ディオニュソスの船




 はじめはほんの出来心だった。  よくみんな言うじゃない?  お酒を飲むと嫌なこととか全部忘れて気持ちよくになれるって。  旦那がついに長期出張と銘打って帰ってこなくなった晩、あたしははじめて台所で一人、 ワインの栓を抜いた。  自分であけるのははじめてだったから、旦那がやってたのを思い出しながら開けるしか ないわけだけど、ワインオープナーをコルクに突き刺した瞬間、あたしの手はぐりぐりと 螺旋の先をコルクの中に押し込んでいた。  が、いざ引っ張り出そうとするときつくてなかなか出てきてくれない。  そうこうしているうちに一度螺旋だけがコルクの破片を飛び散らしながら勢いよく抜け てしまった。  ほのかに赤ワインのすっぱいぶどうの匂いが漂ってくる。  だけど、コルクはまだ半分も抜けていなかった。  もう一度注意深く穴の開いていない端っこの方に突き刺してまわし、ちょっと斜めにし て全身の力をこめて引っ張り出す。  今度はぽんっとあの心地よい音が聞こえた。  同時に、コルクの塊がいくつか中に落ちていった。  旦那は手だけであんなに簡単に開けていたのに、あたしにとってはワインを開けること すら全身運動だ。  うっすらかいた汗を拭って、あたしは用意しておいたクリスタルのペアグラス二つに交 互に中身を注いでいく。  毎年二人で結婚した年に造られたワインを飲むのが、あたし達の結婚記念日の祝い方だ った。  去年も、一昨年も、そのまた前も、新婚初夜も、あたし達はこうやって二人が結ばれた 日をお祝いしてた。  ちゃんと二人、このテーブルに向き合って。  あたしは思い出を振り払うように持つ人がいないグラスに自分のグラスを軽く当てた。  透明感溢れる澄んだ音が静かな台所に染み渡っていく。  いつもぴかぴかの台所。  料理をしていないわけじゃない。  専業主婦のプライドにかけてガスコンロもシンクも、床も磨き上げているのだ。  最も、旦那がこの家に寄りつかなくなってもう半年は経つ。ここで腕を振るうこともめ っきりなくなってしまった。  使う回数が減った分、綺麗にするのも簡単なのは当たり前。  それでも、今日は帰ってきてくれるだろうとあたしは久しぶりにテーブルいっぱいに和 洋中考えつく限りのごちそうを並べたのだ。  ワインだって旦那の大好きな赤ワインを何本もケチらないで買ってきた。  おつまみのフライドチキンや唐揚げや、焼肉の準備だってばっちりだ。 『しばらく出張で帰れない』  帰ってこないのはいつものことなのに。 『じゃあ準備のために一回戻ってくるでしょ?』 『急だけど、今からロンドンなんだ。もう空港にいる』 『……そう』  後ろの方では女のはしゃいだ声が旦那の下の名を呼び捨てにしていた。  つっこむ気にもならない。  いっそ電話なんかしてこなきゃいいのに。 『行ってらっしゃい。気をつけてね』  あたしは良妻の面子にかけて知らぬふりを通してそう言った。  結婚記念日なんて言葉は出さなかった。  旦那はわかってて海外脱出にかかったのだろうから。 「かんぱーい!」  あたしは木屑入りの赤ワインが入ったグラスを一気に傾けた。  飲み込んだ瞬間、浮かんでいた木屑が喉にいやな感触を残して過ぎ去っていった。 「まずい」  ぴりぴりとすっぱ辛くて、濃厚な味わいなのか渋さなのかよく分からないものが口中に 広がって、最後にはすっぱさだけが舌の上に残る。かすかにパセリのような味。  あたしは赤ワインが嫌いだ。  おいしい赤ワインに出会ったことがないからかもしれない。  でも、大概赤ワインというのは渋くって酸っぱくって濃厚ないやな味がする。  本当は毎年おいしいといって飲む旦那の気持ちが分からなかったんだ。  