縁期暦紀 巻ノ七

冷たい手  ― 鬼 ―




「与作ー、与作ー、与作ー……」
 泣き崩れる喪服の女は、棺の中の夫と比べると驚くほど若かった。
 真新しい喪服から見えるは真白い首、ほつれ髪のかかる白い富士額、看病疲れでこけてはいるが顔立ちはまだ幾分のあどけなさすら残っている。
 この片田舎で、まだ幼さの残る十代の娘が祖父ほどの歳の男の後妻におさまることは別段珍しいことではない。貧しい家に美しい娘が生まれれば、本人の意思とは関係なく歳離れた富豪の家へ嫁がされる。そのせいか、この墓場では、若くて綺麗な女ほど夫の葬儀では気丈の一言ではごまかせないほど晴れ晴れとした顔をしているものだ。
 あそこまで人目憚らず大声で棺桶に縋って泣く若い娘は初めてであった。
 死んだ男はよほどの豪商だったのだろう。参列者の数は墓場の門の後にも続いている。それでも、特に深い悲しみに暮れている顔は見当たらない。死者の妻だけが、狂ったように泣き叫んでおり、その姿は人の死に際して当たり前と思われるものではあったが、冷え切った空気の中では場違いにも見えた。
「幸子さん、もういいでしょう?」
 女よりも一回りは年上に見える書生風の男が、溜息混じりに女を棺桶から引き離した。
「嫌よ、待って、お願い。私はまだ埋めていいとはいってない」
「強情はるのもいい加減にしましょうよ。死んでしまったものは仕方ない。いいじゃないですか。その若さでこの村一番の富を、おっかさんと半分ことはいえ、その小さな手におさめたんですから。もう十分でしょう」
 直後、小気味のいい音が雪のちらつきはじめた墓場に響き渡った。
「これ以上、主人と私を侮辱しないで」
 参列者たちも目を瞠るほどの鬼気迫る目で女――幸子は書生風の男を睨みつけた。
「義姉さん」
 張られた頬を押さえ、書生風の男はうっすらと憐れみを浮かべた目で幸子を見下ろした。
「私が大鳥家の財産目当てで後妻に納まったとでも? 冗談言わないで。私の実家は大鳥家の財産なんてなくても人並みの暮らしをしていたわ」
「売るもんも売れず、田畑の税も払えずに首くくっておっ死んじまったのはどこの誰のご両親かね」
 しわがれた老婆の囁き声に、幸子は棺にかけていた手をずるりと下ろした。
「お……義母さん……?」
 蒼白を通り越して土気色に変じた顔を、幸子はくるりと後ろに振り向けた。
「さ、埋めとくれ」
 背の丈、幸子の腰ほどまでしかない老婆は、涙一つ浮かべないで村の男衆に命令した。
「ああ……ああ……」
 雪がちらほらと舞いだした墓場には。穴に土が落とされていく音と若い未亡人のすすり泣きだけが響いていた。






 昼から降り続いていた雪は重く湿って屋根にのしかかり、時折天井を軋ませていた。その音が聞こえるほど、葬儀を終えた大鳥の屋敷は通夜で多くの人が出入りしていた昨夜までとはうってかわって静かになっていた。いつもならば屋敷に寝起きしている家人たちも昼間の疲れからか、明朝からの開店に備えてすでに離れに戻り寝息を立てている。そんな中、母屋の居間には細々と明かりがともされ、囲炉裏の火もまだちらちらと鉄瓶の底を舐めていた。
 部屋にいるのは三人。奥に与作の母、囲炉裏をはさんで向かいに幸子、その間に少し囲炉裏からは間を置いて書生風の男が俯いて座っている。
「さて、この後のあんたの処遇についてだけれどね」
 口火を切ったのは老婆だった。息子の与作が孫がいてもおかしくない年であったことを考えると、この老婆は曾婆くらいになるのだろうか。刻み込まれた皺の中に目は埋もれ、乾いた唇は赤いというよりどす黒い。そのくせ、幸子を見る時に瞼が開かれると、濁りのない鋭い目が現れた。同様に幸子にかける声音にも容赦はない。
