縁期暦紀 巻の十四 顔のない男 ―のっぺらぼう―

 おれには名前がない。
 名札には,名前が刻まれている。
 だけど,それはおれの名前ではない。
 おれの名前であって,おれの名前ではないもの。
 おれが,認めていない名前。
 おれが,捨てた名前。
 その名を,教室の奴らは嬉々として呼ぶ。
 嘲笑混じりに。
 おれは,返事をしない。
 それはおれの名前ではないから。
 おれは,何者でもないものになろうと思った。
 おれを捨て,家族を捨て,大好きだったゲームも捨て,この身体さえも,捨てようと思った。
 この身体を離れれば,おれ以外の何者かになれるのだと思っていた。

 空を飛んだ。
 青空の日がいいと思っていた。
 絶好の日和だった。
 靴も履いたまま,学校の屋上から飛び降りた。
 遺書は残さなかった。
 落下すれば意識は薄れると聞いていたのに,残念ながらおれはおれのままだった。
 しつこく意識は身体にこびりつき,なかなか飛んで行かない。
 空に吸収されるもんだと思っていた魂は,なぜか身体にしがみついている。
 誰かがおれの名を呼ぶ声が聞こえた。
 違う。
 それはおれの名じゃない。
 嘲りを含まない,緊迫感に満ちた叫び声。
 誰の声だろう,あれは。
 女? 男?
 どちらでもいい。
 誰も,おれの名前を知らない。
 おれも,おれの名前を知らない。

 ぐしゃぐしゃぐしゃと骨の折れる音がした。
 折れた骨が内臓を突き刺し,肺が膨らまなくなるのを感じた。
 ヒュー,と口から最後の息が漏れる。
 痛みも苦しみも,これでもかというほど全身にのしかかった後,今更のように真っ暗な恐怖が真綿の布団のように重く覆いかぶさってきた。
 目の前は真っ暗だった。
 血の海の中に横たわっているのは肌で感じるのに,何も見えなかった。
 血腥さも感じられなかった。
 開いているはずの口に逆流してきているはずの血の味が,何もしなかった。
「○○君!」
 金切り声が聞こえた。

 学校の怪談と言えば,トイレの花子さんをはじめ,古来よりネタには事欠かない。
 子供たちは純情ゆえにユーモアセンスが豊かだ。見たもの,聞いたもの,思ったことをそのまま物語に仕立て上げる。
 今日もほら,新たな学校の怪談が生まれた。
「学校の屋上にのっぺらぼうが出るんだって」
 何故,密やかにその子が友人に囁いたのか,おれにはその理由がよく分かる。
「あんた,顔が蒼いわよ」
 ボブ頭のいかにも人のよさそうなふっくらとした顔立ちの女生徒が,蒼くなっている三つ編みの女生徒を肘で小突く。
「いくら怖い話が大好きだからって,沙織は自分に重ねすぎるんだよ」
 ボブ頭の女生徒はあっけらかんと三つ編みの女生徒の背中をはたくが,沙織と呼ばれた三つ編みの女生徒は力なくふるふると首を振る。
「わたしも,見たの」
 ボブ頭の女生徒は,一瞬虚を突かれたような顔で沙織を見たが,「なぁに,言ってんの!」ともう一度沙織の肩をはたいた。
 力が強かったのか,沙織はちょっとむせる。
「沙代ちゃんがいつも信じてくれてないのは分かってるけど,本当なの」
「沙織は霊感あるもんね」
「ほら,信じてない」
「沙織が嘘言ってるなんて思ってないわよ」
「でも,見たことがないものは信じられない,って?」
「そういうこと」
 自信満々にボブ頭の沙代は頷いた。
 沙織は,困ったようにちらとこちらを見上げた。
 目が合った瞬間,「ひぃぃっ」と小さな悲鳴を呑みこんで,沙織は顔を背けた。
「何よ,今の悲鳴」
 気の強い沙代につつかれても,沙織は顔を俯けたまま首を振るばかりだ。
 ボブ頭の沙代は,ざっくり切った髪の端を振って,後ろを振り返った。
 きっと睨みつける目が鋭くおれを射抜く。
 そう,あっているよ。そこにおれはいる。
 目を逸らさないまま,疑わしそうに沙代は目を眇める。
 なかなか筋はいい。
 だが,どうやらあれはおれのことは見えていないみたいだ。
「屋上以外にも出るの? のっぺらぼう」
 はぁ,と溜息交じりに沙代は沙織の肩を撫でながら聞いていた。
