縁期暦紀 巻ノ四

腕  ―河 童―




 ぼくは夢を見る。
 おっかさんの腕に抱かれてまどろむ夢。
 おっかさんは優しい声でずっと子守唄を歌っていてくれて、この腕の中にいれば、何も怖いものなんかないと思ってた。
 柔らかくて、あったかくて、くすぐったい匂いがするおっかさんの腕。
 片時も離れずにおっかさんはぼくのことを抱っこしてくれていて、僕はそのゆりかごの中にずっといられるものだと思ってた。
 ずっと、ずっと、この腕はぼくだけのものだと思ってた。
 ――子守唄が途切れたのはいつのことだったろう。
 優しいおっかさんの歌声は、いつの間にかせせらぎに変わり、やがて泡の弾ける音に変わった。
 ぼくは、いつの間にか川の淵深く、溜まった泥を寝床に眠るようになっていた。
 子守唄はもう聞こえない。
 青い空のかわりに碧い水面が日差しを屈折させて移り変わってゆく。
 目の前を泳ぐ魚を掴んで口に入れ、流れてくる水草を口に入れ、それでも飢えがなくなることはない。
 ぼくはきっとこのまま永遠に空腹なんだ。
 水の棺の中でぼくはうずくまる。
 膝を抱えた手の平は握っていればわからないけれど、開くと、おっかさんのあのすっきりと五本の指が伸びたあの手とは明らかにどこかが違っていた。
 そうやって異形の手を見、流れ来るものを口に入れているうちに、頭上では幾度となく氷が張り、水が温み、緑樹が影を落とし、紅葉が流れ去っていた。
 ようやく顔を上げる気になったのは何故だったろう。
 ああ、そうだ。
 聞こえたんだ。
 水の空の向こうから、おっかさんの子守唄が降ってきたんだ。
 そっとぼくは気泡を漏らさぬよう口を手で押さえて浮き上がる。
 何年ぶりかに身体を伸ばしたから、身体からはぎしぎしと音がした。
 大きく広がる手で水を掻き、声の聞こえる岩の下にそっと身を隠す。
「ねーんねーん ころーりーよー おこーろーりーよー」
 目の前に広がる水上には、おっかさんが岩の上に立っている姿が映っていた。
 だけど、その腕にはぼくじゃないものが抱かれていた。
 ぼくは思わず悲鳴をあげそうになって、口元を川の流れに沈めた。
 とぷん。
 小さな石が川に落ちたような音がする。
 か細く頼りなげだったおっかさんの子守唄が止まった。
 かわりにいくつかの間をおいて、おっかさんの腕の中のものがぐずりだす。
「あら、魚でも飛び跳ねたのかねぇ」
 違う。
 ぼくだよ、ぼく。
 空汰だよ。
 ほんの少しの間だったけど、おっかさんぼくのことそう呼んでくれたよね?
「さなえ、ほら、恐くない、恐くない。お魚さんが跳ねただけだから」
 さなえ?
 それは誰?
 おっかさんがその腕に抱いてるもののこと?
「ああ、ああ。こんなに泣いちゃって。さなえはお水が怖いのかい? しょうがないねぇ。せっかく涼しいのに。それじゃあ、帰るとしようかねぇ」
 え? 帰っちゃうの?
 ぼくは慌てて水面から顔を全部出した。
 この上におっかさんがいる。
 この上に――
「おっかさん、待って!! ぼくを置いてかないで!!」
 岩の上によじ登り、ぼくはほんとにしばらくぶりに頭にも背にも樹木越しだったけど日の光を浴びた。
 ぱたぱたと灰色い岩に水滴が落ちて、いくつもの黒い染みが広がっていく。
 そんな腹ばいになった状態で、ぼくは顔を上げる。
 呼び止められて女の人は振り返っていた。
 ぼくの、おっかさん。
 ぼくの揺られていた腕。
 だけど、その腕にはやっぱりぼくの見知らぬものが陣取っていて、ぼくを見るおっかさんの顔は恐怖に歪んでいた。
 悲鳴は聞こえなかった。
 ぼくを見るおっかさんの顔に、ぼくは茫然としてしまっていたから。
 まるでぼくだけここじゃないどこかに切り離されてしまったかのようだった。
 腰を抜かしたおっかさんは、それでも腕の中のものを守ろうと片腕で土を掻きながら後ずさっていく。
「あ……」
 そんなに驚かないで。
 ぼくだよ。
 空汰なんだよ。
「おっかさん」
 そう言ったつもりだったのに、声はかすれて音にならなかった。
 おっかさんは更に戦慄し、その勢いで立ち上がり、前のめりに駆けていく。
 民家のある方へと。
 ぼくの産まれた家の方へと。
「どうして? どうして? ぼくだよ。空汰だよ……」
 川のせせらぎだけがぼくのすすり泣く声を聞いていた。
 それから数日間、話を聞いたらしい男達が恐ろしい声を上げながら淵を浚っていった。
 ぼくはちょっと場所を変えて、泥の中深くで見つからないようにずっとうずくまっていた。
「どうして?」
 おっかさん。
 その腕の中のものはだぁれ?
