それが約束の音色なら




 声を無くすということは、すすり泣くことすら出来なくなるということだ。
 だから、わたしは心を凍りつかせるしかない。
 何かを感じたら、それを声で表現したくて仕方がなくなる。
 自由に、自在に、わたしの声で空間いっぱいに想いを広げたくて仕方がなくなる。
 この体はわたしを閉じ込めておく粗雑な檻。
 どうせ閉じ込めるのなら全てを遮断してくれればいいものを、格子の隙間からは秋の空に連なる雁の群れが見え、収穫を終えた田に遊ぶ子供達の声が聞こえる。
 やっぱり、外になど出てこなければよかった。
 わたしはもう、二度と声など出せなくてもいいのに。
 吹く風の冷たさも、めっきり少なくなった赤とんぼも、見れば他愛ない童謡を口ずさみたくなる。うらうらとした昼下がりの日差しの中、散歩する人と行きかえば会釈だけでは足りなくなる。
「いいお天気ですね」
 そう話しかけられても、にっこり微笑んでうなずいて見せるしかない。
 人と会うことすら、煩わしくて歯がゆくて仕方がないのだ、今のわたしは。
 閉じこもっているばかりではいけない。
 周りはそう言うが、わたしを取り囲む刺激の全てがわたしのストレスになっていく。
「ゆっくり休みを取って落ち着いてくれば、きっと声も出るようになるからさ」
 一週間前そう励ましてくれた貴子は、これ幸いにとその三日後に清川とバンドを結成してしまった。
「未来の声が戻るまでちょっと助っ人だって。ね?」
 わたしにも清川にもいい顔をしていたけれど、わたしは知ってる。
『女二人で歌っててもさ、未来と一緒じゃ先なんか見えてるじゃん。アコギ抱えて地下道で歌おうが駅前で歌おうが、いまどき珍しくもなんともないじゃない? こんな田舎じゃスカウト来るわけでもないし。それにさ、結局未来ってプロになりたいのかこのまま田舎に埋もれてたいのかわかんないんだよね。東京行こうって誘ってもバイトの都合があるからもう少し待って、ってもう半年以上待たされてるし。なによりさ、これはほんと内緒ね。未来の作るうた歌うの、あたし最近しんどいんだよ』
 清川に漏らした、それが貴子の本音。
 貴子は上昇志向も強いし、考え込むなんてこととは無縁の太陽みたいな人だから、きっと最近わたしが持ってくる後ろ向きな詞には辟易してたんだろう。
 詞が後ろ向きだからって、別に失恋したわけじゃない。
 バイトで大きな失敗をしたわけでもない。
 ただ、貴子にプロになりたいから上京しようって言われて、正直どうしたらいいか分からなくなってた。
 自分達にそれほど人を魅了する力があるのか、上京してちゃんと暮らしていけるのか、本当にプロになんかなれるのか。
 突然つきつけられた選択。
 勿論、夢を見たことがなかったわけじゃない。
 人が過ぎ去っていくだけの駅前広場で歌いながら、ここが熱気溢れる武道館だったらいいのにとか、せめてライブハウスで落ち着いて聞いてくれる人を前に歌ってみたいとか。
 でも、それらは全部夢でしかないと思ってた。
 せいぜい前向きに考えても、駅前で歌ってあわよくばスカウトの目にでも止まればいいと、やはり夢見心地な想像の範囲を超えることはなかったのだ。
 そりゃあ一年前、ミュージシャンになりたいって言って進学もせずにフリーターの道を選んだけれど、実際はバイトで生活していくのに精一杯で、そのうち感性も日常に蝕まれるようになっていた。ミュージシャンになりたいなんて夢を語っていても、いつの間にか社会人になっていく仲間だって何人も見てきた。
 結局、夢を追いかけても大半はその端を掴むこともないのだと思うようになっていた矢先。
 学生身分で生活に困ることもない貴子が、大学やめるから東京に行こうと目を輝かせてわたしに言った。
 中途半端に自立することの大変さが貴子には分かっていないのだ。
 そう思う反面、東京で音楽活動に励むなら今のうちに生活費を溜めておかなきゃ、なんて打算も働いて、時給のいい深夜の飲み屋のバイトにますます精を出し、貴子に意思をはぐらかしているうちにあっという間に半年が過ぎていた。
 貴子が苛立っているのはうすうす気づいてたんだ。
 貴子の作る明るいメロディとわたしが感性のままに作る後ろ向きな詞。
