かみさまの、糸



 好きだった人がいます。
 とてもとても大好きだった人。
 きっと、私たちの小指と小指は見えない赤い糸で結ばれているんだって、私は疑いもせず信じていました。
 赤い糸で結ばれた人とは、出会えば必ず一緒になって、幸せになれるものだと思い込んでいました。
 一緒になるということが、ただの法律上の意味合いしかなかったとしても、それが一番の幸せであり、絶対なのだと信じていました。
 確かに、私の小指には赤い糸が結びつけられていました。けれど残念なことに、その赤い糸の先にいた人には、もう片方の手に法律という白い糸ですでに固く結ばれた奥さんがいました。
 奥さんは、私のことは知りません。
 当たり前です。だって、私はまだその人と一緒に社員旅行にいったこともなければ、飲み会で二人一緒にはじけたこともありません。一緒に写真をとったことがないのです。
 想いは互いに秘めやかに、周りには隠し通しておりました。
 だって、そうでしょう。
 私はまだ、この会社に入って三ヶ月にもならない新入社員なんだから。せっかく得た職を、むざむざ不倫ごときで私は失いたくなどありません。
 係長も、せっかく年功序列で押し上げられた今の地位と給料を若さしかない女のために手放す気にはなれないでしょう。
 分かってはいるのです。お互いに。
 この恋は何も生まないと。
 それでも、他の指に比べてやけに短いこの小指の先には赤い糸が結びついていて、私はようやく二十二年を経てその糸の行きつく先を知ることが出来たのです。
 見た目はただのおじさんです。
 ただの、と言いましたが、ちょっと訂正すると、多少ダンディに見せかけようとしているきらいがあります。ちっとも功を奏してはいないと私は思うのですが、本人は自分はダンディだと豪語して譲りません。そして、おじさんの特徴としてよく挙げられるように、ことあるごとにおやじギャグを飛ばし、多少なりとも周囲を困惑の渦に陥れます。
 もっと親しく話す教育係の先輩もいたというのに、一体どうしてそんな私よりも父親に年の近い人を好きになってしまったのか、私自身人生最大の謎だと思っていますが、まぁ、好きになってしまったものは仕方ありません。おやじギャグがかわいいなと思ってしまったらもう終わりだったのです。
 ちなみに、私はファザコンでもありませんし、実父はまだ健在です。そういう寂しさを埋めようとしたわけではないことはお分かりください。
 向こうが一体どういうつもりで私に触れたのか、そんなことは本人も分からないと言っていました。
 なんともいい加減な返事です。触れたかったから触れた、と言うのは、パワハラには当たらないのでしょうか。
 もし、私がおじさんという種族に相当なる嫌悪感を持ち、大学時代から付き合っている彼氏がいて結婚の約束までしていたなら、私の失敗ゆえの残業で二人残された時に目があったとしても、どぎまぎすることなく会話していたことでしょう。
 そう、少なくともほかに片思いをしている男性がいればよかったのです。
 大学時代に付き合った人は一年の時に一人。その人とも半年を待たずに別れてしまった私は、恋の病への免疫をすっかりなくしておりました。いけない、いけないとは分かっていても、ついじっと係長を見つめてしまったのです。
 見つめて得たものなど、今更口にする必要はないと思います。
 とにかく、不思議な気がしたのです。
 妻子もあり、おやじギャグをおやじの特権とばかりにばら撒くこの人が、一瞬とても頼もしくもなぜか対等なものに思えたのです。大変なことをしてしまったという恐れから、頼りになる人に縋りつきたかっただけだったのかもしれません。それでも、うず、と右手の小指が疼いたのです。
 赤い糸に、血が通いはじめたかのように。
 係長はその晩、私を飲みに誘ってくれました。慣れない仕事のことや、一人暮らしの心細さやいろいろと話を聞いてもらっているうちに、私はいつの間にか係長をただの上司ではなく一人の男性として意識してしまっていたのです。
 思い込んだら一途過ぎるのが私の欠点でした。でも、そんなところもかわいいと係長は――博正さんは言ってくれました。仕事のピンチは乗り切り、だけどその後も係長は仕事で残っていると一緒に残って手伝ってくれ、その後も関係は水を得た魚のように息づいていったのです。
 この世にはどうして不倫などする人がいるのだろうとよく思ったものですが、別に不倫をしたくてしているわけではないのです。奥さんがいる人とこっそり関係を持つという罪悪感が病みつきになっているわけでもありません。ただ、運命だと思ってしまったのです。
 この人は、私のものだと。