 老婆の目に睨まれた瞬間、幸子は確かに全身の奥底から震えがこみ上げたのだが、それでも、老婆に楔を打ち込まれる前に、と通夜のときからずっと考え続けていた言葉を転がるように口にのせた。
「お義母さん、お願いです。このまま大鳥姓を名乗らせてください」
 大好きだった。愛していた。そんな言葉では本当は表しつくせない。縁の妙とでも言うのだろうか。
 与作と自分以外はみんな嘘だと思うだろう。親子以上に年の違う二人だ。子すらいない。目の前にいる老婆も、横に控えている与作の弟の次三郎も、思うところは同じであろう。大鳥家には長男の一人も誕生しなかったのは、幸子が与作を拒み通したからだろう、と。この女は金目当てで大鳥家に嫁いできたのだ。たとえ両親が借金を抱えて首をくくったと知っても、その前に金の無心をしなかったのは孝心よりも欲が勝ったからだと、家人たちまでが陰で噂しあっていた。
 それでも、与作は言わせておけばいいと。自分たちがしっかりとした絆で結ばれていれば何を言われたって揺らぐことはないと。だからこそ、与作が生きている間は幸子は共に暮らしていた義母からもひどい風当たりを受けずに済んでいたのだ。生家のこととて、それと気づいた与作が何かにつけて幸子の知らないところで支援をしていたと知ったのは、両親の通夜の席でのことだ。土下座をして「助けられんくて、すまん」と頭を下げられ、初めて自分の両親がどれだけの苦境の中にいて、自分に会うときだけは微笑んできたかを知った。
 与作との縁は恋も愛も超えたところにあるものだと幸子は思っていた。前妻と与作の仲がどうだったのかは幸子は知らない。いや、子供心に、着飾ることが好きないかにも見栄っ張りな御新造さんとそれに辟易しているのか店頭でも目を合わせようとしなかった与作の姿が焼きついていないといえば嘘になる。しかし、どこの家でもそういうものなのだろうと幸子は思っていた。幸子の実家とて、家の中では父と母が目を見合わせて微笑むなどということはなかったのだから。夫婦というのは家と家とを繋ぐものなのだ。そこに自分というものは介在しない。名前だけがつらつらと系図に連ねられるものなのだ。幼心にそう思っていた幸子は、だから大鳥の家の後妻に、と父から言われた時も大人しく頷いた。幼馴染もなく、恋も知らないまま十代も半ばに差し掛かった頃だった。父よりも年上の男に嫁がされる己が身を嘆かなかったわけではないが、それも婚礼を終え、共に庭の蛍を愛でるうちに不思議と消えていた。与作の傍らにいるだけで、守られているような不思議な気分になったのだ。両親の諍いを聞いていた昨夜よりも、それは安らかな夜だった。蛍を見つけては、顔を見合わせて微笑みあう。祖父と孫のそれではなく、幸子にはまるでその時間が己の半身を得たかのように満たされた時間に思えた。後に聞けば、与作もまた同じだったのだという。年甲斐もなく、いや、まるで自分も青年の時に戻ったかのように十五、六の娘を愛おしいと思ったのだという。美しいと思うものが一緒だった。憎むものが同じだった。短い間に見出されたそれらの共通点は、年齢を超えて二人を固く結びつけていた。穏やかな気持ちで二人、濡れ縁に腰掛けながら庭の紅葉を愛で、雪うさぎを作り、梅についで桜を愛で、常盤の松を植え、来年も再来年も二人で愛でようと誓い合っていた。それが、まさか二年足らずで潰えるとは幸子も与作も思うだにしなかったことだろう。
 与作が生きていた時でさえ、与作を仲良くすればするほど厳しくなる義母の視線に気づいていなかったわけではない。が、たとえ家は追い出されても姓だけは死ぬまで与作と一緒がいいと、幸子は与作が床から起きられなくなった頃から肚を決めていた。
 汚いものでも見やるように、義母は幸子を見た。
