縁期暦紀 巻ノ六

一生一魂  ―八百比丘尼―



 ええ、わたくしの話が聞きたいと? そんな。もう巷には溢れておりますでしょう。不老長寿となった女の話など、今時ニュウスペイパアの小説のネタにだってなりはしませんわよ?
 ああ、まあ、そうですわね。学術的に妖怪を研究なさっているというのであれば、小説のように絵空事も含めて面白く膨らませたお話では資料になりませんでしょう。
 八百比丘尼伝説が残る地域を訪ねたことがあるのかどうかだけでも教えてほしい、と。それは……全てを今すぐに思い出すことは不可能ですわね。候補となっている地名を載せた地図でも出していただければ、少しは思い出すこともあるかもしれませんが。
 地図が、ある? ちょっと見せてくださいまし。まあ、まあ、懐かしいこと。この小船火こふねびの港で、わたくし生まれましたのよ。肌白く、唇の赤い玉のような赤ちゃんだったと乳母は申しておりました。まあ懐かしいこと。いいわね。もう一度、行ってみたいわね。
 え? ああ、そうなんです。わたくし、この小船火の港を離れて後は、実はまだ一度もあの場所に踏み込んだことはないのです。なぜって? なぜ、なのでしょうね。そう、行きたいとは何度も思ったのですけれど、それはやはり叶えてはいけないことなのですわ。あそこは、わたくしがまだ人間の寿命を全うしようと生きていたときに過ごした場所ですから。
 そろそろいいんじゃないかって? 何なら今からでも? 御冗談はおやめになって。大体あなた、ゴシップ記事の記者じゃないんですから。学者さんでしょう? わたくしが人間から妖に転じた経緯はもう何度も他の方にもお話しておりますし、伝承として書き残されてもおりますからそちらを御参考になさってはいかが?
 もう、しつこいわね。行きません。わたくしは決して、小船火の港にはもう二度と足を踏み入れないと……そう、わたくしは決めたのですから。
 なんとおっしゃられましても、わたくしは参りません。
 もうよろしいでしょう。あなた、わたくしを故郷に連れ帰るためにここにいらっしゃったのではないのでしょう。地図を広げられても、お話しすることなど何もありませんわ。
 何が、あったのか……ですって?
 わたくしについてお調べになっていらっしゃるなら、ご存知のはずよ。わたくしが故郷にいられなくなった理由。
 そうよ、わたくしは年をとらなくなってしまった。夫が老いて死に、子が老いて死に、孫が老いて死んでも、わたくしは若い娘のままだった。それはもう、気味悪がられるのも当たり前でしょう。怪しい呪いをしているのだと親族まで白い目で見られて、村八分にされたくない一心であの人たちはわたくしを……あら、いやだこと。八百年も昔のことなど忘れましたわ。ほほほ。その話も、その昔民話や伝説を集めて喜ぶ方にお話しておりました。どこかその辺の書物をめくれば簡単に知れることでしょう。あなたの知りたいことは、全てもうわたくしは誰かに語っております。
 なぜ語るのか、って?
 ……それは……わたくしは一人ですから。夫と子をなし、子が子をなし、その子もまた子をなし……わたくしの血縁の者はこの日本にまだおりますでしょう。でも、もう縁はなくなっているのですわ。分かりますでしょう? 先ほども、途中までお話しかけてしまったのですから。人は子をなして、未来に自分を残します。ですがわたくしはすでに人ではございませんから、子を残すことが叶わなくなってしまったのです。語るのは、きっと本能でございますわ。わたくしは、自分を残すために、皆様にわたくしを語って聞かせ、わたくしを残してもらっているのです。この地図の、ここの峠も、ここの橋も、ここの田んぼも、全てわたくしの足跡。わたくしの生きた軌跡でございます。そしてわたくしは今、ここにいる。
 ね。十分でございましょう。もう、お帰りくださいまし。わたくしの口は、すでにわたくしの全てを語りつくしております。
 ……ほほ、なんですって? わたくしも、八百年生きておりますが、相変わらず堪忍袋の緒は短いんですのよ。わたくしが人だった時の話を聞きたい、と? わたくしが八百比丘尼と呼ばれる前の話を?
 聞いてどうなさいます。わたくしが人だった時の話を聞いたとて、妖怪の研究の足しにはなりますまい。
 ああ、なるほど。わたくしがなぜ妖に転じたのか、それが知りたいとおっしゃるのですね。それもすでに五十年ほど前に民話収集家に話しておりますわ。父が庄屋の家から土産に供されて持ち帰った肉を、人魚の肉とは知らずに食べたのです。よくご存知のお話でしょう?
 え、違う、と? 違うはずだ、と?
 …………お帰りくださいまし。お話しすることは何一つございません。いいえ、違います。それが真実なのでございます。わたくしは肉食べたさに、父の隠した肉を壷から取り出し、かぶりついたのでございます。ええ、今でも覚えておりますわ。この口の周りについて滴っていく血の生暖かさ、なかなか食いちぎれなかったことも。わたくしは愚かな娘だったのでございます。親戚たちが言いふらしたように、わたくしはひもじくもない暮らしであったにもかかわらず、肉に目が眩んで人魚の肉を口にした愚か者だったのでございます。加えてその当時、わたくしは町一番の美しい娘と言われておりましたから、当然自惚れ、老いることを恥じ、恐れていたのでございます。
 本当に、わたくしはただの、愚かな娘だったのでございますわ。
 そんなことはない、と? それは別の八百比丘尼の話だ、と? ほほ、何を根拠に。あなたはわたくしのことを知りにきたのでしょう。ある意味、あなたは書物に描かれたわたくししか知らない。あなたはわたくしのことは何も知らない。知る必要もない。
 え? 人魚姫の話ですか? ええ、もちろんですわ。存じておりますとも。これだけ生きながらえますと、文字を読めなければつまらない時間しか送れませんでしたから。あの王子を殺せなくて最後に人魚の少女が泡になってしまうお話でしょう?  こう言っては難ですけれど、わたくし、あのお話が大嫌いでございました。なぜなら、わたくしなら迷うことなく一目ぼれした王子の命よりも自分の命を永らえさせることを選びますから。
 そもそも、王子に助けてもらって恋が芽生えるのならまだしも、王子を助けて恋が芽生えるというのは男女の恋愛の王道に反することでございましょう。いくら近年では女性の社会進出が目覚しいとはいえ、仕事と恋愛は別であるべきものなのです。
 おっと、話がそれそうになってしまいましたわね。何でしたっけ。年をとりすぎて、もうほんの刹那前のことですら思い出すのが億劫なのですわ。
 そうそう、なぜ人魚姫の話などを? わたくしが? 人魚姫だっただろう、と?
