なぜ、死ななかったのだろう。
あたしはあのとき、なぜ死んでしまわなかったんだろう。
残された狐の面。
鏡に映る顔半分の浅ましい姿。
焼けただれた半分はあのときあんたが持ってってしまった。
どうして全部、ひっさらっていってくれなかったのさ。
どうしてあたしごと、つれてってくれなかったのさ。
あたしはね、この苦界に身を沈めるくらいなら、あんたと一緒にあの炎に焼かれちまいたかったんだよ。
わかるかい?
残された女の気持ちが。
顔半分焼いて生き残っちまった女の気持ちが。
三縞小町と謳われたあたしも、今となっちゃ里の怪談話に興をそそられて実物を見にくる奴等の客寄せ猿みたいなもんだ。
憐れだねぇ。
そんな客どもに夜な夜な金をもらって糊口を凌いでんだから。
まあそれもこの顔のお陰で食えているようなもんだけどね。
男ってのは珍妙な生き物さ。
綺麗な女が好きなくせして、こんなげてものみたいな女にも食指が伸びるとくる。
さすがに何度も来るような奴はいないけどね。
みんな怖いもの見たさ、肝試しにここに来るのさ。
だから来るのは一度きり。一見さんばかりが毎晩訪ねてくる。
それでも、おまんまが食えてるだけましと思うわなけりゃね。
さあさ、今日も客が来るよ。
そこ、どいとくれ。
玄関に水を撒いてしまうからね。
ああそうそ。
その前にこの面をつけなけりゃ。
昼間っからただで見せてやるような顔じゃないんだよ、本当は。
え?
なぜ狐の面かって?
そりゃあんた、この顔を隠すために決まってるだろうが。
は? 狐の面をつけなくても十分狐顔だって?
はん、そういうあんたも狐顔だね。
まあ、お狐様にはいつもお世話になってるからね。
ゲン担ぎだよ。
今日の商売がうまくいきますようにってね。
あ? 嘘だって?
嘘なもんかい。
本当さ。
あたしはこの面のお陰で……顔半分を失わなくてすんだのだから。
なに? 今宵の客になりたいって?
馬鹿をお言いでないよ。ご冗談はよしとくれ。
あたしは女と枕並べる趣味はないよ。
そもそもあんたはあたしの顔、すでに拝んじまってるじゃないか。
一晩いたって何にもおいしいことなんかありゃしないよ。
いやいや、そういうわけにはいかないよ。
話を聞かせて一夜分いただくなんて、そんなね、そんな価値はあたしの話にはないよ。
え? そりゃ話すだけで一夜分なんてぼろいけれど、そんなこっちに都合のいい話、なにか良からぬオチがつくものと相場が決まってるんだよ。
さ、帰りな。帰っとくれ。
これ以上商売の邪魔をするなら――
「私も、同じ狐の面を持っているのです」
女が茶色い革の鞄から取り出したのは、あたしの持っている狐の面と同じ面。
狐の面なんてその辺のお稲荷様の縁日にいきゃあ、誰だって手に入る代物だ。
その辺のガキんちょだって持っている。
じゃあどうしてあたしが言葉を失ったかって?
