縁期暦紀 巻ノ十五 秘密 ―飛頭蛮―

 夢を見るのです。
 わたしはふわふわと外を飛んでいて、と言っても眼下に町や村を見下ろせるほど高くではなく、普通に外を歩くのと同じ高さをです――昼に夜に、馴染みの長屋が並ぶ道をふらふらと飛びながら、各家を覗いてまわるのです。
 そこに、あの人がいやしないかと疑いながら。
 これほど嫌なことはありません。
 夫婦の契りを交わしておきながら、どうして夜な夜な、いえ、昼もですけれども、あの人の貞操の心配をしつづけなければならないのでしょう。いえいえ、そんなことは夫婦になる前からとうに分かっていたことでございました。あの人が浮気者だということくらい、わたしと夫婦になっておきながら、未だに何人も、何十人もの女たちと通じているということくらい、わたしだって浅はかではありません、夫婦になる前から分かっていたことでございました。
 わたしには、あの人に対する情などというものはございません。
 あるのはただ、あの人の妻としての矜持だけ。
 いいえ、そんなものすらあっても仕方がないことくらいわかっているのです。わたしはただ、生きていくためにあの人と杯を交わしただけなのですから。好いてなどいません。妻としての誇りも持ちようがありません。あの人には何の期待もしていない。約束は、わたしを妻にした時点ですべて果たされたのですから。
 あの人がわたしを身請けすると言い出した時、わたしには好いた方がおりました。その方に会えるのならば、一生遊郭という牢獄から出られなくてもいいと思い定めるくらいに、身の奥底から燃え上がるような恋をしていました。そこに水を差したのがあの人です。あの人はお金を持っていました。ただそれだけです。あの人は、わたしという人形を買いたかっただけなのです。買って自分のものになれば、それでもう満足なのです。わたしのことなど、見向きもしない。
 わたしは、村はずれの小さな庭付きの家で囲い込まれ、飯炊き女を一人つけられて三食昼寝付きの奥様となりましたが、日がな一日、顔を合わせるのはその飯炊き女だけ。誰かが訪ねてくることもなく、夫すら寄り付きやしません。
 へたくそな三味線を奏でてみても、庭先の雀に笑われるだけ。
 わたしはすっかり物置にでも忘れ去られた人形になって、毎日毎晩、眠ることばかりが時間を潰す術となりました。
 そうやって、わたしは夢を見るのです。
 狭い村を隅から隅まで探索します。
 あそこの奥さんと、こっちの旦那さんが実はいい仲だとか、あの子をさらっていったのは実は隣町の裕福な奥さんだったとか、たくさんの真実を見ることができました。それもこれも、村の人にも町の人にも、飛び回るわたしの姿が見えないからです。
 わたしは自由でした。眠りにつきさえすれば、行ったことのない遠くの街にまで飛んでいき、初めて灯ったガス灯の明かりすらこの目で見ることができました。たまにわたしを見つけた野良犬にしつこく吠えかけられることはありますが、人がわたしを訝しい目で見ることはありません。わたしはそれを利用して、隅から隅までたくさんの秘密を盗み見ました。
 一番くだらなかったのは夫が通う愛人たちの家でした。夢見に現実の世界を飛び回れると知った時、一番初めについて歩いたのはうちに寄りつかない夫がどこで何をしているか確かめるためでしたから。まあ、よくもこれほど妾達を囲えたものだと開いた口が塞がりません。毎日行く家が違うのです。中には夫の目を盗んで昼間から、ということもよくありました。それを見ても、わたしは嫉妬の一つも感じませんでした。何せ私はこの人を愛していませんし、恋情を覚えたこともありません。なんなら、夫婦の杯は交わしたものの、遊郭の店に出ているときも、夫婦になった初めての夜も、お互いの身体を知る機会すらありませんでしたから。
 考えれば考えるほど不思議なのです。わたしはおいてもらっていたお店でも、特段気立てがよいわけでも器量がよいわけでもありません。中の中。どこにでもよくいる、言ってしまえば物語の主人公になど到底なりえないような脇役で、名すら与えられず顔の輪郭すら曖昧な女です。そんな女を、ただ格子の向こうから見定めたという理由で大枚をはたいて妻にする男がどこにいるでしょう。一度もわたしの座敷にすら上がっていないというのに。