 まぁ、面白い方。今までわたくしを頭の弱い愚かな娘と言うものが多い中で、あなたはわたくしを姫だと? でも、同じですわね。姫がついていようが、人魚だろうが人だろうが、申し上げましたでしょう? わたくし、人魚姫が嫌いなのです。だって、あれほど愚かな娘をわたくしは知りませんもの。
 同類嫌悪? 今、もしかしてぼそっとそんなことをおっしゃいました?
 もう、本当にお帰りくださいませ。これ以上わたくしに立ち入ろうとなさるのならば、ええ、よろしいですわ。好きなだけそこにいてくださいまし。わたくしが出て行きますわ、この家を。旅など慣れておりますもの。わたくしがこの家を出ます。あなたが帰られるまで、絶対にもうここには戻ってまいりませんから。何、心配は要りません。わたくしはまだ死にはいたしません。本当、いつになったらお迎えが来てくれるのやら。あら、いやですわね。妖にお迎えなんてあるわけがありませんわね。生きながらにして外道に身を落としたわたくしに救いなどあろうはずがございません。
 それでは、失礼いたしますわ。
 ええ、さようなら。




 老婦人は、落ち着いて気品のある見かけながら、鎖付きの紫の眼鏡を首から外して持て余した感情を爆発させるようにテーブルに叩きつけた。テーブルクロスのおかげでテーブルとぶつかり合う音こそ低く小さいものであったが、眼鏡が一度跳ねたところを見ると、学者を名乗る青年はよほど老婦人を追い詰めてしまっていたらしい。それでも青年は何事もなかったように玄関へと向かい、鏡の前で羽のついた帽子を頭にのせて位置を確かめている老婦人の後ろに立った。
「小船火の港は、残念ながらこの間閉港されましたよ」
 びくり、と戸口に手をかけた老婦人の肩が震え、ゆっくりと老婦人は振り向いた。
「それが、どうしたというんです」
 口とは裏腹になぜ、と目が訴えていた。
 青年はようやく口元を緩めた。
「大丈夫。港は町人の減少で船を出せる者がいなくなり、閉ざされてしまいましたが、港の桟橋がなくなったわけではありません」
 青年の読みどおり、老婦人はほうっと長く息を吐き出した。
「もう一度だけ、誘わせていただけませんか? しつこいとお怒りならば、私がここをお暇いたします。小夜さん、私と一緒に小船火の港へ行ってはいただけないでしょうか」
 ソファから立ち上がった青年は、帽子を胸に当てて丁寧に頭を下げた。
 人間の娘であった頃の名を突然呼ばれた老婦人は、ぽかんと口を開けたあと、一度、二度と首を振り、再び息を吐き出した。
「小船火の港は遠いわね。駅に行って寝台列車の券を買わなくては」
「ええ。チケットならすでにここに」
「そう。それなら、一晩かけて聞かせていただきましょうか。あなたがわたくしの古い名を知る理由を」
 若い娘に戻ったように挑む視線の強さを真っ直ぐに受け止めて、青年は微笑した。
「私もあなたからお話をお聞きするつもりで取ったチケットです。一晩を半々に分けてはいただけませんか?」
 老婦人はゆっくりと玄関の戸を引いた。からからから、と滑りよい音を立てて、向かいの長屋に反射した朱の光を迎え入れる。裏路地には陽炎がのぼりたち、熱く蝉たちが鳴き競う。
 老婦人は額に浮かんだ汗を手の甲で拭って、体の向きを変えて振り返り、家の中を見回した。
「わたくし、結構この家が気に入っておりましたの。終の棲家にするのにちょうどよいと思って。小さなお庭に咲く朝顔、春の赤い躑躅に冬の雪をかぶった松、それから、秋の赤ちゃんの手のような真っ赤な枝垂れ紅葉。春夏秋冬、飽きずに迎えることができる家だったのよ。ここにたどり着いて、ようやくわたくしは倦むことから解放されたの。ようやく時に区切りを感じられるようになったの。そして、あっという間に頭が白くなった。顔も手も足も、肌は弾力を失って皺皺になって。それでも、もう怖いとは思わなくなっていた。ああ、年をとったなぁって。もしかしたら、人間に戻れたのかもしれない、って。つい、最近のことだったのよ。そしたら、あなたが現れた」
 待ちわびたものであればいいと、老婦人は久しぶりに淡い期待を胸に抱いていた。くすぐったくもなんともない、それは生きるための期待ではなく、終焉への期待。
「参りましょう」
 青年が外に出て、老婦人はもう一度玄関から一直線に見える庭の朝顔を愛でると、記憶にとどめるように目を閉じて戸口を閉めた。
 鍵はかけなかった。




 話を元に戻すには、一体どこからお話をしたらよいのやら。そうですね。なぜわたくしが人魚姫が嫌いなのか、そこからお話いたしましょう。お話といっても、わたくし、お話があまり上手ではないので一言で終わってしまうことなんですけれどね。
 あなたの予想するように、わたくしが人魚姫を嫌いなのは似ているからでございますわ。誰に、って、あなたが初めにおっしゃったことでしょう。同類嫌悪、と。言われるまでわたくしも気がつきませんでしたけど。でも、それだけではないのでしょうね。
 さて、人魚という生き物は、何も人魚姫の童話が生まれたアンデルセンの故郷、デンマークだけに棲息しているわけではございません。日本にもちゃんといたのです。わたくしは海女でございましたから、海胆を採りに海に潜る度、何度となく海の中で半身半魚の少女や少年たちを目にする機会がございました。おかげで、あの人魚という半身半魚の存在は物珍しいものではなく、社会においても一般的に海にいるものと認知されていると思っておりました。
