あたしのはだし。
ぺたぺたとサンダルから足が離れる瞬間の音が、あなたは好きだと言った。
その一言で恋に落ちたと言ったら、あなたは笑うかしら――?
「話したいことがあるんだ」
嫌な予感というものは、こういう場合ほぼ百パーセントの確率で的中する。
一体どれだけ嬉しいというのだろう。
隠しきれないほど満面に笑みをたたえて、先輩は喫茶店で向かい合うあたしの目の前で何度か口をぱくぱくさせた。
その間だけあたしの時間は完全に凍結されてしまっていて、なのに都合の悪い言葉だけを耳に残して一瞬にして解けさっていってしまった。
――彼女が出来たんだ。
さあ祝ってくれと言わんばかりに、先輩は餌を目の前にした犬のように目を輝かせている。
テーブルの下で、あたしはおろしたての白いサンダルのヒールで自分の足の甲を踏みつけた。
「誰、なんですか?」
詰問にならないように声を押し出す。
あたしじゃないことは、もう確かだったから。
「林染子」
あたしはヒールを上から思い切り振り落として、それでも足りなくてぐりぐりと角を甲に押しつけた。
まだ角が堅いままのヒールは現実的、物理的にあたしに痛みを与えてくる。
早く返事をしてあげなくちゃ。
おめでとうございます。よかったですね。お幸せに。
って。
もうそんな人並みな言葉しか浮かばないけど、とにかく笑って見せてあげなくちゃ。
早く。
早く……。
理性では分かっている。
否定したいけれど、確かに耳にはその名前がこびりついている。
林染子は、残念ながらあたしの名前じゃない。
あたしの一番の親友の名前だ。
それにしても、どうして?
染ちゃんは相川先輩が好きだなんて一言も言ったことはなかった。
それどころかつい最近後輩と別れたばかりで、しばらくは誰とも付き合いたくないって言ってたのに。
相川先輩だって、染ちゃんとの接点なんてほとんどなかったはずだ。
サークル後にご飯に行く時はいつもあたしが先輩の助手席で、染ちゃんはその他大勢と一緒に後部座席に座っていた。
言葉を交わすのだって、飲み会で隣り同士になった時くらい。
――早く。
わかってる。
だけど。ああ……、一体どこでひっくり返ってしまったんだろう。
――早く、早く。
悟られてしまわれないうちに、早く。
悟られる?
嘘だ。
先輩ならとうに気づいているはずだ。
先輩にご飯に誘われて、嬉しげに頷くあたしを見ているはずだ。
助手席に招き入れられてためらいながらも、でも隠しきれない喜びを顔に浮かべているあたしを見ているはずだ。
……ああ、そっか。
ことん、と音をたてて、こびりついていた氷のかけらがあたしの身体をなぞりながら転がり落ちていった。
そうなんだ。
先輩ははじめからあたしなんか見てくれていなかったんだ。
『今日のお昼どこがいい?』
『イタリアン! あ、染ちゃんたちも誘っていいですか?』
いいよ、と先輩はいつも笑顔で頷いていた。
どうして気づかなかったんだろう。
あたしが染ちゃんも誘っていいですかって聞くたびに、先輩は今目の前でしている顔と同じ顔をしてたのに。
あたしは、その顔が自分に向けられているものだとばかり思ってた。
もう一度、あたしはおろしたての靴で自分の足を踏みつけた。
あたしはばかだ。
ばかでまぬけで、自分のことしか見えてなかった。
先輩もそうだったんだ。
先輩も自分の目の前にいる染ちゃんのことしか見えてなかったに違いない。
いつから? なんて聞くまでもない。
あたしを頻繁に昼ごはんや夕飯に誘うようになった頃からだったんだろう。
あたしは先輩にとってこの学年の女子の中で一番話しやすかったみたいだし、それに染ちゃんとは一番仲がよかったから。
先輩、あたしのこと、染ちゃんと近づくためのダシにしたんですか?