 おれはつまらなくなって教室を出る。もうすぐ,もっとつまらない出口の授業が始まる。
 出口の歴史はつまらない。
 教科書を音読するだけのつまらない授業だ。
 誰にだってできる。
 時間の無駄だ。
 昔からみんな,出口の授業のときは教科書を立てて,その壁の向こうで数学のドリルを解いたり漫画の新刊を呼んだり,思い思いの時を過ごしていた。
 何年経っても,出口の授業は変わらない。
 何年経ったかなんて,おれも覚えてやしないけど。
 時の流れは出口の髪の量が物語ってくれている。
 ふさふさといい量があると思わせておいて,あっという間にそれらは抜け落ちて,今はバーコード一歩手前のところを後ろから髪を持ってきて前髪を工面して,何とか額を覆う面積を増やしている。眼鏡もわざと顔の半分は隠れそうな大ぶりのものをかけて顔を隠し,それはそれは,見るも哀しい努力を毎日繰り返していた。
 出口の歴史の音読は,淀みがない。滔々と詰まることなく一字一句間違えずに音読されていく。当たり前だ。出口は同じ教科書をもう何年も愛用しているのだから。声のボリュームも変わらない。優秀な生徒たちが内職に勤しむために静かにしている時も,聞かない生徒たちががやがやとおしゃべりを始めた末に教室内で対角線上にキャッチボールを始めても,出口は教科書に載っている言葉以外,始まりと終わりの挨拶を除いて一言も自分の言葉を発しない。
 それはまるで,教科書にないことを教えることを恐れているかのようだ,と気づいたのは,出口の授業を何周聞いた時だっただろう。
 出口は,規則正しいロボットのようだった。
 教科書にある言葉以外発しない出口に,質問する生徒は皆無だった。
 だから,彼が他に何の言葉を発することができるのか,興味を持った時期があった。
 幽霊だからといって,死んだ場所に縛られているわけではない。屋上に出る,と噂されているが,それはたまたま屋上で見える生徒に見かけられただけで,おれはふらふらと校内を自由に散策することができる。校内から出たことはない。校庭を歩くことはあっても,校門を通り抜けたことはない。校門の向こうの世界に,特に用はなかったからだ。
 おれは,授業が終わって教室を出た出口を尾行した。
 出口は,机と本棚で歩く間もない狭い歴史準備室に入っていく。
 おれも当然,静かに閉められた扉をすり抜けて後に続く。
 出口は真面目に静かに教材――もとい教科書一冊なのだが――を資料の山積みとなった机の上に置き,椅子に座ることはなく,職員室に戻っていった。
 歴史準備室の出口の机周りに私物と思われるものは一切ない。
 月刊歴史の雑誌や,教材研究の雑誌はもう何年も昔のもので,埃が積もって白くなっている。本棚の一番下の隅っこには,積み重ねられた段ボールに隠れるようにして,やはり埃をかぶった黒い皮表紙のついたA4サイズの紙の束。背表紙には「春日山第五層からの縄文土器出土に見る縄文人の宗教文化について」なる小難しい論文のタイトルと思われるものが印字されているのが,かろうじて見えた。執筆者は共同らしく,小さな文字で何人かの名前が記載されているようだが,こちらは完全に埃で白くなっていて読むことはできない。
 論文の横には,縄文ジャーナルと書かれた論文雑誌が何冊か並んでいたが,これもまた,何年も前で新刊が途切れてしまっている。廃刊にでもなったのか,縄文土器への興味が薄れたのか。
 おれはぐるりと歴史準備室の室内を眺めた。
 漢字が並んだ背表紙ばかりがぎゅうぎゅう詰めにされた本棚だけの,つまらない部屋だと思った。
 出口は職員室でも一言も発しなかった。他の先生に話しかけられることも滅多にない。教頭に呼ばれることはあっても,帰宅時の飲みに誘われることはない。
 根暗なオタクだ,と,新米女教師は陰でひそひそ笑っていた。
 陰で,と言っても結構声の高い女だったので,当然出口の耳にも入っているのだが,一瞬昼のお弁当を食べる箸が止まったくらいで,出口はやはり何も言わなかった。
 出口はお弁当を持ってきている。
 これは,おれにとっては意外なことだった。
