縁期暦紀 巻の十一 月下の宴 ―付喪神―

「皮を剥ぎなさい」
 毛皮問屋主人の後妻として迎えられたばかりのかよは、数えで十九だった。
 将来を契った幼馴染がいるわけでもなく、特別美人というわけでもなく、野良作業に精を出して日に焼けているうちにこの年になっていた。嫁き遅れだが、よく働くという触れ込みで地元の名主が取り付けてきた婚姻だった。
 夫である喜三郎は町の重役を務めており、毎夜毎夜帰りは遅い。朝も早くから毛皮の買い付けに出かけ、昼は昼で商いに精を出す。嫁いでひと月になろうとしていたが、いまだかよに手を触れる気配もない。奉公人の一人としか思っていないのではないか。そう思いはするが、三十以上年の離れた夫だ。できることなら触れられたくはないというのがかよの思いだった。
 しかし、後妻とて日がな一日ただ奥にいてぼんやりしていればよいというものではない。髪こそ総白髪となった姑の目はいまだ黒く、後妻に入ってきた女をどう鍛えようかと生き生きと算段し続けている。前妻が早死にしたのは姑が生気を吸取ったからだのなんだのと奉公人の間では噂されているが、あながちその噂は嘘ではないかもしれない。
「お前もこの家に嫁いでひと月経とうとしているんだ。これくらいできなくて毛皮問屋の妻が務まるかね」
 目の前に放り投げられたのは一匹の狸。銃弾を受けた腹を除いて毛並みは艶々とし、肉もよくついていた。光を宿さなくなったつぶらな目は黒く虚ろに開いて自分を放り投げた姑の方を見つめている。
 ひぃ。
 覚悟はしていたものの、さすがに目の前にどっしりと存在感のある狸を投げつけられてはかよとて悲鳴の一つは抑えきれずに漏れてしまう。しかも、これからこの狸の皮を剥ぎ、商える程度の毛皮に仕立てろというのだ。
 おずおずと狸に手を伸ばすと、不思議とそれはまだ温かい気がしてうわっと再び悲鳴を上げて手を引っ込める。
「なんだい、肝っ玉の小さい女だねぇ。それは今朝獲れたばかりのものだよ。少しくらい生暖かくったって不思議はないさ」
 今朝、獲れたばかりのもの。
 つい、今朝方まで野山を駆けまわっていたもの。
 夜明けの朝日を拝み、朝食のための木の実を食み、あるいは何か食べるものを探す途中で撃たれたのか。
 銃弾を受けた腹部は、まっすぐに伸びた毛にも黒い血がこびりついて艶を失っていた。
「痛かったろうに」
 今度こそそっと狸の腹の傷に触れた瞬間、ぱんっと頬の上に炎が踊ったような痛みが走った。
「獣に同情なんかしちゃいけないよ。隙を見せればあんたが喰われる。決して同情なんかしないことだ。いいかい、これはあたしらがおまんまを食っていくために必要な生活の一部だ。こいつの命をもらってあたしらは食いつなぐ。いただきます、と手を合わせるくらいならいい。だがね、死んだ時のことを思い出させるような言葉は、たとえ心の中でも思っちゃだめだ。呟くなどもってのほか。こいつに聞かれてしまうからね。聞かれたらどうなるかわかるかい? ろくなことになりゃしないんだよ。あんたが来る前にいた女も大層心の優しい女でね、一度手を合わせるとなかなか顔を上げなかったもんさ。心の中で何を呟いていたかわかりゃしない。でもね、あんたはここに嫁いできたんだ。毛皮問屋のこの家に。獣を狩って肉は食糧に、毛皮は売り物に、それがこの家の生業だ。それを疎んではこの家ではやっていけないよ」
「は……い……」
