縁期暦紀 巻ノ二

鎖 ―座敷童子―




 少年は、好きだと言っておそるおそる口づけた。
 どこで見覚えたのか、あるいはそれしか情を伝える方法を知らなかったのか、それはそれは拙い口づけだった。
 凍えた小さな唇は震え、微かに触れたり離れたりを繰り返す。
 顔には正妻に殴られてついたらしい大きな青痣。
 その痣を癒すように、ようやく一筋の涙が細い線を引いて流れ落ちていく。
 何度目だろう。
 蔵の薄暗闇の中、こうやって華奢な少年の体を抱きしめてやるのは。
 天井近くの明り取りの格子窓からは、時折寒風と共にひらひらと雪が舞い込んでくる。
 光が振り込む時間はとうに過ぎていた。
 豪雪地帯の夜は気が遠くなるほど長い。
 主が蔵に追い立てられてくるのはいつもこの夕飯前の時間だった。 
 正妻と実父、それに腹違いの兄弟からひどい折檻を受け、最後には毎晩のようにこの蔵に放り込まれてくる。体中の痣は癒えることを知らず、増えるばかり。ろくにご飯を食べさせてもらえていない体は、同じ十四という歳にしては小さくやせ細っていた。
 実母が亡くなった後、実父に引き取られて一年。
 あれだけひどい仕打ちをされているにしては、よく生きながらえている方だろう。
 この家は江戸時代からの大店だった。維新後も代々の商才で上手く世俗の波をくぐりぬけ、今も繁盛を続けている。
 そう、世間一般にはそう言われているらしいが、おおよそ僕がこの蔵に長いこと住んでいることの方が大きいに違いない。
 出会った人々はまず第一声、僕をこう呼ぶ。
 座敷童子、と。
 そして、彼らは決まってずっとここにいてくれと懇願するのだ。
 だが、僕は見つかった晩にはその家を出て行くことにしていた。
 清貧な暮らしで満足していたはずの人間の目が、途端に欲に濁るのを見せつけられるのが嫌だったから。
 何人かそんな人間に出会って、僕は母屋ではなく蔵に住まいをかえた。
 以降、僕を見つける者など長いこといなかったのだが――
「ごめん、嫌……だったよね。僕なんかに触られるなんて……」
「どうしてそんなことを言うの?」
「だってみんながそう言うから……。僕は汚い妾の子だって。僕が触ったものは汚くなるって……」
「なのにあの一家は喜んでお前を殴るんだろう? 確かにお前を殴るたびに触った人間の心は荒んでいくのだろうけど、それは触れ方が間違えているからだよ。でも、お前は違う。お前はちゃんと相手への触れ方を知っている」
「うん……母さんがしてくれたから。ほっぺただったけど。それに母さんは寒い夜はいつもこうやって僕を抱きしめてくれたんだ」
 僕が人間に見つかっても尚この蔵に住み続けているのは、この少年を見捨てられなかったからに他ならない。
 少年が求めていたのは金でも商家の後継者などという地位でもなく、ただ偏に母親の愛情だった。
 いや、もう母親じゃなくてもよかったのかもしれない。
 誰でも良かったのだ。自分を受け入れてくれさえすれば。
 そして、今この少年にその場を与えられるのはこの僕だけだった。
 目の前で震え続ける唇がやけに愛おしい。
 長い間生きてきて、こんな気持ちになれたことはなかった。
 僕も、求めていたのだ。
 本当に必要としてくれる相手を。
明光あきかね、長生きしたいか?」
 だから、僕ははじめて人間にそう問うた。
「幸せになりたいと思うか?」
 二言目にしてようやく少年は頷く。
 座敷童子のもたらす幸福は、地獄のはじまりだと言ったのは誰だったか。その幸福が大きければ大きいほど、人間はどんどん身動きが取れなくなっていくのだと。そして、座敷童子自身もどんどん不幸になっていくのだと。
