私は、初めて佐和子の泣き顔というものを見た。
 美しいとは思わなかった。
 当たり前である。佐和子はまだ少女の域を出ていなかったのだから。いや、それを言うなら、今でも佐和子は少女のままである。佐和子の笑顔は今でも清らかで穢れない。
 そう、私の使命は佐和子のあの泣き顔を見たときから、彼女の清らかな笑顔を守ることに決まったのだ。
 血のつながらない私に佐和子を預けることを、親戚中が渋ったが、どの身内とて自ら佐和子を引き取ろうとはしなかった。施設に入れるのが妥当だろうと言うのを頭を下げて私が引き取ったのだ。
 佐和子は嫌がりはしなかった。
 佐和子の父から原稿を受け取るために、私は佐和子が生まれる前からあの家に出入りし、すでに家族同然となっていたのだから。
 こんなことを話せばやましい発想をする輩もいるかもしれない。
 佐和子は、本当は私と久作の妻、晴枝の娘なのではないかと。
 だが、それはけしてない。
 確かに晴枝さんは私の憧れだった。私は一人っ子であったが、晴枝さんと話していると七つ上の姉が出来たようであり、告白すれば確かにずっと想いを寄せてもいたのだ。しかし、晴枝さんは久作だけを見つめていた。 物を書くことしか知らない十五も上の久作を夫として、また、時として父に甘えるように愛していた。幼くして父をなくした晴枝さんは、年下の男になど見向きもせず、見合いとは名ばかりの強制的な結婚で知り合った男だけを頑ななまでに愛していた。久作がキャバレーの女をたらしこんだときも、自分と同い年の隠し子が名乗りを上げたときも、幼稚園に通う佐和子にはかけらも気取らせず、まして私に涙を見せることもなく気丈に振舞い続けたのだ。ただ、あの夫婦の間で何があったのかは私は知らない。分かるのは、以来、久作が他の女には見向きもしなくなったことだけだ。
 一体、どこに私の入る隙があったろう。
 入社して間もない若造にとって、本庄久作は偉大な作家であり、敬愛すべき仕事の師であった。しかし、若く美しい妻を脇において他の女に熱を上げる様は、人として、また晴枝さんを愛する者として許すことのできない人間だった。
 あれほど私が憎悪と嫉妬にまみれた日々もない。
 久作はそれを待ちかねていたかのように、若い男が人妻に恋をし破滅していく物語を書き上げた。
 お前がこれ以上晴枝にこだわり続ければ、いずれこうなるのだぞと言わんばかりに。
 しかし、私にとっては憎悪をかきたてられた反面、満たされたのも確かだった。小説の中で若い男は恋した人妻と想いを遂げている。人妻は、あまりにひどい主人に打ちひしがれ、熱心にかきくどく若い男に一瞬でも耳を貸してしまったのだ。
 初稿を読んだときの私の屈辱は言葉にするまでもない。
 押し殺していたはずの想いを見抜かれていたという恥ずかしさ。鼻で笑うかのように空想の世界で駒として遊ばれたことへの怒り。それ以上に、小説でのデモンストレーションを通して、それでも最後は主人と添い遂げた物語にかこつけて晴枝は自分のものなのだと念を押された悔しさ。だが、もし念を押されなければ、その頃の私は久作の前であろうと晴枝さんを押し倒しかねないほどだったことは確かだ。
 久作をえげつない奴だと呪いもしたが、しかし、直接私に晴枝に手を出すなと釘をさすでもなく、また、晴枝に対しても見苦しく担当の若造に振り向くなと言い含めるでもなかったあの方法は、今となれば愛する妻を守るための、そして世間知らずの若造を教えるための久作が思いついた唯一の方法だったのかもしれない。
 あるいは、隠し子が後に偽者だったと発覚してからは、万年ネタ不足に頭を痛める小説家の妻と担当とを巻き込んでのねた作りでしかなかったのかもしれないが。
 脅すように書き連ねてきたが、勘違いしないでほしい。私が佐和子を愛しはじめたのは、何も晴枝さんの愛娘だったからではない。どちらかというと父親の久作似の佐和子を、わざわざ晴枝さんの身代わりにしようなどと思うものか。
 佐和子は、美しいものを見出すのがとても上手かった。そして、美しいものを貪欲に求める娘だった。
 佐和子自身は気づいていないかもしれない。
 己の貪欲さに。驚くほど、美しいものに固執しているということに。
