アルラウネの憂鬱




 どんっ。
 何かにわたしは全身を突き上げられた。
 気がした。
 そのままわたしは二、三歩普通に前に進む。
 よろめくことなく真っ直ぐに。
 どこを歩いたのかは、実はちょっと記憶にない。
 本人はいたって歩道の続きを歩いていたつもりだったのに、なんだか空を見上げてその空に吸い込まれるように、最後の一歩を踏み出していたような気がする。
「やだぁ。わたし、死んじゃったぁ」
 車の横に転がる血まみれのわたし。B級ホラー映画の死体も真っ青な勢いだ。
 駆けつけてくる運転者と歩行者達。
 すったもんだした挙句、やっとおなじみの音が群がるように駆けつける。
 そしてようやく、わたしの身体は白昼から禍々しい光線を四方にばら撒く白い車体の中に飲み込まれていった。
「ご愁傷様です」
「……ありがとう」
 誰とも知れない少年の声に、わたしは素直に頷いた。
 ショックとか、喪失感とか。
 そういうものは特になかった。
 とりあえず、事実のみを受け入れる。
「じゃあ、ご案内します」
 まぁ、死後の世界なんてあんまり興味なかったけど、何にも分からないままこの上空に心もとなくほっとかれるよりは、よほどましなんだろう。
 心地いい温みだけを感じさせるふんわりとした手に手を握られて、わたしは現われた男の子の導くまま事故現場へと降りていく。
「って、え? 天国に連れてってくれるんじゃないの?」
「天国? 何言ってんですか。そんなとこ、あるわけないでしょ」
 途中で飛行をやめて振り向いた少年は、黒髪黒目。眉目整ったなかなかの美童。
 従兄弟かなんかにいた顔のような気もするが、どうにも思い出せない。
 大方死神か天使の類だろうと思っていたのだけれど、はて。そういえば天使の輪っかも羽も、死神らしさをアピールする衣装や大鎌もこの子供は身に着けていなかった。
 人目につかずに上空を飛んでいることを除けば、ただの十歳ちょっとの子供だ。
「あれ、ショックでした? そうですよね。ショックですよね。あなたも死んだら当然、天国でぬくぬくと幸せに暮らせるって信じてた類でしょう?」
 ただの、といったが、相当根性は曲がっていると訂正しておこう。
 天使の顔に悪魔の笑顔を浮かべて男の子はにやにやとわたしを見る。
「別に信じてはいなかったけど、じゃあどこに案内してくれるって言うの?」
「地獄」
「……」
 たった一言投げ出された言葉は、信じられないほどの重みを持ってわたしの手足を動けないように縛りつけた。
 さすがに、さすがに、だ。
 地獄はちょっと行きたくない。
 ちょっと、というか、かなり行きたくない。
 わたしは心が決まると握られていた小さな手を振り払った。
「行かないわよ! 地獄になんか、落ちてたまるもんですか!」
 空中で溺れるようにもがきながら、わたしは男の子から後退する。
「落ちてたまるもんか、って言われても、ねぇ。あなたの行き先はそこしかないのに」
「じゃあどこにも行かないわよ! 浮遊霊にでも何にでもなってやるわよ!」
「めったなことは口にしないほうがいいですよ、黒田千秋くん」
 びしっと名を呼ばれてわたしは口をつぐむ。
 というか、この子供、すごく偉そうじゃない?