空しいからそんな分かりきったことなんか聞いてやらない。
先輩、あたしが先輩のこと、今日わざわざ喫茶店に呼んだ意味、分かってるんですか?
分からないって言われても、あたしにはもう次の言葉を継ぐことなんかできない。
足が痛い。
履き慣れない細いヒールのついた白いサンダル。
先輩、せめて気づいてください。
あたし、今日スニーカーじゃないんですよ。
先輩がサンダル似合う子が好きだって言ったから。
歩くたびにぺたくたいう音が可愛いよねって言ったから。
だから町中探し回ってようやくあたしの足でも入る可愛いサンダル見つけてきたんです。
染ちゃんに見立ててもらって――
昨日、染ちゃんは一言もそんなこと言ってなかった。
あたしははっきり相川先輩が好きだなんて言ってなかったけど、でも、ずっと一緒にいたなら気づいていたはずでしょう?
サンダル探しに行きたいって言ったときだって、驚いた顔一つせずに付き合ってくれたじゃない。
分かってくれてるものだと思ってた。
ほら、あたしって分かりやすいから。
すぐ顔に出るし。
てっきり、周りにもばれてるものだと思ってた。
「城島?」
何度も何度も踏みつけるうちに、足の甲に走っていた鋭い痛みは鈍いものに変わっていく。
うん。痛みなんて慣れてしまえばどうってことないものなのだ。
「うわぁ、先輩、おめでとうございます!! 染ちゃんはおすすめですよー! 美人だし、優しいし、しっかりしてるし。いいお嫁さんになると思います。先輩ったら、好きな人なんてーとか言っときながらしっかりチェックしてるじゃないですかぁ。それもお目が高い!」
全くどうやって捕まえたんですかぁ?
とは、聞けなかった。
そんな馴れ初め、聞きたくない。
これ以上先輩を目の前にしていたくない。
逃げ出したい。
この場から今すぐ外に逃げ出してしまいたい。
なのにあたしの顔と口と喉はいつもの城島紗恵子のまま喋り続ける。
「でも、残念だなぁ。染ちゃん、せっかくまたあたしにかまってくれるようになったと思ったのに、今度は先輩にとられちゃった」
しっかり肩まですくめ、あたしは鞄の中の携帯に手を伸ばす。
タイミングよく着信なんか着てやしないかと。
だけどそんな空しい望みはあっさり絶たれて、仕方なくあたしは手の感覚だけでマナーモードを解除する。
さあ、いつでも大きな音をたてて呼び出し音を鳴らしなさい、と。
誰でもいいから避けようのない用事を言いつけて、あたしをこの地獄から引っ張り出してください、と。
そんないかにも怪しいあたしの態度を訝しみもせずに、さっきから先輩は上機嫌であたしの言葉に頷きつづける。
こんな昼間から、もう酒でも回ってしまっているかのように顔を赤らめて。
――かわいい。
もうだめなのに、そんな気持ちがまだ湧き上がる。
何度も踏みつけた足の甲はとうに感覚がなくなっていて、何事も無かったかのようにただあたしにつながっている。
ただ、痛みを感じなくなった分、どこかにそのつけは回っているはずで。
「ごめんな、城島」
足に気をとられて軽く俯いていたから、どんな表情で先輩がその言葉を発したかなんて分からなかった。
ただ、声を聞くに、それは詫びているものではなかった。