 返事が震えた。頬はまだぴりぴりと姑の手の感触とともに痛みが残っている。しかしそれよりも何よりも、前妻が早死にした理由がこの生業と関わりあるものだとしたら――逃げなければ。いや、逃げたら実家に迷惑がかかる。家中からかき集めたお金で嫁入りの支度をしてもらい、代わりにこちらの家からは結納として残された家族七人が一年は暮らせるくらいのお金をもらっている。
 覚悟を、決めなくては。
 目の前に投げ出された狸の亡骸と、脇の茣蓙に並べられた様々な形状を持ついくつもの刃物やへら、そして汲み置かれた水をたたえた盥、空っぽの桶。
「まずは解体からだよ。一番左端の包丁を持ってそいつの腹を尻の穴から首に向かって縦に裂きな。本当は庖丁を研ぐところから始めたいところだけどね、今日は特別だよ。腹の次は脚、次は首回りだ。切り込みを入れてゆっくり裂きな。深く差してはいけないよ。臓物を傷つけると面倒だからね。開き終わったら臓物はそこの桶に入れるんだ。それが終わったら皮と肉を引き剥がして別な桶に入れる。そっちは食糧にするからね、蠅がたからないうちに厨へ持っておいで。できるだけ脂肪が肉につくようにするんだよ。皮が剥がれてきたら四本足と首をそこの鉈で落としちまいな。それからそいつは上等な尻尾を持っているからね、尻尾つきの毛皮に仕立てるんだよ。尻尾周りにこうやって切り込みを入れて、引っ張れば肉は取れるから。そこまでいったらそっちの板に張り付けて一晩乾燥させるんだ。分かったね? じゃあさっさとはじめな」
 よく砥がれた包丁を右手に持って、いざ狸の腹にあてがうと手は震えた。
「かよ、魚くらい捌いたことがあるだろう? 同じだよ。四本足だろうが魚だろうが」
 逃すまいと意気込む姑の監視下にあって、逃げることなどはできなかった。
(ごめんなさい)
 あれだけ禁じられたというのに、かよはとっさにそう念じて包丁を狸の腹に差し入れた。
 それから先は、あまりの血腥い臭いと姑の叱責に気圧されるがままであまりよく覚えてはいない。臓物の柔らかい感触や、取り除く肉の重みは、断片的に鮮明に目裏に焼きつき、掌に重さとなって残っていた。
 どうにかこうにかかよが狸一匹を裁き終えた時には、短くなりはじめた秋の日はとっぷりと山の向こうに落ちていた。主人も姑も夕食を取り終え、使用人たちすら食べ終えて厨は人っ子一人いなかった。そこにぽつりと残された一人分の膳の前に倒れ込むように膝を折る。
 食欲などなくなっていたが気力で玄米と沢庵に箸をつける。
『何があっても、たとえ全く食べる気がしなくても、食べ物があるのはありがたいことなのだから必ず食べなければいけないよ。嫁は働かなきゃならないからね。動くためには食べなくては』
 嫁入り前から散々母に聞かされてきた言葉を硬い米とともに噛み砕き、呑み下す。
 食べなければ。明日、また仕事をするために。食べなければ。
 そうだ。玄米が食べられるだけでもありがたいと思わなければ。汁物がつくだけでも、沢庵が食べられるだけでも、ありがたいと思わなければ。
 しかし、今宵の汁物は狸汁だった。
 自分が日中かけて捌いたあの狸の肉だった。
 そう思うと箸が止まる。
 主人や姑が同席していないのが不幸中の幸いとでも言おうか。時間が時間だけに使用人もすでに床に就き、たとえ残しても誰にも見咎められることはないだろう。
 だがしかし、この命は残されることを望むだろうか。いっそ捌いた者の責任として、弔いがてら全て腹に収め血肉にして決して忘れられぬようにしてやるのがよいのではないか。