 口調はさることながら、天使でも死神でもなんでもないくせにわたしの名前までしっかり把握済みだなんて。
 睨みすえると、男の子は仕方なさそうにため息をついた。
「地獄に落ちたくないんですか? あれで結構いいところらしいですよ。特にあなたのような方には」
「わたしに? どうしてそんなこと言うのよ」
「あれれ、まだ気づいていらっしゃらないんですか? 事故死した遺体はどうなると思ってるんです?」
 心底不思議そうに男の子はグロテスクなことを尋ねてくる。
「どうって、司法解剖でもされるんじゃないの?」
 そんなことは大したことない。
 だって、もうわたしの身体じゃなくなっちゃった物だもの。
 そう。わたしの身体じゃなくなっちゃった物。
 もう二度とわたしがその身体で現世に戻ることもない。
 二度と、あの身体の周りにいた人々と関わることもない。
「いいんですか?」
 声音一つ変えずに刑事のように男の子は訊ねる。
「いいも何も、もうわたしには関係……」
「僕、一つだけあなたの願いを叶えてあげられますよ」
 どうやら、男の子はわたしが何か未練たらしく願い事を口にするのを待っていたらしい。
 涼しい顔をしながら業を煮やしていたのか、詰め寄った男の子は澄んだ瞳で脅迫するように微笑んだ。
「そう言われても、わたしは何も……」
「何も?」
「……何て言ってほしいのよ?」
 切れ気味に、逆にわたしは問い返した。
「あなたが何も未練なく死んだなら、僕は生まれることはなかったはずなんです」
 男の子はにっこりと愛想よく笑い、わたしは思わず顔をしかめる。
 どうせ死んじゃったのなら、さっさとあの世なり何なりに連れてってくれればいいものを。
「わたしが合格な答えを言えば、地獄行きはなくなるってことかしら?」
「合格な答えって、あなたねぇ」
 心底呆れ果てたように男の子は呟き、わたしから一メートルほど遠ざかった。
「いずれにせよ地獄行きは免れませんよ。でも、滞在時間くらいは短くできるかもしれない」
 何? 滞在時間って。
 ホテルか何かのようなものなのかしら。
「まあ、いいわ。で、何願ってほしいのよ」
「それじゃあ意味がないでしょう」
「いいじゃないの。お互い時間かからないほうが」
「そりゃぁ……そうなんですけれどね。心底願わなきゃだめなんですよ」
「心底、願う? 願うわよ? ええ、地獄へ行かなくて済むなら、心の底からでも世界の中心からでも願いましょうとも」
「だから、地獄行きは決定だっての。まぁ、いいや。ほんとに、手間がかかるなぁ。言っとくけど、期限は明日のあなたが死んだ時間、午後四時十分三十二秒までだからね」
 八月十二日、午後四時十分三十二秒。
 それがわたしの命日なわけだ。
 あーあ、お盆の前日に死んじゃうなんて、親不幸なことしちゃったなぁ。
「親不幸……? って、あ!! え、うそ、ちょっと待って。わたしあの格好のまま親と涙のご対面するわけ?」
 なんだ、ほんとに気づいていなかったのかとばかりに男の子は頷く。
「うそーっ、わたし、実は天涯孤独でした、とかじゃないわよね?」
「どこまで都合よく解釈しようとすれば気が済むんですか、あなたは。黒田家のご両親はご健在ですよ。まあ、今頃あなたの事故死の一報が入ってパニックに陥っているでしょうけど」
 さーっとわたしの中の血の気が引いていく。
 そんなものとうにありはしないけれど、とにかく肩から足元に向けて冷たいヴェールがわたしを包み込んでいった。
「でも、その様子だと、自覚はあったみたいですね。千秋くん」
 含みをこめたその声は、気のせいかさっきよりも大人びて低くなっているような気がした。
 空中でへたり込んでいたわたしは彼を見上げる。
 黄昏時が始まった空はまだ青空を残しながらも、浮かぶ白い雲は徐々に赤紫に染まりはじめている。
 その空をバックに、さっきまで十歳過ぎの男の子だったはずのその子は、いつの間にか中学生くらいになっていた。
 綺麗な顔はそのまま。
 たおやかで線が細いその顔は、病弱な女の子といっても通じてしまいそうなほど儚く美しい。
 思わず見とれかけて、わたしは激しく首を横に振った。
「どうして首を振るんです? 何か見たくないものでもありましたか?」
 何度となくわたしは口を開き、開いては閉じる。
 そして、ようやく一言音にして吐き出した。