そりゃあ、もちろんその面があたしの面と瓜二つ、いや、対になる雄狐の顔を模した面だったからだよ。
あたしの持つ狐の面は、祭りの日に神楽の舞い手がつける面だ。
目周りは金環がはめ込まれ、人ならざるものを表しているという。
眦にはこめかみまで伸びる赤い紅。
額や頬に青で紋様が描かれ、目頭と瞼の間にも藍の線がひと引きされている。
女狐の面は目元と口元が男を誘うように妖艶だ。
この面をつけると、昔からいつも自分ではない、人を遥かに超越した何かに身を引き寄せられ同化できる気がした。
対になるは雄狐の面。
こちらは顔の紋様などは女狐と全く同じだが、切れ上がった眦や自信を含んだ口元に妖艶な若い男を感じさせる。
この女狐と雄狐の面は、三縞のお稲荷さんの神楽で舞う若衆に代々受け継がれてきたものだった。
だけど、雄狐の面はあのときあいつがつけたまま行方不明になっていたはずだ。
少なくとも、女の携える面のようになんの傷もなく、つるんとしているなどあり得ない。
雄狐の面はあいつの顔を守ったままあの日あのとき業火に塗れたんだから。
「あんた、その面をどこで?」
「お話をしていただけますか? あの日、あのときのことを。もちろん、お代は一夜分、先にお支払いたします」
稲荷に仕える巫女かと思うくらい、白い細面に切れ長の女を持つ女は、にこりとこの女狐の面のように妖艶に微笑んだ。
あたしが生まれた三縞の里の夏は、五穀豊穣を祈って里のお稲荷さんに奉納される神楽を以って最盛期を迎える。
神楽は稲荷神社の縁起に則り、雄狐と女狐が出会い、恋慕いあい、夫婦になって交合いながら里の大地に豊穣をもたらしていく様子を舞い描くんだけれどね、里からは毎年十五になる男女が一人ずつ選ばれて、それぞれ雄狐と女狐の面をつけてこの夫婦役を舞い踊るんだよ。
選ばれた男女は夫婦になることが約束されたも同然で、神楽が終わった後実際に結ばれる。
選ばれなかった者たちは選ばれなかった者たちで、神楽に熱中する人々の目を盗んで視線を見交わし、野山に入って逢引きしあう。
十五という年は、三縞の里では大人として認められる年でもあったんだよ。
十五の夏、あたしはその神楽を舞う栄誉に与った。
相手は隣の幼馴染の又吉。
これがまたいい男でね。
青草の上を吹き薙いでいく風みたいな爽やかさがあってね、そこらの田んぼでチャンバラやって泥だらけになってるようなネズミみたいな男どもとは一枚も二枚も違ってたんだよ。
そのくせ小さい頃からお信(ノブ)ちゃん、お信ちゃんってあたしの後おっつけ回してさ、涼やかな目元のくせに笑うとできるえくぼが何ともかわいらしくてねェ。子分のようだと思って目をかけてやっていたのに、いつの間にかあたしより背丈も態度もかわいくなくなっちまってね。
「そんなお転婆じゃ、誰ももらってくれないぞ」
なんて憎まれ口叩いちゃってさ。
でもその後決まってこう言うんだよ。
「しょうがない。その時は見た目だけでも三縞小町のお信ちゃんだ。隣の誼でオレがもらってやらなくもない」
非道いだろう? 見た目だけ、なんて。それももらってやらなくもない、って、一体どっちだいってね。
素直に大人しく「もらってやる」って男らしく言ってくれればいいのにさ。
それでもあの見目良い又吉が言うもんだろう?
年頃のあたしもついついきゅんとなっちゃってさァ、それでも考え深げに腕を組んでさ、顔ばかりは取り繕って言ってやるんだよ。
「しょうがない。隣のおばちゃんにはいっつもお世話になっているからね。あんたのような性悪男のところでも、嫁が来ないとおばちゃんが大変だろう。そんなに言うなら嫁に行ってやらなくもない」
なんてさ。
ああ、あたしんところは母親がいなかったんだよ。
生まれてすぐにあたしを生んだ女は貧乏暮らしを疎んで出ていったんだと。
そもそもどっから来たのかもわからないような女だったらしいけど、美しさだけは里いちばんでさ、いつの間にか神楽で女狐の面をつけて舞う役になっていたんだと。その時雄狐の面をつけていたのが親父でね、あたしはその時の子供ってわけさ。
