ここに住んで六十年になる。
確か、いきだおれてそのままになってしまったのだった。
落葉樹林の生い茂る山の中。
普段はうっそうとして薄暗いが、夏になればそれを吹き飛ばすほどの蝉の鳴き声がけたたましく交錯する。秋には木の葉が赤く色づき、冬だけ私は寒空の下に放り出される。空が青みを帯びはじめると、頭上は再び萌えゆく若葉に覆われていく。飛び交う蝶に目を細めれば、いつしか季節は再びあの夏に還っている。
そして、蜻蛉が空を切って泳いでいく。
やってくる人もほとんどいない山の中で、私は季節の中をめぐり続けてきた。
途切れることない円環の中に私は閉じ込められていた。
不服に思うことも、不満を感じることも、不安に駆られることもない。
悠久の時の中で、眠ることなく木々と虫と空とに囲まれて過ごす。
話す言葉すら忘れそうでも、自分と同じものに出会うことがなくても、恐ろしいと思うことはなかった。
過去を振り返ることもなく、未来を透かし見ようとすることもなく、ただ現在目の前にあるものだけを受け入れる。
夜と昼は途切れなく訪れては去っていく。
繰り返すことに飽くことなく私は飲み込まれていたかった。
だが、日常はいともあっけなく崩れた。
風変わりな格好をした男達が数人、私の領域に入り込んできたのだ。
頭にはつるつるとして硬そうな黄色いヘルメットをかぶり、うち三人は浅黄色の作業着らしきものを着、もう二人はお役人みたいに仕立てのよい白いシャツと薄灰のズボンをはいていた。
タオルやハンカチやらで額の汗を拭い拭い、五人は黒く湿った土を踏みしめながら私の前を通り過ぎていった。
と、一人が振り返ったのだ。
眼鏡をかけたまだ若い青年だった。
シャツの袖をまくり、ハンカチで吹き出る汗を拭きながら、その人は眼鏡の奥で長い睫毛をしばたかせる。
驚いた顔で私をしっかりと見つめていたが、その黒い目には何も映ってはいない。だが、おそらく青年も私の驚いた顔を見つめているはずだった。
ぱくぱくと口だけが開閉される。
言わんとすることはわかる。
どうしてこんなところに二十歳前の女がいるのか、と問いたいはずだ。
同時に、見えてしまった恐怖に立ち竦んでいるのだろう。
誠実そうな顔が青ざめていく。
私はどういう顔をしたらいいかわからなかった。
微笑んでみればよいのか、出て行けとばかりに凄めばよいのか。
そうだ。
長らくこんな感情は忘れていた。
微笑むだなんて。怒るだなんて。
わき上がるものを不服に感じながら、私は口を開いてみる。
「何をしにきたの?」
言葉はあっけないほど簡単に音になって外に放り出された。
こんな声をしていたのかと私は心のどこかで感心しながら青年の出方を待つ。
青年はやはり口を二、三度開閉させてからようやく声を絞り出した。
「団地を……この山を切り崩して住宅団地を作る計画があって……」
少なからず彼の答えは私の心を動揺させた。
「切り崩す? この山を?」
頷き、青年は窺うように私を覗き込んだ。
そう、覗き込んだのだ。
未知のものに慄いて後ずさるのではなく、ずい、と顔を前に出して。
その顔には恐怖が張り付いてはいたが、もっと何か私ではない別のものに脅えているように見えた。
「佐藤ー! 何してる! おいてくぞーっ」
青年と似た格好をした中年の男が木立の合間から叫んだ。
佐藤と呼ばれた青年ははた、と我に返る。
「また来るよ……登紀子」
そう呟くと、青年は走って山のもっと上の方へと登っていってしまった。
青年の土や落ち葉を踏み分ける音が去って、再び静寂が沈殿を始める。
けれど私には静まり返ったその空間がひどく煩いものに感じられた。
蝉の声も虫の鳴く声も消えていた。
私だけが景色の中から切り離されていた。
――トキコ。
青年の残していった置き土産はじわじわと私を侵食していく。
時間をかけて私を登紀子にしていく。
おかしな話だ。
私は私だったはずなのに。
