北向きの向日葵




 向日葵の花というのは、大概太陽の進む方を向いているものだ。ギリシャ神話に曰く、太陽神アポロに捨てられた娘が一途に九日九晩アポロを見つめ続けて根っこが生えてしまったのが向日葵なのだとか。
 自分の意思で太陽のよく見える場所に根を生やしたのならば、まだ救いがある。生まれつき太陽に背を向けるように育てられてしまった自分は、向日葵という名を持ちながら、見つめることができたものは太陽のように光放つものではなく、いささか薄くのばされた青い闇の中に佇む仄灰色い北の雲だけだった。
 断っておくが、わたくしは太陽の光を浴びられないわけではない。もし、この人さえいなければ、わたくしは何の制約も受けることなくこのろくに使用人も残っていない屋敷から飛び出して、夏の浜辺で肌を焼いていたことだろう。
「十四郎様、お身体を拭くお時間です」
 主人の北田十四郎は今年で三十五になる。歳だけを聞けば、まだまだ働き盛り、若そうな気もするだろうが、北窓の部屋、豪奢な天蓋の下で寝巻きを脱がされ肌を露わにした姿を見せつけられれば、おそらく誰しも息を呑み、そのまま口を閉ざして踵を返すことだろう。
 主人の身体はおそろしく醜いものだった。
 十年前、不意の閃光に蝕まれて以来、爛れた皮膚は全身から剥がれ落ち、溶けかけた肉は化膿と治癒を繰り返しながらプラスチックのように固く嫌な光を放つケロイドとなり、主人の身体を覆っていた。
 こんな二目と見れぬ姿にされるくらいなら、赤紙が来た時に姑息な手を使わず戦地に出しておけばよかった、とは一昨年亡くなった主人の父の言葉だが、それを聞くたびに主人はいつも顔をしかめて自分の父親を部屋から追い出すように手で払っていた。
『私が悪いのだ。あれだけ元気だったものを、病弱を装わせてあの部屋に閉じ込めて。結局、私があいつを殺したようなものだ』
 反戦論者だった主人の父は、まだお酒が飲めた頃、わたくしに酌をさせては夏に冬にかかわらず、時たま思い出したようにそう呟いて自ら頭を抱えていたものだった。
 わたくしはかける言葉もなく、ただ主人の父が好きだった焼酎を解けかけた氷が残るグラスに注ぎ足す。
 北田親子が酌を酌み交わしたことは、わたくしが知る限り一度もない。
 裕福な投資家であった北田十郎は、物静かな反戦家であり、しかしながら商売の行方と非国民と謗られるのを恐れたのか、一度も表立って太平洋戦争に異議を唱えることはなかった。己の主義主張よりも守りたいものが多かったのだろう。とりあえずわたくしはそう思うことにしている。物静かといえば聞こえはいいが、臆病者といわれても仕方ないとも。そして彼はそれを一番熟知していた。
 一方の十四郎、息子の方は戦中の教育が功を奏したのか生まれつきだったのか、他の誰とも違わぬ純粋な国粋主義者となっていた。毎日のように聞かされた軍歌にはいつも力と熱がこもり、聞く者の心を奮い立たせる魔力がこもっていたのを覚えている。
 そんな正反対の思想を持つ二人が、仲良く杯を傾けることなど誰が想像できただろうか。
 開戦とともに生じた親子の亀裂は知らぬ間に大きくなり、昭和二十年五月も半ばに主人が待ち焦がれていた赤紙が来た時に決定的となった。
 そもそもそんなに遅くまで、心から国を憂えていた主人に赤紙が来なかった方がおかしかったのだ。今か、今かと待ち焦がれながら、まだお呼びがかからないと、せめてもと軍工廠で勤労奉仕に勤しんできた主人。身体はいたって健康。幼少期から続けている柔道の腕前は師範級。たしなみとして年に数回行っていた狩猟で銃の扱いにも慣れている。その主人が赤紙を手にしたときの顔の輝きといったらなかった。二十歳も過ぎたというのに男伊達らに涙まで流し、万歳、万歳と大声で叫ぶ声が、主人の父の部屋まで重厚な扉を潜り抜けて聞こえてきていた。
