縁期暦紀 巻ノ三

常盤松 ―袖引き小僧―




 一里塚。
 それは江戸時代、大きな街道の両側に一里ごとに土を盛り、常緑樹を標に植えて遠路を行く旅人たちに供されたささやかな休み処。人々は雨に降られた時、歩き疲れた時、その一里塚の木の下に腰を下ろし、緑樹の陰で疲れを癒してまた旅立っていった。
 その一里塚に植えられた木の多くは榎であったというが、中には松を配していたところもあったという。
 常緑の松。
 冬になってもけして葉を落とすことなく、一年を通して緑の針葉を外に向かって張り出しつづけるあの松の木。
 そのとある松の下。幾千もの旅人を見送っても尚旅立つこともままならず、ただ一人の迎え人を待つ童の姿があった。








 見上げると、厠の窓は開いていた。
 その向こうからは、工場の中ではけして拝むことのできない五月の光が、眩しいくらいにこの暗がりの中に差し込んでくる。
 五月にしては気温の高い日だった。
 下からのぼりくる臭いを外に出すために、いつもは錠までかけられている窓がこれほど大きく開け放たれているのだから。
 それでも臭いことには変わりない。大きく窓を開けているものだから、誘われて小うるさい蝿どもが一匹、二匹、三匹と限りを知らず羽音を立てて入りこんでくる。
 あの工場の中とどっちがひどい臭いだろうか。
 臭いだけなら質は違えど判定はできかねる。
 ただ、工場の中は蚕が死にゆく臭いで充たされているのに対し、ここはとうの昔に死にはてた何も生み出さぬものの臭いで充ちていた。
 その分、ここの方がまだましなのかもしれない。
 暑さも湿気も工場の方がよほどひどい。
 朝から晩まで熱湯をはった大釜が工場の向こうまで向かい合わせにいくつも並び、その大釜一つ一つに一人ずつが向かい合い、繭に籠った蚕を湯がいて私たちは糸をとる。
 立ち上り続ける湯気は天井で冷やされて、冷たい雫となって頭に項に肩に落ち、束ねた髪を、ボロ布と化した作業着を否応なく濡らして徐々に身体を冷やしていく。
 細く。もっと細く。
 そんなに太くて異人に売れるか。
 切るなと言っただろう。何度言わせれば分かるんだ。
 だって、細く細くと言うから切れるんです。
 そこを切らずに細い糸を紡ぎだすのがお前たちの仕事だろう。
 管理の男はこっちの気も知らずに怒鳴り散らす。
 言い訳は無駄だった。
 下手をすると鞭を喰らうことになりかねない。
 この間、それでふらついた娘が熱湯の入った大釜を倒し、二度と工場に来れなくなったこともあった。
 心を殺し、神経をすり減らし、数多の蚕を生きながら熱湯で湯がいて細い細い糸を取る。
 私はこの工場の機械の一部。終日自分にそう言い聞かせながら。
 だけど、どうだろう。
 機械はこの窓から差し込む光に感動するだろうか?
 光降る外に出たいと願うだろうか?
 あの工場に、もう二度と戻りたくないと、拒むだろうか。
「何が百円工女だ」
 薄暗い厠の中、久しぶりに発された私の声は低く掠れ、年頃の娘のものとも思えないほどひどくしゃがれていた。
 百円あれば家が建つ。
 だからどうした。
 いつまでたっても百円なんてもらえやしない。
 糸が切れる度に賃金から差し引かれ、手を差し出したって手の平に銭が乗らないこともある。
 せっかく出される白いご飯だって朝から晩まで働き疲れてしまっては食べきれず、漂う匂いすら恨めしいと思うこともある。
 夜、電灯が消えて眠りにつこうと思っても、同性で欲望を充たそうと布団の中に伸ばされる手に怯えるときもある。
「おかしい……狂ってる……」
 慣れっていうのは盲目になることなのかもしれない。
 自然の光を浴びてると、自分がどれだけ歪んだ世界に落とされていたのか見えてくる。
 手の平にはここに来るときにはなかったはずの数多の切り傷と火傷のあと。皮すらも以前より厚くなってまるで男の手のようだ。
 そりゃ熱湯に指を突っ込んだのは一度や二度ではなかったのだから仕方がない。細い糸をこよるためにすりあわせ続けたのだから仕方がない。
 工女になる娘を探して村々を回り、私の家にもやって来たあの募集人の男はなんて言ってたっけ?