 あら、ずいぶんとこの列車、揺れるんですのね。寝台なんてせんべい布団よりも硬いわ。汽笛の音も中まで響きますし。この暑さですもの、窓を閉めるわけにも参りませんし。困ったわねぇ。え、トンネルでは窓を閉めるんですの? そうでないと吐き出された炭の煙で真っ黒になってしまう? まぁ、便利な世の中になったと聞いておりましたが、まだまだ不便なことも多いものですのね。あなた、ちゃんとわたくしの声、聞こえておりまして? ああ、聞こえている。それならよかった。あまり声を張り上げて語るようなことでもございませんでしょう。たとえこれが最後と言われましても、わたくしがこれからお話しすることは語り継いでほしいことではございません。あなたが妖怪学者ではなく、わたくしの人であった時の名を知る方だからこそ、お話しようと思ったのです。論文に使えるものならば使って御覧なさい。小説に仕立てようとしたって、お粗末な顛末でしかないのですから。
 ああ、日も暮れてまいりましたわね。駅弁もおいしかったこと。やはり誰とも分からない方でも、ともに食事をする方がいるというのはよいことですわね。道のりも、まだまだですわ。日本の背骨のような山脈を登りきって、ようやくあの日暮ればかりが美しい日本海が見えてくる。ほんと、嫌なところ。あそこは何も始まらない。終わりばかりが詰め込まれた場所。小さい頃から、実はわたくし、あの小船火の港が好きじゃありませんでしたの。もっと光の透き通ったところで暮らしたかった。朱に沈んだ山と海の合間ではなく、山なら山、海なら海の光に満ちた場所で暮らしたかった。とても息苦しかったのを今でも覚えております。それでも、唯一夕暮れから宵にかけての海は好きで、何度となく母や祖母に戒められるのも聞かず、薄暗い海に小船火の港の桟橋から飛び込んでいたものです。不思議とわたくし、海の中では昼間よりも夜目が利くようで、朝や昼間海に潜るよりも、よほど多くの海胆や海、ほやなどをびくいっぱいに持ち帰ることができました。それというのも、実は人のいなくなった宵の海にはたくさんの人魚たちが竜宮から出てきて自由気ままに泳ぎだすのです。わたくし以外の者には見えてはいないようなのですが、その人魚たちに教えられて採りに行くのですもの。それはもう、面白いように採れるに決まっています。初めて人魚と出会ったのは、物心つく前だったのかもしれません。驚いた記憶も、自分と違うことを不思議に思ったこともございませんでしたから。彼らが人とは違う海の住人であることをはじめて意識しましたのは、わたくしが十五の時のことでございました。
 十五と言えば、当時ならそろそろ嫁の貰い手を決める年頃でございました。どちらかと言うと、わたくしなどは町の娘たちに比べて美しさを鼻にかけていたせいだったのか、高嶺の花と思われていたのか、なかなか貰い手が決まらず、祖母と母はやきもきしておりました。その一方でわたくしは、人並みに初恋というものをしていたのでございます。幼馴染の廻船問屋の息子に。名は……そう、弥平と申しました。ただの港の海女と大店の息子です。幼い頃は大人たちも寛大な眼で見ていたとしても、そしてたとえ相思相愛だったとしても、叶うわけがございません。それでも、わたくしたちは十になった時から、二人こっそりと将来を約束しあっておりました。
 勘のよろしいあなたならば、もう先が見えているんじゃないかしら? 所詮身分違いの恋ですもの。今のように自由も女性の人権も何も踏みにじられて当然、商家の息子なら家の繁盛に繋がる嫁をもらうのが当然の世の中でございましたから、わたくしたち、子どもの心など、大人たちが汲み取ってくれるはずもなかったのでございます。それでも、愚かなわたくしは十歳の時に交わした弥平の言葉を信じ、五年間もあらゆる縁談を拒み続け、海女として海に潜ることを生きがいにしている一風変わった少女に見えるように振舞っていたのでございます。弥平はどうだったのか、でございますか? さあ? もしかしたら、わたくしを妾として別宅にでも囲うくらいの気持ちはあったのかもしれません。などと、ただの未練がましい発想でございますね。でも、弥平は大店の息子でありながら、小さいうちから浜に下りてきて漁師や海女の息子、娘たちと隔てなく遊び、話し、接するような、弥平こそ親が眉をしかめるような子どもだったのだと思います。
 その幼馴染で初恋の男である弥平が夏の暑さに負けて床に臥せりがちになったのが、ちょうど十五の時でございました。わたくしは見舞いに行ってもなかなか中には入れてもらえず、それでも貝やほやを持って日参する毎日だったのですが、今思えばきっと、あの番頭さんに渡した貝もほやも、番頭さんの酒のつまみになっていたのかもしれませんね。それでも、今日も若旦那は床に臥せっていたよ、とか、今日は少し元気で庭を歩いたりしていたよ、とか、嘘でもわたくしはそれを聞いて安心していたのでございます。しかし、番頭の嘘にも限界があったようで、町中では若旦那は不治の病で床から起き上がることもできず、余命幾ばくもないと医者にもさじを投げられている、との噂がまことしやかに流れ出すまでに、それほど時間はかからなかったのでございます。
 十五の娘でした。数多の縁談を断り、変人と呼ばれることさえも、弥平への操を立てるためならば苦にしない、十五の生娘でございました。町中で芳しくない噂が消す術もなく流れはじめると、やがて番頭も、私が何を持っていっても門前払いするようになってしまいました。そしてわたくしは、母や祖母に相談することもできず、夜中潜りに行った小船火の港で、仲良くなっていた人魚の一人に何とか弥平を治す術はないものかと相談したのでございます。