 意を決して狸汁の椀を持ち、汁ごと一気に口に流し込む。しかし呑み下すには肉片は大きく、否が応でも噛みしだかねばならなかった。その度にじゅわりじゅわりと脂身のコクが舌の両脇にしみ込んでくる。これが自分が解体したものの肉でさえなければ、旨みを存分に味わうことができただろう。しかし、かよはその快感すらもおぞましく、恐ろしいものにしか感じなかった。
「うっ」
 ついにのど元をせり上がってきたものを呑み下しきれなくなって、かよは口元を押さえた。目元に涙が滲み、視界が霞む。
 この涙が外で板に張り付けられたまま明日の皮剥ぎの作業を待っている狸を憐れむものではなく、毛皮問屋に嫁いだ己の境遇を悲しむものでもなく、単純に吐き気とともに現れる生理現象であることが我ながら何とも疎ましい。
 箸を置き、かよは厠を目指して外に出た。
 どうせ吐き出してしまうなら、椀の中身を全て呑みこんでから出てくればよかった、そんなことさえ思いながら厠の木戸を開け、鼻を刺す臭いのする暗闇の中に蹲った。
 思う存分吐き出し、下の両脇に残った旨みの味も酸の味に変わった頃、ようやくかよは厠の外に出た。
 満月であった。
 ほんのり金色に灯ったまあるい月がぽっかりと紺青の空にかかっている。
 近くで薄が風に揺れ、ざああっと音を立てる。
 不意に、ちゃんちき、ちゃんちき、と陽気に茶碗を箸で叩く音が聞こえはじめた。
 とんてんちきちき、とんてんちき――祭囃子のようにさらに陽気さを増した拍子は笛の音までも連れはじめ、さざめくような笑い声が上がりだす。
「月見の、宴?」
 中秋の名月を愛でながら宴を催す、とはかよは聞いていなかった。
 嫁ぐ前は粟や稗で餅を作り、薄を飾って弟妹達と月を見上げながら食べたものだ。しかし、お月見はしないのか、と尋ねたかよに、喜三郎はうちではやらないとそっけなく答えただけだった。うちでは、とはこの家では代々月見などしないのだという意味だと思っていた。喜三郎は今宵もいそいそとどこかへ出かけていった。
 本当は知っていた。
 喜三郎は、町の重役だから夜な夜な出歩いているわけではない。
 きっと今頃、前妻を迎える前から懇ろだった女のところにでも行っているのであろう。
(それならば、はじめからわたしなどではなくその女を後妻に娶ればよかったのに)
 胸にあてた手に力を籠め、悔しさを握りつぶす。
 その人はこの屋敷に入れないのだという。遊女上がりだと姑がひどく嫌っていて、喜三郎が勝手に身請けしたと聞いた時の怒りようときたら使用人たちにまでとばっちりが来るほどだったという。普段は姑を恐れて後妻のかよとは大して口もきこうとしない使用人が、夜な夜な出ていく喜三郎を見送るかよに、その時ばかりはひっそりと耳打ちしたのだった。
『あの女には決してうちの敷居はまたがせない』
 姑のその一念のために、下級武士の家から前妻は迎え入れられて早死にし、自分は中途半端な若さだけを買われてあてつけのように後妻に入れられた。しかし自分は結局見向きもされず、姑の格好のいびり対象になっている。きっと姑は若い女を迎えれば喜三郎の妾通いも減ると踏んだのだろうが、ますます足しげくなっていることに腹を立て、かよの不甲斐なさを今朝のような形で詰ろうとしたのだろう。
 とんてんちきちき とんてんちき。
 拍子は陽気さを極め、ひっそりとさざめくようだった笑い声もいつしか大宴会の如く破裂するような大爆笑に変わっている。
 何がそんなにおもしろいのか。
 喜三郎は今宵、この屋敷にはいない。ならば使用人たちか? それとも姑か?