 黒白の機械の写真を自慢げにちゃぶ台の上に広げて、どうだい、すごいでしょ。外国から取り寄せた最新式だよ。お嬢さんはね、この最新の機械の前にいて、たまに機械の具合が悪くなったときにちょっとそこらを小突いてやるだけでいいんだよ、って。それだけで百円、毎月もらえるようになるんだよ、って。
「それがほんとなら、あの機械は全部朝から晩まで壊れっぱなしってことじゃないか」
 とんだポンコツもあったものだ。
 いっそ全部最新式に替えてやれ。
 あの写真は一体いつの最新だったんだか。
 錆びて水垢まみれのあの大釜は、私がここに来てから約一年、一台たりとも新しいものに替わったことはない。
 いや、どんなに最新式だって私たちの手を煩わすことになるに違いない。どこの工場からも工女がいなくなったという話は聞かないから。
「うっ」
 工場で私の帰りを今か今かと待ちわびているはずのあの大釜を思い出した途端、私の胃は容赦なくひきつった。
 もう一度、窓から差し込む光を見上げる。
 向こうには、極楽が待っているような予感がした。
 逃げ出したらどうなるか。
 先輩同輩後輩問わず、試みた者は多い。
 そして、そのほとんどがすぐに見つかって連れ戻されるのだ。
 あわよく生まれ故郷に辿りつけたとしても、翌日には迎えの男が馬を飛ばしてやってくる。ろくに字も読めないくせに署名しろと言われて百円欲しさに素直に名前を書いたあの違約金支払いの証明書を持って。
 逃げたら家に迷惑がかかる。
 百円工女で家族みんなに左団扇な生活をさせてあげるはずが、家のみんなを何倍何十倍もの借金で押しつぶしてしまうことになる。
 ない袖は振れない。家にはそんなお金、あるわけない。あったら私はここには来ない。
 でも。
 だけど。
 鼻を突く刺激臭。
 ここは嫌。
 工場の蚕の繭のあの匂いは、もっと嫌。
「あそこは地獄だ」
 目を灼かんばかりの光の眩しさに顔を上げたとき、私は上半身を開け放たれた窓にねじこんでいた。








 もう気づかれただろうか。
 まだ厠にいると思われているだろうか。
 いや、さすがにもう気づかれた頃だろう。
 真っ直ぐにのびる大街道。
 来る時に通ったその道の端を、私は生きた心地がしないまま、ただ北へ北へと走っていた。
 お腹がすいた。
 せめてお昼ごはんを食べてから逃げ出せばよかった。
 お昼の後でもまた厠に行く機会はあっただろうに。
 もう少し頭が回ればよかったと今更悔いてももう遅い。
 今戻ってもすぐにご飯にはありつけまい。下手をすると二、三日抜かれかねない。こんな状態でまたあの工場に閉じ込められるくらいなら、今ここでのたれ死んでしまったほうがどれだけ楽になれることだろう。
 それに、逃げ出したはいいが、真っ直ぐ家に帰るわけにもいかない。帰ったとしても私に食べさせる飯はないと追い出されるかもしれない。
 それを思えばご飯が出る分まだあの工場の方がましだったのだろうか。
 どっちがよかったのかなんて、もう分からなくなっていた。
 厠の窓から差し込む光は救いの手を差しのべているように見えたのに、今頭上に遮るものなくある太陽は、責めるようにその光で私を突き刺す。地上から立ち上る陽炎は、視界が揺れているのか足元が揺れているのかわからなくして余計私の足元を狂わせる。
 来るときは希望に満ちた少女達とにぎやかに歩いてきたはずなのに、気持ちが違えばこうも見知らぬ道に見えるものだろうか。
 一里一里がやけに遠い。
 さっき通り過ぎてきた榎の下で休んでくればよかっただろうか。
