縁期暦紀 巻ノ十

三千世界の烏を殺し  ― 女郎蜘蛛 ―




 『三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい。』
 誰が歌ったか知らないが、江戸に流れる流行歌がこんなところまで聞こえてくるとは、ずいぶんな流行りようじゃないか。
 まったく、誰だろうねぇ、そんな寝ぼけたことを言ってるのは。甘い夢しか見られない小娘か、知ったかぶりした教養人か。
 いずれにしても反吐が出る。
 あなたと朝寝がしてみたい、だと?
 そんなのあたしは願い下げだね。朝まで誰かと床を共にしなきゃならないなんて、たとえ金のためでも反吐が出る。
 ああ、この世はなんて吐き気のすることばかりなんだろうね。商売柄、好きもんだったらよかったんだろうけど、感じるのは花魁の恥ってね。楽しむなんて問題外さ。
 吉原の年季があけて三年。
 身受けしてくれるお大尽もいなきゃ、先を約束した男もいない。「年季が明けたら起請文を持ってまた会いにきておくれ。必ずだよ」、そんな睦言を交わしたのもいつのことやら。実家の場所だってとうに忘れちまった。そもそも帰ったからって歓迎されるわけはないんだけどね。食いぶちが増えて弟の一家に疎まれるだけだろう。
 分かっているから行き場もなくて、吉原からいくらか離れた岡場所に一室を見繕って腰を落ち着けて二年。
 やってることは吉原にいた時と変わりゃしない。
 客の質が落ちた分、こっちの憂さは溜まるばかりさ。まあ、それでもおまんまが食い上げになったらあたしも困るからね。こうして可愛くもない顔に白粉はたいて客に足を広げるわけだ。
 知識もいらない。吉原で仕込まれた特別な技も必要ない。男どもは勝手にあたしの身体をまさぐって満足して金を置いていく。ほんと、掃き溜めのようなところだよ、ここは。
 毎日毎日、男どもは飽きもせず通ってくるわけだけど、朝までなんて冗談じゃない。夜が明ける前にさっさと帰しちまって、それからゆっくり寝るのがあたしのやり方さ。だから朝は他の女たちよりも少しばかり早いかもしれない。
 その日も来た男の足跡消したさに盛大に水を放っていたところさ。生垣には昨日も取ったっていうのに黒地に黄色い縞模様の派手な女郎蜘蛛が巣を張っている。
「別にあんたのこと嫌いってんじゃないんだけどねぇ」
 昨日と同じ奴だろうか。性懲りもなくまた細長くでかいもん作りやがって。
「客がいやがるんでね」
 柄杓でさっと巣を破ると、女郎蜘蛛はあっという間に垣の中に隠れちまった。
「こりゃきりないかもしれないねぇ」
 あの女郎蜘蛛自体を殺ってしまわなきゃ、あいつはしぶとく毎朝巣を張る気だろう。
 まったく、こんなところに巣を張ったってろくなもんはとれないだろうに。あたしと同じだねぇ。こんないたくもないドブの中に必死で巣をつくって落ちまいと手足を踏ん張ってさ。
 なのにほんと、奇妙な奴だよ。女郎蜘蛛ってのは。巣を張って獲物が来るのを待つだけで、あんなにも肥太ってやがる。一体何を食っているんだか。あたしにも分けてほしいもんだよ。
「あの、すみません」
 柄杓についた蜘蛛の巣を洗い流して、さっさと家の中に入ろうとした時だった。この辺には珍しい若い女の声があたしを呼んだ。
「なんだい、こんなところに。お嬢さんみたいなきれいなのが来る場所じゃないよ」
「姉さん……」
 顔をあげて女を見ると、俄かにお守した覚えのある赤ん坊の面影が蘇った。
「みつ? おみつかい?」
「迎えに来たのよ、姉さん」
 そう言って六番目の妹は泣いてあたしに縋ってきた。
 場所が悪いと中に通すと、妹は寝崩れた蒲団に目を見張っている。
「見るんじゃないよ」
 そう言いながらさっさと押し入れに片付け、ちゃぶ台を引っ張り出してきて体裁を取り繕った。
「ずいぶん久しぶりじゃないか。よくここが分かったね。皆は息災にしてるかい?」
 山深い集落の農村から出てきたあたしは、久しぶりに見る肉親の顔に頬が緩みっぱなしだった。吉原に身売りしてから今まで、これほど嬉しいことがあったろうか。
「実はね、これを持ってきたの」
 しばらく里の話や弟妹たちの近況を確かめ合って、ふと訪れた沈黙を破るようにみつは一枚の紙をちゃぶ台の上に差し出した。
「なんだい、これ。起請文じゃないか」
「それは五平兄さんが十年前、奉公先から里帰りしてきた時に持って帰って来たものなの。姉さんのところに行って来たって言って、自慢げにこれを広げて姉さんからの手紙だから心して聞けよ、ってみんなの前で読み聞かせてくれたの。『十年後、年季が明けたら帰ります』って書いてあるんだって」
「なんだって?」
 もちろん広げられた起請文にはそんなことは一言も書いていない。「年季が明けたらあなたと一緒になります」と書いてある。
「お待ちよ。五平はあたしに会ってこれをもらったと言ったのかい?」
「そうよ。直接手渡されてきたと言っていたわ」
「まさか。あたしゃ、吉原に入ってから一度も五平に会っちゃいないよ。そもそも手代の使用人が吉原なんかに入れるわけないだろう」
「でも五平兄さん、紀ノ屋で番頭にまでなったのよ。御主人にも目をかけられていてね、ちょくちょく暇をもらってはわたしたちのところに様子を見に来てくれたんだから。わたし、簪だってもらったのよ」