 思い返せば、その人魚の男とは意識していないうちに二人きりで海を泳いでいることが多かったような気がいたします。周りの人魚たちが男のわたくしへの好意に気づいて気を利かせていたのでございましょうか。わたくしは、ちっともその人魚の男のことなど気に留めたこともなかったのです。それは、最もたくさん海胆や帆立、ほやが取れる場所へ案内してくれていたのは彼で、最も気を許して兄のように慕っていたところはございましたが、所詮住む世界も違えば種族も違います。何より、わたくしには長いこと想う人がいたのです。それは、人魚の男も知っているはずでございました。だからこそ、いい友人、兄貴分を演じていたのかもしれません。わたくしが弥平を助けたいと言い出すまでは。




 街灯も家の明かりも見えない急勾配を登る機関車の窓から真っ暗闇を覗き込んだ老婦人は、眼鏡を少し押し上げてふふ、と小さな笑い声を漏らした。
「そこは笑うところではないと思いますが」
 慎重に、学者を名乗る青年がたしなめる。
「いえね、陸の景色でも夜は海の底と同じ色をしていると思って。八百年、でしたっけ? 思い出すこともなかったのに、不思議ね。あれほど小匣に閉じ込めて心の海の底に沈めたはずのことが、こんなにも簡単に開いてしまうなんて。わたくしも年をとれたということなのかしら」
 青年は老婦人の正面で握った拳を膝の上におき、背筋だけは伸ばして寝台の上に座ってはいたが、顔ばかりは懺悔するかのように俯けていた。
「閉じてくださって、かまいません。ええ、もう、そんな匣の蓋は閉じて鎖で巻いて南京錠でもかけておけばいいのです」
「そんなわけにもいかないみたいよ。もう、開いてしまったもの。飛び出してきてしまったもの。十五のわたくしが。それとも、あなたが気分を害すと言うのなら……」
「いえ、続けてください」
 青年は顔をあげることなく、小さく首を振って続きを促した。
 老婦人はそんな青年の様子を怪訝しがることもなく、穏やかな表情のまま再び口を開いた。




 人魚の男はわたくしに言いました。異性の人魚の肉は万病に効く。自分は小夜の助けたい人間と同性だから自分の肉を食べても精がつくだけで大して役にも立たないが、異性の、女の人魚の肉を一かけでも食べることができれば、小夜の助けたい人間はどんな病であれ一命を取り留め、六十までは元気に生きることができるだろう、と。しかし、自分は同属の人魚の娘をお前の恋心のために差し出すことはできない、と。
 ならば、どうしたらいいのかとわたくしが問いましたらば、人魚の男は言ったのです。小夜が人魚になればいいのだ、と。自分ならば、小夜を人魚にしてやれる、と。言われるがままに、わたくしは人魚の男に体を預けました。弥平を助けたい一心で。そして、わたくしは足びれが生えることもなかったその体を引きずって、大廻船問屋の塀を乗り越え、弥平の病の床を訪ねたのでございます。弥平はまさに虫の息となっておりました。顔など、青白いなどというものではございません。もはや呪いでもかけられたかのように心の臓ばかりが動く屍となっておりました。その弥平の口に、わたくしは自分の腹の肉を一部そいで口移しに食べさせてやったのです。今でもその傷は、ほら、この右脇腹の部分に二寸ほど引き攣れて残っております。残念ながら、わたくしは弥平が目を覚まし、わたくしの名を呼んでくれる前に物音に気づいた老婆やら番頭やらに見つかってつまみ出されてしまいました。今思えば、よくもまぁ番屋に突き出されなかったものだと思います。
 弥平が全快したと聞いたのは、なぜか飲んだくれで役立たずの父の元に弥平の快気祝いの招待状が届いてからのことでした。




 先ごろまで壁越しに聞こえていた隣室の人々の話し声はいつの間にか途絶え、静寂の中、車輪が線路を転がる音と、エンジンの音と、それから調子っぱずれの鼾だけが思い出したように響き渡っていた。
「あと、どれくらいでございましょうねぇ」
「もうあと三時間くらいでしょう。小船火の駅に着くのが朝の四時半だから」
「ああ、あの薄暗い山の端から遠慮がちに覗く朝日に迎えられるわけですね」
「小船火で見る朝日はお嫌いですか」
「申しましたでしょう。わたくしが好きなのは宵から夜の小船火だ、と」
「あんなことがあっても?」
 わずかに震えた声での青年の問いにも、老婦人は揺らぐことなく表情を曇らせることなく頷いた。
「人魚の男とのことは、わたくしにとっては大したことではなかったのかもしれませんわね。今口にしたら、思っていたよりも辛くはありませんでしたもの。何より、私は好いた男を助けるために身を投げ出せるという少女じみた陶酔感に浸っていたのかもしれませんわ。人魚になったと言っても、体にうろこが生えてきたわけでも足が魚の尾びれに変形することもありませんでしたし。きっと、あの人魚の男の脅しだったのだろうと思っておりました。肉を食べさせることに意義があると言うだけのことだったのだろう、と。ですが、実際、八百年間、十五の娘のまま、わたくしは生きていたのでございますから、なんと申しましょう、人魚にも人間にも、わたくしはなりそこなってしまったのかもしれませんわね。人魚は長寿だと聞いてはおりましたが、さて、八百年、千年も生きるものなのかは聞きそびれておりました。もしかしたら、あの時わたくしにたくさんの海の幸を恵んでくれた人魚たちもまだ、小船火の港にいるかもしれませんわね」
「もしかしたら、あなたを騙した人魚の男も?」
「いいえ、それはございません。ええ、ほんとの人魚姫は彼だったのかもしれませんから」