 ぼく、じゃないよね?
 どうしてぼくには途中で子守唄を歌ってくれなくなったのに、そんなに大きな子をずっと抱っこしているの?
 その腕はぼくだけのものだったでしょう?
 誰も侵すことの出来ないぼくの聖域だったでしょう?
 どうしてその中にぼく以外のものがいるの?
 ぼくは、どうしてその腕の中から追い出されてしまったの?
 おっかさん。
 どうしてぼくを見て悲鳴をあげたの?
 どうして……大きくなったね、空汰、って、言ってくれなかったの?
「あああぁぁ」
 ぼくは頭を抱えた。
 五本の指以外に、うっすらと張る膜も頭に覆いかぶさってくる。
「あの人間の女が薄気味悪がるのも当たり前だろう? お前は河童なんだから。妖怪なんだから」
 通りかかった何かがそう囁いていく。
「お前は捨てられたんだよ。あの母親に。だって、そうだろう? いくら自分の腹から生まれてきたからって、妖怪の子供だ。可愛いわけがない」
「でも……でも、おっかさんはぼくをずっと抱っこしてくれていたよ。ずっと子守唄を歌ってくれてたよ」
「それはな、あの女がちょっと頭がいかれてたからさ。毎晩毎晩妖怪に精吸われて、子まで身ごもらされて、嬉しい人間がいるわきゃない。それでもな、ほんとの旦那や親達は、お前の親父さんに村に悪さされるのが嫌で見てみぬふりしてたんだ。お前のおっかさんは人身御供のようなもんだったんだよ」
 意味が……分からなかった。
 そのときは。
「おっかさんは頭がおかしくなってたからぼくを腕に抱いてくれてたの? 子守唄を歌ってくれてたの?」
「まあ、旦那の子供だって思い込もうとしてたんだろうな。それにしたって、お前が手を開けばその水かきだ。一発で現実を直視させられる。覚えてないのか? 母親の顔や歌声は覚えてるのに」
「な……何を?」
 通りがかりのそれは、歯の隙間から息を吐き出すような嫌な笑い声を立てた。
「決まってるだろう? あの女にこの川に落とされた瞬間だよ」
 どぼん。
 ぱりぱりぱりぱりぱり……
 耳の側でおっかさんの声よりも高い泡がはじけていく。
 その泡に包まれて、ぼくは足掻くこともできずに沈んでいく。
 空が白くなって、光は遠ざかって。
「うああああああぁぁぁっっっ」
 恐い。
 ちょっと激しく身動きした時にも聞こえてくるあの泡の音。
 水流が少し急になっただけでどこからとも泣く聞こえてくる、水をかき混ぜる耳鳴りのようなあの高い音。
「あっはは。河童が水を恐がってら」
「ぼ、ぼくは河童じゃ、河童なんかじゃ……おっかさんを苦しめた河童なんかじゃ……」
「じゃあその水かきはなんだ? 背中にのしかかるその甲羅はなんだ? 頭のてっぺん触ったことはあるか? 陸地に出ても水蓄えられるようにお前のそこはくぼんでいるぞ?」
 ぼくは、拳を握って声の主を探した。
 あいつを何とかしてしまわないと、ぼくは、ぼくは……。
「さっきあの女がお前の大切な腕に抱いていたもの、あれはあの女の娘だ。お前を身ごもったあと、とんとお前の親父さんは通わなくなったからな。あれは旦那の子だ。正真正銘、人間の子だ」
 ショウシンショウメイ、ニンゲンのコ。
「どうだ? お前の大切な場所を取られた気分は。お前が得られなかったものを全て持っている奴がいるって気分は」
 どうして……そんなに煽るの?