 おかしな話です。
 そして、買いだしておいて指一本触れようとしない。初夜にわたしが手を伸ばせば、すさまじい剣幕で跳ねのけられ、夜なかに出ていったきり二度と戻ってくることはなかったのです。そのくせ、わたしの生活は三か月、半年を経ても変わらず維持され続けている。
 ほかに女がいるのであれば、さっさと離縁してくれてよいのです。お金が問題なら、もう一度お店に売ってくれたって構いません。そうまでしてわたしを無視し続けるくせに、他の女たちには甘い言葉を囁き、わたしをはねのけたその手でべたべたと白い柔肌をまさぐっているのですから、わたしだって己の誇りというものがあるのです。ただのお人形ではないのですから。
 そうやって夢を見て、目が覚めれば日が暮れて空は茜色に染まり、夕紫に暮れなずみながら、外からは炭で焼かれる魚の匂いが漂ってくる。
 わたしは体を起こすものの、壁に切り取られた窓から空を眺めるばかりです。
 ここには何もありません。書もありませんし、炭もありません。話し相手もおりません。
 ふと、わたしは何か悪いことをしたかしら、と思うのです。
 こんなところに閉じ込められて、朝昼晩と白いご飯を出され、魚も一尾ついてくる生活を送らせてもらいながら、どうにも生きている感じがしないのです。飯炊き女が口をきけないというのも、あの人の差し金でしょう。
 一体、わたしはあの人と夫婦の固めの杯を交わしておきながら、実は妾だったのではないかと思うのです。それならそれで通ってきてくれてもよいものを、どうしてこうも放っておかれるのか。
 毎日毎晩、わたしは枕に頭を預け、ごろりと板に横になり、目をつむります。
 あの人の真意を知りたい一心で、探し回るのです。あの人の姿を。
 恋ではありません。愛でもありません。いうなれば、ただの好奇心。いえ、そんなきらきらとしたものですらありません。ただ、知りたいのです。わたしは何のために生かされているのか。
 昼間の路地を飛んでいる時、日の光は優しく包み込んできてくれます。長屋から出てきた子供たちがわらべ唄を歌い、駒を回し、竹馬で走り回っています。小さい赤子を背負った子守の少女は、でんでん太鼓をつまらなげに振りながらその辺を歩き回っています。
 そんな路地を、あの人は子供たちに親し気に声をかけながら歩いていきます。
 外面のいい夫です。
 今日はどこへ行くのでしょう。
 またわたしの知らない女のところでしょうか。いえ、別にどの女だってかまわないのです。この半年、ずっとこうやって夫の後をついて周っているというのに、夫は一度も妻と呼ぶ女のところへは行きませんでした。わたしは自分が本当は妾であるならば、夫には本妻がいるはずで、毎晩帰る本宅があるはずだと思っていたのですが、一向に本妻にも本宅にも出くわさないのです。夫は毎晩違う女の家に泊まり、そこから仕事に出かけます。よくもまあそんな生活が続くものだと思っていますが、どの家の女たちも妻らしく振舞うことはなく、欲しい物をねだったり、ともに観劇に出かけることを望んだりする程度なのでした。そして、どの女にも子供はいない。
 わたしは、これ以上ついていってもまた誰か別の女の家に上がり込むのだろうと見切りをつけ、夫の後ろから離れようとしました。
 ですが、この時夫は珍しく人の住む家ではなく、寺社の門を潜っていったのです。
 わたしは珍しさに勝てず、再び夫を尾けることにしました。
 見上げるほどの石階段をさっささっさと登り切り、大木が使われた大門を潜ります。わたしもすぅっとその大門を潜りました。夫はわたしには気づかず、大きな仏像が安置されたお堂へと入っていきました。そこには三人の坊主が座して誦経を上げています。等間隔で打ち鳴らされる木魚の音に心地よさを感じながら、ついつい、大仏様の前までわたしは来てしまっておりました。
 まあ、普通ならばここでわたしは悲鳴を上げて懺悔をし、自分の身体に戻って目を覚ます、ということになるはずなのですが、一向にそんなこともなく、地を這うような低温で読み上げられるお経の内容に聞きしれながら、夫がひたすら大仏様の前で手をこすり合わせ、震えているのを見ていました。