 係長のつけているちょっと男っぽくもセクシーな香水の香りも、耳に馴染むベースの声も、パソコンのキーボードをたたく節くれだった日焼けした手も、馬鹿みたいなギャグが滑ったときの苦笑すら、一つ一つ発見するたびに私は宝物を見つけたように嬉しくて、大切に心にしまっておりました。二人になればその腕の温かさに痺れておりました。
 長い間干からび、地割れ状態だった私の心は豊かに満たされ、仕事にも熱が入るようになっていった、そんなある日のことです。
 会社に、一本の電話がかかってきました。
 電話を取ったのはこの私です。
 電話の向こうの声は、やたら所帯じみたおばさんの声でした。
「齋藤博正はおりますでしょうか。私、齋藤の家内です」
 ずいぶんと折り目正しく息苦しくなるような話方をする人でした。
 そう、私は意外と冷静でした。
 愛する係長の奥さんとお話しているというのに、私の方が若いとか、これじゃ係長も息がつまるだろうな、とか、たった二言からでも係長の家庭事情を察せるだけの余裕があったのです。
 少々お待ちください、と型どおりの返事をして、私は辺りを見回しました。
 時刻は十七時半。
 ぞろぞろと退社が始まる時間です。
 係長もこの時間には上がれるはずですが、今晩は私との約束があるので、一緒に十九時まで残って仕事を片付けてから、かねがね私が行きたがっていたフレンチのディナーに連れて行ってくれることになっていました。
 ええ、私はとても浮かれていたのです。
 例え今、目の前に奥さんがやってきて、「この泥棒猫」とありきたりな台詞を吐いたとしても、博正さんの腕をしっかりと掴み、余裕で笑んでいられる自信がありました。奥さんの手作りクッキーを係長が持ってきたときも、嫉妬一つせずにおいしいと言う事が出来たのです。博正さんに一番愛されているのは私です。奥さんよりも、二人いるというお子さんよりもよりも、今この瞬間、世界で一番博正さんに愛されているのはこの私なのです。そして、それは永遠に死ぬまで変わらない。
 だって、私たちの小指には赤い糸が結びつき、強く繋がりあっているのですから。この糸は絶対に切れません。運命の糸なんです。切れるわけがありません。
 切れていいわけが、ありません。
 ぐるりと課内を見回すと、係長は外からふらりと戻ってきたところでした。
「係長、お電話です。奥様から」
 携帯を持っていないことで有名な係長ですから、会社に奥さんから電話がかかってきても別に不思議ではありません。たまにかかって来るんだよというお話は教育係の先輩から伺っておりましたから、日常茶飯事なのだろうと私は受話器を係長に渡しました。
 しかし、係長は受話器を取ろうとして、一瞬凍りついていたのです。
 私の目は見ませんでした。
 ただ、白くてちょっと手垢に黒くなりかけている受話器をじっと見つめておりました。
「係長?」
 私にはなぜ係長がそこで凍りつくのか分かりませんでした。
 ただの部下が奥さんからの電話に出て係長に繋ごうとしただけなのです。何かおかしなことがあるでしょうか?
「係長……?」
「お前、何か……いや、なんでもない」
 問いたげに見上げた先にあったのは、閻魔様も逃げ出したくなるような形相をした男の人でした。係長は私の目を見ることもなく、さっと受話器をとりました。
 その瞬間、私は何かが……いえ、何かではありませんね。小指に結びついていると思っていた赤い糸が切れる音を聞いたような気がしました。
 絶対切れるはずのない赤い糸。それが、ぷつりなんてありきたりな音を立てたんです。
 私は、信じませんでした。
 その音が、赤い糸が切れたものだとは信じたくありませんでした。
 なぜそんな音が聞こえたのかすら、私には分からなかったのですから。
 私はぎこちなくなっているのを意識しながら、それでも職場に残っている人たちの目を気にしながら、係長から離れました。自分の席に座りました。座ったものの、一体何をやっていたのかさっぱり思い出せません。係長はまだ電話中で、ちょうど私の目線のあたりにクールビズでポロシャツをかぶったスマートなお腹が見えます。あのお腹は実は中途半端に六つに割れていたりします。
 私はそんなことまで知っています。
 奥さんは知らないはずです。だって、係長は奥さんのことはもう家族だって言ってましたから。
 私はマウスでゆっくり円を描きながら、頭のなかで私だけが知っていることを必死で挙げ連ねていました。
 私は、好きなんです。係長のことが。親父ギャグを連発するちょっとしょうもないところや、声や指や、腕の温もりや、心強い笑顔や、言葉や、胸の奥をくすぐる香りや……全部、全部、私だけのものです。私だけのものじゃなきゃ駄目なのです。
「パパー」
 だから、係長は私だけの男の人じゃなきゃ、駄目なんです。
「春香!」
 小さな女の子が、自分の背よりも丈高いスチール机の間をたどたどしく走り抜けて、係長に向かって飛びこんでいきました。係長はそれを見るや、受話器を投げ出し、小さな女の子をしゃがんで抱きしめました。
