上下する喉仏。
呼吸器越しにわずかに開いた唇はかさかさに乾燥し、色を失って久しい。
ただ、息が通り抜けるためだけの唇。
口を開き、顎を上げ、ただ息をするために生きているかのよう。
瑞々しかった肌は水分を失い、乾き鞣された薄い皮のように彼の骨格に張りついていた。
開いた口に、頬の皮が突っ張り引きつりながら薄く伸びている。その皮の色もうずけた茶色で、もはや生気のかけらもない。形のよかった顎も、肉を失って今は尖ってしまい、顎下から首にかけてはまるで膜が張っているかのよう。
ああ、この人は本当に骨を皮ではぎ継いだはりぼてになってしまった。
落ちくぼんだ目が開くことはない。涙も流さない。目やにが厚く瞼を接ぎ合わせてしまっている。拭き取っても拭き取っても、目やには次から次へと溜まっていく。
もう開かない目ならば、いっそそのまま潰れてしまえばいい。
わたしのことを映しもしないならば。
そう毒づいても、わたしは彼の瞼からそっと目やにをこそぎ落とす。
彼は薄い皮をこすられても、もう痛みに呻くこともない。
このゆっくりとした死への時間がいつまで続くのだろう。
その時を覚悟しなければならないのに、時間を与えられれば与えられるほど、深いプールの底に沈められていくかのように息苦しくなっていく。
死を願うつもりはないのに。
死を、願いたくはないのに。
切開された喉元に挿入された管。
わたしは指先でそれをなぞる。
少し、揺らしてみる。
彼は呻かない。瞼を震わせもしない。
規則正しい呼吸。
肩を上下させての荒々しい呼吸はもう終わっていた。
何とか肺の奥深くまで酸素をいきわたらせようとするかのように、最後の力を振り絞ってゆっくりと深く、息を吸い込んでは安堵するかのように息を吐きだす。
一人だけ安堵しないでよ。
この一瞬を生き延びたからって。
あなたの行く末は決まっているのよ。
そうやって、わたしのことは忘れて自分が生き延びることばかり考えて。
わたしはここにいるのに。
気づいてる?
わたしがいるのよ、ここに。
わたしは管を指先でなぞり、するりと上下する喉仏に指を滑らせた。
くすぐったいからと、なかなか指では触らせてくれなかった喉仏。
今は、まだ生きてるくせに身を震わせることもない。
わたしは存分に彼の喉仏の凹凸をなぞった。
押しつぶさないように、口に含んだ時同様に細心の注意を払いながら、舌だけでは分からなかったその造形を眺めながら、指先に薄い皮一枚隔てただけのその形を覚えこませる。
ふと、その喉仏が深く沈んだ。
もちろん、わたしは強く押してはいない。
ごくりと、唾を飲み込んだのだと分かった。
わたしは微笑んだ。
口元から、抑えきれない喜びが零れだしていった。
ああ、満足だ。
これで満足。
あなたはまだ、わたしを覚えている。
わたしに与えられた感覚を抱いて死んでいくの。
正直なあなたの喉仏が、私は好きだったのよ。
断片的になっていった彼の呼吸は、やがて最後の息を吐きだして終わった。
火葬されて骨になって残った喉仏。
これに今まで皮膚越しに口づけていたのかと思うと、得も言われぬ気持ちになった。
彼が生きているとき、それはとても魅力的な果実だった。
わたしを見て、それは皮膚越しにごくりと沈む。
ああ、彼も感じてくれているんだなと、わたしは腹の底から喜びがじわりと込み上げる。
今ならこの果実を与えてくれた蛇の言葉に従ってもいいと、彼の腕も待たず、その出っ張りにかぶりつく。
噛み切るわけにはいかない。だから、やさしく舌と唇で撫でまわし、彼の心のままにわたしを感じて正直に上下するそれを啜りつづける。
こりこりと柔らかな骨。
大切に啜らなければ、潰してしまいそう。
わたしはこの喉仏が震えながらわたしの名を呼ぶのが好きだった。
低すぎず、高すぎず、耳によく馴染む落ち着いた声。その声が感情に抗えなくなって昂ぶりに任せてわたしの名を呼ぶのが好きだった。
その声がもっと聞きたいから、食い破らずに口の中で転がしつづける。
甘い言葉を囁くときも、酷い言葉をぶつけてくるときも、この喉仏が彼の本心を代弁してくれる。
口に含めばわかること。
わたしは想像する。
この林檎は一体どれくらい甘いのだろう、と。
一体、どれくらい酸っぱいのだろう、と。
想像しながら、彼を許す。
わたしは彼の喉仏が好きだ。
すっきりと伸びた首に、優雅な山脈のように頂を描くこの喉仏が。
そして、この頂がわたしのために上下するのを味わうことが、一番大好きだった。
わたしは灰の中からそれを拾い上げ、赤い林檎に齧りつくように首を傾け、口を当てた。
シャリッ。
それは、生きているときには味わえなかった軽やかな音とともに喉元を通り過ぎ、わたしの胃の中に沈んでいった。
わたしの食べた色のない林檎が、ただの第二頸椎だったと知ったのは、その後連れ添った初めての夫に先立たれた時だった。