「図々しい子だねぇ」
 溜息交じりに一息吐き出す。
「そんなにもうちの財産がほしいのかい。あたしはねぇ、血も繋がらない赤の他人のあんたにかわいい与作まで殺された上、うちの財産の半分まで持っていかれるなんてとても我慢ならないんだよ」
「そんな、殺しただなんて」
 幸子の顔が青ざめ、唇がわななく。まさかそんな風にまで思われていたとは。
「与作が身体を壊したのはあんたが厨に出張るようになってからじゃないか」
「それは与作さんが私の手料理がおいしいから毎日作ってほしいと」
「死人に口はなし。今となれば何とでもいえるやね。一人厨にこもって一体与作の食事に何を入れてたんだか」
「いい加減にしてください。わたしは与作さんを殺すような真似はしていません。同じものを食べてきましたし、お義母さんと次三郎さんにも同じものをお出ししていました」
「ああ、そういえばあんたの料理は塩っ気が多くってねぇ、あたしと次三郎はいつもお湯をかけて薄めて食べていたんだっけ。ねぇ、次三郎」
 しめたとばかりに口元を歪めて同意を求める老婆から、次三郎が頷くともなく顔を俯ける。
「与作はあんたに騙されていたから、しょっぱいとも言えずにうまいうまいと何杯もおかわりしてたんだろうねぇ。その結果が心臓にきたってわけだ。ああ、怖い怖い。こんな女、いつまでも家においておくなんてとんでもないことだよ、この疫病神。人殺しのあんたに大鳥家の財産なんか分けてやるものか。苗字だって同じだよ。あんたにやれる苗字なんてありゃしないよ。さっさと荷物まとめて実家に帰んな。ああ、そういえばないんだっけ? 両親も帰る家も」
 にやりと笑った義母を、幸子は呆然と眺めていた。
 何が気に入らなかったというのだろう。与作がいるがために今まで溜め込んでいたのであろう全てのものを義母は幸子にぶちまけているようだった。幸子は腹に湧き上がる怒りを通り越し、頭の中が真っ白になる。一体、この人は何を守ろうとしているのだろう、と、ただそれだけがぽつりと頭の中に思い浮かぶ。商才に溢れた長男は死んでしまった。妻子のない書生崩れの次三郎とて、母が子を守るにしては年が行き過ぎている。ならば、大鳥家の財産か。商家と向こう三十里四方に見える山と田畑、町外れの賃貸長屋、不動産だけでも村に名を轟かせるだけのものはある。それに商いが生む利益を加えれば、かなりのものになるに違いない。しかし、所詮は物だ。いつ誰のものになるとも知れない。いつ価値が下がるとも知れない。それ以前に、富など自分が苦せずに生きて幾分だけあれば十分ではないか。なぜ自分だけ独り占めにしようというのだろう。与作は慈善団体への寄付を好んでしていたが、義母は弔問に訪れたそれらの団体の遣いを皆玄関先で追い返してしまった。この先はあんたたちに一文たりともやるものかと、聞いているこちらが恥ずかしくなるほどの剣幕でまくし立てて。
「この家からは出て行きます。ですが、苗字だけは、籍を戻すことだけは……」
 幸子は居ずまいを正しなおし、きちっと指を揃えて頭を下げた。
「なにとぞご勘弁を」
 ふんっと見下すように老婆は幸子を見下ろす。幸子は頭を上げなかった。頭を下げたまま、じっと沙汰を待つ。
 囲炉裏の火がぱちりとはじけた。
「ふん」
 老婆が呆れたような鼻息を漏らした。
「与作も随分と好かれたもんだねぇ」
 聞いたこともないほど底意地の悪い声に、内心幸子は震え上がる。
「そんなに大鳥の姓がほしいのかい」
「はい」
 幸子は間髪いれず答える。
 老婆はまた一呼吸置き、上座から囲炉裏の脇を歩いて幸子の横に膝をついた。
「お義母さん?」
 驚いて顔をあげた幸子の耳に、老婆はそれまでとは打って変わって猫なで声で囁いた。
「時に幸子さん、お前さん、子はほしくないかい?」
