嘘つきは幸せのはじまり!?




   今日はエイプリルフール。
 毎年今日も残りわずかってときになってからそのことに気づくけど、今年はばっちり朝から 覚えてた。
 何せ寝る前からどんな嘘をつこうか考えながら寝たんだからな。
 まぁ、考えたことには考えたけど、これが結構難しい。
 あんま大事になると後で怒られるのは必死だからな。うん、警察や消防署を呼んじゃうよう な嘘はついちゃいけない。
 大仕掛けの嘘を考えられるくらい頭がよけりゃよかったのに、一晩うんうん考えた末、俺が実 行に移せたのはこれくらいだった。
「なぁなぁ、和寿かずとし。お前今月からお小遣いアップらしいな。母さん言ってたぞ」
 ちょうど自分の部屋から出てきた中学生三年になった弟の首根っこをつかんで俺は耳打ちす る。
「え、うそ、マジ? 本当?」
「本当本当」
「やりぃっ。じゃ、ちょっと母さんに確かめてくんね!!」
 月のお小遣い五百円の純粋な弟よ、許しておくれ。今日はエイプリルフールなのだよ。そう、だま されるお前が悪い。
 二段ずつすっ飛ばしながら階段を駆け下りていく和寿の後姿を、おれは戻ってきたあいつに 「エイプリルフールだよん」とネタばらしする瞬間を思い浮かべながらにやついた顔で見送った。
 その姿が居間に消えて数秒後、階段にすら響き渡るほどの叫び声が上がった。
 ばたんっと勢いよくドアを開け放ち、和寿は怒涛の勢いで階段を顔も上げずに駆け上がって くる。
 ま、待て。
 嘘だからって何もそこまで怒ることはないだろ? いくら中三で五百円は死活問題だからっ て……。
 逃げ腰になったおれは、慌てて自分の部屋のドアノブをつかんだ。
 が、ドアを開ける間もなく顔を下げたままの和寿が俺の両腕をつかむ。
「兄ちゃん」
「お、おう、その、なんだ、あれだ、あれ、」
 ドアに背後を断たれ、おれは逃げ場を探して左右に目を走らせる。
 そんな俺の前で、和寿はゆらぁりと顔を上げた。
「ひぃぃいぃぃぃっっっ」
 反射的におれはぎゅっと目をつぶり、悲鳴をあげる。
 その瞼にはたはたと冷たさを含んだ弱い風が当たった。
「見て見て〜、これ」
「へ?」
 予想に反して天使のように気持ち悪いほど明るい声。
 おそるおそる目を開けると、目の前には夏目さんと野口さんがそれぞれ一枚ずつ。
「二……千円?」

 なんでこいつがそんなに持っているのかいまひとつ理解できないおれに、和寿はにっしっしっと笑いながら二枚のお札を揺らしてみせる。
「おれ去年成績よかったから、だってさ。父さんの首切りも免れたらしいし参考書代も込みだけど。今日ってエイプリルフールでしょ? 兄ちゃんも分かりやすい嘘つくなって思ったんだけど、いやぁ、頼んでみるもんだねぇ」
 あんだと?
 それじゃぁ何か? お前はだまされたフリをしてくれたってのか?
 けど、そんなみっともないこと今更確かめられやしない。
「お、おれも頼んでこよう」
 とぼとぼとおれは階段に足をかける。
「あ、兄ちゃんは成績下がったから据え置きだってさ〜」
 んなわけあるか。
 中三の弟が月二千円もらえて、高二のおれが月二千五百円のままなんて、そんな不合理が許されてたまるか。
「今日はエイプリルフールだからな。はっはっはっ」
「あら、ほんとよ。あんたせっかくそこそこの高校入れたってのに、この一年成績がたがただったじゃない」
 見計らったように洗濯物のかごを持って笑顔で階段前を通りかかったのはオニ母さん。
「参考書買いなさいよって意味で五百円だったお小遣い大幅に上げてあげたってのに、増えた参考書といえば大人の世界の手引書ばかり。二五に据え置いてあげるだけでもありがたいと思いなさい」
 か、母さん……ドウシテ知ッテイルンデスカ?