 不思議なものです。あれほどたくさんの女の家に通って正々堂々としておきながら、いざ大仏様を前にすれば縮み上がるだなんて、思ったよりも肝の座っていない男です。
 わたしは呆れ、興を失ってお堂を出ようとした時でした。
 すぅぅぅぅぅっと、ある一人の男が、わたしが入ってきたのと同じ開け放たれた扉から入って来、震える夫の頭を見下ろす位置で止まったのです。
 わたしは、その男の顔に見覚えがありました。
 かぁっと体の奥底の芯が、炭に息を吹きかけた時のように俄かに赤く燃え上がりました。途端に、心の奥底が濡れていくのが分かります。
(……さん)
 ああ、逢いたかった。
 こんなところで逢えるなんて、思いも寄らなかった。
 逢えなくなってから、もうどれくらい経つでしょう。わたしがこの男に落籍(ひ)かれて夫婦になって半年。そのちょっと前から、あなたは来てくれなくなった。どんなにどんなに待ち焦がれても、あなたは来なかった。今晩、あなたが来なかったらわたしは望まぬ男と沿うことを心を決めましょうと覚悟した時も、結局あなたは来なかった。出した文も届いていたのかいなかったのか。
 わたしは思わず想い人の側に寄り添うために近づいていった。
 でも、その人は見たこともないほど冷たい目で夫を見下ろしていた。
 夫は見苦しく命乞いをしていた。
 誦経を続ける坊主たちは、想い人と悲鳴を上げ続ける夫とを交互に見ながら、擦りあわされる数珠の音は激しさを増し、祓いの仕草を見せはじめる。
「許してくれ、許してくれ、許してくれ!!」
 叫びはじめる夫を見下ろしながら、わたしは真横から想い人の横顔を盗み見る。
 青白い頬はこけ、腰から肩にかけて赤い一文字が深く刻まれ、口を開けた底からはたらたらと赤い血が滴り落ちていた。
 思わずわたしは飛び退る。
 想い人の腹の傷は内側からめくれ上がるように広がっていく。中からはどろどろと臓物が零れだす。
「済まない! 済まない! 済まない!」
 夫は手を合わせて叫び続ける。その夫のつるりとした頭の上に想い人の赤い血がだらだらと滴り落ちる。
 想い人は表情一つ変えず、夫を見下ろしている。
 わたしは一体何を見ているのだろう。
 夫と想い人が顔見知りだとは、つい今の今まで知らなかった。
 しかも、夫の方が頭が上がらないほど罪の意識を抱えている。
 まさか、わたしをめぐって殺し合いでもしたわけではあるまいに。
「お前にくれてやるわけにはいかなかったんだ」
 頭を血で染めながら、夫は叫んで嘆願する。
 わたしの想い人はつまらなそうに天を仰ぎ、次いできょろりとわたしを見た。
 そう、見えるはずのないわたしを、見た。
「父(とと)様。畜生の道を歩いているのはどちらでしょうか」
 冷たい岩のような硬質な声が、わたしを震え上がらせた。
 想い人はわたしを見ている。じっと見つめて、わたしが動けないのをいいことに、すぅーっと一歩も踏み出すことなくわたしの前に、腹からはみ出した臓物もそのままに立ちどまる。
 わたしは想い人の青白い顔のあたりに視線を泳がせ、おそるおそるその目を見た。
 青く凍えた目は、すでに異界のものと化しているそれだった。静かに青い炎がちらちらと瞳の奥で揺れている。
 布団一枚敷くのがやっとの狭い座敷で共寝をした時には、こんな色ではなかったと記憶している。異人のように目が青ければ、いくら薄暗がりの中でもそうと気づいたはずだ。もちろん、わたしの知る想い人の身体には、刀で斬られたような傷跡などなかった。
 殺されたのだろうか。
 夫に。
 いや、この人は夫のことを父様と呼んだ。
「その子はお前の妹だよ。父親違いのお前の妹だ」
 その言葉を聞いて、わたしは跳ね起きた。
 底深く青い闇が沈んだ室内に、月の光が白くさやさやと降っている。
 腹にかけられた衣を手に、わたしは辺りを見回す。
 いつもの家だった。
 夜もかなり更けているのだろう。闇の湿り気を含んだ静寂が幾重にも積み重なり、耳鳴りが聞こえるほどだった。
 わたしはぐるりと首を回し、凝った肩に手をあてた。
 今夜も夫は来ない。
 かわりに、月を背に想い人の青ざめた顔がこちらを見ていた。

〈了〉
(202104292320)