嫌な顔せず一杯空けるのが精一杯だった。 『おいしい?』  そう聞かれて笑顔で頷くときにひきつってやしないか、そればかり心配してた。 「まずいよ」  あたしは誰もいない向かいの椅子に向かって悪態まじりにそう答えてやった。  ほんとはずっと聞きたかったんだ。  こんなまずいもの、どこがおいしいの? って。  旦那がしていたようにチーズをかじる。  旦那が大好きなカマンベールチーズ。  でも、あたしは本当はこれも食べられない。  だって、黴の味しかしないんだもん。  赤ワインで黴の味を口の中から一掃した後、あたしは舌を出した。  旦那の前でもそうしたかった。  息苦しい。  そう思ったのはどっちが先だったんだろうね。  同棲することもなく、二十二のときお互い大学卒業を待って結婚式挙げて。  あたしは就職する間もなく専業主婦になった。 「いやな色」  さらに注ぎ足したワインは赤黒い血の色。  あの時足元に広がったいやな色。  それを体内に戻すように、あたしはさらにグラスを干していった。  誰もあたしを嗤ってくれる人はいなくて、静寂に耐えられなくてあたしはテレビをつけ た。  NHK。  水色の画面いっぱいに、ずらりと白文字で人の名前らしきカタカナが並んでいる。  その中に「キリュウ カズヒコ」の文字はあった。  あれほど呼びなれた名なのに、カタカナで表された音は誰か別の人のもののようだった。 「もう一度お伝えします。先ほど、午後六時成田発896便ロンドン行きですが……」  家の電話がせかすように鳴り響いた。  あたしはテレビの電源プラグと電話線とを無造作に引き抜いた。  グラスに波打つ赤ワインを見つめて言い聞かせる。  きっと飲みすぎたんだ、って。  旦那が乗った飛行機が落ちればいいなんて、これっぽっちも思ったつもりはなかった。  でも、潜在意識はそう望んでいたのかもしれない。  だから、この赤ワインが叶えてくれたのだ。  あたしの妄想の域だけで。  眠ってしまおう。  このまずい赤ワインを飲み干して、眠ってしまおう――  寒さに身震いして、あたしは目を覚ました。  台所の椅子に座って赤ワインを仰いでいたはずなのに、いつの間にか見上げた天井はリ ビングのソファから見える白いものに変わっていた。上にはいつの間にか引っ張り出して きたらしい薄い毛布が一枚。  台所は相変わらず皓々と電気がつけられたまま。  ぼんやりと重い頭で時計を見ると十二時をちょっと回ったところだった。  気味悪いほどの静寂。  でも、あたしはテレビをつける気にはなれなかった。  眠る前のあの妄想が実は現実だった、なんてあたしには耐えられない。  とりあえず作った料理を処分してしまわなきゃ。  そう思って台所に足を踏み入れたときだった。 「ひっ」  旦那がいた。 「よぅ、おはよ。一人でワイン開けすぎたんじゃない? すっかり昏睡って感じでほんと  死んでんのかと思った」  旦那が飲んでいるのはあたしが何時間か前に注いだコルク入りの赤ワイン。  右手には冷え切ったフライドチキン。  旦那はいつものように豪快にそのチキンにかぶりついた。 「うん、冷たい。これもっかいあっためてよ、桜子さん。あ、それと焼肉もしよ。実は飲  むだけ飲んで全然喰ってないでしょ」  あたしの頭はくらくらしていた。  おかしい。  旦那の顔、旦那の格好をしてるのに、喋り方が軽すぎる。動作もなんかちょっと違う。  昼間電話の後ろで聞こえた女のところにいるうちに軽くなってしまったのだろうか。  おまけにあたしのこと桜子サンだなんて他人行儀な呼び方して。  けれど、旦那は見たこともないほどおいしそうに冷え切った料理を平らげはじめていた。 