 主人は本当に気づいていなかったのだ、と、その時になってわたくしは確信した。
 自分の父が、金で自分の命を買っていたことに。
 政府に格安で軍需用品を売り捌くかわりに、正妻の置き形見には赤紙を出してくれるな、と頼んでいたことに。
 もし本当に気づいていたなら、主人のことだ。政府の要人のところに直接乗り込むことも、いや、その手で父親を殺めることすら厭わなかったかもしれない。
 それほど、赤紙を手にした主人の喜びようは異常なほどだった。
 赤紙が届いた青年の多くは、涙を流し、肩を落とすという。それでも、非国民と謗られるのを恐れて、あるいは戦争にいけるのは名誉なことなのだと恐怖心を常識で捻じ伏せて、万歳三唱を唱えて黒い機関車に乗って南下していく。
 主人には恐怖というものがなかったのだ。
 幼い頃から柔道で頭角を現し、商家の息子として必要な学も与えられ、何一つ不足するものはないと主人自身自負していたに違いない。
 己は完璧なのだと。
 そして、己を完璧な人間に育て上げてくれたこの国を守るのは己自身なのだと、固く誓っていたに違いないのだ。
 しかし、安く軍備を売り渡す代わりに息子には手を出してくれるな。そう契約していたにもかかわらず、主人のところにまで問答無用で役人の手で赤紙が手渡されたのは、即ち戦況の悪化を意味していた。
 今思えば、主人の元に赤紙が着てから終戦まで三月足らず。軍需用品を売るのが北田家の生業だ。主人の父が戦況の良し悪しを知らなかったわけがない。もう少し息を潜めていられれば、戦場で勝ちもしない戦のために命を落とすこともない。主人の父はそう判断していた。
 だからこそ、主人の父は息子の出征する前日、息子を呼び出し、竹刀でその両足を叩き折ったのだ。
 物陰からそれを見ていたわたくしは、ぐにゃりとあらぬ方向に向いた主人の両の足を直視することは出来たが、折られた足の痛みにではなく、お国の役に立てないと泣き叫ぶ主人の荒ぶった声を聞き続けることは出来なくて、両手で耳を塞いだまま屋敷に戻った記憶がある。主人は折れた足を治療するという名目で集合場所に赴く前から除隊され、屋敷一階北側の板垣しか見えない部屋に閉じ込められた。
 これでよかったのだ。主人の父からこっそり学を授けられたわたくしは、漏れなく反戦主義の思想も受け継いでいたから、そのときは迷いなくそう思ったのだ。そう、そのときは。
 もし、主人がこれほどひどい火傷を負うことさえなかったならば、わたくしは今でもそのときの主人の父の行動を賞賛し続けたことだろう。
「向日葵、窓を開けろ」
 はい、と答えてわたくしは手に取りかけていた濡れたタオルを水を張った盥の中に戻した。
 窓を開けると、夏の残香が蝉や虫たちの鳴き声とともに吹き込んできた。北の空は蒼い。やや灰色がかった白い雲がもくもくと山のようにそびえてはいたが、まだまだ天気は崩れそうにない。
「気に食わないな」
 窓から吹き込む微風を受けて顔をしかめながら、主人はぼそりと呟いた。
 わたくしは驚いて後ろを振り返る。
 十年、主人の身の回りの世話をしてきたが、主人がそんな感情のこもった声をわたくしの前で発したのは、あれ以来初めてのことだった。
 主人は、じっと窓の外を見つめていた。
 窓の外には、太陽が見えないせいで夏なのに蒼い空と仄灰色いもくもくとした雲、だいぶ痛んだ板垣に、花開かせた何本かの向日葵。鳳仙花、彼岸花に秋桜子。
「板垣ですか? それなら今月の終わりには修理工を呼んでおりますので……」
「気に食わない」
 わたくしの言葉など聞く気もないというかのように、もう一度主人は低く呟いた。
「窓を閉めましょうか?」
 何が、と聞く前に、主人の思うところを察する癖のついていたわたくしは、薄いガラスを六枚はめ込んだ木枠の窓の縁に手を掛けた。