 それでも僕は明光が頷いてくれて嬉しかった。
 この少年を幸せに出来るということが。
 ようやく幸せにしたいと思える人間に出会えたことが。
 誰がいったか分からない言葉など、信じるに足らない。
 少なくとも、僕は明光をあの家から救い出してやることが出来る。
 家ごとではなく、この少年だけを幸せにしてやることが出来る。
 僕は凍えぬよう、小さな唇をそっとほぐしてやった。
「ハル……?」
「出来るだけ早くこの蔵に越しておいで」
 三日後だったか。
 明光は本当に蔵に越してきた。
 正確には母屋を追い出されてきたのだが。
 外からかけられた錠の重々しい音に肩をすくめたのは一瞬。
「顔も見たくないなら蔵にでも閉じ込めておけば? って言ったら、お義母さんたらしたり顔で僕のことここに放り込んでくれたよ」
 見たこともないほど清々しく笑って、明光は僕の前に薄い竹の皮にくるんだ握り飯を差し出した。
「これは?」
「半分こして食べよう? 追い出される前にこっそり作ってきたんだ。ハルもお腹くらい空くんでしょう?」
「食べれないってことはないけど、基本的にはお供え物以外は口にしないって……」
「じゃあ、お礼だよ。僕を幸せにしてくれたお礼」
「幸せにしたって、蔵に閉じ込められて、まだ全然幸せになんかなってないだろう?」
「幸せだよ。ハルと一緒にいられるんだから」
 半分に割った銀シャリだけのおにぎりを差し出して明光は穏やかに微笑した。
 どうして見抜けなかったのか、と問われれば、僕は沈黙するしかない。
 願いを叶えてほしい人間は座敷童子に毎日供え物をしてもてなす。家から出て行ってしまわないように食べ物で機嫌をとる、といったほうが良いかもしれない。それでも嫌気がさせば座敷童子は何も告げずに家を出る。どんなに供え物をされても、情が移ることなどまずありえなかったから。
 明光は本当は僕を座敷童子として見ているんじゃないか――?
 けれど、僕は芽生えたそんな疑念を即座に打ち消した。
 目には濁りがない。
 今まで見た誰のものよりも純粋な目のままだ。
「心配しなくていいよ。毎日女中の一人があの天窓からおにぎりを投げ込んでくれることになっているから。僕なんかにもいつも気を使ってくれるとてもいい子なんだ。きっと約束は守ってくれるよ」
 感じた浅ましい心を砕くように、僕は明光を抱きしめて口づけた。
「でも僕が信じてるのはハルだけだよ。好きなのもハルだけ」
 口づけるたびに、僕からはいつもの余裕がなくなっていった。
 だが、不思議と不安にはならなかった。濁ることない明光の瞳が僕には愛おしくて仕方なかったから。
 そして僕は願う。
 明光の望みが全て叶いますように、と。
 母屋に住む正妻とその子供達が流行り病で皆命を落としたのはそれから間もなくのことだった。
 明光は跡取り息子として母屋に連れ戻され、僕も明光に誘われて日当たりのいい奥座敷に住むようになっていた。供え物も毎日朝夕と膳に整えて欠かさず明光自身が運んできてくれた。
「ありがとう、ハル。ハルが僕を蔵に呼び寄せてくれなかったら、僕なんか今頃流行り病でいの一番に死んでいたところだったよ。ハルが僕を助けてくれたんだね。大好きだよ、ハル」
 大丈夫。
 まだ明光の目は濁ってなんかいない。
 僕が求めているのは供え物なんかじゃなく、小さく危うげな明光の腕だった。
 守るべき幼子の細腕。
 母屋に戻った明光はあっという間に成長していった。それでもまだ、明光は僕の腕を必要としてくれる。どれだけ体がたくましくなろうが、僕にだけは幼いままの一面を見せてくれる。