「……あんたの顔」
「それはひどい。この顔、嫌いですか?」
 にこにこと成長し続ける少年は微笑む。
 嫌いだ。
 そう言ってやろうと思ったのに、なぜか胸の奥で鋭い棘が突き刺さり、わたしは唇を噛みしめた。
「行ってみますか? あなたの遺体が安置されている病院の霊安室」
 一体、わたしはどれほど情けない顔をして彼を見上げているのだろう。
 遺体。
 霊安室。
 忌まれるべき言葉を彼はすらすらと口にする。
 そう。一抹の期待も与えまいとするかのように。
「行く」
 のろのろとわたしは身体を起こした。
 ほつれた髪が、実体もないくせに茶色く夕日に透けている。
 ふわふわのコットンスカートが涼をはらんだ風に膨らむ。
 小さなふくらみが紺色のキャミソールの胸元を二箇所押し上げている。
 この姿のまま、わたしは死んだのだ。
 一目見れば、どこからどう見たって可憐な女子大生なはずだ。
「あ、ねぇ。もしかしたらまだ身元確認できなくて親にはばれてないかもよ?」
「ばれてないじゃなくて、連絡が行ってない、でしょう?」
 わたしの手をとって少年は、困ったようにわたしを見つめた。
 その視線から逃れるように、わたしは斜め下、この暑いのに藍色の捜査員服を着たおじさんやおまわりさん達を見下ろした。
 道路にこびりついたわたしの血の痕がどこからかつないできたホースの水によって消されていく。
 そのうち花束でも手向けられるようになるのだろうが、それもほんの一時のこと。このご近所に住んでいるわけでもなんでもないわたしは、きっとすぐに忘れられ、いずれこの場所で人が一人死んだことすら忘れられていくのだろう。
 それを、わたしはなぜかほんの少し、悲しいと思った。
 忘れられたい。
 自分を知っている人全てから、わたしの存在していた記憶を全て抜き去ってしまいたい。
 そう思っていたはずなのに、本当に忘れられる時が来るのだと悟った瞬間、わたしは怖くなった。
 この場に、しがみつきたくなる。
 忘れないで、と。
 自分はここにいるよ、と。
 わたしの血を消していこうとする人たちに、遠巻きにそれを見ているご近所の人達に呼びかけたくなってしまう。
「やめなよ。みっともないよ」
 いつの間にか事故現場へ完全に降りきってしまおうとしていたわたしは、抱きかかえられるようにして少年に引きとめられていた。
「だって……!!」
「ようやく死んだことが分かってきたんだ?」
 にっと少年は笑った。
 顔を背ける。
 視界に飛び込んできたのは、血を浴びたように紅蓮に染まった彼岸花。
 誰が植えたのか、歩道と車道の間、ほんの僅かな隙間からけなげに一輪咲いている。
 それは、ひどくおぞましいものにも見えた。
 ぞっと寒気がする。
 まるであの花に呼ばれたんじゃないかと思えてくる。
「じゃあ、行くよ」
 少年がそう言うかいなや、わたしは薄暗いコンクリートに四方を覆われた空間にいた。
 揺らめきもしない蝋燭の明かりとくゆりたちのぼっていく白いお線香の煙。
 室内にはまだ誰もいなかった。
 ただ、俄か作りの祭壇の前に一人の女性と思しき遺体が寝かされている。
 少年は、その顔を覆っていた白い布を、わたしにも見えるようにそっとめくった。
「ま、待って!」
 そういう前に、わたしの目にはしっかりその顔が入り込んできてしまっていた。
 さっき見た血まみれの顔ではなく、綺麗に汚れをふき取られ、死化粧まで施された顔。
「はは……」
 わたしはへたり込みそうになるのを少年の肩を借りてこらえ、振り返るように眺める。
 綺麗な顔だった。
 我ながら、死に顔も美人だ。
 美人だけれど……。
 胸にこみ上げてきたものが溢れきれずに喉元につかえていく。
 それを蹴破るように、霊安室の扉は開かれた。
 外から非常灯の緑色の灯が忍び込み、その光を遮るように二つの人影が飛び込んでくる。
「千秋!!」
「千秋!」
 お袋と親父。
 その後ろから言葉もなく静かに滑り込んできたのは、今目の前にいる少年とどことなく目鼻立ちがよく似た青年。
 その青年――兄貴が枕元にたどり着く前に、わたしに重なっているとも知らず一足先に白い布をめくりあげたお袋は、声にならない悲鳴をあげていた。
「ち、千秋……!? 嘘でしょう……?!」
「これが、千秋だって……?」