 人をのけものにして何が楽しい。
 ぎり、と奥歯を噛みしめてかよは笑い声のする方へ歩きはじめた。
 細長い商家の奥、物置といくつかの土蔵が並んでいる。その最奥の土蔵――一日がかりで皮を剥いだ狸の皮を置いている土蔵から、宴会騒ぎは聞こえてくるのだった。
 近づけば近づくほど、瀬戸物同士が触れあう音や、おどけたように桶を杓子で叩く音が鮮明になってくる。不用心にも少し開いた隙間からは蝋燭の明かりが漏れている。音をたてないようにかよは土蔵の扉の前に張り付き、灯りの漏れる隙間から中を覗いた。
 はじめ、目に映るものが信じられなかった。
 何が中で起きているのか理解できなかったのだ。
 中は飲めや歌えの大宴会騒ぎで盛り上がっていた。確かに漆塗りの笛が揺れるのに合わせ箸が瀬戸物の縁を叩き、杓子が桶の腹を叩いている。椀にはなみなみと酒樽から酒が注がれ、屏風から抜け出した虎がうまそうに椀の酒に口をつける。
「おっとっと、うぃー、酔っぱらってしまったぜぃ」
 呆気にとられていると、中から扉が押し開かれた。
 すっかり土蔵の扉に寄りかかる形になっていたかよは、押し出されるように地面に転がる。そこで初めて、扉を開けて出てきたものと目が合った。
「おう、ねぇちゃん、覗き見とは趣味が悪いな」
 喋ったのは艶出しされた木製の椀だった。さっき厨で狸汁を入れていた椀とすっかり同じものだ。それにきょろきょろとよく動くつぶらな黒い目がつき、小さく短いながらも肉のついた手足が椀からそれぞれ一対ずつにょっきり伸びている。
 かよが悲鳴を上げる前に、木椀はずかずかとかよの腹から胸の上へとよじ登り、文字通りかよの目と鼻の先に仁王立ちになった。
「なんだ、おめぇ、狸汁の匂いがすんな。今日の奴、喰ったのか?」
 問われてもすぐに喰ったとは答えられない。
 首を振ろうか、それとも素直に頷いた方がいいのか、決められぬうちに酔っ払いの木椀は「まぁいいさ」と呟いてかよの上から飛び降りた。
「先に小便、小便」
 一体、木椀のくせに小便とはどういうことか、かよは木椀の行方を目で追ったが、彼が草むらに隠れる前に他の宴会仲間たちがかよの存在に気づいて声を上げた。
「おい、人間がいるぞ」
「本当だ、人間に見られたぞ」
「まずい、撤収だ! 撤収」
 一気に酔いが醒めたようになった彼らは、蟻のようにてんでばらばらに動きながら長持ちの中やら屏風の中やらへと飛び込んでいく。
 はたと気がついた時、土蔵の中は灯りも落とされ、しんと静まり返っていた。
「なんでぃ、おれを置いて逃げっちまうとは薄情な奴らめ。ねぇ、あんたもそう思いやすでしょう?」
 草むらから戻ってきた木椀は、すっきりした顔でかよを見上げる。
 そのずいぶんあけすけに親しげな様子にかよはすっかり毒気を抜かれてしまう。
「あなた、たちは……?」
「姐さん、あんたも毎日大変だねぇ。あの怖いおばばに捕まっていびられ倒して。その上夫にはちっとも振り向いてもらえない。若さでは妾に勝っても、長年連れ添った女房の方が男はいいってこともあるもんでさ」
 どうしてそれを。
 喉元まで出かかった言葉を手の中に握りしめて木椀から顔を逸らす。
「積もる憂さもあるでがんしょ。せっかくいらっしゃったんだ、どうですかい。あっしらと今宵、呑み明かしませんかい」
 まるで古くからの友人に誘われたような気持だった。姑にいじめられ、使用人たちからは遠巻きにされ、夫には見向きもされない。存分に疎外感を植え付けられた後の招きは、たとえ異様な者たちの宴であろうと魅力的に思えた。
 ぱっと土蔵の中の明かりが灯る。
 長持ちの中から瀬戸物や箸などの日用品が、屏風から虎が抜け出し、息をひそめていた酒樽や桶たちはにょきっと肉のついた手足を伸ばす。
「仲間たちもあんたならいいって言ってまさぁ。さぁさ、中へお入んなさい」
 小さな木椀に導かれて、思わずかよは一歩土蔵の敷居を跨いでしまった。
