縁期暦紀 巻ノ八

華燭の日  ― 化け猫 ―




「あら、お前は白い毛をしていたのね。そう、まるで真珠のような光沢のある白だわ」
 更紗お嬢様は、自ら袖を濡らして私をお洗いになると、嬉しそうに目を細めておっしゃいました。
「お前の名は今日から珠にいたしましょう。真珠のように美しい毛色を持っているという意味よ」
 飢えの最中にあった私は、お嬢様の御屋敷の庭の隅で野垂れ死にかけていたところをこうして拾われ、なすすべもなく井戸水を張った盥にうずめられると、丹念に泥を洗い落とされ、毛玉をとかされ柔らかな木綿の手ぬぐいで全身を拭かれてお嬢様の腕に抱かれたのでした。
「珠、お前は真珠の毛並みをしているから、首紐はきっと真っ赤な赤が似合うわね」
 お屋敷の中でも最奥、中庭の見えるお嬢様の居室に連れて行かれた私は、早速、お嬢様の飼い猫となるべく、新品の深紅の組紐で済んだ音のする輝く鈴をつけられたのでした。それからわずかもしないうちに、ちっとも鳴かない私を見て、お嬢様は早速濃厚な牛乳と煮干しの山を私の鼻先において下さったのです。
 生まれて幾日もしないうちに親猫が戻ってこなくなった私にとって、飼われることに対しての屈辱も何もありませんでした。ただ、お腹が空いていたのです。温もりを欲していたのです。
 更紗お嬢様はお身体が弱く、いつも寝床は敷かれたままになっていました。散歩といえば中庭に出て毬をついたり、蝶を追いかけたり花を摘むだけ。それが、私が来てからという物、お嬢様は私との鬼ごっこを楽しまれたり、広縁で毛づくろいをなされたり、ともにお昼寝をしたり、まさに私と寝食を共にするようになった、と家の使用人たちは申しておりました。
 旦那様も、初めこそ私の毛がお嬢様の病気によくないのではないか、とか、あまり動きまわっては体に触ると、私のことをよく思ってらっしゃらなかったようなのですが、むしろ生き生きと顔色もよく、頬に桃色の血の気すら取り戻しはじめた更紗お嬢様を見て、何より、私とじゃれている時の楽しげな笑い声を聞いて、私を引き立ててくださるようになったのでした。
 お屋敷に奥様はいらっしゃいません。奥様も病弱な方だったとかで、更紗お嬢様が十二歳の時にお亡くなりになったということでした。ですから、更紗お嬢様は毎朝仏壇の前での朝のご挨拶を欠かしません。とても神妙な面立ちで手を合わせて祈ってらっしゃるものですから、その時ばかりは私も用意された綺麗な模様の小さな絹の座布団の上にちょこんと座って、お嬢様のお祈りが終わるまで目を閉じているのでした。
 私を拾われてからの更紗お嬢様の快復ぶりは、永年の旦那様のお祈りが天にでも通じたかのように健やかで、季節の変わり目に熱をお出しになることはあっても、大事には至らず、二、三日で床から出られるようになったのでした。
 ただの野良猫だった私は、「お猫様」あるいはお珠様」と呼ばれ、家の使用人たちからも大切にされておりました。
 私は、自分が猫であることを忘れていたわけではないのです。ただ、他の猫という物を知らず、お嬢様と旦那様と家の使用人たちとの狭い世界の中で三年を過ごすうちに、人と生きるのが当たり前だと思うようになっていたことは、否めません。
 ですから、十七になったお嬢様に縁談の話がきた時も、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったのです。
「珠や、珠。私もついに人並みに結婚ができるのよ。お前のおかげだわ。お前が私を日に夜にずっと付き添って慰めてくれなかったら、私はとうに死んでしまっていたでしょうから」
 お嬢様が元気に過ごしてくれることが私の喜びでした。私がお嬢様の下で生きる目的と言っても過言ではありませんでした。
「だから、ね。私、決めているのよ。お見合いのお話はたくさんきているけど、珠、お前を気に入ってくれる方のところへお嫁に行くわ。もちろん、珠も連れて、ね?」