「待って、全部今あっため直すから」 「うん、待つ待つ。冷たくても結構喰えるけど、あったかいほうが絶対おいしいって」  調子のいい旦那の顔を、あたしは思わず凝視した。 「どうしたの? いつもはそんな子供みたいにはしゃがないじゃない」  あたしの料理に舌鼓を打ちながらこんな嬉しそうな顔をするのは、結婚してまだ間もな い頃以来だ。 「そうだっけ? んー、そうだな。それはきっと今日が特別な日だからだよ」  電子レンジに押し込められるものは押し込んで、鍋で暖めなおせるものは鍋に返してコ ンロの火をつけていたあたしは、その言葉に思わずコンロのつまみを押し開いたまま旦那 の方を振り返ってしまった。 「桜子さん! ガス! 栓開いたまま!」 「え、あっ、ごめん」  多少生卵の腐った匂いが漂ったが、コンロの火は問題なく点火された。 「なに、俺、そんな驚くようなこと言った?」 「言ったよ!」  あたしは思わず旦那の背に抱きついた。 「覚えててくれたんだね。結婚記念日。って言ってももう何分か過ぎちゃったけど」 「……当たり前じゃん。毎年赤ワインで祝ってただろ?」  旦那は指先でワイングラスを弾いた。  クリスタルのいい音がする。 「和彦……帰ってきてくれてありがとう」  あたしは心をこめて旦那の頬にキスをした。  こんなに旦那に触れたのは、本当に久しぶりだった。キスなんてもう半年以上していな い気がする。 「ねぇ、なんでいるのって、聞かないの?」  旦那はむしろ不安そうにそう聞いた。 「なんで、って、結婚記念日思い出して帰って来てくれたんでしょ? 昼間ロンドンに行  くなんて言ってたけど、やっぱり思いとどまってくれたんでしょ?」 「……うん」  あたしの頭は残ったお酒に嬉しさが増幅されて一杯になっていて、旦那がちょっと歯切 れの悪い返事をしたことなんかちっとも気づかなかった。  全部自分の都合のいいように解釈して。  むしろ起きてからの方が夢を見ているようだった。  旦那のお気に入りの音楽をかけて、温めなおしたオードブル張りの料理と夜中を過ぎて 始められた焼肉をお腹一杯になるまでつついて、これまでの冷え方が嘘のように談笑して。  焼肉とおかずがすっきり片付くと、旦那はやっぱり赤ワインとカマンベールチーズをお いしそうに食べはじめた。  あたしはそれを正面から頬杖をついて見つめる。 「どしたの?」 「んー、前からね、本当は思ってたんだけど……」 「うん」 「赤ワインってどこがおいしいの?」  旦那は意表を突かれたようにあたしを見つめ返した。 「あんなに赤ワイン一人であけといて、それ聞くの?」 「だって、飲めばのむほどまずいってしか思えなくって。怒らないで聞いてくれる? い  つもはね、和彦がおいしいって言って飲んでるからあわせてたの。だって、自分の好き  なものはけなされたくないでしょう?」  言い訳がましくあたしは付け加えた。  ほんとは、違う。  嫌われたくなかったんだ。  薬指にリングはめてるくせにって思うかもしれないけど、あたし達の結婚理由なんて結 婚して半年も経たないうちになくなってしまったから。  旦那は思う存分顔をしかめていた。 「もしかして毎年我慢して飲んでたの?」  あたしは頷く。 「ごめん、やっぱり怒るよね」 「そりゃ怒るよ。早く言ってくれればもっとおいしい飲み方とか教えたのに」 「え?」  旦那はおもむろに席を立つと冷蔵庫の中を物色しはじめた。 「桜子さん、ほんとは甘いお酒が好きなんでしょ?」 「う、うん」  学生時代の名残か、今でもおいしいと思って飲めるのは甘いカクテルや酎ハイばかり。 旦那が晩酌でよく飲んでいた辛口のビールなんて論外。  