だからなのかは知らないけれど、親父はあたしを産み捨てて一方的に出ていった女のことを悪しざまに言うことがなくてね。それどころか、お狐様に束の間でも添えて幸せだっただの、子まで生していってくれたって手放しで喜んでた始末さ。
まさに女神と崇め奉らん勢いで、結局他の誰とも再婚しなくってね、男やもめのまま十四のあたしを残して死んじまった。
あたしが女狐役に抜擢されたのを聞くこともなくね。
父もなく、母もいないあたしは、文字通り天涯孤独になったわけだけど、隣のおばちゃんが本当によくしてくれてね。女になった時もなにくれとなく身繕いの仕方やら何やらを教えてくれてさ、わずかなたくわえをやりくりして赤飯まで炊いてくれた。
あたしはこのおばちゃんを本当に母と呼べる日が来るなら早く呼びたいと常々思っていたものさ。
あたしが女狐役に抜擢されたのは、ちょうどそんな頃だった。
孤児のあたしを神楽の舞台に上げてよいものかと、里長たちは幾度となく話し合いをしたらしいけど、この面をつけて神楽を舞うってのはいわば神の憑代になるってことなんだよ。里で一番見目美しい男女を選ばなければ、秋の収穫に響くってね。相手が隣の又吉ってのは、先に決まってたことだったから、まぁ、里の大人たちも皆あたしと又吉の仲は知ってたんだろう。隣のおばちゃん、つまり又吉のおふくろさんも親父さんも口添えしてくれたと言うしね。
春の稲作の合間を縫って、あたしと又吉は前年の狐役の夫婦から神楽の型を習うようになった。そのうち二人だけで稽古をするようになって……ふふふ、あの時が一番楽しかったかねぇ。又吉にあの夏の夕べのようなしっとりした声で「お信ちゃん」て耳元で囁かれる度に、あたしの胸はその辺のせせらぎよりも早く高鳴ってさ。とにかく、あたしは幸せで幸せで、あたしの周りだけ飛ぶように日が過ぎていくようだったよ。
だから、いつからだったのかなんてわからない。
あいつはずっとあたしに恋してるものだと思ってた。
あたしがずっとあいつにそうであったように。
あたしたちは三縞稲荷さんの縁起通り、出逢って、恋をして、そして夫婦になるもんだと思ってた。
まさかあいつが、他の女とできてたなんてこれっぽっちも、そう、小指の爪先についた耳垢くらいにも気づいちゃいなかった。
あいつはちゃんと毎日あたしに愛を囁いてた。
祭りの前日までずっとだ。
でも、同じ口で別の女にも愛を囁いていた。
あの声で、あたしにするのと同じように耳元に口を寄せて、くすぐったそうに笑いながら囁いて、そして口を吸わせていた。
あたしがそれを見たのは神楽を舞う前日だった。
お稲荷さんの神楽殿で最後の稽古を終えて、感慨もひとしおに舞台を降りて家に帰ろうとした時だった。
そうだよ、あいつはね、いつの頃からかあたしを置いて先に帰るようになってたんだよ。
どうせ隣同士なのに帰りまで二人なんて恥ずかしいから、なんて言い訳してさ。
ああ、いつからだったんだろう。
夏の初めかねぇ。
祭りまであとひと月、いや、半月を残していた頃だっただろうか。
今、思えばだよ。
あの時はほんとうに、祭りの前日まで何も怪しいなんて思っちゃいなかったのさ。
信じて、信じて、信じて。
名前が信だからね、ほんと、ばか正直に信じることしか知らなくって。周りの女の子たちだってやっかんでるのかなんなのか教えちゃくれなかったしね。
今思えば信じつづけた方が楽だったのかもしれないけれど、でもあたしは見ちまったんだ。
人の来ない境内の裏で、木立に囲まれたうす暗いその隙間で、何とも妖艶な空気を纏った女と逢い引いているあいつの姿をね。
女とは言ったが、背格好はあたしと同じ十五歳くらい。田畑の仕事に精を出しているその辺の同い年の子たちに比べれば、都から来たのかと思えるほど肩も腰も腿も華奢でね、着物も里の子たちが着てるようなちょっと長さの足りないものでありながら、生地は遠目にもしっかりとしていてね、裾からは白い玉のような傷一つないふくらはぎと足首が見えていたよ。
見たことのない女だった。
腰丈まで伸ばして切り揃えた真っ直ぐな黒髪の少女なんて、あの里にはいない。
みんな農作業のために一つに結わえているし、家の刃物ではあんなにきれいに毛先を切り揃えられない。
あれほど可憐な後姿、他に見たことがなかった。
何しているの、又吉!
