太陽を支える
一体、誰が決めた?
この世は神が創ったものだと。
一体、誰が決めた?
人は何人たりとも時を動かすことが出来ないと。
あの太陽に触れることは出来ないのだと。
要は、太陽が沈まなければいいのだ。
太陽が沈みさえしなければ、日が暮れることもなく、一日が過ぎ去ることもない。
お前の命があと半年だというのなら、俺があの太陽が沈まないように支えてやる。
「無茶苦茶だよ、利庵」
「んなこたねぇよ」
望千恵はからからと笑った。
何ものにもこだわりのないただ従順に坂を転がっていくビー玉のような滑らかな声で。
「利庵、今何時?」
ふと我に返って望千恵は俺を振り仰いだ。
水平線上を漂う西日を浴びて望千恵の頬が赤銅色に染まる。
俺は手首に目を落とす間もなくその頬を両手に包んで顔を近づけた。
ついばむキスに望千恵は慣れたように応える。海風が唇を乾かす間を惜しむように。
「ねぇ、何時?」
今更憚ることもないだろうに、長すぎるキスに望千恵は周りの観光客の視線を気にして俺を押しやった。
俺は仕方なく袖を捲し上げて、自分では確認せずに腕時計を望千恵の前に晒す。
「零時だ」
文字盤に視線を向けた後、望千恵は再び柔らかく微笑んだ。
周囲では観光客や地元の人間達が手に手に杯を持ち、深夜零時の太陽を肴に乾杯をしている。
だが、それら全ての光景が俺には遠いことのように思えた。
白夜を見たいといったのは望千恵だった。
白夜を見せたかったのは俺だった。
いや、見せるだけじゃだめなんだ。
この日の沈まない北の地に住めば、望千恵の寿命だってさらに半年延びるはずだ。あわせて一年延びれば、また白夜の季節がきて時は止まる。
分かってる。
今の俺がどれだけ馬鹿げたことを考えているのか。
太陽が沈むことがなくたって、望千恵が言ったとおり時は進んでいく。
白夜もたった三ヶ月しかもたない。そして、半年後には明けることのない夜が来る。
「利庵、連れてきてくれてありがとう」
車椅子に深く腰を預けたまま、望千恵は両腕を広げた。
俺はその両腕に包まれて、かわりに痩せて骨ばかりになった薄い肩を抱いた。
大丈夫。まだ半年ある。
大丈夫。太陽の沈まぬ国でなら時は過ぎないのだから、まだ半年以上こうしていられる。
なのに、抱きしめるたびに肩は薄く脆くなっていく。
微笑だけが変わらない。日本で結婚式を挙げた時に見せてくれた柔らかく暖かなままだ。
新婚旅行にかこつけて半ば病院から掻っ攫うようにしてここノールカップまで連れてはきたが、滞在日数が増えれば増えるほど身体が弱っていくのは目に見えていた。それでも望千恵は心配かけまいと身体が辛い時ほど笑顔を振りまく。
このままじゃ帰りの飛行機にすら乗せられないかもしれない。
「帰ろっか」
俺の心を読んだのか、それとも自分が一番体調を心得ているのか、望千恵はもう一度太陽をひと仰ぎするとそう言った。
「なぁ、望千恵、ほんとはオーロラが見たいんだろ? 冬までこっちにいれば見られるじゃないか」
「やだ、利庵。どうやって生活してくのよ」
「どうやって、ってアパート借りて、普通に働いて、どこでだって暮らせるだろ? 北極、南極ってわけでもないんだから」
「だめだよ、そんな無計画なこと言っちゃ」
少しだけ眉をひそめて望千恵は軽く俺を睨んだ。
「怒んなよ。俺は本気なんだから」
「だから怒ってるのよ。無茶なこと平気で実行しちゃうから」
まだ結婚させたこと怒っているのか。
左薬指のエンゲージリングがまた抜けそうになっている。
そっと左手を抱え上げて、俺は指輪を根元に押し戻した。
「それだけは何があっても落とすなよ」
気づいた望千恵は慌てて右手で左手を握る。
「分かってる。絶対落とさないから安心して」
「言ってるそばから落ちかけてたからなぁ」
「じゃあ、手袋しちゃおっか? そうすれば絶対落ちないよね」
「それはだめ。お前の手、直接握れなくなるから」
「もう、じゃあどうすればいいの?」
左手を覆っていた右手をそっとのけて、俺は指輪ごとその手にキスをした。
「抜けないおまじない」
どこからそんな発想が出てきたのか。
我に返った俺は恥ずかしさに顔が上げられなくなっていた。
頭上では一瞬の間をあけて、久しぶりに望千恵らしい豪快な笑い声が洪水のように溢れ、渦巻いていた。
やがて、ようやく笑いの大波が去ったのか、望千恵は力強く俺の頭を胸に抱きしめた。
「指輪の重さよりも、利庵のキスの温もりの方が忘れられなそう」
なぁ、望千恵。あんなに言ったのにお前、あの後一体どこに落としてきたんだ?