 弁当を作ってくれる家族がいるということだ。
 しかし,弁当の中身は煮物が多く,そのうち,たまにガラケーにかかってきている電話から,母親が毎日弁当を持たせているのだということが分かった。
 出口は,毎日同じような茶色い色をしたその弁当を,文句ひとつ言わずに無言で口に運んでいる。
 耐えてるようだな,とおれは思った。
 ずっと何かに耐え続けているようだ,とおれは思った。
 何に耐えているんだろう。
 聞きたくても,おれは出口に話しかけられない。
 おれのことが見える生徒たちは,おれを見ると必ず蒼ざめて,こう叫ぶ。
「のっぺらぼー!!」
 と。
 のっぺらぼうとは,おれの知る限りでは顔のないお化けのことだ。
 おれは自分で自分を幽霊だと思っていたが,どうやら幽霊という存在を飛び越して,さらに特徴的な存在となってしまっていたようだ。
 トイレの鏡で確認を試みたこともあったが,幽霊だからかおれの姿は鏡には映らなかった。
 これでは,おれ自身いるのかいないのか分からなくなりそうだ。
 なんて嘆きつつ,手で顔を触ってみた時のことだ。
 ようやく思春期の子供たちがおれのことをのっぺらぼうと叫ぶ理由が分かった。
 おれの顔は,真っ平らだった。
 まず,顔の中央にあるはずの鼻がない。鼻梁の緩やかな丘陵も,さして高くもなかった鼻の頭も膨らんだ両小鼻も,手のひらに引っかかっては来なかった。
 指の腹に感じるはずの濃い眉の感触も,手のひらの腹に感じるはずの湿った厚手の唇も,多少盛り上がった頬骨の感触も,手には何も残らなかった。
 顔から一切を削ぎ落としてしまったかのように,そこは真っ平らだった。
 ひう,と気道を空気が素早く吸い込まれていった。
 と思ったのも,もう何もかも気のせいだと,おれは気がついてしまった。
 今見えているものも,何を通じてみているのか分からなくなってから,ばっつりとブレーカーが落ちてしまったかのように真っ暗になってしまった。
 おれは,真っ暗闇に閉じ込められてしまった気がして,叫んだ。
 開く口もないことに気づいて,声のない叫びを心で上げなければならなかった。
 どうして,そんなに絶望したのかはわからない。
 おれは,それでも苦しかった。
 肺などとうに失われているはずなのに,息が苦しくなって,胸元をかきむしった。
 幽霊なのに。
 幽霊なのに,おれは発狂したんだ。
 身体がない以上,意識だけの存在となってしまった以上,眠りという便利なインターバルが敷かれることはない。時間は連続し,恐怖から解き放たれることなく闇の中で悶えながら,やがておれは,はっと,我に返った。
 今まで,見えていたのはどうしてだ?
 その疑問を心の中に深く深く,しみ込ませ,忘れることのないように一文字一文字刻み込んでいく。
 今まで,見えていたのはどうしてか。
 目がなくても,見えていたのはどうしてか。
 一つ一つ,理論立てて問いを投げかけ,呼吸を落ち着かせていく。
 せわしなく上下していた肩が,やがて平静を取り戻す。
 闇は少しずつ払いのけられ,意識的に作り出された学校の風景が靄の中から現れだす。
 白い光。
 アルミサッシの向こうの青い空。風にそよぐ緑の梢。乾いた空気の流れる白灰色い職員室。机の上の黒いモニターと睨めっこをする先生,椅子の背もたれに寄りかかって伸びる先生,仕切りで分けられた給湯室で悪口に花を咲かせる新米女教師。そして,黙々と歴史の中間テストの採点をしている出口。
 日常が,目の前に蘇った。
 それを機に,おれは出口を追うのをやめた。
 他の教師に興味が湧くこともなかった。
 校内を適当に散歩して,今年は理科の先生の筋がいいな,とか,音楽教師はどうして相変わらず音痴なのか,とか,そんなことばかり,見て歩いている。
 いじめられている生徒がいても,おれは見て見ぬふりをする。
 彼らには,おれが見える。
 大抵,彼らと出会うのは屋上の入口だ。
 別に自殺を止めようと思って待機しているわけじゃない。
 ただ,いい天気の日にばかり,奴らはこぞって屋上から飛びたがるのだ。