 でももう引き返すよりも先に向かったほうが早いかもしれない。何より追っ手がどこまで迫ってきているか分からないのだから、休む前に捕まってしまうかもしれない。
 きっともう少しだ。
 もう少し行けばまた一里の木陰がある。
 追っ手から姿が見えないように私を隠してくれる大樹の陰が。
 工場を出るときは濡れていたはずの手ぬぐいは、頭に被っているうちにすっかり日の光にあてられて乾ききっていた。そうでなくても擦り切れていた草鞋は鼻緒の部分が藁一本にまでなっていた。これが切れたら裸足で歩くしかない。その前に私が動けなくなるのが先かもしれないけれど。
 ふと、先に緑の木陰が見えた。
 待ちわびた一里の塚。
 私は最後の力を振り絞って、前のめりになりながらその木陰へと転がり込んだ。
 期待した榎の葉が風にこすれあうようなさわさわとした音は聞こえなかった。
 ただ、どこからか水の流れる音と青臭い松の匂いだけがおりてくる。
 懐かしい香りだった。
 実家の裏には防雪のために植えられた松の大木が幾本も伸びていたものだった。庭にはおじいちゃんがよく手入れしていた形のいい松の木。
 その下にはこんな風に茶色くなって落ちた松の葉が絨毯のように敷き詰められていて、あちこちに丸こい松ぼっくりが転がっていた。
 ここでいいのかもしれない。
 ここなら、懐かしさに安心して身体をのばすことができる。
 ひび割れた松の幹に背をもたせ掛けて、私は手足を伸ばして空を見上げた。
 追っ手から少しでも身を隠そうと私は太陽にも背を向けている。
 求めた浄土はどこにもなかった。
 ただ現実が同じ辛さで続いている。
 行き先を見失った分、今の方が心もとなさに不安が募る。
 何故、逃げ出してしまったのか。
 何故、何度も振り払ってきたはずの誘惑を今度ばかりは振り払うことができなかったのか。
 あまりに疲れすぎていて、手で頭を抱える気にもならなかった。
 ただ空を見上げて思うことは、もう一度立ち上がれるだろうかということだけ。
 後ろにのびる道を前に進むのか、後ろへと引き返すのか。あるいは目の前の茂みを突っ切って、どこへ着くともわからない方向へとがむしゃらにつき進んでみるのか。
 逃げ延びたいのかすら分からない。いっそ捕まるのを待って連れ帰ってもらったほうが楽かもしれない。
 ああ、いずれろくな考えが浮かびやしない。
 ため息を吐き出したときだった。
 だらりと伸ばした左手の袖を、遠慮がちに何かが引っ張った。
 一瞬気のせいかと私は思う。
 けれど、それはもう一度、ゆっくり私の袖を引っ張った。
 つられるように私は左に首をめぐらせる。
「あ……」
「あ…っ…」
 その子はくりくりとした目を大きく見開いて嬉しさでいっぱいの声をあげた。そして私は知らぬ間に袖が触れ合わんばかりの場所にいたその存在に驚きの悲鳴をあげた。
 五、六歳くらいの男の子だった。
 あどけない顔には、やんちゃなのかところどころ泥がこびりつき、頬には幾筋もの擦り傷が走っている。着ている着物は脛が出るほど短くて、とうに元が何色だったのか分からないほど色褪せていた。
 だけど、顔だけは期待に満ちて輝いていた。
「お姉ちゃん……!」
「……え……?」
 黒い瞳にひきつった私の顔が映っている。
 しかし、男の子は気にもならなかったらしい。
「ぼくだよ! 祥太だよ、お姉ちゃん!」
 祥太と名乗った男の子は私の前に回りこみ、落っこちそうなほど潤んだ目を輝かせて私を覗き込んできた。
 戸惑う私は声も出ない。
「迎えに来てくれたんでしょ、お姉ちゃん」
 迎えに来た?