「大好きだよ、ハル。いつまでも僕の側にいて。僕だけのハルでいて」
 囁かれる言葉と広げられる腕。
 僕は幸せの中にたゆとい、明光の望みが叶うようにと願い続ける。
 明光の実父が亡くなったのは、明光が十八のとき。明光に店ごと家を譲り渡して隠居した直後のことだった。
 明光には何か憑いている、そんな噂が流れ出したのもその頃だったか。
 無理もない。妾の子と虐げられていた明光の幼少期を知る者なら誰もが、都合よく死んでいく明光の一家の死に疑問を持ったことだろう。
 しかし、以来商家はさらに活気づき、東京や大阪にまで支店を出すほどになっていた。
 家人達の生き生きとした呼び声は高らかに奥座敷にまで響き、明光もそれはそれは楽しそうに生き生きとした笑っていた。
「ハル、お前は私のものだよね?」
 明光がいくつの時だったろう。
 十九で元士族の娘を嫁にもらい、三年ほどして長男が生まれたあとだから、二十三くらいだったろうか。
 明光は、日当たりもよければそれなりに人目にもつきやすい奥座敷から、光一条差し込まぬ母屋の地下の座敷牢に僕を押し込めた。
「お前のために特別に造った部屋だよ。ここの鍵を持っているのは私だけ。私以外の誰も――そう、妻も幼い息子もここに入ることはできない。ハル、お前を誰にも会わせたくないんだ。誰の目にも触れさせたくない。分かるだろう、ハル?」
 明光が何を恐れたのか、僕はすぐに分かった。
 僕が息子と出会ってしまったら、今度は明光よりもその子供を僕が愛すのではないかと勘ぐったのに違いない。
 僕を包み込めるくらい大きくなってしまった腕の中で、僕の心の中には紫色のどす黒い染みが広がっていった。
 それでも、僕の目には明光の目は澄んで映っている。
 幼い時のまま、庇護を求めているように。 
「僕が心から幸せを願うのは、明光だけだよ」
 言葉が明光に通じなくなりはじめたのは、妾がみごもったと聞いた頃からだっただろうか。
 自分が妾の子だったから妾はつくらない。そう言っていたのに、たった一晩の過ちだったらしい。
 それでも明光はその妾を別宅でそれはそれは大切に養った。
 反面、脅えはじめたのだ。
 僕をとられやしないかと。
 自分と同じ境遇になりかねないその子供に、生まれもしないうちから嫉妬していたのだ。
 幼子同然にしがみついてくるそんな明光が愛しくて愛しくて、僕は今まで以上の明光の幸せを願った。
 そのかいあってか、妾は無事に男の子を出産した。
 だが、吉報を持ってきたはずの明光の手にあったのは、感謝の膳ではなく二つの枷とそれらを繋ぐ鋼鉄の鎖だった。
 明光は何も言わずに僕の両足にその枷をはめた。
「よもや逃げないとは思うが、私を愛してくれているというのなら許してくれるだろう?」
「明光……?」
 久しぶりに正面から直視した明光の目は、とうに純粋なものではなくなっていた。 
 濁っていたのは自分の目のほうだったのだ。
 幼い腕と拙い唇に惑わされて、僕は大切なものを失ってしまっていた。
 一度濁ってしまった人間の目はなかなか元には戻らない。
 だから僕はそれ以上醜悪になっていく人間達の姿を見たくなくて、出会うたびにその家から出て行っていたというのに。
 いつからだったんだろう。
 いつから明光の目はこんなに濁ってしまっていたんだろう。
 妾が妊娠したと知ったときから? 正妻に長男が生まれたときから?
 いや……考えたくはないけれど、もしかしたら僕が蔵に呼んだときからだったのかもしれない。
「ああ……」
 そんなに長いこと僕は気づかずに明光の幸せを苛んできてしまったのだ。
 気づかずに? 