いつもはそんなこと気づきもしないでグラス一杯のビールを勧めてきた旦那が、今は冷 蔵庫の中からオレンジジュースとハチミツを取り出してテーブルの上にのせていた。 「お砂糖とかき混ぜるものはある?」 「あるよ」  旦那は手馴れた手つきであたしのグラスに赤ワインを半分ほど注ぎ、続いてオレンジジ ュースとハチミツ、それに砂糖を目分量で入れるとマドラーでゆっくりとかき混ぜた。 「飲んでみて」  手渡されたグラスからは酸味ばかりが鼻についた赤ワインの匂いが、ほのかに甘いオレ ンジの匂いと上手く混ぜ合わされて花開くようなすっきりした香りになっていた。 「おいしそう」  思わず満面の笑みになってあたしはグラスを傾ける。  冷たすぎず、あったかすぎず、さっぱりとした甘さに続いてすっかりまろやかになった 赤ワインのコクが最後に舌奥をそっと撫でて消えていく。 「うん、これならおいしく飲める!」 「でしょ? それはサングリアもどき。本物はワインに果物漬け込んで作るんだけどね。  後はサイダーで割ってもおいしいよ。カシスでもいける」  旦那は子供のように無邪気に笑っていた。 「でも、これってほんとは邪道なんじゃない?」 「お酒はおいしく飲めればいいの! 違う?」 「ううん、違わない。でも、なんか和彦らしくないなぁ。和彦って頭かちこちじゃん?  卒業前に子供出来たって言ったときも、じゃあ卒業式終ったら結婚しなきゃ、って」  三月二十六日。  前日は卒業式後のコンパもそこそこに、次の日のために早く寝たのを覚えている。 「堕ろそうなんて一言も言わなかったよね。責任取らしてくれって。ほんとは卒業したら  別れるはずだったのに、生真面目に卒業式の翌日に式場予約してくるし」 「生真面目っていうか、ちょっとずれてるよね」 「そう、ずれてるの! 親に挨拶する前から予約って絶対ありえないって!」  酔っ払った勢いであたしははじめて笑いながら当時の本心を打ち明けた。 「それはありえない」  旦那も他人事のように一緒に笑っている。  なんだ。出来るじゃん、あたし。  ちゃんと旦那と話しながら心から笑えてるじゃん。  まだ、ちゃんと旦那のこと愛せてるじゃん……。  あたしは旦那の服の袖をそっと掴んだ。 「和彦」  ワイングラスを置いて旦那の首に腕を回す。  こんなこと、長い間自分からはしようとも思わなかった。  ねだるように旦那を見上げる。 「桜子さん、あの……」  旦那はすっと顔を背けてあたしの腕を優しく解いた。  行き場を失った腕は重くあたしの元に戻ってくる。 「なんで? なんで駄目なの? だって、帰ってきてくれたんでしょう? あの女のとこ  ろから、ロンドン行きやめて帰ってきてくれたんでしょう?」 「なんで、って、だって俺は……」 「あたし、もう一人はいやなの。あの女の人が好きならそれでもいいよ。でも、あたし、  あの時産めなかった和彦との子供、今度こそちゃんと産んであげたいの! もう嫌だな  んていわないから。もう拒んだりしないから」  あたしたちは卒業前、とうに冷えきっていた。  旦那には別に好きな人もいたようだし。  ただ、就職すれば別々になるからという理由だけで区切りがつくのを待っていたのだ。  でもあたしはまだ少しだけど旦那のことが好きで、戻ってきて欲しくて、卒業の一ヶ月 前、お互いに卒論を出し終えた後赤ちゃんが出来た話をした。  赤ちゃんが出来たのは嘘じゃない。  想像妊娠でも、引きとめるための嘘でもなくて。その証拠にあたしの宝箱にはその子の 母子手帳が眠っている。  妊娠七ヶ月。下で干していた布団を二階に運ぶ途中、あたしが足を滑らせさえしなけれ ば、その子は今頃幼稚園に通うくらいの歳になっていたはずだった。  とにかく、その子がいなくなってしまった瞬間、あたしたちの結婚は意味を失ってしま ったのだ。