「なーに謝ってるんですかぁ。いいんですよ。あたし、今日先輩呼び出したのってこれ聞くためだったんですから」
顔を上げてしっかり正面から先輩をみつめてにっこり微笑む。
やれば出来るじゃない、あたし。
なのに、初めて先輩は「え?」という顔をした。
つられてあたしまで作り物の表情が剥げ落ちる。
お互い素のままみつめあって、一瞬だけ早く、あたしの方が我に返った。
「ふっふっふっ。ばればれだったんですよ、先輩。先輩、あたしがいつもお昼に染ちゃんも誘うと嬉しそうなほっとしたような顔してたじゃないですか。それに、染ちゃんも最近様子がおかしかったんですよね。でもあの子、絶対自分からはこういうこと口割らないから。だから先輩に聞いちゃおうと思って。何なら協力しようとまで思ってたんですよ。いやぁ、手間が省けてよかったよかった。先輩、今すごく幸せそうな顔してますもん。大事にしてやってくださいね。泣かせたら承知しませんよ?」
口は回る回る。
こんなにばかみたいに一人でまくし立てちゃって、今度こそ先輩に怪しまれたかもしれない。
だけど、先輩は少しあたしの背後に視線を移すと、あたしなど眼中にないとばかりにとろけるような顔をした。
「林」
先輩の呼んだその名に、抑えようもなくあたしの肩は震える。
その震えた肩に背後斜め上から視線を感じて、あたしの上半身から下は石になった。
「用事の相手って、紗恵ちゃんだったんだ。じゃあ、もう?」
「城島気づいてたんだってさ。だから俺たちのこと取り持ってくれようとしてたみたいで……」
「なんだぁ。わたしからちゃんと言おうと思ってたのに」
体の内側を、足のつま先から頭のてっぺんまで灼きつくすような業火が抉るように舐めていった。
気がつくとあたしは椅子から立ち上がっていた。
がたん、と椅子の倒れる音で我に返る。
同時に履きなれないヒールが斜めに傾いで、あたしの身体はテーブルに突っ伏すようにくず折れた。
「ぅわっとと」
まだ口をつけていなかったアイスコーヒーのストローを目の前に、何とか腕の力だけで押し留まって、その体勢のままあたしは無理矢理口から胸の奥に酸素を送り込む。
普段ならなんともないただの呼吸なのに、今ばかりは接着剤でぴったりくっついた気道を大きな空気の塊が押し入ってくるような拷問めいたきつさがあった。
ああ。携帯よ、鳴り響け!
あまり好きじゃなかったけれど、中学時代の知り合いよ、通りかかれ!
というか、新しいお客が来たんだから、店員さんよ、早くオーダーを取りに来い!
染ちゃん。
それ以上あたしの背中を見ないでちょうだい。
きっと今、とてつもなく怯えた背中をしてるだろうから。
「紗恵ちゃん、大丈夫?」
さらりとした手が助け起こそうとあたしの腕に巻きついてくる。
先輩。
染ちゃんがサンダル履いても、きっとぺたくたとは鳴らないよ?
染ちゃんは汗かきにはほど遠いもん。
きっと砂糖菓子かなんかで出来てるんだよ?
夏でも長袖着て汗一滴も流さずに平然と街歩いてるような子なんだよ?
昨日だって暑い中、裸足にサンダルであたしの買い物に付き合ってくれたけど、一度も先輩が好きだって言った音は鳴らなかったよ?
