さあさ、今日も客が来るよ。
そこ、どいとくれ。玄関に水を撒いてしまうからね。
ああ、その前にこの面をつけなけりゃ。
昼間っからただで見せてやるような顔じゃないんだよ。
え? なぜ狐の面かって?
そりゃあんた、手持ちがありゃその面をつけるだろう。
は? 狐の面をつけなくても十分狐顔だって?
はん、そういうあんたも狐顔だね。
見りゃわかるだろう、この顔の火傷を隠すためだよ。
何? 今宵の客になりたいって?
冗談はよしとくれ。あたしは女と枕並べる趣味はないよ。
いやいや、そういうわけにはいかないよ。
話を聞かせて一夜分だなんて、そんなね、大した価値はあたしの話にはないよ。
さ、帰りな。帰っとくれ。
これ以上商売の邪魔をするなら――
「私も、同じ狐の面を持っているのです」
女が風呂敷包みから取り出したのは白い狐の面だった。
狐の面なんてその辺のお稲荷様の縁日にいきゃァ、誰だって手に入る代物だ。
じゃあどうしてあたしが言葉を失ったかって?
そりゃあ勿論、その面があたしの面と対になる男狐の面だったからだよ。
この狐の面は三縞稲荷さんの祭りの日に神楽の舞い手がつける面だ。目周りには金環が嵌め込まれ、眦には蟀谷まで伸びる赤い紅。額や頬には青で眉髭、眉間からは藍で鼻筋がひと引きされている。男女とも同じ作りだが、女狐の面は目元に愁いが宿り、紅の引かれた口元は男を誘うようにうっすら開く。一方、男狐の面は力強く眦が切れ上がり、自信が覗く口元には男の色香が匂いたつ。その左頬にはあの日刻まれた深い傷。
「あんた、その面をどこで?」
「聞かせていただけますか? あの日のことを。勿論、お代は先にお渡しいたします」
白い細面に愁いを帯びた切れ長の目を持つ女は、にこりと笑んで一夜分の銭を差し出した。
あたしが生まれた三縞の里では、五穀豊穣を祈って毎年里のお稲荷さんに神楽を奉納する。神楽は神社の縁起に則って、男狐と女狐が出逢って夫婦となり里の大地に豊穣をもたらすまでが描かれるんだがね、里からは毎年十五になる男女が一人ずつ選ばれて、それぞれ男狐と女狐の面をつけてこの夫婦役を演じるんだよ。
十五という年は、三縞の里では大人として認められる年だった。
その十五の夏、あたしはその神楽を舞う栄誉に与った。
相手は隣の又吉。
これがまたいい男でね。青草の上を吹き薙いでいく風みたいな爽やかさがあってさ、そこらの田んぼで泥だらけになってる男どもとは一枚も二枚も違ってたんだよ。そのくせ小さい頃からお信ちゃん、お信ちゃんってあたしの後おっつけ回してさ、子分のようだと思ってたのに、いつの間にかあたしより背丈も態度もかわいくなくなっちまってね。
「そんなお転婆じゃ、誰ももらってくれないぞ」
なんて憎まれ口叩いちゃってさ。
でもその後決まってこう言うんだよ。
「しょうがない。顔だけは三縞小町と謳われるお信ちゃんだ。隣の誼でオレがもらってやらなくもない」
非道いだろう? 顔だけは、とかもらってやらなくもない、とかさ。
素直に「もらってやる」って言えばいいのに。
だけどあの見目良い又吉が言うもんだろう?