 ぼくは、そんなこと知りたくなかったよ。
 手で今ぼくが座っている泥を掬う。
 へばりつきながらも、それは水の流れに押されて流れ去っていく。けれどそれは重いのか、くるくると翻弄されながらもまた沈んでいく。
「いってみれば、お前は被害者だ。その甲羅を背負いたくて背負って産まれてきたわけじゃない。まぁ、産まれた当初は背中の皮膚が少々堅いくらいだったろうに、あの女に川に落とされて、お前の甲羅はそんなに重くのしかかるようになっちまった。正真正銘、お前は河童にされちまった」
「河童に……された?」
「そうだ。だって、そうだろう? 生まれたばかりのお前は、ちょっと指の間に薄い膜がある程度だったんだ。それが今じゃこんなに河童らしい姿にされちまって」
 河童らしい姿にされた……。
「思い出せよ。あの女がお前をこの川に落とすときにいった言葉。『河童は河童らしく川で暮らすがいいわ』ってな。そりゃぁ背筋が凍っちまうくらい恐ろしい声でそう言ったんだぜ? まあ、覚えていないのは不幸中の幸いかもな」
 耳の奥で、通りすがりのそれの声と女の人の声とが重なっていった。
 びくり、とぼくの身体は痙攣する。
 身体の内から内から、さっきまでぼくが一番恐れていたものがあふれ出してくる。
 はじめは真っ黒くてどろどろとしていて、身体中に染みこんでいくのが不快でたまらなかったのに、やがてそれは奇妙な高揚に変わってくる。
「なぁ、悔しくはないか? お前は捨てられた揚句、化けもんにされたんだぞ? あの女に。それなのに、あの女はのうのうと人間の子供を産んで、お前にした仕打ちなんか忘れたようにああやって腕に抱いて子守唄まで抱いて可愛がっているんだぞ?」
 ぞくぞくと、知らない快感が体中を駆け巡っていった。
「ああ、教えてくれないか? どうしたらぼくはあの人にこの悔しさを分かってもらえる? どうしたら、あの人にぼくの味わった苦しみを思い知ってもらえる?」
 復讐なんて言葉はまだ知らなかった。
 おっかさんは、当にぼくを産むことで地獄の苦しみを味わっているなんて、考えも及ばなかった。
「どうしたらいいかって? 空汰。お前はおっかさんは憎いか?」
 憎い?
 ああ、それがこのどろどろの正体。ぼくをこの川底にはまり込ませるものの正体。
「うん、憎い」
「じゃあ、あの娘は? お前の大切な場所を占領するあのさなえという娘」
「憎い」
 それは、またあの歯の隙間から声を漏らすような笑い声を立てた。
 だけど、ぼくはもう気にはならなかった。
 この人が、ぼくの目を覚まさせてくれた。
 ぼくの揺らぎない川底だけの世界に波紋を落としてくれた。
「なら、おれの言うとおりにすればいい。そうすれば、お前はあの女にも、あの娘にも、お前の味わった以上の苦しみを与えることが出来るのだから」
 ぼくは間髪をいれずに頷いた。





 それからどれだけ時を移したことだろう。
 ぼくはあの岩場に座って、蝉時雨の中毎日毎日笛を吹いていた。
 その笛の音につられて、今日も一人の娘がやってくる。
「空汰さん、今日も空汰さんの笛の音はきれいね」
 日は中天に上り、真上から光を降りそそぐ。
 けれど、この淵にそそぐのは数多に繁った緑樹の間をすり抜けられたものだけ。
 せせらぎとあいまってこの岩場は、おそらく村で一番、この季節にあって涼の取れる場所だろう。
 それなのに村人の姿が少ないのは、作物に虫のつきやすいこの季節、昼間も田畑の手入れで忙しいからだ。
 何より、この岩のある淵はどこよりも深く、もぐれば河童に足を引っ張られるという噂も立っていたから、最近じゃ馬に水を飲ませに来る奴もいない。
 笛を吹きながらぼくはしめしめと薄く笑う。
