あやにしき
湖を覗き込むと、山の錦に抱かれたわたしがいた。
祝言のために長者様から贈られた立派な綾衣。
惑う心に応えるように針も進まず、ようやく仕立て上げて袖を通したのはついさっき――祝言の朝のことだった。
花嫁衣裳は夫となる人への想いを一針一針衣に綴るのだと母は言っていた。
だけど、親子ほども年の違う男にどうして想いがかけられよう。
好きな人と引き裂かれ、家族の暮らしと引き換えに嫁にだされるわたしに、どうして自分を買った男のことなど愛せよう。
「卯の刻に湖で待っている」
好いた人とのその約束に間に合わせたい一心で、迷いながらもわたしは厚い錦に針を入れていった。
だけど、その傍らでは飢えに寝つけない幼い弟妹達が嬉々としてわたしの手元をみつめていた。生活が楽になると安心しきった父が病床から顔を傾けて私をみつめていた。
できあがった婚礼衣装をひとしきり誉めてくれた家族全員が寝静まるのを待って、わたしは衣を羽織り、暁闇の中、約束の湖まで迷いを振り払うように駆け出していた。
あの人と一緒になったら暮らしの足しにしようと思って縫い上げた錦の婚礼衣装。
だけど、針を通すたびにわたしはあの人のために袖をつなぐことが出来なくなってしまった。
朝霧の中、あの人が湖の向こうで手を振る姿が見える。
風と戯れる水鏡に映ったわたしの姿は、揺れるわたしの心までもを映し出す。
約束を交わしたあの日のように、気兼ねなくこの袖をあの人に振ることが出来たならどんなにかよかったことだろう。
わたしは寒風の中顔を上げ、想いを封じるために袖端を握って己を抱きしめた。
〈了〉
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