 白雪のようなはんなりとした手が、一冊一冊お見合い写真を手にとっては開き、また閉じるのを繰り返しています。私はその手元を覗き込むだけ覗き込んでいたのですが、お嬢様がとある一冊をお開きになった時、その見事な風貌に、思わず息が止まってしまったのでした。
 黒く艶やかで真っ直ぐな髪を小ざっぱりと切り整えた頭、整った鼻筋、優しそうな黒い瞳に柔和に微笑む赤い口元。
 この方だ! と思いました。
 見上げれば、更紗お嬢様もほほを染め、ほぅっと一息ついて魅入ってらっしゃいます。
 私はすかさず写真の縁に手をのせて一声鳴きました。一声では足りず、二声、三声と鳴きました。
「まぁ、お前も気に入ったのね。ではお父様にお話ししてもらいましょう」
 見たこともないほど桃色に顔を染めた更紗お嬢様は、心惜し気にお写真を閉じようとなさいました。ですが、見つめていたのは私も同じでした。
 どうしたことでしょう。猫であるというのに、こんな風に私まで胸が張り裂けんばかりに鳴りやまないのは。きっと、心臓の弱い更紗お嬢様の分まで私の心臓が高鳴っているのだと、私は思おうといたしました。閉じようとなさった見合い写真の本の合間に手を差し入れて、あともう少しだけ、とお嬢様に鳴いてみせたのも、お嬢様の御心を私が代弁しているからだと思いました。
「お前はよく分かっているのねぇ」
 笑いながら、お嬢様は私としばらくの間その方の写真を眺めていて下さいました。
「この方は神庭倫彦かんばみちひこ様とおっしゃるのね。あら、町一番の神社の一人息子ですって。珠、お前も随分と目がいいのねぇ」
 それから、神庭様との縁談は驚くほど恙無く日々整っていったのです。更紗お嬢様と神庭様とは何度も何度も私と共にお会いになっては浄化の公園を散策なさったり、イチョウの黄金のはが舞い落ちる中、こっそり手を繋いで歩んだりなさるようになりました。私はそれを下から眺めたり、時には神庭様の腕に抱いていただいて、頭や首元を撫でていただいたりと、邪魔者であるはずなのに、むしろお二人は一層仲睦まじく私に構って下さるのです。
「良かったわ。倫彦さんがお前のことを気に入ってくれて。ううん、あれは気に入ってるどころかむしろ毎回お前に会いにきているようなものかもしれないわねぇ」
 更紗お嬢様はそうおっしゃるとからからと笑いなさいましたが、私は昼間全身に感じた神庭様の温もりを思い起こして、真っ赤になって俯いてしまいました。
「妬けてしまうわ」
 冗談めかして更紗お嬢様はそうおっしゃいました。
 私の胸はまだ早鐘が鳴りつづけていて、「そんなことはないのです。神庭様は確かにお嬢様を好いておられますよ」と鳴くのも忘れておりました。
 ええ。いいえ。この胸の高鳴りはきっとお嬢様のものです。お嬢様の心臓があまりむちゃをしすぎると壊れてしまうから、私の心臓が代わりに脈打っているのです。
 私は必死でそう思いこもうといたしました。ですが、神庭様が更紗お嬢様と楽しげにお話しているのを見上げた時や、お嬢様が「ごめんね、お前は映画館には入れないから」と隣町の映画館に二人でお出かけになってしまってはじめて留守番をさせられた時、私の胸はずきんずきんと痛み、やがてお二人が私なしでも密かに逢っていることに気付いた時には、それはもう、身を引き裂かれんばかりに胸が痛んだのでした。
 馬鹿な私です。
 お嬢様と同調するあまり、私は自分が猫であるということを忘れて神庭様に想いを懸けるようになってしまっていたのです。
 そのことに気づいてからというもの、私はだんだんと嫌な猫になっていきました。更紗お嬢様の腕に抱かれたふりをしてわざと逃げ出して見せたり、二人きりで映画に行こうとした日には、お嬢様の足に纏わりついて更紗お嬢様を困らせたりするようになりました。そのくせ、お嬢様が私も連れて行って下さると誘ってくだされば、喜んでお嬢様の腕にかい抱かれ、神庭様が現れると隙もなく猫であることをいいことに神庭様の腕に飛び移ったりして、最高の幸せを噛みしめておりました。神庭様は、私がお嬢様の腕から神庭様の腕に乗り換えると、
