「ああ、やっと逢えたね」
　長きに渡る封印からようやく解き放たれた少年は、上空から純白の羽根を散らしながら舞い降りてきた少女にそっと微笑みかけた。
　少女の体からは花が零れ落ちる。
　嬉しさがこらえきれずに形となって、はらはら、はらはらと目覚めたばかりの少年の頬に降っていく。
　少年を捕えていた数多の枝は碧く澄んだ水面へとのみこまれるようにして引いてゆき、満月の下、湖上に立つ少年と空に浮かんだままの少女は五百年ぶりの口づけを交わした。
　長い間別たれていようとも、けして互いを忘れることはなかった。
　少年は水中で見る夢の中で、少女は湖を覆うように端から端まで長く枝を伸ばした世界樹の上で、片時も忘れることなく互いを想いあっていた。
　あれは、そう、ちょうど五百年前。
　世界のどこかにある世界の中心。
　唯一天と地が結ばれるこの世界樹の湖のほとりで二人は出会った。
　その頃、世界樹の根の世話をはじめたばかりの少年は空を見上げることしか知らなくて、樹上を自由に飛び交う天人たちの存在も遥か遠いものと思っていた。
　花が降っている。
　そのことに少年が気がついたのは、世界樹の様子を見るために根元にしゃがみこんでいたその肩に一枚の花びらが降りおちてきたときだった。
　天から花が降ってくる。
　雲ひとつない紺碧の夜空を大地に満月の光を浴び、湖上にかかる世界樹の梢を掠めるようにして風に揺られて色とりどりの花びらが可憐に舞い咲いている。
　花は地上にのみ咲くものとばかり思っていたのに。
「これは天上の花よ」
　天と地が交わるこの場所だけに降る天の花。
　世界樹を生かすその花を降らせることが出来るのは、天神の血を引く高貴な者だけ。
　色彩豊かな花びらが天地の隔たりを埋めゆく中、少年と少女は出会った。
　月下に降りゆく花びらは、いつしか天地に分かたれて生まれた彼らの心を引きあわせ、解けることなくかたく結びあわせていった。
　逢瀬はいつも花降る月夜、天地が巡りあう湖のほとり。
　澄みゆく月の光に照らされて少年は爪弾くリラに歌をのせ、少女はその音にあわせて紺碧の空を花で彩るべく舞い踊る。
　互いの素姓を知ったのはいつのことだったのだろう。
　おそらく、それは『そのとき』だったに違いない。
　いや、本当はお互いに気づいてはいたのだ。
　けれど確かめてしまえば気ままに逢うことも叶わない仲だと気づいていたからこそ、彼らはあえて確かめることなく刹那刹那をいとおしんでいた。
　何より彼らには楽の音と舞と天地を埋める花があれば十分だったのだから。
　二人の逢瀬が天地に知れ渡ったのは、湖が急速に淀み、世界樹が弱り衰えはじめた頃だった。
　そもそも、世界樹を抱くこの湖が濁ることからして天地はじまって以来の大事で、天地の支柱たる樹の命までが脅かされるなど決してあってはならないことだった。
　その大事の原因を確かめるべく天地からそれぞれ遣わされた重臣達が、ついに彼らの逢瀬を見つけてしまったのだ。
　天神の娘と地祇の息子。
　天地それぞれ見知った者達からその名を呼ばれ、二人は楽を楽しむ手をとどめ、窺いあうようにそっと互いの顔を覗き込んだ。
「リリ」
「漣樹」
　直後、二人が引き離されたのは語るまでもない。
『天地を守る者はその開闢より互いに相寄ることを許さず』
　人々は湖と世界樹に起きた異変の原因を、当然のように天神の娘と地祇の息子のせいにした。
　当の二人の親たちは、天神は地祇の息子が娘を誑かしたと憤り、地祇は天神の娘が息子を惑わしたのだと言い返し、お互い謗りあって取りつく島もなかったという。
　だが、原因は世界そのものにあった。
　世界樹は天地を分け支え、世に蔓延する穢れを吸収し浄化することがその役目。しかしながら時経ちて人が増えるにつれ穢れの量はいや増し、いまや世界樹が処理しきれぬほどになっていた。そうして世界樹の中で澱となって溜まりこんだ穢れは根幹を侵食し、その根から水中に溶け出た澱みが湖をも汚染して外側からも世界樹を蝕んでいたのだ。
　世界樹が沈んでは、天と地はもはや分かたれていることは出来ない。
　地は浮かび、天は落ちる。
　天神の一族が空から世界樹に栄養となる花を落として樹を育むのがその役目なら、世界樹に与えられた役目を補助しながら根幹部と湖を守るのは大地に暮らす地祇一族の役目であった。
　もはや一時凌ぎでは間に合わぬと悟った地祇は、楽技以外これといって取り得もない息子に相応の時世界樹と同化することで、その身をもって世界樹の穢れを祓うように命じた。
　少年は一瞬の沈黙をおいてその命令に頷いた。
　きっとその方がいいのだろう。
　もう二度と愛する少女と逢うこともかなわないというのなら、これ以上地上にいても何の楽しみも生まれはしない。