 陽気な音色から、穏やかな音色、しっとりした音曲まで、今ではぼくは自在に吹きこなすことができるようになっていた。
 その音に引かれて、この夏になってからというもの、娘は毎日毎日やってくる。
「ああ、さなえ。今日もいいのかい? 家から抜け出してきたりなどして」
「いいのよ。もう、父さまも母さまも心配しすぎなのよ。年がら年中家に閉じ込められていたんじゃ、気がおかしくなってしまいそう。いくら病がちだからって、ねぇ」
 娘はおっかさんによく似た明るく人懐こい顔で笑いかけてきた。
 年は数えで十五、六。
 小さい頃からよく熱を出し、年がら年中咳を繰り返し、普通ならあっけなく死んでしまうだろうに、この娘がこの年まで生きながらえていられるのは、偏にここ数年で娘の父親がこの村の長者にのし上がったからだ。
 河童の御恩、と村の人間どもは言っている。
 その昔、娘の母親が河童に尽くしたからそのお返しがようやく今なされているのだと。
 この娘はそのおかげで食べるものにも着るものにも困ってはいない。
 他の村人達よりも滋養のいいものを食べ、最近では本当に病がちなのかと思うくらいに肌や髪の色艶もいい。
 ぼくから見ればそんな村の噂もお笑い種だ。
 何が河童の御恩だ。
 ぼくを捨てたくせに。
「さなえ、今日は何を吹いて欲しい?」
 憎いと思ったあの日から、ぼくはあの通りすがりの声に導かれてこの黒い漆塗りの 笛を作り、教えられるがままに音曲を覚え、そして、人に化ける術を学んだ。
 ふ、と。心の中で、思わずぼくは嘲笑を漏らす。
 人に化ける術だって。
 ぼくは人間だったのに。
「空汰さん、あのね。今日はわたしの一番好きな曲を吹いてちょうだい。あの胸が切なくなる曲。胡蝶の夢を」
 ぼくの小脇に腰掛けて足で宙を蹴りながら、珍しく娘はぼくに曲をねだった。
「どうしたの? 珍しいね、さなえがぼく任せにしないなんて」
 毎日、ぼくは娘が来るたびに何がいいかと聞くのだけれど、娘はそれまで一度もこれ、と指定してきたことはなかった。
「まぁ、聞いてきたのは空汰さんでしょう? それとも今日は吹けないの? 胡蝶の夢。あの曲、難しそうだものね」
「難しくはあるけれどね、僕に吹けない曲なんてないよ」
 ちょっと怒って言ってみせると、屈託なくさなえは笑い出した。
 けれど、その笑みにはどことなく翳が滲む。
「さなえ?」
「いいから、吹いてちょうだい」
 急かされて、ぼくは再び笛に唇を当てた。
 ゆっくりと息を送りこむ。
 ぼくに吹けない曲はない。
 それは嘘じゃない。
 でも、娘も分かっているとおり、この曲はぼくの知っている曲の中で一番の技巧を要するものだった。
 蝶の舞う姿を幻想的な調べの中に閉じ込め、調は祖の中で時に愛らしく、相手を見つけた後は激しく舞い踊り、やがて命尽きて落ちていく。
 息つく間もなく吹き手は呼気を送り込み、縺れる寸前の速さでいくつもの穴を塞いでいく。
 張り巡らせておかなければならない神経。
 一時でも気を緩めれば、調べの中で舞い踊る蝶は寿命を待たずに水面に落ちる。
 夏の昼下がりの水際は蝉たちの鳴き競う声から切り離されて、ぼくの音色で一瞬にして黄昏前のあのなんともいえない切ない空間に変わる。
 ほんとは、この笛は娘をこの淵に引き寄せるために覚えたものだった。
 だけど、ぼくは好きだった。
 笛を吹くことが、心から好きになっていた。
 笛を吹いているときだけは、隣りに誰がいようと無心になれる。
 その音色に酔いしれ、調べが形作る世界に逃げ込むことが出来る。
 そう、特にこの胡蝶の夢は難しいゆえに、どこまでもぼくを幻想の世界に引き込んでくれる。