 あの青空の向こうに天国があるとでも信じているかのように。
 彼らは,俯きながら屋上までの階段を上ってくるのかと思いきや,たいていの場合は意気揚々と顔を上げて決意と希望に満ちた顔で上がってくる。
 だから,ばっちりとおれと顔があってしまうのだ。
 彼らは,屋上の扉がある最後の踊り場までたどり着く前に,最後の踊り場で屋上の扉に嵌められたすりガラスの窓から青い空を見上げた瞬間,その傍らで物思いにふけるおれの姿を見て,はっとしたように顔を凍りつかせるのだ。
 笑ってしまう。
 これからお仲間になろうという奴らが,なぜおれの顔を見て悲鳴を上げて階段を駆け下りていくのか。
 覚悟が足りないのだ,覚悟が。
 自分に自信がないだけで,飛び降りようと思うな。
 飛び降りたら意識がなくなるなんて嘘だからな。身体中の骨が折れる音はかなりやばいからな。自分の骨で内臓ぶっさされる気分は相当悪いんだぞ。
 そんなこと,伝えるまでもなく,彼らはおれの顔を見たら,もう二度とここには上がってこない。
 失礼な。
 とあるとき,さすがにおれも腹に据えかねて,一言言ってやろうと自殺志願者を教室まで追いかけたら,そいつときたら,どうしたと思う? 今までさんざん悪口を言わせていた主犯格のクラスメイトの影に隠れて,震えながらこちらを見ているんだ。
 嫌われていることなんて吹っ飛ぶくらい,助けてくれと恐怖心が勝ったのだろう。
 まったく,何が幸いするのか分からない。
 そのクラスでは,自殺しようとしたそいつ意外にもおれのことが見えている奴がいて,昼間っから教室中が大騒ぎになったのだ。
 その昼しょっぱなの授業が出口の歴史だったものだから,まぁ,その一時間がどうなったのか,後は御想像にお任せすることにしよう。
 それからしばらくは,おれの屋上ライフは平穏に保たれていたのだが,ここで冒頭,沙織と呼ばれていた少女が久しぶりに屋上に上がってきたことに,この話は端を発する。
 え,前置きが長いって?
 大丈夫,時間なら気にするな。この後の話はそう長くはならない。
 沙織は,自殺しようと屋上階段を上ってきたわけではないようだった。
 ただ,お弁当を携えて,昼休みに一人屋上階段を上がってきたのだ。
 沙代,という仲のよさそうな友人がいるのに,思春期の女心とは分からない。
 彼女が膝の上に広げたお弁当は,出口が毎日持ってくる弁当のように,煮物で茶色く,汁漏れして弁当を包むハンカチからもしょうゆくさい臭いが漂ってきていた。
 なるほど。中学生女子の弁当にしては,きらきら感に欠ける。インスタ映えもよろしくない。しかし,何年もこうやって人生の延長戦をやっていると,その弁当が栄養的には結構考えられているものなのだ,ということが分かってくる。弁当は彩だけじゃない。おふくろの味的な弁当だって,愛情なのだ。
 沙織はクラスでも目立つ方ではないが,いじめられているわけではない。仲間外れにされているわけでもない。沙代というボブ頭の肝っ玉母さんのような少女がいつも側にいて仁王のように守ってやっている。別にクラスでしょうゆくさい臭いを振り撒こうが,即座にいじめのターゲットにされることはないだろうに,一体何を考えているのだろう。
 むしろ,今頃沙代は一人で弁当を食べているのではないだろうか。
 しかも,沙織は堂々とおれの膝辺りに体半分をつっこみながら,おれに気づく様子もなく弁当を食べている。
 沙織は,おれのことが見えなくなっていたようだった。
 無言で弁当の煮物を箸で崩し,口に運んでは,おにぎりをかじる。
 おれはいつまでも身体の一部を浸食されているのも気持ちが悪いので,沙織の前に移動してみた。
 沙織は気づかずにほろほろのジャガイモを口に運んでいる。
「おい」
 と,おれは呼びかけてみる。
 もちろん,口がないのだから言葉など実際には発せてはいないのだろうが――ああ,そうか。見えると信じておれは今ものを見ている。それと同じように,喋れる,と信じてみてはどうだろう。
 おれには,口がある。
 と。
「ひっ」