あの時そう叫んでおけば、何かが変わったんじゃないかって今でも思うよ。ああ、この狐の面を見る度に毎日思う。
だけどあたしは何一つ、悲鳴一つ上げられなかった。
気配に気づいて顔を上げたあいつと目が合ったってのにだ。
あいつはあたしなど見えなかったかのように再び目の前の女に視線を落とし、今度はあたしの目の前であの女の口を吸った。
あたしは怒りで身体中がカァァッと熱くなって、もう無我夢中で家まで駆け抜けた。
悔しくて、悔しくて、悔しくて、どう懲らしめてやろうかと、いや、それ以前にあんな女がいることに全く気付かず、今まで先取りしてあいつの嫁を気取っていたことが恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずかしくて、もう死んでしまいたいと……あんたも女ならわかるだろ? 小娘の感傷はいちいち命懸なんだよ。だからさ、あたしの復讐も命懸のものになったんだ。
あたしがあの場から逃げ出そうと一歩後ずさった直後、又吉に口を吸われていた女も一瞬、あたしを横目に振り返ったんだよ。
そりゃあもう、右半分しか見えなかったが美しい顔だったね。
愁いを帯びながらもきりりと上がった眦と、さくらんぼ色の魅惑的な唇。足に負けず劣らず陶器のように白い顔。ほんのり上気したほっぺた。
この世のものとは思えない美しい女だった。
あれは魔性だよ。
里の女しか、それも里一美しいと言われた女だってあたしだよ? そんなのいくら三縞小町ともてはやされようと隣で毎日見てれば三日で飽きるものだろう? そんな女しか見慣れていないあいつにとっちゃ、あの女はまさしく、この世のものならぬ女神のような存在だったに違いないよ。
嬉しそうな表情も、楽しそうな表情も、何も浮かんじゃいない、頬だけが生きていることを証明するかのようにほんのり赤く上気した白い細面の女の顔。
その女の顔は、半分しか見ちゃいないがこの狐の面によく似ていた。
あたしが明日かけなきゃならないこの女狐の面に。
ああ、あの女はこの女狐の面をかけた女に毎年宿るものなんだって、直感的に思ったよ。
又吉の見目がちょっといいから待ちきれなくて出てきたのだろうと。雄狐も宿っちゃいないのにさ。
明日、あたしはあの女にこの身体を明け渡さなきゃならない。舞を舞って、己を失うほどに舞って、舞って、舞って、そうして二人で一つになってようやく神事は終わるのだから。
そう思うと無性に腹立たしくてね。
ああ、あの女にとられてなるものかって。
その夜、あたしは鏡を見ながら手燭に灯した火で顔の左側を炙ったんだ。
醜くなるために。
あの女が拒絶するくらい、見目の醜い女になるために。
翌朝、あたしは面をつけたまま家を出た。
里人たちには奇異なことをするものじゃないと言われたが、集中したいのだと告げたら何も言われなくなった。そのまま神社の裏を流れる沢で禊と潔斎を済ませ、夜、明々と松明が灯された神楽殿の舞台に上がった。
あいつとはその時まで一言もしゃべらなかったよ。
あいつも一言もしゃべらなかった。
あれだけ毎日耳元に囁いていた言葉も、届けられなかった。
気まずいなら謝ってくれればよかったんだ。せめてあの女がなんなのか言い訳してほしかった。
でも、あいつは何も言ってくれなかったんだよ。
何も言ってくれないまま、あたしたちは舞台に上がり、そらぞらしく夫婦となる狐の舞を舞った。
くすぐったくなるような掛け合いが続く舞も、心がこもってなけりゃただの落ち着きのない貧乏ゆすりみたいなもんだ。それでも里の人たちは熱中して見ていたよ。普段娯楽なんてないからね。おそらくあれが一年で最も里人たちが楽しみにしている娯楽だったんだろうよ。その後ろでは子供の枷を外された同い年の男子や女子が、さらに少し上の奴らと目配せしながら闇の中に消えていく。
ああ、あたしの相手はもうどこにもいないんだ。