 蝶が相手を見つけ、水面の上で戯れ始める場面になった時だった。
「空汰さん、吹きながら聞いてちょうだい」
 娘はあろうことか、水鏡に映る蝶も含め、四羽の蝶を吹き分けなければならなくなったぼくに、じっと水面に視線を落としながらそう話しかけた。
「ううん、やっぱ聞かなくていいから、そのまま吹いててね、これはわたしの独り言だから」
 毎日毎日、もう一ヶ月近くもこうやって共に時を過ごし、楽の音を共有してきたけれど、娘がぼくの演奏中に何かを喋りだしたのは、これがはじめてのことだった。
 ぼくが途中で演奏の邪魔をされるのが嫌いなことは娘も知っているだろうし、娘もそんな野暮なことをするような人間じゃない。
 それなのに、どうして今日、この曲のときに限って……。
「わたしね、お嫁さんになるんだって」
 ほとりと水面に落とされた言葉は、撥ね返ってぼくの旋律に絡みつきながら耳に捻りこまれて来た。
 それでも、ぼくはまだ足だけを現実に引き戻されただけだった。
「あしたからね、わたしもう空汰さんの笛聞けなくなってしまうの」
 しばらく蝶は舞い踊ったあと、沈黙する水面に二匹とも落ちていった。
 僕の十指は、笛を唇にあてがったまま凍りついていた。
 自分でも思わぬ反応だった。
 娘が嫁に行くくらい、この年なら当たり前のことだ。
 いや、むしろ遅すぎるくらいか。
「最近はわたしの病状もいいからって。それに、この器量でしょ? 村でも放っておいてくれる人なんかいなくて」
 冗談めかして娘は笑う。
 ぼくは水面に映るそんな彼女の穢れない笑顔を、瞬きもせずに見つめていた。
「隣町のお大尽様がね、わたしのこと妾にしてくれるんだって。一目見て気に入ったんだって」
 隣町のお大尽様? 妾? 一目見て気に入った?
 何を浮ついたことを言ってるんだ、この娘は。
「あ、ほら、笛止まってる!」
 子供のように笑い声を立てながら、娘はぼくを振り返る。
 水面に映る彼女の横顔。
 木漏れ日に当てられた頬には、ざわめいた梢に一瞬だけ小さく輝く光。
 蝉の鳴き声が耳元まで戻ってくる。
 ……ぼくはいつまで逃げているつもりだったんだろう。
 笛で娘をおびき寄せ、そこそこ懐かせたら抱いてしまえばいい。
 女にとってはそれが一番の仕打ちだからと。
 その母にとっても娘が化け物のものになるのは一番の耐え難いことだからと。
 ぼくは、笛を川に放り投げた。
 返す身で、隣に座り、心配げにぼくを覗き込んでいた娘に覆いかぶさる。
 手首を掴んで自由を奪って。
 だけど、それ以上何も出来ずに、ぼくは娘の顔をみつめていた。
「何であんなに嬉しそうに笑ってたくせに泣いてるの?」
 顔にはまだ笑顔が張りついている。
 それなのに、絶えず澄んだ両目からは木漏れ日に反射するものが頬を濡らしていく。
「嬉しいよ。だって、玉の輿だもん。今よりもっとおいしいもの毎日食べれて、綺麗な着物も着られて、畑に手伝いに呼ばれることもないし、たくさんの侍女にかしずかれるからお昼から一人で家に残されることもないし」
「じゃあ、それは嬉し涙なわけ?」
「……そうだよ」
 涙に掠れた声でさなえは頷いた。
 ぼくは、目の前のこの淵よりももっともっと深い後悔の深淵に突き落とされていた。
 真っ暗で、そこは何も見えない。
「どうして……もっと早くこうしておかなかったんだろう」
 愕然とぼくは呟く。
 この娘はぼくのおっかさんの腕をぼくから奪ったんだ。
 ぼくは河童だから捨てられて、この娘は人間だから可愛がられて育てられた。病弱の癖に畑仕事に役に立たないと詰られ見捨てられることなく。
 この娘はたくさんの人々の温かな腕に守られてこの年まで生きながらえてきた。