「どうだい。更紗さんの猫ちゃんは僕の方によく懐いてくれているようだよ。こんなに可愛い猫ちゃんだもの、僕は珠ちゃんと一緒になろうかなぁ」
 などと、冗談だと分かっていても嬉しいことをおっしゃって下さるのです。お嬢様は「まぁ」などと呆れて笑っておいででしたが、私にとってはその時が最も至福の時であったように思います。
 やがて、お嬢様の部屋に婚礼衣装の白い打掛がかけられるようになりました。
「見て、珠。私、倫彦さんのお嫁さんになるのよ」
 静かに、噛みしめるように、でもうれしさに頬を染めて、お嬢様は私の背を撫でながらおっしゃいました。こうしてお嬢様の膝に抱きかかえられているだけで、お嬢様の胸の高鳴りが聞こえてまいります。ですが、それはもう私の胸の鼓動とは同調しておりませんでした。
 私はといえば、真っ白な絹の煌めく打掛を見る度に、自分でも嫌な、黒くやさぐれた気持ちになっていくのです。毛色は真珠のように白いままなのに、この身体の中は黒く汚れたもので一杯になっていくのです。
 たまらなくなって、私は何度、お嬢様の腕から飛び出し、真っ暗な外で小さく泣き声をあげたことでしょう。それも、目裏にあるのは、更紗お嬢様のお顔ではなくて、神庭様のお顔なのです。
 私は悪い猫でした。
 次第に、更紗お嬢様の婚礼の日が近づかなければいいのに、と気を揉みはじめ、しきりにあれこれと嫁入り先に持っていく荷物を準備する更紗お嬢様や使用人たちの邪魔をいたしました。それだけでは気がおさまらず、お嬢様の花嫁衣装に、何度爪を立ててやろうと思ったことでしょう。でも、それだけは寸でのところで思いとどまっておりました。
 懐かなくなってしまった私に、お嬢様はひどく傷ついたようでした。
「お前を置いていくわけじゃないのよ? お前も一緒に連れてきていいと倫彦さんはおっしゃってくださっているのよ? だから珠、そんなに自棄を起こさないで」
 いくら更紗お嬢様に宥めすかされても、私はもうお嬢様の膝には乗りませんでした。お嬢様は次第に元気を無くされていき、また寝込むことが多くなったかと思うと、婚礼の一週間前にして、秋から冬への季節変わりに体調を崩され、頬からも赤みが退き、蝋燭のような顔色になって床に臥しつづけるようになりました。それでも、私はお嬢様の枕元に近寄ろうとはいたしませんでした。ただ、神庭様がお見舞いにいらっしゃった時だけは別で、お行儀よくお嬢様の枕もとに控え、起き上ったお嬢様が手を伸ばして私を抱かれるのに大人しく身を任せておりました。
「なんだ、君の猫はちゃんと君に懐いているじゃないか。心配することはない。すぐに良くなるよ」
 神庭様が安心しきった顔で帰って行かれると、私はまたお嬢様の腕から飛び出し、庭へと神庭様をお見送りに出るのです。
 お嬢様の病が一転、一気に悪化したのは、婚礼の日取りを延期しようかとの話も出はじめた婚礼三日前のことでした。
「珠や珠、こちらへおいで」
 蚊の鳴くような、人でさえも聞こえるかどうかのか細い声で、お嬢様は私の名を呼びになりました。私は一瞬背を向けようかとも思いましたが、幼き頃命を救われてからの大恩なる身。首肯して大人しくお嬢様の枕元に控えました。
 お嬢様は、色も細さも枯れ枝のようになってしまった手を蒲団から差し出して、私の喉を優しく撫でました。
「私、罰があたったのねぇ。私だけ幸せになろうとしたから、きっとこれはその罰ねぇ。珠、お前も倫彦さんを好いていたのに、お前は猫だからとお前の気持ちも考えず、珠にはひどいことをしたわねぇ」
 それはまるで遺言のようでした。