 出来上がるものがちぐはぐになりはじめているってことにも気づいてたし、わたしはわたしで貴子の作る曲に不満が募りはじめてた。
 だけどこのまま寒くなっても、去年みたいに長いマフラー二人で巻きあって、指先のない手袋はめてかじかむ指でギターを弾きながら歌い続けているものだと信じてた。
 声が出なくなったのは、もう歌なんかいらないって思ったからかもしれない。
 声さえ出なければ、もう歌なんか歌いたいなんて思わなくなるかもしれないって思ったからかもしれない。
 いつもの駅前広場。
 夕方の会社帰り、学校帰りの雑踏を前にわたし達は歌ってた。
 『約束』という名の曲にこめられた迷い、苛立ち、不安。
 わたしの心を綴った詞と、馬鹿みたいに希望に溢れた積極的なメロディ。
 高音域担当の貴子の声と、中音域担当のわたしの声と。
 その日、お互いの心が離れていたことを暴き立てるように、二人のハーモニーはみごとに空中分解した。ただ行過ぎるだけだったはずの人たちが、思わず振り返って立ち止まるほどに。
 気丈な貴子はそれでも夕空にらみながら歌い続け、その中の見知らぬ一人と目があってしまったわたしは、その瞬間声を失った。
 歌いたい。
 だけど、もう歌えない。
 たとえ声が出るようになったとしても、わたしはこの一週間で歌い方すら忘れてしまった。
 いや、いっそ歌えなくていい。
 もう何のために歌いたかったのか、わたしには分からなくなってしまったから。
 田畑に囲まれた平日昼間の住宅地。
 小学生もまだ学校のこの時間、通りを行く人はほとんどいない。
 出会ったのはさっきの犬の散歩の老婦人だけ。
 奇妙なほど穏やかな静寂が辺り一帯を覆っている。
 これが普通の日常というものなのだろう。
 ごくごく一般的な家庭のあり方というものなのだろう。
 わたしもそのうち、これらの家のどこか一部になる。
 お昼は昼ドラとワイドショー。子供の帰りを待って夕飯を作り、遅くなった夫のためにご飯を温めなおす。そんな主婦になるのだろう。
 不幸だとは思わない。
 それがわたしのもう一つの隠れた夢だから。
 気づいたのは、声を失ってこうやって昼間から散歩に出るようになってからだった。
 声が出なければバイトもできない。
 田舎の端っこの親元に強制送還されたものの、飛び出した手前実家の居心地は悪かった。
 結局外にも家にも居場所がなくて、治療と称して外に出される。
 たくさんのものを見て、聞いて、触れて。そうやって心を解きほぐせば声も出るようになりますよ、と。
 目の前には刈り取られたあとだけが残る田んぼと包み込むように取り囲むなだらかな山脈。寒さが染みるのか色褪せはじめた山の稜線は、傾ぎはじめた日の光の中で己の領分を守るように高く透き通った青空とせめぎあう。
 どこか頽廃的な風景。
 思わず立ち止まっただけで、わたしの目からはあたたかいものが流れ出していた。
 胸はひきつって肩がせりあがる。
 たかが田舎の見慣れた風景なのに、いつの間にわたしはこんなに弱くなってしまったのだろう。
 お腹までもがひきつりはじめる。
 目と胸と肩で泣いて、お腹と口元で笑って、明日はきっと全身筋肉痛になっていることだろう。
 だけど――
 こんなに全身でわたしは感情を発散しているのに、どうして気持ちが晴れないんだろう。
 しゃくりをあげるたびに空気は確かに喉元をすり抜けていくのに、どうして掠れた音すらたててはくれないんだろう。
 お腹から笑って大量の息を吐き出しているのに、どうして一つも音になってくれないんだろう。
「(ああ)」
 ため息すら音にならない。
 まるで世界から拒絶されているように、わたしは一人だった。
 いや、もはやヒトですらないのかもしれない。
 泣くことも笑うことも、ガラス板を引っかくのに似ている。
 わたしには世界が見えているのに、わたしはその向こうに手を伸ばすことが出来ないのだ。
 外という刺激に溢れた世界がどれだけわたしに苦痛をもたらすのか、きっと誰にも分かるまい。青空とせめぎあう山の稜線一つを見ても涙が溢れるわたしの気持ちなど、きっとわたしにしか分かるまい。
 心が凍ってしまえばいいのに。