「た、頼む……嘘だといってくれ……」
 何事もなかったかのように去っていく母さん。
 階段半ばで凍りついたおれを嘲笑う和寿の変声期真っ最中の声が、ところどころひっくり返りながら天井上で渦巻いていた。

 
 このままじゃいけない。
 素晴らしき一日になるはずだったエイプリルフールを、このまま泣きの一日にしてたまるか。
 意地になった俺はあてもなくとりあえず外に飛び出した。
 うだうだと顔を伏せて近くのコンビニ辺りを目指して歩き出す。
 春休み中、出たばかりのRPGゲームにはまってうっかりひっきーになりかけてたおれには外の光は眩しすぎた。
 何より、どうしてもう桜の花が咲いてんだ!!
 桜咲いてんなら花見の誘いくらい来てもいいだろうに、おれの携帯の着信は一週間前の日付が最新、メールは毎日きっかり朝六時に送られてくるお天気予報が一画面全てを埋めていた。
「おれ、こんなに友達いなかったっけ?」
 いや、そんなはずはない。
 断じてそんなことはない。
 確か二週間くらい前にカラオケに誘われたような気がする。その前はボーリング、その前はスケート、スキーに中学校同窓会のお知らせ。
「あああぁぁぁぁ」
 おれは情けない声を発して道路でうずくまった。
 そうだ。
 ゲームにはまりすぎてことごとく断っちまったんだ。
 なんて馬鹿なおれ。
 いくら一度入り込んだら抜け出せないファンタジーの魔法にかかってたからって、一つくらい顔出す余裕もあった……いや、お誘いメールや電話がきたのはいつも物語の山場だったっけ。お城攻略やら、姫さん救出とか、あげくはラスボス手前のセーブポイントでさあこれからってときとか。
 攻略掲示板付属のチャットなんかで一応外の人間とは話してたから、現実こっちがおろそかになってたことに気づかなかったんだ。
「あああ、ほんと誰か嘘だといってくれ」
 こんなんじゃ新学期からクラスの奴らに相手してもらえるか自信ねぇよ。
「遠野、お前、こんなとこで何やってんだ? 春で脳みそでも沸いたか?」
「うぉう、その容赦ない辛口は重ちゃん!」
 おれの目の前に突っ立って眼鏡の奥から冷たい視線と共に季節逆行青森直輸入の地吹雪を浴びせかけてくれたのは、生まれた病院からして同じというまさに生まれながらの腐れ縁、吾妻あづま重太郎しげたろう
 そのいかにも古風で温厚そうな名前とはうってかわって、こいつの脳内辞書にはいつまでたっても情け容赦という言葉がインプットされる気配はない。
 まぁ、そこがいいんだけど。
 ん? いいのか? ま、いっか。
「やっぱり沸いてたのか」
 重ちゃんは見下してため息をつき、そのままおれの脇を通り過ぎようとした。
「ちょっ、待ってよ、重ちゃん」
「いやだ。阿呆増殖菌が感染うつる」
「え、何それ、新種の細菌?」
「そうだ。今まさにお前の脳内で繁殖してるな」
「そんな。いくらエイプリルフールだからってそこまで言うことないじゃん」
「嘘でも冗談でもないぞ。俺は四月一日だろうが盆だろうが正月だろうが、ほんとのことしか言わない主義なんだ」
「うっそだぁ。告られたときいつも彼女いるって言って断ってんじゃん」
「……」
 眼鏡の奥の色素の薄い瞳が凄みを帯びた微笑と共に底光りした。
 悲しいかな。
 同い年くらいの女の子ってのは、こういうインテリくさい眼鏡をかけてて、ちょっと無愛想で口が悪い男が好きらしい。現実で冷たくされても、ちらりと垣間見せる優しさとやらを妄想して恋に落ちるのだそうだ。
 だまされてる。だまされてるよ、女の子達!
 そう、こいつは一年中周りをエイプリルフールに陥れる男。
 重ちゃんにはわざわざ小悪魔になれる四月一日なんか必要ないのだ。
「なんかむなしくなってきた。帰ろ」
 一生懸命笑える嘘を考えてた自分がほんとに春に脳みそが沸いてしまったお馬鹿さんとしか思えなくなってきて、おれはくるりと重ちゃんに背を向けた。
「……まぁ、待て。ここで会ったのも何かの縁」
 無視して人をいたぶるのは好きでも無視されるのが嫌いな重ちゃんは、まだおれが手の届く範囲にいるうちにその手を伸ばしておれの肩をつかんだ。
「何かの縁って、菊蔵かよ」
 おれは脱獄を見つかった囚人のように首だけをおそるおそるめぐらせた。
 凄みはそのままに、重ちゃんはひどく愛想のいい笑顔を浮かべている。
 しまった。
 これは危険だ。
 このまま捕まったら何されるか分からない。
 一時は外の人間に会えた嬉しさにかまってほしいオーラを発してしまったが、やっぱり相手を間違ったらしい。
 そもそも、こいつに楽しい嘘なんか用意できるわけもないって、昨日一番に被害者リストから外したんじゃないか。勿論、自分が被害者にされないために。
 ああ、それなのに……!!