 飲んだくれの父は、掘っ立て小屋同然の家の中央にいつも藁座を敷いて座って、徳利を掴んでそのまま口をつけてはごうごうと鼾をかいて寝ているような人でした。元は腕のいい漁師だったらしいのですが、海に落ちて鮫に足を一本もっていかれてからは、お天道様を拝むことさえ嫌って家で威張り腐って何もしないただの役立たずに成り下がってしまったのだそうです。と言うのも、わたくしは残念ながら父がお天道様の下を歩いているのを見たことがございませんでしたので、まさか大廻船問屋の大丸屋から若旦那の快気祝いの寄り合いに呼ばれたと聞いたときには、目から鱗が落ちる思いでございました。こんな人でも、町では一目置かれていたのか、と。
 ですが、それはとんでもないわたくしの勘違いだったのでございます。あの父は、わたくしの父だということで、ただそれだけの理由であの場に呼び出されたのでございます。
 何故か、と、お問いにはなりませんのね。
 若旦那の快気祝いの席では、元気になった若旦那と、先日婚礼を整えたという新妻が披露されたのでございます。
 酔っ払った父は、帰ってきてからわたくしにいかに若旦那の新妻が若く美しかったかをがなるような声で、まるで自分の妻ででもあるかのように一晩中喋っておりました。わたくしよりも若く美しい、色の白い娘だと。お前のような色の浅黒い海女なんか、足元にも及ばないくらい天女のようにきれいな娘だった、と。
 それだけならまだ、わたくしの煮えくり返った腹の中身も溢れ出さずには済んだのです。しかし、父はさらに喋り続けました。弥平がいかにその新妻を気に入り、どれだけ大切にしているのかを。すでに、その新妻の腹には子が宿っているのだと言うことを。
 わたくしは、わたくしは……ええ、そうです。とても人魚姫のように泡になることはできなかった。
 気づいたときには、小屋の隙間から差し込む朝日の下、わたくしの足元に父の亡骸が転がっておりました。母も祖母も、すでに海に潜りに行った後でした。あの狭い小屋の中です。何が起きたのか、蝋燭もない暗闇の中でよく見えはしていなくても音は聞こえていたはずです。二人は、それでも何事もなかったかのように小船火の港の海に潜って、いつものようにいくつかの海産物を市で売りさばき、残り物を持って昼に帰宅してまいりました。父の亡骸は、二人に相談するまでもありませんでした。二人は溜息をついて、茫然とするわたしの足元から父の亡骸を引き離し、土間を掘って埋めてしまいました。わたくしは急に怖くなって……とても暑い昼下がりでした。今日のように渦を巻くように蝉がじゃんじゃん鳴って、そんな林の中を抜けて、私の足は弥平の元へ、追い帰されるとわかっていても、あの廻船問屋のところへ向かっておりました。
 弥平、弥平。会いたい、弥平。結婚しただなんて嘘でしょう? 子どもができたなんて、嘘でしょう? だって、あなたが回復したのは誰のおかげだと思っているの? わたしの肉を食べて精がついて回復したのでしょう? そのわたしを差し置いて、若い新妻に夢中になっている? そんなことが、あるはずはないと……わたくしは、追い返されないように、こっそりと塀の低くなっている母屋の庭先に忍び込みました。昼間です。誰もわたくしに気がつかなかったのが意外でなりませんでした。その忍び込んだ母屋の庭先でわたくしが見たもの。ね、お分かりでしょう? 父の話は本当だったのでございます。弥平はわたくしが見たこともないほど優しく綻んだ微笑をまだ子どものような顔をした娘に向けておりました。その娘の腹は、わずかですがぽっこりと膨らみはじめておりました。その腹を、何度も何度も、弥平は愛しげに撫でるのです。そして、昼間から口付けをしては二人微笑みあっていたのです。
 分かっていたことでございました。弥平がわたくし以外の女を妻にすることなど、分かっていることでございました。それでも、わたくしは妾でもいいとさえ思っていたのに……正妻よりも愛されてこその妾を望んでいたのです。あの様子を見るに、それはもう、妾になることさえ夢に見たくないと思うほどの睦みあいぶりでございました。
 ですが、どんなに嫉妬はしましても、弥平を憎む気にはなれなかったのです。自分の肉を与えて救った命です。むざむざ刈り取る気にはなれませんでした。新妻も然りです。新妻の腹の子が弥平の子だというのなら、わたくしの肉を継いだ子も同然です。どんなに憎かろうと、父に抱いたように衝動的な殺意は芽生えることはありませんでした。わたくしは、そのまま弥平のいる廻船問屋をあとにしようとしたのでございます。父殺しの罪も打ち明けて、さっさと島流しにでもなんにでもしていただこう、と。騒ぎが起きたのは、わたくしが弥平一家のままごと図に背を向けた直後のことでございました。
 まずは新妻が悲鳴を上げました。それから弥平が悲鳴を上げて、番頭や家の者たちがなんだなんだ、とどやどや足音をたてて入ってきた直後、惨憺たる悲鳴が湧き起こりました。
 わたくしは、怖々後ろを振り返りました。
 すると、見たことのある顔の男が匕首を振り回して母屋で大暴れしていたのでございます。




「それが、あなたを騙した人魚の男だったのですか?」
 青年の問いは、疑問を呈していながらも、事実を確認するかのように淡々としていた。驚きも何も、彼にはない。