 まさか。
 私はただ逃げ出してきただけだ。
「約束したよね? すぐに戻ってくるから、いい子でこの木の下で待ってなさいって。僕待ってたよ。ずっとずっと、お姉ちゃんが迎えに来てくれるの待ってたよ! ちゃんといい子で」
 その目は逃れられない強さを持っていた。
 希望と期待に縋りつきたくて、私まで呪縛に陥れる目だった。
 私は息ができなくて、思いきって顔ごと目をそらした。
 確かに私には弟がいる。下から二番目の弟なんか、今年この子と同じくらいの歳になるはずだ。
 でも、私はこの子を知らない。
 迎えに行くという約束など、尚のこと知るわけがない。
「お姉ちゃん……?」
 泣きそうな声が耳に染みてきた。
 視線だけ戻せば、その子は今にも泣き出しそうなほど顔を歪めている。
 面倒な子に捕まってしまった。
 不安と空腹感でいっぱいの私には、この子の人探しに付き合ってあげる余裕はない。
「私は……」
 しかし、人違いだと言う間もなくその子は遮るように口を挟んだ。
「あ、お姉ちゃん、お腹すいてるんだね? 喉も渇いてるんでしょ? ちょっと待ってて、今お水汲んできてあげるから」
 明るい声で微笑みかけると、その子は茫然としたままの私をおいて竹筒を片手に目の前の茂みに飛び込んでいってしまった。やがてすぐに緑の葉っぱを頭につけて戻ってくると、私の前に透明な水をなみなみと湛えた竹筒を差し出した。
「向こうに泉があるんだ。とっても甘くておいしい水が湧いているんだよ。もっと飲みたかったら言ってね。僕、いくらでも汲んできてあげるから」
「あ……りがとう……」
 喉の渇きとその子の迫力に負けて、私は竹筒を受け取り口をつけた。
 甘い。
 そう感じた瞬間、私は我を忘れてそれを飲み干した。
「もっと?」
 聞かれて私は悩む間もなく頷いた。
 その子はまた竹筒を持って茂みへ入っていこうとする。
 その背が緑の木陰に消え入る前に、私は松の幹伝いに立ち上がってその子を呼び止めた。
「待って。私が行ったほうが早いから場所を教えて」
 とてもあの細い小さな竹筒二杯分ではこの渇きは癒されない。一度潤うことを知ってしまうと、充たされるまでほしくなる。その度に弟でもない、今会ったばかりのこの子を使いに出すのは気が引けた。
 が、その子は一瞬表情を硬くしたかと思うとすぐに激しく首を振った。
「いいよ、いいよ。だってお姉ちゃん疲れてるでしょ? ゆっくり休んでて。すぐにもっと水汲んでくるから」
 追いすがる間もなく、その子は言葉通りすぐに戻ってきて私の前に竹筒を差し出した。
 三杯、四杯、五杯。
 祥太は嫌な顔一つせずにわたしの元に水の入った竹筒を運び続けた。
「ありがとう。もういいよ」
 五杯目にもらった水を半分ほど飲み干して、私はようやく一心地つく思いで顔を上げた。
 満足げに私を覗き込んでいた祥太は、今度は帯の中から手の平ほどの小さなちり紙のおひねりを取り出す。
「お姉ちゃん、手出して」
 言われるままに差し出した手の平に、祥太はおひねりを解いて白くて小さな棘がたくさんついた可愛らしいものをぱらぱらとまいた。
「金平糖……」
 久しぶりに見るお菓子だった。
 それも、実家は勿論工場でもなかなかお目にかかることのできない高級なお菓子。
「どうして?」
 思わず口を突いて出た言葉に祥太は不満そうな顔をする。