 多分にもれず、親父も驚愕する。
 わたしは……いや、ぼくは、ずるずると引っ張られるように後ろに後退し、冷たく湿ったコンクリートの壁にもたれながらしゃがみこみ、顔を伏せたまま頭を抱えた。
「……ぼくだよ。それ、ぼくなんだよ……」
 聞こえないことくらい、分かっている。
 だけど、掠れそうになる声でぼくは叫んでいた。
「ぼくなんだよ! それが今のぼくなんだよ!!」
 親父とお袋は、顔だけじゃ信じられないらしく、白い掛け布団まではがして ぼくの身体を確認している。
 白い着物を着せられたぼくの身体。
 その着物の衿を、それまで何も言わず遠巻きに見ていた兄貴が勢いよく左右に開く。
 むき出しにされた白い胸は真っ平に戻ってしまっていた。
 ホルモン注射、高かったのに……。
 だけど、そんなことも知らない両親と兄貴は、顔と体のアンバランスさにもはや声もない。
 兄貴は腰紐にまで手を掛けたが、親父がその手を握って首を振って見せていた。
「だって……」
 ようやく兄貴は声を発する。
「東京にいるはず、だよな? お盆もバイトや秋採用の就活の準備で忙しいから帰ってこれないって、電話で言ってたよな? 違うって。この仏さん、違うって。千秋じゃない」
 千秋じゃない。
 そうだよ。
 そうだね。
 ぼくじゃなかったらよかったのに。
 救急隊員のお兄さんにばれても、綺麗な看護婦さんに陰で笑われても、あとで両親から司法解剖の承諾書にサインもらって解剖するんだろう検死官が不審な顔したって、ぼくは平気だった。
 だって、彼らは昔のぼくを知らないから。
 だけど、家族に知られるのだけは、それだけは嫌だった。
 体の器官も何もないくせに、こみ上げてきた嗚咽に肩はせり上がり、震えた。
「まだ、説明してなかったんですよね?」
 上から降ってきた声は、ぼくの声だった。
 顔は夏休み前、大人しく大学に通っていた頃の顔。
 目元の涼しい白皙の整った顔。
「何が気に食わなかったんですか?」
 拷問だ。
 地獄って、まさに今ここのことを言うんじゃないだろうか。
 あんな途方に暮れた両親の背中を見せられて、大好きだった兄貴に罵倒されて。
 泣きたい。
「泣いてないでちゃんとぼくに説明してくださいませんか?」
「どうしてお前に説明なんかしなきゃならないんだよ……。何でこんなとこにつれてきたんだよ。何でぼくにかまったりしたんだよ。お前、何者なんだよ」
 どんなに責め立てる言葉を並べても、声に力は宿らなかった。
「聞かせてください。どうしてあなたが女性の格好をしてらしたのか」
「だから、何でお前に……!!」
「言ったでしょう? ぼくはあなたの願いを一つ、叶えてさしあげることが出来るんです。言い忘れてましたけど、生き返りたいなどという大きなことは無理ですが、ほんの少し、ぼくを貸してさしあげることならできますよ」
「ぼくを、貸す? そのぼくそっくりな身体をぼくに貸してくれるって? なんだそりゃ。聞いたこともない、そんな話」
「そりゃあそうでしょう。これは人間が事故で亡くなって、更にある条件が満たされた場合のみ発生する特典ですから。死んだ方はもう口をきけませんしね。たとえ聞けたとしても、この話は極秘事項。喋ったが最後、本当に地獄に落とされます」
「……そんな恐ろしいこと、今更聞かせるなよ」
「それはごもっともですよね。ぼくもそう思います。ですが、ぼくも巻き込まれてしまった以上は説明責任があるんです。そして、きちんとあなたに成仏してもらわなきゃならない」
「どうして?」
「それは……あなたが願いを口に出来たらお話しましょう。今はぼくの話を聞いていただいたとしてもあなたは全て悪いほうへと取ってしまうでしょうから」
 なんだよ、それ。
 悪いほうにしか捉えられないような状況に追い込んだのはそっちじゃないか。
 第一、ぼくそっくりで、はじめからぼくの名前まで知っていたお前に、どうしてわざわざ話さなきゃならないんだよ。そんなことで楽になれるならとっくに口軽く喋ってるよ。
「帰りたい」
「帰りたい?」
 呟いた言葉に、ぼくそっくりな男は怪訝そうに聞き返した。
「どこに?」
 のろのろとぼくは身体を起こす。
 鉛数十キロ分の重さが体の随所に取り付いているようだった。
 どこにって、そんなの決まってるじゃないか。