少なくとも責任を取るといった旦那にとっては。  それでも今思うと旦那は必死にこの生活を維持しようとしてくれていたのだ。  早く次の子をつくろうとも言ってくれたし、結婚記念日には忘れずに早く帰ってきて赤 ワインで一緒にお祝いしようとしてくれた。  なのにあたしはそんな旦那をデリカシーがないと責めたて、ようやく一年経って落ち着 いても絆を失った負い目からわがまま一つ言えず、どんどん自分の世界だけで暮らすよう になっていった。この家をいつもぴかぴかにしてるのは、それ以外あたしの存在を主張で きることがないからだ。  外の社会に居場所がなく、一軒屋だから近所づきあいも薄く、子供がいないからおしゃ べりするママさん友達もいない。大学の時の友人達は結婚よりも今は仕事が楽しいらしく て、話をあわせられないうちに疎遠になっていた。  この家は、本当に牢獄のようで―― 「え、なに……?」  不意にひらりと紙切れが目の前に踊った。 「桜子さん寝てる間に速達で届いたんだ。悪いけど開けさせてもらったよ。途中で桜子さ  んが起きちゃったときに話合わせやすくなるかと思って」  薄い白い紙にくすんだ緑の枠。  一番上の真ん中には『離婚届』とそっけなく印字されている。  あたしは思わずそれをひったくって勢い込んで見つめた。   左側にはびっしりと旦那の神経質な字が並び、一番最後には旦那の署名と捺印がされて いた。  頭が真っ白になる。 「なんで?! どうして?! あたしのこと馬鹿にしてるの?! さっきまであんなにい  い顔してたくせに!!」  ぐしゃりとその紙を握りつぶした手で、あたしはその人に掴みかかった。  瞬間、息をのむ。  今まで旦那だと思っていた男は、全く見たこともない若い男だった。 「あんた……誰……?」  手から力が抜け去って、あたしは逃げ道を探すように後ろへよろめいた。 「泥棒」  男は苦笑した。 「なんで? だって、今の今まで旦那の顔してたじゃない!」 「ごめん。これまた見つかったときに怪しまれないようにって思って、寝てる桜子さんに  催眠かけたんだ」 「催眠……?」 「そう。この家にいきなりいてもおかしくない人ってことで、まだ帰ってない旦那さんの  姿に見えるように。あ、でも桜子さんには手出してないから。誓って、ちょっと向こう  のソファに運んだだけ」 「そんなこと聞いてない」  頭の中がどんどんぐちゃぐちゃになっていく。  なんでこんなにショックを受けているのか、自分でもわからなかった。  泥棒に入られていたことでも、泥棒と楽しく歓談してたことでも、我が身の安全に疑い があるからでも、あたしが今旦那から突きつけられた離婚届を握っていることでもなくて。 「なんで催眠といちゃったの……?」  涙で歪んだ視界にはもう見知らぬ男の顔しか映らない。どんなにどんなに涙を溜め込ん で屈折させても、その顔は旦那には程遠い。 「どうせ騙すなら、最後まで夢見させてくれたってよかったじゃない」  さっきまでのひとときは、あたしが結婚してから四年間ずっと夢見続けていた関係だっ たのに。 「やり直せるんじゃないかって、思ったのに……」  男はあたしの言葉を聞いているのか聞いていないのか、テレビのリモコンを手に取ると 電源を入れた。  プラグごと抜いていたはずなのに、あっさりとテレビは画像を映し出した。  男はチャンネルを回してNHKにあわせる。  画面には、見覚えのある殺風景な青地に白文字の映像が映し出された。  アナウンサーは機械的に名前を読み上げていく。  反射的にあたしは耳を両手でふさいでテレビに背を向けてうずくまった。  後ろでぶつりとテレビの電源が切れる音がした。 「……死んだの? 