「珠、お願いがあるの。私、倫彦さんのことがとっても好きよ。大好きよ。お前もそうでしょう、珠? ふふ、倫彦さんの腕に抱かれるお前を見る度、私はお前になりたいと何度思ったかしれない。それにね、見ていれば分かるわ。ああ、きっと今、私も珠と同じような幸せな顔をして倫彦さんの隣にいるんだなぁって。ごめんなさいね。お前の気も知らないで。それでも私は倫彦さんと一緒になりたかったのよ」
 更紗お嬢様が長いセリフを言い終えて、一つため息をつかれている間に、私は一声、「分かっている」と鳴きました。それから、顔色を見て、更紗お嬢様がもう長くはもたないことを悟りました。
 さすがに旦那さまを、お医者様を、家の誰かを呼んでこようとお嬢様に背を向けた時でした。お嬢様はその枯れ枝のような腕のどこにそんな力が残っているのかと問いたくなるような力で身を起こし、私を抱き上げました。
「珠」
 そう呼びかけたお嬢様の目は、らんらんと恐ろしい光を放っておりました。
 私は身動きすることもできず、お嬢様に見つめられるがままにお嬢様を見つめ返しておりました。
「珠」
 それからもう一度、お嬢様は優しい猫なで声で私に呼びかけ、ぴんと立った私の耳に青白い唇を寄せて囁いたのです。
「私が死んだら、私の体を食べなさい。血一滴も残さず、私の体を食べるのよ。そして、お前が私になって、倫彦さんの元へ嫁ぎなさい」
 私は、あまりの恐ろしさに身が竦んでいました。
 更紗お嬢様を、食べる?
 そんなこと、できるわけがありません。
 神庭様をとられるのは身を切るほど辛いことですが、何としてでも耐え抜くつもりでした。でも、死んだら食せ、とは――。私はけして更紗お嬢様を憎んでいるわけではないのです。嫌っているわけではないのです。まして、お嬢様が死んでしまえばいいなどと思ったことは一度もありません。
 一度もありませんが、自分がもし人間だったら、更紗お嬢様だったら、と思わなかった日は――神庭様のお写真を拝見してからというものありませんでした。
「いいわね、珠。必ずよ。必ずお前は私になるのよ? 私の代わりに倫彦さんと幸せになるのよ」
 そうおっしゃったかと思うと、更紗お嬢様はするりと私の体を手放さればたんと糸の切れた操り人形のようにお倒れになってしまいました。
 私は一つ鳴きました。もう一度、耳元で鳴きました。
 でも、更紗お嬢様はもう息をしてはいなかったのです。
 満ち足りた月の光が燦々と部屋に降り注ぐ秋の夜でした。
 私は、鳴きながらお嬢様の亡骸を食べました。
 骨一つ、血一滴たりとも残さぬよう、細心の注意を払って。
 するとどうでしょう。私の体は次第に大きくなるのです。視界は高くなり、白い毛におおわれていた腕は滑らかな白い肌となり、脚もまた長く伸び、耳の位置は下がり、口は大きく開けるようになり、鼻は血生臭さに鈍感になっていきました。
 鏡の前に立った私は、真白く長い髪を持つ、更紗お嬢様となっていました。
「更紗……お嬢様……」
 口からは人の言葉を紡ぐことができました。
 更紗お嬢様と違うのは、唯一真っ黒だった髪が真っ白になってしまったことだけでした。
 翌朝、更紗お嬢様の様子を見に来た使用人たちは、一同に私の真白い髪を見て唖然としました。しかし、もう床から一人で起き上がれるくらいに一気に回復したように見えたせいか、きっと神様、仏様が髪の色と引き換えにお嬢様を元気にしてくださったのだと噂し合い、二日後の婚礼に向けて黒髪の鬘を合わせたり、打掛の大きさを最終的に手直ししたり、とあっという間に二日という日が過ぎてしまいました。
 わたくしがいなくなったことに気づかれたのは、婚礼の前日に陣中見舞いにいらっしゃった神庭様だけでした。
「珠はどこへ行ったの?」
 私は悲しげな表情をつくって小首を傾げてみせました。
 神庭様は何かを察したように悲しげな顔をして庭の方を見やりました。
「そう。猫は死期が近づくとどこかに隠れるというけれど、君の病を代わりに背負って行ってくれたのかもしれないね」
 違うのです。ああ、違うのです!!