汗かきのあたしはそれがコンプレックスで。
夏でもスニーカーを履いていたのは、そのぺたくたという音を周りの人に聞かれたくなかったからで。
でも、先輩が好きだって言っているのを聞いたから、あたしはあたしでもサンダル履いていいんだなって許してもらったような気がしていたのに。
そんな些細なことが全てじゃないことくらい、あたしにも分かっている。
先輩にとって、ただの雑談の中に出てきた他愛もない一言だったってことも、分かってる。
でもその一言があたしを救ってくれた。
大げさでなく、あたしにもおしゃれするチャンスをくれた。
付き合ってください。
舞い上がっていたから、そこまでしっかり口にするつもりだった。
今日は化粧もばっちりしてマスカラまで入れて、スカートもはいて、買ったばかりの白いサンダルに裸足のまま足を差し入れて、正面から先輩と向き合っても恥ずかしくないようにしてきたのに。
今はせめて、これがあなたのおかげなのだと知っておいてほしかった。
ありがとうございます、と、一言でいいから言わせてほしかった。
「やだ、待ち合わせまでしてたの? ごめんね。協力するとか言っといて、これじゃ完全に邪魔してるじゃんね、あたし」
鞄の持ち手に素早く染めちゃんの手から抜き取った腕を差し入れる。
限界だった。
変に思われたって、もうかまうものか。
強制撤退決定。
さっさと逃げ出してしまおう。こんな場所。
「じゃ、先輩から言質は取ったからあたしはこの辺で。お代、ここに置いておきますね。それじゃあ、また明日ー」
染ちゃんの視線を一度も受け止めることなくスルーして、あたしは走り出さないように頭で両足を右、左とコントロールしながら出口に向かう。
呼び止められなきゃいい。
必死にそう願っていたのに、頭上で鳴っていたカランカランという暢気な鐘の音が無事に扉の向こうに吸い込まれてしまった時、あたしはどうしようもない虚脱感に思わずその場にうずくまった。
とうに涙腺が緩む時期は過ぎ去っていたようだった。
ただ、肺と心臓が石に置き換えられてしまったかのようにのしかかるように重く存在している。
喘ぎながら息を吸い込んで、思いのほか滑らかにあたしは立ち上がった。
窓越しに観葉植物の向こう、染ちゃんはあたしが倒してしまった椅子に腰掛けて、はじめからあたしなどいなかったかのように相川先輩と談笑している。
道化だ。
あたし一人が馬鹿を見てる。
あたし一人が空回りして、見えない何かの流れから跳ね飛ばされてしまってたんだ。
「こんなもの……!」
人通りの多い往来から数本離れた裏路地に入り込んで、あたしは古びた壁にもたれながら両足からサンダルを抜き取った。
日陰とはいえ焦がすような熱が足裏を灼く。
靴裏はまだ綺麗なまま。
あんなにあたしの足を踏みつけたっていうのに、ヒールを覆う黒いゴムは角が丸くなった様子もない。
だけど、左足の甲には明らかに真新しい青い痣が浮き上がっていた。
痛くないのに、確かに痛めつけられた跡が残っていた。
「……こんな、もの……」
買ったばかりでまだ硬いサンダルをそれぞれ両手に握りしめ、あたしは人目など気にする間もなく思い切りそれらを同時に向かいの壁に投げつけた。
たいした音もたてずにサンダルはまたあたしの足元に転がってくる。
それを拾っては投げ、拾っては投げ――
なのに、何度やってもあたしの心は晴れない。
泣けば楽になれる。
そうだ。
こういう時は思い切り泣いてしまうのが一番だってことくらい、お子様なあたしだってちゃんと知ってる。
ちゃんと知ってるけど。
「何で泣けないの……?」
波のように押し寄せてくる現実の重さに、心はどんどん疲れ果てていく。
泣くことばかり考えちゃうから涙が出ないことに苛立って焦りだし、余計に心は重くなる。
「……あたしの、ばか」
心は頑ななまま。
頭はこんな時ばかりどこか冷静。
だめ。
このままじゃ絶対引きずる。
染ちゃんとも顔合わせられなくなっちゃう。
顔、合わせられなくなっちゃうけど、でも、だからそれが何?