そう思った瞬間、あたしは舞うのをやめた。
ちょうどあと一手、雄狐と女狐が夫婦として結ばれようとしたところだったよ。
あたしは我に返ったんだ。
恐ろしいだろう? あれほどこの身を取られてなるものかと念じていたのに、神楽は舞ってるうちにあたしという個を取り除き、別なものをこの身体に入れようとしていたんだよ。
狐の面越し、すぐ側にお互いの顔があった。息遣いが聞こえるほど側近くに。
あたしがあいつの腕の中で動きを止め、里人たちも異変に気づいて息をのみ、静まり返った。鳴りつづけていたお囃子も途切れていった。
静寂。
篝火の爆ぜる音が聞こえた瞬間、あたしはあいつの目の前で、かけていた女狐の面をはぎ取った。
沈黙。
あいつの目があたしの顔の左側、醜く火でやつれた部分に注がれていた。
あたしはにぃと嗤った。
左の頬は引き攣ってうまく動かなかった。
その瞬間、あいつは悲鳴を上げてあたしを舞台の上に投げ出した。
ざまぁない。
あいつは腰が抜けて尻餅をつき、それでもあまりの恐ろしさにあたしから少しでも身を遠ざけようと両手と尻を使って舞台の端の方に逃げていく。
あたしは立ち上がって堂々とあいつを舞台の隅に追い込む。
追い詰められたあいつは意味のない言葉を喚きながら脂汗をかき、見開いた目を白黒させながら篝火の支柱を掴んだ。
おそらく防衛本能だけだったんだろうね。
あいつは渾身の力でその篝火を振り回した。
籠に入れられていたいくつもの赤く燃え盛る松明が神楽殿中に、客席にばらまかれ、あっという間もなく燃え広がった。
間の悪いことに沢からさっと涼風なんかが吹き上げてきたりして、神楽殿にたかる火の粉を本殿へと連れてっちまった。
そりゃもう大騒ぎさ。
火を消せ。水を持て。いや、逃げるのが先だ。賽銭はどうする? 持って逃げろ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。
だぁれも、神楽の舞台にいるあたしたちには目もくれなかった。
だぁれも、助けようとなんかしなかったんだよ。
あたしはね、むしろ好都合だった。
着物に燃え移った炎を纏い、自分に酔いながら一歩、また一歩、あいつに近づいていく。
あいつはへっぴり腰で舞台の上を尻で這いながら面越しにあたしを怯えた目で見つめ、そうさね、あれはもう蛇に睨まれた蛙という奴だったんだろうね。怖くて逆にいつ襲われるかわからないからあたしから目を離せないのさ。
あたしは炎の這う舞台の上を白足袋が焦げるのも構わずまっすぐあいつのところへ歩いていった。
ああ、これでようやくあたしたちは名実ともに夫婦になれる。
あの世にまでは、さすがにあの女狐も現れまい。
恍惚としてたからね。熱さもなにも感じなかったといったら嘘になるけど、あの炎はあたしの心を鼓舞しているかのようだった。
障害があるほど恋は燃え上がるっていうだろ?
あたしはねェ、嬉しくて嬉しくて、身も心もそぞろになりながらあいつのもとへ歩いていったんだよ。そりゃァもう嫁入り気分さ。
あと一歩。あいつの前に膝を折り、とれかけた面を取ろうと顔に手を伸ばそうとしたときだった。
「又吉さん!」
あいつの名を呼ぶ女の声が舞台の脇からしたんだよ。
はっとしたようにあいつはあたしから目をそらしてねェ、女の方を向いたんだ。
「お聯(れん)!」
つられてあたしもそっちを向いた。
ああ、あんたそっくりな狐顔の女だった。
前の日、右側だけ見た顔を、その時初めて真正面から見つめたんだ。
それはもう、美しい顔だったよ。作られた狐の面のように、美しい顔だった。
その美しい顔で女は屹とあたしを睨み返し、平然と言った。
「逃げましょう、又吉さん。こんな女はおいて逃げましょう」
飛び散る火の粉を払うように鈴振る凛々とした声だったよ。
そう、ちょうどあんたのような、ね。
いや、あんた似すぎじゃないかい?