 どきりと心臓が跳ねると同時に、ずきりと痛みが走る。
 子ならほしかった。こんなことになるならば、なんとしてでも与作の子を残しておきたかった。しかし、夫を失った幸子には今更何も望むべくもない。
「かわいそうに、幸子さんは帰る家もないものねぇ。本当に、天涯孤独とは幸子さんのことを言うんだろうねぇ」
 ぐっと言い返したいのを幸子は堪える。唇を噛むその動きを敏感に捉えて、老婆は唇の片端でほくそ笑む。
「幸子さん、大鳥の姓を名乗ることも許そう。これまで通りこの家に住むことも許そう。ただし、条件がある」
「条、件?」
「跡継ぎを生むんだよ。この大鳥の家を継ぐ、正当な大鳥の血をひいた息子をね」
 ごくり、と幸子は生唾を飲み込んだ。
「ですが、与作さんは……私は懐妊もしていませんし」
「そんなこたぁ百も承知で言ってんだよ」
 優しくなったかと思えば、老婆は急に豹変する。蔑むような目で見たかと思うと、またすぐに目を細め、次三郎の方を振り返った。
「いるじゃないか。大鳥の血を引く男が」
「で、ですが私は与作さんとは離縁したくないと……」
「馬鹿かい。誰が今度は次三郎と結婚させようなんて思うもんかい。そんなことをしたら次三郎の財産まであんたに持っていかれちまう。誰がそんなこと許すもんかね。あんたが生むのは与作の子どもだ。今なら死んでまだ間がない。期限は二月。もしその間に妊娠の兆候が見えなければ、姓も財産もこの家に住む権利も全部奪い取ってその身一つで外に転がしてやる。いいかい、わかったね?」
 義弟の次三郎と子をなせと?
 それも、与作の子と偽って?
 幸子はおそるおそる次三郎に視線を移した。
 次三郎はうんともすんとも言わない。ただ顔を伏せてじっと畳の目を見つめるだけだ。
「次、次三郎さん!」
 縋る思いで幸子は呼びかけてみた。
 しかし、次三郎はびくりと肩を一度震わせたきり、表情が見えないように再び顔を背けてしまった。
 人形なのだ、と幸子は思った。次三郎はこの母親の生きた人形なのだ。そして、自分もまたその人形の一つにされようとしている。与作が感じ続けていた母親への反感はここにあったのか、と今更ながら臍を噛む思いで幸子は実感していた。きっと、子が生まれたら生まれたで自分はこの家を追い出されるかもしれない。
 だが――万に一つもだ。万に一つもその前にこの義母が死んでしまったら?
 子どもはほしい。与作の子がほしかった。でもそれが叶わないというなら……あの頼りない次三郎も愛しい与作も同じ父と母から生まれ出でているというなら、賭けてみてもいいかもしれない。要は、育て方さえ誤らねばよいのだ。この人のように自分の人形にしようなどと思わねばよいのだ。どうせ次三郎に身を任せねばならないのなら、子を望んで何が悪い? そうだ。子さえ生まれれば、いずれ大鳥のこの家も山も田畑も商いの生み出す富も何もかもが血を分けた己の子のものになる。それは、遠まわしに自分のものになるようなものではないか。
「わかりました」
 幸子は震える声を押し出した。
 怖いものなど何もない。何も。だって、私には与作さんがいてくれる。いつも側で私を守ってくれる。
 胸の中で言い聞かせるように何度も呟き、幸子はもう一度言った。今度は、さっきよりもしっかりとした声で。
「わかりました」
 と。
 その夜、次三郎は幸子と与作の寝室だった部屋に忍び入ってきた。敷いた布団の上に正座して身を固くする幸子を背後から抱きしめる。
「義姉さん」
 耳元に囁く声に、幸子は身震いをした。