年頃のあたしもついきゅんとなっちまってさァ。それでも悟られないように、あたしだって腕を組んでふっかけてやるんだよ。
「しょうがない。あんたのお袋さんにはいつも世話になっているからね。あんたのような性悪男のところでも、嫁が来ないとおばちゃんも何かと大変だろう。そんなに言うなら嫁に行ってやらなくもない」
なんてさ。
ああ、あたしんところは母親がいなかったんだよ。あたしが生まれてすぐに出てっちまってね。そもそもどっから来たかもわからない女だったらしいけど、美しさだけは里一番でさ、いつの間にか女狐の面を手にしていたんだと。その時男狐の面をつけていたのが親父で、あたしはその時の子供ってわけ。だからなのかは知らないけれど、親父は結局男やもめのまま十二のあたしを残して死んじまった。それから何くれとなく面倒を見てくれたのが又吉のお袋さんだったんだよ。
春の稲作が終わって、あたしと又吉は前年の狐役の夫婦から神楽の型を習うようになった。そのうち二人だけで稽古をするようになって……ふふふ、あの時が一番楽しかったかねぇ。又吉にあの夏の夕べのようなしっとりした声で「お信ちゃん」なんて耳元で囁かれる度に、あたしの胸はその辺のせせらぎよりも早く高鳴ってさ。とにかく、あたしは幸せで幸せで、あたしの周りだけ飛ぶように日が過ぎていくようだったよ。
だから、いつからだったのかなんてわからない。
あいつはずっとあたしに恋してるものだと思ってた。
あたしがずっとあいつにそうであったように。
あたしたちは三縞稲荷さんの縁起通り出逢って恋をして、そして夫婦になるもんだと思ってた。
まさかあいつが他の女とできてたなんてこれっぽっちも、気づいちゃいなかった。
あたしがそれを見たのは神楽を舞う前日だった。
お稲荷さんの神楽殿で最後の稽古を終えて、感慨もひとしおに舞台を降りて家に帰ろうとした時だった。
そうだよ、あいつはね、いつの頃からかあたしを置いて先に帰るようになってたんだよ。
どうせ隣同士なのに帰りまで二人なんて恥ずかしいから、なんて言い訳してさ。
あいつは人の来ない境内の裏、木立に囲まれた薄暗いその隙間で、妖しげな空気を纏った女と逢っていた。
女とは言ったが、背格好はあたしと同じ十五くらい。田畑の仕事に精を出しているその辺の同い年の子たちに比べれば肩も腰も腿も華奢でね、裾からは傷一つない白いふくらはぎと足首が見えていたよ。
見たことのない女だった。
何しているの、又吉!
あの時そう叫べていたら、何かが変わってたんじゃないかって今でも思うよ。
だけどあたしは悲鳴一つ上げられなかった。
気配に気づいて顔を上げたあいつと目が合ったってのにだ。
あいつはあたしなど見なかったかのように再び目の前の女に視線を落とし、あたしの目の前であの女の口を吸った。
あたしは怒りで身体中がカァァッと熱くなって、もう無我夢中で家まで駆け抜けた。
悔しくて、悔しくて、悔しくて、どう懲らしめてやろうかと、いや、それ以前にあんな女がいることに全く気付かず、先走ってあいつの嫁を気取っていたことが恥ずかしくて、恥ずかしくて、もう死んでしまいたいと……あんたも女ならわかるだろ? 小娘の感傷はいちいち命懸なんだよ。だからさ、あたしの復讐も命懸のものになったんだ。
あたしがあの場から逃げ出そうと一歩後ずさった直後、又吉に口を吸われていた女も一瞬、あたしを横目で見たんだよ。
そりゃあもう美しい顔だったね。
愁いを帯びながらもきりりと上がった眦と、さくらんぼ色の魅惑的な唇。足に負けず劣らず陶器のように白い顔。ほんのり上気した桜色のほっぺた。
この世のものとは思えない美しい女だった。
あれは魔性だよ。
三縞小町ともてはやされたあたしだって、この通り、三日見れば見飽きる顔だ。そんな女しか見慣れていないあいつにとっちゃ、あの女はまさしくこの世のものならぬ女神のような存在だったに違いないよ。
その女の顔は右半分しか見えなかったがこの狐の面によく似ていた。
あたしが明日かけなきゃならないこの女狐の面に。