 お父さん、お母さん、先立つ不幸をお許しください。
「今から武田さんに会いに行くんだが、お前も来るか?」
 その名前を聞いた瞬間、さぁぁぁぁっとおれの体中から血の気が引いた。
「た、武田さん?」
「そう。同じクラスだった武田ちやこ。知ってるだろ?」
「そ、そりゃ知ってるよ。文化祭の実行委員まで一緒にやったし、そりゃあ」
 知ってるも何も、去年の入学式で一目ぼれして以来ずっと目で追いかけてきた相手だ。小さくておとなしくて、肩につかない程度に切りそろえられた髪は和風のお人形さんみたいで、微笑むと菜の花が揺れるようにその髪も一緒に揺れる。いつも休み時間には文庫を開いていて、友達が話しかければ愛想よくぱたりと本を閉じて笑顔で応じる。
 文化祭の実行委員は重ちゃんに引きずり込まれていやいやながら手伝っていたが、武田さんと一緒の仕事が多くて、かえって毎日が癒しの天国にいるような忘れられない日々となった。
 その彼女が、どうして重ちゃんなんかを……?!
 ショックだった。軽くといわず、めちゃショックだ。
 そこらの女の子なら別に重ちゃんにはまろうが何しようが嘆くこともない。
 でも、どうしてよりによって武田さんが重ちゃんと?
 いや、それよりも重ちゃんも重ちゃんだ。
 告白は全部断ってきたはずなのに、どうして武田さんに限って? それもいつの間に? 何の接点があったっていうんだ?
 おれは自分が告白できなかったへたれぶりを棚に上げてたっぷり脳内迷宮を彷徨った末、自分でも覇気のないと思える目で重ちゃんを見つめた。
 重ちゃんは嬉しそうににっこり微笑む。
「来るよな?」
「……い、行かない」
 ともすれば負け犬のようにこの場から立ち去ろうとする足を励まして、おれは震える声を絞り出した。
「それはまたどうして?」
 肩をつかむ重ちゃんの手が強さを増す。
 いつもなら一度ここであっさり手を放して、逆におれから連れてってくれって言い出すように仕向けるのに。
 絶対、何かある。
 おれは無理矢理重ちゃんの手を肩から引き剥がした。
「お邪魔しちゃ悪いから、行かない」
 重ちゃんの表情を確かめることなく今来た道を引き返しはじめる。
「そうかそうか、それは残念だ」
 だが、珍しく今日の重ちゃんはしつこかった。
 人一人分間にあけて後ろからすたすたとついてくる。
「ちょっと、重ちゃん! ついてくるなよ!」
「ついていってるんじゃない。お前が俺の進行方向にいるだけだ」
「だからどうしてこっちを進行方向に選ぶんだよ!」
「地域図書館があるのはそっちだろ?」
「……図書館?」
 地域図書館。それはこの住宅街の中にあるこじんまりとした公民館に付属してる、これまた小さな図書館。蔵書の数を競うより、児童の読書啓蒙用の文字の大きな児童書やコアな地域の歴史資料なんかを主に置いている。
 大概は暇な老人や帰りの早い小学生のたまり場になっているが、そっか、さすが武田さん。高校生らしくご近所図書館デートなんだ。
 ああ、もうこんな一日は嫌だ。
 早く帰っておとぎの世界にこもってレベル上げでもはじめよう。
「そういえばお前、この半月あまり引きこもってたんだって? クラスの奴らがさんざん遊びに誘ったのにどれにも顔出さなかったんだろ?」
「そうだよ。いろいろ忙しかったんだよ。悪いか」
「武田さんが残念がってたぞ。スケートの誘いあっただろ? あれ、発案者武田さんだったんだ」
 うっと息が詰まったが、おれは歩を緩めるつもりはなかった。
 必死で今日はエイプリルフール、エイプリルフールと心の中で唱える。
「あと、こないだのカラオケ。あれは理恵子が誘いメール回してたんだが、頼んだのは武田さんだったらしい」
「ふぅん」
 早く図書館の前なんか過ぎてしまえばいいのに。
 てか、重ちゃんめ、どうしてそんなに裏事情に詳しいんだよ、ちくしょう。
「先週の離任式だってちょろっと式に出てすぐ帰っちまったしな。遊びに誘う暇もありゃしない」