 やはり、嫌だ。たとえ与作の弟といえど、与作よりも二十も年若く、自分とは十しか違わないとはいえ、義母の前ではただの操り人形で庇いさえもしてくれなかった義弟。葬式では財産の話を持ち出し自分と夫を侮辱した義弟。その義弟に身を任せるだけのものが、本当に自分は得られるのか。大鳥の姓とて、単に与作との絆を残したかっただけに過ぎない。今まで生きてきた時間よりもより多くの時間を与作なしで過ごさねばならないと考えた時、もしかしたら与作のことを忘れてしまうかもしれないと、単にそれが恐ろしかっただけかもしれない。
 心さえしっかりしていれば忘れるべくもないだろうに。
「ぃ……いやっ」
 幸子は不意に全てが恐ろしくなって次三郎の腕を振り払った。
 一体自分は何に固執している? あの義母を笑えた身分か。
「やっぱりいけません。やめてください。こんなの、やっぱり間違っています」
 夫の葬儀を済ませたその晩に義弟と枕を共にするなんて、人としてあるまじきことだ。人倫にもとる行いだ。やってはいけない。しては、いけないことだ。
「与作さんが見ています。きっと」
 体ごと次三郎の方を向き、幸子は暗闇の中、白く浮き上がって見える次三郎の目を見据えた。
 何が楽しくて義母を喜ばせる必要があろう。否、さっき義母に詰め寄られた時の自分の思考を思い返してみるに、なんと恐ろしいことを考えたことか。どんなに酷いことを言われようと、人の死を願うとは。何より、これから生まれる子が与作の子でないことは自分が一番よく知っているではないか。ずっと、己に嘘をついて生きるつもりなのか、私は。
「やめましょう、こんなこと。次三郎さんだって、間違っていると思うでしょう?」
 次三郎は幸子を見つめたまま答えない。苛立った幸子は次三郎の片に手をかけてゆすった。
「次三郎さん、しっかりしてください!」
 その次の瞬間だった。幸子はあっという間もなく仰向けに天井を見つめていた。上には次三郎がのしかかり、身動きが取れない。
「私が妻も娶らずにいた理由、知らないでしょう。母もきっと知らない。知らずにこんなことを言い出した。母が悪いんだ。あの人が……」
 熱い唇が押し当てられる。その熱に、幸子はぞっとする。棺に入れる前の与作の唇の冷たさ。あれは、ほんとに死人の唇だったのだ。胸元に忍び入る次三郎の手の熱さに再び幸子はぞっとする。最後に握った与作の弾力のない物の様な冷たい手を思い出して。
 ぞっとしている間に、ことはどんどん進んでいく。はじめこそ抵抗を試みたものの、触れられるたびに死に満ちた与作に冷やされた身体に生きた熱を与えられていくようで、いつの間にか幸子はその熱に身を任せてしまっていた。
 一度一線を踏み越えて禁を犯してしまうと次第に抵抗感は薄れていってしまうもので、一夜のうちに二度、三度と身を任せるうちに、幸子の頭の中では与作の存在が中心から片隅へと追いやられていくような気がした。次三郎には情の欠片も抱いてはいない。しかし、次三郎は与作が持ちえなかったもので幸子の体と心を翻弄していった。こんなにも簡単に自分が溺れるとは思っていなかったが、次三郎は幸子を咎めるどころか無言のままその思いを煽っていくのだ。
 そんな夜が二日、三日と続き、与作の初七日を迎える日には、幸子は自ら次三郎の身体を求めるほどすっかり次三郎の体の虜になっていた。
 昼間は何食わぬ顔で親族たちの前で貞淑な未亡人を演じ、与作の位牌に向かえば涙すらもこぼした。しかし、家人も義母も床についたと見計らえば、法要を済ませたばかりにもかかわらず次三郎が訪ねてくる。心待ちにしていた幸子はそれを両手を広げて迎え入れる。
 と、幸子は肩を叩かれた気がして後ろを振り返った。
 どうした、と次三郎は顔をあげた幸子を見返す。
「今、肩に手を置いた?」
 いいや、と次三郎は首を振る。
 二人きりのとき、次三郎はやけに言葉少なになる。
「なんか冷たい手だったような気が」
