星を抱く




 一番はじめに人の肌に針を刺した時の感触を、今でもまだよく覚えている。
 柔らかいと思いきいや弾力があって、拒めるだけ拒んでなかなかすんなりとは受け入れようとしない。そのくせ、一度受け入れると何度でも、どこまでも深く肌は針を許すのだ。まるで恋狂った女のように。
 だが、その女の背中は違った。
 陶器のように白く滑らかで、黒子一つ、吹き出物一つない。一本通った背骨も適度な肉に覆われて浮き出すぎるということなく骨子をかたどっている。
 極上の画布だった。
 白さも、滑らかさも、大きさも、くびれた腰と丸みを帯びた身体全体の曲線さえも、渇望していたものに合致していた。
 何より、この女は美しかった。
 彫師とはいえ深い仲でもない男の前でためらうことなく着物を脱ぎ捨てたその度胸。臆すことなく両胸の双丘を突き出し、さあ描けるかと言わんばかりにするりと影を入れた切れ長の目で挑むその気位。
 けして顔のつくりに華があるわけではない。だが、女にはそれを補って余りある勢いがあった。
 胸の奥底から湧き出すようにかきたてられるものがあった。
 衝動。
 今すぐこれをこの画布にぶつけてしまわなければ、俺は一生生きた屍になる。
 あでやかな牡丹と幻のような双子の胡蝶。それらを照らし出すのは太陽でも月でもなく、満点の星灯。
 女神にしてやろうと思った。
 地に咲く牡丹と宙を舞う蝶、そして天に流れる川とをその背に、胸に抱かせてやろうと思った。
 世界を抱く女神を作るのだ。この俺の手で、この世に生ける女神を生み出すのだ。
 俺にとって、もはや目の前にあるものは女でも人でもなかった。
 いや、女だとは感じていたはずだ。
 だが、それを通り越して、それはもはや逃すべからざるこの世で最高の素材にしか見えなくなっていた。
 女を寝台にうつぶせに引き倒す。
 瞼に描かれた映像を、消えぬうちにそのまま白い背中に黒い線としてなぞり起こす。
 女は何も言わなかった。
 俺は何を描くのかすらも告げなかった。
 ただ黙々と白い肌に黒い墨で線を描き、頭の中の映像をこの世のものに写し取っていく。そうしているうちに、今度は早く色を入れたくて仕方がなくなってくる。まだ肌に輪郭を描く墨すら針で入れていないというのに。
 初めて針を入れたのはまだ三十になるやならずの若い師匠の肌だった。師匠は俺に滑らかな背中を一枚与えてくれた。
 師匠は男から見ても女のように美しい肌をしていたが、それでも男というだけでこの女のなまめかしい肌には劣る。
 背についた手に吸いついてくるこの瑞々しさ。弾力があって柔らかで、それでいて張りがある。女の気性を反映してか、どこまでも挑んできて負けることを知らない。
 早く針を入れたかった。
 この女の肌は、きっと針を受け入れはしても溺れはすまい。
 こっちがどんなに細心の力加減で針を入れても、結局は肌のよしあしに出来は左右される。仕事ならどんな人間の肌にでも針を入れるが、俺は一度でいいから自分の選んだ最高の体に最高の絵を描いてみたかった。
 俺の針を溺れさせるような体に出会いたいと、この十年毎日願い続けてた。
 一度きりだ。
 俺が溺れて自らの思いのまま絵を描くことができた体は。
 十年前、初めて針を入れた師匠の体。ただその一体だけだった。
 師匠とは、その完成以来会っていない。
 最近普及した電話はおろか、手紙すら交わしてはいない。
 師匠は何も告げずに俺の元を去ったのだ。
 風呂上り、桜舞う中、龍と虎とが睨み合う俺の初めての絵を鏡越しに見て頷いて、それ以来帰ってくることはなかった。
 俺に残されたのは師匠の家であり仕事場であったこの家と、『彫宮』という看板だけだった。
 生きているのか、死んじまったのかも俺は知らない。客が噂に持ってくることもない。
 実際、俺はこの十年、俺の最高傑作である『桜花竜虎図』を背に持つ男の肌は覚えていても、突きを教わった師匠のことなど忘れて生きていたのだ。
 不思議だった。