和彦、死んじゃったの?」 「やっぱり、そうなんだ」  男はため息まじりにそう呟いた。 「俺だってテレビ見て何の冗談かって思ったもんな。長いこと旦那帰ってないから狙い目  だと思ってたけどさ、よりによって物色に入ったときに……」 「……えって……帰って! もう、好きなもの持ってっていいから、帰ってちょうだい!」  あたしはすっくと立ち上がって、手じかにあったワイングラスを男に投げつけた。  クリスタルのグラスは男の服に赤い染みをつけて床に打ち付けられて粉々になった。  続いて男が口をつけた旦那のグラスも投げつける。  オレンジジュースのパックも、ハチミツのチューブも、マドラーも、砂糖入れも、履い ていたスリッパも、台所の椅子にくくりつけられていた座布団も引き剥がして投げつけて やった。  台所に投げつけられそうなものがなくなると、あたしは立ち尽くす男を放って寝室に駆 け上がり、鏡台から貴金属類が入った箱を抱えて取って返して男に箱ごとその中身をあび せかけてやった。 「持っていきなさいよ! 全部持ってってちょうだい! それで足りないって言うならこ  の家ごと全部あげるわ! 権利証どっかにあるはずだから売るなり住むなり好きにすれ  ばいいのよ!」  反応の薄い男にますます苛立ったあたしは、さっき二人で楽しく空にした赤ワインの瓶 の細い首を掴んだ。  そこでようやく、今まで甘受するかのように身動きしなかった男はあたしの振り上げた ワインの瓶を上から掴んで軽く止めた。 「さすがにそれは勘弁して」 「あんた、泥棒なんでしょ? 拾い集めなさいよ。足元にいいもん一杯転がってるじゃな  いの。そのためにここに入ったんでしょう? あたしがいいって言ってるんだから……」  あろうことか、男は片手でワインの瓶を止めながらもう片方の腕であたしの肩を抱いた。 「俺、ここに入ったの八時くらいだったんだ。多分桜子さんが酔いつぶれてすぐくらい。  入り込んだと思ったら息つく間もなく郵便やさんが来てさ、この時間に速達だってさ。  この家の人間のふりして受け取って印鑑まで押して、開けてみたら離婚届じゃん? 片  やテーブルにはご馳走だし、赤ワインまで揃ってるし。なんかさ、起きたらショック受  けるんじゃないかなぁ、なんて思ったら帰れなくなっちゃって」 「馬っっ鹿じゃないの?」 「テレビの電源と電話回線抜かれてたから何だろうと思ってとりあえずテレビつけたら、  ここの表札にあった名前がそっくり事故機の搭乗者名簿に載ってるし。さすがに電話回  線まで繋ぐ気にはなれなかったんだけど……きっと桜子さんも一緒なんじゃないかって  親御さん心配してるんじゃないのかな」 「やだ。電話なんか出たくない」 「でも、もうここに閉じこもってるわけにもいかないんじゃないの?」  するりとあたしの手からワインの瓶は抜け落ちて、鈍い音をたてて床に転がった。 「閉じこもってたんじゃない。閉じ込められてたの」 「俺の知ったことじゃないと思うけど、旦那さんは桜子さん解放したかったんじゃないの  かな。その離婚届は、ここから出て行くための鍵のつもりだったとか」 「ほんっと、おめでたい解釈ね。和彦は別の女とロンドン行こうとしてたのよ? それも  結婚記念日に速達で離婚届? なにそれ。ふざけないでよ!! あたしのことなんかひ  とっつも考えちゃいないじゃない!」  あたしは男の胸を握った拳で殴り続けた。 「あんたもあんたよ! 同情して居残っちゃった? そんな人に泥棒なんか向いてないの  よ! とっとと辞めて堅気に戻りなさい! あんたこそ親泣かせでしょうが!」 「そうだなぁ、潮時だよなぁ。焼き回りすぎたよなぁ」  殴られながら男はのんびりと呟いた。  