 ぼくを抱く腕は川底に溜まった黒くどろどろとした澱か、あの急くように流れ落ちていく冷たい早瀬かしかなかったのに。
 憎い。
 そう思ったはずだ。
 おっかさんの腕に抱かれてここに散歩に来たこの娘を見たとき。
 誓ったはずだ。
 ぼくの味わっているこの寂しさも、苦しみも、何もかもをあの女とこの娘にも味わわせてやると。
 そのためにぼくは笛を覚え、人に化けられるように訓練し、こうやってようやくこの娘を側に呼び寄せることができるようになったというのに。
「空汰さん、笛の続きは?」
 ぼくが川に笛を投げ込んでしまったのをしっかりその目で見ていたはずなのに、さなえは何食わぬ顔でそんなことを言った。
「まだ蝶は落ちていないわ。ちゃんと最後まで聞かせてちょうだい」
 こんな状態だというのに、さなえは焦った様子も拒むそぶりも見せない。
 それが、余計にぼくを後悔の深淵に引きずり込んでいった。
 唇をついばむ。
 思いのほか柔らかくて、甘い。
 ほのかに桃の香りがして、ぐらりとぼくの世界は揺らいだ。
 無理だった。
 ぼくにはもう、無理になっていた。
 傷つけるためだけに彼女を抱くことなんか、とうにできなくなっていた。
 同腹の妹だから、なんてそんな当たり前のことは元から考えてなどいなかった。
 この娘はぼくの聖域に後から乗り込んできたただの仇だ。
 そう思って疑わなかったから、今まで、ついさっき胡蝶の夢を吹いているときでさえ、彼女を妹だなんて思ったこともなかった。
 なのに、ぼくは今更そんなことを思い出している。
 ただの娘を、心の中でもさなえと呼んでいる。
 ぼくは、掴んでいたさなえの手を離した。
 身体を起こす。
「どうしたらいいんだろう……」
 岩に寝ころがされたままのさなえに背を向けてぼくは呟く。
 ぼくの内から沸きあがっていたあの黒い澱の泉は、まだこんこんと湧きだしている。
 それなのに、ぼくはたまりに溜まったこの憎悪をぶつける相手を失ってしまっていた。
 背中の……甲羅が重い。
 川からそよぎ来る涼風に頭上の更に溜まった水がなぶられる。
「空汰さん」
 甲羅越しに彼女はぼくを抱きしめていた。
 しっとりと冷たい肌が、ぼくの腕に吸いつく。
「わたしね、おいしいものも綺麗な着物も大好き。でもね、そんなものよりも空汰さんの笛が好きなの」
「……」
「笛、早く探しにいかないと遠くまで流れちゃうよ。……あ、そうだ。わたしがとってきてあげる」
 するりと腕は解けていく。
 さなえは、そのままぼくの脇をすり抜け、岩から飛び降りる。
 聞き覚えのある、でもそれよりももっと重い水音が上がっていた。
 白い水柱が高く上がる。
「おい! 今誰か飛び込まなかったか?」
「さなえだ! 兵六のとこのさなえがとびこんだぞ!!
 畑帰りの男達のどら声が蝉時雨を散らす。
「ああっ! 河童だ! 河童がいるぞ! あいつがさなえを突き落としたんだ!!」
「……何も見てないくせに」
 さなえは水から上がってこない。
 おそらく、一度も泳いだことなどなかったろうに。
 とうに術が解けて河童の姿に戻っていたぼくは、苦もなく水の中に身体を滑らせた。
 さなえは目を閉じ、気泡を口から溢れ出させながら淵深くへと沈んでいく。
 さなえが溺れ死んでもおっかさんは悲しむだろう。
 それも、ぼくを捨てた淵で死んだなら、きっとぼくが引きずり込んだのだと、おっかさんもあの男どものように考えるのだろう。
「空汰、憎しみはどうした? 憎いだろう? お前をこんな姿にした女だぞ。お前の大切な場所を奪った娘だぞ」
 さなえと会うようになってから一度も聞こえてこなかった通りすがりの声が聞こえた。
 通りすがり……?