「どうして、って、お姉ちゃんが持たせてくれたんじゃないか」
「私が?」
 いや、正確には私ではないのだけれど。言いなおす間もなく祥太は口をへの字に引き結んで何度も頷いていた。
「そうだよ。これでも食べていい子で待ってなさいって言ったじゃないか。全部食べ終わる頃には戻るからって」
 見る間に祥太の目には涙が浮かびあがる。
「もしかして僕がもったいながって全部食べなかったから迎えに来てくれなかったの?」
 真摯な目は否定を望んでいた。
 私はもう一度、自分はあなたのお姉さんじゃないと言おうとして、その目のあまりの真剣さに言葉を飲み込んでしまっていた。
 そして首を。
 振っていた。
「そんなんじゃない」
 どうしてそんな言葉が口から転がり出てしまったのだろう。
 でも、そう言わなきゃならないような気がしたのだ。
「そんなんじゃないんだよ」
 お姉ちゃん、お姉ちゃんと呼ばれるうちに、ほんとにそんな気になってしまったのか。それとも水を持ってきてもらった恩義からか。
 束の間ならば、とどこかで自分に言い聞かせて私は祥太に腕を伸ばし、いがぐり頭をぐりぐりと撫でた。
「祥太も一緒に食べよう?」
 工場にいたときにはそんなこと言う気にもなれなかった。自分の分け前を死守するのに精一杯で、盗られないように盗られないようにと、そればかり考えていた。周りがそうだったから、どんどん自分も同じように染まっていたのだ。それが常識と思えるほどに。
 祥太は嬉しそうに人懐こい目で私を見上げる。
「僕ね、ほんとはお姉ちゃんが戻ってきたら帰り道、一緒に食べようと思ってとっておいてたの。金平糖。だって、お姉ちゃん大好きだったでしょう? なのに僕に自分の分まで全部くれて……。だからね、」
 私は金平糖を一つつまみあげ、祥太の手の平に落としてやった。
 そしてもう一つつまみあげる。
「じゃあ、ようやく一緒に食べられるね」
 私は白い金平糖を口にして笑いかけた。
 甘くとろける蜜が口の中に広がっていく。舌の奥でそれは確かなものとなり、ざらざらした感触は次第に丸くなって消えていく。
 ほぐれた私の顔を見て、祥太も白い金平糖の粒を口に放り込んだ。
 大きな目がさらに丸くなって、すぅっと眇められる。
「おいしいね」
 その一言には、まるで何百年かぶりにものを味わったかのような感慨がこもっていた。
「ほんとに、おいしい……」
 噛みしめるように俯いた祥太の目からは大粒の涙が零れ落ち、色褪せた着物を濡らしていく。
「ほら、まだまだあるからもっと食べよう?」
 私はその顔の前に手の平いっぱいに転がる金平糖を差し出した。
 けれど祥太は首を振る。
 振り落とされた涙が金平糖に降りかかる。
「お姉ちゃん」
 掠れた声が心細げに震えた。
「なあに? どうしたの?」
 金平糖の甘さに癒されたのか。重苦しかった私の心は表情ともども氷解し、ほの温かな気分で実家の弟にそうするようにいがぐり頭を胸に抱き寄せた。
「お姉ちゃん」
 祥太はもう一度涙にくぐもった声で私をそう呼ぶ。
「来てくれて、ありがとう」
 私のぬくもりを確かめるように、一度頬が押し当てられた時だった。
 祥太は私の腕の中からいなくなっていた。
「祥太?」
 急に寂しくなった腕に私は辺りを見回す。
「祥太?」