 実家にも居場所はないし、東京まで帰るような気力もない。
 そりゃ、さっきのようにこいつに一瞬で送ってもらえるなら気力も何も要らなかったかもしれないけれど、向こうに帰ってまた一人で部屋に閉じこもっているような勇気はもうなかった。
 弱いぼく。
 結局、邪魔けにしているくせにぼくはこいつでも側にいてほしいと思ってる。
 さっき、「わたし」だった時は浮遊霊になってしまっても平気だと思っていたのに。
 だから、ぼくはぼくであることをやめようと思ったんだ。
 変えてしまいたかった。
 なにもかも。
 ぼくという存在を、この世から消してしまいたかった。
 だからといって自殺するような勇気もなくて。
 一個一個自分を形作る特性を否定していくことくらいしかぼくにはできなかった。
 まずはぼくの中から黒田千秋という男性を消して、それから少しずつ社会からも消していく。来週にでも退学届けを出して、大学一年から三年半住み慣れたアパートも引き払ってしまうつもりだった。
 もう一人のぼくは、そっとぼくに触れる。
 それだけで、世界は暗闇とナトリウム灯のオレンジ色の光が色の摂理を捻じ曲げ照らし出す景色に早変わりした。
 規則的に色を変える信号脇の歩道と車道の間には、闇夜に赤く浮き上がる彼岸花を囲むように新しい花束が積まれている。
 何度、この暗闇に紛れてしまいたいと思ったことだろう。
 何度、この泣きたくなるような静けさの中に溶け込んでしまいたいと思ったことだろう。
 でも、こんな形は望んじゃいなかった。
 死んじゃった。
 そう思った瞬間、じゃあもういいから早く次行ってみようって。
 ていよくあるかどうかすらも分からない次の世界に逃げ込もうって切り替えた。
「ぼくはだめ人間なんだ。どこに行ったって相手にしてもらえない。何の取り得もないから。一生懸命やるしかないからそう伝えるのに、いつも空まわって機転の一つもききやしない。だめな奴。黒田千秋はだめな奴なんだ。周りはみんな内定もらってきてるのに、ぼくはまだ一個ももらえちゃいない。選り好みしてるつもりもないのに、どうしてだよ……どうしてなんだよ……」
 握りしめた拳を僕はどこにも打ちつけることが出来なくて、仕方なく腕を振り回して空を切ることで逃がしてやる。
 それでも、一度開いてしまった鬱屈の扉は簡単には閉じてはくれなかった。
「何で真面目じゃだめなんだよ。成績も顔もいいけど、生真面目すぎてうちの社風にあわなそう、だ? てか顔と性格のギャップがきつい? ふざけるな!! ぼくだって冗談の一つくらい言えるし理解だってできるのに! 面接上手くこなせる奴が全員いい奴とも限んないだろう?! 顔がよかろうが、成績がよかろうが世渡り下手だっているんだよ! 緊張して上がっちゃうことだってあるんだよ! 何で、何で誰もぼくのこと分かってくれないんだよ……!!」
 立て続けに舞いこむ不採用通知。
 もう、長いこと郵便受けは見ていない。
 もう、長いこと正面から人と向き合って話をしていない。
 ああ、こいつもぼくのこと出来ない奴だって思ってるんだろうなって。話す前から思ってしまうようになっていたから。
 繰り返されるぼくへの全否定。
 誰にも相談できなくて、大学に行こうにも外に出るのが怖くなってしまって、ぼくは二週間あまり、誰とも会わず東京の部屋に閉じこもっていた。
 梅雨が明けたのだって知らなかった。
 ずっとカーテンを締め切って、暗闇の中で腹が空けば台所まで這っていってお湯を沸かして買い置きのカップ麺に注いで三分待つ。
 後は動くことも出来なくて、万年床と化したベッドに全身うち捨ててカーテン越しに入ってくる光の増減をぼんやりみつめる。
 パソコンは繋がなかった。
 就職情報のメールが毎日入ってくるのがうざかったから。
 迷惑メールに登録してやろうとも思ったけれど、さすがにそれは憚られて。
 だけど、結局翌日就活メールを見た瞬間に、もうぼくには全てが不幸の手紙のような気がしてしまって、その次からはパソコンはつけてもメールを起動することがなくなった。
 そして、息抜きに見ていた趣味サイトのブログ。
 そこでも、次々に内定報告が記されていって、余計にぼくを追い詰めてくれた。
 ぼくはパソコンを起動するのをやめた。
 テレビはニュースの時間帯を避けてかけてみる。