 それが無理なら、いっそこのガラスの檻を真黒く塗りつぶしてしまいたい。
 瞼を接着剤で張り合わせ、耳を削ぎ落とし、指先を焼いて。
 そして、唇を縫い合わせて――
 唇を噛みしめたままわたしはしゃがみこみ、抱えた膝の中に顔を埋めた。
 絶対にできるわけないのに。
 そんなこと、わたしには絶対に出来ない。
 出来たらとうにやっている。
 出来るくらいの勇気があれば、わたしはこんなところで蹲ってなどいない。
 それに、頭の中をよぎる想像すら生ぬるいじゃないか。
 本当にもう何も見えなくていいのなら目を突けばいい。
 本当にもう何も聞こえなくていいというなら鼓膜を破いてしまえばいい。
 本当にもう何も感じたくないというのなら、この全身を焼いてしまえばいい。
 本当にもう何も口ずさめなくていいというのなら、声帯を引きちぎってしまえばいい。
 虚ろなまま、わたしは今生きている。
 心と体の間にで来た隙間を埋めることもできずに、わたしは一人でのたうっている。
 助けてほしいと全身で言っているのに、想いを声に出来ないというだけで、誰もわたしの言葉に耳を傾けてくれようとはしない。
「(あ……あ……あ……あ……)」
 口を「あ」の形に開いて息を吐き出す。
 たしか「あ」はこうやって発音していたはずなのに、音がならないというだけでこの形が「あ」になるのか「お」になるのか分からなくなる。
 体の表面に冷たく粘る汗が寄り集まってきて、わたしは両手で自分の喉をかきむしる。
 衝動的なその行為が繰り返される度に、爪にはかすかな皮膚と血が溜まっていく。
 首には包帯が巻かれてしまった。
 これ以上掻いたら傷が残ってしまう。これ以上喉元を握る手に力をこめたら、わたしは自分自身を二度と歌えなくしてしまう。
(もう、やめたい)
 唇を動かすことなく、わたしは呟いた。
 何をやめたいかなんて、あえて厳密に考えることもない。
 必ず治るから。
 そう言われても、いつになるかは分からないと付け加えられた。
 ある日するっと喋っていたという人の体験談を聞かされた。
 ちらつかされる希望。
 でも、歌えるようになったとして?
 貴子はきっともう清川のバンドから戻ってくるつもりはないだろう。
 清川のバンド自体東京で一旗挙げてやると息巻いているところだし。
 わたしは、一人になってもあの駅前の雑踏で歌えるだろうか。
 けしてうまいとはいえないギターを片手に、それでも歌い続けたいと思えるだろうか。
 夢を形にする方法をわたしは知らなかった。
 今でも正直治ったあとどうしたらいいのか分からない。
 わたしは一人では何も出来ないのだ。
 田んぼの畦道に本格的に座り込みそうになった時だった。
 およそこの農村風景に不似合いなかきむしるようなアコギの音が聞こえてきた。
 膝はすっくと伸びていた。
 久しぶりに聞いたアコギの音。
 一番聞きたくなかった音のはずなのに、激情を奏でる生の弦の音はわたしの心と体の隙間を埋めていく。
 耳を澄ませるまでもない。
 音は田に背を向ける防風林に囲まれた小さな神社の方から聞こえてくる。
 音色はさながら稲の刈り取られた殺風景な秋の田を吹きすさぶ北風のよう。確かに短調で激しいのに、どことなく泥臭い和音が混じるのはわざとなのか奏でる人の趣味なのか。
 わたしは音を手繰って、いつしか神社の境内に入り込んでいた。
 垣根越しに見るに、その人はお宮の入り口前にどっかりと腰を落ち着けてアコギを抱きかかえるようにしてかき鳴らしている。浸りきっているのか俯いたまま時折髪を左右に振り乱すものの、一向に顔を上げようとはしない。
 朱を帯びた秋の木漏れ日に透ける髪は金茶色。
 遠目にも大きくて指の長い手は複雑なバレーコードも難なく押さえる。
 やがて、メロディはどこか聞いたことのあるものに変化していった。
 曲調は暗いままだけれど、さっきまでとは一転垢抜けて、ささくれ立った心にどんどん引っかかって染みこんでいく。
「(この曲、『約束』だ……)」
 声にならない叫びとともに、わたしは茂みを飛び出していた。
 これだ、と思った。