馬鹿だ。この男は、大馬鹿者だ。  あたしは手を止めて男の胸元を軽く掴んだ。 「ねぇ、もう一度あたしに催眠かけて? あんた殴っても気治まらないのよ。朝になった  らちゃんと外に出るから」 「催眠解くには離婚届見せなきゃならないんだけど、あんなもんまたいきなり突きつけら  れて桜子さん平気なの?」 「……平気じゃない。平気じゃないけど……」  ぱちんと指が鳴る音がした。  目の前には旦那の顔。  なんかなかった。 「あれ、催眠失敗したみたい」 「何でよ!?」 「催眠解く方法教えちゃったから、かな」  わざとらしく男は宙を見やる。 「なんで教えたのよ!」  一瞬の間をおいて、あたしは男に抱きすくめられた。 「もうやめよ? な? 辛かったら俺が朝までずっと側にいてやるから」 「あんたなんか……役不足よ……」  不意にめまいのように眠気が襲ってくる。 「知ってる? 役不足ってその人の力量に比べて役目が軽すぎることを言うんだよ」 「知らないわよ……そんなこと……」  彼の腕の中はゆらゆら、ゆらゆら。  あたしは抗いきれずに目を閉じて幼い少女のように眠りに落ちた。  あの日、連打されるチャイムで目が覚めたのを覚えている。  あたしは前の日の格好のままベッドで眠りこけていて、側には誰もいなかった。  午前七時。  チャイムを連打していたのは実家から一晩高速を走らせて駆けつけてきたあたしの両親 だった。  案の定、電話が繋がらないからとるものもとりあえず出てきたらしい。  でも、おかげであたしは落ち着いて外へ出ることができた。  旦那から届いた離婚届は、結局旦那が唯一あたしのためだけに残してくれたもの――遺 書になってしまった。  お葬式を済ませて、苗字を旧姓に戻して。  一年がたつのは本当に早い。  マスコミは日本近海で起きたその飛行機事故の慰霊碑の除幕式の様子を朝からコーナー を設けて報道していた。きっとお昼のワイドショーはもっと悲劇的に伝えていることだろ う。  一周忌を終えて元旦那の菩提寺を後にしたあたしは、最近ようやく一人暮らしを始めた アパートへと帰る道すがら近所の酒屋さんに立ち寄った。  赤ワインと、それに似つかわしいグラスを買おうと思っていた。  今日は元結婚記念日でもあるから。  話好きな大家のおばさんが言うには、その酒屋さんは最近放蕩息子が帰ってきたのを機 に店を大改装したらしい。  元はこじんまりしていたのをディスカウントストアに負けないくらい店舗面積を敷地一 杯に拡張してさらに駐車場を作り、中は解放感を出すためにむき出しにした高い天井とお 酒を陳列する壁を清潔感溢れる白に塗りなおし、店内奥のワインセラーは特にも息子のこ だわりで温度管理できるように本格的に造りなおしたのだそうだ。  おばさんの話どおり店内は明るく開放的で、歩いて回るのが楽しくなる。  特にもリキュール類が並ぶ棚は個性的な瓶やラベルばかりで、思わず自分の部屋にもほ しくなった。  あたしはその棚からカシスリキュールの小瓶を、通りかかった棚からは五百ミリリット ルのサイダーのペットボトルをカゴに入れて一番奥の薄暗いワインセラーへと入った。  あたしの頭一つ上まである棚には、ずらりとピンからキリまでのワインが並ぶ。  赤ワイン一本を選ぶだけでもこれでは苦労しそうだった。  仕方なくあたしはお財布と相談して手ごろな価格のワインに手を伸ばす。 「カシスとソーダで割るならこっちのワインの方があうと思いますよ」  突如、反対側の端の方から聞き覚えのある男の声が割り込んで来た。 「白の辛口ですけどね。よく冷やしておいたカシスにこの白を四対一の割合で混ぜるんで  す。お好みでサイダーを加えればキール・ロワイヤルもどきが出来上がります。