 私はここにおります。珠はここにいるのです。
 私は急にぼろぼろと泣き出してしまいました。
「そうだね。まだ死んだと決まったわけではないね。いつかきっと戻ってくるよ。戻ってきたら、約束通り、君と僕と珠とで一緒に暮らそうね」
 神庭様はそうおっしゃって私の頭を撫でました。
 私は――言えませんでした。それはもう叶わぬ夢でしかないのだと。本当の更紗お嬢様は三日前、お亡くなりになっていたなどと。
 誰が想像したことでしょう。
 自分が自分として愛されるのではなく、愛しいお嬢様の名を背負って愛されるという苦しみを。
 翌日、私は結局爪を立てられなかった白い打掛を纏い、黒髪の鬘に白い角隠しを被った花嫁となって、神庭様と夫婦の契りの杯を交わしてしまったのです。
 何と恐れ多く、罪深きことでしょう。
 華燭の宴の最中も、誰も私が化け猫だと気づいて騒ぎたてる者はおりません。宴は無事に終わり、ようやく宴席から解放されて寝所へと導かれたのは、夜も更けようかという頃でした。
 いささか欠けた月が中天に座し、向かい合った私と神庭様とを照らしています。
「どうしたの? 昨日からちっとも喋らないね。今日は緊張した?」
 なるべくぼろが出ないように気を張っていた私は、こくりと一つ頷きました。
「実はね、今朝、奇妙な夢を見たんだよ。君が現れて、珠をよろしく、と言うんだよ。おかしいだろ? いなくなったのは珠で、更紗さんではないのに」
 私ははっと顔を上げました。たちまち涙の洪水で目がよく見えなくなりました。わぁ、と泣きだした私を、神庭様はその広くてあったかな胸の中にそっと抱きしめました。
「更紗」
 私の名ではない名を呼んで、神庭様は私に口づけなさいました。
 私は哀しくて更に泣きじゃくります。
 こんなはずでは――こんなはずでは――三日間心の中で繰り返した言葉が、ついに口からこぼれ出ました。
「こんなはずでは」
 私は馬鹿な雌猫です。
 私が更紗お嬢様の死を願わなかったなど、誰が信じてくれましょう。私が更紗お嬢様がお式の前に死んでしまえばいいと呪わなかったなど、誰が信じてくれましょう。
 そうです。一番信じられないのは自分自身なのです。
 きっと私が更紗お嬢様を呪い殺したのです。お嬢様の口からあのような酷なことを言わせたのは、きっと私の呪いのせいなのです。その言葉にあらがえず、従ってしまったのは、私がもはやただの猫ではなくなっていた証拠なのです。そうでなければ、あの小さな猫の体でお嬢様一人の肉体を誰が食べきることができましょう。それ以前に、どうしてあのような色をした弾力のない肌にかぶりつくことができましょう。
 何ということをしてしまったのでしょうか、私は。
 なのに、もう猫に戻る術もなければ、更紗お嬢様を取り戻す術もないのです。そして、今、私がここから逃げ出せば、神庭様は初夜に花嫁に逃げられたという恥辱を味わわされることになるのです。
「更紗、更紗」
 私ではない、もう亡くなってしまった方の名を呼びながら、神庭様は一夜、ずっと私をかい抱きつづけました。その間中、私はずっと逃げ出すこともできずに泣いておりました。
「そんなに怖い? それとも、僕のことが嫌いになった?」
 泣きながら私は首を振りました。
 違うのです。私が哀しいのは、「珠」と呼んでもらえないからなのです。
 なんて罪深い私でしょうか。
 犯した罪も忘れて、純粋に好きになった方に自分を愛してもらいたいなど。
「私……は……」
 泣きながら私は真実を告白しようとしました。
「実はあの夢には続きがあるんだ」
 私の口を塞いだのは神庭様でした。
「更紗が言うんだ。もし二人っきりになった時に『自分は珠だ』と自分が言い出しても笑わないでほしい、と。珠と自分はいつも一心同体だから、私たちを愛してほしい、と。――珠」
 照れくさそうに微笑した神庭様のお顔を見て、私は飛び上るほど胸が高鳴りました。
 あれだけ焦がれていた通りに神庭様から自分の名を呼ばれて、どうして逃げ出すことができましょう。