本人……なわきゃないか。
だってあいつもあの女も、あのときあたしが……
とにかくあいつは、途端に恐怖も忘れて恍惚としながらあんたの方に顔を向けた。
「お聯」
花畑にいる天女にでも出逢っちまったかのようなすっとぼけた顔をしていたっけね。
あたしはそんな顔を前にも何度か見たことがあるよ。
親父が出ていった女の話をするときだ。
あたしは嫁入り気分も吹っ飛んで、憎らしさだけが湧き上がった。
そうさ、胸に秘めた短刀を抜き放ち、力任せにあいつに突き立ててやったよ。
でも、そうは簡単にいかなくてね。
あたしの短刀の切っ先は、がつりとあいつの顔から取れかかった雄狐の面に突き立った。だけどとうに紐の緩んでいた面は短刀の重さも引き受けて、ずるりとあいつの顔に傷を引きながら剥がれ落ちた。
開いた股の間に落ちた雄狐の面。
情けない悲鳴が轟き渡る。
短刀が頬に残した傷を押さえ、あいつは死にかけの魚のように口をパクつかせる。
あたしは雄狐の面から短刀を引き抜き、続いてその先をあの女の方に向けた。
女はさっと手を伸ばし、雄狐の面を引き寄せるとあたしの短刀をその顔で防いだ。
と、当時に。
今やそれ自体が赤く燃え盛る巨大な篝火となった神楽の舞台櫓は、あいつとあの女を崩れ落ちる屋根の道連れにして崩壊していった。
一寸の差で助かったあたしは、うっすらと焦げはじめた女狐の面を拾い上げ、ふらふらと半ば崩れた神楽殿を後にした。
その後は見りゃぁ分かるだろ。
このとおり、里に帰れず遊里なんて名のつく里で奇態なこの身を売っているってわけさ。
まぁ、神様が罰を当てるって言うなら粛々と帰ってもいいけどね、神様騙る別のものが罰を当てるってんなら話は別だ。
さ、話は以上だよ。
……何を、嗤ってるんだい……?
そんなに吃驚な話かい? いや、そうだろうけれども、そんな笑い方するもんじゃないだろ。
「嫌だねぇ、この子は。惚れる男の顔まで一緒とは、ほんと血は争えない。でも残念。あんたはもうこの世界から上がれない。一生そこで這いつくばって生きるがいいよ」
そう言うが早いか、女はさっとあたしの手から女狐の面をはぎ取った。
鏡の前、焼けて引き攣れた左顔が露わになる。
悲鳴は上げなかった。が、それを呑み下すためにわずかに喉が動いた。
「かわいそうに。きれいな顔だったのに。お前なら、私の顔になれたのに」
女は両手であたしの顔を包み込むと、右手の爪を引き連れた火傷の痕に喰いこませた。
「ぐっ……離、せ……っ」
力任せに押し払うと、板場に転がった女はくっくっくっと喉元で笑った。その手にはしっかりとあたしの女狐の面が掴まれている。
「お社は再建されたの。こっちの雄狐の面はあの時の面を元に作り直されたもの。でもねぇ、女狐の面がなけりゃ、神楽は舞えないだろう? 新しい面を作り直すにしても、顔は揃えなければ――私の顔に」
女の顔は、今や左半分があたしと同じく火傷に爛れていた。
その顔に女は女狐の面をかける。
炎の熱さに少しばかり焼け色を滲ませていた女狐の面は、馴染むように女の顔と一体となっていく。
「あっ、あっ……あたしの、面……」
手を伸ばしたところで、すっかり白く女の顔と同化した面ははぎ取りようがない。
女は得意げな笑顔を作って立ち上がり、あたしを見下ろした。
「言っとくが、これは天罰じゃないよ。あんたにそんな高貴な血は流れちゃいない」
くっくっと女狐は笑う。
「ああ、ようやく顔を取り戻せた。これで今日から私もお前になれる」
ぽかんと口を開いたあたしを置いて、女は勢いよく窓を開ける。
丸い月がどぶ川の柳にしなだれかかっていた。
「待……って……、あんたは、どうしてあたしのとこに……?」
「母娘の名乗りを上げるためとか思ったかい? そんなの決まってるだろ。あんたの面をもらいに来たのさ。又吉がね、うなされながら毎晩思い出したように言うんだよ。信、信、お信はどこだ、って」
「……ぇ……」
「この狐の面があれば、あたしも晴れてあの人のお信になれる。左顔も綺麗な元のお信に」
女は、倒れたあたしの体を跨いで高笑いと共に去っていった。
それからいくらかして、三縞の里を通ってきたという男からこんな話を聞いた。
建て直された三縞稲荷のお社の中から、顔を滅多刺しにされた白い女狐の亡骸が出てきた、と。
それと一緒に、正気を失った男も保護された。
男は今でもずっと叫び散らしているという。
「お信! お信! お信はどこだ! オレのお信は……」
どこだ。