「あんなの、親友だと思ってたあたしがばかだったんだ」
ほんとは、染ちゃんが年下の彼と付き合いはじめた時点で親友なんて思えなくなっていた。
メールの回数は激減どころかゼロになったし、お昼や夜ご飯に誘っても彼氏第一で断ってばかり。
珍しくお昼に向こうから電話で誘ってくれたかと思いきや、彼氏と合流するまでの時間つなぎだったこともある。
同じサークル内にいながらとうに疎遠になりかけていたというのに、「別れちゃった」というその一言で染ちゃんが一番にあたしのところに戻って来てくれたとき、あたしはそれまでのことも一瞬で忘れてしまうくらいすごく嬉しくて、また親友やろうなんて思ってしまったのだ。
どんなにサンダルを投げつけても埒が明かなかったあたしは、いつの間にかそれらを両手に握りしめたまま交互に壁に打ちつけていた。
高い衝突音の後に続くのは、ずるずると深く抉るように引きずる音。まるで歩くのが下手な人がビルの壁で進むに進めず同じ場所で足踏みしているみたい。
狙いがずれれば自分の手までざらついたコンクリートの壁にこすれ、白く薄皮がむけていく。
人が通りかからないのをいいことに、どれだけそんなことを繰り返していたのか。
買ったばかりのサンダルは、十年履きつぶされたかのように白いコーティングがはげ、痛々しく茶色い皮が肌を見せていた。黒くコーティングされた底も白いコンクリートの粉で傷つきはて、不恰好にあちこち欠けたり毛羽立ったりしてしまっている。
なのに、握りしめ続けていたところは相変わらず真新しいまま澄ました顔であたしを見上げていた。
「……っうっ……」
不意に視界が歪んで、あたしの胸はしゃくりを上げた。
「ぅっ、っぅっ、ぅっ……」
ようやく泣けた。
そんなカタルシスも、今のあたしには感じられなかった。
真新しいままの部分が残っているからこそ、傷つけてしまった部分がひどく痛々しくて、どうにもならない後悔ばかりが胸にこみ上げてくる。
いっそ新しい部分も持ち替えて傷つけてしまえばいいのに、ずるずるとへたり込んだあたしは向き合っていた壁からも離れてしまって、もう起き上がる力もなかった。
見上げれば夕日に朱紫に染まった空を二本の黒いビルが四角くくりぬいている。
あたしは深い深い井戸の底に一人、取り残されてしまったかのようだった。
言い知れぬ孤独の恐怖が体の外からじわじわとあたしを蝕む。
叫んでもあたしの声はどこにも届くまい。
自分を傷つけても、あたしの心はちっとも楽にはなれるまい。
ぼろぼろになったサンダルを抱きしめて、あたしは思う存分声を殺して泣き続けた。
買ったばかりのサンダルに当たるなんて、ばかなことをしたと思えばいいのか。
思うがままに染ちゃんにこの感情をぶつけてしまえばいいのか。
せめて先輩にありがとうと言えばいいのか。
タイミングを捉え損ねたことばかりが頭の中を幾度となく往復し続ける。
そんなあたしを見かねたように、ようやく午後一件目のメールが味も素っ気もない通常着信音と共にあたしの手元にやってきた。
――林染子。
表示されたその名に、あたしは一瞬どきりとして辺りを見回した。
誰も、いない。
その事実に安堵して携帯の画面を注視しながらも、親指は落ち着きなく電源と開封ボタンとの間を彷徨っている。
暮れなずむ空を見上げて一息あたしは息を吸い込んだ。
開封。
現れたのはたった一行。
――明日サークル後に二人きりで時間ちょうだい。
と。
「はあぁぁぁ」
体中から空気が抜け出していった。
あるいは半分くらい魂も出掛かってしまっているかもしれない。
修羅場はごめんだ。
今日だけでもう充分。
染ちゃんの口から説明なんて、余計に聞きたくなんかない。
だって、知らなかったで全部すんでしまうもの。
いいよ、もう。
幸せな二人を壊す趣味なんてはなから持っちゃいないし、相川先輩が染ちゃんと一緒にいられれば笑顔でいられるって言うのなら、あたしに文句なんかつけられるわけがない。