 それでもたまにバラエティのくせに「就職」なんて言葉を発しているのを聞くと敏感に反応してしまって、テレビもつけなくなった。
 ラジオも聞かなくなった。
 そのうち日にちも分からなくなって、一日一食食べていた買い置きのカップ麺も底をついて。
 同時に、携帯にメールが来た。
 それまでも携帯にたくさんメールは来てたんだ。
 大学の友人達から。
 電話も来た。
 ゼミの先生からもかかって来た。
 でも、ぼくはとうに成功者に対して卑屈になってしまっていて、そんな自分がほとほと嫌いで嫌になってしまっていて。
 そのメールは、泰子からだった。
 実家にいた頃からの幼馴染で、地元の大学に進学したぼくの彼女。
 長い休みしか会えないような遠距離だったにもかかわらず、高一の時から七年も続いてきたくすぐったいような愛しい関係。
 今年の正月に会った時、お互い就職決まるまでは連絡取る回数を減らそうって決めて、それから五月に彼女の就職が決まり、ぼくは……彼女がくれるメールに返信する回数が減っていった。
 あまりにも自分がかっこ悪くて。
 こんな自分、泰子には見せられないと思って。
 泰子から来るメールもどんどん減っていった。
 居留守を使っていたら、電話も来なくなった。
 七月は丸々何の音沙汰もなくて、そしてようやく届いたメール。
 ――お盆の花火大会、六時にいつもの海の家の前で待ってるからね。
「……そうだ、花火大会……」
 開いた目に飛び込んでくる赤い彼岸花。
 折りしも、上空にはすっかり暗くなった藍色の空に海上から盛大に打ち上げられた大きな赤い花。
 魂を揺るがすような低い重低音を響かせて、それははらはらと散っていく。
「成仏、してる場合じゃないんじゃないですか?」
 ぼくの横で楽しげに花火を観覧していたぼくそっくりの男は、ようやく我に返ったぼくに言った。
「もうすぐ花火、終っちゃいますよ」
「終る? そんなに時間がたってたの?」
 茫然とするぼくに、彼はそれには答えず問いかける。
「何故、女性の格好なんかしてたんですか?」
 ぼくは、唇をかんだ。
 それから、ゆっくり体中から集めた空気を吐き出す。
「男は稼がなきゃならないから、就職決まらなきゃ大事なんだって。女はそれでも結婚ていう道もあるから、就職決まらなくてもなんとかなるけどねぇって」
「誰がそんなこと言ったんですか?」
「……いろんな人。バイト先のパートのおばちゃんや、こないだ電話掛けてきたお袋や、親父や……」
 積み重ねられていくプレッシャー。
「随分と古い考えですよね。女性だって職も結婚も両立していこうっていうこの時代に。女なら楽になれる、そう思ったんですか?」
 ざっくりとこいつは痛いところをついてくる。
「田舎じゃまだまだそういう考えがこびりついてんだよ」
「楽になれるならそれに従うんですか?」
 言葉に詰まる。
「もういいだろうっ! ぼくは死んだんだ。もうこの世でぼくとしてやり直すこともない!」
「死ぬというのは無になることですよ。今叫ぶことができたあなたすらも、この世から消え果てしまうということです」
 打ちあがり続ける花火を見ながら、他人事のように男は言った。
「女性の格好をすることが悪いとか、女性になろうとすることが悪いといっているんじゃないんです。好きでやってるなら、何の問題もありません。ご両親にも胸を張って女性として生きていくと一番に言いに行けばよかったんです」
 カップ麺が切れた日、僕は電車を乗り継いで行ったこともないほど遠くのスーパーマーケットまで来ていた。
 そこで野菜サラダと特売のカップラーメン買いこみ、衣料品売り場で大きめの婦人用の服と化粧品を買ってみた。
 変な目で見られたけれど、二度と行くこともない場所だと思えば恐くなかった。
 家に帰ってから無精ひげに覆いつくされた顔をそって、眉を女性らしく整えて、黒田千秋という男を塗りつぶすようにファンデーションを塗りたくり、瞼にアイシャドウを入れ、マスカラを塗り、頬紅まで入れて最後にピンクのグロスを塗った。
 覗きこんだ鏡の中にいたのは、相当けばくはあったけれど、女性だった。
 鏡を見ながら、ぼくはどれだけ笑ったことだろう。
 綺麗な顔。
 誰もが手放しで言うだけあって、年をとっていようがまだまだ化粧次第では女にも化けられる。
 化ける?