「だからっ! どうしておれがそんなに重ちゃんにねちねち言われなきゃならないんだよ! デートなら二人で楽しんでりゃいいだろ? 何もおれにあてつけなくたっていいじゃないか!」
 こらえきれずに振り返ったおれは勢いで重ちゃんを睨みつけた。
 もう知るもんか。
 重ちゃんなんか怖くなんかないぞ。
 怒らせればおれの方が怖いんだからな。
「だってさ」
 だが、重ちゃんは眼鏡の奥から俺の更に後ろを見つめてにんまり笑った。
 嫌な予感がする。
 背中がひどく冷たい。
 おそるおそるおれは振り返った。
「武田さん……」
 その小さく可憐な姿を確認するなり、おれの膝は支えを失って情けなく冷たいアスファルトとご対面した。
 なんてベタな展開。ビバ、ベタなおれの人生。
 重ちゃんは勝ち誇ったようにおれを見下ろしている。
「なんだよ……図書館前なら図書館前だって教えてくれればいいじゃないか」
「バスでもないのに誰がわざわざそんなこと親切に教えるものか。お前の行き先でもないってのに。それに、ここで会ったのも何かの縁だって言っただろ?」
 何かの縁って、何の縁をつけようとしてくれたんだよ。
 おれが武田さんを好きだって分かってて決定打が欲しかったのか? 武田さんのことを潔く諦めさせるために。
 だからって、このへたれなおれがわざわざどサドの腐れ縁のもんになっちまった彼女にちょっかいなんか出せるわけないじゃないか。
 おれは遠くから見守ってるだけでよかったのに。
 黒いアスファルトからは冷たさと共に、ぱたぱたと後ろから近づく小さな震動も伝わってきた。
「こんにちは、武田さん。待った?」
 愛想よく重ちゃんが彼女に手まで軽く振って見せる。
 しかし、武田さんはそんな重ちゃんには挨拶もなかった。
「遠野君、今のどういう意味?」
 なんだろう。怒ってる? このひどく抑制された声は、怒ってる?
 おれはおそるおそる振り返り、そして予想通り小さな顔に憤慨と悲しみをたたえた表情を見る羽目になった。
 なんでそんな顔してるんだよ……。
「どうしてため息つくのよ!」
 背中に落雷が落ちた。じゃなくて、雷が落ちた。
 おれはもう一度武田さんの顔を確認する。
 こんなに感情を激しくあらわにする人だっただろうか?
 なんかいつものイメージと違うけど、こんな怒った顔もやっぱかわいい。
「分かってるくせに、どうして吾妻君とデート楽しめなんて言えるのよ?」
 飽和した頭は武田さんの泣きそうな顔を認識して更に脳内機能が衰え、エイプリルフール、エイプリルフールと唱え続ける。
「エイプリルフール……」
 それは制御を失った口からもいつの間にかこぼれだしていた。
 武田さんのつぶらな瞳が怒りに燃えあがり、一筋の涙を零す。
「最低」
 突きつけられた最終宣告はおれをアスファルトの上に完全にのした。
 耳に響き入ってくるのはただ駆け去る少女の足音のみ。
「あーあ」
 視界を塞ぐ二本の長い足の持ち主が冷たい視線と共に止めを刺した。

 
「どういうことだよ」
 精神状態どん底のおれは重ちゃんにミスドで糖分補給を強制させるべく窓際の席に着くと、前におとなしく座った重ちゃんを睨みつけた。
「どういうって、そういうことだよ」
「そういうことってどういうことだよ」
「こういうことだ」
「話になるかっ!」
 目の前にあった重ちゃんの分のカスタードドーナツにまで手をのばして口に放り込んでやったが、重ちゃんは何も言わなかった。
 ちょっとは罪悪感もあるのかと思いきや、おれの口の中にドーナツが全て飲み込まれたのを見届けて重ちゃんは大きなため息をついた。
「勝手に勘違い妄想して突っ走ったのは武則、お前だろう?」
「気づいてんなら修正しろよ!」
「いや、だってエイプリルフールなんだろ? ただ嘘つくだけじゃつまらないから、偽の事実を思い込むように誘導するのもありかと」
「故意か? 故意なんだな?」
「確かめなきゃならないのはそっちじゃないだろう?」
 悪いのは絶対こいつの方なのに、どうしてこんなに余裕綽々のままなんだ?