「ええ、それが、わたくしの願いを叶えてくれた人魚の男でございました。どこでどうやって人間の足を手に入れたのかは分かりませんが、彼は確かに二本足で母屋中を駆け回り、できた血の海の中で再び人魚の足に戻り、身動きがとれなくなったところをあの家の者に捕らえられ、首を切られたのでございます。そして、その肉がその晩、珍薬として重傷を負って尚まだ息のあった弥平の口に入れられたのでございます。逃げ損ねたわたくしも捕まり、異性の人魚の肉を食べると不老長寿になるという噂は本当か、と下卑た笑いを漏らす番頭たちにあの男の肉を生のまま口に詰め込まれたのでございます」
 老婦人も淡々と、目の前に蘇っているであろう血の惨劇を語った。
「人魚の男は、なぜそんなことをしたのでしょうか」
「それを、わたくしがあなたに聞きたいと思っておりました。さあ、ここまでお話したのです。今度はあなたのお話をお聞かせください」
 何事もなかったかのようにさらりと笑ってみせた老婦人に、再び青年は顔を俯け、膝の上の拳を握り締めた。
「人魚姫の話は、本当の話です。人魚の間では、誰かの幸福を願って願いを叶える手助けをした時、その願いが叶わなければ、手助けをした人魚は海の泡になってしまうのです。人魚の男は、あなたが廻船問屋の息子と結ばれることを願って、あなたに治癒力の強い人魚の特性だけを与えた。しかし、廻船問屋の息子は親の決めた許婚が病の間中も自分を支えてくれたからこそ自分の病が回復したのだと信じ、人魚の特性を得たあなたの肉を食べたことなど夢の中の椿事くらいにしか思っていなかった。それではあなたの願いが叶ったことにはならない。だから、人魚の男はさらに他の人魚の命と引き換えに人間の足を手に入れ、あなたの願いを叶えようとした。そうでなければ、自分も命を失ってしまうから。浅ましいこと、この上ない男でしょう?」
 青年は震える拳をさらにきつく握りしめて、無理やりに笑顔を作って顔をあげた。
 老婦人は、じっと青年を見つめていた。
「挙句、殺されて恋敵の男の傷薬にされてしまったのだから、笑い話にもほどがある」
「あなた……ねぇ、あなた。そういえば、あなた、あの人魚の男に似ているわね」
「そう、ですか? そんなはずはないんだけど、な……」
 思案顔の男は、自分の頬や鼻を触りながら首を傾げる。
「顔かたちのことを言っているんじゃないのよ。そうやって、自分に何か重い罰を科そうとしている生真面目な横顔が似ているのよ」
 穏やかにそう表現した老婦人に、青年ははっとしたように顔を上げた。
「そんなに、似ていますか?」
 明らかに困惑している青年に、老婦人はにっこりと笑んだ。
「そう言えば、まだあなたのお名前を聞いていなかったわね。もうそろそろ小船火の港にも着こうというのに」
「おや、もうそんな時間ですか」
 青年は懐中時計を取り出して短針の位置を確認すると、窓の外を顧みた。闇深い山の尾根を駆け抜け、頂きを越えた汽車はあとは下りばかりとブレーキの軋む音をたまに響かせながらするすると坂を下っていた。押し寄せてくる灌木の枝葉のトンネルをくぐりながら、次第にそのトンネルは黒から灰、灰緑へと色彩を取り戻していく。
「本当だ。あともう少しで駅が見えてきますね」
「そう。まだ山の中かと思った次の瞬間、目の前に海が現れるのよ。そして、まさに町を見下ろせるその場所に小船火の駅はある」
 目を閉じ、目裏に浮かんだ景色をなぞるように、老婦人は語った。青年は窓の外から老婦人へと視線を転じる。
「その身になってからは一度も帰ったことはなかったのではなかったのですか? それも、駅ができたのは十年ほど前のことだったはず」
「あら、そうだったかしら」
「とぼけることに意味などありませんよ」
 青年らしく若さを武器に問い詰めた学者に、老婦人は苦笑してみせた。
「駅まで、来たことはあるの。それこそ、あの田舎町に線路が敷かれたというのだから、これはもう、一度行ってみてもよいかもしれない、と。こうやって寝台列車に乗って、何時間も揺られて駅までは来たのよ。帽子一つかぶって、ね。ちゃんと駅にも降り立ったわ。森の匂いと潮風の匂いが混じった懐かしい空気を吸って。でも、わたくしは駅から出られなかった。駅から出た後、どこに向かえばいいか、わからなかったのよ。どれだけ世界が変化しようとも、どこかには血縁が残っているものだけれど、わたくしは……わたくしの戻る場所は、思いつかなかったのよ。そうしたら、ああ、わたくしの帰る場所はもうどこにもないのだって、線路を横切って上野へ戻る汽車に飛び乗っていたわ」
「そして、あの家に戻ってきて、春夏秋冬の庭を愛でながら、そこを終の棲家にしようと思ったわけですか」
「そうよ。気に入っていたわ。あの直後だったかしら。わたくしがどんどん年をとりはじめたのは。年をとるなんて、もう何百年も忘れていたものだから、はじめは毎日鏡をのぞくのが恐ろしかったけれど、老化のスピードは思ったほど早くもなかったから。一年で十歳分。今年で六年目になるのね。近所の人たちもすっかりわたくしには近づかなくなってしまったわ。年をとらないままでも敬遠されるというのに、年をとりはじめても嫌われるなんてね。ほんと、人生なんてどこでどう傾くか分からない。親しげに寄ってくるのは説話の収集家と不老長寿を求めた人間だけ。あら、ごめんなさい。説話の収集は別にいいんですのよ。わたくしが好きで語らせていただいているのですから」
「嘘の話を?」
 顔を俯けて目をそらせたまま、青年は鋭く問いを投げかけた。老婦人は困ったように微笑んだ。
「今あなたに語った話は本当よ」
「いいえ。ひとつだけ嘘が。あなたの血縁は小船火の港に残っている」
「種違いの弟の一族の家系がまだ続いているかもしれないわね」
「そうではなくて、あなたの直系の一族が」
 青年は顔をあげ、探るように老婦人の顔を覗き込んだ。