 沙織は悲鳴を上げた。
 視線がおれの口元辺りに注がれている。
「見えてるな?」
 そう言うと,沙織は今度はもっと長い悲鳴を上げた。「ひぃぃぃぃっ」と。
 逃げようと律儀にも弁当を片付けはじめた沙織に,おれはにやりと笑う。
「沙代はどうした?」
 虚を突かれたように,沙織はおれの口元を見た。
「どうして,知ってるの?」
「知らないから聞いている。いつも一緒につるんでいた沙代はどうした? 今頃一人で弁当食ってるんじゃないのか?」
 沙代はおれから顔を背けた。
「なんだ,休みか? 風邪か? 腹痛か?」
 沙織はどれにも首を縦に振ろうとはしない。
「喧嘩でもしたか?」
「……」
 無言という反応がようやく返ってくる。
 沙織は手早く弁当を抱えると立ち上がり,顔も上げずに呟いた。
「転校」
 と。
 そして,階段を駆け下りていく。
 以来,沙織は一度も屋上に来なくなった。
 おれは久しぶりに沙織のクラスに行ってみる。
 折も折,出口の授業中で,このクラスは騒ぐタイプのクラスだったらしい。
 口の達者なお調子者が,出口を押しのけてクラスを盛り上げている。
 廊下際の一番後ろの空席を指差して,嘲笑っている。
「前田はさァ,どうして転校したかわかるゥ?」
 空席のひとつ前に座っている沙織は無表情を装いながらも,肩に力が入っているのが分かる。
 出口はお経のように教科書を音読しつづけている。
 「ひゃはははは」と下卑た笑いがクラス中から湧き上がる。
 嫌な空気だ。
「はぁい!」
 化粧ばっちりの気の強そうな女生徒が調子に乗って手を上げる。
「はい,どうぞ」
 お調子者に指されて,化粧ばっちり女生徒は悪気なく言う。
「びんぼーだったからー!」
 ひそひそと相槌を打つように「親の都合って,そういうことだよね?」「塾行くお金もないって言ってたもんね」と,発言権を得る気のない生徒たちが囁き合う。
「えー? それだけェー?」
 なおもお調子者は煽る。
「違うよなァ? そこの陰気くさいしょうゆ女と,仲良くしつづけてたからだよなぁ? だろォ? 枝野ォ?」
 びくりと沙織の肩が震えた。
 開いた教科書の一点を見つめ,沙織は唇を噛みしめ,机の下で拳を握りしめ,耐えている。
 おれは,教科書に集中したふりをしている出口の前に立ってみた。
「出口センセ」
 呼びかけてみる。
 出口は教科書を唱え続ける。
 教科書に書いてある呪文を唱え続ければ,この地獄から解放されるとでも思っているかのように。
「でーぐーちーせーんせっ?」
 ひとつ言っておくが,おれは死んでからこの方,出口に話しかけたことはない。交信を試みたことさえない。ただ一方的に何日かストーカーしてみただけだ。
 でも,おれは気づいていた。
 こいつには,おれが見えているって。
 教科書の呪文が途切れた。
 両手は教科書の端をがっちりと握りしめ,かすかに震えている。
 教科書の影に隠れて内職をしていた生徒が先生に見つかった時のように,出口はおそるおそる顔を教科書から上げる。
 目の前には,おれの顔。
 悲鳴が上がらないわけがない。
 出口は盛大に悲鳴を上げた。
「田淵ぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!!」
 それは,生前おれの名札に刻まれた名前だった。
 顔のないのっぺらぼうのはずのおれを,出口ははじめて認識したのだ。
 出口の悲鳴に,教室が静まり返っていた。
「え,何? 出口どうしたの?」
「てか,あいついつ来てたの?」
「なんだ,5限,歴史だったの?」
 ひそひそと見えない生徒たちは囁き合う。が,見える生徒たちは,凍りついているのが背中を向けていても分かった。
 おれは,真っ直ぐに出口を見つめていた。
 出口は,大きな眼鏡がずり落ちかけているにもかかわらず,直す余裕もなく,ただ唖然としておれを見ていた。なお,腰は少し黒板側に退けてきている。
 久しぶりに名を呼ばれて,おれは手足の先に力が入っていくのを感じていた。
 生きているわけでもないのに,不思議なものだ。