そうだよ、わかっちまったんだよ。
あの女は、この女狐の面をかけた女に毎年宿るものなんだって。
又吉の見目がちょっといいから待ちきれなくて出てきちまったんだって。
なのに明日、あたしはあの女にこの体を明け渡すために己を失うまで舞うんだ、って思ったら無性に腹立たしくてね。
あの女にこの体とられてなるものかって。
その夜、あたしは鏡を見ながら手燭に灯した炎で顔の左側を炙った。
醜くなるために。
あの女が拒絶するくらい、醜い女になるために。
翌朝、あたしは面をつけたまま家を出た。そのまま神社の裏を流れる沢で潔斎を済ませ、夜、赤々と松明が灯された神楽殿の舞台に上がった。
あいつとはその時まで一言も喋らなかったよ。
あいつも一言も喋らなかった。
気まずいなら謝ってくれればよかったんだ。せめてあの女が何なのか言い訳してほしかった。
でも、あいつは何も言ってくれなかったんだよ。
何も言ってくれないまま、あたしたちは舞台に上がり、そらぞらしく夫婦となる狐の舞を舞った。
それでも里の人たちは熱中して見ていたよ。普段娯楽なんてないからね。その後ろでは子供の枷を外された男女が目配せしながら闇の中に消えていく。それを見た瞬間、あたしは思っちまったのさ。
ああ、あたしの相手はもうどこにもいないんだ、って。
あたしは舞うのをやめた。
ちょうどあと一手、男狐と女狐が夫婦として結ばれようとしたところだったよ。
狐の面越し、すぐ側にお互いの顔があった。息遣いが聞こえるほど側近くに。
あたしがあいつの腕の中で動きを止め、里人たちも異変に気づいて息をのみ、静まり返った。鳴りつづけていたお囃子も途切れていった。
篝火の爆ぜる音が聞こえた瞬間、あたしはあいつの目の前で、かけていた女狐の面を剥ぎ取った。
あいつの目があたしの顔の左側、醜く炎でやつれた部分に注がれていた。
あたしはにぃと嗤った。
左の頬は引き攣ってうまく動かなかった。
その瞬間、あいつは悲鳴を上げてあたしを舞台の端に突き飛ばした。
ざまァない。
あいつは腰が抜けて尻餅をつき、あたしから少しでも身を遠ざけようと両手両足でもって無様に舞台の上を逃げていく。
あたしは立ち上がって堂々とあいつを舞台の隅に追い込む。
追い詰められたあいつは脂汗をかきながら意味のない言葉を喚き、見開いた目を白黒させながら篝火の支柱を掴んで渾身の力でその篝火を振り回した。
籠に入れられていたいくつもの燃え盛る松明が神楽殿中にばらまかれ、あっという間に燃え広がった。間の悪いことに沢からさっと涼風なんかが吹き上げてきたりして、神楽殿にたかる火の粉を本殿へと連れてっちまった。
そりゃもう大騒ぎさ。
火を消せ。水を持て。いや、逃げるのが先だ。賽銭はどうする? 持って逃げろ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。
だぁれも、神楽の舞台にいるあたしたちには目もくれなかった。
だぁれも、あたしたちを助けようとなんかしなかったんだよ。
あたしはね、むしろ好都合だった。
着物に燃え移った炎を纏い、自分に酔いながら一歩、また一歩、あいつに近づいていく。
ああ、これでようやくあたしたちは名実ともに夫婦になれる。
あの世にまでは、さすがにあの女狐も現れまい。
そりゃァもう嫁入り気分さ。
あと一歩。あいつの前に膝を折り、外れかけた面を取ろうと顔に手を伸ばしたときだった。
「又吉さん!」
あいつの名を呼ぶ女の声が舞台の袖からしたんだよ。
はっとしたようにあいつはあたしから目をそらしてねェ、女の方を向いたんだ。
「お連!」
つられてあたしもそっちを向いた。
あんたそっくりな狐顔の女だったよ。
それはもう、得も言われぬ色香と情熱に満ちた婀娜っぽい顔でねェ、その美しい顔で女は屹とあたしを睨み据えた。
「逃げましょう、又吉さん」
飛び散る火の粉を払うような凛々とした声だったよ。
ちょうどあんたのような、ね。
いや、あんた似すぎじゃないかい?