 確かめるように幸子は次三郎の手をとり、両手で包み込んで、触れられたような気がした右肩にあてた。
「これで大丈夫。さあ、次三郎さん」
 与作には見せたことのない艶のある笑みを浮かべ、幸子は次三郎を衾に誘い、その胸元に手をかけた。
 その時だった。
 ばたん、と屋敷と庭とを隔てる雨戸が勢いよくひとりでに開き、外から吹雪が吹きいってきた。
 きゃあ、と悲鳴を上げて幸子は次三郎にとりつく。次三郎は幸子を抱きしめ、吹雪の奥に目を凝らす。
「大丈夫。何もいない」
 落ち着き払って次三郎は雨戸を閉め、その晩も二人は逸楽に耽った。
 が、翌日、米蔵がひっくり返るような悲鳴が上がって二人は飛び起きた。行ってみれば米蔵に、足の踏み場もないほどたくさんの溝鼠が米俵という米俵に穴をあけ走り回っていたのだ。
 奇怪なことはそれだけに留まらなかった。ネズミの騒動が治まったかと思うと厨に黒光りする虫が発生して野菜を食らいつくし、母屋の中はというと、義母の部屋を数多の足を持つ虫が何匹も走り回って夜中に家を騒がせた。それが何日も続くと、あの気丈な義母が床から起き上がれなくなってしまった。その義母の枕元や体の上を黒い虫なり足の多い虫なり、時には鼠が運動会とばかりに走り回る。寝不足の義母はすっかりやつれはて、家人をつけて追い払わせても埒が明かないものだから、まだ虫の出ていない離れに寝所を移したが、今度はその離れ中が毎晩大騒ぎとなり商いにも支障をきたすようになりはじめた。
 そんな中でも幸子と次三郎の二人は夜をあけず身体を重ねあい続けていた。枕元を何が走り抜けようが、冷たい何かが肩を掴んだ気がしようが、二人一緒ならば見えない快楽の小部屋に閉じこもることができたのだ。
 母屋や離れを蝕んでいた虫の害は、やがて与作が大切にしてきた米を商う店にも現れた。ある朝、家人が店の戸をあけて掃除にでると、店の壁にびっしりと蝸牛が張りついていたのだ。慌てて家人を総動員して蝸牛をはがしとったが、その騒ぎはついに村人たちの目に触れるところとなり、その日を境に米を商っていた大鳥家にはぱったりと注文が来なくなってしまった。
 店を切り回す義母は死も間近とばかりに憔悴しきり、仕方なしに店の番頭は幸子に相談を持ちかけたが、幸子は任せるといったきり次三郎と共に昼間から奥座敷に篭ってしまった。店に雇われている者とて、こうもあからさまに次三郎と連れ立って隠れられては二人の仲を見咎めずにはいられない。番頭は「主人が亡くなってからのこれらのことは、お二人の人道にもとる行為に起因する祟りではないか」と膝をつき合わせて幸子と次三郎に諭したが、二人はお互いしか見えていないかのような目ではいはいと頷くだけで、説教が終わるなりまた二人で奥座敷に隠れてしまう。その奥座敷からも真夜中に度々悲鳴が聞こえるようになっていた。どうしたのかと家人が飛んでいっても、襖の隙間からなんでもないと乱れた着物の胸元を合わせて幸子が追い返す。
 そんなことが続くうちに、与作が死んで一月もしないうちに店は傾き、番頭をはじめ家人はみんな家を飛び出していってしまっていた。それでもむしろ二人は人目を気にせず朝から晩まで睦みあえることに悦びを見出していた。たとえ与作の右手が肩にかかっている幻影が見えようが、鏡に映った幸子の背後に恨めしげな与作が映っていようが、次三郎と抱き合う最中、天井に与作の顔が見えようが、幸子は次三郎の体を手放すことができなかった。
 恐ろしくはあったのだ。たとえそれが自分の良心の呵責が見せる幻覚だと思ってはいても、与作の姿は日を負うごとに明瞭になっていく。ことに及ぼうとするといつも肩に置かれる手も日に日に重みを増し、冷たさを増していく。