 いや、これなら整形なしでほんとに女性としてやっていけるかもしれない。
 無理に就職しなくったって、もっと広い働き口がわたしを待っている。
 プライドもポリシーも、わたしには何もなかった。
 ただ、わたしの中で黒田千秋が薄くなった気がした。
 彼女は、出来損ないの黒田千秋という男なんかではなくて、これからいくらでも未来を切り開いていけるちあきという女性なのだと思った。
 一日かけて化粧を研究し、スーパーマーケットで買ってきたちょっとババくさい服に身を包んで、その翌日には大学からもアパートからも数駅はなれたデパートで、大学の女の子達が着ているような服をマネキンを見よう見真似で購入した。
 頭の中でものを考えるときの口調も女の子らしくして。
 そうしているうちに、わたしは黒田ちあきという一人の女性として生きている実感が湧いてくるようになっていた。
 今日、実家には内緒で故郷に帰って来る気になったのは、泰子にこの姿を見せるためだった。
 きっぱりふってしまおう、ふられてしまおうと思って。
 だけどほんとは、男の黒田千秋の姿で泰子に会いに行けなかったのは、男の自分がふられたらと思うととても耐えられないと思ったからだった。
 わたしなら、女性の泰子にふられて当たり前だから。
 泰子をふって、もう共には歩いていけないと言うことも容易いと思ったから。
 もう、共には歩いていけない――
「なぁ」
 花火が上がっている。
 ラストを飾る百連発花火。
 時間が、ない。
「願い事、叶えてくれるんだろ? その身体、貸してくれるんだろ?」
「ええ。お貸ししますよ」
「その腕は、泰子を抱きしめられるか?」
「ええ。ぼくは現実のものでできていますから。さっき霊安室でも見たでしょう? あなたの顔にかかった白布をぼくがめくるところ」
 目の前に甦る自分の死顔。
 あの目が開くことは、もう二度とない。
 あの腕で泰子を抱きしめてやることも、二度とない。
 二度と、そう、たとえ今晩会っても、もう二度と泰子には触れまいと思っていたのに。
 なのに、今ぼくは泰子に触れたかった。
 諦めたのに。
 泰子のことも含めて、全部ぼくは黒田千秋を捨てたのに。
 家族すらも忘れて都会の闇に紛れてしまおうと思っていたのに。
 七月中、ずっと連絡がなくてふられたと思ってたんだ。
 なのに、あのメールをもらって心が昂ぶったのは確かで。
 実家には寄らずとも、最後に一目泰子に会いたいと思ったのも確かで。
 死んで機会が断たれたなら、そういう運命だったのだと受け入れたけれど、こいつのせいでもう諦められなくなっていた。
「生き返りたいなんて言わない。お前から身体借りたってことも絶対喋らない。だから、その身体を貸してくれ。一回でいいから、最期に泰子を抱きしめさせてくれ」
 自分の中に、確かに去年の夏、まだ元気だった頃の黒田千秋が甦ってきていた。
 殺すにはあんなにあんなに時間がかかった黒田千秋が、一瞬で戻ってきてしまっていた。
 ぼくにはもう、これ以上彼を殺せない。
「頼む」
 拝み倒すぼくに、ぼくそっくりの男は花火の光を横顔に浴びながらにっこりと微笑んだ。
「どうぞ。但し、願いが叶ったら、あなたはその場で成仏してしまいますからね」
 成仏。
 仕方ない。
 ぼくは、もう死んでしまっているのだから。
「わかった」
 例えば考えてみる。
 願いが叶いさえしなければ、こいつの体でずるずると現世を生きることも可能なんじゃないかって。
 だけど――
「お前、何者なんだ?」
 今日二度目の問い。
 同じ身長にまで成長していた男は腕を広げ、そっとぼくを抱きしめた。
「あそこの曼珠沙華、きれいでしょう? あれがぼく。あなたの血を浴びたからあなたそっくりになって、今ここにいるんです。あなたが願いを叶えることが出来たなら、ぼくはまたあの花に戻ることが出来る。だから、ね――」
 ぐらりと意識が揺れた。
 視界が安定した時には、ぼくは空を彩る天空芸術を見上げる人ごみの中につっ立っていた。
 やきそばやフランクフルトを焼く匂いが腹に染み、それに見え隠れするように漂う懐かしい潮の香が鼻腔をくすぐる。近くのステレオからは浜辺に波寄せる音を掻き消すように華やかな音楽が鳴り響き、それに合わせて次々と花火が打ち上げられていく。
 けれどすでに、その音楽も花火も佳境にさしかかっていた。
「泰子……」
 急がなきゃ。
 花火が終ってしまったら探すのも困難になる。
 って、ちょっと待てよ?
 待ち合わせの時間からどれだけ時間経っちまってるんだよ。
 あいつが大人しく一ヶ月以上も連絡一つ入れなかった男待っててくれるような女か?