「閉めるな。空気が淀む」
 これまで、ずっと閉めたままでも何も言わなかったのに、今日の主人は明らかに様子がおかしかった。
 暑さに頭がやられたのだろうか。
 いや、今日の暑さは昨日、一昨日ほどではない。風もあるし、適度な涼を運び込んでくれている。
 ぼんやりと空を見上げながらそんなことを考えていると、がたん、と何か重いものが高いところから転げ落ちる音がした。
「十四郎様!?」
 寝台からは主人の姿が消えていた。
 あわててわたくしは寝台の向こう側に駆け寄る。
「はは、無様だろう」
 身体を拭く途中だったのだ。上半身肌蹴た寝巻き姿のまま、主人は寝ぼけて寝台から落ちたかのような格好で床板の上に転がっていた。
 引き攣れた背中の肌が、見慣れているはずなのになぜかとても疎ましく醜く見えた。
「向日葵」
「はい」
 主人の背中は笑いをこらえてでもいるかのように小刻みに震えている。
 十年前、あれほど隆々としていた筋肉はすっかり影を潜め、皮だけが骨に張りついているかのように肩も背中も腕も貧弱で、床ずれた跡はこの大の大人が寝返りを打つこともままならないのだと訴えているようで、目に映すには余りあるほど痛々しい。
 幼い頃、汗の臭いが蒸しかえる道場で探した人の身体はどこにもない。
「わらえ」
 逃げ出そうと左足に力をこめ始めていたわたくしに、一言主人は命令を発した。
 わたくしは全ての言葉を飲み込んだ。
「向日葵、わらえ」
 もう一度、ゆっくりと噛みしめるように主人は命ずる。
「わらえと申されましても……」
 喉元から押し出した答えに、すでに正解も何も与えられなかった。
 主人は両腕で寝台に寄りかかりながら身を起こし、わたくしの前をすり抜けて寝台から壁伝いに北窓へと這うように歩いていく。
 肩を貸そうとしたわたくしの腕も振り払い、開け放した窓から上半身を突き出して、一つ呻く。
「気に、くわ、ない……」
 機械のようにそう呻く。
「何がでございますか? おっしゃってください。直しますから」
 一階とはいえ、十年かけて弱り果てたこの身体の主人が落ちたらただではすまない。
「だめだ。お前じゃ駄目だ、向日葵」
 頑なにそう言うと、主人はどこにそんな力があったのか、窓枠にかけていた腕に力を込め、ごろり、と外へと上半身を転がした。
「十四郎様!!」
 主人は寝台から落ちたときのように肩から大地に落ち、身体を丸めて呻いていた。
 だから言ったのに、などと言ったところで何も始まらない。わたくしは急いできた窓の部屋を飛び出し、勝手口から主人が落ちた小さな庭へと走り出た。
 しかし、主人はもう窓の下にはいなかった。
 大地をなめくじのように這いながら、破れかけた板垣を隠すように作られた小さな花壇へと向かっていく。強い意志に支えられて顔を上げた先、一心に見つめているのは丈高く咲き誇った向日葵の一群。
 何本かが密集した向日葵たちの中、一本だけが主人の部屋の方ではなく板垣の方を向いている。
 主人が気に食わないと言っていたのはあの向日葵のことか。
「十四郎様、あの向日葵でございますね。あの向日葵ならわたくしが処分いたしますから、どうか寝台にお戻りください。これ以上日に当たりますとお体に障ります」
 八月の太陽は容赦なく地面を、そしてその上にいるものを照りつけ、灼き焦がす。あの光に蝕まれて以来、主人は直接日光に当たれなくなってしまった。もし帽子も長袖のシャツも着ずに五分でも外を歩こうものなら、そうでなくても焼け爛れた全身が赤くはれ上がり、水ぶくれだらけになってしまう。特に今日の日差しは、いつになく強い。帽子どころか上半身すらシャツが肌蹴てしまった十四郎様がじかにその光を浴びて無事でいられるわけがない。
「お戻りください、十四郎様!」