 その日、何度目かの与作の幻影を見た気がした幸子は、たまりかねたように次三郎の体を横に押しやった。
「どうした?」
 心外そうに次三郎が顔をしかめ、再び幸子に覆いかぶさる。
 途端、どんっと雨戸が外から内へと押し倒され、吹き込んできた雪混じりの風に部屋を仕切る襖という襖がばたんばたんばたんと開かれていった。先には床に伏せたまま動かない義母の生気のない顔や、仏間のもう何日も開かれていないはずの仏壇が大きな音をたてて開く様が見えた。さすがに二人はぎょっとして互いに身を寄せ合う。
「今日は……」
 火のない囲炉裏のある居間の柱にくくりつけられた、これまたもう何日もめくりとられていない日めくりの紙が風にはためき、睦月の二十六でぴたりと止まった。
「四十九日だ」
 はっとした幸子は肩に着物一枚を引っ掛けて、向かいから吹き付ける吹雪の中、腕で顔を守りながら裸足で庭に飛び降りた。唇を引き結び、昔、与作と二人で植えた松の前に仁王立つ。待ちかねたように、松の木は左右に大きく揺れたかと思うと、何かに引き抜かれたかのように文字通り根こそぎ横倒しに倒れた。
 その根の合間からごろり、と何か転がり出たものがあった。
 幸子は表情を変えずそれを見下ろした。
「ひぃっ」
 悲鳴を上げたのは幸子を追いかけてきていた次三郎だった。
「そ、そ、それは……」
 二人の目の前でゆっくりと大地を離れ、目線の位置まで浮かび上がってくるそれを指差して、次三郎は二歩三歩後ずさると雪の上に尻餅をついた。
 それは生気のない土気色をしていたが、五本の節くれ立った指も肉厚な甲も生前のままだった。
「与作さんの右手」
 幸子は呟いた。その呟きを待っていたかのように、肘から下だけの右手は幸子の横をすり抜け、ぐぁばりと指を広げると次三郎の首にぴたりと吸い付いた。
「ひっ、ひぃっ、ぎゃ、ぎゃぁぁぁぁぁっっっ」
 次三郎の断末魔の声を聞く幸子の頭から、にゅぅっと二本の太い角がのびる。可憐だった唇は両端が裂けてゆき、犬歯がずるりと上に下に伸びた。その合間から細長い舌がざらりと自分の唇を舐める。釣りあがっていく目は血走り、赤く輝く。
「与作さんはいつでも私を守ってくれた。与作さんはいつでも私の味方。ね、そうでしょう、お義母さん」
 騒ぎの大きさに、さすがに床から転がり出た義母は、畳に這いつくばったまま唖然と幸子を見上げた。
「お、鬼……? 鬼だ……鬼だぁぁっっ」
 それは悲鳴だったのか、誰かを呼ばう声だったのか。
「鬼? さあ、誰のことかしら。人の両親の死に様を罵り、人のことを財産目当てだと罵り、果ては息子を殺したと糾弾し、かと思えば義弟と交わり亡夫の子として跡継ぎを為せと脅した業つくばりな女のことかしら」
 義母の前に立った幸子は、うっすらと口の端に笑みを浮かべて恐れおののく義母を見下ろした。
「あなたも大鳥家に嫁いできたものでしょうに。この家の財産は、あなたに流れる血を持つ人々が築き上げてきたものではないでしょう。あなたも私と同じ。夫の財産を受け継いだに過ぎないのに、どうして全てが自分のものだと思い込めたのかしら」
 幸子は義母の前にしゃがみこむ。
「いつか勘違いしてしまうくらいなら、私は大鳥の血を引いた子などいらない。この家の財産も何もいらない。ね? だからみんな食い潰してあげたの。疫病神? お義母さんと私、どちらが疫病神かしら。鬼? お義母さんと私、どちらが鬼かしら? さあ、答えてください。誰が私をこんな姿にした?」
 幸子は左手で自分の右手をへし折り、ねじ切ると、宙に浮いていた与作の右手を自分の右の手に付け替えた。
「せめてもの孝行です。あなたのかわいい息子の手であの世に逝かせて差し上げましょう」
 右手を広げ、枯れ枝の集まりのような義母の首を軽く握る。義母の口からは白い泡がこぼれ出る。