 ああ、違う。
 これは自分の声じゃないか。
 水上に上がってさなえと話している時のぼくの声。
 幼い頃はずっと水中にいたから分からなかったんだ。
「どうして、どうしてあんなこと思い出させたんだよ。ぼくは何も知らなくてよかったのに」
 嘲笑が聞こえた。
「本当に? 本当にずっとあの川底で膝を抱えて生きていくつもりだったのか? あんなんじゃあと半年も生きちゃいなかっただろうに」
「……死んじゃってよかった。ぼくなんかとっくに死んじゃっててよかったんだ。ぼくがいなくなってたら、母さんはあの時突然現れたぼくに悲鳴をあげなくて済んだんだし、さなえはここに飛び込むこともなかった」
「へぇ、本当にそう思うの?」
 声は気に障る笑い声を撒き散らしながらどこかへと消えていった。
「さなえ」
 声にならないと分かっていてもぼくは、はじめて心から彼女の名を呼んだ。
 沈みながら気を失っていた彼女は不意に目を開ける。
 そして、だらりと垂れて底明かりにしか見えなくなっていた右手を上げる。
「あったよ」
 白い気泡で口元をまみれさせながら、彼女の唇は確かにそう告げて微笑んだ。
「なんで……驚かないんだよ。ぼくは河童なのに」
 ようやくぼくは追いついて、この腕にさなえを掬い上げる。
「驚かないよ。わたし、知ってたもの」
 さなえはいつもの笑顔でそう言った。
 音は水音に消されてしまっていたけれど、確かにさなえはそう言って目を閉じた。
 水上では男達の怒鳴り声がしている。
 だけど、ためらっている場合じゃなかった。
 ぼくは意を決して水を蹴った。
 そして、自ら水上に顔を出すと、岩陰からできるだけ両手でさなえを高く掲げる。
 上からは驚いた声が上がっていた。
 が、すぐにぼくの両腕からは彼女の重みが消えた。同時に、軽い水音がして再びあの笛が底へと沈んでいく。
 ぼくは、唇を噛んで水底に沈んでいく笛を取りに川の中へと身を沈めた。
 そうだ。まださなえの聞きたがっていた胡蝶の夢を吹き終えていない。
 さなえがいつものように、「うん、よかった」と言ってくれるまで、ぼくはあの笛を吹き続けなきゃ……
 水底。泥の中に身体をうずめてぼくは笛を吹く。
 笛から漏れ出でるのは白い気泡ばかり。
 それでも目を閉じれば指技が織りなすうちに一羽の蝶が水上で踊りだす。
 その蝶は水面に映る自分の姿を自分と知らず魅入られたように踊り続け、やがてその舞に見せられたもう一羽の蝶が傍らに寄り添い、共に踊る。水鏡に映った自分たちを自分と気づかず、四羽の蝶は時に近づき、時に離れ、翅を触れ合わせながら舞い狂い、自らが狂っているとも知らずただ一時の楽しさに溺れ、やがて命尽きて本当に水中へと沈んでいく。
 二羽、共に。
 我に返ったとき、ぼくは薄暗く冷たい川底に一人だった。
 こんな水底では、さなえまでちゃんと音が聞こえないのは分かっていた。
 だけど、ぼくはもう二度と水上に顔は出せない。
 またおっかさんの子守唄が聞こえてきたら、きっと耐えられなかったから。
 もし万が一さなえの歌う子守唄が聞こえてきたら、否が応でも彼女をこの淵に引きずり込んでしまうだろうから。
 だから、ぼくは自らの笛の音が作り出す世界に閉じこもって、そこで幸せな夢を見よう。
 二羽の蝶が舞い狂い、想いを遂げて命尽きていくその様に自らを重ね、出られぬ胡蝶の夢の中で共に踊り狂おう。
 この十本、確かに人の名残として残された指が動かなくなるそのときまで。
 



「空汰さん、よかったよ。今日の胡蝶の舞う姿も」
 不意に、幻想世界は崩れていく。
 頭上には夏の日差しが緑樹と共に織り上げた光の面網。
 ちらちらと風の悪戯が揺らす梢に遮られて、水底に届く光は優しく点滅を繰り返す。
「……さなえ……?」
 長らく、毎日みつめた美しい顔がすぐ傍らにあった。
「やだ、気づかなかったの? やっぱり」
「気づかなかった?」
「わたし、ずっとここにいたんだよ? ずっと、ずっと、ずっと」
 ずっと、と強調しながらもさなえは嬉しそうに微笑む。
 ぼくはどれだけ時が流れたかも分からず、ただ茫然と若さも美しさも変わらぬさなえをみつめていた。
 ああ、でもどうしてだろう。
 何一つ変わっていないはずなのに、ぼくには彼女が川面に映るぼく本来の姿と同じものに見えていた。
「ねぇ、空汰さん。わたし、ずっと胡蝶の夢ばかり聞いていたからそろそろ飽きてきちゃった。何か新しいのにしてちょうだい」
 可愛い唇が、いつもの調子で我が侭を言い出す。
「どうして?」
「ん?」
 ここは確かに淵の奥底。
 さして明るい場所でもない。