 そもそも、今日行くなんて返事も送っていなかったし……。
 それでも、足は人ごみを掻き分けて、高校一年のときから毎年毎年花火大会を見るために泰子と待ち合わせた海の家へと向かっていく。
 焦らせるように音楽は拍子を早め、もうすぐ費えてしまうことを予感させるように花火はフィナーレに向けて華やかさを増していく。
 その中、ようやく花火の閃光を浴びて輝く海の家が見えてきた。
 店の前には数多の客がずらりと並び、皆恍惚とした表情で空を見上げている。
「泰子!」
 思わず、ぼくは叫んでいた。
 客の多くは花火と音楽とでぼくの叫びにすら気づいていないようだった。
 だけど、彼女は気づいた。
 一人だけ天空ではなく左右をきょろきょろと見ていた浴衣の女性。
 髪を纏め上げてかんざしまで刺して、着ている浴衣も去年までのとは違って藍に白紫の桔梗が染め抜かれていてちょっと大人っぽい。
 振り向いた彼女は、一瞬驚愕の表情を浮かべていた。
 が、すぐにゆっくりと微笑んだ。
「遅い! 千秋!」
 いつもの泰子に戻って叫び返す。
 駆け寄って、ぼくは間近で花火の光にきらきら輝く彼女の笑顔を見ながらそっとこの腕を伸ばした。
「ごめん、遅れて」
 肩に触れる。
 温かくて柔らかな彼女の感触。
 触れられる。
 そう思った瞬間、ぼくは我慢できずに彼女を抱きしめた。
「ちょっと、千秋?!」
「ごめん」
「そうよ、ほんとに。花火、あと少しなんだからゆっくり見ようよ」
「そうしたいのは山々だったけど、もう抱きしめちゃったから」
 人目なんか気にしてられない。
 むしろ、花火が上がっている今の方が好都合だ。
「泰子、ごめん。ぼく、もう一緒に歩けなくなった」
 心酔わせる華やかな香りが漂う耳元に、ぼくは囁く。
 やがて、ゆっくりと泰子の腕が僕の背を撫で、震えながら抱きしめ返してきた。
「ばか」
 たった一言押し出された声は涙声に歪んでいて、ぼくはようやく彼女がすでにぼくの死を知っていることに気がついた。
「親父とお袋と兄貴に、馬鹿な息子ですみませんでしたって伝えて」
「自分で伝えなよ」
「泰子に会いたかったんだ。こんなことになるなら、我慢しないで会っておけばよかった」
 何もしないで過ごした二週間。
 あの時、一度でも帰ってきていたら、もしかしたら違っていたかもしれない。
 押し寄せる後悔。
 それすらも押しのける勢いで体に満ちていく幸福感。
「泰子、」
 頬を包み込むように触れて、とめどなく溢れる彼女の涙を拭って。ぼくは真っ直ぐ彼女をみつめた。
「幸せになれなんて言わないでね。来年から誰とこの花火、見に来ればいいっていうのよ?」
 次の句を見事に泰子に言われて、ぼくは口ごもり、掠れた笑い声だけを漏らした。
「謝るのもなしよ」
「ひどいな」
 もはや返せる言葉は何もない。
 そんなぼくに泰子は無理矢理微笑み、首に腕を回して口づけた。
「千秋、好きだよ。――愛してる」
 いつもそうだ。
 彼女はやることがぼくよりも何歩も早い。
「泰子、ぼくは先に行って待ってるから泰子はゆっくりおいで。ぼくの分まで何度でもこの花火を見て、あとでぼくに教えて」
「……ひどいのはどっちよ」
「ぼくだ」
 連続して打ち上げられていた花火が一瞬やむ。
 そして、一番最後を締める特大花火が音も高らかに藍色の空へと打ちあがり、花を開かせた。
 全天を覆いつくさんばかりに広がりゆく赤い花びら。
 それは降り落ちながらさまざまに色を変え、やがて風に寄り集められて白銀の滝となる。
 毎年変わらない最後の一輪。
 もう、見なくても分かる。
「泰子、好きだよ。――愛してる」
 何度この言葉を口にしたのだろう。
 もしかしたら一度も言ってあげていなかったかもしれない。
 だからだろうか。泰子は嬉しそうに微笑んだ。
「うん……」
 貪るように口づけて、抱きしめて。
 空を彩る滝が消えうせる間際、ぼくの魂は花火弾けた重低音の中に解け込んで消えた。










〈了〉





  管理人室 書斎 読了