「あなたは私を人魚の男に似ていると言った。その通りです。私は人魚の男とあなたとの間に生まれた子なのですから」
 青年は八百年も前に、とは言わなかった。
 ただ、震える拳を必死に内で爪を立てて握って、老婦人から目をそらさないよう耐えていた。
 老婦人は目を見開き、「まぁ」と小さく呟いただけだった。
 しばしの沈黙ののち、青年は拳を解いた。
「小船火の港に着きましたね。降りましょう」




 子を産んだことがあるのは確かです。一度きりでしたが、確かに腹を痛めて生んだ男の子がおりました。
 廻船問屋が血にまみれた日、わたくしは人魚の肉を食べさせられ、定食屋から出されるごみのように裏口から放り出されました。番屋に突き出されなかったのが何よりの慈悲、そう番頭は申しておりましたが、袖に入れられた金子が痛めつけられたわたくしには見えておりました。あの金子を誰が渡したのか。わたくしは弥平じゃないかと思うのです。弥平が、最後の慈悲にわたくしを逃がしてくれたのだ、と。それともやはりそんなことはわたくしの甘い妄念でしかないのでしょうか。信じたいことを信じなければ、あの時は壊れてしまいそうで、かといって、弥平に期待するほど愚かにもなれなくて。
 子を産んだのは、それから七か月のちのことでございました。生まれた子の足には鱗がついており、足の指の間には水かきが残っておりました。母と祖母は悲鳴をあげて、おぞましいものでも見るようにわたくしを見ました。結婚もしていない娘がいきなり化け物を産み落としたのです。腹が膨れていくだけでも周囲の視線は厳しくなり、それでも母と祖母はわたくしを小屋の中に閉じ込めることで周囲の目にさらさないようにしておりましたが、生まれた赤ん坊の産声と母たちの悲鳴で、わたくしが化け物を産み落としたことが翌朝にはあっという間に町中に広まっておりました。おそらくは新妻を亡くした弥平の耳にも。いえ、もうその時には弥平のことは考えないようにしておりましたから。忘れようとしておりましたから。それでも、それでも、身を妖に堕としてまで救った人です。わたくしの血肉を分けた人です。忘れられるわけがございません。生まれた子を恥じたわけではありません。わたくしが恥じたのは、わたくしの産んだ子供が弥平の子供ではなかったという、ただその一点でございました。その子を疎んでいるつもりも、憎んでいるつもりも、忌み嫌っているつもりもございません。ただ、愛せなかったのでございます。産み落とした後になって、人魚の男に身を任せたあの夜をおぞましく思うようになったのでございます。ですから、翌朝、日が昇る前に母と祖母がわたくしの産みおとしました子をどこぞに捨ててきたと悟った時も、わたくしは何も言いませんでした。ただ、苦しまずにあの世に迎え入れられれば良いと願いました。父親の最後があんなでございましたから、せめてその子供にだけはあのような悲痛な思いはせずに召されれば、と。
 ひどい女でございますね。思い返しても。
 それから、わたくしは産後の肥立ちが整う前に、小屋を出ました。襤褸をまとって彷徨う姿は、捨てられた子を探す母の姿に見えた者もいたようでしたが、わたくしは何も探してはおりませんでした。ただ誰もいないところに行きたかっただけでございました。もし、子を探していたならば、わたくしはあの小船火の港に行ったことでしょう。あの足を見て、母たちは子を捨ててきた数日後、せめてもの慈悲で海に投げ入れてきた、と申しておりましたから。ですが、わたくしが向かいましたのは奥深い山の尼寺でございました。そこでしばらく厄介になった後、髪をおろして尼にしていただいたのでございます。
 尼になったのちは、わたくしは仏の道を説くよりも橋をかけたり、道を作ったり、各地で聞きかじった農作物の栽培方法を伝えたり、戦で傷ついた人々を介抱したり――人々が笑顔でわたくしを見てくれることを中心にしておりました。
 わたくしは愛されたかったのでございましょうね。この小船火の町で疎まれ続けた分、わたくしは人々に愛されたかったのでございます。必要な人間だ、と、認めてほしかったのでございます。
 え? 今は尼ではないようだが、と?
 尼として各地を行脚するのは、江戸城の開城と共にわたくしやめましたの。
 なぜって、なぜでございましょうね。
 時代が変わる予感がして、きっともう、誰もわたくしのことを必要としなくなるような気がしたからでございましょうか。線路が敷かれ、飛脚は官制の逓信制度に置き換えられ、寺子屋は学制制度で教師という資格が必要になりましたし、武士と商人にしか許されていなかった文字などの限られた知識が農民や職人たちにも広く伝えられるようになったのです。わたくしの持ち合わせておりました知識など、所詮その程度のものでございましたから、わざわざ尼の姿で各地を歩き回る意味もなくなってしまったのでございます。
 それからはどうやって生きてきたのか、と?
 ああ、遊郭などには身売りはいたしませんでした。わたくしはもう、誰にも触れられたくなかったのでございます。それに、たとえ飢えたとしてもひもじい思いに気が狂いそうになるだけでございます。本当に死ぬわけではないのです。いっそ、そのまま飢え死にしてしまえた方が住み家を考えなくてもすみますから、その方が良かったのですけれど。
 そんな矢先、攘夷戦争でわたくしに命を救われたという男と偶然上野で行きあいまして、その人が持っていた貸家の一室を快く貸し与えてくれ、わたくしはあの家に住むことができるようになったのでございます。
 その男と結婚はしなかったのか、と?