『もしもし? もしもし? お父さん?!』
 電話口からはさっきの所帯じみた奥さんの声が響いてきています。
 私は受話器をとりました。
 その手を、さらに上から別な手が掴みました。
 係長の手ではありません。どこか雰囲気は似ていますが、まだ肌はきめ細かく、張りがあります。大きさも成長途中といった感じです。
 柔らかくみずみずしくて、とても、冷たい手でした。
「ああ、もしもし、お母さん? 心配かけてごめん。ちょっとさ、社会でお父さんの仕事こっそり見てレポート書けって宿題出ててさ。……え? 知らねぇよ、そんな宿題出した社会科の有馬に聞けよ。春香? ああ、あいつもお父さんの仕事見たいってごねてうるさいから連れてきた。は? わかったわかった。帰るから。お父さんと一緒に帰ります。はい、じゃあ晩飯作っとけよ、四人分」
 がしゃんと音を立てて受話器は電話に戻されました。
 なんと乱暴な音でしょう。
「イブ・サンローランのベビードール」
 声変わりしてもいない声が、偉そうに人の耳元でそう呟きました。
 私ははじめて顔を上げ、そのこの視線を真正面から受け止めました。
 強く突き刺す視線で、その子は弾劾するように私を睨みつけていました。
 私は、心ではなく、赤い糸がまとわりついたままの小指から凍りだすような痛みを味わうことになりました。けれど、凍るということはしたたかな疼痛の後は何も感じなくなるということです。凍った部分は、叩けば簡単に折れてしまうということです。
 よく見ると、その子は赤いリボンのついた夏服を着ていました。
 女の子、なのでしょうか。
 そういえば、わたしはお子さんについては二人いるということくらいしか聞いておりませんでした。
「気に入ってんの? その香り。お父さん、夜遅くなった日はその匂い、ぷんぷんしてるんだよね。お母さんは鼻が悪いし、洗濯はお父さん自分でしてるからまだ気づいてないみたいだけど、子供にとっちゃ香水なんて鼻につくきっつい臭いしかしないからすぐわかるんだよね」
 背筋が上から霜にでも固められていくようでした。
「ベビードールなんて、女の子なら誰でも持ってるものよ」
 幸い声は震えませんでした。
 香りから足がつくなんて思ってもいませんでした。係長も香水愛用家ですから、一緒にいても嫌なにおいにならないように無難に溶ける香りを選んでいたつもりでした。
 きっとただの脅しです。こんな小さな子が香水の香りを嗅いだだけで名前まで分かるわけがありません。それもあんな所帯じみた声の女の子供です。電話であんなにがさつな応対をする子供です。聞いたことのある名前をあげて図星を誘うという魂胆だったに違いありません。
「今日のフレンチは予約断っておくんだな。沢尻明日香サン。ああ、これから先の予約も全部ごめんなさいしとけよ。あれは、うちのお父さんだから」
 耳に囁きこまれた言葉は、まるで呪いのようでした。
 どうしてこんな小さな子供にばれたのか、本当にさっきの奥さんにはばれていないのか……ぐらぐらと振り子のように不安がお腹の底でゆっくり揺れています。
 ばれたってかまやしない。
 ついさっきまでそう思っていたのに。むしろ、いっそばれて私の存在を知らしめたいとすら思っていたのに……この敗北感は一体何からきているのでしょうか。
「お父さん、お父さん、今日のご飯、カレーなんだよ」
 小さな子供がたどたどしくも嬉しげに喋っています。
 そんなにお父さんと言わないでください。
 その人は、私の係長です。私の博正さんです。
 お父さんではありません。
 奥さんまでお父さんて呼ぶなんて……なんて日本語というのは嫌な言葉なのでしょう。
「わかったわかった。今帰る支度をするから、廊下に出て待ってなさい」
 すっかり父親の声で係長は子供二人を職場から追い出しました。
 そして、言葉通りいそいそと帰り支度を始めています。心なしか顔にはだらしない笑みがにじんでいます。
「係長……」
 思ったよりもか細い声で私は係長を呼んでいました。
「今日中にどうしても決裁ほしい書類が……」
 一体、私はこんなに女々しい女だったでしょうか。
「今日はもう時間外だからね。決裁を下ろせたとしても、課長がもう帰ってしまっているんだからいずれ明日の朝になるだろう? たまには君も早く帰るといい、沢尻さん」
 フレンチの予約は? ホテルの予約は? 今日はリッチにいこうって言ってたじゃないですか。私が一番だって言ってたじゃないですか。奥さんや子供の話しをあまりしなかったのは、私が一番だったからでしょう?
 今日は、係長のお誕生日じゃないですか。
「それじゃあ、お疲れ様。あとは頼んだよ」
 どうしてそんなに爽やかに私に背を向けられるんですか。