 わたくしは自分の前掛けをはずし、少しでも直射日光から十四郎様を守ろうと包み込むように抱きしめた。
 すでに背中は赤く、ぽつぽつと水ぶくれが出来はじめている。
「放せ、向日葵!」
 十四郎様は、躊躇なくそんなわたくしを物のように払いのけた。
 ごろりとわたくしの身体は庭を転がる。
 十四郎様は、わたくしを冷たい目で見下ろしていた。
「処分と言ったか、向日葵」
 低く掠れた声は怒りに満ち、十年前に感じた恐怖そのままわたくしは迫力に呑まれ、生唾を飲み込む。
「あの向日葵を処分するといったのか、向日葵」
 わたくしが最早応えられる状態ではないと分かっているくせに、十四郎様は尚も問いかけた。
「申し……ました」
 土に転がったまま押し出した声は恐怖に掠れていた。
 わたくしにとって、主人とは恐ろしい人だった。小さい頃からその存在になぜか憧れを抱いてはいたものの、道場で枯れて荒くなった声と鍛え上げられた山のような肉体を操る性質もまた飢えた獣のように獰猛で横暴で、特に、わたくしを見ると気の目つきの冷徹さ、鋭さといったらなかった。
 今でも。
「十四郎様が気に食わないとおっしゃるものを、どうしてそのままにしておけましょう」
 賢しげな女中の言葉は、主人を激昂させるに十分だった。
「誰が処分しろと言った、向日葵!!」
 次の瞬間、体中が痺れるほどの怒号が打ち下ろされていた。
 わたくしの頭の中は一瞬、空白になった。
「う……」
 相手は病人なのだ。それも十年、屋根の下で寝台に括りつけられ、最早一人で歩くことすら叶わぬ病人なのだ。
 早く起き上がれ。そして、あの方を屋根の下に連れ戻さねば。どうせ主人は気まぐれでわたくしを困らせているに過ぎないのだから。
 一度空っぽになった頭の中で、今度は妙に冷静な思考が出来上がる。なのに、それに身体はついていかない。
 呆然としたまま立ち直ることの出来ないわたくしの脇を、主人は再び這いながら向日葵の一群へと向かっていく。
「なぜ、処分などと言う、向日葵」
 じりじりと、太陽の声を代弁するように油蝉が暑苦しい鳴き声をあげていた。その音と交わることなく、主人の大地を這う鈍い音が規則的に青空に刻まれていく。他に音はない。板垣の外を走る自転車のベルの音も、夏休みに浮かれて川遊びをする子供の声も、豆腐売りのラッパの音も、何も聞こえない。
 戻ったかのようだった。
 十年前のあの日に。
「あ、あ……」
 奇妙な静寂が身を焦がす。記憶を焦がす。とうに灼き尽くしたはずのわたくしの記憶の燃え残りが灰になりかけながらふわりふわりと意識上に立ち上ってくる。鼻を突く焦げた臭いとともに。
「向日葵」
 頭を抱える。何も聞こえないように耳を覆いながら。何も見えないように瞑った瞼越し、外の光が溢れてこないようにしっかりと顔を伏せて。
 来る。
 恐ろしい光が降って来る。
 恐ろしい轟音が、身体を散り散りにしてしまう。
 蒼い空に、黒い一点が見える。
 時が、止まる。
 白く。
「向日葵」
 優しい声が聞こえた。
「大丈夫か、向日葵」
「……お兄……様……?」
 そう呼んでしまって、はっとわたくしは口元を手のひらで覆う。そして首を振る。違うのだ、と。
「痛いところはないか、向日葵?」
 誰だろう、この人は。こんな優しい幻覚を夢見られるほど、わたくしはもう何もこの人に期待などしていないのに。
 鼻の天辺が触れそうなほど間近で見たこの上ないほど優しい微笑は、しかし数瞬の後、苦悶の呻きとともに歪み、その人は重い体躯ごとわたくしの上に倒れこんできた。
「向日葵。終ったんだ。何もかも、とうに終ってる」
 知っている。戦争は終ったんだ。
 この数日後に、わたくしも厨の隅っこで天皇陛下のお声を聞きましたもの。
 存じております。