 残念ながら、その方にはすでに妻とわたくしの見かけと同じ年くらいの息子がおりました。残念ながらとは申しましたけれど、わたくし、もう結婚するつもりも何もございませんでしたから、その方には感謝はしておりますが、それ以上の感情は何も抱いてはおりませんでした。その方が亡くなったのちは、息子さんがいろいろとお世話をしてくださって。ええ、もちろん奥様とも懇意にしていただきました。まるで家族のように、そう、わたくしは初めてほっと一息つくことができたのでございます。気がつけば、そろそろ八百年を数えようかという年になっておりました。
 勝手に出てきて、あとで正一さんが心配しなければいいのだけれど。
 正一さんというのは、今お世話になっているお孫さんのお名前です。正一さんはまだお若いのですけれど、なかなかしっかりしてらっしゃる坊ちゃんで、将来が嘱望されておりますのよ。ふふ、おばあちゃんみたいでしょう。正一さんが十二歳の時からわたくしの老化が始まりましたから、今は見た目的にもおばあちゃんと孫なのでございますのよ。血は繋がっておりませんが、わたくしの大切な方の一人でございます。




「舟が少なくなりましたのね」
 はるか海上を照らしはじめた朝日の階を眺めながら、老婦人はさみしそうにぽつりと呟いた。青年は無言のまま港から目をそらした。
「さぞかし酷い母親だと思って聞いていたのでしょうね。今の話」
「……」
 青年はしばし沈黙したのち、深く長い息を吐き出した。
「動揺すると思っていました。捨てたはずの子が自ら名乗り出てきたのだから。それも、八百年も前に生まれた子供が」
「期待通りでなくて申し訳なかったわね。でも、あなたが聞きたかったのは、わたくしが人であった時の物語だとおっしゃったから。真実を知りたかったのでしょう?」
「そんなにも冷静でいられるものなのですか? あなたは、それほどまでに人魚の男のことも、生んだ息子のことも、潔く切り捨ててきたのですか?」
「捨ててはいないわ。捨てていたならば、記憶からきれいさっぱりと消し去ってしまっていたでしょう。覚えていたのは、捨てられなかったから。人であった時の名前も、記憶も。……日が昇ってきたわね。山を越えて海に映る朝日の方がきれいに見えることもあるものなのね。ほんと、海は空を映す鏡のよう」
 老婦人の口からこぼれでる感嘆の声は、自然とわきあがってくるものらしかった。老婦人は、そのまま引き寄せられるように沖へと伸ばされた桟橋を海の方へ海の方へと歩いていく。
「夜、ここに来ると人魚の男がいつも待っておりました。来るとも限らないのに、嵐の夜以外はいつもここから月の下、ぽっかりと顔を出して待っておりました。わたしが海に降りようとするといつも、手を差し出して抱きとめくれました。あの人の好意を、わたくし、わかっていて持て余しながらも甘えておりました。――アヌイ」
 くるりと老婦人は青年を振り返った。
「そう呼びかけると、雨の日でも嵐の日でも顔を出してくれた。あの人の方が、ほんと人魚姫のよう。叶わないのに、ずっと側にいようとして。それとも、信じていたのかしら。いつかわたくしが彼の心に応えられるようになる、と」
「私に、それを訊ねるのですか?」
「あなたならわかるかと思って。わたくしの人であったころの名を知っているあなたなら、アヌイの気持ちがわかるかと思って」
「ずるい人ですね。さっきは私を駆け出しの学者扱いしたくせに、今度は私をアヌイにしようとしている」
「あなたが嘘を言っていないのなら、あなたはアヌイとしてあの廻船問屋の屋敷で殺された後、わたくしの腹に宿って息子として生まれた。わたくしは二度も、あなたを殺したのね」
 そっと目を閉じた老婦人は、再び岸壁と岸壁の向こうに見えるうっすらと丸い水平線に心を馳せた。
「教えてちょうだい。アヌイの足が人間の足になっていたけれど、願いを叶えたのは誰?」
「アヌイの妹」
「あなたを育てたのは?」
「アヌイの妹」
「……泡にはならなかったのね」
「彼の望みはあなたの恋敵の死だったから」
「……そう」
 短く呟いた後、老婦人は振り返って青年に微笑みかけた。
「最期にあなたに会えてよかった。そうでなければ、わたくしは大切な真実を知らないまま一生を終えるところでした。不老長寿の代償。一つの魂に一生は一つだけ。この最期の時にあなたが会いに来てくれなければ、わたくしは妖のまま生涯を閉じるところでした」
 きれいさっぱりと言いきった老婦人に、青年は震える拳を握りながら、思いつめたように顔をあげた。何かを口にしかけ、しかし首を振り、もう一度口を開く。誰かに、自分の口を貸すかのように。
「あの晩のことを、何度悔いたかしれません。私はあなたほしさにあなたの寿命をいたずらに操作してしまった」
「転生ができないことはちゃんと初めにおっしゃって下さいました。それでもよいと決めたのはわたくしです。どんなに長い一生でも、愛する人は一人だけでよいと決めたのは、わたくしです」
「でも私は……私だけがおめおめとまた生を受けてしまった」
「人間と妖の間の子。二度目の生でも、さぞあなたは苦悩したことでしょう。どちらが不幸せかなんてわからないものだわ。二度と転生できないことと、転生して苦悩することと。あなたの聞きたかった言葉が、実はわたくしもアヌイを愛していたという言葉であったなら、ごめんなさい。わたくしが愛したのは、弥平という人間の男ただ一人でございます。産んだ子への愛情もうまく持つことができません。それでも、八百年というこの今際の際に再びわたくしに人間だった時のことを思い出させてくれた。わたくしを妖という存在からも、人間という存在からも解放してくれた。どっちつかずなのはあなたと同じだけれど、わたしはあなたに小夜と呼ばれたことで、目をそむけ続けてきた人間の時の自分と向き合うことができた。冷静に受け入れることができた。ありがとう」
 青年は、思わず伏せていた顔をあげて、若い娘のように微笑んだ老婦人に手を伸ばした。
「小夜!」
 その老婦人の身体が、青年の手が届く前に海の方へと傾いでいく。
「ああ、朝日がきれいね」
 直後、老婦人の笑顔は白い泡にまみれ、朝日の中に溶け込みはじめた。
 青年の目にはそれが長い悪夢のはじまりのように緩く刻まれていった。
「嘘だ。嘘なんだ……違うんだ。聞いてくれ。私は、私は……」
 泡に飲み込まれていく。桟橋に立つ足の先から。微笑む顔の輪郭から。握って引き寄せようとした指先から。何一つ掴むことができなかった青年は、がっくりと桟橋に膝をついて、仕方なく、朝日に溶け込んでいく老婦人の残滓に語りかけた。
「私は、弥平なんだ。人魚の肉を食べて毒に冒され、アヌイの記憶を魂に刻まれて二度目の生を受けた――弥平なんだよ。君の運命を狂わせた、私は弥平なんだ」
 最後の告白が小夜の心に届いたかは知れない。
 学者の仮面を脱ぎ捨てた青年は、風にさらわれかけた老婦人の着物に手をのばして引き寄せると、胸の中に強く抱きしめた。




〈了〉







書斎 管理人室

  200908091858/200908102131