 おれは悔しさに唇をかんだが、これ以上責めても無駄と知って奴の望む問いを仕掛けてやった。
「武田さんとデートの約束じゃなかったんだな?」
「いや、デートっちゃデートの約束だったけど」
「あに?」
「郷土研究会の春休みのお題がこの市の研究でね。班ごとに分かれて地区担当することになったんだが、武田さんと俺が同じ班にされてさ。で、その調べものにあの公民館の図書館が使えるってことで今日会う約束してたんだ」
 郷土研究会?
 この男がそんなマイナーな部に入っていたか?
 武田さんは確かにそういうの好きそうだけど、重ちゃんはどっからどう見たって理系だろ? 理系希望出してたし。第一、見た目からして地元歩き回って資料集めってタイプじゃない。
「嘘だな」
「……さあ、どうかな?」
 だまされるものかと睨みつけると、逆に重ちゃんはにっこり笑んだ。
 せっかく冷静さを取り戻したかに思えたおれの頭は、その悪魔の微笑一つで再び混迷の渦中に陥れられる。
「どっちなんだよ! エイプリルフールは笑って許せる嘘しかついちゃいけないんだぞ!」
「なぁ、武則。お前、今日何日だ?」
「何日って、エイプリルフールだろ? 四月一日!」
 そう断言した俺の目の前に、重ちゃんは携帯を開いて見せた。
「なんだよ」
「今日の日付」
「は? 馬鹿にするのも大概に……」
 憤慨した俺は、はたとその小さな液晶に釘付けになった。
「四月……二日……?」
 愕然と、する。
「う、嘘だぁ。じゃあ俺の四月一日はどこいったんだよ……。和寿だってエイプリルフールだって言ってたし、母さんだって……」
「それは武則、お前が一日起きてこなかったから示し合わせてエイプリルフール繰り越してくれたんだろ。どうせ小学生並みの嘘ついたんだろ?」
 夜中一晩考え抜いた末の嘘を小学生並みと……まるで見てきたように重ちゃんは言い当てる。
「おれ、もしかして一日すっぽかして寝てた?」
「一昨日というか昨日、何時に寝たかあててやろうか? 朝の五時半とかじゃなかったか? 間抜けなお前のことだ。一晩中笑って許してもらえる嘘とやらを考えてて夜更かしでもしたんだろ? その前の日まではゲームのために睡眠時間もぎりぎりまで削ってた」
「……そんなんで二十四時間寝過ごすかよ……」
「寝過ごしたじゃないか、現に」
 ゆらゆらと携帯の液晶は嘲笑うように揺れる。
 信じたくない。信じたくないけど、どうやらこれが真実。
 おれはもう一度重ちゃんの携帯の日付を見て心の中でキリスト教徒でもないのに十字を切った。
「重ちゃん、もう一度聞く。ほんとに武田さんとは何にもないんだな?」
「ああ。あったっちゃあったが……」
「何があった? 言え、今すぐ本当のことを言え!」
「恋の相談室を開いてさしあげてた。いつも目が合う人がいるんだけど、ってな」
「…………」
「そう、お前だよ、武則。あまりによく目が合うもんだから、ストーカー被害にあわないか心配だって」
 くらりと頭の奥が痺れて白くなっていった。
 ああ、体中崩れそう。
「っと、今のは嘘。いつも目が合う人がいるんだけど、その人も私のこと好きなのかな、だとさ。おめでとさん」
 今まさに真っ白になった領域に、おそらくは武田さんの発したと思われるその言葉がそのまま太字の巨大ゴシック体で打ち込まれていった。
「俺が言うのもなんだが、いいのか? 怒らせたままで」
「……よくない……」
「そうだよな。このままだとお前は思春期の女の子の不安定な心を弄んだことになる」
「そんな……」
 幸せ絶頂まで舞い上がらさせられたのも一瞬、おれは重ちゃんの掌の上で今度は地獄まで叩き落された。
「だよな。誤解されたままじゃ新学期、例え違うクラスになろうとも、昇降口でうっかり顔合わせちまったなんてことになったら挨拶どころかお互い居心地からして最悪だろうな」
 ああ、いくら遠くから見守るだけでいいとか言っても、挨拶くらいは気兼ねなしに出来る関係ではいたい。