 十四郎様が、父と元婚約者だった母の不義を理由にわたくしに冷たく当たっていらしたのを。それを、本当は十四郎様御自身が一番気に病んでいらしたことも。
 存じております。
 だから、わたくしはそうと知ってからは一度だって十四郎様をお兄様とは呼ばなかったではありませんか。兄が出来たと喜んでまとわりつくこともしなくなったではありませんか。母が死んだからといって、あなたに甘えようとしたことも、一度もなかったではありませんか。
「どうして……庇ったりなさったのですか……」
 自分の身体の上で野獣のような吠え声を上げながら身をよじる大の大人を前にしては、そんな些細な問いすらかける気にはならなかった。
 わたくしは、左手に自分よりも丈高い向日葵を握っていた。
 植え替えようと思ったのだ。この向日葵だけ、十四郎様のお部屋の方を向いて咲いていなかったから。この向日葵だけ、一本太陽の見えない北を向いていたから。
「両足をへし折られてあの部屋に閉じ込められた後、食糧にとっておいた向日葵の種をこっそりあそこに蒔いたのはお前だろう、向日葵」
 わたくしの正面には、十歳年を経た十四郎様がいた。
 その手には根っこの付いた向日葵を握っている。指先は土を掻いたのか黒く汚れ、間断なく上から滴り落ちてくる透明な滴に余計に黒さを滲ませていた。
 戻りましょう。早く戻ってお休みにならないと……。
「向日葵、お前をそんなにしたのは俺か? 自ら植えた向日葵の子孫を、北を向いているという理由だけで処分するなどと言いだすような女にしたのは、この俺か?」
 右肩に主人の手が食い込んできていた。
「だって、気に食わないと……」
「お前が向日葵を植え替えようと外に出てまたあんな目にあったら、俺がこんな姿になった意味がないだろう。それくらいなら俺が植え替える」
 脂汗が滲んでいた。焼け爛れ、引き攣った醜い顔。落ち窪んだ眼窩には、失ったはずの光が真夏の太陽のようにぎらついている。
「もう終ったとおっしゃったではありませんか。何もかも、とうに終っていると、今さっき十四郎様がおっしゃったではありませんか」
 全て、あの玉音放送で区切りがつけられていたはずだった。
 十年前の今日を境に、恐ろしい終末へと転落することはなくなったはずだった。
 だけど、七年、父は息子との確執に苦しんだ末に癌で死に、十四郎様は傅く者もいない屋敷で、憎い妹に主人と呼ばれ、身の回りの世話をやかれながら生の時間を潰していく。いつまで続くのかと絶望しながら。
 わたくしたちは、なにも終ってなどいなかった。生活に欠かせない寝食と同様に、この醜い気持ちと燻った思いとに打ちひしがれながら、十年も取り残されてきてしまった。
「……もっと早く咲いてくれればよかったものを……」
 振り返ると、北を向いて咲いていた向日葵はなくなっていた。今主人の手の中にあるものが、それなのだろう。
「一年でも、二年でも、もっと早く咲いてくれればお前を自由に出来たものを……向日葵」
 十年の日常の中に、たった一日、兄妹であった瞬間を埋めてきた。
 お互いにそれが唯一生きていく術だと思っていた。
 もし、ともに玉音放送を聴けていれば、とうにわたくしたちは互いから自由になれていただろうか。あの太陽に背を向けた向日葵さえ生えてこなければ、わたくしたちは一度も気持ちを通い合わせることなく憎しみあったまま別な道を進み続けたのだろうか。
 この人は、一体何を思いながら十年、わたくしの目の前にこの身体を晒し続けてきたのだろう。もしかしたら、ずっと待っていたのだろうか。あの窓に背を向けて咲く向日葵を。
「植えましょう、十四郎様。この向日葵は、さっきまで咲いていたようにあちらに向けて、また植えてあげましょう」