おいし  いですよ」  もちろん、それは旦那の顔なんかじゃなかった。  あたしより幾分年若い二十四、五の男。 「なにこれ。あたし、また催眠にでもかけられたの?」 「今会ったばかりでしょ。そんな暇ないって。お久しぶり、桜子さん」  男は、まだ買うと言っていないのにあたしが選んだ赤ワインの倍の値段はする白ワイン をカゴの中に入れ、あたしの手から赤ワインを抜き取って棚に戻してしまった。 「なんであんたがここにいるのよ」 「なんでって、俺ここの雇われ店長。雇ってんの親父だけど。桜子さんは大切なお客様」 「そうじゃなくて、いや、そうなんだけど……本業はどうしたの?」  あたしは心持ち声をひそめた。が、男はちっとも意に介した風もなく変わらない声量で 答えた。 「本業? やだな。こっちが本業に決まってるじゃん。趣味なら一年前にすっぱりやめま  した」 「趣味だったのかよ……」 「なんか言った?」 「なにも。おまけ、してくれるんでしょうね?」  呆れ果てたあたしは、カゴの中で重く存在感を放っている白ワインを覗き込んで訊ねた。 「俺のこと、口外しないなら三割引」 「みっなさーん……!」  大声で叫びだそうとしたあたしの口を手でふさいで男は慌てて言いなおした。 「十割引」 「いいの?」  男は一呼吸置いて、意を決したようにあたしを見下ろして囁いた。 「キール・ロワイヤルもどき、俺に作らせてくれるなら」 「……おいしいんでしょうね?」 「一年前のありあわせのサングリア、美味かったでしょ?」  甘酸っぱいオレンジと渋い赤ワインのコクが舌によみがえる。 「あれよりもおいしいって保証してくれるなら、考えなくもない」 「保証、しましょうとも。百倍はおいしくつくります。つくれます」 「じゃあ、お願いしようかな」  無駄なほど自信に溢れた答えに水をさす気になれなくてあたしは頷いた。  男は思わず(だろう)あたしを抱きしめた。 「但し、」  あたしはその嬉しそうな顔を真っ直ぐ見上げる。 「お酒つくって飲むだけだからね」 「分かってますって。知ってる、桜子さん? お酒が一番おいしいって感じるのは気の置  けない人と一緒に飲んでるときなんだよ」 「おーい、湊人! レジ来てくれー!」  一瞬真摯に見つめられて身動きが取れなくなっていたあたしはそのドラ声に救われた。 「ちっ。何のために店内放送つけたと思ってんだよ」  舌打ちと溜息を一緒にするという高度な技を見せてくれたその男は、今更ながら照れた ような表情をしていた。 「じゃあ、俺がレジやってるとこに持ってきてくれる? 親父、あれで結構値引きとかう  るさいからさ」  人の家に堂々と上がりこんで催眠までかけていた男も、父親には弱かったらしい。 「お言葉に甘えさせていただきます」 「湊人ーっ!」  あたしが苦笑しながら言うのと店長の雇い主さんの怒号が飛ぶのは同時だった。 「はーい、今行くって!」  辟易した男はレジカウンターの方に叫び返す。 「自分も意味ないじゃない」 「あ……」  男は我に返って咳払いを一つするとあたしにくるりと背を向けた。 「行ってらっしゃい、湊人君」  あたしが含み笑いを漏らしながら小さく手を振ると、一拍おいて男はくるりと振り向い た。 「それ、毎日聞きたい。出来れば湊人さん、で」 「自営業の人には必要ないでしょ」 「なら明日から俺、サラリーマンなるから」 「いいから早く行きなさいってば!」 「俺、本気だから!」  物騒な言葉を残してその背中は軽い足取りで遠ざかっていく。  薄暗いワインセラーの中はほんの少し肌寒い。  あたしの肩には、さっき抱きしめられた時の彼の温もりがほんのり残っていた。
〈了〉
  

管理人室 書斎 王様の耳は 読了