 わたしのほしかったメロディは、コードをマイナーに落としたこの音色と魂を揺さぶるような力強いストロークで奏でだされる心抉るようなバラード。
 路上で弾くからには万人受けする春の日差しのような穏やかなものがいいと貴子は言っていたけれど、わたしがやりたかったのは全員に媚びる音楽ではなくて誰か一人が大好きだと叫んでくれる自分の音楽。
 ありのままの自分をさらけ出した音楽。
 曲は、突然の闖入者の登場にサビを迎えることなく収束してしまった。
「(もっと!! ちゃんと最後まで弾いてみて!)」
 わたしは両手に拳を握りしめたまま、口を大きく開いて叫んでいた。
 ギターを抱えた男の人は、ぽかんとわたしを見つめている。
「(今の、もっと弾いて!!)」
 今、自分がどれだけ恥ずかしいことをしているのかなんて考えている余裕はなかった。
 続きが聞きたい。
 わたしが求めていたものの答えの続きを。
 ただその一心で、わたしはその人を睨みつけるようにみつめていた。
「もしかして、こないだ駅前でこの歌歌ってた人?」
 がらがらとざらついた声で、茫然とその人は尋ねた。
 わたしは何度も大きく首を上下に振る。
「やべ……。いや、別に盗作しようとか思ってたわけじゃなくて……」
 参ったな、とばかりに頭を掻くその人の前までわたしは進み出て、落ちていた木の棒でむき出しの地面に文字を書いた。
 ――もう一度弾いて。
 と。
 信じられないものでも見ている目で、その人はわたしを見上げた。
 わたしも間近で見つめ返す。
「(……あ……)」
 ふと、その顔が見たことのある顔と重なった。
 一週間前、駅前で歌っていて声が出なくなったあの時、目のあったあの人だった。
 記憶の中のぼんやりとしていた顔の輪郭が目の前の人をなぞりながら明瞭化されていく。
 年は結構上、二十代半ばか後半。もしかしたら三十代に足をつっこんでいるかもしれない。顎に残る無精ひげ、整えられた眉とは対照的に、髪はぼさぼさで首には土に汚れた手ぬぐいがかかっている。着ているものもどう見ても農作業着。
 だけど、初対面だろうがなんだろうが遠慮なく真っ直ぐ突き刺すようにみつめてくるちょっときつめのこの目は、一週間前ギターケース片手にぶらぶらと歩いてきて立ち止まったあの人と同じものだった。
 そうか。
 だから弾けたんだ。『約束』のメロディライン。
 でも、たった一度しか聞いていないはずなのに、楽譜もなしでコード変えてアレンジして弾いてしまうなんて、どう考えても普通じゃない。
 不穏な目つきでみつめるわたしに疲れたのか、その人はゆっくりと息をはきながらCコードを爪弾いていった。
 ふつりと張りつめていたものが緩和される。
 つられて、わたしも胸を緩めた。
 暮れなずみはじめた冷たい空気が肺の中を循環する。
「あんた、声は?」
 ほっと息をついたのもつかの間、その人はざくりとわたしの胸元に切りつけてきた。
「(でなくなった)」
 普通に喋って答えてから、ああ、と呟く。
 声を失って一週間が過ぎていても、話しかけられて伝えたいことがあればやはり先に口が動く。
 わたしはもう一度持ったままだった木の棒で「でなくなった」と地面に記した。
「……そっか。俺さ、もう一度あの曲聞きたいと思って何日か駅通ってたんだよ。でも、そっか……」
「(気に入ってくれたの?)」
 もどかしさに歯噛みしながらわたしは問いかける。
「『大切に抱えていこうと 誓ったあの日、何もかも 失うことなく運んでいけると信じてた』。そこの歌詞しかちゃんと覚えてないんだけどさ、恥ずかしいくらい生々しいけどすげぇ俺の心代弁してるって思って。なのに曲が馬鹿みたいに明るくてすっげー嫌だったんだけど。って、あ、ごめん」
 目を見張る思いでわたしは首を振った。
「でも気ぃ悪くしただろ? さっき俺勝手に曲作り変えちまってたし。それで聞いてられなくて出てきたんだろ?」
 わたしは思いきり首を左右に振った。
「(わたしの欲しかった音)」
 溢れる思いをどう言葉に縮めたらいいか分からなくて、片言、それだけをようやく記す。
「マジで?」
 険を含んでいるようにさえ見えた目に輝きが宿った。
 わたしは何度も頷いてみせる。
「(もう一度弾いて)」