 ぷぅんと酒臭い匂いが鼻を衝く。奥には何とか板に張り付けた狸の皮。
 彼らはその狸の皮を囲むようにして坐し、再び宴会を始めた。
 どんちゃん、どんちゃん。
 さっきよりもいっそう羽目を外しているようだ。そんな彼らの輪の中に座らされて所在無くあたりを見回していると、木椀が別のぐい飲みを連れてきた。中にはなみなみと酒が次がれている。
「さ、一杯ひっかけてくんなせぇ」
 ぐい飲みがどうぞどうぞと体を揺すり、かよに飲むように勧める。
「でもわたし、お酒は……」
「祝言の時に一口くらい呑みましたでしょ。酒なんてもんはね、水と同じでさぁ。飲んでるうちに味も匂いもしなくなります」
「そう、かしら」
 おそるおそるかよは手足を引っ込めたぐい飲みを両手に抱え持ち、そっと唇にその縁を当てる。流れ込む透明な液体に僅かにむせたものの、口の中の嫌な酸味を流し去るかのように後は一気に飲み干した。
 その後はもう極楽だった。
 瀬戸物と箸の拍子に合わせて自分も拍子をとり、それでは足りぬとお玉を手に取り酒樽の腹を叩きだす。舞い踊る錦の着物を肩に掛け、虎とともに対となって足を踏み鳴らし、重い腰を上げて出てきた琵琶と手を取りながらくるくると回る。
「姐さんは御機嫌だぁ」
 木椀も嬉しそうにぐい飲みから酒を飲み干す。
 それを見てかよはもっとお飲みなさいな、と酒樽から柄杓で酒を注いでやる。
 どれくらいそうやって酔いに身を任していたものか。
 母屋に向かぬ生垣に向けて開かれた中二階の格子窓から丸い月が光を差し込みはじめている。
「姐さん、あんたも大変だねぇ。こんな家に後妻でなんて入ってきて、さぞや毎日辛かろう」
 はしゃぎ疲れて戻ってきたかよに、木椀はちびりちびりと酒を注いで寄越す。
「今日なんて狸の皮剥ぎなんかやらされて。ありゃぁね、奥さんのやることじゃぁござんせん。職人がやるべき仕事だよ」
「でもお義母様は家のことは一通り知っておかなくてはならない、と教えてくださったのだわ」
「健気だねぇ。殊勝だねぇ。その挙句、自分で皮剥いだ狸の肉を夕餉に出されてちゃぁ言うこたないねぇ」
 こってりした狸の脂身の味を思い出して、かよは口元に手を当てる。
「まぁ、飲みなせぇ」
 注がれた酒を一息に飲みほすと、これまでになくぐらりと頭が揺れた気がした。
「あんたはとても優しい人だ。とうに死んじまった狸の死体前にしても、弔いの心を忘れなかった。俺らに同情してくれた。憐れんでくれた。あんたの心遣いに、今頃あいつもとっても喜んでるさ」
 そう言って木椀は板に張り付けられた狸の皮を振り返る。
 そうだ、あれは今日一日かけてわたしが皮を剥いだもの。身体に切り込みを入れ、開き、臓物をこの手で取り出し、肉を掴みだし、あの板に釘で四隅を打ち付けて貼りつけにした。
 身体を張り付けられた狸は頭をうつぶせに寝ているかのようでもある。その円らな目が今どこを見ているかはわからない。だが、ふと月明かりの真下に晒されて、狸の目が自分を見た気がした。
 ぎろり、でも憐れみを乞うようでもなく、ただ虚ろな瞳を向けられて、むしろかよはぞっとした。
 全身が粟立っていたのは、何も虚ろな狸の瞳と目が合ったからだけではなかった。
 どしり、とかよの体の上に虎がのしかかっていた。
 手足の上には椀や桶がびったりと陣取っていて重くて動かせない。
「何を……」
 もがいても虎や酒樽の重みにかよは為す術もない。そんなかよの視界に、ひたひたと歩み寄ってきた包丁や鑿やへらが入り込んできた。
 よく砥がれた包丁は、狸の皮を剥ぎ終えて、明日のためにかよが砥ぎなおした包丁だった。
 宴の囃子はまだ周囲で続いている。それこそ、これから最高潮を迎えようとでもいうように囃し立て盛り上がりを見せている。かよを取り囲む古道具たちも上気した顔でそわそわとかよを見つめている。早く、早く、と声が湧き上がりはじめている。