 おれの心情変化を予報できるほどにすっかり熟知している重ちゃんは、そこで本性の垣間見える底意地の悪い微笑を浮かべて、惑わすようにおれを見つめた。
「やっぱ、ここはお前から誤解を解きに行くしかないんじゃないか?」
 その言葉の意味を解しないほど、さすがにおれの頭も悪くはない。
 だが、いきなりそんなことを言われても心の準備やら何やらが必要じゃないか。
 それも両想いだったらしいのに一方的に怒らせてしまった今、その怒りを解いて且つ、その、想いを伝えるとなると……。
 道のりを思い描いておれはうなだれた。
「とりあえず、ここは平和的解決を試みよう、な? エイプリルフールなんか終ってんだから、嘘や冗談なんかでごまかさずに」
 おれと武田さんの心をすれ違わせた張本人は、気味悪いほど良心的にそう言っておれの肩を叩いた。


 
「で、やっぱり図書館なんだ?」
「資料は今日中に集めちゃわなきゃ間に合わないからな。武田さんも後ちょっとで戻って来るってさ」
 ミスドからさっきの図書館に戻ったおれは、何故か一階隅っこの黴臭い郷土資料室で重ちゃんの資料集めの手伝いなんかをしながら重いため息をついた。
 平和的解決。
 重ちゃんはそう言ったが、具体的な策は何一つとしてくれなかった。
「重ちゃん、おれ、やっぱり今日はもう帰って寝るよ。うん、なんかその方がいい気がしてきた」
 ついぞ逃げ腰のおれが、意を決して重ちゃんの腕に持っていた資料を押しつけたときだった。
「さっきは、ごめん」
 ノック音に続いて扉が開く音がして、しおれかけた花のように元気のないか細い声が聞こえた。
「武田さん……」
 その姿を見るなり、おれの頭はまたしてもフリーズする。
 とりあえずはさっきのことを謝ろうと口を開閉させるが、いっこく堂のなりそこないよろしくいつまでたっても口の動きに声がついてこない。
 呆れた重ちゃんがおれの口を強制的にふさいでかわりに言葉を繋いでくれた。
「遠野がちゃんと話がしたいってさ。俺が必要そうなもん大体揃えとくから、ちょっとこいつに時間あげてくれる?」
 え? まさかいきなり二人きりにして放置?
 ちょっと重ちゃん、まだまともに喋れないおれにどうしろと?
 縋るおれの視線は黙殺され、その視界の端っこで武田さんは神妙に頷いた。
 重ちゃんはおれにはもはや何の言葉も残さずすたすたと資料室から出て行く。
 他に調べものをしている人もいないこの部屋で、おれは武田さんと二人っきりになってしまった。
 ……出入り口のドアノブって、あんなに遠かっただろうか。
「遠野君、あのね、」
 意を決するのは武田さんの方が早かったらしい。
 って、両思いってわかってるんだから、何も彼女に言わせることもないじゃないか。
 頑張れおれ。ここでへたれちゃ男が廃る。
「武田さん、さっきのことだけど、ごめん。おれ、ほんと無神経だった。おまけに言うに事欠いてエイプリルフールだなんて、とうに日付過ぎてたってのに。そうじゃなくても、ほんと、最低だった」
 武田さんは目を大きく瞠っておれを見ている。
 あれが女の子特有の期待の目っていう奴か。
 急く鼓動を聞きながら呼吸を整え、おれは一気にいった。
「武田さん、おれ、武田さんのこと好きなんだ。入学式で見かけたときから気になっちゃってて、文化祭で一緒に実行委員やったときとか、もうほんと毎日が幸せで、それで……」
 「え?」と戸惑う声が聞こえたような気もしたが、おれは気にせず突っ走る。
 今を除いてもう二度とこんなに勇気を出せる機会なんかないだろうから。
「おれとつきあってください!!」
 ストレートに望みが口に上り、おれは自分で幕を切り落とすように勢いよく上半身を折り曲げた。
 資料室中に垂れ込めた沈黙は長かったのか、短かったのか。
 ややあって、武田さんがおそるおそる口を開いた。
「それ、本気?」
 不安と猜疑が入り混じった声。
「は……?」
 おれは彼女の顔を覗き込む。
 声と同じ質の表情に多少の怒気が含まれて、いる?