　天に昇る翼のない地祇一族の自分は、結局は降る花を眺め、空向こうにいる少女に想いを馳せることしかできないのだ、と。
　望月が昇り、風に漣だつ湖面に光が揺らされはじめた刻。
　穢れ澱む湖の中央に立つ少年の身体は、世界樹から迎えるように伸びてきた数多の根や枝に絡みつかれ、今まさに湖の底へと連れ去られようとしていた。
　湖畔には、穢れが祓われるに十分と見積もられた五百年の刻限を付して世界樹と少年とを同化させる呪まじないを唱える地祇の一族がずらりと居並び、枯れ枝の群れが痛々しい世界樹の上空では天神の一族が地祇一族の秘儀をじっと見守る。
　こんなときに花など降ろうものか。
　上空の天神の一族の中に少女の姿はない。
　おそらく館の奥深くにでも閉じ込められてしまったのだろう。
　拘束されゆく身体は、翼を得るまでもなく少女を迎えに行くことすらかなわない。
　しかしそのとき、ただ見上げることだけを許された少年の頬に一片の花びらが舞い落ちた。
「自分だけ犠牲になればいいって思ってるんでしょ？！　でも違うのよ？　あなたが一人のときは私も一人なのよ？　どうしてそれを分かってくれないの？」
　月を背に舞い降りてきた少女は、突然のことに動けずにいる天神一族の輪をすり抜け、湖畔の中央でやはり呆気にとられている少年に口づけた。
　甘いとばかり思っていたその唇にほろ苦さを感じて、少年ははじめて胸をつかれる思いを味わった。
「ごめん」
　それしか口に出来る言葉はなかった。
　少女の想いが本物だったと、どうしてこれまで気がつこうとしなかったのだろう。
　自分ばかりが少女に夢中なのだと思いこんで。
　それこそ、翼がないがために自ら逢いに行けない歯がゆさ故だったのだと、少年は今更ながら気がついた。
「五百年。僕は君の夢を見続けよう。片時も手放すことなく君の面影を抱きしめていよう。リリ、だから君は――」
　どうか待っていてほしい。
　共にゆくことはできない。
　けれど、想う心がどこまでも同じと知ってしまった今は、口が裂けても忘れてくれとは言えなかった。
　それほどまでに、深い縁えにし。
　絡みゆく枝に自由を奪われながら、少年は最後の力で少女に手を伸ばした。
「ごめん。君の時を奪ってしまうのは分かってる。でも、どうしてか僕は怖くないんだ。恨んでいい。背いていい。耳なんか傾けなくたっていい。だからどうか言わせて」
　指が一瞬触れ合う。
「待っていて。僕はまた、君が天から降らす花が見たい」
　少女の顔が輝いた。
　刹那、少年の体は抗いようもない世界の定めの中に引き込まれていった。
　湖の中央に壁のように円筒形の波がそばだつ。
　高まった水は一瞬緊張状態を保ったかと思うと、唸りを上げて下へと雪崩落ちていった。
　やがて穏やかさを取り戻した湖面の上には、取り残された天神の娘が一人。
　白い翼は月の光に照らされて透き通り、少女の存在すらも、今は光に飲み込まれて消えてしまいそうなほど希薄になっている。
　しかし、その少女の体からは無数の花びらがゆっくりと湖へと降りおちていた。
　白、桃、赤、橙、黄、紫、水色。
　この世のありとあらゆる鮮やかさをその身に纏った花びらが、春に降る穏やかな雨のように優しく、濁りゆく果てに愛しい人をのみこんだ湖面を覆っていく。
「待っているわ。待っているわ、漣樹。この世にあなたの好きな花を降らせて待っているから。だから、必ず戻ってきて――」
　花びらは湖を埋め尽くし、やがて遍く天地を背負う世界樹の枝葉へも降りそそぐ。
　そして余すところなく花に彩られた世界樹は、飲みこまれた漣樹を守るように湖を覆いこんでいった。
　この先五百年、もはや何人たりとも愛しい人と引き離されなくても済むように。





　湖面を覆っていた枝葉は今は残らず世界樹の元に戻り、湖上を照らす月の光を遮るものは何もない。
「リリ」
　愛おしげに呼ぶ声に、少女は空からその肩を抱いた。
　ぬくもりを確かめ合うように少年もその背を抱き返し、ふと、青く澄んだ空に舞い咲く花びらを見上げて囁いた。
「今夜も花が降っているね」
　少女は微笑む。
「そうよ、漣樹。今夜はあなたと私のためだけに降ってくれているのよ」
　澄んだ湖を覆いゆく色とりどりの花びらは、今は悲しみなど微塵も知らずただ二人の幸せだけをのせ、月の光を浴びて煌いていた。







　彼女が舞えば花も舞う。
　光ふりまく彼女を、僕は見上げることしか出来なくて。
　それでも愛おしいと、手を伸ばすことしか出来なくて。
　――そんな僕の腕に、君は舞い降りてきてくれた。
　僕の、愛しい天の花。




〈了〉

書斎　管理人室　読了

20060404