追いかけるべき過去などもっていなかったはずなのに。
息せき切って焼夷弾に赤く焼け出された空の下を私は走っていた。
耳を劈き、心を緊張で引き裂く空襲警報に鞭打たれるように人々は逃げ惑う。
やけに近いところで飛行機のプロペラが回る音がしたかと思うと、私と並んで走っていた人々の大半は地に伏していた。
彼らが起き上がったのかどうかなんて、私は知らない。
走るしかなかった。
爆撃音や銃の火を吹く轟音のかわりに耳に入ってくるのは、せわしなく鼓動する心臓の音。そんなに大きな音で峠を駆け下りるように動いていては、いずれ近いうちにねじが切れたようにぱったり止まってしまうのではないかと危惧してしまうほどのせわしなさだった。
とにかく。
息が上がって苦しかろうが、心臓が働きすぎて止まりそうになろうが、私は走り続けた。
生きなければならなかった。
一緒に家を焼け出されてきた母や弟妹ともとうにはぐれてしまっていた。探す余裕などない。
私は生きたかった。
生きて、帰りを待たなければならない人がいた。
笑顔で迎えたい人がいた。
彼が頑張って帰ってきたときに、誰も労う人がいないなんてことがないように。
何より、彼は私のところに戻ってくるといったのだ。
私が死んでしまったら、彼はどこへも帰ることができなくなってしまう。
だから、私は逃げ続けた。
配給だけでは満たないお腹を慰めながら、一人で必死に逃げ続け、誰一人知る人のいない群集の中で終戦を迎えた。
肩を落として帰る人々の列に混ざりながら実家のあった場所を訪れれば、あるのは瓦礫の山ばかり。私の家と分かるものは何一つ、そう、周りの景色すら残ってはいなかった。
ただ、北西に見える山脈まで夏の熱気に焙られて陽炎を発する瓦礫の平野が広がるだけだ。
一日待っても、二日待っても、母も、弟妹も帰っては来なかった。
三日目にサイパンで戦っていたはずの父の戦死報告が届き、午後には見知らぬ人が母と一番幼い弟の胸に縫い付けられていたはずの名前がかかれた布を持って訪ねてきた。焦げつき、茶色く汚れた布が彼らの死を教えてくれた。
妹の行方は分からないという。
ただ、母と弟が命を落としたあたりでは身元を明かすものが残っていただけでも奇跡なのだと、その人は慰めるように言って去っていった。
闇市を徘徊して食べ物をお腹に入れ、瓦礫の影に息を潜めて眠る。
絶えず闇は蠢き、私は恐ろしさにすすり泣いた。
そうやって日々を凌ぐうちに、ようやく彼は帰ってきた。
私の作ったお守り袋の中に体のほんの一部を入れられて。
それを手にした瞬間から、私の頭の中は真っ白になって……そう、どこかにこの骨を埋めてあげなければ、と……母と弟の名札や父の戦死報告書と共にどこか暑くないところに埋めてやりたいと思って私は家の焼け跡を出たのだ。
ちらちらと眩しい光が火の玉のように揺れながら近づいてきていた。
この山の中にどうやって辿りついたのか私は覚えていない。
ひどい空腹に動けなくなって、頂上を見ることなく、今と同じこの真っ暗な闇の中で虫の大合唱を聞きながら、何かに意識を断たれたのだ。
違うのは、小さな太陽のような明るい光が見えること。
昼間の青年がその光の持ち主だった。
カンテラとも違う。風が吹いても光は揺らがない。携帯式の電灯のようだった。
その灯に浮き上がる青年の顔は、昼間のように脅えることも怯むこともなかった。驚くほど冷静な表情で私をその光で照らし出す。
そして、にこりと悲しげに笑んだ。
「ごめん」
表情の割にはあっさりとした一言に、やや私は拍子抜けする。
私には、昼間青年が「また来るよ」と言った理由が分からなかった。
私を「登紀子」と呼んだ理由が分からなかった。
何より、本当にこんな深夜にやってきていきなり「ごめん」と言われる理由が分からない。
月がない夜。
いくら怖いもの知らずの若い男でも、この山の闇には慄くのが普通だろう。
「明日も仕事があって昼には来られそうになかったから、今来たんだ」