「田淵,お前,顔……!!!」
 失礼にも,出口はおれの顔を人差し指で指さし,顔をパクパクさせていた。
 おれは自分の手を顔の前に持ってきてみる。
 どうせまっさらなんだ。
 鼻も眉も瞼も口も,何も手の平に触れなかった日から,おれは顔にパーツがあるかを確認したことはない。
 だけど,おれは今,出口の前で試しに手のひらを顔に当ててみた。
 手のひらの真ん中に,鼻の天辺が当たった。濃い眉の毛先が指の腹をくすぐり,唇の割れ目から湿った息が手首のあたりに吹きつける。
「ははは」
 笑い声が漏れた。
「あはははははは」
 笑いながら,おれはくるりと教室の生徒たちの方を振り向いた。
 教室中が凍りつく。
 見える奴も,見えない奴も,何か異様なことが起こっていることを察したようだった。
 沙織だけが,ぽかんとおれを見ている。ああ,そういう顔をしていたんだ,という顔で,やけに納得したような,静かな表情をしていた。
 おれは,口達者なお調子者をひたと見つめた。
 目が合う。
 奴には,おれが見えている。
 おかしなことだ。
 おれのことが見える奴は,大概自分に自信がない。
 出口は,授業で間違えたことを教えるのが怖くて教科書にかじりついていた。特に,縄文時代。大学院時代,発掘に精を出して掘り当てた土器の欠片が偽物だと報道された時から,物言わぬ貝になろうと努めてきた。それでも歴史準備室の片隅に問題の論文が置かれたままになっているのは,まだ夢を諦めきれていないからだ。嘘つきだと言われても,偽物だったと言われても,自分が為したことが間違いだったと思いたくなかったからだ。
 だから,彼は何も教えない。
 一言でも自分の言葉で生徒たちに語りかけたら,嘘を教えたと後で後ろ指差されるのが怖いのだ。
 職員室でも何も言わない。
 問題の偽物遺跡の発掘調査に関わっていたと,職員の誰もが知っているから,何かを言われるのが怖いのだ。その臆病さゆえに,あらぬことまで噂されていたとしても,彼にとってはこの職場はただのライスワークの場所。そう割り切らないとやっていられなかった。
 出口は母親に電話しているとき,年相応の男性らしい喋り方に戻る。
 母親を心配し,宥め,大丈夫だから,と軽く笑い流す。その声は,歴史の教科書を棒読みする頼りない教師のものとは別のものだ。
 出口は,自信がない。
 自信がないから,おれが見える。
 そう,じゃあ今おれに視線を注いで寄越しているこの教室の奴らの多さときたら,どうだ。
 「貧乏だから」と頭悪そうに言った化粧の濃い女生徒も,口達者で周りを煽り立てていた生徒も,おれを見ている。
「お前ら,全員顔なしかよ」
 声が聞こえたらしい何人かが金斬るような悲鳴を上げる。
 おれは机の合間を縫って,口達者な生徒の前に立ってみた。
 可哀そうに,目を逸らせないでいる口達者な生徒は,蒼くなっておれを見ている。
 おれは,にやりと人の悪い笑みを口元に浮かべてやる。
「楽しい?」
「ひっ」
「ひっ,じゃなくてさ。楽しい? 他人のこと嗤って自分保つの」
「っっっ」
 言いたい言葉をまとめられずに,口達者なはずの生徒は口ごもる。
 次に化粧の濃い女生徒の方に顔を向ける。
「すっぴん,そんなに自信ないの?」
 女生徒の顔はチークを入れなくても真っ赤に染まっていった。
「その化粧,制服に合ってないよ。浮いてるよ」
 浮いている,と強調して言ってやると,女生徒は何かを喚こうとしたが,周りからの白い視線に耐えきれず,顔を伏せた。
 教室の生徒たちは,いまやおれの味方だった。
 口達者なはずの生徒を蔑みの目で見,化粧の濃い女生徒を白い目で見る。
 そんな生徒たちを,しかし,おれは白い目で見渡してやった。
「言いたいことを言えないで迎合ばかりしてるお前たちも,同じだよ」
 そう言い放った時,おれも自分に酔っていたんだ。
 ふ,と我に返って教室の変な形の穴が無数に開いた天井を見上げる。
 昔から変わらない変な模様の開いている煤けた白い天井。
 何やってんだろう,おれ。
 踵を返して,出口の前に戻る。