 女の肌に触れているうちに、忘れていた師匠の顔を思い出していた。
 背面に下絵を描き終わり、乾いた頃を見計らって今度は仰向けさせる。
 ぎりと閉じられた唇と、立ち向かってくる炎の消えぬ目。
 しばし俺はその顔に見とれた。
 もっと美しい女の顔だってたくさん見ている。
 もっと気性の激しい女の顔も見知っている。
 だが、この女の顔はそのどれとも違った。
 ただ気まぐれに気性が激しいわけじゃない。何か目的があって俺に挑んできているのだ。
 この顔は、そういう顔だ。
「あんた……どこで俺を知った?」
 こんな裏稼業、堂々と広告が出せるわけもなければ、表に看板を出しているわけでもない。客はみんなその筋伝いに口こみで聞いてやってくる。
「わざわざ知る必要もなかったさ」
 赤い唇からこぼれたのは随分と低く嗄れた声だった。そのくせ、やはりどこかに艶を含んで俺の耳をくすぐる。
「あたしはあんたのこと、知っていたよ。昔からね」
 目が眇められる。俺を貶めるように笑顔で睨めつける。
 敵意だった。
 この上なく美しく怜悧な敵意。
「へぇ。だが、俺はあんたを知らない」
「思い出すさ。あたしに触れてる間にねぇ」
「昔の女ってわけでもないんだろ?」
「冗談をお言いでないよ。あたしがあんたなんかのものになるわけがないだろう?」
 にんまりと女は悪意を口の端に浮かべた。
 いい女神になりそうだと思った。
 ああ、早く針を入れたい。
 その一心で、俺はさらに右肩に額ともなる天河の端を胸におろし、ふくよかな左胸に蝶を一頭描く。
 女は疲れた顔一つ見せない。
 本来なら客の体力を考えて、下絵、筋彫り、ぼかしと少しずつ段階を踏んで作っていくものだ。
 だが、この女はさあ、と言わんばかりに俺を見上げた。
「なんだい、もう疲れたのかい?」
「……いや」
 挑発されるままに、俺は再び女をうつぶせにした。
 日が暮れかかっていた。
 少し早いが、燭台に火を灯す。
「その燭台もまだ使ってたんだねぇ」
 女はふと懐かしむように呟いた。
「ここはほとんど師匠がおいてったままだよ」
「ふぅん。その針もかい?」
 針をいくつも束ねた刺青用の針。長い竹の柄は使いこまれていて、初めてこの手に握ったときからよく俺の手に馴染んだ。
「ああ、そうだよ」
 俺の返事に女は軽く鼻を鳴らしただけだった。
 それが合図のようなものだった。
 俺は女の肌を針で突いた。
 シャッ。
 針と肌の擦れ合う音は、この十年のどの客よりも軽かった。
 手には心地いい弾力が残る。
 思ったとおりだった。
 この肌は媚びない。かといって処女のように恐怖に任せて突き放し続けることもない。
 何より、女はあの耳障りな呻き声や悲鳴、懇願の言葉を一切漏らさなかった。
 歯をくいしばってるのか何なのかは、顔をのぞかなきゃわからない。
 だが、一突きして何も反応がないってのは、それなりの心構えをしてきてるってことなんだろう。
 高揚する心に任せて、俺は一気に筋彫りに没頭した。
 静寂の中、針で肌を突くシャッキ音だけが軽やかに響いていく。
 手に返ってくる肌の弾力とこの音だけを、俺はいつまでも聞いていたかった。
 夜半を過ぎて、女は一言も声を漏らさぬままその背に世界を負っていた。
 俺の口元には思わず笑みが浮かぶ。
 右背の半分以上を大胆に飾るあでやかな赤い牡丹たち。その花に群がる二頭の蝶。一頭は生の喜びに満ちた色彩豊かな揚羽、もう一頭は死を誘う黒揚羽。額となる天の部分は藍を地に白と黄、朱で満点に、しかし地を損なわぬよう星を配置している。
 師匠の体に描いた『桜花竜虎図』以来の傑作の予感があった。
 残るは左胸の蝶に色を入れるのみ。
「ねぇ、あんた。白粉彫りを知ってるかい?」
 ふと、俺の楽しみを壊すように女は言った。
「白粉彫り? んなもん、ただの伝説だろ。そんなもん出来る奴はこの世にゃいねぇよ」
 客がよく口に出す話だ。何でも、普段は見えないが、入浴や酒で興奮して体温が上がると浮き出るという彫り絵。
 馬鹿らしい。
 そんな染料がどこにある?