 もしかしたら、私以外の誰も気づいていないかもしれない。あの久作でさえ、娘のこととなると目が鈍る。かわいい、かわいいと、娘に対してはめでることしか知らない人だったから。
 はじめに気がついたのは、佐和子が十五のとき。
 ブラインドを締め切った書斎に閉じこもって私が仕事をしていたときだ。冬だったからまだ夕刻という時間ではなかったが、白いブラインドの隙間を縫って、朱色の光が外に満ち溢れているのが分かった。きっとあの向こうには今日一日充実した日差しを届けていた太陽が、今まさに遠くのビルの合間に埋もれようとしているのだろう。私はそう推し量ることしかしなかった。だが、お茶を運んできた佐和子はブラインドが赤く色づいているのを見るなりお盆を手近なテーブルに置き、ブラインドに駆け寄ったのだ。
 佐和子が押し広げたブラインドからは、見たこともないほど神々しい光が流れ込んできた。
 大したこともない出来事に思うかもしれない。しかし、私にとってはとても意外だったのだ。昔から活発な娘だったことは知っている。それでも活発さは成長するにつれて影を潜め、佐和子は久作と晴枝の娘らしく書庫の本を読み漁るような文字通り文学少女になっていた。例えブラインドの隙間から溢れる光に気づいたとしても、きっと中から眺めるだけで話題にもせずに済ますとばかり思っていたのだ。
 佐和子はブラインドを押し広げたまま何も言わなかった。
 私も声をかけなかった。
 佐和子は貪欲な娘だったのだと知ったから。想像だけでは飽き足らず、実際に目で確かめなければ気がすまない質だと知ったことが、今更のようで悔しかった。同時に、同じものを見ていたのだと密かに喜んだのだ。
 思い返せばこのときからだったのかもしれない。私の勝手に作り上げたイメージとは違う佐和子が顔を見せる度に、私は心の中で吃驚し、そして、気になるようになっていた。自分にはない清らかな貪欲さを兼ね備える佐和子を、年甲斐もない理由で今まで以上に大切にしようと思うようになったのだ。
 あれは、佐和子がそろそろ大学受験のために身を入れだした頃。
 元から私と暮らすことに嫌な顔は見せなかったが、年頃となったその頃には多少警戒もしたことだろう。それでも毎日私のご飯を作り、洗濯をし、家を掃除して学校に通っていた。
 その日私は久々の休日で、それなのに昼から雨が降っていてなんとも憂鬱な一日だった。これで新しく担当になった新人から電話でも来ようものなら、私は久作のあの本を読んだとき同様、退職届を編集長のデスクに載せに行きたくなったことだろう。なぜなら、久々の休日だというのに新聞を読むこと以外何もやることがなかったのだ。自分がこれほど無趣味な人間だとは思わなかった。鬱々とした雨の中、家に閉じ込められ、聞き馴染んだ音楽もなく、ただ家中に響く屋根の瓦を雨が弾く音だけを聞いている。いつもは私が帰ればじゃれつく猫のようになかなか離れない佐和子も、二階の自分の部屋にこもったまま降りてこない。代わりとはいえ、受験生の子を持つ親だ。おいそれと自分の暇を慰めるために二階の聖域に踏み込むわけにもいかない。だからといって仕事などしてなるものか。
 苛々は募る。時折激しくなる雨音は私の心を慰めはしたが、すぐに母のように甘い愛撫の音に変わり、私は余計に苛立ちを増していた。いつもは読みもしない日曜欄を三度も読み返し、クロスワードを解き、数字パズルを解き、それでも時刻は午後三時を回らない。
 つと、階段を軽やかに駆け下りる足音が静寂を波立たせた。
「誠二さん、散歩に行きましょう」
 その一言に、私が不平をもらさなかったわけがない。
 なぜ雨が降っているのに散歩になどでなければならないのか。どんなに上手く傘を差したところで、どんなに雨が弱まっていたって、空から雨が降っているのだ。大地を水がくるんでいるのだ。肩も足も汚れないわけがない。
「気にすることないわ。洗えばいいんですもの」
 洗濯をするのは佐和子だ。何もわざわざ洗濯物を増やしてやることもない。そう言うのに、佐和子は気分転換くらい付き合ってくれたっていいでしょ、と珍しいくらいに譲らなかった。
 私はしぶしぶ腰を上げ、小銭入れをポケットにさす。玄関に行くと待ちきれないように佐和子がビニルの傘を閉じたり開いたりしながら待っていた。