半年前と違って、あたりはまだ昼と呼べる時間にもかかわらず、永遠に夜の帳に覆われてしまったかのように暗い。
雪つぶてとともに吹きつける風の強さ、寒さも半端ではない。地吹雪体験ツアーにでも来たみたいだ。
そんな中、半年も経っているというのに、あのか細い指にはまっていた指輪一つをあたり一面雪と氷に閉ざされたこの場所からあてずっぽうで探せというのは、いくらなんでも無理がある。
『利庵、ごめん、実は結婚指輪、あの白夜見た場所に落っことしてきたみたい』
それじゃあ、今指にはまっているその指輪はなんなのかと聞いたら、望千恵はいけしゃあしゃあとフェイクと答えた。
いつの間にそんな指輪を作っていたのか。はたまた、なんだってあんなぎりぎりまでそんなことを隠していたのか。
「……オーロラだ……」
ふとほの明るくなった雪明りに顔を上げると、ワカメのような黒とも碧とも判じがたい色の空に数多の星々とともに、はっきりとほの緑を帯びて白く輝くオーロラが天窓を遮るのカーテンとなって悠然とたなびいていた。
茫然と俺は立ち上がる。
「望千恵、オーロラだよ。お前の見たかったオーロラ……だ……」
あの馬鹿、わざと落としてきたのか?
俺にこのオーロラを見せるために、わざと落としてきたのか?
それも、初雪の降るあんな時期に「怒らないでね」なんて珍しくしおらしく切り出して。
「どっちが無計画だ……。お前の方がよっぽど無計画じゃないか」
もしかして、最期につけてた指輪がフェイクだっていうのも嘘だったんじゃないか?
もう、二度と確かめることなどできないけれど。
眩暈のする頭を抱えていた両腕を、俺は上へとさし伸ばした。
あの天のカーテンを開くことが出来れば、望千恵の笑顔があるかもしれない。
この薄闇をかき分ければ、あの向こうに太陽がある。
沈むなどという概念もなく、半永久的に同じ場所にあり続ける太陽が。
「望千恵……」
お前のためなら太陽が沈まぬように支えるくらいわけないと思ったんだ。
プロメテウスが地球を支えているように、俺はお前のために太陽を支え続ける。
でも、俺は神でもなければ巨人でもなかった。
ただ、こうして太陽の欠片をふり仰ぎ、せめてその見えない欠片に触れられやしないかと馬鹿みたいに手を伸ばすしかないちっぽけな人間だったんだ。
お前のために太陽の欠片を集めて持ち帰ってやることも出来ない。
だけど。
「ああ、そうだ」
俺はふと思い立って両手から手袋を外し、コートのポケットにそれらをねじりこんだ。
指先からと待たず、あっという間に手は寒風と雪に赤くしもやけていく。
それでも、俺は今度はこの素手のまま両腕を掲げた。
左手の薬指には、半年以上前に望千恵がはめた銀色の指輪がオーロラに鈍く光る。
帰ったらたっぷり語ってやろう。
抱きしめるものを失ったこの腕と、未来の思い出を失ったこの網膜に焼きついた夜の太陽の欠片を土産に。
『だから、かっこつけすぎだって』
ゆっくりとはためく天のカーテンを押しのけて、望千恵の笑い声が聞こえたような気がした。
〈了〉
管理人室 書斎 読了