 そう言ってみつは頭につけていた鼈甲の簪を自慢げにつまんでみせた。
 おかしいねぇ。客なら名前でそれと覚えているはずだが、五平と聞けば他人だろうが覚えていないはずはない。まさかほんとに客として来ていたなんてことはないだろうしねぇ。しかしこの起請文、確かにあたしの蹟だよ。
「五平は私が帰ってもいいと言ったのかい?」
「ええ。早く姉さんが帰ってこないかと指折り数えて待ってたわ」
 帰れるもんなら帰りたいよ。帰りたいけどね。
「私が帰っても暮らしていけそうかい?」
「それは問題ないわ。そのつもりで兄さん色々と準備してったもの」
 おや? とそこでようやくあたしは気がついた。
「そういやどうして五平が一緒じゃないんだい?」
「それが……兄さんは去年の暮れから帰ってこなくって。店の人も帰ってこないとしか言ってくれないのよ。きっと流行り病で死んじまったんだね。ようやく遺品を整理してたらこの起請文が出てきて、姉さんを探すのにまた時間がかかっちまったのよ」
 起請文をもう一度見直すと、そこには五平の名でなく馴染み客だった六作の名があった。
「アッ」
 六作とは懇ろになった仲だった。唯一、だまし合いとわかっていても少しばかり心を懸けた男だったかもしれない。
 しかし六作は大店の主人だと言っていた。金回りもよく派手に遊んでいく男だった。六作のお陰で自分は部屋持ちになれたといっても過言じゃない。だけど、この起請文を交わしたあと、ぱったりとこなくなってしまったのだ。
 起請文には源氏名に本名が添えてある。
 それを見て、ようやくあたしと気づいたんだろうか。
「姉さんを身請けするためにためていたお金があるの。身請けには間に合わなかったけれど、姉さんが暮らすのに使ってくれればきっと兄さんも喜ぶわ」
 あれからぱったりと来なくなったのは、吉原遊びもやめて身請け金を作るためだったのか。
 男が吉原で遊ぶとき、衣装ごと身分を偽るのは珍しくもないこと。気づかなくたって無理もない。
 だけど――
「その身請け金はあんたらの生活に使っておくれ。あたしゃ帰らないよ」
「どうして?」
「帰れないからだよ。一度この世界に足をつっこんだらね、死ぬまで抜けることはできないのさ。さ、わかったらおぼこはさっさと帰りな」
「でも……」
「帰れったら!」
「じゃあ、これは兄さんの形見だからおいていくわね」
 追いたてるとみつは名残惜しそうにしながらも起請文を置いて帰っていった。
 玄関を閉めた音が静かになった狭っ苦しい部屋に響き渡る。
 あたしは残された起請文を胸に抱くと、声を押し殺して泣いた。
「ばかだよ。あんたはほんとの大ばか野郎だよ」
 ちゃぶ台を横にのけて、床板を外す。
 下からはつんと鼻を刺す死臭がした。
 中には十体ほど、男の着物を着たものが転がっていた。
 すっかり白骨化しているもの、まだ首に絞めた跡が鮮やかに青く残っているもの、腐敗をはじめているもの。さまざまだった。それらは一体を除いて皆胸元に一枚の紙を折りたたんで挟んでいる。昔あたしがやった起請文だ。
 あたしは一番左端のすっかり白骨化した男の骨を抱き上げた。
「五平や、五平や! すまなかったねぇ。こんな目に会わせて、本当にお前に会わせる顔もないよ」
 あたしが吉原から出て岡場所に居所を定めた時、吉原の客だった男で一番はじめに来たのが六作だった。
 「なんで起請文を持っていないんだい」と問い詰めると、すまなそうに「なくした」と言ってたっけ。
 なくしたんじゃなく里に置いてきていたんだねぇ。
 言ってくれれば、あたしがあんたを手にかけることもなかったろうに。それどころかこの残り九人の起請文を持った男たちも手にかけることはなかったかもしれない。
 あんたが一言「帰ろう」ってさえ言ってくれればさ。
「どうして、どうして言ってくれなかったんだよぉ、五平だってさぁ。犯しがたい過ちなんて、あたしなんて山ほど犯してるってのにさぁ。見受けの金まで作ってくれてたってのに、どうして一言五平だって言ってくれなかったんだよぉ」
 起請文を渡した男は、年季が明けたらみんな殺してやる。
 それだけを胸にあたしは生きてきたんだ。
 どんなに好いた男だって、吉原のあたしを知ってるからには生かしておくわけにゃいかない。あたしは吉原の過去を全部清算して生き直すんだ。
 そう、決めていたのに、まさかこんなしっぺ返しが来ていただなんて。
 さっき生垣で巣を壊したはずの女郎蜘蛛が、我が物顔で板間をこちらに歩いてくる。あたしは素手でそいつを握りつぶした。
「ああ、本当にあたしは執念深い女だ」
 これほど泣いたってのに、頭の中ではいつの間にか起請文はあと何枚残っているか考えてやがる。
 五平の胸元に起請文を挟み床板を閉じると、外はいつの間にか夕陽を見送る刻となっていた。
「さぁ、次は誰が来るんだろうねぇ」
 狭い路地にはちらほらと男たちの姿が見えはじめている。
 三千世界の烏を殺し、か。
 そうだねぇ、あたしならこう言うね。
 三千世界の烏を殺し、一人朝寝をしてみたい。




〈了〉







書斎 管理人室

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