 とんっと木椀がかよの胸の上に乗った。が、かよには背を向け、木椀は大勢の観客に向けて腕を広げる。
「さあ、これからがお待ちかねの時間だ。新妻の解体が始まるよ!」
 わぁっと古道具に身を移した妖たちが歓声を上げる。
 そして、木椀が振り返り、かよの顔を覗き込む。
「悪く思わねぇでおくんなせぇ。あんただって悪いと思ってるんでやしょう? こんな血腥ぇ手になっちまって。今切り離して差し上げますから。なぁに、痛かぁござんせん。たっぷり酒を飲まれてるんだから、きっと夢うつつのうちに終りまさぁ。前の嫁さんのときだって、悲鳴を上げたのは一瞬だったんでさぁ」
 ぞくり。
 月の光に見せつけるように研ぎ澄まされた刃を光らせながら鉈が首元に来た瞬間、酔いなど一瞬で醒めた。
「ああ、だめだめ。首からいったらあの狸のようにはならんでしょう。首はつないだまま、ですよ」
 「だが……」と鉈はつまらなそうにかよを見る。かよは目を逸らすわけにもいかず、何とか目で威圧しようと鉈を睨みつける。すると鉈はつまらなそうに一歩引いた。
「それでよがんす。姐さん、あんたは見どころがありますな。前の嫁さんは武家の娘だってのに、もうすっかりビビっちまって、肝の座らないままぎゃんぎゃん泣き出すもんだから、うるさくてつい首からいっちまったんでさぁ。いやぁ、あれは残念だったな、ぐい飲み」
 再びお酒をなみなみと注いだぐい飲みがかよの前に進み出で、頷きながらかよの口に中身を零した。一度酔いの醒めていたかよには、それがどれだけ強い酒だったか今更ながらに理解できた。酒は焼け付くように口の中を喉へと向かって流れ落ちていく。
「あいつは元は前の嫁さんに皮剥がされた狐でさぁ。前の嫁さんは泣きながらやってましたさぁ。でもって手が不器用でねぇ。あいつの皮もぼこぼこに穴だらけで、結局売れずじまいだったんでさ。それが何とも悲しくってねぇ。練習台にされただけで終わっちまったんですから。それに比べて姐さんはお上手でさぁ。みんなで酒の肴にそう誉めそやしてましたのよ。手つきも器用で穴ひとつなく皮を剥ぎ終えた。明日はもっと薄く鞣(なめ)していくんでやしょうが、姐さんならきっとそこらの職人よりもうまくいい毛皮を作れましょう」
 はっはっはっと胸の上で笑い飛ばす木椀に一瞥をくれてやり、かよは口に含んだ酒を吹きつける。不作法なのは知ってのことだったが、命には代えられない。しかし、客たちは酒飛沫を浴びながらますますやいのやいのと盛り上がった。のしかかる虎も引く素振りはない。
「これは元気なことだ。さすが姐さん。あの人も今度はいい嫁を見繕ってきたもんだ。もうひとつ教えてやしょうか。喜三郎どんが妾を後妻に迎えなかった理由。簡単でさぁ。愛してるからですよ。大好きな女に獣の皮剥ぎなんかやらせられましょうか。毎晩舐めて食みたい手に生臭い獣の血の臭いなどつくのを許しやしょうか。喜三郎どんはねぇ、小せぇ頃からお袋さん、今のあんたの姑だが、あの人が旦那に言われて泣きながらたくさんの獣の皮を剥いできたのを見て育ったんでさぁ。昔は今ほど大店でもなくてねぇ、使用人も職人の数も今の半分もいなかった。奥さんだって大事な稼ぎ手だったんでさぁ。でもそれを見て育ったからかねぇ、喜三郎どんは決して自分の女をこの敷地内で囲ったりなんかしなかったのさ。何かあった時に自分の口に含む手に生臭い臭いが染みついていたら嫌だからねぇ。手だけじゃねぇ、あんたが今日味わったような思いだってさせたくなかったに違ぇねぇよ」
 他者の口から告げられる事実ほど胸を抉るものはない。
 使用人たちは義母が前妻をいじめ殺したと言っていたが、とんでもない。前妻は自分が皮を剥いだ獣たちに同情し、隙をつかれて宴に引き寄せられ皮を剥がれてしまったのだ。喜三郎のことだってそうだ。義母が敷居を跨がせなかったんじゃない。喜三郎が女を守るためにこの家に近づけなかったのだ。もしかしたら、前妻の死に方を知って、あるいはその前からこんなことがたびたび起こっていたことを知っていて、けして敷地内に入れないようにしていたのだ。