 すっかり落ち着きある少女に成長したとばかり思っていたが、やはりまだまだ子供なのだ。佐和子は私が玄関に現れたのを見るや、勢いよく戸を引きあけ、小気味いい音をたてて傘を開いた。
 安っぽい透明のビニル傘だ。もっといいのを買えばいいというのに、佐和子はこの透明なのが好きなのだと、失くすたびにいつも同じものを買ってくる。
 私は黒い大きな傘を開いた。
 並んで歩き出すと、私の視界には佐和子の揺れる髪が真上から見えた。嬉しげな表情もよく見える。やがて、ゆっくりと歩くことに飽きたのかぱしゃぱしゃと水溜りを上手に飛び越えて、佐和子は私の先に立って歩きだした。
「この先にとっても素敵な場所があるのよ」
 佐和子は家からそれほど離れてもいないのに見たこともないほど鬱蒼と生い茂った森をさして楽しげに言った。
 都会を多少離れたこの田舎で、素敵と思える場所は想像もつかなかった。六月のこの時期、水田に植えられた稲は皆青々とした穂を伸ばし、雨に打たれて太陽を待つ。明るいネオンなどこの時間に見えるわけもなく、あるのはただ型にはめられた田園風景だけだ。
 足が汚れないように、ただ下だけを向いて佐和子の足音についていく。雨足は家を出た時よりもやや強まり、佐和子の足音は消えながらどんどん離れていく。
 完全に佐和子の後姿を見失って立ち止まったとき、そっと傘を差し出すように淡い光が一面を照らし出した。足の指先にはそれまでのぬかるんだ泥道ではなく、膝ほどの草が密生していた。その合間を縫って、かすかに道らしきものが残されている。
 佐和子はその道の先、草原の真ん中に立っていた。
 すっと背を伸ばし、透明な傘を両手で大事そうに掲げ身じろぎ一つしない。
 一瞬、雨の音が遠ざかったようだった。
 私の視界には潤いに満ちた緑が溢れ、中央に白い佐和子だけが凛と残された。
 まるで異世界に飛ばされたようだった。
 なんと己の想像力は貧困だったことだろう。素敵な場所と聞いて都会のネオンしか出てこないとは。
 私は知っているはずだった。佐和子が一体何を美しいと思い、どれほど貪欲にそれを求めているのか。
 私は、知っているはずだったのだ。
「佐和子」
 茂みを掻き分けて背後に近づく。
 何かに集中していたのか佐和子の肩はびくりと一度震え、それでもくるりとこちらを振り向いた。
「しーっ」
 さして咎めるでもなく、穏やかに笑って佐和子は目を閉じて見せる。
 私は置いてきぼりを食ったような心もとなさから逃れるために、同じように目を閉じた。
 ぽつ。ぽつぽつ。
 しっかり張った傘を打つ雨滴の音。
 ぼつぼつぼつぼつぼつぼつ……。
 優しくなでたかと思えば、時に激しく叩きつける。
「聞こえた?」
 激しく打ち鳴らされた音に驚いて目を開けると、佐和子はにっこりと私を見つめていた。
 ぽつぽつぽつぽつ……。
 雨の太鼓は続く。
 家の屋根を叩く音よりも、もっと低く直接全身に訴えかけてくる。
「誠二さんの傘もいい音がするのね。今度来るときは借りてみようかしら」
 佐和子はくるりと透明の安っぽいビニル傘を回した。
 ぱらららら。
 ただ打たれるよりも小気味いい音。
 私は、正直なんと言葉を繋げばよいのか分からなかった。
 保護者としての立場からいわせれば、年頃の娘がこんな誰もいない原っぱに一人で来てはいけないと叱り飛ばしたい気分だった。
 しかし、それ以上に私には尋ねるべきことがあった。
「佐和子。お前が透明な傘ばかり使っているのは……」
「布の傘よりもわたしはビニルを弾く雨の音が好きなの。それにね、透明な方が空も景色もよく見えるでしょう?」
 降ってくる雨も、駆け去っていく黒い雲も、中途半端にかかった虹も、確かに私の黒い傘では何も見えない。
 私は分かっていなかった。佐和子というものを、分かったと思っていても、結局なにもかもを知っているわけではなかった。
「誠二さん、あのね。私、大学に入学したら一人で暮らそうと思うの」
 だから、佐和子がそう言ったとき、私は雨の音のせいで耳がおかしくなってしまったと思ったのだ。
「もう、五年、六年もお世話になってしまったもの。おまけに学費までお世話になって……いつまでも甘えているわけにはいかないと思うの。もちろん、おうちの家事をする人はいなくなってしまうけれど、生活費くらいは自分で何とかするわ。アルバイトをして、もちろん、勉強だってちゃんとするから」