 違う。自ら目を覆ったのは僕自身だ。
 僕が自分の望みを叶え続けたいと願ったばかりに。
 けれど、だからといって明光への愛情は即座に消し去ってしまえるものではなかった。
 僕も、失うことが怖かった。
 僕に出来たのはおとなしく鎖に繋がれ、この地下から明光の幸せを願うことだけ。
 それしか出来ないが故に、思いは以前よりも強くなっていたかもしれない。
 明光は、子供が一人増える度に枷を一つずつ増やしていった。そして、商談がうまくいくとその都度鎖の穴を通して畳や壁に楔を一本ずつ突き刺していった。
 明光が結婚して十年が過ぎようという頃には、僕は身動き一つ取れなくなっていた。
 座敷牢に供え物を持って入ってきても、明光はあからさまに僕から顔を背けるようになっていた。
「解放して欲しいとは思わないのか? それとも長寿のお前にはこんな無為な時間も一瞬にしか過ぎないというのか?」
 尋ねたのは、十年でたった一度きり。
 明光は必死に敵意を押し殺そうとしていた。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 僕は望んだだけだ。
 明光の望みが全て叶いますように、と。
 僕がずっと必要とされる存在でありますように、と。
「明光、お前にはまだ僕が必要?」
「必要でなかったらこんなことなどするものか」
 本当は切り捨てたくて仕方がないくせに。
 濁った明光の目は脅えていた。
 莫大な富を失ってしまうことを恐れていた。
「僕はいなくならないよ。こうすることで明光の不安がおさまるというのなら、いくらでも好きなようにするといい」
 僕は目をつぶった。
 明光が必要だと言ってくれたから。
 僕は明光の言葉と腕と唇があれば満たされる。
 いつの間にか、僕は自分のために明光の幸福を願うようになっていた。
 明光の心の奥底に潜む黒くどろどろとした想いも、野心も、狂気も、全ては幼い頃に種まかれたものだったのだろう。けれど、気づかないふりをして育ててしまったのは僕自身だった。
 商家はそれからも繁盛をつづけた。
 だが、明光が三十五になった冬、まだ若い正妻と四人の子供たちは呼び合うようにばたばたと流行病に倒れていった。そして、何かの再現を見るかのように外に囲っていた妾も
死に、明光は寂しくなった母屋にたった一人残された妾の子供を呼び寄せた。
 怖い、怖い、と明光は震えていた。幸運を掴んだ時の自分の境遇に、その妾の子の境遇が重なったのだろう。
「あの子は賢い。将来、この大店の主として申し分なくやっていけるだろう」
 父親らしく尊大にそう褒めた次の瞬間には、明光の笑顔は凍りつく。
 その目は腕を求める幼子のように宙を彷徨い、僕と目が合えば唇をかんで顔を伏せた。
「辛くなるなら来なければいい。供物などなくても僕は明光が幸せならそれでいいんだ」
「そんなこと、できるわけがないだろう? 私が来なければお前は……」
「逃げたりなんかしないよ。それに、一人にはなれているから。明光、覚えているだろう? あの蔵もここみたいに真っ暗でなかなか光なんか入り込まないところだった。人だって来ないところだったじゃないか。僕は寂しくなんかないよ」
 何度かはそれで納得してくれたのだ。
 しかし、供物が豪華になればなるほど明光の不安と猜疑は募り、ついには枷と楔と鎖でつなぎとめるだけでは足りなくなってしまったらしい。
「ハル、お前が私のことを一番に考えてくれていることは分かっているつもりだよ。だけどね、それならお前も私のこの不安を自分のことのようにわかってくれるだろう? お前があの息子の前にその姿を晒すなんてことになったら……そう考えただけで私はいてもたってもいられなくなるんだよ」
 明光は僕から着ているものを剥ぎ取ると、土間で燃やしてしまった。
「どうして……」
「お前が誰も呼ぼうなんて思わないように」
 冷たく言い放った明光に、もはや僕は幼い頃の純粋さを見つけることは出来なかった。
 どうしてもっと早く出て行こうと思わなかったのだろう。
 どうしてもっと早く解放してあげなかったのだろう。
 枷と鎖と楔にがんじがらめにされた僕は、もう明光を抱きしめてやることが出来ない。
 僕の存在は、ただ明光を不安にさせてしまうだけなのだ。
「明光、この枷を外して。ここからは絶対に出ないと約束するから。でないと明光、お前が辛いだろう?」