 そんなもん、どこにできるやつがいるってんだ。
 客がその話をすると、途端に俺はそいつの肌がどんなによかろうと、絵がうまくいってようと内心興ざめする。師匠に逃げられたあんたにゃ分からんだろう、と言われているみたいで。
「おや、変だねぇ。あたしゃ、あんたが白粉彫りの名手だってんで来たんだよ」
 女は真剣に俺をみつめた。
「あんた、あたしの背に牡丹と二頭の蝶、それに額に星を入れたね? 胸には星と蝶一頭」
 俺は鏡を一度も見せていなかった。
 女は初めて自ら半身を起こし、俺を顧みた。
「何故分かるのかって顔をしてるねぇ。でも、背に刻まれる感覚をなぞれば、それくらい分かるもんだよ。少なくともあたしにはねぇ」
 くっくっと喉を鳴らして女は嗤う。
 俺はこれだけ肌に触れておきながら、はじめてこの女を得体の知れないものに思った。
「ねぇ、あんた。背には好きに彫らせてやっただろう? お願いだよ。ここの左胸。この蝶だけは白粉彫りにしておくれ」
 懇願するでもなく、かといって出来ないだろうと蔑むわけでもなく、女は流し目のままさも当たり前に注文した。
 俺は眉をしかめる。
「俺には出来ないね」
「いいや。あんたは彫ったことがあるだろう? あんたの師匠の背に」
 師匠の女だろうか? それにしては随分と若い。
 きっ、と釣りあがった目に賞賛ではなく非難の色が浮かんでいた。
「俺が、師匠の背中に? 冗談だろ。そんな方法、俺は知らない。師匠にも教わった覚えはない」
「当たり前だよ。あんたの師匠は白粉彫りの方法なんか知らなかった」
 十年前、だ。
 十年前と言えば、この女は十になるかならずくらいだろうか。
 そんな童女……
 口がわなないた。
 何故生きているのかと、身体が震えた。
 針が手から落ちて女の手元へ転がっていく。
 女は静かにそれを拾い上げた。
「さゐ」
 女の肌はやけに忘れていた師匠のことを思い出させた。
 もし俺の勘が正しいのなら、それもそのはずだ。
 こいつはその師匠の血を半分受け継いでいるんだから。
「嬉しいねぇ。ようやく思い出してもらえた」
 赤い唇が、一晩中背に針を受けていたとは思えないほど疲れもなく、艶やかに笑んだ。
「う……そだ。だって、お前はとうに……」
「そうさ。あんたに川に落とされて殺された。足に石くくりつけられて、こもにまかれてねぇ。冬の川は、そりゃあ冷たかったよ」
 針を持った女は、凶悪な笑みを浮かべた。
 幽霊?
 冗談じゃない。俺の手にはまだ吸いつくような肌感が残っている。
 呼吸するたびにあの背なは静かに上下してたじゃないか。
「生きてたさ。ああ、生きてたんだよ。漁師の張った網に引っかかってね、翌朝どざえもんとして引き上げられたのさ。呼吸も心の臓も止まってたらしいが、引き上げられた後いくらかして息を吹き返したんだとさ」
「そ、そんなほら話、誰が信じる……!!」
「あんたさ。他に誰に信じてもらいたいもんかい、こんな話」
 暗い炎の宿った瞳に女は自嘲の色を混ぜた。
 一度死んで生き返ったからだろうか。だから、この世のものでない美しさを俺に見せつけられるのか?