 でも、私は化け猫なのに。
 神庭様は神社の宮司様の息子です。私のことなどお見通しなのでしょうか。その上でからかって、いずれは退治なさるおつもりなのでしょうか。
 ならばいっそ今すぐ――
「退治して……下さりませ。私を退治して下さりませ。私は更紗お嬢様の皮を被った化け猫でございます。どうか、私を退治して下さりませ」
 泣く泣く、ようやくの思いで私は神庭様にそう願い出ました。
 しかし、神庭様は驚きもしなければ怒りいきり立つこともありませんでした。
「もし君が珠だというなら、更紗のことは一番よく知っているはずだろう? 更紗が君に託した願いはなんだった?」
「神庭様と、幸せになること、です」
「明日の朝、目が覚めたら君がいなくなっていたとする。更紗の父上はひどく悲しむとは思わないかい? 私の父も母も娘ができたととても喜んでいたのに。披露宴に足を運んでくださった方々もきっと心配することだろうね」
 噛んで言い含めるように、神庭様はゆっくりと私に言い諭しました。
「何より、僕が哀しいし、さびしい」
 神庭様がそう耳元で囁くのを聞いて、私は体から一気に力が抜け果ててしまいました。
 逃げるなら昨日のうちだったのです。いいえ、更紗お嬢様が亡くなった直後に、私もあのお屋敷を出ていくべきだったのです。いいえ、いいえ、どうして私にそんなことができましょう。更紗お嬢様の、あれは最後の私への言いつけだったのです。
 たとえどんなことでも、裏切ることはできませんでした。
「神庭様。どうか、私が理性を無くして人に仇なすようなことになってしまったら、その時は、どうかどうか、貴方の手で私を退治して下さりませ」
 私がただの猫に戻ったら。人の世のことの何も分からなくなってしまったら。更紗お嬢様から受けたご恩を忘れて更紗お嬢様が大切になさっていた方々に仇なすようなことがあれば、どうか、どうか――
「わかったよ。これは二人だけの秘密だよ、珠」
 祈るような気持ちで、私は神庭様の腕に抱かれ、その晩を過ごしました。
 その後、天罰は一向に下らず、私と神庭様との間には、普通の人間と何ら変わりない健やかな女子と男子が合わせて八人も生まれ、私は更紗お嬢様として、また神庭様の妻として、宮司の妻として、大所帯を切り盛りしたのでございます。天罰が下るまで、と腹をくくり、私は更紗お嬢様になりかわり、できるだけのことをしたのでございます。
 私が猫に戻ったのは、神庭様がお亡くなりになって葬儀も何もかも、一段落終えた後でした。神庭様がいなくなった夫婦の寝所で一人分になってしまった布団を干そうと外に出ようとした時でした。くらりと目眩がし、病一つしなかった私の体はぐらりと前に傾いでいました。
『長い間、ありがとう、珠』
 今際の際の神庭様の耳元で囁かれた声が蘇ります。
「珠、私の分までありがとう」
 更紗お嬢様の優しいお声が耳にしみました。
 これでよかったのかとずっと迷い続けた毎日でしたが、私は今、ようやく呪縛を解かれたようにほっと一息つくことができたのです。
 長い長い、それこそ猫にとっては長すぎる年月。猫に戻った私の毛並みは銀色となり、体は人であった時よりもすっかり老い衰えてしまっておりました。
「あれー、こんなところに猫がいるぞー」
「おばあちゃーん、おばあちゃーん。あれぇ、どこに行ったのかなぁ」
 孫たちの声が聞こえてきます。
 神様、仏様。
 更紗お嬢様、神庭様。
 どうか、今度は私の願いをお聞き届けください。珠の、最初で最後の心からのお願いでございます。
 どうか、この子たちに私の犯した罪が影響を及ぼしませんように。
 子々孫々累々まで、どうかどうか、この子たちが人として幸福な人生を歩むことができますよう。
 私の罪は、黄泉に召された後でよろしければいくらでも償います。ですからどうか――この願い、お聞き届けくださいますよう。




〈了〉







書斎 管理人室

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