本人……なわきゃないか。だってあいつもあの女も、あのとき――
とにかくあいつは、途端に恐怖も忘れて恍惚としながら頷き、女に手を伸ばした。
「お連」
花畑にいる天女にでも出逢っちまったかのようなすっとぼけた顔をしていたっけね。
あたしは嫁入り気分も吹っ飛んで、憎らしさだけが湧き上がった。
そうさ、胸に秘めていた短刀を抜き放ち、力任せにあいつの顔に振り下ろしてやったのよ。
でも、そう簡単にはいかなくてね。
あたしの短刀の切っ先は、がつりとあいつの取れかかった男狐の面に突き立っただけだった。なおも力を込めるとようやく切っ先は面の下に沈み込み、紐の緩んでいた面はずるりとあいつの顔に傷を引きながら剥がれ落ちた。
情けない悲鳴が轟き渡る。
刹那。
巨大な篝火のように赤く燃え盛る神楽の舞台櫓は、あいつとあの女を道連れに屋根ごと崩れ落ちちまったのさ。
一寸の差で助かったあたしは、うっすらと焦げ目のついた女狐の面を拾い上げ、ふらふらとそこを離れたんだ。
その後は見りゃァわかるだろ。
このとおり、里に帰れず遊里なんて名のつく里で奇態なこの身を売っているってわけさ。
さ、話は以上だよ。
何を、嗤ってるんだい?
そんなに吃驚な話かい? いや、そうだろうけれども、そんな笑い方するもんじゃないだろ。
「嫌だねぇ、この子は。惚れる男の顔まで一緒とは、ほんと血は争えない。でも残念。あんたはもうここから出られない。一生ここで這いつくばっているがいいさ」
そう言うが早いか、女はさッとあたしの顔から女狐の面を剥ぎ取った。
鏡の前、焼けて引き攣れた左顔が露わになる。
悲鳴は上げなかった。が、それを呑み下すために僅かに喉が動いた。
「かわいそうに。綺麗な顔だったのに。お前なら、私の顔になれたのに」
女は片手であたしの頬を包み込むと、右手の爪を引き攣れた火傷の痕に喰いこませた。
「離、せ……っ」
力任せに押し払うと、窓際に転がった女はくっくっくっと喉元で笑った。その手にはしっかりとあたしの女狐の面が握られている。
「お社は再建されたの。男狐の面は手元にあるけど、女狐の面がなけりゃ神楽は舞えないだろう?」
不気味に歪んだ顔に、女は女狐の面をかけた。
炎の熱さに少しばかり焼け色を滲ませていた女狐の面は、あっという間に女の顔に馴染んで一体となり、見覚えのある顔となる。
「あたしの、顔」
面に手を伸ばしたあたしは愕然と呟く。
女は得意げに立ち上がり、あたしを見下ろした。
「ああ、ようやく顔を手に入れられた。これで今日から私もお前になれる」
ぽかんと口を開いたあたしを置いて、女は勢いよく格子窓を引き開けた。
丸い月が溝川の柳にしなだれかかっている。
「待って。あんた、どうしてここに」
「母娘の名乗りを上げるためとでも思ったかい? そんなわきゃないだろ。あたしはこの女狐の面をもらいに来たんだよ。又吉がね、毎晩毎晩呼ぶんだよ。信、信、お信はどこだ、って」
「……え、」
「この面があれば、あたしも晴れてあの人のお信になれる。左顔も綺麗なあの人のお信に」
女は、高笑いと共に窓から飛び降り宵闇に消えた。
それから幾日かして、三縞の里を通りかかったという男からこんな話を聞いた。
建て直された三縞稲荷のお社から、焼け爛れた顔を滅多刺しにされた白い女狐の骸が出てきた、と。
同時に、左頬に傷を持つ正気を失った男も保護された。
男は今でもずっと叫び散らしているという。
「信! 信! お信はどこだ! オレのお信は――」
どこだ。