「ねぇ、利吉。あんたがあたしの才能に嫉妬して殺したことはこの際忘れてやってもいいんだよ。たかが十歳の女の童に、こんな大作背に残されたんじゃあ、彫宮の一の弟子の誉れも高いあんただって殺意くらい感じるだろうしねぇ」
 針を置いたたおやかな手は、あっという間もなく俺の襟を両手で引き掴み、上半身をはだけさせていた。
 龍が絡みついていた。
 俺の胸と言わず、腕といわず、何匹もの龍が絡みついている。
 そして、鏡を見るまでもない。背には彩りも豊かな鳳凰が一羽、今まさに飛び立たんと翼を広げている。
 さゐに初めて針を取らせたのは俺だった。
 はじめは腕に絵を描かせた。見事な龍が腕に絡みついていた。だが、さゐはそれだけじゃ満足しなかった。女のくせに針を持たせてほしいとあまりにしつこくせがむもんだから、俺は下絵の美しさについ、さゐに針を与え、彫り方を教えた。
 さゐの腕は、確かだった。
 毎日父親や俺の仕事を見ているとはいえ、筋彫りもぼかしも俺など到底足元に及ばぬほど早く熟達していった。
 その成長が嬉しくて、もちろん女のさゐが後を継ぐなんてこともないと思って、俺はさゐに背中も与えた。
 翌朝、鏡に映すと、生きて飛び出してくるかと思うほど見事な鳳凰が息づいていた。
 師匠はそれを見て顔の色が変わった。
 俺は、初めて若干十歳の女子供が恐いと思った。
 将来の俺が脅かされると思った。たかが十歳の、それも女に。
「相変わらず、いい出来だねぇ。どれ、鳳凰も見せておくれよ」
 俺に無理矢理背を向けさせた女は、一目視線を注いでほぉとため息をついた。
「あの人の背にあんたが残した龍と虎、あれは傑作といやぁ傑作だった。あの人はねぇ、一番弟子が彫ったんだと自慢げにあたしに見せてくれたんだよ」
 俺は訝しげに女を見た。
 女はにやりと嗤う。それは淫靡に。
「俺が彫ったのは龍と虎だけじゃない。薄紅色の桜も……」
「そう。その桜が浮き上がったのはことが半ばまで差し掛かってからさ」
 何を……言ってるんだ、この女は。
 まるで師匠に抱かれたみたいじゃないか。実の娘のくせに。
「あんたの師匠がなぜ自分の看板まであんたにやっちまったか、分かるかい? 白粉彫りだよ。あんたの彫った桜は熱が上がると浮き上がる仕掛けになっていたのさ」
「……まさか」
 今度は俺が嗤う番だった。
 そんなこと、望んで出来たなら俺はどんなにかこれまで以上に苦しんだことだろう。思う画布に恵まれなくて。
「あんたの師匠は、あんたがあたしの才能に嫉妬してあたしを殺したように、あんたのことを殺したくなったのさ。だが、それ以上にその技術を知りたかった。かといって弟子のあんたに師匠が教えを請うこともできない。それならいっそ看板も仕事場も預け、あんたのところで白粉彫りが施された客の背を吟味して研究しよう、あの人はそう思ったのさ。それなのにこの十年、あんたの彫るものは白粉彫りはおろか、技術だけの魂の入らない彫絵ばかり。弟子を取る気配もない。いい加減待ちくたびれたと、あの人は言っていたよ」
 女は寂しげに笑った。
 俺は継ぐ言葉もない。
「師匠は、生きているのか?」
 女は静かに俺の肩に着物を着せ掛けた。
 そして左右に首を振る。
「あの人なら死んだよ。あたしのとこに来た翌朝にね」
 ぎり、と唇をかみ、女は戻したばかりの俺の襟を一緒くたに掴んで引き寄せた。
「抱いた遊女が実の娘と知って、自ら川に飛び込んで死んじまったよ」
 言葉も、なかった。
 なんなんだ、この女は。
 ぐらぐらする。睨みつけられるほどに、頭の芯が吹き飛びそうになる。
 俺の殺した娘。
 星の数ほどの男の精を吸った遊女。
 実の父と枕をともにするという禁忌を犯した女。
 生と死の間に立つ――この世の女神。
 そうだ。完成させるんだ。
 今は俺の女神だ。
 素性なんかこの際関係ない。
 残るこの蝶に命を吹き込めば、俺の傑作が出来上がる。
 転がった針を取り上げる。再び女を仰向けに押し倒す。
 蝶を色づけるための朱に針先を入れようとして、俺はふとその手を止めた。
『いいや。あんたは彫ったことがあるだろう?』
 さっきの女の声が頭の中で渦巻く。
 どう、やったんだ?