 子を手放さねばならない親の気分とはこういうものなのだろうか。いや、きっと私の場合は少し違うに違いない。私は、佐和子はずっとあの家にいるものだと思っていたのだ。ずっと私の手元にいて、そう、ずっと……私が死ぬまで。いつか嫁に出さなければならないことも忘れて、私は佐和子を自分のものと勘違いしていたのだ。
 じりと胸の奥が焼け焦げる音がした。
 久しぶりに感じる焦げ臭いにおいがした。
 あれは、いつ嗅いだ臭いだったろう。久作の隠し子が晴枝さんの目の前に現れて家族に入れろと言ってきたときだったか。いや。そんな珍しいものじゃない。昔はよく、煙草のやにのように私に纏わりついていた臭いだった。そう。晴枝さんが久作と腕を組んで外出するのを見送る時に、よくこんな臭いが鼻先にちらついていた。
「そんな怖い顔をしないで」
 佐和子は困ったように笑っていた。
 私は、今すぐここを離れて一人になりたい気分だった。
 佐和子から視線をそらす。
 とても、正面から佐和子の視線を受け入れることは出来なかった。
 保護者でありながら、いつから私はこんな疚しい気持ちを持って佐和子を見つめていたのだろう。あの夕日のときからか? それとも、もっと昔、事故で佐和子が両親を失ったときか? 杉の木から落ちて私の上に落ちてきたときか?
 一体。私は今いくつだっただろう。
 佐和子は今、いくつになったところだっただろう。
「そうするといい。ただし、生活費は並みのアルバイトではまかないきれないよ。うちの家計を預かっているんだから分かっているだろう? 生活費も出すから、佐和子は好きなことを思いきり学べばいい。もしアルバイトがしたければ、自分で好きなものを買うためにするといい」
 久作が生きていたら、とんでもないと怒っただろうか。佐和子は悪戯好きだろうがれっきとした箱入り娘だったのだから。いや、きっとそこは晴枝さんがとりなしたことだろう。それもいいわね、と。
 だが、私が佐和子の一人暮らしを許したのは、これ以上自分の元に置いて置けないと思ったからだった。何なら帰ったらすぐにでも学校の近くにでもアパートを見つけて私の元から離してしまいたかった。
「勝手なことを言ったから怒ってるのね」
 佐和子は悲しげに呟いた。
「違う。そんなことはない。一人暮らしするのはいい経験になるだろう。特に大学に入れば、家なんて鬱陶しくなるものだ」
「じゃあ、どうしてわたしを見てくれないの? どうして、受験がんばれよって言ってくれないの? どうして……駄目だって言ってくれないの?」
 そらしていた視線を戻すと、佐和子は傘を開いたまま下ろして雨に打たれ泣いていた。濡れて張りついたシャツは肩の辺りに残った事故の傷跡を上手く覆い隠せずに、生々しく私に見せつけている。
 私には佐和子が何を望んでいるのか、もう分からなくなっていた。
 だから、黒い傘をそっと佐和子の上にさしかけてやった。
 雨が張り詰めた布を弾く。
「ビニルの傘よりも、こっちの音の方が私は好きだな」
「でも、空が見えないわ」
「透明な布などないからね」
「ねぇ、誠二さん」
 てっきり空を遮る黒い傘を見上げていたとばかり思っていた佐和子の瞳は、思いの外間近から私を見つめていた。
「大学を卒業したら、私またここに戻ってきていい? また、誠二さんと一緒に暮らしてもいい?」
 大学を卒業したら。
 四年と半年後。気になるのは己の年齢ばかり。
「四年間離れて暮らしても、それでも誠二さんのことが好きだったら、私戻ってきてもいい?」
 熱にうかされているかのように幻聴が聞こえる。
「佐和子……」
 うわ言のように私は呼びかけた。
「もちろんお盆やお正月はちゃんと戻るつもりだし、別に全く帰ってこなくなるってわけじゃなくて……。誠二さん、わたし、誠二さんのことが好きなの。お父さんのように思ったことなんて一度もない。小さいときからずっとずっと……私が杉の木から落ちて、受け止めようとした誠二さんが一緒に大怪我しちゃったときからずっと、わたし誠二さんのことが好きだった。引き取ってくれたときもすごくすごく嬉しくて。――嘘じゃ、ないよ」
 言い募って、最後に佐和子は子供っぽく付け足した。
 子供っぽく?