「そ、そ、その手は、本当、に……?」
 ともすれば白目をむきそうになる義母が、最後の力を振り絞って幸子の右手に据えつけられた血の気ない手を見つめた。
 幸子は笑みを深くする。
「与作さんの手よ。葬儀が終わった夜、次三郎に抱かれた夜、鋤とのこぎりを持って私、与作さんのお墓に行ったの。それから四十六日、二人で植えたあの松の木の下に埋めて、ずっとこのときを待っていた。ずっと、ずっと。ずっと、ずっと……与作さんが止めるのも聞かず、私、鬼になった」
 嗤う口元とは裏腹に、ぼろぼろと幸子の目から涙が零れ落ちはじめた。
「途中で何度もやめようかとも思ったけど、その度にあなたは心無いことを私に言って思いとどまらせてくれた。本当に、本当に、なんて酷い人。こんなに憎いのに、与作さんを産んだ人だなんて、本当にあなたはなんて酷い人なんだろう」
「あ、あ、あ、あたしはただ……」
「ただ?」
 幸子はぐっと右手の指に力を込めた。どくり、と最後の足掻きとばかりに老婆の頚動脈が脈打つ。憎しみを掻き立てる生の証。さらに幸子は指に力を込めようとした。が、なぜかそれ以上力が入らない。
「なっ、どうして?」
 自分の左手も老婆の首にかけるが、右手が左手の力さえも撥ね退ける。
 幸子は体内の血が頭から一気に下り落ちていくのを感じた。
 与作さん、味方ではなかったの? と。
 それを見て、息を吹き返した老婆がにやりと笑った。
「ざまを見ろ」
 低い呪詛のようなその言葉に、瞬間幸子は我を忘れ、与作の右手ごと口から伸びた牙で老婆の首を噛み切っていた。
 口を離す。
 唇からどろりと血と唾液が糸を引いた。
「ああ、ああ……」
 頭の中でしてやったりと鬼が微笑んだ。
 その一方で、幸子の口からは悲しい響きを含んだ喘ぎ声が断続的に漏れていた。
 ごろり、と首を噛み切られ、いまだ血を噴く老婆の体が畳の上に転がった。その首にはいまだ母を守ろうとした与作の手がしがみついている。幸子はぼたぼたと血なのか何なのか分からない黒い液体が滴り落ちる右手の傷口を左手で押さえた。
「はは、あははははは、はははははは……」
 喘いでいた口からは、やがて意味もない笑いが吐き出されはじめる。
「あははははははははははは。はは」
 不意に、その口に何か冷たいものが張りついた。
「んっ、んんんっ、んんーっ」
 義母の首に張り付いていたはずの与作の手だった。
 冷たい手。
 生前はあれほど温かく私を守ってくれたはずの手だったのに。与作の体の中で一番大好きだった手だったのに。何度も私に触れてくれた手だったのに。
 だからこそ、残したのに。
 もう、私のことは守ってくれないの?
 左手で引き剥がそうとしても、牙を剥こうとしても、その手はとれなかった。
 苦しい。苦しい、苦しい。
 息苦しさからもんどりうって幸子は畳に転がり、さらに悶え転がる。
 翌朝、朝日が昇ると共に心配になって戻ってきた番頭が見たのは、人が住まなくなって十年は経ったかと思われるような荒れ家と、次三郎、老婆の亡骸、それから右手を象る白い骨だった。
 そこに、夫の喪が明けたばかりの未亡人の姿はどこにもなかったという。


 後日。
 姑との折り合いに泣かされていた、とある家の嫁が堪えきれずに幼子を残し、ついに家を飛び出した。刻は子の刻。丑の刻参りでもしてやろうかと女は神社の境内へ向かったのだというが、あくる朝、女は粛々と家に戻ってきた。
 その女が井戸端に集う他の家の女たちに語るには、家出をした晩、身も竦みあがるほど恐ろしい鬼の姿をした女に諭されたのだという。
 女は死ぬも一人。生きるも一人。
 と。




〈了〉







書斎 管理人室

  201002150116