 十年前の幼いわたくしは、向日葵は太陽を向いて咲くものだと思っていた。だから、北窓しかない義理の兄の部屋からでも、本物ではなくても太陽が見られるように、早く足がよくなるようにと。そして本物の太陽に気づいてくれるようにと、幼い願いを込めて非常食にとっておいた向日葵の種を蒔いたのだ。それなのに、一本だけあの窓に背を向けて北を向いて咲いてしまった向日葵があった。
 わたくしは許せなかったのだ。
 なぜ本物の太陽を見ようとはしないのか、と。向日葵であるなら本物の太陽がどこにあるか分かっているはずなのに、なぜわざわざ背を向けるのか、と。
「十四郎様がよい、とおっしゃるなら、わたくしはそれで構いません」
 あのときの義兄の気持ちが理解できたわけではない。ただ、わたくしもずっと日の光に背を向けて生きてきたのだ。憎まれていると思った義兄にあの死の閃光から庇われて以来十年というもの、わたくしの正義は太陽の下にはなくなってしまった。
「よい」
 義兄は、静かに握っていた向日葵をわたくしの手に握らせた。そのまま、ずるりとわたくしの膝に倒れこむ。
「十四郎様……!!」
 すでに息は荒く、焦点は遥か遠くを見つめていた。
 いけない。このままでは義兄が死んでしまう。わたくしの十年が……。
「向日葵」
 わたくしは、憎んでいたのです。
 あれほど心抉られる視線を向けつづけてきながら、たった一度優しさを見せてわたくしの心を縛りつけた義兄を。あの時わたくしを助けたことすら、新たなる復讐なのではないかと、そんな情けない思いをわたくしに植えつけた義兄を。
 わたくしは、ご恩返しのつもりで十年も義兄の身の回りの世話をしてきたのではありません。父母の罪滅ぼしのつもりでもありません。世論に流されるがままに平和に背を向け、家内でも横暴に振舞い続けた男の死に様を見てやろうと、ずっと主人に仕える女中のふりをして十年も義兄の世話をしてきたのです。
「背丈が伸びれば、見えるものはささくれ立った板垣ばかりじゃないだろう?」
 こんな死に様は望んでいません。
 わたくしの膝上に頭を載せ、太陽の下で幸せそうに目を細めながら逝く姿など、誰が許すものですか。
 引きずってでも室内に戻そうと持ち上げた義兄の身体は、根が生えてしまったかのようにいつになく重かった。
「……だからといって、あの時のあなたが見ていたものは、わたくしには今でも理解できません」
「勝つしかないと思っていた。勝たなければこの国は滅んでしまう。俺たちは皆、殺されてしまう。己が傷ついてでも、守らなければならないものが俺にはあの板垣の向こうに見えていた」
 何を守りたかったというのだろう。貴方の大切なものは、実父に奪われてしまったではありませんか。その醜い情の証と憎い実父しかいなかったあの屋敷で、貴方には他に何があったというのです。
 頭を抱えた。
 なぜ、わたくしは今でもこの屋敷の中のことでしか世界を見ることが出来ないのだろう。あの板垣の向こうにも、この人にはわたくしの知らない世界が広がっていたのだ。
「貴方の守りたかった人は、どうしたのですか」
 酷と知りつつ、わたくしは訊ねた。
「あの光を受けて死んでしまったそうだ」
 足さえ折れていなければ、この人は憎いわたくしではなく大切な人を守って傷つくことが出来たのに。
 他人事のような言い方に、義兄がとうにそのことに折り合いをつけていることが伝わってきた。
「向日葵、早くその向日葵を植えなおして来い。早く」
 言われるがままに、わたくしは掘り返された場所に元通り太陽に背を向ける形で向日葵を立て、その根元に土をかけた。
「ああ、太陽が見える……」
 わたくしが額の汗を拭って向日葵を見上げたとき、大空を仰いだまま安堵した声が聞こえてきた。
 蝉時雨の中、いつもと違う正午の時報が聞こえる。










〈了〉





  管理人室 書斎  読了

  200708182232