あたしは抱きしめていたサンダルを下に置き、形ばかりまだ原型を留めているその中に青痣だらけの足を差し入れた。
ヒールが高い分、バンドを締めると不自然なつま先立ちになった甲が思い切り締めつけられて出来たばかりの青痣が疼く。
一歩踏み出せば、言葉にならない激痛が頭のてっぺんまで駆け上がって来た。
「ばかなあたし」
涙は拭いた。
鼻もかんだ。
ファンデーションで赤くなった鼻の頭や頬を覆い隠して、あたしはすっくと顔を上げる。
いくつかの角を曲がって路地裏を抜けると、人通りの多い大きな通りに転がり出た。
真ん中を帰宅ラッシュでいらつく車たちがのろのろと走り、その脇では邪魔になることも解さず客待ちのタクシーが列をなす。更にその両端のさして広くもない歩道をこの暑さの中スーツに身を固めた人々が足早に家路を急ぐ。
だぁれもあたしなんか見ちゃいない。
みんな、自分の向かう先しか見えていない。
歩くたびにぺたくたと音をたてるあたしの足元になんか、誰も耳を傾けてやしない。
自意識過剰。
あたしはあたしに振り回されて、見るべきものも見ないで今ここにいる。
女の子らしくレースをあしらった桜色のキャミソールに、ふわふわの白いスカート。素足を包むのは細いヒールのついた白いサンダル。
あたし、なんてらしくない格好をしてるんだろ。
嫌いじゃないけど、これじゃあまりにも理想化した女の子の型にはまりすぎてる。
『どうしたんだ? その格好』
からかうように笑った今朝の先輩を思い出して、再び視界はくぐもった。
唇をきゅっと噛みしめて、足に鈍い痛みを感じながらあたしはいつも服を買うお店に飛び込み、もらったばかりのバイト代をはたいて黒と緑二枚をあわせたカジュアルなタンクトップと膝丈のボトムを買ってその場で着替える。
体も頭も冷えたところで、脱いだキャミソールと白いスカートを押し込んだ紙袋を抱きしめて、あたしは冷房のきいた店からもったりと湿気を含んだ暑気が残る外へと踏み出した。
新しいスニーカーは買わなかった。
ぼろぼろになったサンダルを履いたまま、ヒールの高さに足首を挫かれそうになりながらもあたしは真っ直ぐ駅へと向かう。
ぺたくた、ぺたくた。
あの人の好きだと言った音は、染ちゃんへの返信を考えはじめたあたしの耳からどんどんどんどん遠ざかっていく。
これがあたし。
ほんとのあたし。
恋の魔法は解けてしまったけれど、まだまだ心に後遺症は残るだろうけれど。
履きたかったサンダルまで諦めることはない。
「次は……」
もし次にまた恋をしたら、そのときは素直にあたしを出してあげよう。
もっとあたしを大切にしてあげよう。
いずれ息苦しさに喘いでしまうことになる前に。
「あ、もしもし、染ちゃん?」
結局メールではなく受話器のマークがついたボタンを押したあたしは、思いのほかけろっとした声で彼女に話しかけていた。
『紗恵ちゃん……』
「あはは、なんて声してんの、この幸せ者がっ。あたし明日バイトでサークルいけなかったんだわ。だからさ、来週にでも付き合ってよね、お昼ご飯」
『でも……』
「嫌?」
『そうじゃなくて……』
「たまにはあたしにも付き合いなさいな。染ちゃん、彼氏できるといっつもそっちにばっかりかまけちゃうんだから」
『……うん、わかった。でも、紗恵ちゃん……』
「勘違いだよ」
長引きそうだった沈黙に、あたしは最後の嘘を塗り重ねた。
『そっか。なぁんだ、そっか』
「そうそう。あ、電車来ちゃったみたい。じゃ、またね」
『うん、またねー』
回線が途切れる。
ぎこちない明るい声を残して。
明日バイトでサークルに行けないのは本当だから、今晩からあわせて金、土、日。
一人で泣く時間はたっぷりある。
「ああ、そうだ。湿布買って帰らなきゃ。……ばんそーこーも」
ホームに入ってきた電車に背を向けて、あたしは自分でつけた痣の他、早速靴ずれに痛みはじめた足を引きずって、定期を片手にのろのろと改札口を引き返す。
ぺた、くた、ぺた、くた。
早くこの音を元気にしてあげるために。
〈了〉
管理人室 書斎 読了