 違う。これが年相応の本当の佐和子なのだ。
 もし、今の告白が本当なら、きっと佐和子はずっと私の前では背伸びをしてきたに違いない。言葉遣いも、着る服も、動作も、私に似つかわしいようにずっと背伸びし続けていたのだ。
 ちっとも気づかなかった。ずっと見てきたつもりだったのに、私は本当に佐和子のことを何も知らなかった。引き取ってからというもの、活発さが影を潜めていった理由も、気づきはしなかった。いや、例え気づいたとしても私にしてやれることなど、佐和子を手放して本庄の親戚の言うように佐和子を養護施設に入れてやることだけだっただろう。
 気づいていた場合と今の状態と、一体どちらが佐和子にとっては幸せだっただろうか。
 佐和子はもう答えを出している。
 尻込みしているのは、倍以上も年のあるこの自分だ。
 傘よりも張り詰めた目が、今か今かと返事を待っている。保護者としての私ではなく、男としての私の返事を。
 これは逃げだろうかと思いながら、私は佐和子に自分の着ていた外着を着せかけた。それから伸びた草に抱きかかえられるような格好になっていた透明なビニル傘を拾い上げて左腕にかけ、右手をそっと、両脇に伸ばされたままの佐和子の左手に伸ばした。
「帰ろう」
 握られたままの佐和子の左手をゆっくりとほぐし、力を入れすぎないように、しかし解けないように握って来た道の方へと引っ張る。
 冷たい手だった。ほっそりとして、もはや小さいときの幼いがゆえのぬくもりやとろけそうな柔らかさは残っていない。知らぬ間に、佐和子の手は女性のものになっていた。
 佐和子は何も言わず、手を引かれるままについてきた。
 雨はいつの間にか止んでいた。雲間からはやや西に傾いたところから黄みを帯びた光が草原中を照らし出し、透明な滴を一面七色に輝かせる。
「あ、虹」
 つと、佐和子は東の空を指差して立ち止まった。
 そこで初めて、私は握った左手がかたく握り返されていることに気がついた。
 言葉は要らなかった。
 虹が消えるまで私たちはそこで東の空を眺め、青空の下、家に帰り着いた。








 佐和子。
 君がこの手紙を手に取るとき、君は一体いくつになっていることだろうね。しわしわのおばあさんになっているかもしれないね。
 そんな佐和子にも会ってみたかったよ。君は嫌がるだろうけどね。
 あるいは、もし私がまだ生きていれば、こんな恥ずかしいものをしたためて、と頬を膨らませて怒るのだろうか。
 私はね、それでもいいと思っているんだ。
 これは遺書じゃない。手紙なんだ。
 君を一生大切にすると誓った自分への。
 年甲斐のない、と笑われてもいい。よく言うだろう? 男なんてものはいつまでたっても大人になれない生き物なんだよ。きっと。
 長く一緒にいれば喧嘩することもあるだろう。そんなときには、この手紙を取り出して読むことにしようと思う。恥ずかしさに途中で読み進められなくなっても、ちゃんと最後まで、なぜ私がこんなものを記しておこうと思ったかを思い出すために、読もうと思う。
 この静かな雨の日。相変わらず透明なビニルの傘を手放さない君と手をつなぎ、四年半前と変わらず傘を弾く雨音を幸せそうに聞く君を見て、私は確信したんだよ。
 君さえいれば、他にはもう何もいらない、と。







〈了〉






書斎 管理人室  読了






200706032339