「旅立つ汝に幸あらんことを」
神父様は静かに唱え、私の額にキスをした。
生暖かく柔らかい唇の感触が、ふにっとおでこに押しつけられた。
彼はそれで終わったつもりかもしれない。
でも、私はそれでは終われない。
見上げた彼の青い目は、ブルートパーズのように静謐を湛えていて、凪いだ海そのものだった。旅立つ私を前に、何一つ心に波立つところはないのだと言い張ろうとしていた。
「本当にそれでいいの?」
両のこぶしを握り締め、勢い爪立って私は彼を責め立てた。
彼の眼は揺らぎもしなかった。
まるで本物のブルートパーズをはめ込まれたように、何の感情も浮かんでいなかった。
私は、喘いだ。
心臓の音が細切れに止まり、絞めつけられるに任せて呼吸が荒くなった。
彼は憐れみすらその目に浮かべられないらしい。
今にも棺桶に足を突っ込みそうになっている私に手を差し伸べることもなく、彼は突っ立っている。
「ロジャーアレン!!」
私は叫んだ。
その名に、彼は全く反応を見せなかった。
「ロジャーアレン……」
私は、泣きながら頽れた。
彼の足元に。
床にはピタポタといくつもの涙が黒く跡をつけては消えていく。
「私の幸せって、何!? 貴方は、私の幸せが何だと思ってそんなキスをしたの?!」
答えはない。
ただ、彼の影が静かに上から降ってきた。
神父様は、真っ直ぐにブルートパーズがはめ込まれた瞳で私を見据えた。
私は、息を止めて彼の瞳を見返した。
彼の両手が私の頬に差し伸べられる。
冷たい手だった。
私の知らない、機械のような冷たい手。
涙を拭いもせず、彼はただ、私の額に口づけた。他に口づける場所など知らないように。
「旅立つ汝に、祝福あれ」
幸あれが、祝福あれに置き換わっていた。
私は目を見開く。
ブルートパーズの瞳を見つめる。
透明な水色のその奥底を。
「貴方はまだ、生きている」
伸ばした手が触れた彼の頬は、冷たい。
当たり前だ。その人工の皮膚の下は軽量金属だ。
彼は、「旅立つ汝に幸あれ」としか言うことができない、ただの神父を模したロボットだ。
私の大好きな人は、死んでその姿だけがロボットに移されてこの教会に残った。小さな村の唯一の教会で、少なくなった村民たちの告解を聞くために。
私は今日、この教会を出ていく。
小さい頃からこの教会で育てられ、神父様に慈しまれて過ごしてきたこの教会を。今や村民は皆いなくなってしまった。直接の戦火に触れたわけではないけれど、ここはもう住むことができなくなってしまったから。数えるほどしかいなかった村民たちは、あっという間に住み慣れた家を捨てて散り散りにどこかへと消え去ってしまった。
私一人がここに取り残されていた。
いいえ、私と神父様の二人が。
「ロジャーアレン。最後に貴方の罪を聞かせて」
私たちを慈しんでくれた神父様に憧れて神父になるために街の修道院へ修行に行って、命を失って、その志を汲まれて身体だけ戻ってきた幼馴染に、私は囁く。
ブルートパーズの瞳は私を映しながら私を見てはいない。
もっと遠く過去のことを見つめている。
唇が開く。
「旅立つ汝に、幸あれ」
ぼんやりと、彼はそう呟いた。
私は彼を抱きしめた。
彼は私を抱きしめ返さなかった。
だから、私は泣きながら彼に口づけをした。
その、少し熱を帯びた額に。
「汝に、幸あれ」
私は彼を腕の中から解放し、彼は再び立ち上がると真っ直ぐに前を見つめた。またいつか来るであろう次の信者の告解を聞くために。
私も立ち上がって、膝についた埃を払い、彼を見上げる。
「さようなら」
背を向けて、神父がいた小さな小さな告解室を出る。
その途端。
「キティ」
懐かしい声が、私を呼んだ。
私は、振り向いた。
ロジャーアレンが笑っていた。
ブルートパーズの瞳に、私が映っていた。
「ごめん」
その一言に、どうして泣き崩れずにいられただろう。
ああ、できることなら彼をこの教会から連れ出したい。でも、私には彼を連れて逃げられるほどの体力もなければ、彼を維持できる電源を確保するだけの伝手もない。何より、彼がそれを望んでいないことを、私は一番よく知っている。
だから。
「ありがとう」
そう答えるのが精一杯だった。
戦火は間もなくこの教会にも伸びてきて、村ごと灰になっていたと後に聞いた。
確かめるために元村があった場所に入れたのはそれから50年も経ってからのこと。
初めて月面着陸をした宇宙飛行士が着ていた宇宙服のように大仰な白い防御スーツに身を包み、放射能感知器がピーピー鳴るのをうるさく思いながら灰と瓦礫の中を歩き回る。
ようやく、大きな黒い瓦礫の中に埋もれる金属の塊を見つけた時、私はほっと息をつき、重い彼だったものを抱き上げた。
「ただいま。お帰り、神父様」
真っ黒に焦げた丸い部分に、ヘルメットを着けたまま私はキスを捧げた。