 出口はおれが一歩近づくごとに黒板と同化しようと試みたようだが,スーツにチョークの粉がつくだけに終わった。
「た,田淵,お前,こんなとこで,ななな,何をやってる!」
「何やってるって,何を今更」
「が,学校に出る,の,のっぺらぼう,が,お前だと,分かっていたら」
「分かっていたら?」
 出口はごくりと唾をのみ込み,じっと真っ直ぐにおれを見据えた。
「田淵龍一郎,お前は生きている」
 その瞬間,おれは消えていなくなった。

 その模様をトラバーチン模様というのだと聞いたのは,就職先で建築に携わるようになってからだ。
 渦を巻きそうで巻かない,S字模様や掠っただけの線や点が白いボードに刻まれている。
 視界は白くぼんやりしているのに,黒い刻み模様だけが夢の中の教室の続きのようにそこにあった。
『田淵龍一郎,お前は生きている』
 出口の張りのある声に弾き飛ばされるようにして,おれは今ここにいた。
 おれは結局,自分が田淵龍一郎であることを認めてしまったのだ。
 クラスのみんなからいじめられ,からかわれ,嘲笑われ,それでも何も言い返せず小さくなるばかりだった自分の心を保つために,おれは自分の名を捨て,自分はみんなからいじめられる田淵龍一郎ではないと言い聞かせ,田淵龍一郎という存在から距離をとり続け,逃げ続けようとしたのに,おれは結局,田淵龍一郎だったのだ。
 田淵龍一郎に戻ってしまったわけではない。
 おれははじめから田淵龍一郎で,一度たりとも田淵龍一郎ではなかった時はなかった。
 それなのに,田淵龍一郎であることから逃げたがために,おれは顔を失い,何年もあの校舎を彷徨っていた。
 おれは,いじめられている田淵龍一郎が自分だと,自分で思いたくはなかったのだ。
 惨めなその男子生徒を,自分だと受け入れることができなかったのだ。
「田淵さん」
 と,おれが目覚めたことに気づいて慌てて駆けつけてきた看護師は,おれのことをそう呼んだ。
 何か変だな,と思ったのも束の間,見覚えのある面影を宿してはいるものの,髪の大部分が白くなってしまった両親が駆けつけてきた。
 わっと泣きつかれて,おれはどうしたものかと思う。
 それから間もなく,子供を連れた姉夫婦が駆けつけてきて,おれははじめて姉の旦那さんに目だけで挨拶をした。
 次いで,出口がおれのことを確かめに来た。
 家族水入らずのところに,泡を食って駆け込んできたのだ。
 ずり落ちた大きな眼鏡の向こうで,目が驚きに見開かれる。
「あ,りが,と,う」
 壊れかけたロボットのような声が,途切れ途切れに何とか押し出された。
 その声に,聞き覚えもない。
 やけに手足の先が遠い。身体も重い。
 それでも,手の指の先には僅かながら力を込めることができた。
 出口は,「ああ,ああ」と壊れたように呻き声を上げ,ついにはベッドの下に土下座して泣き出したのだった。
「止めることが出来なくて,申し訳なかった」と。
 何を止められなかったのか。いじめか? 飛び降りか?
 そう言えば,落下している最中,誰かがおれの名を呼んでいたっけ。あれは,出口だったのかもしれない。
 おれは,首を動かすこともままならず,不自由なまま,変な模様の白い天井を見上げていた。
 のちに聞いたところでは,一番損傷がひどかったのは顔だそうで,そんな気はなかったけれど,両手で頭を抱えて衝撃を和らげようとした形跡はあったものの,うっかり顔面からぐっしゃりといってしまったらしい。
 そもそも助かるような高さではなかったのだから,生きていただけでもめっけものなのだろうが,顔は整形に整形を重ねて,なんとか人らしい形を作ってもらったのだそうだ。
 足は麻痺が残り,リハビリは続けているものの車椅子での生活が始まった。
 あれから十年が経過して,奇跡的にのっぺらぼうから人に戻ったおれは,今は学校をはじめ人の集まる建物を設計する事務所に就職し,目下建築士の資格を取るために勉強中だ。
 いつか,あの学校を建て直すときに自分の図面が採用されることを夢見て。

〈了〉
(201805210104)