 そして、地面に字を綴る間も惜しくてわたしは唇を動かした。
 息は相変わらず空虚に喉を抜けていくだけ。
 だけど、かすかに一瞬、風が喉に引っかかった気がした。
「(お願い)」
 これほど真摯に誰かに何かを願ったことなど、なかったかもしれない。
 その人は、一度目を伏せるとギターを持ち直した。
 空気が変わる。
 Aマイナーからはじまる『約束』。
 選び取られていくコードは、まるでわたしの思いを読み取ってでもいるかのように脳内のイメージとぴたりと符合し外れることがない。
 吐き出した言葉に欲しい音があてがわれていく。
 歌えないのだからと噛みしめていた唇は、次第に閉じてなどいられなくなった。
 それでもはじめは小さく口ずさむように。それでも抑えきれなくてやがてわたしは歌っていた。
 泣きながら全身でリズムを取り、体を揺する。
 喉を抜ける空気の存在などいつの間にか忘れ果てていた。
 声を出そうと思わずに、ただ己の体から迸る想いを奏でられる音に乗せていく。
「(抱きしめることが 恐かった。手にした)しゅ(ん間 訪れる喪)失か(んを考えた……)」
 ギターの音は続いていく。
 その音を違う世界に聞きながら、わたしは喉元を抑えた。
(今、声が……)
 ギターを引き続けるその人は、つと顔を上げるとにやりと笑った。
 もっと歌えとばかりに刻むビートに抑揚をつける。
「(雲退きはじめた 羅針)ば(んを覗)きこむ。揺(れつ)づける針(の)先、示す方向は(一)つだけ」
 息が切れていた。
 喉元を呼気が掠める音が聞こえる。
 もっと聞きたくて、さらに胸へ、腹へ、空気を貪る。
「そんなに吸いこんでっと過呼吸でぶっ倒れんぞ」
 最後まで期待を裏切らない音色をくれたその人は、音の繊細さからは予想もつかないがらがら声で豪快に笑い飛ばした。
「(だって、もう少し! もう少しで声が取り戻せそうなんだもの!!)」
 喋ろうと喉に意識を集中させた瞬間、息はまた声帯を震わせることなくすり抜けていった。
 がくりと膝から腰から力が抜け落ちる。
 あと少しで取り戻せそうだったのに。
 声を出すという感覚を、喉が震えるという感覚を心ゆくまで味わえそうだったのに。
「よかったら、もっと弾こうか? あんたの声が戻ってくるまで、俺でよかったら何回でも弾いてやるよ」
 いつの間にかギターを小脇にわたしの前にしゃがみこんでいたその人はにこりと笑んだ。それでいて涙を拭おうと手を伸ばしてきたものの、すぐに引っこめてしまった。
 土に黒く汚れているのが後ろめたかったのか、指先の皮が厚いことが気になったのか。曖昧に笑って首にかけていた手ぬぐいで何度か指先を拭ったものの、その手がのびてくる気配は一向にない。
 歯がゆさに、わたしがその手を引き寄せていた。
「あ、おい、ちょっと……」
 ずいぶんと長いことギターの弦を押さえてきた手だ。
 弦だってあれならミディアム。女のわたしには扱いきれない強靭な弦だ。
 そんな弦をいともたやすく押さえ繊細な音色を奏でだすこの魔法の指先は、けして農作業で皮が厚くなったわけではあるまい。沈着しかけているように見える黒い土の汚れも、近くで見れば真新しい。
「(どうしてこんなところにいるの?)」
 技術も感性も申し分ないと思った。
 少なくとも、こんな田んぼのど真ん中の神社で、誰もいないのに弾き語りさせておくにはもったいなさ過ぎる。
 それに、『約束』を奏でだす前のがむしゃらな演奏。
 あれはわたしにはもっと弾きたいのに、という葛藤に聞こえた。
「どうしてって……」
 一瞬浮かべた苦笑をその人は素早く飲み込む。
「実家が農家だから収穫の手伝い」
「(嘘!)」
「本当だって」
「(じゃあ、どうしてそんなに不満そうなの?)」
 黙り込んだその人は、一度か二度聞いたことのあるメロディーを軽く爪弾いた。
 『約束』じゃない。
 清川が好きで追いかけていたインディーズのどこかのバンドのサードシングル。
「音と言葉は約束で結ばれているんだ。音にはふさわしい言葉がある。言葉にもふさわしい音がある。人も同じ。時と場合によって、相性のいい人とどうしてもあわない人がでてくる。――想いとメロディが合致しないといい音楽になんかなるわけないんだ」