 僕ははじめて懇願した。
 はじめてこの鎖が重いと思った。
「そんなことを言って、外したとたんに喜んでここから出て行くつもりだろう? お前はもともと人間の情に薄い。だから今まで転々と住処を変えてきたんだろう? 違うのか?」
「違う! 僕が住処を変えてきたのは……」
 明光の目は物が見えているのかと思うほど赤黄色く濁っていた。
 僕はそんな目が見たくなかったから人間と関わらないようにしてきたのに。
 そんな目にしたくなかったから、ひっそりと蔵に隠れ住んでいたのに。
 明光の目を濁らせたのは僕だ。
 愛する幼子を地獄に突き落としたのは、僕自身だ。
 明光はますます僕から目をそらすようになった。一言も話さず、ただ供物だけを置いていく日が増えた。
 僕は、日を追うごとにさらに強く願うようになった。
 自分のためではなく、明光が幸せになれますように、と。
 それなのに、明光は目だけでなく顔かたちからもどんどん醜悪なものになっていった。
 失意に満ちた明光の顔を、僕はもう真っ直ぐ見つめることが出来なかった。
「あいつが、家督を譲れといってきたよ」
 それは、上から除夜の鐘の音がゆっくりと響きはじめた頃だった。
 片手に一升瓶、もう片手にお猪口二つを乗せた盆を持って下りてきた明光は、やけにすっきりとした顔で僕にそう言った。
 ぎらぎらと欲にまみれたていた目からは激しさが消え、懐かしい純粋な瞳が宿っている。
「すまなかったね。こんな目にあわせてしまって」
 一升瓶と盆を傍らにおいて、明光は一本一本僕を縛り付ける楔を抜きだした。
「明光?」
「もう、いいんだよ」
 枷まで全て外して明光は僕に自分の羽織っていた上羽織を着せ掛けた。
 残った明光の体温が温かく僕を包み込む。
「ハル、私の望みをきいてくれないか?」
 一升瓶から透明な酒を小さなお猪口二つに注ぎ分けて、明光はその一つを僕に差し出した。
「共にこの酒を飲み干しておくれ」
「それだけで、いいの?」
「ああ」
 一瞬、またあのどぎつい光が明光の目に閃いた。
 だが、僕には一も二もなかった。
 これで終るのだ。
 僕も明光も、この酒一杯で幸福という名の地獄から解放される。
「乾杯」
 お猪口を僅かに触れあわせ、僕と明光は共に一息に中の酒を呷った。
 さらさらと癖のない水のような甘露な味。
「ハル、私がお前を殺せばお前は永遠に私のものだね? 共に死ぬことが叶えば、私は何
 も失うものはなくなるのだろう? なに、あの息子になぞお前がくれた富などやるものか」
 死へと誘う水は、僕だけに与えられたのではなかったらしい。
 明光は欲にまみれた笑い声を立てて畳の上に転がった。が、すぐにその笑い声もこみ上げる血反吐に飲み込まれた。
 僕の視界も傾いでいく。
 茫然としているうちに口の中は錆びくさいもので溢れかえっていった。
「ハル、ハル、最後に願っておくれ。私が安らかに眠れるように、と……」
「明光……」
 死の影が色濃く忍び寄った明光の目には、再び愛おしくなるほど純粋な灯が微かに揺らめく。
 明光は、どれだけ揺れたことだろう。物欲と僕の愛を求める幼子の心との間で。
 僕は明光の横に転がったまま頷いた。
「明光の望みのままに」
 掠れる声で囁くと、明光は安心したように目を閉じ、二、三度痙攣して事切れた。
 しばらくの間安らかなその顔を見つめた後、僕はゆっくりと体を起こした。
「ごめん、明光」
 口の中にたまった血反吐を土間に吐き捨て、僕は血溜まりの中で幸せそうに眠る明光を自由になった両腕で抱き上げる。
「その毒、僕にはきかなかったみたいだ」
 血にまみれた唇を袖で拭い、自分の唇を押し当てると、まだ明光の唇は温かく柔らかなままだった。
 僕の体には孤独という名の幸せが巡り返ってくる。
 その冷たい心地よさに僕はため息をついた。
「明光、約束するよ。僕はもう誰の幸せも願わない。この先僕がどれだけ生きるのか分からないけれど、二度と明光以外の人間になんて心を移したりしないから。だから、安心して眠って」
 低く響き渡る鐘の音が途切れた。
 僕は明光の躯を残して座敷牢を後にした。
 外はいつかのように雪がうずたかく降り積もり、さやさやと月の光が静寂をぬって降り注いでいた。



〈了〉



書斎 管理人室

200501227