 頭上には年月重ねた深い緑の針葉が風に吹かれて白い光をちらちら遮る。背後には南北にのびる大街道をのんびり牛追い歌を歌いながら歩くおじさん。目の前の、あの子がよく出入りした茂みは今はこそとも動かない。
 ふと気がつくと膝の上にはあの竹筒だけが落ちていた。
 いや、普通なら一目それを見て竹筒とは思わないかもしれない。
 あの子の着ていた着物と同じようにつやめく竹緑の色は失われ、筋に沿って皮が剥げ落ちけばだっていたのだから。
 そして、拾い上げようとした瞬間にそれは砂のように崩れ落ちて形を失っていった。
 残されたものは、手の平で転がる真白い金平糖ただ一つ。
「前田ーっ!! 前田きわーっ!!」
 静けさは突然の怒声に切り捨てられた。
 名前を叫ばれて私の身体は凍りつく。
 蹄の音は真っ直ぐに私に近づいて来た。
「見つけたぞ。こんなとこまで逃げていたのか。全く手間かけさせやがって」
 大きな影が私を取り込む。
 ぼんやりしたまま私は顔を上げた。
 その男は工場内でよく見かけるやや年嵩の男工だった。
「前田きわだな?」
「……はい」
 私はおとなしく頷く。
「工場に戻るな?」
 そう聞かれて、私はゆっくりと男から視線を外し、もう一度辺りを眺めた。
「ここに男の子がいたんです。五、六歳くらいの小さな男の子。祥太って言うんです。知りませんか?」
 ほんのひととき弟のように思っただけだったのに、私の心はぽっかりと埋めるものがなくなっていた。
 私が動く気がないとでも思ったのだろう。男は馬から飛び降りて私の前に立った。
「あんた、袖を引かれたか?」
 だが、かけられた声は意外に優しかった。
 男は松の梢を見上げている。
「引かれ……ました」
「そいつは袖引き小僧ってんだ。逃げてここまで来た女工は何もあんただけじゃない。この木の下で休んでた女工もな。だがね、誰もその姿みた奴はいなかったよ。くいくいって袖を引っ張られるから振り返ってみる。だが誰もいなくてまた前を向く。それでもまたしつこく何度も何度も袖を引っ張られる。いい加減気味悪くなってこの木の下から出てきたところを、おれらに捕まる」
 皮肉な笑みを浮かべて男は私を見下ろし、私の手の平に残った金平糖に目を留めた。
「あ、これは……」
 取り上げられちゃたまらない。
 慌てて全部口に放り込んでしまおうとした私の腕を、男は掴んだ。
「それは大事にとっときな。あいつからの置き土産なんだろ? おれも昔一つもらったことがある」
「もらった?」
「若い時、あの工場に来るときにな、ここで休んだんだ。そのときあいつにおれも袖を引かれた。ここで休む奴は大概みんな袖を引かれるのさ。でもその姿が見える奴はまずいないんだそうだ。みんな怯えて逃げ出しちまう。だから寂しくて人が来る度にだれかれ構わず袖を引くようになっちまったんだと。ほんとに待ってたのはたった一人、この木の下で待ってろって金平糖持たして約束させた姉さんだけだったのにな。そう、ちょうど前田、あんたと同じくらいの」
 だから、たまたま見えた私をお姉ちゃんにしたかったのだろうか。
「でも、私はあの子と約束したお姉ちゃんじゃ……」
「この松の下で待ってろって言ったんだそうだ。もう、簡単に思い出せないほど大昔に。それこそ、大名行列が練り歩いてるのを見たともいってたな」
 大名行列……?