 噛みしめるように、あるいは諭すようにその人は言った。
「なんて、俺なに恥ずかしいこと言ってるんだか」
「約束の音色……」
 がらがら声で笑い飛ばす低い声に飲み込まれかけながら、懐かしい声が聞こえた。
 高すぎず、低くがらがらでもない普通の少女の声。だけど、今は得かけた何かにかすかに震えていた。
 ギターの人の照れ笑いが途切れる。
「そう、歌には約束の音色がある。なぁ、求める詞と曲と、それらを提供し合える二人ってのはいいパートナーになれると思わないか?」
 笑うたびに杏仁型に歪んで和らいでいた目の光が、すっと一点、わたしに据えられていた。
「駅前で歌ってるとこ、何度か見かけてたんだよ。その度に正直歯がゆかった。俺ならそこの音こうするのに、もっとゆったり流してやるのに、歌いやすいように一音下げてやるのに……傲慢だろ? でも、歌詞が好きだった。素人くさくて感情むき出しだけど、その分飾ってなくて嘘がない。媚びてない。まんま心を形にしてると思った」
 わたしは、ぽっかり口を開いたまま、ただ目を見開いて目の前の人を凝視していた。
「歌ってる二人を見て、あんたが作ったってのはなんとなく予想ついてたよ。あんたの方が歌う表情に力こもってたから。噛みあってないのもなんとなく見えてた。本気で音楽やってれば、妥協なんか出来なくなるしな」
 全部、お見通しだったのか。
 誰もそこまでわたし達の音楽を聞いてくれているなんて、正直考えていなかった。
 スカウトの人、通りかかる人、音楽仲間。
 それ以外の人がいるなんて、思いもよらなかった。
「まさか同じ田舎だとは思わなかったし、声失くしてるなんて思わなかったけど、あんた、俺の音欲しくない?」
 がらがらのその声は、わたしの心を一瞬で鷲掴みにして持ち去っていった。
「ほ(し)い!!」
 喰らいついたわたしの声は、力あまって一文字抜けた。
 東京に行こう。
 貴子の誘いの時には感じられなかった高揚感があった。
 プロへの道が約束されたわけでもない。わたしの声が完全に戻ってきたわけでもない。
 けれど、この人ならわたしの想いを思いのままに音にのせてくれる。
 いつか乖離していくこともあるかもしれないけれど、わたしは今進むきっかけが欲しかった。
 おそらく、この人も同じなんじゃないだろうか。
 清川が好きなメロディ作るギターが一人抜けたと嘆いていたから。
 同じ人とは限らないけれど。
「よし、じゃあまずはあんたのその声を取り戻さないとな」
 目にやる気に溢れた光を灯し、嬉しそうに口元を緩めてその人はまたCコードをさらりと鳴らした。
 でもわたしは首を振った。
「そのま(えに)、名前。わ(た)しは横山未来」
 欠ける音を疎ましく思いながらもフルネーム欠けずに言えたことに満足して、わたしは小指を立てて差し出す。
「ミライちゃんね。俺は佐内和之」
 にっと口元に勝気な笑みを浮かべ、揺らがない目でわたしをみつめると、佐内和之は力強くわたしの小指に骨ばった小指を絡ませた。





それが約束の音色なら
僕は君のために音を奏でよう
わたしはあなたのために歌を歌おう






〈了〉




  管理人室 書斎 読了






***おまけ***



『約束』


腕いっぱいに抱え込んでいたもの
いつの間にか零れ落ち
無防備な自分だけが 一人
街に埋もれて 立ちつくす
腕が軽くなっていたことにすら 気づかなくて
体が震えた


大切に抱えていこうと 誓ったあの日
何もかも 失うことなく運んでいけると信じてた
小指から抜け落ちた 約束の証は
振り返っても見えない 過去の彼方


一つ残された 未来への羅針盤
揺れて定まらない 針の行方に目を眇め
吐いたため息に ガラスがけぶる
一歩 踏み出しそこねた両足は
足踏みすら出来ずに 凍りつく
うずくまることすら 許さずに


探していたのは 過去の思い出じゃない
未来の幸福
けれど 描き続けた予想図は
追いかけ続ける 現在いまの投影


抱きしめることが 恐かった
手にした瞬間 訪れる喪失感を考えた


雲退きはじめた 羅針盤を覗きこむ
揺れつづける針の先
示す方向は一つだけ