「だって今日、エイプリルフールでしょう? エイプリルフールに告白なんて、信じられない……」
 怒りは悲しみに転化され、ぽろぽろと涙に形を変えて落ちていく。
 おれは、今度こそ何がなんだか分からなくなってしまった。
「まって、今日って四月二日だよね? エイプリルフールは昨日、だったんだろ?」
「何言ってるの、遠野君。今日が四月一日じゃない!」
「え? だって重ちゃんの携帯の日付が四月二日になってて、それでおれ……」
 武田さんは鞄からシンプルなビーズ細工のストラップが一つついた携帯を取り出しておれの前に差し出す。
「四月、一日……」
「遠野君、自分の携帯はどうしたの?」
「あ、おれほんとはあんまり遠出するつもりもなかったから携帯置いてきちまってて……」
 盛大にため息が聞こえた。
「だまされたのよ、それ」
「え……だまされた? 誰に? って、重ちゃんしかいないけど、ほんとに?」
「遠野君はわたしよりも吾妻君の方を信じるの?」
 いつも穏やかさを崩さない武田さんの目が殺気に満ちた。
 おれの肩はちょっと引ける。
「わたしがさっき怒った理由、どうしてか分かる?」
 詰られるように問い詰められておれはただただ首を振る。
「あんな人でなしと付き合ってるって思われたからよ! わたしが吾妻君とデートして楽しめると思う? 実の弟とデートなんか、できるわけないでしょう?!」
「……はい?」
 脳内稼働率、九十七、九十八、九十九……
 そしておれの頭の中は完全にビジー状態に陥った。


 
 エイプリルフールってのは、悲喜こもごもの事件を巻き起こすものだ。
 それでも、俺も十六年と九ヶ月生きてきたけど、ここまで衝撃的な一日を体験させられたことは未だかつてない。
 目の前では夕日を浴びる川の土手に咲いた菜の花が春風にそよいで揺れている。
「双子……」
 二人からそう聞かされたおれは、それすらも嘘ではないかとまだ疑っていた。
 そう、重ちゃんだけじゃなく、武田さんまでもが一緒になって俺をだましているのだと。
 今日の日付ならさっき、四月二日に設定を変えられたままの重ちゃんの携帯から時報を聞いて確かめた。
 四月一日。
 ばっちりエイプリルフールはまだ終っちゃいない。
「でも、俺と重ちゃんの母さん、同じ病室だったんだろ? 重ちゃん家だって近所だし、それならおれの記憶に武田さんがいないわけないんだけど。母さんだって重ちゃんが双子なんて口走ったことすらなかったし」
 吾妻重太郎と武田ちやこ、性格も正反対なら容貌も鋭と柔とを見事に分け合った二人が示し合わせたように顔を見合わせる。
「それはわたしが未熟児で生まれちゃったから、小学校くらいまで病院で暮らしてたの。お父さんとお母さんもそれが原因で離婚しちゃって。わたしは医療費がかかるからってお父さんが引き取って、重ちゃんはお母さんが。今はどっちも再婚してるから普通の家庭にいるように見えるけどね」
 なんだろう。これって、母さんがはまってる昼ドラ並みの嘘くさい展開だ。
 ここまで重い背景があるとなると、逆にほんとにこの二人が示し合わせておれをだましているんじゃないかって気になってくる。
 そう。おれの中のおとなしく清楚で可憐な武田さん像は、さっき重ちゃんが時間を見計らってひょっこり顔を出したときにあっけなく崩れ去っていた。
 誰もがその毒舌の前にひれ伏す重ちゃんを叱り飛ばすあの剣幕を見せつけられてしまうと、方向は違うが同じ激しさをもった血が流れているのだと悟らないではいられない。
「だからって、重ちゃんひどいよ。何年の付き合いになると思ってるんだよ。十六年だぞ? 今年で十七年目なんだぞ? なんで双子の姉がいますくらい言ってくれないんだよ。いや、せめて去年同じクラスになったときに教えてくれたっていいじゃないか。でなきゃ文化祭の時だって……おれが武田さんのこと好きだって分かってて黙ってたんだろ?」
 重ちゃんはニヤニヤ笑ってる。
「高校入ってからはわざと黙ってたが、幼稚園や小学校のときは別に隠してたわけでもないぞ。そのころ俺、しょっちゅう病院行ってただろ? あれ、ちやこの見舞いだったんだ」
 ああ、重ちゃんが武田さんの名前を呼び捨てにしている……。