 そんな。それじゃあ、あの子は……。
「この街道じゃ珍しいだろう? 松の一里塚なんて。それに、冬になってもこの木は色褪せない。すぐに分かるからここがいいって言ったんだそうだ。その意味、分かるか?」
 私は首を振る。
 わかっていたとしても口にしたくはなかった。
 今だってそんな変わりやしない。
 開国して、外国の機械を前に働くような時代になったって、農村の家々は口減らしといわず百円工女と言い換えて私たちを工場に売り飛ばす。
 家でごくつぶしと言われるよりも少しでも家の役に立ちたくて、私たちは工場の方がましと言い聞かせて郷愁も何もかもの思いも帰れるその日まで胸に留めてただひたすら機械になる。
 江戸という時代、工場などまだどこにもなかった。農民は農村でひび割れた大地を耕し、やませ吹く夏に泣いて暮らすしかなかった。
 優しいお姉さんだったのだろう。
 あんな人懐こい目をする祥太に好かれていたお姉ちゃんは。
 どんな思いで祥太に自分も大好きな金平糖をあげたのだろう。
 どんな気持ちで必ず戻ってくると祥太に約束したのだろう。
 ここは、花を手向けに来るだけの場所になるというのに。
「泣きなさんな。あいつ、成仏できたんだろ? ようやく」
 お姉ちゃんはきっと泣きながらここをあとにしたに違いない。
 そして、結局は二度とこの松の一里塚に立ち寄れなかったのだ。
 街道でも珍しい木だっただけに、余計、迷い込んだのだと自分に言い聞かせて近づくこともできなかったに違いない。
 私は手の平に残された金平糖を一つ口に入れた。
 祥太の涙がかかった金平糖は、ほのかに塩気があって余計に甘かった。
「よかったら、ひとつどうぞ」
 積もっていった寂しさをこの人も紛らわせてくれたというのなら、きっと祥太も感謝しているだろうから。
 男は黒ずんだ太い指で小さな金平糖を一つつまみ、豪快に口をあけて飲み込んだ。
「さて、どうする? といってもおれはあんたをつれて帰るのが仕事なんだが」
「戻ります」
 目裏によぎったのは実家の幼い弟妹達。
 あの子達を路頭に迷わせるわけにはいかなかった。
「でもその前に、水を飲ませてください。この向こうにおいしい泉があるらしいんです。もう一度、工場に戻る前に」
 わたしはふらふらと立ち上がり、目の間に合った茂みを掻き分けようとした。
 だが、一歩踏み出そうとした時、男は強くわたしの腕を引っ張った。
 踏み出した足は何も踏まなかった。
 その足元からはからからからと小石が岩を下り落ちる音がする。
 ぐんと下がった身体は、かろうじて男の腕一本で支えられていた。
「あいつから聞かなかったのか? この向こうは泉が湧いてるんじゃない。ちょっとした渓谷になってるんだ」
 生きた心地もしないまま引きずりあげられて、私はその言葉にさらに戦慄した。
「あるいはお姉さんは戻ってきてたのかもしれないな。あいつはちょっと喉が乾いたものだから、水の音を頼りのそこの茂みに入り込んで転がり落ちちまったんだとさ」
 だからあの時。私が水を飲みに一緒に行きたいと言ったとき、あんなに怖い顔をしたのか。
 落ち着きを取り戻すのを待って私はさっきの茂みを掻き分けた。
 そして、あらわになった深い渓谷に残りの金平糖を一粒一粒落とし入れ、そっと何もなくなった両手を合わせた。








 一里塚。
 それは江戸時代、大きな街道の両側に一里ごとに土を盛り、常緑樹を標に植えて遠路を行く旅人たちに供されたささやかな休み処。人々は雨に降られた時、歩き疲れた時、その一里塚の木の下に腰を下ろし、緑樹の陰で疲れを癒してまた旅立っていった。
 その一里塚に植えられた木の多くは榎であったというが、中には松を配していたところもあったという。
 常緑の松。
 冬になってもけして葉を落とすことなく、一年を通して緑の針葉を外に向かって張り出しつづけるあの松の木。
 そのとある松の下。今日も多くの人が立ち寄ってはまた、何処かへと旅立っていく。




〈了〉







書斎  読了 管理人室