 悔し涙がつぅと目尻から流れ落ちる。
 愛されたいと思っていたわけではない。受け入れてほしくはあったが、嫁ぎ先などというものはどこもこういうものだと聞いて知っていた。嫁などいつまでも部外者で、周りが死んでようやく主になれる。それまでの辛抱だと母に言い聞かせられて育った。我慢と辛抱を積み重ねて、ようやく女は家と土地と金を手に入れる。しかしそこに人はいるのだろうか。母や弟妹達のように無償の愛を思慕を注いでくれる人などいるのだろうか。
 義母も使用人もみんなかよにとってはいまだ他人だ。夫の喜三郎さえ触れ合ったこともない。その心の中に自分がいないことは嫌というほど今思い知らされている。
「あの狸だったものもここにいるの?」
 かみ合わせた奥歯を何度も擦り焦がして嗚咽を呑みこみ、かよは木椀を見上げる。
「へぇ、そこに」
 木椀はとんっとかよの胸から飛び降りて、虎を見上げた。
 物言わぬ虎の琥珀色の目がじっとかよを見つめる。
「さっき一緒に踊ったばかりじゃない……」
 唖然とするかよの上で虎は身じろぎし、首元で口を開く。ぞろりと生えそろった牙を間近で見せつけられて、かよの首から上は脂汗が滲みだす。
「そいつはね、今度は狸よりももっと強いものになりたいと言ってましたんでさぁ。自分を喰った人間を喰えるくらい強いものに」
 木椀の話を受けて虎がひと唸り咆哮を上げる。牙の隙間からは涎がかよの首筋にこぼれ落ちる。
「ああ、だめだよ。そいつは喰っちゃぁなんねぇ。俺たちの皮を剥いだ奴らはみんな同じ目に遭わせて憂さを晴らすのが、年に一度、俺たちの月下の宴に許された掟なんだから」
 かよはぞろりと自分を取り囲む古道具たちを見回した。木椀、屏風の虎、黒く薄汚れた桶、なみなみと酒を湛えた酒樽、欠けた茶碗、揃わない夫婦茶碗、徳利にぐい飲み、折れた箸、ひび割れた漆塗りの笛、竹の杓子に木のお玉、それから包丁に鉈に肉を掻きだすへらに――これらすべてに今まで毛皮として鞣された動物たちの魂が宿っているのかと思うと、まるで生前の獣の姿が投影されて見えてくるようだった。
「あなたは?」
「あっしは奥さんに鞣されたんでさぁ。姐さんの義母に当たる人に。奥さんが初めて鞣した貂の皮があっしでさぁ」
 木椀は初めて薄気味悪く笑った。
 煮詰まっていく頭の中でかよは必死に考える。義母は生きている。その義母が言っていた。
『獣に同情なんかしちゃいけないよ。隙を見せればあんたが喰われる。決して同情なんかしないことだ。』
 同情しないことなど―――できないと思っていた。だが、この局面で同情している余裕があろうか。
 かよの上に乗った虎がべろりと首筋を舐める。気味の悪いほど湿って冷たくねっとりとした感触がした。
『いいかい、これはあたしらがおまんまを食っていくために必要な生活の一部だ。こいつの命をもらってあたしらは食いつなぐ。いただきます、と手を合わせるくらいならいい。だがね、死んだ時のことを思い出させるような言葉は、たとえ心の中でも思っちゃだめだ。呟くなどもってのほか。こいつに聞かれてしまうからね。聞かれたらどうなるかわかるかい? ろくなことになりゃしないんだよ。』
 死んだ時のことを思い出させてはいけない。自分が生きていくために、今のことだけを考えろ。それだけを考えて、言葉を繋げ。
「あんたたちの作法だと尻の穴から開きはじめるんだったか。虎よぉ、少し邪魔だ、手足は抑えつけてあるから降りろ」
 人の好さをかなぐり捨てた木椀の声に、狸の魂を持つ屏風から出でた虎は素直に従うかと思われたが、逆であった。むしろ我慢できずはじかれたように咆哮を上げ、爪を立ててかよの両肩を上から掴み圧迫し、涎さえ振り乱してかよの首筋に食らいつこうとする。
「いただきます!」
 喉笛を食いちぎられる前に、かよは目をきつく閉じて叫んだ。