 翌日、係長は上機嫌で出勤なさいました。
 私は、信じていたんです。まだ小指にはこの人との糸が結びついていると。あの切れた音は何か別のものの音だったんだって。
 だって、私は係長のことが大好きなんです。愛しているんです。全て投げ出したってかまわないって思ってたんです。だって、そう、だって私には庇護者が必要なんです。
 私は一人なんです。高層ビルの間と蟻の巣のような地下鉄をくぐり抜けながら誰もいないアパートとを往復して、心休まる人に会える瞬間なんてどこにもないんです。
 好きです、係長。
 私の赤い糸の先にはあなたがいたんです。あなたしかいなかったんです。
 寂しいからとか、怖いからとか、それだけで好きになっちゃいけませんか? 守ってほしいと思ってはいけませんか? それは恋じゃないって言いますか?
 せっかく見つけた糸の先を失いたくないと思ってはいけませんか?
 きっかけは子供のような気持ちだったとしても、今は恋なんだって思ってるんです。
「おはようございます、係長」
 お話があります、と続けるつもりでした。
 諦めたくなんかありません。
 例え昨日聞こえた糸の切れるような音が、私が奥さんに何か言ったのではないかと係長が疑ったからだったとしても、私が係長の表情を見て係長を信じられなくなったために聞こえた音だったとしても、私には係長しかいないのです。切れてしまったなら、もう一度結びなおせばいいのです。
 逃したくない。嫌われたくない。失いたくない。
「ああ、おはよう、沢尻。昨日言ってた書類は出来てるか?」
 今日の係長からは、香水の匂いがしませんでした。
 




 かみさまは、とても意地悪です。
 そしてとても、優しい。
 いま、私には、左手の小指に白い糸で固く結ばれた人がいます。
 その人は私の過去など知りません。当たり前です。あの人の奥さんすら私に気づかずに終ったのですから。
 だけど、私は密かに今繋がっているこの白い糸が赤く塗り変わっていくのを感じています。
 それは、はじめから赤いよりもとてもわくわくさせてくれます。
 もしかしたら全部赤く染まるまでは一生かかってしまうかもしれません。それでも、この心地よいどきどきやわくわくは次第に私をその人に縛りつけていくのです。


 私はいま、しあわせです。








〈了〉






書斎 管理人室  読了






20070617191700