 女の話が本当なら、俺はあの時桜を白粉彫りしているはずなんだ。
 思い出せ。思い出せ。
 けして、女が左胸の蝶を白粉彫りにしろといったからではない。
 完璧なものに出来るのならば、この蝶は熱を持ったときのみ現われる蝶にすべきだった。
 俺の技術の粋をこの女の体にこめるべきだった。
 それからどうやったのか。俺は覚えていない。
 気がつくと女は勝手に湯殿を借り、風呂上りの上気した肢体を俺の前に晒していた。
 左の胸には、染料ではけして出すことの出来ない鮮やかな紅の蝶が止まっていた。
「ふぅん、見事なもんだ」
 女は、初めて満足げに笑った。
「どう……やったんだ?」
 俺は女の乳房に手を伸ばし、つぶさに浮き上がった蝶を見た。
 確かに刻まれた痕はある。だが、染料は使われていないようだった。
「気になるかい?」
「ああ、気になる」
 くつくつくつ、と女は笑った。
「じゃあ、今度はあたしが実践してあげよう」
 湯殿の熱に、くらりと目が回った。
 閉じた蔀の隙間からは静かに朝の光が漏れ入っている。
 俺は導かれるままに仕事場に入り、上半身の着物を脱いでうつぶせになっていた。
 おかしい。何かがおかしい。
 頭の奥で警告する声が聞こえていた。
 だが、俺は己の空白の記憶の中身が知りたくてたまらなかった。
 頭がぼんやりしてくる。
 麝香の香りがした。
 女はよく見えるように、と俺の横に鏡をおいた。
「懐かしいねぇ。昔もよくこうやってあんたの背にいたずらがきをしていたっけ」
 握ったものが、閉めきられたままの室内を唯一照らし出す蝋燭の炎に鈍く光った。
 背に、衝撃が走った。
 鳳凰の心臓と思われる位置に、何かが突き立っていた。
 針ではない。小さな短刀。
「あたしもね、遊女なんてやってたけど、これでも結構嫉妬深いんだよ。あんたの女神はあたしだけでいい。ねぇ利吉、そうだろう?」
 呻く前に、身体が動かなくなっていた。
 その俺の前に女が寝そべるようにして顔を覗く。
「感謝してるんだよ。あんたがあたしを殺してくれなかったら、あたしは生き返ることも、遊女になることも、実の父と抱き合うこともなかっただろうからねぇ。結果的に、あたしはあんたの最高傑作を手に入れられた。あの父よりも、この穢れ果てた体の絵は美しい。ねぇ、そうだろう?」
 声が出ない。
 目のみで女を睨みつける。
 女は悲しげに、しかしうっとりと笑んで俺の顎と頬を両手で包み込んだ。
「これは、復讐じゃないんだよ。それだけは分かっておくれね。かわりにあたしが見た白粉彫りの技術は決して誰にも口外しないからさぁ。女のあたしにゃ、到底真似できないから施すことも出来ないしねぇ」
 けたけたと笑って女は俺の唇を塞いだ。
 舌が入り込み、慣れたように、そのくせ愛しげに俺の舌に絡められる。
「あたしはね、決めた男の口しか吸わないんだよ」
 押しつぶされた乳房の蝶が赤く染まっていた。
 十年前、よく俺にまとわりついていた女の童。師匠の娘だから、俺は仕方なくその相手をしてやっていた。
 そのつもりだった。
 だが、いつしかその女童の描く絵に魅せられていたんだ。
 そうでなければ、誰が一生物の背中など供するものか。
 誰がその才に恐れをなして川に投げ込もうなど思うものか。
 不思議なことに、愛らしいなどと思ったことはなかった。
 この女は、昔から俺の一番の競争相手だった。
 唇を寄せたいなど、誰が思うものか。
 頭の芯が冷えていく。
 正気に返っていく俺の顔を見て、女は切なげにため息をついた。
 目の前の畳に小さく黒い染みが広がった。
 たった一滴の涙だった。
 蔀が開かれ、部屋中に光が溢れかえる。
 その光を遮るように、衣を片手に女は立っていた。
 大地に根づく艶やかな牡丹。花に空に自由に舞う生死司る二頭の蝶。それらを抱くは天の星。
 本当に一晩で彫り上げたのかというほど、それは己の手ながら神がかっていた。
 悔いはない。
 あれは、俺の女神だ。
「さようなら」
 振り返った女の胸、色を失った蝶が見えた。







〈了〉





  管理人室 書斎 読了