 途端、夢がはじけるような音がしてさんざ奏でられていたお囃子が途切れ、煌々と灯されていた灯りは消えた。
 閉じた目裏の向こうが薄暗くなったのを感じ取って、おそるおそるかよは目を開ける。
 月影がさやさやと中二階の格子窓から降り注いでいた。その中心に自分はいる。周りには命を失った古い道具たち。木椀、ぐい飲み、絹の打掛、欠けた瀬戸物、割れた笛、折れた箸、研ぎ澄まされた包丁、不気味に光る鉈、横倒しになり酒を零している酒樽、そして、じっと残念そうにこちらを見つめている屏風の虎。それらは、つい今しがたまで陽気に動き回っていたがいきなり時間を止められたかのようにてんでばらばらな姿でかよの周りに転がっていた。
 かよは首筋にたらされた虎の涎を手の甲で拭い取り、唇をぎゅっと噛みしめて立ち上がった。何かの拍子で今にも明かりが灯り、宴会の続きが再開されるのではないかと恐れながら静かに転がった古道具たちの間を分け進み、土蔵の扉を開ける。
 さっと外から入ってきた秋風にほっとかすかな安堵を覚える。
 土蔵から外に飛び出し、入り口を閉じようと分厚い扉に手をかける。
 ふと、自分が鞣して板に張り付けた狸の姿を奥に見つけ、じっとその姿を見た。
 何も思ってはいけない。思うならば自分のことを。
「いただきます」
 かよはもう一度その言葉を口に出し、土蔵の扉を閉め、閂をかけた。
「かよ、あんた、無事だったかい」
 母屋の厨から草履をつっかけて燃えさしを灯りに飛んできたのは義母であった。
 義母はすでに寝間着だ。その上に軽く羽織った姿で足は裸足。奥間であってもこのような姿を人前で晒したところを見たことがなかったかよには意外な姿であった。
「はい。……なんとか」
 そっと首筋を撫でる。まだ虎の唾液の痕が消えない。
 その様子を見て義母は何かを察したらしく、驚いた顔をした。
「月下の宴に呼ばれたんだね」
「はい」
「一人で乗り越えたのかい」
「……はい。……いいえ、お義母様の言葉に助けられました」
「……そうかい。あいつは……木椀は元気だったかい」
 土蔵の扉に広がる別の世界をを見晴るかすように眺めながら声を潜めて義母は問うた。
 意外な思いでかよは義母を振り返り、そっと頷いた。
「はい、とても」
「そうかい」
 そう呟いた義母の表情は、古くからの友人の消息を知れた安堵と、未だ往生していないことへの落胆のように見えた。
 翌日から、かよは狸の皮をなめす工程の二日目に入った。皮に穴があかないように皮の裏が白く見える極限まで薄く中の肉を掬い取り、一度全体を洗って何日か乾かした後、今度は柿渋で皮をなめす作業にかかった。
 約一月かけて出来上がった狸の毛皮を義母に見せると、それは自分の箪笥に大切にしまっておくようにと義母は言い、ついで自分の箪笥から一匹の貂の毛皮を取り出してかよに見せた。
「これが私が一番初めに自分で鞣した貂の毛皮だよ。昔と違って今はたくさん職人も雇えるようになった。職人たちの苦労を知ったあんたが今後するべきことは、商う使用人たちの苦労も知ってこの家を切り盛りすることだよ」
 義母の言葉にかよは強く頷き、翌日からは番台について店の商いを習いはじめた。
 翌年、あれほど元気だった義母が安心したかのように往生し、かよはあの土蔵の脇に一つの供養塔を建てた。
 以来、中秋の名月はこの供養塔のもとで一杯の酒を飲むのがかよの慣習となった。
 夫喜三郎は、まだ帰ってこない。かよの商才に安堵したのか、はたまた余計店にいずらくなったか、店はそっちのけで妾の家に入り浸り、そのまま妾の家で息絶えた。
 寂しさに、恐いながらもあの夜土蔵の中で繰り広げられた付喪神たちの月下の宴を目裏に呼び出すこともあるが、彼らがかよの周りを囲むことは二度となかった。
 この毛皮問屋は、かよの養子に迎え入れられた喜三郎とその妾の子が引き継ぐことになる。

〈了〉
(201409071658)