 そんな深いところで、どうして彼女は普通にぼくの隣りにいるのだろう。
「……助からなかったの? 手遅れだったの?」
 おそるおそる、ぼくは最悪の事態を口にする。
 彼女は笑いながら首を振った。
「助かったんだけどね、風邪引いちゃって……。最後にちゃんと空汰さんに謝ろうと思ってここに来たら胡蝶の夢が聞こえてきてね、それでわたし……」
 何かを思い出したのか、さなえは少し苦しげな顔をした。
 ぼくはそっと彼女に腕を伸ばす。
 抱き寄せた身体は冷たかった。
「ごめんね。わたしがここに落ちちゃったから、また空汰さん悪く言われちゃうよね。それなのに、わたしもう何も言い返してあげられない」
「いいよ、そんなことしなくても」
「でも、わたし悔しかったの! 悲しかったの……!」
 見上げられて、ぼくは言葉に詰まった。
 本当は、何もかも分かっていたのではないだろうか。
 あの村の口さがない連中のことだ。おっかさんが河童の子を産んでこの淵に捨てたことくらい、さなえの耳にも入っていたかもしれない。
 そこにきて少年に化けた河童が笛を吹いていたら、もしかしてと思うのも道理と言えば道理なのかもしれない。
 何も言えないままのぼくに、一度は激した彼女は言った。
「河童ってね、川で溺れた子供がなるんだって。この甲羅はね、業の重さに比例するんだって。頭のお皿はね、受けられなかった愛情の大きさに比例するんだって」
「……誰がそんなこと……」
「川の神様」
 彼女は、本気でその存在を信じているかのようにそう言った。
「でもね、一人だと甲羅もお皿も大きくなるばかりだけど、二人いれば小さくできるんだって」
 彼女の腕が背に回される。
「ぼくは川の神様なんて見たことも会ったこともない。ぼく自身、こんな姿の化け物だけど、もし神様がいるなら……」
「いたからお願いして、わたしここに来れたんだよ。だってわたし、もう子供じゃなかったもの」
「……いばるなよ」
「今の空汰さんの方がよっぽど子供っぽい」
 さなえはいつものように屈託なく笑い出す。
 その笑い声に、なぜか背の重荷が少し軽くなった気がした。
「ねぇ、笛を吹いて? わたし、そのためにここに来たんだから。好きなだけ空汰さんの笛が聞きたくて、わたしここに来たんだから」
 抱きしめたまま彼女はねだるように上目遣いでにっこり微笑む。
 ぼくは仕方なさを装ってため息をつき、笛を手に取った。
「何がいい?」
 憎しみも、悲しい思いも、何もかもが彼女の腕の中に溶かされてゆく。
 それではかえって彼女の腕が疲れてしまうのではないかとぼくは思うのだけれど。
「胡蝶の夢」
「さっきそれは飽きたって言っただろう?」
「でもやっぱり胡蝶の夢」
 頑固に押し通されて、ぼくは痙攣寸前の指を笛に添え、唇をあてがう。
 だけど、ふと、ぼくは笛から唇を離した。
「これもぼくが一人で見ている夢なのかな」
「そんなことないよ。わたしも一緒に見ているから」
 そう言われても、ぼくの意識はいつの間にかまた胡蝶となって夢の中を彷徨っているかのように、踏みしめる足も持たず浮遊する。
 そんなぼくを繋ぎとめるかのように、彼女は腕にそっと力をこめた。
 ふり返るぼくに、彼女は悪戯っぽく笑って首を傾げる。
「ね?」
 その声に後押しされるようにぼくは再び笛を口に当て、吐息を吹き込んだ。
 幼き日に包まれ、いつもどこかでずっと求め続けてきたあの温もりは彼女の腕にはほとんど残されていなかったけれど、それでも、その腕は優しくぼくを包み込む。
 ここがぼくの居場所なのだと教えてくれる。
 ぼくは夢うつつのままに笛を奏で出した。
 孤蝶は水鏡に映る自分に見とれながら舞いだし、やがて相手を得て更に華麗に舞い狂う。
 その後に待つことなど、摂理に過ぎない。
 ならば、ぼくは背に負った業がなくなるまでこうして笛を吹くしかないのだろう。
 誰のと言わず、ぼくに関わった全ての人々の業を背負い、憎しみをぶつけ返すのではなく、この調べに解かし消してゆきながら。
 幾度めのことだったろう。
 楽の音が作り出す幻想の中で蝶は二羽共に力尽きて水上に落ち、鱗粉だけが風にさらわれて後から後から水面に舞い落ちる。
 そんな光景をさなえと共に数え切れないほど見送った後のことだった。
 ふと、ぼくの背中にのしかかっていた何かは、音もなく消えていった。
 さなえの腕には、あの愛おしい温もりが戻っていた。








〈了〉







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