「何故、来たの?」
青年はそれには答えず、私に手を伸ばした。
半袖の黒いシャツから剥きだしになった腕は、私に触れようとして、しかし空を掴んだ。
「ごめん。登紀子」
また青年は謝る。泣きそうな顔で。
「あなたは誰?」
青年は泣き崩れかけた顔に必死で笑みを刷く。
「皆川榮という名に、覚えはない?」
青年がようやくの思いで押し出した名前に、私の胸はいっきに溢れんばかりの想いに詰まった。
彼の名だ。
私がずっと待ち続けた、彼の名前だ。
私の旦那様になるはずだった人の……
私はむなしげに空に浮く青年の腕に手を伸ばしていた。
だが、やはり私の手も青年の腕をすり抜けただけだった。
かわりに私達は互いに触れ合えぬ手に視線を落とし、そして互いの顔を見つめあった。
「不思議なこともあるものだね。昼間、あなたの姿に気がつくまではこんなことがあるなんて思いも寄らなかった。信じられなくて、つい不躾にあなたを見てしまって……」
「榮さんなの? あなたが榮さんなの?」
青年はちょっと困ったように頷いた。
「今は佐藤頼明というんだよ。市役所職員をやっているんだけれどね。今日ここに来たのは、たまたまこの山を切り崩して新しい団地にする計画があって、その下見に建設業者と一緒に来たんだ。本当に、あなたに逢えたのは偶然だったんだ」
ぼんやりと夢でも見ているかのように彼は私を見つめる。
「けれど、あなたはどうしてこんなところに?」
「それは……」
どうして私は待っていたことすら忘れてしまっていたのだろう。
あんなにあんなに待っていたというのに。今日の今日までそんなことも知らず、六十回目の夏に身を委ねていた。
「あなたの死があまりに辛くて……私は……」
忘れようとしたのだろうか。
辛いから?
あんなに好きで待っていたというのに?
「ごめん……なさい……。私はただここにいただけだったの。全部忘れ果てて、
ただこの山の一部のようになっていたの……」
私は視線を落とした。
ああ、そうだ。
私が握っていた父の戦死報告書はどこへ行ったのだろう。
母と弟の名札は?
彼の遺骨が入ったお守りを首から提げた私の体は?
ここで息絶えたというのなら、まさにここに私の体があるはずだ。
手から力を抜いていないなら、私の手はまだ彼らの遺品を握っているはずだ。
「埋めて……あげなきゃ……」
私はあの時まだ力尽きてはいけなかったんだ。
まだ、何一つ弔ってあげていない。
誰の魂一つ慰めてあげていない。
土を掻いた。
触れられないと分かっていても、私は必死で自分の足元の土を掘り返そうと――六十年かけて堆積した土の下に覆い隠されてしまったものを取り戻そうと、必死に手を土に差し入れていた。
今更、何一つ掬えるものはないというのに。
「登紀子」
白いままの私の手の上に、すっと彼の手が重ねられた。
「登紀子、どうしても伝えたい言葉があったんだ」
触れ合えなくても、彼の手は優しく私の手を包み込む。
私はおそるおそる顔を上げた。
「たとえ言ってすぐに死んでしまってもよかったんだ。ただ、この言葉だけは登紀子に伝えてからじゃなきゃ、って。登紀子は一途だから、もし僕がこの言葉を伝えずに死んでしまったら残りの人生をふいにしてしまうかもしれない、って。自惚れ屋と笑うかもしれないけれど、届かないと分かっていても、ルソン島の密林の中でのたうちながら何度も、何度も僕は登紀子に向けて叫んでいたんだよ」
照れたように笑った青年の顔が、初めて榮さんのものと重なった。
「榮さん……」
「随分と長いこと、こんな寂しいところで待たせてしまったね」
髪を撫ですいて、榮さんは微笑んだ。
「ただいま、登紀子」
六十回目の夏の終わり。
蝉の声は静まり、秋を呼ぶ虫たちがぎちぎちと鳴く。
望み続けたように私はとっておきの微笑を浮かべた。
「お帰りなさい、榮さん」
その時ようやく、私は時の円環の中から解き放たれた気がした。