「そうそう、ほんとひどかったよね。見舞いの品が学校で捕まえたアマガエルだって言ってさ、わたしが嫌がってるのにベッドの上でいきなりぱぁって手開いて。あれ以来わたし、飛び跳ねるものがだめになったのよ」
「……やっぱり悪ガキ……」
 ぼそりと呟いておれは武田さんを挟んだ向こうに座る重ちゃんを横目で見る。
「そう睨むなって。いつも部屋ん中で退屈してるだろうなって思ってのことだったんだから。それに、いたずらも相当したけど、その分ちゃんと勉強教えてやったじゃないか。おかげでこの高校入れたんだろ?」
 その言葉は武田さんというより、むしろおれに恩を売っているように聞こえた。
「ええ、ええ、感謝しています。感謝してるけど、何も重ちゃんまで同じ高校に入ってこなくたってよかったじゃないの」
「いいじゃん。姉弟水入らずの高校生活、夢だったんだからさ」
「水入らずってねぇ……」
 しかし武田さんは語尾はつがず、吐息だけを漏らした。
 その辺は同じ気持ちだったのかもしれない。
 離婚して別々の家庭に引き取られた姉弟が仲良く顔を合わせて遊んでいるのを、とうの両親達が手放しで喜んでいたはずもない。
 武田さんが退院してしまえば必然、会う理由はなくなってしまうだろうし。
 珍しくガキくさい表情でうきうきしている重ちゃんの気持ちは、察せないでもない。
 人でなしと詰りながらちょっと楽しそうな武田さんの気持ちも。
 ちぇ、なんだか妬ける。
「もっかい聞いていい? ほんとに姉弟なんだよな? カップルなのに実は俺をだましてましたなんて、今更言わないよな?」
 不安げなおれのの言葉を聞くなり、重ちゃんはにやりと笑って武田さんの肩に腕を回した。
「ちょっと、重ちゃん!」
 だが、武田さんは怒ってその腕を跳ね除け、その勢いでおれの方を向いた。
「さっきのお話なんだけど、その……」
 勢い込んできたくせに顔が俯く。
 だめかな、とおれは今度こそ腹をくくった。
 ミスドで聞いた重ちゃんの話は全部嘘だった可能性だってあるんだから。
「あ、いいんだ。ごめん、ほんともう気にしな……」
「明日、もう一度言ってくれないかな」
「……はい?」
 思わず覗き込んだおれから視線をそらすように彼女はますます夕日に顔を赤らめて俯いた。
「今日はやっぱり記念日にするにはよくないと思うの。全部嘘と冗談になっちゃいそうだし」
 ゆっくりとその可憐な声を頭の中で反芻して、ようやくおれは息を呑んだ。
 詰まって出ない声のかわりにがくがくと壊れた首振り人形のように懸命に首だけを振る。
「いいかな?」
「はいっ、勿論喜んで!」
 下から覗きこまれたおれは、さっきの告白で一生分の勇気を使い果たしたことも忘れはて、こらえきれない喜びを雄叫びに託し、こみ上げるエネルギーごと川原へと突っ走った。
「うぉぉぉぉっっっ、やったぜぇぇぃっっっっ」


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「ちやこ、ほんとにあんなんでいいの?」
「ちょっと恥ずかしいけど、……重ちゃんのおすすめなんでしょ?」
「ま、ね。お買い得商品ですよ、うちの武則は。何しろちやこにぞっこん、俺のこと好きなくせに心底恐がってるし」
「もう、泣かすようなことしちゃ絶対だめだよ?」
「はいはい」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 しばらくして武田さんは感無量で川原に佇むおれの横まで駆けてくると、そっとおれの肩を叩いた。
 その手はそのままするりと振り返ったおれの首の後ろに回される。
 顔を引き寄せられたおれは、間近で見る武田さんの肌の滑らかさや澄んだ瞳にどきどきしながらそれとばれないように生唾を飲み込んだ。
 武田さんはいたずらっぽく微笑する。
「ちょっと早いけど、いいよね?」
 つまたてて口の端にされたキスを、おれは一生忘れないだろう。
 だから明日、「昨日のことは全部冗談でした!」なんてことだけは、頼むから言わないでくれよな。
 今はそれだけが、おれは怖い。


〈了〉


書斎  管理人室 読了